[解題]

 石原吉郎の遺稿エッセイ集『一期一会の海』(日本基督教団出版局、1978.8.)所収。




鹿野武一について



 鹿野武一の言葉、「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」ということは裁きの場面でしかおこらないことです。その場合に相手は非人間的な立場を占めることによって、自分は人間的な立場を占めているのだという確認があるわけです。私は最後には、どうもそういうふうに言う癖があります。ただその時に「沈黙する」状態を自分の中に固定するのです。そういう姿勢、考え方は、鹿野から教わったようなものです。

 私は鹿野の行為には二つの面を感じます。一つは積極的に一番困難な条件の下へ自分を近付けていく姿勢と、もう一つは自分から何かある重大なものを放棄するという消極的姿勢、この二つの面から成り立っていると思うのです。

 鹿野はとにかく軍隊では非常に模範的な兵隊でした。非常に優秀でした。ですから彼は軍隊で、初年兵学校で、師団の検閲があった時に、師団長から激賞されたことがありました。とにかく非常に初年兵教育としては理想的だということでした。そういう彼が、次第に少しずつ変わっていって、最後にああいう人間になる過程を、継続して私は追うことができたのです。その点では、それは同時に私の側の出来事でもあったわけですから、あとになって非常に重大になってくるわけです。言いすぎかもしれませんが、ある意味ではドストエフスキー的な人間像と言いますか、理想的には『白痴』のムイシュキン公爵のような形になるのだと思います。

 作業に向かう列の端、つまり生死にも関わるような場所をあえて選ぶような時、鹿野としては、すすんで自分で意志を決定してそういう場所に立ったという場面と、生きのびていくという姿勢を自分から放り出してしまった場面と、両方あると思うのです。ですからそれを、一方的には考えられません。今でもそういう点については、私も多少よくわからない所があります。ただ、一番条件の悪い所へすすんで行くという姿勢は、シベリアに行く前にもはっきりしていました。

 鹿野が、満州の開拓村へ行った問題も、私には今でもよくわからない問題です。シベリアに行ってから鹿野に言ったことがあります。君は何も開拓団まで行く必要はなかったのではないか、君はあの時、君の技術や資格を生かしてもっとたくさんの人に喜ばれるような職業を選ぶ可能性があったのではないか、と。彼は、自分としてはあれが一番自然だったというわけです。これは鹿野の家系が、そういう家系だからではないでしょうか。妹さんも確かそういうような生き方を、自分で選んできたようです。よく似ています。妹さんも大陸へ渡ってやはり彼と一緒に生活して、帰りは一人で帰ってきたのですが、帰ってきてすぐに瀬戸内海の癩院へ入ってしまいました。そしてハンセン氏病患者の身の回りの世話を、鹿野が帰った当時はしていました。それからその後、京都の聾亜学校の先生をしていました。やはりそういうことをすすんでする人なのです。奉仕的な精神というのでしょうか。

 鹿野の場合、開拓団へ入るにしても開拓民になって入ることにしました。医者の資格があるのに、最後にはその資格を放棄してしまいました。完全に一介の開拓民として入ってしまったわけです。あれは鹿野らしいところでもあるのでしょうが、ちょっと理解できないところもあるわけです。彼が人のために何かしたいと思うなら、医者として入るのが一番だったのです。彼が百姓をやっても他の開拓民にかなうわけはないのですから。

『一期一会の海』(日本基督教団出版局、1978.8.) 


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