title.gifBarbaroi!
back.gifゾロアスター教


ギリシア語文献に見る
ペルシア人の宗教(2/4)

ヘーロドトス
『歴史』





ペルシアとギリシア

 「ギリシア人の間では、非ギリシア人(barbavroi)のなかでもペルシア人が一番よく取り沙汰される民となった」とは、ストラボン〔前64生、地理学者〕の言葉である〔第15巻3章23〕。たとえギリシア人が政治上の必要からペルシアの力に注意を払っていたのではなかったとしても、彼らには関心を寄せるに充分な理由があったものと考えられる。確かに、ベルシアの独創的な文化や特殊な行政形態にしても、その華やかな宮廷や初期王朝にまつわる神話的な過去にしても、その教育制度にしても、あるいはその文明のもつ他の様相にしても、ペルシアはそれまで東方のいかなる国にもまとまって存在することのなかった多彩な魅力のすべてをギリシア人に提供していたのである。だが、ギリシア人の想像力に訴えかけていたのは、必ずしも目に見えるかたちをとって現れたものばかりとは限らなかった。ペルシアからはさまざまな思想の潮流が流れ込み、そして神秘的諸学の反響も聞こえてきていたのであった。それゆえ、ギリシア人の知性はこうしたものに対しても敏感にならざるをえなかったのである。そこで、ギリシア人のあいだには非常に古くから「マゴス(MavgoV)」と「呪術(magike)」を結びつけるある種の観念連合があった。また、占星術の知識の名声がゾロアスターに帰されたので、ギリシアでは、彼こそ占星術師だと考えられるようになっていた。伝承によれば、ビュタゴラスのように、ゾロアスターから着想を得てきている思想家は多い。ギリシア人がペルシア人の風習を観察するときには、決まって、主としてその関心は彼らの宗教に向けられていた。しかも、ギリシア人はペルシア人の宗教がいかにして実践されていたのか小アジアで容易に知ることができたのである。時代が下ると、そうした観察はギリシア人の所産とともに、ローマ人へと受け継がれたのであった。ローマ人は勢力範囲を拡大した結果、ペルシア人やパルティア人とたびたび対峙することになったからである。

 ヘーロドトス〔伝承上は前484生-420没〕は、ペルシアに関する知識をどのようにして得たのか何も明確に著していない。しかし、彼が実際にべルシアに行ったことがあるか、あるいはペルシアのすぐ近くにまで行ったことがあるのは真実であろうし、さらに自分自身で観察したことを自著『歴史』の第一巻に織り込んでいるのも真実であろうと推測される。しかも、ヘーロドトスは自分自身の目で観察した事柄と伝え聞いた事柄とを細心に区別してさえいる。そのうえ、彼が解釈している事柄は別としても、観察している事柄はかなり正確であり、なおかつ信憑性の高いことがわかるのである。したがって、彼が記している信仰と少なくともそのうちのいくつかは、当時小アジアに生きていたために彼自身もよく精通することができたのだとすれば、現在のこの研究においては、それらの信仰がおよそ前四四五年頃のものと考えてもさしつかえはなかろう。そして、この年代は、ダレイオス〔ダーラヤワフ1世〕が没してから、およそ半世紀ほど後の時代に当たっている。このダレイオスとは、自らの勝利を顕彰し、神々を讃えている、かのモニュメンタルな三言語併用碑文を岩肌〔べヒストゥン〕に刻み込ませた王のことである。それゆえ、問題は二重の観点から考察されなければならない。すなわち、ヘーロドトスがペルシア人の宗教としているのは、はたしてゾロアスターの宗教なのか、それともアケメネス〔ハカーマニシュ〕朝の宗教なのかという点である。すると、アケメネス朝の宗教とは、はたしてゾロアスターの宗教なのだろうかという第三の観点が問題になってくるのである。

 さて、ヘーロドトスによる証言の本質的な問題点は、第一巻の次の三つの章の中に含まれている。(『ゾロアスター教論考』渡洋文庫609、p.12-13、p.22-23)
第1巻 131章
 私の知る限り、ペルシア人の風習は次のようなものである。 ペルシア人は偶像をはじめ神殿や祭壇を建てるという風習をもたず、むしろそういうことをする者を愚かだとする。思うにその理由は、ギリシ ア人のように神〔複数形〕が人間と同じ性質のものであるとは彼らは考えなかった からである。ペルシア人は天空全体をゼウス(ZeuvV)と呼んでおり、高山に登ってゼウスに犠牲をささげて祭るのが彼らの風習である。また彼らは日、 月、地、火、水、風〔複数形〕を祭る。彼らが太古から祭るのは右のものだけであるが、 後になってさらに「ウゥラニア(Ouraniva)〔女性形〕」を祭ることも覚えた。 アッシリア人やアラビア人からそれを学んだのである。なおアッシリア 人はアプロディーテーのことをミュリッタ(Muvlitta)、アラビア人はアリラト(=Alilavt)、ペルシ ア人はミトラ(Mivtra)と呼んでいる。

第1巻 132章
 ペルシア人が先に挙げた神々を祭る儀式の仕方は次のようで ある。ペルシア人は祭儀を行なうに当って、祭壇も設けず、火もたかな い。また酒を注ぐ儀式(spondhv)もなく、笛も吹かず、花輪(stevmma)も着けず、ひきわりの 大麦も用いない。どれかの神に供犠しょうと思う時には、犠牲にする獣 を清浄な場所へ曳いてゆき、冠(tiavra)の上にたいていはギンバイカ(mursivnh)の葉をめぐらし てかぶり、その神の名を唱える。祭りをする者は、自分個人だけのため に幸福を祈ることは許されず、ペルシア国民全体と国王の福祉を祈顕す る。自分もペルシア国民全体の内の一人だからである。犠牲獣を切り刻 み肉を煮ると、なるべく柔い草 — たいていの場合クローヴァー — を 下に敷き、その上に肉を全部のせる。こういう準備が整うと、マゴスが 一人そこへきて祈祷の呪文を唱える。彼らの話では、この呪文は神々の誕生を歌ったものであるという。いずれにせよ、神への供儀は、マゴス なしではせぬ慣わしである。それから暫時おいて、祭主は肉をさげ、あとは自分の好きなように処理するのである。

第1巻 140章
 ペルシア人についてこれまで述べてきたことは、私自身の知識に基くものであるから確信をもっていうことができる。しかし次に述 べる死人の処理については、秘密事項として伝えられていることで、はっきりしたことは判らない。つまりペルシア人の死骸は葬る前に、鳥や 犬に食いちぎらせるということである。マゴスたちがこういう葬り方を することは私も知っている。彼らはそれを公然とやるからである。しか し(一般の)ペルシア人は、死骸に蝋を塗って土中に埋葬する。マゴスたちは一般にほかの人間とはなはだしく類を異にしているが、エジプトの司祭たちとも違っている。エジプトの司祭たちは、犠牲獣以外は一切 の生き物を殺さぬことを戒律としているが、マゴスたちは犬と人間以外 はどんなものでも自分の手で殺し、蟻や蛇をはじめその他の爬虫煩や鳥類を無差別に、争って殺すのである。こうした風習は昔から行なわれてきたことであろうから、どうにも仕方がないとして、私は前の話に戻ろう。(松平千秋訳。遺漏は訂正した)

ウゥラニア崇拝

 ヘーロドトスによれば、ペルシア人たちはウゥラニア崇拝の原型をアッシリア人やアラビア人から受け継いだという。アラビア人のアリラト(=Alilavt)とは、女神ハン・イラートのことと考えられる。この女神は、ケダル人の王の奉献碑文に出てくる(ワイズマン『旧約聖書時代の諸民族』p.400)。
 「旧約聖書にはっきりと記されている部族の中では、ケダル人が特に目立っているように思われる。とは言っても、われわれに分かっているのは、彼らが牧畜を営む民であったこと(イザヤ書六〇・七)、弓の射手を雇ったこと(イザヤ書二一・一七)、そしてティルスと子羊、牡羊、山羊を取り引きしたことだけである。しかしながら、ワディ・シルハーンのジャウフ地方におけるドゥマのオアシスが彼らと結びついていたことはほぼ確かである。なぜなら、ハザエルの息子がケダルの王だったからである(イザヤ書二一・一一-一七をも参照)。さらにドゥマは、アラブの女王たちあるいは女大祭司たちの家系の在所でもあった。ザビベやサムシは、たぶんドゥマに属していたのであろう。他方、テエルフヌは、ディルバトの、アタルサマイン(イシュタル)に仕える女祭司(kumirtu)だったことが知られている。彼女らが社会的・政治的に重要な役割を演じていたらしいことは、サムシがエジプトのファラオと同等に扱われ、ファラオと並んでアッシリアに貢ぎ物を納めていたことからうかがわれる。彼女らの地位の高さは、たぶん、アタルサマインの祭儀が非常に重要視されていたことから最もよく説明がつくのであろう。その神には、エサルハドンも豪華な黄金の星を献納した」(同上書、p.399)。
 ウゥラニア崇拝は、後にアナーヒター女神崇拝に移行したと想像できる。この女神は、水の女神であると同時に、金星としても象徴された。ここには、おそらくは、バビロニアの影響が強かったと思われる。

マゴス/マギ

 「マゴス(mavgoV)」は、古代ペルシア語を音写したギリシア語〔単数形〕である。複数形は「マゴイ(mavgoi)」。ラテン語では、単数「マグス(magus)」、複数「マギ(magi)」で、この形で一般に知られている。イエスが生まれたとき、これを礼拝に来た「東から来た博士たち」(マタイ2_1)は、ギリシア語原典はmavgoi、ウルガタ訳はmagiである。

 これの素性を明らかにすることは難しい。先ず、わたしたちが最初に目にするのは、メディア族(e[qnoV)の1部族としてのマゴイである。
 「デイオケスはメディア民族のみを統一し、これを統治したのであった。メディア民族の中には、ブサイ、パレタケノイ、ストルカテス、アリザントイ、ブディオイ、マゴイ〔!!!〕などの部族がある。メディアにはこれだけの部族(gevnoV)があるのである……」(ヘーロドトス、I_101)
 しかし、この証言はヘーロドトスのこの箇所のみである。

 ヘレニズム以前のギリシアの伝承では、彼らはペルシアにおける神統譜の祭司者(Hdt. I_132)、夢の解釈者、王室の教育者にして助言者である(Pl. Alc. 122a; Plut, Artax. 3; Strabo 15. 1. 68)。ペルセポリスの行政文書(PFT)や、他の楔形文字文書においては、マギはしばしば宗教的文脈なしに登場する。〔ゾロアスター教の聖典である〕『アヴェスター』には、マギの言及がない。

 後期のギリシアの伝承では、この用語は外来の知識、占星術、魔術の専門家に帰せられる。(OCD)


ギンバイカ

myrtus.jpg ギンバイカの原語 mursivnh はイオニア方言で、アッティカ語では murrivnh となる。学名Myrtus communis、地中海原産の低木常緑樹である。薬草としても有名で、ディオスコリデス『薬物誌』第1巻155に詳しい。しかし、宗教的な意味の方が大きかったものと思われる。
 「ネヘミヤ記8:15では、バビロニアから戻ったユダヤ人が仮庵の祭りを執り行った際に、人々は『山に行き、オリーヴの枝、松の枝、ミルトス〔=ミルテ、ヘブル語ハダス〕の枝……を取って来て、……仮庵を作りなさい』と命じられた。……現代のユダヤ人もやはり、仮庵の祭りの際に、仮庵や小屋をミルトスの枝で飾る」(『聖書植物大事典』p.309)。
 また、愛の神に捧げられた神木として、現代でも花嫁の花束に用いられるらしい。
 なお、マゴスとの関連については、次のストラボーン『世界地誌』を見よ。
 日本語訳では、これを「桃金嬢(テンニンカ)」と訳している者が多いが、どちらもフトモモ科の植物とはいえ、テンニンカは学名Rhodomyrtus tomentosaで、東南アジア原産の植物である。


葬法

 ヘーロドトスの報告するペルシア人の宗教は、ゾロアスター教と一致しない部分が多く、また、一致する部分は、ペルシア古来の伝統的宗教の名残であったり、周辺部族の風習を採り入れたものであるとバンヴェニストは云う。これは葬法においても同じで、バンヴェニストは次のように云う。

 これまでに指摘してきたいくつもの証拠から、ヘーロドトスの記述の中に一つの宗教形態が示されていることがわかる。この宗教形態は、信仰と行いという点で、もっぱら供犠にもとづくインド=イラン的な多神教と自然崇拝の古代イランで生き続けていたに違いないものと、おおよそその輪郭が一致するのである。古代からのこれらの伝統に加えて、他の民族から独得な風習が借用されている。河川崇拝はイランに境界を接するほとんどの国々に見られる。それが借用されたものなのか、それとも元来存在していたものなのか、現在の研究の中で決定するのはむずかしい。だが、河川崇拝はもともと存在していたと考える方がいっそう真実に近いであろう。しかし、ほかに明らかに外国に起源をもつ特色がある。たとえば、死骸に蝋を塗って腐敗から守るという風習はバビロニア人とスキタイ人両者のものである。

 さて、死骸が埋葬されていた事実を強調しておかなければならない。なぜならば、マズダー教徒の目から見れば、これは万死にも値する重罪であるからだ。もっとも、ヘーロドトスは死者の処理についてある種の違いがあったことを伝えているのだが、これがいかに正確でなおかつ重要な事柄であるのか、これまで充分に理解されてきているとはいえない。すなわち、ペルシア人ではなくて、メディア人であるマゴスだけが死骸を犬や鳥に投げ与えるという事実である。この風習はカスピオイ人やバクトリア人のものだともされているので、おそらく古代のイラン系諸族に固有の風習であったに違いない。彼らは北方のステップ地帯で遊牧生活を送っていたために、その風土と生活様式から生まれた必要を宗教上の原則として定めていたのである。インド=イラン語族がまだ分裂していなかった、よりいっそう古代に遡るならば、死骸は火葬に付されていた。アヴェスターの中で繰り返し激しく攻撃されている火葬という古くからのしきたりと戦うために、ゾロアスター教の宗教改革は、おそらく中央アジアに起源をもつと考えられる風習を宗教上の法として設定したのであろう。たとえ火葬を禁止したということが、遺骸を焼くという行為が広く行われていたことを示すものではなかったとしても、また後述する別の事実もそのことを裏づけるものではないとしても、それでもなお決定的な証拠が残されていると考えられる。すなわち、〈ダフマ(daxma)〉なる言葉がそれである。これは、アヴェスタ一に始まって現代まで伝えられている言葉で、鳥に与えるために死骸をさらした高い場所を意味している。しかしこれは、本来、「火葬を行うために積まれた薪の山」を意味していた言葉であった。したがって、死人の処理についても、やはりペルシア人の風習はアヴェスターの諸儀式とは一致していないのである。(p.29-31)

 結局、ヘーロドトスの報告するペルシア人の宗教は、ゾロアスター教ではないが、アフラ・マズダーを主神とすることに間違いはないから、これをマズダー教だとバンヴェニストは規定するのである。

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