ヘーロドトス『歴史』
ギリシア語文献に見る
ペルシア人の宗教(3/4)
ストラボーン
『世界地誌』
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ストラボーン
ストラボーンは前63年に生まれ後19年に没しているので、『キュロスの教育』を書いたクセノポーンからおよそ4世紀近い時代を飛び越えてしまうことになる。だが、このように時代が隔たっているからといって、現在のこの研究には、人々が考えるほど妨げとなるわけではない。ギリシア人のすべての歴史家たちと同様、ストラボーンも、その知識の少なからぬ部分をヘーロドトスに負っている。ストラボーンのような著述家にまでも、ヘーロドトスを踏襲するという伝統が脈々と受け継がれている事実そのものが、彼の証言の価値を証明している。というのは、ストラボーンも自分自身で観察した事柄を綿密な正確さで記述しているからである。そして、カッパドキアという宗教的な土地でさまざまな儀式を観察したこの歴史家は、書物を読んで初めて知った事柄を補足しながら、次のように記述しているのである。(バンヴェニスト、p.45)
第15巻 第4節 13
ペルシア風の慣習は、上記の両〔ペルシス、スシス〕地方民やメディア族そのほかいくつかの部族に共通していて、これらの風習についてはすでに何人かの作家が述べているが、わたしどもも本書に適わしい事項についていくつか説明しなければならない。
ペルシア族は神像や祭壇を作らず、天をゼウス神と見なし高い場所で供犠する。太陽神ヘーリオスをも祀って、この神をミトレース(MivqrhV)と呼び、また月神セレネー、アプロディーテー、火、土、風〔複数形〕、水を祀る。そして、清浄な場所に犠牲獣の頭へ花冠を乗せたのを連れてきて、熱心に祈った後で供犠する。
祭儀を教導するマゴスが肉を切りわけると、人びとはそれを分け合って立ち去り、神々には一切れもお供えしない。住民の話によると、神は犠牲獣の魂を御所望なので、ほかの部分は何も御望みでない。ただし、一説によると、かれらは網膜のどこかを少しだけ火にかけ(て供え)ているという。
第15巻 第4節 14
人びとはとりわけ火と水に対して供犠し、火には木の皮を取去って乾かしたたきぎを添え、上に動物の脂を置く。それからオリーブ油を注ぐと、口で吹くのではなく煽ぎながら火をおこす。息を吹きかけたり、火の上へ死骸や牛の糞を乗せたりしたものは死刑になる。
水に供犠する際には、湖、川、泉へ出かけて穴を掘り、犠牲獣を屠ってそのなかへ(血を注ぎ)入れる。その際、近くの水がすこしでも血に染まると水をけがすことになるので、そうしないよう気をつけている。
それから、マゴスたちはギンバイカ樹や月桂樹(の葉)へ肉を取分けると細い棒で触れ呪歌をうたう。その際、オリーヴ油を乳や蜂みつに混ぜると、火や水へではなく地面へ注ぐ。そして、タマリスク(murivkh)の細い棒の束を提げたまま長い間呪歌をうたいつづける。
第15巻 第4節 15
カッパドキア地方にはマゴス氏族(fu:lon)が多勢いて「ビュライトイ(puvraiqoi)〔火を燃やす人びと〕」ともいい、ペルシアの神々の神域も数多いが、この地方では供犠にあたって剣(macaivra)を使わず、木の幹のようなものをちょうど梶棒のように使って犠牲獣をなぐる。
ビュライティア(puraiqei:a)〔拝火殿〕もあり、これは名高い一種の周壁で、その囲いの中央に祭壇があり壇に大量の灰があって、マゴスたちが消えずの火を守る。そして、毎日その囲いのなかへ入って火の前で棒の束を持ち、ほとんど一刻近く呪歌をうたう。
その際フェルト製の頭巾(tiavra)を巻き、それをさらに両側から頬当てのように垂らして唇までを隠してしまっている。
アナイティス女神(=AnaiivtiV)やオーマノス神(=WmavnoV)の神域内でもこれとおなじ祭事を行う慣わしで、これらの神域には周壁もありオーマノスの木彫神像を奉じて祭礼行列を行う。
わたしどもは以上の行事を直接目にしたことがあるが、それ以外にも上述の事項や引きつづいて述べる諸事項については、いくつかの史書のなかに説明がある。
第15巻 第4節 20
死者を葬る際には遺体のまわりに蜜蝋を塗りつける。ただし、マゴスのばあいは葬ることをせず鳥のついばむままにしておく。また、マゴスたちは自分の母親とでもいっしょになるのが父親以来の習いである。(飯尾都人訳、誤訳は修正した)
ミトレース
ミトレース(MivqrhV)とあるのは、ミトラース(MivqraV)のイオニア方言の形。古代ペルシア語ではミスラである。
ストラボーンにおいては、ミスラは太陽神という本来の役割に戻されていて、もはや女神という曲解〔ヘーロドトスを見よ〕はなされていない。しかし、この神の属性はアヴェスクーの中に登場するミスラのそれとはまったく異なっている。アヴェスターのミスラは、インド=イラン語族の最古の神々の一柱である。というのも、そこではこの神が司っている力がそれほど広い範囲に及んでいないヴエーダや、前14世紀のミタンニの粘土板文書でその名前が勧請されているからである。アヴェスターの中では、この神は太陽神とはされていない。この神は天空の光を司っている神なのである。ミスラは太陽よりも早く空に上り、四頭の馬に牽かれた戦車に乗って天空を駆け巡る。同神は千の目と万の耳をもって、いかなる者といえども、この神の手から逃れることはできないという。光を司る神というその役割によってミスラには二重の力が認められている。第一に、この神は真実を司る神であって、誓約された言葉を保証し、契約を遵守させる。この神を崇める者は祝福され、なすべきことはみごとに成就する。虚偽や詐欺を行う人々やこの神の祭儀に敵意を抱く民族すべてに対し、ミスラは天上の住居からすばやく襲いかかり、彼らを厳しく罰する。第二にミスラは、光を司る神として、暖かい日の光も司っている。この神が注ぎかける日の光は動植物の生育を助ける。そこで、この神は「広き牧場の主」という名前で勧請されるのである。この神を崇め、その被造物を敬う人々にミスラは生命を授け、子孫を殖やさせ、富と健康を与える。それゆえ、クセノポーンやプルータルコスが証言しているように、誓約がなされるときにも、戦が始まるときにも、この神が勧請されるわけも理解されよう。ローマ軍団が借用し、はるか遠方にまで伝えたミスラのその独特な祭儀について、たとえ何も知られていなかったとしても、まずこの神の名前を戴いた人名があること、一年のうちの七番目の月、そして一箇月のうちの一六番目の日がこの神のために捧げられていること、そして最後に小アジア全域を通じて観察されるミスラカーナという有名な祭があることによって、この神がいかに重要な役割を担っていたかわかるであろう。このミスラカーナの祭は、荘重な諸儀式と、それが行われているあいだ王は酔い痴れ、舞いを舞うことが特徴となっている。そして、アラブ人に侵略された後も、この祭はミフルガーンという名称で、冬の始まりの日に祝われ続けてきたのであった。
ミスラは光を司る神であるゆえに、早くから太陽と同一視されてきていたと推測される。この神は、『ガーサー』の中ではまったく知られておらず、新層アヴェスターでは、もはや重要なヤザタとはされていない。ところが、この神の勲功とその属性は何度も繰り返し讃えられている。つまり、この神の地位と役割とのあいだには大きな隔たりがあるのだと言える。したがって、たとえミスラに関するヘーロドトスの間違った記述がまさにこの歴史家の文献にまで遡るものであり、なおかつストラボーンが他の資料か自分自身の観察にもとづいてその記述を訂正することができたのだとしても、ヘーロドトスのテクストが示唆している結論が依然有効であることに変わりはない。それゆえ、古代のあらゆる著述家たちによって指摘されてきているように、讃歌(『ヤシュト』)の朗読や、火と水の崇拝とそれぞれへの供犠について論じたとしても、得るところはまったくない。したがって、当然のことながらイランでもインドでも、供犠を行う者が断じて犯してならないのは、息で火を穢すことだということになる。(バンヴェニスト、p.48-49)
タマリスク
訳者の飯尾都人は、原文にmurivkinoV〔murivkhの形容詞〕とあるのを、ギンバイカ(murisivnh)と取り違えている。
タマリスク(murivkh)は、ギョリュウ科ギョリュウ属の樹木で、ヨーロッパ西部からヒマラヤまで広く分布し、特定するのが難しいが、左図は、中東に見られるtamarix_aphyllaである。ディオスコリデス『薬物誌』は、Tamarix gallica(I_116)とTamarix orientalis(I_118)を採りあげている。
伊藤義教によれば、アナーヒター女神は手に祭枝バルスマンを携え、このバルスマンにはタマリスクが用いられていたという(『ペルシア文化渡来考:シルクロードから飛鳥へ』p.184-5)。しかし、バンヴェニストは、「タマリスクの枝の束はとりわけバビロニア人の供儀に見出される」(p.50)とし、女神アナーヒターはバビロニア起源だという。
アナーヒター
ゾロアスター教の教典アヴェスターのアーバン・ヤシトによると、アナーヒターは汚れなき処女神で、「男性の種と女性の胎と乳を浄める」とあり、その名をアルゾヴィ・スーラ・アナーヒター(Ardvi Sura Anahita)といい、「高く、強く、浄きもの」の意であるが、それは「天の川」をさすという。彼女はすべての川と水の源泉たる「天の川」の女神として多産と豊饒を司った。柘榴は多産のシンボルとしてアナーヒターの属性中に重要な位置を占める。また、ギリシアのアプロディーテーのごとく「愛の女神」でもあったアナーヒターには、ハトやカラスが属性とされた。
バビロンの学僧ベロッソス(前250年)によると、アナーヒターはダレイオス2世の跡を継いだアルタクセルクセス2世メムノーンによって前4世紀にイランに導入され、バビロン、スサ、エクバタナ、ダマスカス、サルディスまで、領内各地に広くその像を祀った神殿が建てられたという。しかしペルセポリスの碑文には、すでにミトラと並んでアナーヒターの名が楔形文字に刻まれているから、早くも前6世紀後半ダレイオス1世の時代から知られていた。
アナーヒター信仰の起源に関してはセシトの中にヴォルーガサ海、ラハー河などの名が現れるので、この河と海との組み合わせは「カスピ海とヴォルガ河」「アラル海とヤクザルテス」「アラル海とオクゾス」の3種となるが、決しがたい。しかしいずれにせよその信仰はユーラシア草原の遊牧民の間に広く行われたものと考えられる。アナーヒター諸像の華美な着道楽は、北方草原の遊牧貴族の風習を反映したもので、その大粒のビーズや水瓶は、中国の観音像の祖形となった。これに対して「インドのアナーヒター」たるサラスヴァティは、西部インドの今は乾上がった同名の河の女神で琵琶を弾じ、後の弁財天の祖形となった。(鈴木治「アナーヒター女神」)
右上図は、ササン朝後期の銀製水瓶の浮き彫り。画像出典、深井晋司『ペルシアの芸術』(創元社、昭和31年1月)、図版87。
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