シリア修道者史「解説」と「目次」
テオドーレートス『修道者史(Historia religiosa)』
"p"."t".1
テオドーレートス
キュッロスの主教の
愛神者の歴史
あるいは
修道者の生活
序
"p".1.1
最善者たち、つまり、徳の競技者たちの競合を見、眼に有益さを注ぎこむことは美しきかな。なぜなら、目にすることで、称讃されるものらが所有するにあたいするものであることが明らかとなり、恋されるにあたいするものとなり、目にする者たちをその所有へと目覚めさせるからである。とはいえ、このような徳行(katovrqwma)の話も、知る者たちから知らざる者たちの耳に届けるだけでは、程よい利をもたらすことにはならない。というのは、聞くことよりも見ることの方が信じられると謂う人たちがいるからである。とはいえ、聞くことも、言われている事柄を発言者たちの信実さによって判定することで"p".1.10 信じるのである。例えば、甘さや辛さや、そういった諸々の性質によって舌や味覚が判別することが信じられるように、そのように聴覚は言葉の識別を委ねられ、何らかの利をもたらす〔言葉〕を害するものから区別する仕方を知っているのである。
"p".2.1
かりに、利をもたらす説明の記憶が不可侵であり、忘却の虐待が、例えば広がる一種の霞のように、それを徐々に消えさせるのでないならば、こういったことを書き記すことはもちろん余分で余計なことであろう、ここから得られる益は、後に来たるべき者たちにも楽々と伝えられるからである。ところが時間というものは、身体には老齢や死を見舞って虐待し、徳行には忘却を作り込み、記憶をかすませて虐待するので、当然、われわれが愛神者たちの生活を著すことを手がけるからといって腹を立てるひとは"p".2.10いないであろう。なぜなら、身体を治療すると信じられている人たちが、病気と闘い、患者たちを助けるために、薬を準備するように、かかる著作の愛労は、一種厄除けの薬のように、忘却に対応する策謀、記憶の助けとなるからである。いったいどうして奇妙でないことがあろうか、詩人たちや史伝作家たちは、戦争における善勇を著し、悲劇作家たちは、美しく隠された災禍をあからさまな悲劇にし、それらの書き記された記憶を残し、他の或る者たちは、喜劇や笑いに言葉を費やすのに、われわれだけが、"p".2.20死すべき受苦的身体の内に無心を見せつけ、無体的自然を渇仰した人たちが忘却に引き渡されるのを見過ごすというのは。これらの感服にあたいする競技の記憶が徐々に消えてゆくことを看過して、われわれはいかなる罰を受けないで義しくいられようか。たとえ、彼ら自身は昔いた聖者たちの究極の哲学を渇仰し、その人たちの記憶を銅に文字で刻みこんだのではなく、彼らのあらゆる徳を鋳造し、例えば彼らの一種の有魂の似像、つまり、自分たち自身を記念碑として形造したのだとしたら、われわれは、彼らの音に聞こえた生を文字で顕彰することさえせずして、"p".2.30いかなる容赦に与り得ようか。
"p".3.1
しかも、オリュムピア祭において競合する競技者たちや、全格闘技の競技者たちは、似像によって栄化され、戦車競技において勝利をもたらす馭者たちでさえ、それと同じ褒賞を受けるではないか。これらの者たちばかりではない、女のような男たちや、女性的な男たち、男なのか女なにかまぎらわしい連中をも、これを観ることを愛する者たちは、画板に描きこむのである、できるかぎりその記憶を長続きさせるべく競うことを愛するからである、魂たちに記憶の利ではなく、虐待を作りこむにもかかわらずである。"p".3.10しかしながら、そうであるにもかかわらず、この者たちを恋する人たちはこの者たちを、あの者たちを恋する人たちはあの者たちを、それも害する者たちを、肖像画に描くのである。そうして、死は、死すべき存在である自然を掠奪するので、〔人々は〕色彩を混ぜ合わせ、あの人たちの面影を画板の中に据えて、記憶が生よりもはるかに長くなるよう、巧妙に案出する。
対してわれわれは、生は、哲学の教師、諸天界の生活を渇仰するものとして著し、肖像として描くのは、身体の特徴ではなく、彼らの浮き彫りを無知な人たちに見せつけるのでもなく、"p".3.20不可視の魂の形相を陰影画に描き、観察され得ぬ戦いと、目に見えぬ取っ組み合いを見せつけるのである。
"p".4.1
というのは、このような完全武装を彼らにまとわせることこそ、彼らの密集部隊の将軍にして先駆けであるパウロスであった。「この故に」と彼は謂う、「邪悪な日において抵抗し、一切を遂行して立つことができるように、神の武具を執りなさい」(Eph. 6:13)。さらにまた。「つまり、真理を帯として自分の腰につけ、義の胸当てを着て、立つがよい。また平和の福音を準備する履き物を足に履き、それら一切において信仰の楯を執れ。それによって、"p".4.10邪悪な者の火矢をすべて消すことができるよう。また信仰の兜をかぶり、霊の戦刀を、つまり神の言葉のことであるが、持つがよい」(Eph. 6:14-17)。この武具を彼らにまとわせて、競技に引きこんだのである。というのは、敵勢の自然も、かくのごとく、無体で、不可視で、目に見えぬまま接近し、ひそかに策謀して、待ち伏せし、突然襲ってくるものである。このことも当のこの将軍が教えて言ったところである。「われわれの戦いは、血と肉に対するものではなく、支配力に対する、権力に対する、この闇の宇宙支配者に対する、"p".4.20天上の悪の諸霊力に対するものだからである」(Eph. 6:12)。
しかしながら、このような敵対者たちまで持っていながら、これら聖者たちの仲間、いやむしろ彼らの各々は、これほどの数の、このような敵勢に取り囲まれながら──というのは、彼ら全員にいっせいに襲いかかるのではなく、今はこの人、今はあの人に突撃するのが常だから──かくまでも輝かしい勝利の栄冠を勝ち取ったのだった、敵対者たちをば敗走させ、この連中をば力尽くで追撃し、誰ひとりにも邪魔されることなく、勝利牌をうち立てるほどの。
"p".5.1
だが、彼らに勝利をもたらしたのは自然(fuvsiV)ではなく──それは死すべきもので、無量の苦に満たされているのだから──、神的な恩寵を引き寄せる決意(gnwvmh)である。というのは、〔彼らは〕神的な美の熱き愛者となり、恋される者のためにどんなことでも喜んで実行もし受苦もすることを選び、苦の叛乱に気高く耐え忍び、悪魔の矢弾の嵐を断固として振り払い、黙示的に云うならば、身体をしごいて隷従させ〔1Co. 9:27〕、気性的部分の炎を鎮め、諸々の欲望の"p".5.10気違いじみたところを、平静になるよう強制した。かくて、断食と大地に寝ることで諸々の情動を眠らせ、それらの跳ね上がりをやめさせ、身体に魂との和平条約を結ぶよう強制し、それらに内生する戦いを終結させた。
"p".6.1
かくして、彼らに平和を仲裁し、反対勢の隊伍をすべて追い出した。というのは、内なるものらを見捨てる諸々の想念を持たず、人間的肢体の協力を奪われている彼らは、戦争をすることができないからである。なぜなら、われわれに対する矢弾として、悪魔はわれわれの肢体を用いているからである。だから、眼が誘惑されることなく、聴覚も魅惑されることなく、触覚もくすぐられることなく、理性も邪悪な意図を受け容れることもなければ、策謀者たちの熱意は徒労であろう。というのは、都市が高みに造営され、強固な防壁に囲われ、到る所深い渓に取り巻かれていたら、内なるものらの誰かが、裏切って、幾つかの城門をこっそり開けないかぎり、敵なる者は攻略できないように、そのように、外側から戦争を仕掛けるダイモーンたちにとって、神的な恩寵に取り巻かれた魂を打ち負かすことは不可能なのである。何らかの想念の安易さが、われわれの内なる感覚器官の一種の城門を開けて、その中に敵を迎え入れないかぎり。
このことをはっきりと、神的な書によって教えられて、われわれから祝福された人たちは、預言者を通して「神」が、"p".6.20「死が窓に上って来た」〔Jer. 9:21〕と言ったのを聞いて、一種の閂や横木のように、神的な律法によって感覚器官を閉ざし、それらの鍵を理性に預けた。そして、舌は、理性が命じなければ、唇を開くこともなく、瞳は、目蓋から覗くことを任されなければ、挙げることもない。対して、聴覚は、目蓋や唇によって入ることを塞ぐことはできないけれども、言葉の中で利得のないのは押し返し、理性が喜ぶあのものらに身を受け容れるを常とした。同様に、嗅覚は、芳香に憧れることなきよう教育した。まさしく軟弱さや柔弱さを本性とするものだからである。"p".6.30同様に、胃袋の飽満を放逐し、快楽ではなく、必要性を満たすようなものを、しかも、飢え死にを阻止できるだけのものを摂取するよう教えた。同様に、眠りの甘き僭主支配を廃絶し、目蓋をそれへの隷従から自由にし、隷従の代わりに支配し、それから得られる有用性を、それが近づいたときではなく、自然のわずかな助けを自分たちが呼ぶときに、受け容れることを教えたのである。
そういう次第で、同様に、城壁や城門の守備を考慮し、内なる諸想念に同心(oJmovnoia)を"p".6.40供したうえで、外から攻め寄せる敵対者たちを彼らが笑ったのは、力尽くで入りこむことは、神的な恩寵の安全さのせいでできず、仇敵たちを迎え入れることを選ぶ裏切り者はひとりとして見出せないからである。そして、敵たちは不可視な自然を持っているにもかかわらず、身体は可視的で、自然の諸々の必然性に服している故、支配することができない。なぜなら、それ〔身体〕の馭者とか、音楽家とか、操舵手とかは、手綱を取っては、馬たちが最善の順序に走るよう説得するのが常である。律動においては、感覚器官の弦を弾じて、完全な調和の響きを達成するよう準備するのが常である。"p".6.50舵を達者に動かしては、波の衝撃や突風の衝撃を散らすのが常だからである。
"p".7.1
されば、無量の労苦を通して人生を旅するが、汗や艱難によって身体を馴致した人たち、そして笑いの情動は知らないが、慟哭と涙のうちに全生涯をついやした人たち、そして絶食(ajsitiva)をシュバリス風の食糧、辛い徹夜を最も快適な眠り、地面の表面を柔らかい寝具、祈りと詩篇朗誦のうちに暮らすことを度をこえた飽くなき快楽とみなした人たち、あらゆる種類の徳を選んだこの人たちを、当然ながら讃嘆しない人が"p".7.10ありえようか。いやむしろ、価値どおりに誉めそやせるひとがいようか。だから、わたしもまた、この人たちの徳に届く言葉はひとつとしてないということを知っている。それでも、やはり、手がけなければならない。というのは、真の哲学の完全な愛者となった人たちが、その理由でより少ない称讃にさえ与れないということは、美しくないであろうからである。
"p".8.1
しかし、みんなに共通してひとつの讃辞を書くことをわれわれはしない。"p".8.2なぜなら、彼らには神から異なった恩寵が与えられているのであり、これも浄福者パウロスが教えて言っているところである。「或る者には、霊によって知恵の言葉が与えられており、他の者には、同じ霊に応じて覚知の言葉が、他の者には、同一の霊において治癒の賜物が、他の者には力の作用が、他の者には預言の働きが、他の者にはさまざまな舌〔の発声〕が、他の者には舌〔の発声〕の解釈が〔与えられている〕」〔1Cor. 12:8-10〕。さらに、それらすべての源泉を示して、彼は付け加えている。「これらすべてを働かせているのは、一つの"p".8.10同じ霊であって、思うがまま、それぞれ1人ひとりの者に分かち与えているのである」〔1Cor. 12:11〕。されば、彼らは異なった賜物に与っているのであるから、われわれが各人の説明を個別にするのは当然である。〔神の国の市民として〕行ぜられたことをすべて記述するのではなく──このような著作には、全生涯さえ充分ではなかろうから──、各人によって生きられたこと、ないし、為されたことのわずかを説明し、全生涯のわずかなことの特徴を伝えたうえで、別の人に移るつもりである。
"p".9.1
しかし、到る所で異彩を放った聖者たちすべての生き方(politeiva)を記録風に伝達する試みもわれわれはしないつもりである。なぜなら、到る所に輝き渡った人たちをわたしたちは知りもしないし、全員を1人で著すことはできもしないからである。されば、明け方、光をもたらす星々のように現れ、ひとの住まいする〔世界〕の果てを光線で掴んだ人々だけ、その生をわたしは記すことにしよう。しかし言葉は物語的に進み、頌の決まりは使わず、わずかな人たちの説明を無技巧的にすることにしよう。
"p".10.1
ところで、この『愛神者物語』ないし『修道生活』──というのは、この著書は好きなように呼ぶがよいから──を読もうとする人たちにお願いしたいのは、言われている事柄を、たとえ何か自分たちの能力を超えていると聞いても、疑ってはならず、くだんの人たちの徳を、自分たち自身で測ってもならず、神は全-聖なる霊の賜物を敬虔なる者たちの決意によって測りたもうのが習いであり、もっと完全な〔決意〕にはもっと大きな〔賜物〕を与えたもう、ということをはっきり知ることをである。これこそが、わたしによって、神的な事どもをあまりはっきりとは教わらなかった人たちに向けて述べられたとせよ。というのは、霊の内陣の秘儀に与った人たちは、"p".10.10霊の名誉愛(filotimiva)と、人間を通して、人間の内に、いかなる驚異を働かせ、奇蹟の偉大さによって非信仰者たちを神の覚知へと引き寄せるかを知っているのだから。しかるに、わたしたちから云われようとしている事柄を信じない人は、明々白々、モーウセース、イエースゥース〔ヨシュア〕、エーリアー、エリッサイオスを通して起こったことも真実とは信じず、聖なる使者たちを通して生じた驚異の働きをも神話と考えるのである。しかし、あの人たちのために真理が証言するなら、これも虚言から自由であると信じさせる? なぜなら、あの人たちの内に働いた恩寵は、この人たちを通しても実行したことを"p"10.20実行するであろうから。恩寵というものは常に浮遊していて、価値或る者たちを選び出すと、一種の泉を通してのように、この人たちの善行を通して、流れを噴き出すのである。
"p".11.1
さて、言われるはずのことのうち、幾つかについては、わたしが目撃者である。また、わたしが目にしていないことは、あのひとたちを目にした人たち、つまり徳の愛者たちにして、あの人たちに面談し教えを価値ありとみなす人たちからわたしが聞いたことである。さらに、福音の教えの著者としても価値あるのは、マッタイオスとイオーアンネース、福音宣伝者たちの偉大な最初の人たち、つまり、主の驚異の目撃者たちのみならず、ルゥカースとマルコス、つまり、主が受苦し為したもうたことのみならず、教えつづけはっきりと教えこまれたことを"p".11.10、最初の目撃者にして言葉の仕え手〔Lk. 1:2〕となった人たちである。実際、浄福者ルゥカースは目撃者ではなかったにもかかわらず、著書の初めに、われわれの間で成就した事柄について話をすると謂っている。そこでわたしたちも、まさしくこれらの話の目撃者ではなく、他の人たちからこの教えを伝承したと聞いたから、マッタイオスやイオーアンネースに劣らず、彼とマルコスに心を傾注している。なぜなら、両人の話が価値があるのは、目撃した人たちから教えられてきたからである。まさしくそういう次第で、わたしたちも、一部は目撃者として述べ、一部は目撃者、つまり、あの人たちの生を渇仰した人たちによって話されたことを"p".11.20を信じて述べるつもりである。この点については、わたしはより多くの言葉を費やしたが、わたしが真実を話しているということを説得したいがためである。では、ここから取りかかって、話を始めよう。
|