title.gifBarbaroi!
back.gifシリア修道者史(5/6)


原始キリスト教世界

シリア修道者史 6






あとがき


31."t".1
神的な歓愛について

31.1.1
 いったい、徳の競技者たちがどれほど偉大であり、いかほどの数の人たちが、どのような花冠によって際立ったのか、彼らに関してわたしたちによって著された諸々の話がはっきり教えている。たとえ彼らの褒賞を何ひとず含まなかったとしても、全生涯の性格を少しでも示せば足りる。というのも、〔試金〕石は、あてがわれた黄金をすべて使い果たすことなく、ほんのわずかなのにこすりつけられれば、正貨か偽金かを示す。同様にまた弓射る人をも、放たれたわずかな矢弾から、ひとは正確に知悉するのである、最善の弓遣いで、的に当てるか、31.1.10 この術知に未熟で、的を外すかを。同様に、その他の術知者たち、一々言わないけれど、競技者たち、走者たち、悲劇の俳優たち、操舵者たち、船大工たち、医者たち、農夫たち、その他、一般的に何らかの術知にたずさわるかぎりの人たちをも、判別することが可能なのである。すなわち、有識者たちの術知を明示し、名目だけの連中の無学を吟味するには、わずかな経験だけで充分なのである。それゆえ、わたしが謂ったとおり、各人によって達成された事柄のわずかに著されただけでも、人生の目標を教えるに足るのである。31.1.20 そこで、目下の目的についたわれわれにふさわしいのは、どこから出発してこの生き方を歓迎したのか、そしてどのような思量を発揮して、哲学の頂きそのものに達したのかを、質問し、探究し、精確に学知することである。というのは、身体の強さを確信してではないからである、人間的自然を超えた事柄を恋し、それに横たわる限界を踏み越え、敬虔の闘技者たちに取りつけられた堀を跳び越えたのは、経験がはっきりした教師であったからである。

31.2.1
 この哲学に無縁な者にして、その堅忍を見せつけた者は、いまだかつて誰一人いない。たとえ、羊飼いたちが雪に降られるにしても、いつもというわけではない。というのは、洞穴も利用するし、家にも帰るし、さらに履き物で足を隠し、31.2.5 もっと暖かい衣服で身体の他の部分を覆う。日に2度も3度も、おそらくは4度さえも、食事を享受する。さらには肉食と飲酒が、どんな炉辺よりもよく身体を温める。というのは、このような養分が変化を受け、そうして 31.2.10 一種の導管によってのように分別され、肝臓に達し、血液への交替を待ち、心臓へさがるには、空虚な血管を通る。そして、温められたうえで、そこから、一種の水路のように分散した血管を、身体のあらゆる部分を駈けめぐる。それが到着した〔部分〕は、湿潤となるばかりか、火のように熱くもなり、柔らかい衣よりもよく身体を温める。なぜなら、一部の人々が推測するのと違って、内衣や打掛や肩掛けが身体に熱を提供するのではない。あるいは、それら〔衣裳〕が接近した材木や石を温めたからではない31.2.20。いや、材木や石が長衣よりも温かくなるのを観察した者はいまだかつて誰一人としていない。だから、身体にこれらが熱をもたらすことなどなく、むしろこれらは身体の熱を保つのである。そうして、防ぐのは冷たい大気の攻撃。他方、身体から出て行く蒸気は受け容れ、これによって温められ、より温かくなったのを身体に投げつける。経験こそ証人である。というのは、われわれは冷たい寝椅子に横たわっているとき、しばしば、少し前まで冷たかった寝わらを、身体との交わりによって温かくさせる。だから、養分はどんな長衣よりもより多く身体を温かくさせるのである。そこで、31.2.30 飽きるまでこれに与った者たちは、寒冷の攻撃に対する充分な防柵を有するのである。というのは、これによって身体を完全武装し、1年のこのような季節と対決すべき備えるからである。しかし、毎日の食べ物も飲み物も享受することなく、享受するときには、満腹を待たず、渇望の絶頂に轡をはめ、身体を温かくすることのできるものらに与ることなく、言葉なき動物どものように草を食したり、水に浸した豆のみを用いる人たちが、そのような養分からいかなる熱を引き出すことができたのであろうか。そこからどれほどの量の、31.2.40 あるいはどのような質の血の流れが生じ得たのであろうか。

31.3.1
 そうすると、他の人たちの〔生活態度〕は、この人たちの生活態度とこれっぽっちも似ていない。なぜなら、この人たちとあの人たちとは、着物も同じではない。というのは、〔この人たちの〕それ〔着物〕はこのうえなくごわごわしていて、温めることは少しもできないからである。養分も同等ではなく、対照的なまでに正反対である。なぜなら、羊飼いや、そういった他の人たちにとっては、あらゆる機会が養分の好機である。というのは、欲求にしたがって時機を区切り、朝から飢えが攻撃しようとも、たちまち養分を供給する。それも、何でも手に入るものを供給する。というのは、これは食べるが、あれは決して〔食べ〕ないというふうに制限するのではなく、何でも 31.3.10 欲するものを恐れなく享受する。ここからは、日々も好機も養分の種類も程度も、またその満腹も除外されている。それゆえ、われわれを非難する人々の誰一人をしても、農夫たち、羊飼いたち、、船乗りたちを真ん中に持ち出して、これらの最大の競技者を過小評価しようとさせてはならない。なぜなら、農夫は、昼間は辛労するが、夜は家で癒される、連れ合いが彼にあらゆる世話(qerapeiva)を供給するからである。また羊飼いも同様に、われわれが前述したあれらのことをすべてに与る。さらに船乗りは、身体に光線を受けはするが、しかし水からの癒やし 31.3.20 を身体にあてがう。なぜなら、好きなだけ泳ぎ、光線の炎熱に見合いだけの水の冷たさをあてがうからである。しかるにくだんの人たちは、癒やしは何ひとつ、誰からも享受することがない。なぜなら、男たちにさまざまな慰めを工夫してくれる女たちが同居しないからである。また、光線がより熱く攻撃するとき、水による冷たさ導入をあてがうこともない。冬の季節が寒気に養分を対抗布陣することもなく、夜の休息を、一種の薬剤のように、昼間に働いた労苦にあてがうこともない。というのも、これ〔夜〕のそれ〔労苦〕は、昼間生じる発汗よりも大きく、31.3.30 かつ、多いからである。というのは、これ〔夜〕に、眠りとの格闘をも受け容れ、あの甘い敗北をも甘受せず、もっとも甘い僭主制を凌ぎ、徹夜の朗誦を主にささげつづけるのだからである。されば、この人たちの哲学に無縁な者たちにして、この人たちの堅忍を見せつけたことの或る者は誰もいないのである。

31.4.1
 他の人間どものうちに、このような労苦を固持できる者が一人としていないのなら、明らかに、神に関する恋情が自然の限界を超えているのだ。そうして上階からの炬火に燃やされながら、寒気の攻撃を悦ばしくおもい、そこからの露によって、光線の炎熱を鎮めるのである。これ〔神に関する恋情〕が彼らを養いもし、灌漑もし、まといもし、翼を与えもし、飛び方も教え、そうして天に飛翔することを備え、可能なかぎり恋されるものを見せつけ、31.4.10 幻視によって観想の渇望を燃えあがらせ、魅力を掻き立て、炎をもっと激しく燃え立たせる。というのは、あたかも、身体の恋者が、恋される者たちの観想から魅力に質料を供給し、あの牛虻をもっと難しいものに仕上げるように、同様に神的歓愛の針を受けた者たちは、あの神的にして純粋無雑な美しさを幻視し、歓愛よりも鋭い針をこしらえ、享受を渇望すればするほど、ますます満腹を味わうのである。なぜなら、身体の快楽には満足が付き随うが、神的な恋情は、満腹の法を 31.4.20 認めないからである。

31.5.1
 偉大な立法者モーゥセースがそうであった。彼はしばしば、人間に到達可能なかぎりで、神的観想に値する者とみなされ、しばしば浄福な声を享受し、40日間連続して暗黒の中にあって、神的な律法を受けながら、飽きなかったばかりか、もっと激しく、かつ、もっと熱く、欲望をいだいたのであった。なぜなら、あの恋情の酩酊によって一種の麻痺状態に陥り、魅力にあまりにバッコス神女のようになり、みずからの自然を知らず、見ることは神法に悖ることを見ることを 31.5.10 欲求した。同様に、主の何たるかを忘れ、魅力のみを思量する者のように、全体の神に向かって謂った、「ご覧ください、あなたはわたしに言われました、『そなたはわしに好意を示し、わしはそなたを誰にもまして知っておる』と。されば、もし実際にわたしがあなたの前に好意を見出すならば、ご自身をわたしにお現しください。あなたを覚知的にわたしが見るように」〔Ex 33:12-13〕。神的歓愛から彼はこれほどの酩酊に見舞われ、そしてこの酩酊は渇きを消すことはなく、もっと激しく煽りたてたのである。飲水の付け足しも、欲求の緩和にはならず、享受は衝動を増大させた。あたかも火のように、より多く栄養を摂れば摂るほど、ますます大きく活動を示す 31.5.20 — なぜなら、それ〔活動〕は質料の付け足しによって増大するのであって、鎮まるのではないから — そのように、神に関する歓愛は、神的なものらの観想によって燃えあがらせられ、そこからもっと激しく、かつ、もっと熱く活動を受け容れるのである。じつに、人がより多く神的な事柄で暇つぶしすればするほど、ますます歓愛の炎を燃えあがらせるのである。
 このことをわたしたちに教えたのも、偉大なモーゥセースひとりではなく、聖なる花嫁もそうである。これについて言っているのは、神々しいパウロスである。「わたしはあなたがたをひとりの男に婚約させた、聖なる処女として神に提供したのだ」〔2Co 11:2〕。彼女こそ、『雅歌』の中で 31.5.30 花婿に向かって叫んでいる女性である。「わたしに見せてください、あなたの顔を、そして、わたしにあなたの声を聞かせてください、あなたの声は心地よく、あなたの顔は綺麗なのですから」〔Sg 2:14〕。というのは、彼をめぐる言葉から彼女は恋情をいだいたのであるが、言葉に満足することなく、当の声を聞くことを渇望するのだ。そうして、彼の器量の話に 31.5.35 飛び立って、自分の観想を志し、述べられる祝福に魅力を合図する。「わたしに見せてください」と彼女は謂う、「あなたの顔を、そして、わたしにあなたの声を聞かせてください、あなたの声は心地よく、あなたの顔は綺麗なのですから」と。

31.6.1
 この女の結婚媒酌人でもあり花嫁付添人でも或る者は — わたしが謂っているのは神々しいパウロスのことである —、この美しさを恋する者であって、あの恋情的声を放つ。「何が神の歓愛からわれわれを引き離すのか? 患難(qli:yiV)か、困難(stenocwpiva)か、迫害(diwgmovV)か、飢えか、裸(gumnovthV)か、危険か、戦刀か。あたかも、『あなたのためにわれわれは一日中死に定められている。われわれはほふりの羊として数えられたのだ』と書いてあるとおりである」。次いで、堅忍の理由を説明する。「だがこれらすべてにおいて」と彼は謂う、「われわれはわれわれを愛したまう神によって、勝って余りある」〔Rom 8:35-37〕。31.6.10 というのは、われわれは何者であり、いかなる善きものらから追放されているか、そして、われわれが先に愛したのではなく、愛されたから愛し返したのだということを〔Cf. 1Jn 4:10, 19〕考察するからである。われわれは憎んでいても、愛してくださった、「敵であったときでさえ、和解させていただいた」〔Rom 5:10〕。和解を得ることを自分たちが嘆願したのではなく、ひとり子(monogenhvV)を使者(presbuvthV)として受け容れ。そして不正してきた者たちが、不正された方によって慰められて。かてて加えて、わたしたちに代わって十字架にかけられた方のこと、救済の激情、死の休息、われわれに与えられた甦りの希望を思量して。

31.7.1
 これらのことを、また、こういったことどもを考察して、わたしたちはわたしたちにふりかかる陰気な事どもに打ち勝ち、功労者たちの記憶を、身体の一時的な苦難に対比して、苦しみの攻撃に嬉々として堪えるのである。というのは、主に対する愛慕によって、人生の苦痛すべてを対比させて、あまりに軽いことをわれわれは見出した。わたしたちが悦ばしいもの、心にかなうと思われるものを、どんなに同じところに集めても、秤に掛けられると、神的な渇望は影よりも微弱、春の花々よりも滅びやすいことを示す。これらのことが、31.7.10 〔上の引用の中で〕述べられたことどもを通して、また、〔以下に引用して〕述べられんとすることどもを通して、彼がはっきりと含意していることである。「なぜならわたしは確信している」と彼は謂う、「死も生も、天使たちも支配力も、諸力も、今あるものも来たるべきものも、高いものも低いものも、ほかのいかなる被造物も、われらの主なるクリストスにおけるイエースゥスの神の愛からわれわれを引き離すことはできないだろう」〔Rom 8:38-39〕。なぜなら、上方に陰気な事どものみを置き、患難、困難、迫害、飢え、裸、危険、戦刀、つまり、暴力的な殺戮を対比したのだが、ここでは当然、悦ばしい事柄は痛苦に付け加え、31.7.20 死に生を、可考的な事柄は感覚的な事柄に、見られるものらには見えない力を、現に在るものらや通り過ぎるものらに、将来在るものらと留まっているものらを、かてて加えて、ゲヘナの深みや、王国の高みを〔付け加えた〕。さて、これらすべてを比較して、すべてが愛慕と隔たっているのを見出し、苦しみも喜ばしさも、ゲヘナでの懲罰よりも苦い歓愛の喪失を〔見出し〕、もしも可能ならば、それのない約束された諸天の王国よりも神的歓愛を伴う脅迫された懲罰を選ぶことを示し、渇望に酩酊しつつ、意のままにならぬ仕事を 31.7.30 探し求め、これを神的な愛慕に比較することを愛勝する。というのは、「高みも」と彼は謂う、「深みも、他の何らかの被造物も、われわれの主イエースゥスのクリストのにおける、神の歓愛からわれわれを引き離すことはできないのだから」。

31.8.1
 なぜなら、と彼は謂う、見えるもの、見えざるものもろともにすべての救い主にして創造者に対する愛慕を優先するばかりでなく、何か別の被造物がこれよりもより偉大でもあり、より美しくもあるものとして現れても、歓愛を変えるようわたしを説得することはなかろう。むしろ、それ〔歓愛〕なき喜ばしさを差し出すひとがいても、わたしは受け容れないだろう。それ〔歓愛〕によって陰気なことをもたらしても、わたしには恋しいものに見え、きわめて恋しく慕わしい。そうしてこれ〔歓愛〕ゆえの飢えは、わたしにとってどんな贅沢よりも悦ばしく、迫害は平和よりも快く、裸は紫衣や金糸の長衣よりも 31.8.10 優美であり、危険はどんな安全よりも甘く、強刹はどんな生よりも選ばれる。なぜなら、受難の原因は、わたしにとって魂の導きだからである。なぜなら、恋する者、恋される者もろともによってそれらの雪をわたしは受けるからである。「なぜなら、罪を知らなかった方〔キリスト〕を、〔神は〕われわれのために罪に定めた。われわれが彼にあって神の義となるためである」〔2Col 5:21〕。あのかたが、富裕であるのに、われわれのために物乞いとなった所以は、あの方の物乞いによってわれわれが富裕となるためである〔Cf. 2Co 8:9〕。また、「〔キリストは〕われらのためにみずから呪いとなって、われらを律法の呪いから贖い出してくださった」〔Gal 3:13〕。また、「みずからを低くし、死にいたるまで従順になられた、31.8.20 十字架の死にいたるまで」〔Phil 2:8〕。また、「われわれがまだ罪人であった時に、クリストスはわたしたちのために死んでくださった」〔Rom 5:8〕。これらのことを、また、こういったことどもを思量するに、わたしはこれらに関する歓愛なくして、諸天の王国を受け容れるとはできないであろう。いやしくもこの〔愛〕を持つ者が、懲らしめに留まるのが当然だとするなら、わたしはゲヘナにおける罰を逃れられないであろう。これは、他の箇所でもはっきりと教えている。「すなわち神の愛がわれわれをしっかりつかまえているので、次のことを判断できる。つまり、ひとりの者がすべてのもののために死んだ所以は、生きる者たちがもはや自分で生きるのではなく、その者のために死んで甦らされた方において生かされるためなのだ、と」〔2Col 5:14-15〕。だから、自分で生きるのではなく、自分たちのために死んで甦らされた方のおかげで31.8.30 生きる者たちは、彼のためにあらゆることを、為すことも蒙ることも喜んで我慢するのである。

31.9.1
 しかし、自然に偉大で困難な受難も、愛慕と比較すると、小さくて堪えやすいと彼は言う。「というのは、われわれの患難の」と彼は謂う、「かりそめの軽いのが、栄光の永遠の重みを漲り溢れるばかりにわれわれに得させてくれるのである」〔2Col 4:17〕。ついで、いったいどのように比較すべきかを教える。「われわれは見えるものらではなく、見えないものらを探究しているのであるから。見えるものらは一時的なものである。が、見えないものは永遠なのだ」〔2Col 4:17-18〕。なぜなら、対比させるのがふさわしいのは、と彼は謂う、現存するものらには来たるべきものらを、かりそめのものらには永遠なるものらを、患難には31.9.10 栄光を。なぜなら、前者が有するのは束の間だが、後者は永遠だからである。このため、前者は軽く、堪えやすいが、後者は高価で重い。ほかの箇所でも同様に叫ぶ、「弱さを、侮辱を、窮乏を、迫害を、隘路を、クリストスのために喜ぼう。弱いときに、31.9.20 わたしは力があるからだ」〔2Col 12:10〕。

31.10.1
 偉大なペトロスもこの愛慕に傷つき、将来の否認を学知しながら、忘れることを容認もせず、逃れて告白するよりは、従って否認することの方がよりよいと考えた〔Cf. Mt 26:34, 58〕。というのは、随行は恋慕の産出であって、大胆さの産出ではないということは、事実が証言しているからだ。というのは、否認の後も師を置き去りにすることに堪えられず、歴史が教えているとおり、苦く泣き、敗北と弱さを嘆いた。しかし、愛慕の縛めにとらわれて固執して。実際また、甦りの福音をも受けて、最初に墓に着いた〔Cf. Jn 20:6〕。さらにまた、ガリライアで漁をしているとき、岸辺に立って、話しかけてきたのが主その人であることを知ったが、海の背を渡る小舟のあまりの遅さに我慢ならなかった。で、有翼となって空を通ってできるかぎり早く岬に着くことを渇望した。しかし翼の自然を奪われていたので、空の代わりに水を、翼の代わりに両手を使った〔Cf. Jn 21:7〕。そして泳いで、歓愛される方をつかまえ、競走の懸賞、他のものらよりも優先する名誉を取得した。というのは、31.10.20 坐るよういいつけ、見つけられた食べ物を分配したとき、31.10.21 すぐに彼との対話を始め、どれほどの愛慕を持っているかを問いただしが、偉大なペトロスの恋情を他の人たちに隠して、 「シモーン・ペトロスよ」と彼は謂った、「あなたはわたしをこの者たちよりも愛するか」。そこで彼は彼を愛慕の証言に召喚した。というのは、「主よ」と彼は云った、「わたしがあなたを愛しているということは、ご存知のことです」〔Jn 21:15〕。— というのは、人間どもの魂の中に踏みこみ、精神の動きをはっきりと知り、人間的なことの何ひとつとしてあなたが気づかぬということはないのですから。「まことにあなたはすべてをご存知です、終わりの、初めも」〔Ps 139:4-5〕。31.10.30 これに主は付言なさった。「わが羊を牧せ」〔Jn 21:16〕。なぜなら、わたしは、と彼は謂う、必要としない。が、わが羊の世話は最大の善行であると考え、あのものらへの奉仕を自分自身へ受け容れるから。それゆえおまえは、おまえが享受している先慮に奴隷仲間を与らせ、彼が飼うように飼い、彼が牧するように牧し、おまえがわたしに負う恩寵を、あの者らを通して返済することがふさわしいのだ。

31.11.1
 このことをさらに二度、主人は質問し、偉大なペトロスは二度答え、二度羊飼いの按手を受けた。しかし三度目にも質問が寄せられたとき、浄福のペトロスは同じように大胆に、ためらいなく答えられず、恐れに満たされ、魂に胸騒ぎをおぼえ、票決に苦悶し、恐れた、主人は別の否認を予見なさっているのではないか、歓愛の言辞を嘲笑なさっているのではないかと猜疑したからである。というのは、理性は最初の〔言辞〕に走り帰り、最初にすでに何度も 31.11.10 死ぬまで師を見捨てることはないと約束し、雄鶏が鳴く前に三度否認するだろうと聞いた。そうして彼は、みずからの約束が果たされることはなく、主人の預言が確実となることを見出した。これらの記憶が彼を威嚇し、大胆に調和した答えを差し出させなかった。むしろ鋭く苦い棘を受けた。が、そうであるにもかかわらず、初めのように反対するのではなく、主の知に譲り、こう言いもしなかった。「たとえわたしがあなたとともに死なねばならぬようなことがあっても、わたしがあなたを否むようなことはありません」〔Mt 26:35〕。しかしながら、主その人は歓愛の自覚を持っていると主張し、全体の精確な知は、全体の創造者一人のみのもとにあると同意し。「というのは、主よ」と彼は謂った、「あなたはすべてをご存知です。あなたはすべてを知っておられます、わたしがあなたを愛しているということを、あなたはご存知です」〔Cf. Jn 21:17〕。というのは、わたしがあなたを愛しているということは、あなたはまさにご存知であり、まさに証言なさっています。さらにまた、わたしが愛に留まるかどうかも、あなたご自身がよりはっきりとご存知です。しかし、将来のことについてわたしは何も述べておらず、わたしの知らないことについて諍いもしません。経験によって主に反論できないことをわたしは知っています。あなたは真理の源、あなたは知の深淵、あなたの限定のうちに留まることを教えられてきました。

31.12.1
 彼のこの恐れを見て、主なる方は、さらにまた愛慕をも精確に識って、結末の予告でもってその恐怖を解き、歓愛に証言を与え、ペトロスの告白を確認し、否認の傷に告白の薬をもたらした〔Cf. Jn 21:18-19〕。というのは、わたしの思うに、これによって三倍ものこれ〔否認?〕を要求したのだ。傷と同数の薬をあてがうため、居合わせる弟子たちに歓愛の炎を赤裸々にするためである。それゆえ、最期の預言はペトロスをも魂を導き、その他の人たちをも、31.12.10 否認は知(gnwvmh)に属するのではなく、〔神の救いの〕計画(oijkonomiva)に属することを教えた。このことも、救主にしてわたしたちの主はほのめかして、彼に向かってこう述べたのであった、「シモーンよ、シモーンよ、サタナースがおまえたちを穀物のように篩い分けることを願い出ている。そこでわたしは、あなたのために、あなたの信仰が傾かないようにと祈ってあげた。そしてあなたはいつか立ち戻って、あなたの兄弟たちを強めてあげなさい」〔Lk 22:31-32〕。というのは、ちょうど、と彼は謂う、わたしがよろめくおまえを支えるように、おまえもおまえの兄弟たちの戦く者たちにとっての支えとなり、おまえが享受する扶けに与らしめよ。そうして、落ちこぼれた者たちを押し倒してはならない、むしろ危地に或る者たちを立ち上がらせよ。なぜなら、そのためにこそ、おまえが躓くことさえ 31.12.20 わたしは許すが、倒れたままにはさせず、おまえを通して、よろめいた者たちのために、立ち続けることを工夫するのだから。

31.13.1
 このように、よろめく世界を、偉大なこの「柱」〔Cf. Gal 2:9〕が支え、完全に倒れることを拒み、真っ直ぐに立てなおし、堅固さを明らかにし、神的な羊たちを牧するよう命ぜられ、それらのもののために違法されることを我慢し、喜んで非行される。そうして邪悪な最高法院から同軛者とともに出てきて歓喜した。「主たる方の名前のゆえに辱めを受けるにあたいする者となったから」〔Ac 5:41〕。さらにまた留置所に投げこまれて、いい気持ちになって好機嫌であった〔Cf. Ac 12:4〕。そうして、ネローンによって、十字架にかけられた人のために十字架による 31.13.10 死刑の有罪判決を受たとき、主と同様に絞首台にではなく、あの方が刺し貫かれたとは違うようにように釘付けられるよう処刑吏たちに頼んだ、それは、どうやら、受難の同一性が無知から彼と等しい褒賞をもたらすのではないかと恐れたらしい。それゆえ、両手が下に、両足を上に釘付けされるよう嘆願したのである。なぜなら、名誉においてのみならず、不名誉においても、極端が選ばれることを彼は学んできたからであった。だから、もしも十度でも五十度でも、この死を受けることができたなら、神的渇望に火と燃えて、歓喜雀躍して受け容れたことであろう。このことを神的パウロスも 31.13.20 叫んで、あるときは、「イエースゥスのクリストスにおいてわたしがあなたがたについて持っている誇り(kauvchsiV)にかけていうが、わたしは日々死んでいるのである」〔1Col 15:31〕と言い、あるときは、「クリストスとともにわたしは十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない、わたしの中にクリストスが生きている」〔Gal 2:19-20〕。

31.14.1
 だから、神的な恋情を受け入れた人は、あらゆる地上的なものらをひっくるめて軽蔑し、身体の快楽すべてを踏みにじる。富、名声、人間界における名誉を見おろす。王者の紫衣は蜘蛛の巣と何ら異ならないと解する。石の高価なのを土手にある小石に比する。身体の健全を最高の浄福とは考えず、病気を災難呼ばわりすることもなく、貧しさを不幸せと呼称することもなく、富や贅沢に幸福を規定することもない。むしろ、31.14.10 土手に生えた樹の傍を流れ行き、それらの〔樹の〕どれひとつも止められることのない河の流れに、いつもそれらのおのおのがいつも似ていると美しく考える。なぜなら、美と貧しさと富、健康も病気も、名誉と不名誉、その他のものらも、人間どもの自然をかするかぎりのものらも同様に、同じ人々のもとにいつも留まっていることなく、所有者たちを変え、他の人たちから他の人たちへとたえず移り変わってゆくのが観察される。なぜなら、多衆は富裕さから極端な貧しさへと転落し、多衆は貧乏人たちから富者たちへと登録を変えるものだからである。また病と 31.14.20 健康は、いわば、あらゆる身体、飢えた者たちのも贅沢三昧の者たちのも通して旅する。

31.15.1
 徳と哲学とは、堅実な善である。というのは、盗賊の手にも勝利し、誣告者の舌にも、敵の矢弾や槍の降雪にも勝利するからである。熱病の廃物になることなく、大波の玩具となることもなく、難船の犠牲になることもない。時間はその〔徳つまり哲学の〕力を奪い去るのではなく、その力を増大させる。その質料は神に対する歓愛である。なぜなら、神の熱き愛者ならざる者が、哲学を成就することは不可能だからである。むしろ、そのこと自体が哲学と呼ばれるのである。なぜなら、神は知恵でもあり、そう呼ばれるからである。
31.15.10 実際、全体の神については、浄福のパウロスが言っている、「朽ちることなく、見えざる、唯一の、知恵ある神に」〔1Tim 1:17〕と。だが、ひとり子については、「神の力、神の知恵であるクリストス」〔1Col 1:24〕。さらにまた、「われわれに、神の側から、知恵、義、聖化、贖いが与えられた」〔1Col 1:30〕。それゆえ、本当の哲学者は、当然、愛神者とも呼ばれるのである。しかし愛神者は、他のあらゆるものらを軽蔑して、恋される方のみを 31.15.17 観じ、何もかもひっくるめてあの方への奉仕を優先させ、あれらのことのみを言いもし、実行しもして、歓愛される方を満足させ奉仕する事柄を思量し、31.15.20 あの方が禁じるかぎりのことすべてを嫌うのである。

31.16.1
 この歓愛をアダムは軽視し、善行者について無知となったため、茨や労苦や苦悩を恩知らずの報酬として摘み取った。この〔歓愛〕をアベルは諸善の供給者に確実に守り、胃袋の快楽をば軽蔑し、神の奉仕をば優先させた〔Cf. Gen 4:4〕おかげで、混ざり気のない花冠に飾られ、あらゆる世代にわたって道を進んだのである、記憶によって祝福を収穫しつつ。この〔歓愛〕をエノークは真実にして真正なものとして所有し、美しく種蒔き、より善きものを 31.16.10 刈り取り、神の奉仕の報酬として移転(metavqesiV)をもたらし〔Cf. Gen 5:24〕、さらに不死なる生、全生涯を通しての令名と、詩に歌われる記憶をもたらした。無法の結果さえ異論を唱えられないノーエの愛神について、ひとは何を云うことができようか。むしろ、万事が逸脱し、反対を選択したとき、彼一人が真っ直ぐな〔道〕を進んだのである、万物の創造者を前に置いて。このおかげで、彼一人がまた子どもたちとともに救いに与り、種子が自然に残され、火花が種族に守られた〔Cf. Gen 6:5ff.〕。このようにして、大祭司メルキセデクは、31.16.20 偶像崇拝を優先する者たちの無知を嫌悪し、全体の創造者にみずからの聖職を捧げた。そのため、型となり、真に父なし、母なし、系図なく、日の初めも、生涯の終わりもないものの影となるという、あの偉大な報酬をもたらした〔Cf. Heb 7:3〕。

31.17.1
 しかし、もちろん、言葉〔わたしの叙述〕は道を進んで、神の「愛友」〔Cf. Is 41:8〕とお告げのあった当の人、友愛の律法を厳密に守りもし、教えもした人にたどり着いた。神的な事柄をひたすら教育されてきた人たちの中のいったい誰が、召命する神に偉大な族長アブラアームがどのように聴従したか、父祖伝来の家をどのように後にし、祖国よりも外地を優先したか〔Cf. Gen 12:1-4〕、知らないことがあろうか。召命した方をいったん恋するや、その他のことはみな、あの方に対する友愛の第二義的と定めることを吟味し、数多くの難儀にしばしば陥りながら、31.17.10 約束にけりをつけないからとて恋される方を置き去りにすることなく、渇きに圧迫されもし、掘った井戸から水を飲むことを閉ざされもしながら、召命した方に対して不機嫌になることもなく、不正者たちに報復することもなかった〔Cf. Gen 21:25-30〕。彼は飢えの襲撃をも受けたが〔Cf. Gen 12:10〕、歓愛の松明を消すことはなかった。若々しさでも光り輝き、慎みに飾られ、すべてを通じて彼に快い生をもたらしてくれたた配偶者さえ奪われた〔Cf. Gen 20:2〕。それでも、神に対する歓愛を女もろともに失うことはなかった。むしろ、神が守りもし、その寛容さに試練を与えもし、不正の襲撃を 31.17.20 受けることを許しても、彼はやはり歓愛に留まりつづけた。そうして、老人となり、しかし父となることなく、自分を父とするとお告げになりながら、それまではそうはしなかったけれど、やはり同じであった。しかし後になって、あるとき、かれはお告げを得て〔Cf. Heb 6:15〕、サッラの自然に打ち勝ち、老齢の限界を超え、イサアークの父として現れ〔Cf. Gen 21:2〕、少しの間は、そこからの悦び(qumhdiva)を享受した。しかし子が若者となったのを、授けた方に供犠に捧げ、贈り物を供給者に返して、お告げの果実の祭司となり、31.17.30 族民の供犠に大いなる源をささげ、ひとり子の血で両手を朱に染めるするよう命ぜられた〔Cf. Gen 22:2〕。しかし、そうであるにもかかわらず、供犠はこれらすべてのことを、さらにまたこれらよりはるかに多くのことを意味するのに、族長は反対することなく、自然の義を提起することもなく、約束を真ん中に持ち出すこともなく、老齢の世話や養いを思い出させることのなかった。むしろ人間的な思量をすべて捨て、渇望に渇望を対置して、律法に律法を — 自然の〔律法〕に神的な〔律法〕を — 対比して、供犠の勤めを急ぎ、ためらうことなく打撃を見舞ったことであろう、もしも偉大な贈り主がすぐに 31.17.40 熱意を受けて、屠殺を妨げなかったとしたら。もちろん、いかなる言葉がこの恋情の説明に足りるか、わたしは知らない。というのは、恋される者がこれを下命したとき、ひとり子さえ惜しまぬ者が、彼ゆえに軽蔑しない者として誰がいようか。?

31.18.1
 さらにまた、偉大なイサアークその人も、同じ歓愛を主なる人に所有した。さらにまたこの人の息子、族長イアコーボスもそうであった。両者の愛神を畏敬しているのが、神的な書である。さらにまた全体の神その人も、決して根から〔生え出る〕枝を切り離すことはなく、ご自身を「アブラアームの、イサアークの、イアコーボスの神」〔Ex 3:16〕と名づけられるのだ。

 イオーセープも、この人たちの敬虔な果実であって、若者たちの中にあって老人、老人たちの中にあって気高い人であった。彼の愛神は妬みも消尽することなく〔Cf. Gen 37:4〕、隷従も消すことなく〔Cf. Gen 37:28〕、女主人の 31.18.10 媚びを掠取することなく〔Cf. Gen 39:7〕、脅迫や恐怖を無駄にすることがなかった。誣告や投獄や長い時間が投げ倒すことなく〔Cf. Gen 39:20〕、権力、権威、贅沢、富が精神から〔愛神を〕追い出すことがなかった〔Cf. Gen 41:39-45〕。むしろ、いつも同様に、恋される方を見つめ、その方の律法を満たしつづけた。モウセースが所有したのは、この歓愛であって、王宮における暮らしを軽蔑して、「罪のはかない享受に耽るよりは、神の民とともに虐待されることを選んだ」〔Heb 11:25〕。

 いったい、どうして、長話をして、程よさを超えて言葉を引き延ばす必要があろうか。なぜなら、神的な歓愛を預言者たちのあらゆる結社は 31.18.20 用い、飾られ、完璧な徳を成就し、永遠に記憶される令名を残したからである。かてて加えて、使徒たちの合唱隊も殉教者たちの民衆も、この火を受け容れ、目に見えるものらはすべて無視し、最も快適ないかなる生よりも、死の無量の種類を優先させた。なぜなら、神的な美に恋し、われわれに関する神の愛慕を思量し、無量の善行に想いを致し、言葉に言い表せないあの美を渇望せず、善行者に対して恩知らずになることこそ醜いことと考えるからである。このために、死に至るまで 31.18.30 彼らは彼〔神〕との契約を守ったのである。

31.19.1
 徳の新しい競技者たち — その生をわれわれは短く著してきたのだが — も、この美しさの愛者であって、人間的な自然にも勝利するあの偉大な懸賞の中に跳びこんだ。これこそが、神的な諸書が彼らに教育してきたことである。というのは、彼らは偉大なダビドとともに詠唱しているからである。「わが神、主よ、あなたは何といとも大きくいますことか。威光と栄誉をまとい、長衣のように光りで身を包み、天幕のように天を張る方」〔Ps 104:1ff.〕その他、31.19.10 彼の知恵と力を教えている。さらにまた、「主は王であられる、気高さを彼はまとう。主は力をまとい、身に帯びる」〔Ps 93:1〕。というのも、「世界を真っ直ぐになさり、それが揺るがされることがない」〔Ps 96:10〕。ここにおいても同様に知恵も美も布令され、力もそうである。さらに他の箇所でも、「ひとの息子らの中で美しさの点で若盛りにある」〔Ps 45:2〕。ここでは、神の言葉の人間的な美をも祝福した。さらに知恵をも讃美し、「というのは」と彼は謂う、「優しさがあなたの唇にあふれたから」〔Ps 45:3〕。力をも示して、「力或る者よ、あなたの剣をあなたの腰に帯びよ。31.19.20 あなたの若盛り、あなたの美、真理と謙遜と義のために」〔Ps 45:4-5〕。これらは、富も、美も、力も彼のものだからである。さらにまたヘーサイアースも叫ぶ、「エドームから来るこの者は誰か。深紅の衣を着て、ボソルから来る者は 31.19.25 誰か。この者は、その装いにおいて華やかに、力を持って押し通る」〔Is 63:1〕。なぜなら、人間的な装いさえ神的な美を隠すことなく、これをまとっても、その華やかさから閃光を放つこと、見る者らを強制し、恋へと魅了するほどだからである。聖なる花嫁も、31.19.31『雅歌』の中で彼と対話して謂う。「あなたの名前はあふれる香油。だから娘たちはあなたを歓愛し、あなたを惹きつけ、あなたの後ろから、あなたの香木の香りへと急ぎました」〔Sg 1:3-4〕。なぜなら、娘の魂たちは、あなたの芳香に与ると、あなたをつかまえようと渇望して走るからである。そうして、枷によってのように一種の香りに取り憑かれて、縛めを破ることを我慢できないのである。なぜなら、この人は甘く、よろこんでそれらに包まれるからである。以上のことには、神々しいパウロスの言辞も合致している。「われわれは、救われる人々の間でも、滅びる人々の間でも、クリストスの芳香である。後者に対しては、死へと至る死の臭い、前者に対しては、生へと至る 31.19.40 生の臭いである」〔2Col 2:15-16〕。

31.20.1
 だから、彼が美しいことも、神的な書に教えられ、得も言えぬ富を有することも、知恵の泉であることも、望むかぎりのことをできることも、度外れた人間愛をいだいていることも、優しさの河をほとばしらせることも、万事を通じて人間どもに善行を施そうとすることも〔神的な書に教えられ〕

 さらに、善行の無量の種類、数よりまさる種類を、神に憑かれた人々に教えられ、歓愛の甘い矢弾に傷つけられ、花嫁の四肢となって、31.20.10 彼女とともに叫ぶ、「わたしたちは歓愛に傷つけられた」〔Cf. Sg 5:8〕と。例えば、偉大なイオーアンネースは叫ぶ、「見よ、世の罪を取り除く神の仔羊」〔Jn 1:29〕。預言者ヘーサイアースは、将来起こることを、まるですでに起こったことのように、預言して言う、「彼はわれわれの咎のために傷つけられ、われわれの罪のために砕かれたのだ。われわれの平和の教育は彼次第である。彼の笞跡によってわれわれは癒された」。以下は救済の受難に関するかぎりのことが詳述されている〔Is 53:5 ff.〕。パウロスも布令て叫ぶ、「〔神は〕ご自分の御子さえ惜しまず、われわれ皆のために御子を〔死へと〕引き渡したもうたのであるから、どうして御子とともに 31.20.20 あらゆるものをわれわれに恵みとして与えてくださらないなどということがあろうか」〔Rom 8:32〕。さらにまた、「神がわれわれを通して〔ひとびとに〕呼びかけるがままに、われわれはクリストスの代わりに使者として働いている。だからわれわれはクリストスに代わって願う、あなたがたは神と和解しなさい。なぜなら、罪を知らなかった方〔クリストス〕を、〔神は〕われわれのために罪に定めた。われわれが彼にあって神の義となるためである」〔2Col 5:20-21〕。

31.21.1
 以上のこと、以上のようなすべてのことを、神的言葉の従僕となった人々のもとに見出して、神的歓愛の突き棒をいたるところから受けて、万事を見下して、恋されるものを幻視し、希望される不朽に先立って霊的身体を完成させた。われわれもこの愛慕を受け取ろう、そうして、花婿の美しさに魅了され、約束された善きものらをめざして、多くの善行に向かって、忘恩の審査を恐れ、彼の 31.21.10 律法を歓愛する守り手となろう。なぜなら、同じものを愛し、同じものを憎むこと、これこそが友愛の定義だからである。それゆえアブラアームにも言った、「わたしはおまえを祝福する者たちを祝福し、おまえを呪う者たちを呪う」〔Gen 12:3〕。ダビドも彼に向かって、「神よ、あなたの友たちが何と多くわたしに讃えられたことか」〔Ps 139:17〕。さらにまた、「あなたを憎んでいる者どもを、主よ、わたしが憎み、あなたの敵対者たちをわたしが溶かし去ってはいけないでしょうか。わたしはまったく彼らを憎み、わたしの敵と思います」〔Ps 139:21〕。また別の箇所で、「わたしは違法者たちを憎み、あなたの律法を歓愛します」〔Ps 119:113〕。また他の箇所で、「何とわたしはあなたの律法を歓愛したことか、主よ、ひねもす 31.21.20 これがわが気遣い」〔Ps 119:97〕。

 だからして、神に対する歓愛のはっきりした証拠は、彼の神的な律法の遵守である。というのは、「わたしを愛する者は、わたしの誡めを守るであろう」〔Cf. Jn 14:23〕と、主人クリストスは云った、聖なる霊をともなう栄光は彼とともに父のもの、今も、常に、永遠の永遠にいたるまで、アメーン。

2014.06.04. 訳了。

forward.gifエジプト修道者史