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back.gifシリア修道史(3/6)


原始キリスト教世界

シリア修道者史 4








11."t".1
ローマノス11.1.
 さて、大テオドシオスは、アンティオケ人たちの〔都市〕から出て、ローソス山地で労苦し、アンティオコスの都市にもどり、そうやって生の終わりを迎えた。これに対し神的なローマノスは、生まれも最初の育ちもローソスで、アンティオケイアで徳の懸賞競技を受けた。町の周壁の外の山麓に天幕を張り、他人の家、それも小さいのに常時暮らして。ただし、老いるまで、火を使うこともなく、燭台の光を受け入れることもなくすごした。すなわち、彼の食べ物は、パンと塩、飲み物は湧き水、髪は大テオドシオスと似かよい、着物と鉄も同様であった。 11.2.
 しかしながら、彼〔ローマノス〕の方が、性格の単純さ、振る舞いの柔和さ、精神の程よさ(metriovthV)の点でまさっていた。そしてそれらのおかげで、神的恩寵の輝きを放っていた。というのは、「誰を」と彼は謂われる、「わたしは顧みようか、柔和、静穏にして、わたしの言葉におそれおののく人より他に」〔Is. 66:2〕。さらにまたご自分の弟子たちに言われた、「わたしから学べ、わたしは柔和にして心にへりくだっていることを。そうすれば、あなたがたの魂に休息を見出すであろう」〔Mt. 11:29〕。さらにまた。「柔和な者たちは浄福である。彼らは大地を受け継ぐであろう」〔Mt. 5:5〕。そしてこれは、立法者モゥセースの業績の特長であった。というのは、「モゥセースは」彼は謂う、「地上にある人間どものすべてにまさって柔和であった」〔Nu. 12:3〕。これはまた預言者ダヴィデのために至聖の霊が証言しているところでもある。すなわち、「思い起こしてください」と彼は謂う、「主よ、ダヴィデを、そのあらゆる柔和を」〔Ps. 132:1(LXX)〕。族長イアコーブについても、彼は穏やかな人で、家に住んでいた〔Gen. 25:27〕ことをわれわれは記憶している。 11.3.
 蜂蜜のように、あの神的な牧草地から、彼はこれらすべての徳を集め、哲学の真の蜂蜜をこしらえた。いや、ひとり労苦を享受したばかりではない。自分の外なる人々にも、最も快適な流れを注ぎかけたのであった。自分のところにやってくる人々にも、柔和で甘い声でもって、数々の忠告を兄弟愛について、数々の忠告を同心や平和について、話しかけた。また数多くの人たちを、彼は目にされるだけで、神的なものらの恋慕者たることを証させた。というのは、この老人を目にして、圧倒されない者が誰かいようか、身体はやつれ、ふさふさした髪を結いあげ、できるかぎり数多くの鉄を身につけるべく選び、毛髪でつくった着物を用い、飢え死にを防ぐに足るだけの食べ物を摂るこの老人を。 11.4.
 さらに、労苦の大きさ多さに加えて、花咲く恩寵も、あらゆる人たちをして、彼を讃歎し敬仰する気にさせた。というのは、多くの人たちの難病を追い払うことしばしばであり、多くの不妊の女たちに子を恵んだ。しかるに、神的な霊によってこれだけの力を受けながら、彼は自身のことを乞食、物貰いと名づけていたのである。 11.5.
 さて、全生涯を、自分のもとに訪れるあらゆる利益をば、〔自分が〕立ち現れることで、また発言することで、満たし続けた。そしてそこから離れ、み使いたちの合唱舞踏隊に移り住み、後に記憶を残した──身体に埋没する記憶ではなく、花咲き、盛り、永遠に消えることなく続き、利することを望む人たちを満足される記憶を。そこで、ここから得られる祝福を受けながら、その他の闘技者たちの事柄をも、できるかぎり詳しく話すことにしよう。


12."t".1
ゼーノーン
12.1.1
 驚異の人ゼーノーンを多くの人たちは知らないが、知っている人たちは、ふさわしく驚嘆することができない。なぜなら、このひとはできるかぎり多くの富を祖国──それはポントスであった──に残して、彼の言によれば、隣人である大バシレイオスの流れを享受し、カッパドキア人たちの地を灌漑し、その灌漑にふさわしい果実を産出したのである。 12.2.1
 すなわち、ヴァレンス帝が亡くなるとすぐ、兵士の帯を捨てた。帝の手紙を速やかに運ぶ者たちの身分に幽閉されていたのである。だが、王宮からある墓──アンティオケイアに沿う山は多くを有している──に出発し、独住して過ごした。魂を浄化し、その視力を常に洗い清めて、神的な観想を幻視し、「心に神の大路を」〔Ps. 84:5〕置き、「鳩のように翼を得ること」を願い、神的な安らぎへと飛び立つことを渇望しながら〔Ps. 55:6〕。そのために、寝椅子をもたず、燭台を〔もた〕ず、炉を〔もた〕ず、壺を〔もた〕ず、小瓶を〔もた〕ず、箱を〔もた〕ず、書物を〔もた〕ず、他に何物も〔もた〕なかった。ただ襤褸服は古いのを身につけ、履き物も同様に皮の足りないのを〔身につけた〕。というのは、底皮を取り去っていたからである。 12.3.1
 知己の一人だけからは、必要な食べ物を運んでもらっていた。だがそれは、二日に〔一度〕あてがわれるパン一個であった。水は遠くから、自分で汲んで運んだ。ある時、彼が荷を運んでいるのを見た人が、その労苦を軽くさせてくれと頼んだ。しかし彼は、初めは断った。他人に運んでもらった水をもらうことは許されないのだと教えて。だが、説き伏せられなかったので、その甕を与えた。というのは、2つを両手に運んでいたのだ。そして中庭の扉を入るや、水を空け、まき散らして、再び泉に走っていった。言葉を行動で確証するために。 12.4.1
 わたしも、初め彼を調べることを渇望して、山に出かけて行き、手に甕をもった人を目にした。そこで、驚異の人ゼーノースの住まいはどこか尋ねた。すると彼は、そういう呼び名で呼ばれる独住者は全然知らないと言った。わたしは、それが当人だと見当をつけて、ついていった。言葉遣いの程よさが証拠ととみなしたからである。そして扉の中に入るや、わたしが目にしたのは、干し草でつくった藁布団と、石の上に(この上に座る人たちは、何らの害も受けないようにと)敷かれた別の屑であった。さて、わたしたちは哲学をめぐって長談義をし──というのは、わたしが問いただし、求められている事柄を彼がわたしたちに開示したので──、後は家へ帰らねばならないことがわかったので、祝福の路銀を与えるよう彼に懇願した。だが彼はわたしたちを満足させることを断った。祈りは正式のものであると言って、また、自分を私人と呼び、わたしたちを将兵と名づけて。というのも、当時、たまたまわわたしは神的な民に聖書を読む読師であったためである。そこでわたしたちは若さを、年齢の幼さ──髭のわずかな芽生えを見たばかりであったので──を口実に、今これを無理にでもしてもらわなければ、二度とやってくることはないと誓って、やっとのことで、数々の嘆願についに屈して、神に代願(presbeiva)を捧げた。ただし、代願のための弁明を延々と述べ、愛(ajgavph)と従順(eujpeiqeiva)のためにこれを為したと言って。というのも、わたしたちは接近していたので、祈るのを聞いていたのである。 12.5.1
 哲学のこれほどの高みにおいて、志(fronhvma)のこれほどの程よさ(metriovthV〔謙遜〕)を老人がもつということ──というのは、40年間を持続的に修行のうちにあったのだから──を、誰がふさわしく驚嘆できるであろうか。その偉大さに捧げるいかなる祝福を人はなしえようか。極端な貧しさと共に生きという、徳のそれほどの富を所有しながら、主日ごとに多衆と共に神的な集会に通うことを常とした。つまり、神的な言葉に傾聴し、教師たちに耳を貸し、神秘的な卓にあずかりながら。〈それから〉あの新しい住み家に帰って行くことを常とした。鍵なく、閂なく、番人もいない──なぜなら、悪行者たちに近寄れず、完全に不可侵であったから──、あの屑をもっているだけだったので。書物は一冊を知人たちから受け取り、全部を読了し、これを先に返して、そうやって別のを受け取った。 12.6.1
 閂をもたず、閂桟をももたないにもかかわらず、彼は上天からの恩寵に守護されていた。このことも、まさに経験を通して、わたしたちははっきり学び知っていた。というのは、イサウリア人たちの軍団が、夜陰に乗じて、アクロポリスを占拠した時、次いで、夜明け後、まさに山麓まで駆け下り、修行者の生活に与っていた数多の男たち、数多の女たちをむごたらしく刺し殺した。そのとき、この神的な人は、他の人たちの殺戮を見、祈りによって、その人たちの姿を見えなくし、扉を通りながら、その入口を見ることができなかった。彼が証人として真理を呼び出して謂ったところでは、3人の若者が活き活きと見え、あの者たちの全部隊を撃退した、それはみずからの恩寵をはっきり示す神の〔若者ら〕であったという。だからこれもまた、この神的な人がどのような人生を生き、神からいかなる恩寵を享受したかということを示すに足る話である。 12.7.1
 じっさい、次のこともまたこれらに付け加える必要がある。彼をひどく悩ませ責め苛んだのは、余分な財をもったままのため、福音の律法〔Cf. Mat. 19:21〕にしたがって、消尽したり分配したりしないということであった。その理由は、兄弟たちの年齢的な未熟さにあった。というのは、財貨や所有物が共有であったから、自分は配分のために身に帯びる財産を取ることを拒んだが、財の部分を別人に引き渡すことは、12.7.8 買い手たちが甥たちに対して貪欲に憑かれ、自分を悪罵するのではないかと恐れ、自身の内でこういった思念に陥り、12.7.10 久しい間引き渡しを延期していたのだが、後になって、無数の知人たちの一人に全部を引き渡し、大部分は分配した。ところがそのうち病気に罹り、余生について思案せざるを得なくなった。そこで、この都市の司教──それは大アレクサンドロス、敬虔の飾り、徳の原型、哲学の精確な似像であった──に使いを出し、「こちらへいらしてください」と謂った、「おお、わたしにとっての神的な頭よ、この財貨の最善の管理人となってください、あの審判に会計報告を出す方として、神的な目的にこれを保って。というのは、12.7.20 その他のことではわたしが自家労働者となり、最善と考えた仕方で分配してきた。さらに残りのことも、似たり寄ったりに処理することを望んだ。しかし、この人生から移るよう命令されたので、あなたをこれらの管理者に任命する、主教であり、主教職にふさわしく暮らしているから」。かくて、財産を神的宝のように引き渡した。みずからは長く生きながえることなく、オリュムピック競技の勝者のように土俵から立ち去った、人間どもからのみならず、天使たちからも祝福を受けながら。わたしとしては、この人をもわたしのために主人に対して使者となるようお願いしたうえで、別の話に向かうことにしよう。


13"t".1
マケドニオス

13.1.1
 マケドニオス、呼び名は「大麦喰い」— というのは、以下のような育ちが、この同名を彼に付けていたから — 知っていたのは、フェニキア人たち、シリア人たち、キリキア人たちである。知っていたのは、それらの人たちと境界を接する隣人たちもそうで、ある人たちはこの人物の驚異の目撃者となり、ある人たちはそれら〔驚異〕を歌い喋々する噂の伝聞者となった。もちろん、すべての人たちがすべてのことを知っていたのではなく、ある人たちはこれを、ある人たちはあれを聞き知り、当然ながら、知っていることだけを驚嘆したのである。そこでわたしは、わたしにとって神的な頭〔人〕に関することを他の人たちよりも 13.1.10 もっと正確に識っているので — というのは、わたしが彼のところに行き、訪問することを多くのことが促したから —,それぞれの事柄をできるかぎり話すことにしよう。わたしが彼に対するこの立場を保持し、多くの人たちの後に彼の話を付け加えたのは、彼方の人たちよりも徳において第2位だからではない — というのは、尖端で第一位の人たちに匹敵する人であったから —、可能な限り長い期間生き、わたしが言及してきた人たちの後に、生の終わりを迎えたからである。

13.2.1
 さて、この人物は格闘場や競走場として山々の頂を持ち、ひとつところに定着することなく、今はここに住みつき、今はあそこに移るというふうであった。しかし彼がそれを行ったのは、土地を嫌ったからであはなく、彼のところに集まり、至るところから押しかける人たちの多さを逃れるためであった。で、45年間、彼はこの仕方でずっと過ごし、天幕を使うことなく、小屋を〔使うこと〕なく、深い空堀の中を居場所にしたので、そこから一部の人たちは彼のことをGoubba:n という名でも呼んだ — シリア語から 13.2.10 ギリシア語にこれが翻訳されると、穴(lavkkoV)という名詞を意味した。しかし、この時期の後、老人になったので、嘆願者たちに譲歩して、小屋を建てた。後には、知り合いたちの懇願によって、みずからのものではなく、他人のであるが、小家を使った。そうして、小屋と小家に25年間ずっと住みつづけた結果、闘技の期間はさらに70年間を合わせることになった。

13.3.1
 食糧として彼が用いたのは、パンではなく、豆でもなく、簸られ、水に浸されただけの大麦であった。そうして、彼の知己となったわたしの母は、この食糧を非常に長い間供給したのであった。また、あるとき、病みついた彼女のもとにやって来て、病に対応した食糧を摂るよう説得されないと知って — 彼女も以降修行者の生を喜んでいたので —、贅沢のためではなく、必要の〔ために〕供されているのだから、医師たちに譲歩し、相応の食糧を薬と考えるよう勧告した。「というのは、わしも」13.3.10 と彼は謂った、「そなたの知ってのとおり、大麦だけを用いていたが、昨日、わしに一種の弱さが付け加わったので、わしのためにわずかなパンを所望し、持ってくるよう共住者にわしは命じた。というのは、ある思いつきがわしに生じたのじゃ、わしが死んだら、義しい判定者から死の執務審査を受けることになろう、諸々の闘技を逃れ、隷従の諸々の労苦から走り去ったと。なぜなら、わずかな食糧で死を阻止し、労苦し、艱難辛苦し、此岸の富を集めることが可能であるにもかかわらず、飢えからの命終を、哲学における生よりも選択にあたいすると解したことになるのだから。そういうわけで、13.3.20 このことに恐れでいっぱいになり、思量の針を鈍らせたくて、パンを所望すると命じ、持ってこられたものに与ったのである。そうしてそなたにも、もはやわしに大麦ではなく、パンを寄越すよう申しつける」。まことに、40年間大麦を食糧としてきたという、あの虚偽なき舌からわたしたちは聞いたのである。だから、これこそが、あの人物の修行と愛労を証拠立てるに充分である。

13.4.1
 しかし、性格の純真さと単純さをば、他の事例によってわたしたちは明示しよう。
 例えば、偉大なプラビアーノスが、神の偉大な群を牧するよう下命されたが、この人物の徳を聞き知り — というのは、歌われ、あらゆる人々の口に膾炙していたから —、彼について書にあるといって、彼を山の頂から連れて来た。しかし、神秘的犠牲祭が開催されているとき、祭壇の前に連れて行き、聖職者たちに登録した。しかし、勤行が終了し、或る者が 13.4.10 彼にこのことを暴露し — というのは、何が起こっているのか彼はまったく無知だったので —、初めは悪罵し、全員を言葉で攻撃した。しまいには、杖を執って — というのは、老齢のため支えにして歩くのが習いであったので —、主教その人と、居合わせた限りの他の人たちとを追いかけた。というのは、山の頂の叙任と、渇仰される暮らしとを自分から奪ったと猜疑したからである。しかしながら、そのときは、知己たちの一部の人たちが、憤慨する彼をやっと落ち着かせた。が、7日1週が終わり、再び主の祝祭の日がやって来たとき、偉大なプラビアーノスは再度彼を 13.5.1 呼びに遣った、祝祭を自分たちと共有するよう呼びかけてである。すると彼は、やって来た人たちに向かって、「あんたたちはすでに起こったことに満足せず」と彼は謂った、「またもやわしに長老を押しつけたいのか」。そこで彼らが、一人に二度同じ叙任を加えることはできないと言ったが、時間と知己たちがこれをしばしば教えるまでは、譲歩することなく、やって来ることもなかった。

13.5.1
 もちろん、多衆にとってこの話が讃嘆にあたいするものであるとは思われないことを、わたしは知っている。だが、わたしがこれを記憶にあたいするものとして勘定したのは、精神の単純さと魂の清らかさを証するに充分とみなすからである。こういう人たちにこそ、主は諸天の王国を約束なさった。というのは、「アメーン」と〔主は〕おっしゃった、「汝らに言う、立ちもどってこの幼児らのようにならなければ、諸天の王国に入ることはできないであろう」〔Mt 18:3〕。さて、魂の特徴も要点を詳述したので、さあ、彼の徳に由来する神交(parrhsiva)をもわたしたちは詳述しよう。

13.6.1
 ある将軍が、猟好きなため、狩りをしに、山に登っていった。彼には、猟犬も兵士たちも、狩りに必要なかぎりのものらも随行していた。ところが、遠くからあの人を見て、いっしょにいた者たちから、それが誰であるかを聞き知って、すぐに馬から跳び降り、近づいて挨拶し、ここで何をして過ごしているのかと尋ねた。すると相手が問い返した。「そなたこそ何をしにここに登ってきたのじゃ」。そこで将軍が、狩りをしにと云うと、「わしも」と彼は謂った、「わしの神を狩っておる、つまり、つかまえることに耽り、観想することを渇望し、その 13.6.10 美しい狩りを手放すつもりはないのじゃ」。これを聞いて将軍は、当然ながら驚嘆して、立ち去ったのだった。

13.7.1
 他の時には、この都市がある邪悪なダイモーンによって狂熱に陥り、帝国の標柱に対して狂気のふるまいに及んだので、将軍たちのうち最も善勇の者たちが、都市に対する全破壊の票決を携えて来着した。そこでこの人物は山から下り、通りがかった両将軍に市場で出会った。彼らは、相手が何者か聞き知り、馬から跳び降りて、両手と両膝に触れ、救いを申し出た。すると彼は、皇帝に謂うよういいつけた、〔自分はただの〕人であり、暴慢にふるまってきた者たちと同じ自然を有する。13.7.10 そうして、怒りは自然本性に適度でなければならないのに、過度な気性を発揮し、みずからの似像ゆえに神的な似像を殺害に引き渡し、青銅の標柱の代わりに身体を死に引き渡した。「実際われわれにとっては」と彼は謂った、「青銅の〔標柱〕をつくりなおし、成型しなおすことは容易であり、簡単である。しかしあなたには、たとえ皇帝であろうとも、殺害された身体を生き返らせることは不可能である。わしが身体と言うのは、いったい何のことか? つまり、毛一筋も造形することはあなたにはできないということである」。以上のことを、彼はシリア語を使って言った。彼らの方は、通訳がギリシア語に変換する間、傾聴し、戦慄し、13.7.10 これを皇帝に伝達することを約束した。

13.8.1
 わたしとしては、これが神的な霊の恩寵の言葉であることには誰しもが同意すると考える。それ以外にどうして、これを発言できようか、いかなる教育にも入門せず、田舎育ちで、山々の頂で暮らしてきた、魂にあらゆる単純さをまとい、神的な言葉を研究したことのない人物が。そういうわけで、彼の霊的な知恵をも、義しい神交(parrhsiva)— というのは、「義人はライオンのように自信に満ちる」〔Pr 28:1〕— をも明らかにしたからには、驚異譚へと移ろう。

13.9.1
 貴族階級に属するある婦人が、一種の大食の病状に陥り、ある人たちはその病状をダイモーンの活動と呼び、ある人たちは身体の弱さとみなした。しかし、こうであれ、ああであれ、次のような〔病状〕であった。彼女は1日に鶏30羽を食しても飽食の欲を消すことなく、もっと別のものを得ようとしたと言われる。そこで、こういうふうにして彼女のために財産が浪費されたので、親類の者たちが嘆いて、あの神的なあの人に嘆願した。そこで彼がやって来て、祈祷し、水に右手を当て、救済の印を刻したうえで、13.9.10 飲む用命ずると、病状が治った。かくて、欲求のあまりにひどい過度を鈍らせた結果、それ以後は、鶏のほんのわずかな部分で、日々の彼女の食糧の用を満たした。もちろん、この病状はこのような手当を受けたのである。

13.10.1
 また、ある乙女が、まだ女部屋で過ごしていたのであるが、とつぜん、邪悪なダイモーンの活動を蒙ったので、父親は神的な人のもとに急ぎ、懇願し、渇仰し、娘子が治療を得られるよう頼んだ。すると彼は、祈祷し、ただちに乙女から立ち去るようダイモーンに命じた。するとそれが謂うには、自発的にもぐり込んだのではなく、魔術に通じた魔法で強制されたのだという。すると彼は、強制したものの名称と、魔法の原因が恋情であることをも言ったのである。

13.11.1
 しかしながら、これを聞いて父親は、気性の突撃を持ちこたえられず、少女の治療を待ちもせず、より上級の政庁、より多くの族民を統括する執務官を捉まえ、この人物を公訴し、その所行を申し立てた。彼の方は、連行されたが否認し、公訴を誣告と名づけた。しかし彼は、証人として、ほかでもない、魔法に仕えたダイモーンを呼ぶほかなく、神的なあの人のもとに急ぎ、ダイモーンの証言を得るよう、裁判官に嘆願した。13.11.10 しかし〔裁判官が〕修道者の地で吟味が行われることは俗法にかなわず、まして神法にふさわしくないと言ったので、乙女の父親は、神的なマケドニオスを法廷に連れて来ると約束した。そうして、急いで行って、説得し、連れて来た。そこで裁判官は、公会堂の外に坐し、裁判ではなく観客になった。というのは、偉大なマケドニオスが裁判官の役割を演じ、内に宿る力を使って、ダイモーンに、いつもの虚偽を放棄し、事件の悲劇全体を真理を持って説明するよう申しつけたのだ。すると相手〔ダイモーン〕は、最大の必然に圧倒されて、魔法の歌で 13.11.20 強制した人物と、あのキュケオン〔大麦粉とけずったチーズをプラムネー酒に混ぜこんだ混合酒〕が乙女にあてがわれた悪戯とをほのめかした。しかし、ほかにも、何か他のものらに強いられてしでかしてきたことを言うよう迫られると — あるものに〔強いられて〕は家に火を点け、あるものには〔強いられて〕所有物を台無しにし、あるものには〔強いられて〕何か他のものを害した —、神の人は、黙るよう、そして、ただちにどこか遠くに、乙女からも都市からも去るよう、命じた。すると相手は、まるで主の法に聴従する者のように、命じられたことを実行し、すぐさま走り去った。

13.12.1
 さて、このようにして、この〔乙女〕を神的な人はあの狂気から自由にしたが、あのみじめな男をも、公訴から奪い取り、裁判官の死刑評決を阻止した、神法にふさわしいのは、そやつによって生じた吟味に殺害を課すことではなく、むしろ、改悛によって彼に救いが供されることこそである、と主張してである。
 もちろん、これも、彼に与えられた神的な力の豊かさを示すに充分である。しかしわたしは同様に別の事柄も話そう。

13.13.1
 貴族階級の、非常に裕福な階層に属するある婦人が — で、彼女のことをアステリオンと〔人々は〕命名していた — 、正気をなくした。みずからのことを何ひとつ認知できず、食べ物であれ飲み物であれ、摂ることに耐えられなかった。で、非常に長い間、ずっと気が違っていた。それも、他の人たちはダイモーンの活動だと呼び、医師たちは、脳味噌の病だと命名した。そこで、ありとあらゆる術知が浪費されたが、ひとつとしてそこから助けになるものはなく、この女の夫は — で、この人物はオボディアノス人で、高位高官の最も高貴な階級に属した — 13.13.10、あの神的な頭のところに急ぎ、連れ合いの病状を説明し、手当てに与れるよう嘆願した。そこで神々しい人は譲歩し、家に着き、神に真剣な嘆願を捧げた。で、祈祷を完了し、水が運び来られるよう命じ、救済の印を刻したうえで、飲むよう彼女に申しつけた。しかし医師たちが、冷水の引用によって病状が増幅すると反対したので、夫はその者たちの集団をすべてはねつけ、妻に飲み物を供した。そこで彼女が飲むと、同時に、われに返り、正気となった。13.13.20 そうして、全体的に病状から解放され、神的な人を認知し、右手を取ることを嘆願し、両眼に当て、口に持っていった。そうして、そのとき以来、ずっと強壮な心を発揮しつづけている。

13.14.1
 さらにまた、彼が山の生き方を喜んでいたとき、ある羊飼いが、敵の手中に落ちた羊を探して、神の人がいたあの場所にやって来た。しかし真夜中で、大雪が降り、彼の謂うところでは、彼のまわりに点けられた火と、その火に材木を給している白衣の二人の人を目にしたという。というのは、熱意をこめるあまりに、彼は神的な助けを享受していたのである。

13.15.1
 さらにまた、彼は預言の恩寵にも与っていた。実際、あるとき、敬虔さに輝く将軍 — ルゥピキノスの徳をいったい誰が知らないであろうか — が彼のところにやって来て、皇帝のいる都市から、海路、彼に必要品を運ぶ者たちについて心配だと彼が言った。なぜなら、港を出港して以来、すでに50日が過ぎたのに、彼らについて何ひとつ便りを受け取っていないと彼〔将軍〕は謂った。すると彼〔マケドニオス〕は何の躊躇もなく、「一艘は」と謂った、「おお、友よ、失われた。13.15.9 しかしもう一層は、明日、セレウケイアの港に着くだろう」。13.15.10 そうして、神的な舌がこれを発言するのを聞いて、経験によって、言葉の真実さを彼は知ったのであった。

13.16.1
 その他のことは省略することにして、わたしたち自身に関することを話そう。母はわたしの父と13年間同居したが、子どもたちの母親とはならなかった。なぜなら不妊で、果実を産することを自然によって閉ざされていたからである。これも彼女をそれほど悲しませなかったが — というのは、神的な事柄を教育されていたので、それが好都合であることを知っていたのだ —、しかし父は、子なしということがひどく苦しめ、至るところを訪ね歩き、神的な奉仕者たちに、自分のために神から子どもを要請してくれるよう嘆願した。そこで、他の人たちは、祈ることも約束したが、神的なはからいを敬愛するようにとも 13.16.10 彼に告げた。ところが、神的なこの人は、全体の造物者から一人息子を要請するだろうと明快に告げ、その要請はかなえられるだろうと請け合った。かくて、3年が過ぎ、告知が目標を達成しないうちに、父親は再び約束を要求しに急いだ。すると彼は、連れ合いを自分のところに遣わすよう下命した。そこで母親がやって来ると、あの神的な人は、自分は幼児を要請もし、得もするだろう、しかし、これは与えた方に返すのがふさわしい、と言った。そこで母が、魂の救いと、ゲヘナからの解放を得ることのみを懇願したところ、「これに加えて」13.16.20 と彼は謂った、「息子をも偉大な贈り主はお与えになるであろう。混ざり気のない懇願者たちには、要求の2倍をお恵みになるからじゃ」。そこから、母は、告知の祝福を運んで、帰ってきた。そうして、約束の4年目に妊娠し、子宮に重荷を負わされた。そうして、祝福の種子の束を示しに、神的な人のもとにやって来たのである。

13.17.1
 しかし、妊娠5ヶ月目に、流産の危機が見舞った。そこで彼女は再び自分の新エリッサイオス〔Cf. 2Kgs 4:16〕のところにひとを遣わせ — というのは、自分が馳せ参じることを病状が妨げたからである —、子どもたちの母親になることを拒まれ、彼の約束も中央に引きだしたということを想起させた。しかし彼は、到来者を遠くから観て判別し、その理由を理解した。というのは、夜の間に、病状も救いも主が彼に明らかになさっておいたからである。そこで杖を執り、杖をついてやって来て、家に入ると、13.17.10 いつものとおり、平和の挨拶をした。「元気を出せ」と彼は謂った、「そして恐れるな。賜物をお与えになった方が奪われることはないのじゃから、そなたが生じた契約を踏み外さないかぎりは。つまり、与えられるであろうものを返し、これを神的な奉仕に聖別するとそなたは約束した」。—「そのとおりです」と母は謂った、「わたしも出産を望み、祈ります。なぜなら、不完全な子は、幼児の余所余所しい養育よりも選択さるべきと考えますから」。—「それでは飲め」と神的な人が謂った、「この水を。そうすれば、神的な助けを感受するであろう」。そういうわけで、彼女は指図されたとおり飲んだ、すると、流産の危機は 13.17.20 逃げ去った。以上のようなことが、わたしたちのエリッサイオスの驚異である。

13.18.1
 この人の祝福と教えを、わたしはしばしば享受した。なぜなら、わたしに勧告してしばしば言ったからである。「おお、小さき子よ、多大な労苦を伴ってそなたは生まれた。数多くの夜々、そなたの両親が、そなたの誕生後、名づけられるものになるよう、それのみをわしは神に嘆願しつづけたものじゃ。されば、その労苦に値するように生きよ。陣痛の前、諸々の約束にそなたは捧げられた。しかし神の奉納物は、万人に尊崇され、多衆に触れられることはない。さればふさわしいのは、そなたも、魂の邪悪な動きを歓迎することなく、13.18.10 徳の立法者たる神に仕えることのみを為しもし、言いもし、想いを致しもすることである」。こういったことが、神的な人がいつもわたしに勧告しつづけたことである。で、わたしはそれらの言葉を記憶し、神的な賜物を教えられてきた。しかし、行動でその勧告を示さなかったので、あの人の祈りを通して、神的な傾きに与り、命の残りを、あの人の保証通りに生きることを嘆願する。

13.19.1
 もちろん、あの人がどういう人物であったか、どのような労苦を発揮して、神的な恩寵を引き寄せたのかを教えるに、これら〔以上の話〕とて充分ではない。だが、それにもかかわらず、この生においても労苦の終わりはふさわしい名誉を受けたのである。というのは、同市民たちも、外国人たちも、大いなる政庁を管理するよう信任された者たちも、全員が、あの聖なる棺台肩に担ぎ、勝利をもたらした殉教者たちの廟に運び、アプラアトス、テオドシオスといったあの神的な人たちとともに、あの神聖にして神の愛する身体を安置したのである。そして名声は消えることなく持続し、13.19.10 いかなる時間もこれを不明となすことはできないであろう。しかしわたしたちは、この話にけりをつけて、話からかおる芳香を収穫したことにしよう。


14."t".1
マエーシュマス

14.1.1
 わたしが知っているのは、アンティオコスの都市の近辺には、他にも多くの、敬虔のきら星たちが輝きわたっているということである。それは大セベーロスであり、アイギュプトス人ペトロスであり、エウテュキオスであり、キュリッロスであり、モーウセースとマルコスであり、ほかにも同じ行道を歩む人たちである[1]。しかし、全員の生き方を著すよう試みるとしたら、どれだけ時間があってもわれわれには充分ではないだろう。いずれにしても、長話を読むことは多衆にとってうんざりであろう。そういうわけで、著されている人たちから、省略された人たちの生をも察し、全員をして祝福せしめ、熱中せしめ、益を収穫せしめよ。わたしはといえば、キュッロスの牧草地に渡り、そこにある香りよく姿よき花々の麗しさをできるかぎりお知らせしよう。

14.2.1
 わたしたちより前の時代に、マエーシュマースなる人がいた。母語はシリア語で田舎で育ったが、あらゆる種類の徳を具現した人であった。また、自分独りの生で異彩を放ち、ある村の世話を手がけた。さらに、祭司の務めをし、神的な羊たちを牧しつつ、神的な法が命ずる件のことを言い、かつ、実行していた。噂では、彼は外衣も山羊の毛の織物も久しい間取り換えることなく、それらにできた破れ目に別の端布を縫いつけて、この仕方で彼はその老年を介護したという。しかし、外国人たちや貧乏人たちの世話にはきわめて熱心に配慮し、来訪者全員に扉を開け放っていたほどである。また、2つの壺 ȃ ひとつは小麦のそれ、ひとつはオリーヴ油のそれ ȃ を持っていたと言われる。これらから、いつでも、誰でも必要とする者たちに供給していたが、これらの壺をいつも満杯で持っていたのは、ザレパテの寡婦〔1Kgs. 17:9-16〕に与えられた祝福が、この者たちのためにももたらされたからである。「すなわち同じ主が万人の主であって、その豊かさは、彼を呼び求めるすべての者に及ぶのだから」〔Rom. 10:12〕。そして、歓待(filoxeniva)の種子の束を提供して、あの女性の水甕と瓶を注ぐよう命じたように、この驚異的な人にも、その熱心さと同程度の奉仕を与えておかれたのである。

14.3.1
 また、驚異の働きをするためにも、彼は万物の神から数多くの恩寵を受け取っていた。諸々の驚異のうち、1つないし2つをわたしは想起しよう、だが残りは、他の人たちに急いで進むためにも省略することにしよう。

 生まれにおいても信仰においても飾られたある女性が、病気に罹った息子を ȃ それはとても若かったのだが ȃ 数多くの医者たちに診せた。だが医術が敗北し、医者たちは断念し、この子は死ぬだろうとはっきり云ったのだが、夫人はもっと有用な希望を捨てることなく、あのシュネムの女に倣って〔2Kgs. 4:22〕、騾馬たちに荷車を装着した。そしてこれに自分と幼児を乗せ、あの神的な人を訪ね、歎き、自然の受苦を示して、救いを嘆願した。すると彼は、幼児を両手で受け取り、犠牲壇の基部に近づいて横たえると、うつむいて、諸々の魂と身体の医師に懇願した。そして願いがかなうと、元気になった息子を母親に返した。これはわたしが、この驚異を目撃した当人からと、救いを受けた子どもから聞いたことである。

14.4.1
 また、噂では、あの村の主人もやって来たことがあるという。それはレートイオス〔という人物〕で、アンティオケイア人たちの評議会の第一位を占めていたが、不敬の闇に憑かれた人で、必要以上に苛酷に百姓たちから収穫物を取り立てていたので、あの神的な人が、人間愛を唱導し、忠告し、憐れみと慈悲に関する言葉を説いたが、相手は無慈悲のままに留まっていたが、頑固さの害を経験によって知ったという。つまり、出かけなければならないことがあり、一軛の準備も整い、席について、馭者に騾馬たちを駆り立てるよう命じたとき、それら〔騾馬たち〕は強いられて轅を引っ張ろうと焦って全力で引っ張ったが、車輪は、鉄と鉛で接着されたものそっくりになった。そこで、大勢の百姓らも梃子で動かせようとしたが、それ以上はどうにもならなかったとき、レートイオスにとても好意をいだいている連中の一人で、傍に腰掛けていたのが、その原因をほのめかして、聖なる老人の呪いのかけかたを言い、その人を好意ある人にするのが適切だと〔言った〕。まさにそういう次第で、一軛〔の荷台〕から跳び降り、唾棄してきた相手嘆願し、足もとにひれ伏し、汚い襤褸服にすがって、怒りをやわらげるよう懇願したのであった。そこで相手は、その嘆願を受け容れ、それを主に捧げたうえで、車輪の目に見えぬ緊縛を解き、乗り物がいつものとおりに運行するようしつらえたのである。

14.5.1
 あの神的な頭〔人物〕については、他にもこれに類したことが数多く語られている。しかし、これらからもわかるのは、町や村の中で暮らすことが、哲学することをあらかじめ選択する者たちを損ねることは決してないということである。なぜなら、この人や、この人のように神への奉仕(qerapeiva)の思案者たちは、多衆の真ん中にもどっている人たちでさえも、諸徳の極致そのものに到達することができるということを示したからである。この人たちの祈りに助けられて、わたしが〔その山頂の〕せめては麓に登る近道となりたいものだ。


15."t".1
アケプシマース

15.1.1
 同じ時代に存命したのがアケプシマース[1]で、その令名は東方じゅうに行き渡った。この人は、僧坊に自分自身を閉じこめて、60年間、見ることも発声することもなく、自分自身に沈潜し、神を観想しつづけ、そこから〔旧約聖書の〕言う預言どおりに慰み(yucagwgiva)を受けていた。〔その預言とは〕「主を喜びとせよ、さすれば、汝の心の求めるものを汝に与えたまわん」〔Ps. 37:4〕。そして、ひとつの小さな孔を通して手を延ばして、運ばれてくる食糧を受け取っていた。しかしその孔は、見ることを望む人たちに直面しないために、真っ直ぐに貫通して掘られていずに、斜めに、曲がりくねってこしらえられていた。また彼に運ばれる食糧は、水に浸したレンズ豆であった。

15.2.1
 週に一度は、夜間に出てきて、近くにある泉から充分な水を汲み上げた。そしてあるとき、ある羊飼いが遠くで羊を放牧していて、暗かったので、動くものを見て狼だと思い — 二つ折りになって、多くの鉄を重りにつけて歩いていたからだが—、石を投げつけようと投石具を振りまわした。ところが、手はいつまでたっても動かず、石を放つことができないまま、とうとうその神的な人は水を汲んで帰ったので、彼は無知を感知し、夜が明けてから、徳の思案所に行き、起こったことを説明し、容赦を請い、過ちの許しを得た。声が発せられるのを聞いたのではなく、手の動きで好意がわかったのだが。

15.3.1
 また、他のある人は、性悪な好奇心をいだいて、彼がいつも何をしているのか知ることを渇望し、塀沿いに植えられたプラタノスに登ることを敢行した。しかるに、たちまちこの敢行の果実を摘み取ったのである。というのは、頭のてっぺんから足に至るまで半身不随となり、罪を訴えて嘆願者となったのである。すると相手は、プラタノスの伐採によって健康となるだろうとあらかじめ告げた。それは、別の者も同じことをしでかして同じ目に遭わないために、すぐにその樹を伐り倒すことを命じたのであった。すると、樹の伐採につれて、罰からの解放も起こった。この神々しい人が発揮したのはこれほどの堅忍であり、審判者から受け取ったのはこれほどの恩寵であった。

15.4.1
 さて、この世から旅立たんとするとき、50日後に生の終わりを受け容れると、あらかじめ示した。そして、面談を望む全員を迎え入れた。そこで、教会の上座もやって来て、彼が長老の軛紐に就くことを懇望した。「わたしは存じております」と〔上座は〕言う、「おお、師父よ、御身の哲学の高さも、わたしの貧しさの過度も。しかし、司祭職の務めを信任されて、按手式を挙行するのは、後者によってであって、前者によってではありません。されば」と彼は謂った、「聖職の賜物を受けてください、わたしの右手が援助し、全聖なる精霊の恩寵がこれを調達するのですから」。これに対して、彼はこう謂ったと言われている。「わずかな日数が経てば、ここから旅立とうとしているのだから、それについて喧嘩する気はない。というのは、長らく生きようとしているのなら、その重りと、聖職の恐るべき重荷を徹底的に避けただろう。委託の執務審査を恐れるからだ。だが、ここにあるものらを残して出て行くまで長くないのだから、命じられたことは喜んで受けよう」。そういう次第で、すぐに、何の導きもなく、片や膝を屈して恩寵を待ち受け、片や手を当てて聖霊を手伝ったのである[2]。

15.5.1
 そして、少しの間、祭司職に就いて生きながらえたのち、生から生を変え、わずらい多きそれの代わりに、不老、無痛のそれを得たのであった。すると万人は、その身体を奪うことを望み、あの人のもともとの村に運ぶことをあらかじめ選んだが、あるひとが聖人の誓いを告げて、争いを解消した。つまり、彼はあの土地での埋葬にこれを渡すよう誓ったと謂ったのである。

15.6.1
 そういうふうに、諸天の市民たちは、死後の質素さをも心がけた。そして、存命中、尊大な念をいだくことには決してたえられず、命終してのちも、人々からの賞讃を引き寄せることもなく、すべての愛情を花婿に捧げた。同軛者だけから愛されることも称讃されることも熱心になり、他の人たちからの祝福は軽蔑する慎み深い女たちのごとくに。これが故に、花婿は彼らをば、たとえ彼らが望まなくても、名高い者として宣明し、人々の間における豊かな令名に与らせたのである。というのは、誰かが神的なことを探究して天的なことを乞い求めるたびに、それらとともに他にも数々のことを付け加えたもうのである、要求の何倍もを授けたうえで。これこそ立法した際に言われたことである。「神の王国を求めよ、さすれば、彼の義と自余の一切を汝らに付け加えられるであろう」〔Mt. 6:33〕。さらにまた、「父、母、兄弟、女たち、子どもたちを、わたしと福音のために捨てる者は、この世においても百倍を受け取り、来たるべき世においても永遠の命を受け継ぐであろう」〔Mt. 19:29〕。これらのことを述べもし、実行もしたのである。

15.6.20
 わたしたちとしては、言葉においても行動においても教育され、この人たちの祈りによって目標めざして踏みとどまり、われらが主イエースゥスのクリストスにおける天上へ召されるという褒美を求めて、追求できますように〔Phil. 3:14〕。


16."t".1
マローン

16.1.
 彼の次に、マローンを思い起こそう。というのも、この人は聖者たちの神的な合唱舞踏隊を飾り立てた。つまり、野外の生活を歓迎し、以前は不敬な者たちによって尊重されていたある山頂を占領した。そしてそこにあったダイモーンたちの聖域を神に奉納し、そこで生活し、小さな天幕を張ったのである。短い期間これを用いて。通常の難業をしたばかりでなく、別なのも考案したのである。哲学の富を集めて。

16.2.
 競技役人は、難業によって恩寵を測るものである。すなわち、そうやって気前のよい方は、癒しの賜物をこの人にたっぷりと贈り、その結果、この人の名声は到る処に駆け抜け、あらゆる所からあらゆる人々を惹きつけ、噂の真実が経験によって教えることになったのである。というのは、熱病も祝福の露によって消され、震えも止まり、ダイモーンたちも逃げだし、あらゆる種類の多彩な病状も、一服の薬によって療治された。というのは、医師たちの子どもたちは、おのおのの病状に相応する薬をあてがうが、聖者たちの祈りは、あらゆる病状に共通の解毒剤だらかである。

16.3.1.
 また、身体的な病を治したばかりではなく、魂たちにふさわしい手当てをも施した。この人の貪欲を、あの人の怒りをいやし、この人には慎みに関する教えをあてがい、その人には義の課業を課し、あの人の放縦を懲らしめ、この人を怠惰から目覚めさせて。
 この修養を用いて、哲学の数多くの植物を芽生えさせ、現在、キュッロス地方に栄える楽園を神のために植えつけたのは彼であった。この人の植えつけの労作は、大イアコーボスである。この人にあの預言者の声を引くのは当然である、「義人はナツメヤシのように花咲く。レバノンの糸杉のように大きくなる」〔Ps. 92:12〕。他の人たち皆についても、神助によって現れるところを個別に思い起こそう。

16.4.1.
 そういうふうに、神的な修養のはからいによって、魂たちも身体たちもともに手当てしたのち、短い病に罹り、そのために自然の脆弱さと選択の男らしさとをわれわれは学んだ。しかし本人はこの生から出離し、その身体をめぐって隣人たちに激しい争いが起こった。そして、隣村の中で人口稠密なある村が、全員で押しかけ、他の人たちを追い散らし、3倍焦がれたあの宝を奪い、最大の聖所を建てて、今日に至るもなおそこから益を収穫している。その勝利を公費の祝祭で表彰して。しかしわれわれは、離れていても、その祝福を収穫する。というのは、墓はなくとも、記憶でわれわれには満足だからである。


17"t".1
アブラアメース〔アブラハム〕

17.1.1
 驚異の人アブラアメースの記憶を、彼が独身生活の後、主教の上座を輝かせたという口実を適用して省略するのも、透明ではない。なぜなら、まさしくその故にこそ、当然ながら、はるかに記憶にあたいする人物となったのだからである。つまり、暮らし方を変えることを強いられた際、生を変えたのではなく、修道の患難をともなったまま降りるとともに、同時に修道の労苦と主祭職の配慮とに同時に囲まれながら、生の走路を完走したのである。

17.2.1
 さらにこの人物も、キュッロス地方の果実であった。というのは、子作りされたのも育てられたのもここで、行者の徳の富を積んだからである。つまり、交際者たちが言うには、彼は、不眠、立っていること、断食によってあまりに過酷に身体を征服したあまり、長い間動けないまま、全然歩くことができなかった、という。

 しかし神的配慮により、その病から解放されると、神的恩寵の代わりに、敬虔の危険をおかすことを望み、レバノンを訪れ、ある最大の村が不敬虔の闇に憑かれていると聞き知ったからである。そして、交易商人の仮面に修道者の顔を隠し、あたかも胡桃を購入せんとするかのように — その村はとくにそれを産していたからだが —、知己とともに袋を運び込み、住み家を賃貸すると、わずかな金銭を所有者たちに払って、3、4日はおとなしくしていた。次いで、適度な声を用いて、神的奉仕に少しずつ触れた。しかし、詩篇詠唱に聴き入っているとき、伝令使が叫び、全員を呼び集め、男たちも子どもたちも女たちも集結させ、扉を外から塞ぎ、上方の屋根から、おびただしい泥を運び集めて投げ落とした。しかし、窒息させられ、生き埋めにされながら、何をするでもなく、言おうとするでもなく、ただ祈りを神に捧げているのを目撃し、より年輩の者たちが制止したとき、彼らは狂気から覚めた。次いで扉を開け、泥の中から引き上げ、ただちに立ち去るよう命じた。

17.3.1
 しかし、まさにこの時に、執達吏たちがやって来て、税金を払うよう強制した。そして或る者たちを捕縛し、或る者たちを虐待した。しかし、あの神的な人は、自分たちに対して加えられたあのことを何ひとつ思い出すことなく、十字架に釘付けにされながら、これをしでかした者たちのことを気遣った主を真似て、あの執達吏たちに執行を穏便にするよう嘆願した。そして、彼らが保証人たちをも要求したので、召喚をすすんで自分に引き受け、百金を数日のうちに与えると約束した。すると、あの恐るべき行為を働いた連中は、この人物の人間愛になおのこと驚嘆し、敢行されたことに対する宥恕を請う一方、自分たちの保護者(prostavthV)となってくれるよう哀願した。というのは、村は主人さえ持っていなかった。それで、自分たちが農夫でもあり主人でもあったのだ。そこで彼は、百金をば、町 — それはエミサであった — に赴き、幾人かの知人を見つけて借金をした。次いで、所定の日に約束を果たした。

17.4.1
 彼のこの真面目さを見て、彼らはますます彼に哀願をよせた。そこで、教会を建てることを彼らが公約するなら、それをしようと彼が約束したので、すぐに手がけるよう嘆願し、彼らは浄福の人を連れまわった、ふさわしい場所を指示するためである。そうして、或る者はこちらの場所を、或る者はあちらの場所を称讃した。そこで、よりよい場所を選定し、基礎を打ちこみ、少しして屋根を載せ、建物が仕上がると、主教を示すよう彼はいいつけた。しかし、他の者を選ぶ気はないと彼らが言い、彼に、師夫にも牧師にもなるよう嘆願したので、もちろん聖職の恩寵を受け容れた。そうして、3年間、彼らといっしょに交わり、神事へと美しく道案内したのち、仲間の別の人を自分の代わりに相談に乗ることを調え、再び修道の住まいに帰った。

17.5.1
 しかし、あの人のことをすべて話して、話を長くしないために、彼らの間で輝かせたのち、カッライの上座を受けた。しかしこの都市は、不信心(dussebeiva)の酩酊にくるまれ、ダイモーンたちの狂乱にみずからを引き渡していた。しかし、このひとの耕作にあたいすると認められ、この人の教育の火を受け容れ、それまでの茨からの自由にとどまり、今は聖霊の平坦地に穂がなびき、実った穂の耳の束を神に捧げる〔都市〕となっている。

17.5.10
 しかし、苦労なしに神的な人がこれを耕地に仕上げたのではない。それどころか、無量の労苦をはらい、身体を治療する人たちの術知を模倣して、ある部分は温湿布で甘やかし、ある部分は劇薬で引き絞り、時には切ったり灼いたりして、この健康をつくりあげたのである。ただし、教育と他の世話には、生の輝きも協力した。というのは、それらに照らされて、彼らは言われていることに傾聴もし、為されていることを喜んで受け容れもしたからである。

17.6.1
 実際、上座の全期間、彼にとってパンは過剰であり、水は過剰であり、寝椅子は不用であったが、火の使用は過剰であった。というのは、夜通し、詩篇40編を交唱し、その間に行われる礼拝の度合いを彼は二倍に満たした。そして夜の残りは椅子に座り、ほんの少し休むことを目蓋に許したのである。もちろん、「人はパンのみにて生きるのではない」ということは、立法者モーウセースが謂い〔Deut. 8:3〕、主が悪魔の誘惑を退けたとき、このことばを引用された〔Cf. Mt. 4:4〕。しかし、水がなくても生きてゆくことは可能事だとは、神的書のどこにもわれわれは教育されてこなかった。というのも、あんなに偉大なエーリアスでさえ、最初に奔流から満たしたのはこの用であり、さらにその次に、ザレパトの寡婦に近づいて、先ず水を自分に持って来てくれるよう指図し、次いで同様にパンを所望したのである〔Cf. 1Kgs. 17:6-11〕。しかるにこの驚異の人は、主教職にある期間、パンにも、豆類にも、火にかけた野菜類にも、水にさえ、こういった事柄において恐るべき人々だと思われている人たちの間で、その有用さによって四元素の第一と見なされているのにである。しかしながら、チシャやキクジシャやオランダミツバや、それらに類したかぎりのものらを、食用にも飲用にもした、技術をふんだんに開発して、パンにしたりおかずにしたりして。果物の季節には、それが用を満たした。またこれらに与るのは晩祷の後であった。

17.7.1
 だが、このような労苦で身体をすり減らしながら、他の人たちに飽くなき心遣いを捧げた。例えば、来訪した客人たちに、藁布団もしつらえられ、パンもてらてらした選りぬきのが供され、葡萄酒も花と薫り、魚も野菜も、その他それらと組み合わさるかぎりのものらが〔供された〕。正午には彼自身も饗応される人たちに陪席し、献立の分け前を各人に供し、全員に酒盃を与え、飲むよう勧め、あの同名の方 — わたしは族長のことを謂っているのだが — を真似て、客人たちに給仕はしても、一緒に食することはしなかったのである〔Cf. Gen. 18:8〕。

17.8.1
 また、仲違いした者たちの裁きで一日を過ごし、或る者たちはお互いに和解するよう説得し、穏やかな教えに聴従しない者たちは強制した。そこで、不正者たちにして向こう見ずさでもって正義を打ち負かして立ち去る者は一人もなかった。なぜなら、不正された者には、義しい人の分け前を常に増し加えて、敗北なき者、不正せんとする者に勝った者として示したからである。彼は、液汁の過剰を常に妨げ、物的資源に均衡を工夫する善き医師にも似ていた。

17.9.1
 この人物に面会することを王〔皇帝〕でさえ熱望した — 評判は、美しいものであれ劣悪なものであれ、すべて有翼で、易々と漏れるからである — そこで自分のもとに呼び寄せ、来着すると歓迎し、あの粗野な山羊の毛の服を、みずからの紫の式服より高価だと見なした。王妃たちの合唱隊も手にも膝にも触れた。そうして、この人が知りもしないギリシア語で、耳を貸すよう嘆願した。

17.10.1
 このように、王たちにとってもどんな人間にとっても、哲学は畏敬にあたいするものである。そして、これの恋慕者たちや信奉者たちが命終しても、より大きな好評に与る。このことも、多くのところから学べるのであって、とりわけ、この神々しい人に関することからはそうである。というのは、彼が命終し、これを王が聞き知ったとき、聖なる埋葬所のいずれかに彼を安置することを望んだ。しかし、羊飼いの身体は羊の群に引き渡されるのが神法にかなうと悟って、自身が先頭に立って葬列に付き添い、王妃たちの合唱隊も、執政官たちの全員も、支配される者たちも、将軍たちも私人たちも、後に付き随った。同じ真剣さでもって、アンティオコスの都市も彼を迎え入れ、この〔都市〕に次いで、あの大河に達するまでの諸都市も〔迎え入れた〕。エウプラテスの堤防沿いには、町衆が押しかけ、外国人たちや在所の者たちの全員や、境界を接する者たちも押しかけ、祝福を享受することを熱望した。多数の警士(rabdofovroV)たちが棺に付き添い、遺体から衣服を剥ぎ取ろうと試みる連中や、そこから襤褸を得ようと狙っている連中を、撲るぞと威嚇した。また、或る者たちは詩篇を詠唱し、或る者たちは悲歌を歌うのを聞くことができた。実際、ある女は哀哭しながら、保護者と呼ばわり、ある女は養い親と、ある女は牧者にして教師と〔呼ばわった〕。ある男は涙ながらに父として名を呼び、ある男は援助者とか世話人として名を呼んだ。このような祝福と悲嘆とともに、あの聖潔にして神聖な身体を墓に引き渡したのであった。

17.11.1
 わたしとしては、彼が暮らし方を変化させたけれど、それとともに生を変移させることなく、上座に許されている過ごし方を歓愛することもなく、むしろ修道的労苦を増加させたことに驚嘆したので、労苦者たちの歴史の中に彼を登録し、彼によって歓愛された講中(summoriva)からも分離しなかったのは、ここからの祝福をも狙ってのことであった。


18."t".1エウセビオス

18.1.1
 上述の聖者たちに、大エウセビオスをも付け加えよう。彼は、多くない以前に亡くなったが、非常な長寿を保ち、寿命に等しいだけの労苦を耐え忍び、労苦に等しいだけの徳を積み、そこから幾層倍もの名声を運び去った。というのは、競技審判者は、名誉愛から褒美の点で競技相手を凌駕するからである。

 さて、この人は、最初、みずからの世話を他の人たちに委ね、その人たちが導くところに従った。というのは、当のその人たちも神的であり、徳の競技者にして修行者だったからである。しかし、この人たちといっしょに時を過ごし、善くかつ美しく哲学の知識を引き継いだので、隠修生活を迎えた。そして山のとある断崖を占領し──ここには最大の村が隣接していた。この村の名前はアシカ──囲い壁だけを用い、石は泥で接合することもなく、野外の人として難行し、残りの生涯を終えたのである。毛皮の着物に身を包み、水に浸けたヒヨコ豆とソラ豆を食物として。そして、時には干し無花果を摂取して、そうやって何とかして、身体の衰弱をやり過ごしたのである。さらに高齢になって、歯の大部分が脱けても、食べ物も住み家も変えることがなかった。いやそれどころか、冬には凍え、夏には焼きつけられて、大気の反対の状態を堅忍して耐え、顔は萎縮し、身体の四肢はすべてミイラ状になった。こうして、数多くの労苦によって身体を消耗しつくしたあまり、帯も腰にとどまらず、下へと抜け落ちた。というのは、何も妨げるものがなかったからである。すなわち、尻も股関節も衰えて、下方への容易な通路を帯にもたらしたからである。とにもかくにも、外衣に帯を縫いつけていたのである。そうやってその〔帯の〕位置を考案して。

18.2.1
 彼を完全に疲れ果てさせたのは、多衆との交わりであった。というのは、神的な観想を持続的に幻視し、そこから精神を曳くことを拒んだからである。とはいえ、やはり、そのいうふうに熱き恋情を持っても、少数の知己には、扉を開き、中に入ることを許した。そして、神的なお告げから養分をもたらすと、再び引き下がって、扉を泥で封じるよう命じた。そして少数の人たちとの面会をも避けるのがよりよいと考えて、入口を完全に壁で隔てた。その扉には最大の石を嵌めこんで。ただし、ちょっとした穴を通してなじんだ人たちの少数とは対話したが、会うことはしなかった。そういうふうに工夫されていたからである。ただし、そこからあのわずかな食べ物は受け入れたのである。さらにまた、あらゆる人たちとの対話は禁じたが、わたしに対してだけは、あの甘く、神に愛された声にあたいするとみなしたのであった。そして〔わたしが〕立ち去ろうとすると、たいていひきとめた。天上の事柄について対話して。

18.3.1
 多衆が、彼のところにやってきて、祝福の賜物を願ったけれど、その騒ぎをひどく嫌悪し、老齢を心にかけることもなく、身にふりかかる弱さを考えることもなく、囲い壁を乗りこえた──非常に壮健な者たちにとってさえ登りやすくはないのに──、そして近くの修行者たちの講中を占領し、壁の片隅に再び小さな囲い壁を用いて、馴染みの労苦でもって格闘したのである。

18.4.1
 この畜群の導き手、あらゆる徳に満たされた人が謂うには、彼は干し無花果七個を用いて、聖なる断食の7週間をすごしたという。しかもこの格闘を、生きた90年以上にわたって格闘したという。名状しがたい病弱さにやつれはてながら。いや、病弱さを凌駕していたのは、熱意であり、神的な憧憬であって、万事が安楽さと容易さを示したのであった。この人もそのような汗を注ぎかけ、走路の目標をつかんだのである。協議審判者を見つつ、花冠に焦がれつつ。

 わたしとしては、彼がまだ存命中に享受したその執り成しに与ることを願う。というのは、彼が生きていることを、そして神との清浄なる直言を有していることを信じるからである。


19."t".1サラマネース

19.1.1
 驚嘆すべき人サラマネースの人生を後世の人たちに周知させることなく、〔その徳を〕忘却のうちに埋没するのを見過ごすとしたら、不正だと考えて、要点を述べることにしよう。

 エウプラトス川の西方、当の河岸に、カペルサナと呼ばれるある村がある。この人はこの〔村〕から出て、平静の人生を修行し、対岸の村に小さな修屋を見つけ、自身を閉じこめた。扉も窓もない〔その修屋に〕。そして年に一度、地を掘って、1年間の食べ物を受け取った。人間たちの誰一人とも決して対話することなく。

19.2.1
 この村が所属する町の大祭司も、この人の徳を知って、これに祭司職という贈り物を贈りたいと思ってやって来た。そして、修屋の一部分を掘り抜いて中に入り、手を当てて、祝福を授け、彼に向かって長々と語りかけ、将来する恩寵を告げ知らせようとした。ところが彼は一声も聞くことなく、穴をもとどおり直しておくようにと命じて出て行ってしまった。

19.3.1
 また他の時には、彼が出てきたあの村の者たちが、夜間、川の渡し場を渡って、修屋を掘り抜き、彼をつかまえて、抵抗するでもなく叫ぶでもないのを、生まれ故郷である自分たちの村に運び去り、同じような修屋を建てて、そのまま閉じこめた。彼の方は相変わらず平静を保った。誰とも何も対話せず。しかし数日して、今度は、対岸の村の者たちが、夜間、再び押しかけてきて、修屋を掘り抜き、自分たちのところへ連れて行った。反対するでもなく、とどまろうとせがむでもなく、また逆に熱心に引き上げようとするでもない彼を。このように、生に対して自分自身を死体として、真理に生きてあの使徒の発言を響かせたのである。「わたしは、キリストと共に十字架にかけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。生きているのは、わたしの内なるキリストである。しかし、わたしが今、肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捧げられた神の御子の信によって、わたしは生きているのである」〔Gal. 2:20-21〕。

 この人もそういうふうであった。というのは、以上のことも、生涯のあらゆる選択を満たすに充分だからである。わたしとしては、そこから得られる祝福をも収穫して、他の〔聖者〕たちの叙述に移ろうとおもう。


20."t".1
マリス

20.1.1
 わたしたちのもとでホメーロスの村と呼ばれる村がある。この村の傍に、小さな修屋を建てて、神々しきマリスは、37年間、ここに隠遁し続けた。傍の山からは、おびただしい湿気に見舞われた。冬の季節には、水の流れのようなものさえほとばしった。ここから身体にどれほどの害がふりかかるか、修道者たちも土地の人たちも知っていた。というのも、百姓たちにとって、ここから生じる状態は明らかだったからである。それにでもやはり、こういったことも、修屋を捨てるようあの聖なる頭を説き伏せることなく、走路を走り終えるまで堅忍し続けたのであった。

20.2.1
 さらにそれ以前の人生も、彼は徳の労苦でもって遍歴し、かくして身体にも魂にも純潔(aJgneiva)をとどめた。それも、彼は自分でわたしにはっきりと打ち明けたのだが、自分の身体は堕落していない、母親の子宮から出てきたままのようでさえあると教え、しかも、若いときには、殉教者たちの数多くの祝祭を実行し、よい声で民衆を魅了したにもかかわらずである。すなわち、弾奏してたいていの時間を過ごし、身体の若々しい美しさで光り輝いていたにもかかわらずである。そうであるにもかかわらず、身体の美も、声の光輝も、多衆との交わりも、魂の美しさを汚すことなく、隠遁者たちに近づいて生き、みずからの魂の世話をしたのである。彼は隠遁の労苦によって徳を増大させたのである。

20.3.1
 わたしはこの人との交わりを享受した。すなわち、扉を開けるようわたしに命じ、そして入っていった〔わたし〕を抱擁し、哲学について長話をしたのである。単純さの点では、この人もひときわ輝き、多彩な性格を徹底的に嫌悪していた。貧しさをば、きわめつけの豊かさにまして愛した。90年間生きながらえたが、山羊の毛でこしらえた外衣を用いていた。パンとわずかな塩が、彼の食べ物の用を満たした。

20.4.1
 久しい期間、霊的・神秘的な供儀がささげられるのを見ることを渇望し、神的な賜物の寄進がそこで行われることを願った。わたしは喜んで聴従し、聖具が運ばれるよう言いつけ──というのは、場所は遠くはなかったから──、助祭の手を祭壇の代わりに用いて、神秘的、神的、救済的供儀を挙行した。彼はまったき霊的な快楽に包まれ、自分は天を見たと応え、いまだかつてこれほどの上機嫌を享受したことがないと主張した。

 わたしとしては、彼にあまりに熱く愛されたので、彼の命終した後でもなお誉めたたえないとしたら、不正することになろうし、この最善の哲学を模倣に供しないとしたら、他の人たちにも不正することになろうと思った。だから、今も、彼からの援助に与るよう懇願して、この話を終えようと思う。

forward.gifシリア修道者史(5/6)