[解題]

 小花要三〔要蔵とも表記――小花から武一宛(1654.10.)書簡〕は、鹿野武一と登美の共通の友人。シベリアでも一時期、武一と行動を共にするが、武一から離れていったという〔武一から登美宛(1954.3.15.)書簡〕が、理由は不明。
 帰国後、武一は登美と小花との結婚を考えていたが、複雑な事情からそれは成らなかった。




手紙:小花要三から鹿野登美宛(1950年4月26日付)



 我々復員者に対しての物質的精神的御配慮に対し、心から御礼を申上る事をお許し下さい

 汽車が走り出してから何故残ってお話しなかったかと残キ[ママ]にかられました。と同時に私は次の様な事を直接あなた方に申上る勇気を持たないと自から慰めた次第です。

 鹿野さんは必ず帰る。

 四九年の五月頃 鹿野さんはカザヒスタン共和国カラガンダでソ側取調官に対して過去の業務に関する一部を肯定してしまった。その結果私達の身辺から消え、おそらく軍事裁判に廻された事と推察します。今ハバロフスク市第2収容所に居られるのではなからうか?

 鹿野さんはいい人でした。人間的にあの様に立派な人と私は逢った事がない。宗教的な、唯神的な観念論的であって、しかも唯物論的な鹿野さんの頭脳は又あまりにも人道主義的であり、あまりにも潔白な性格と行動は最も美点だった。然しそれはラーゲリ生活に於ては痛々しいまでに鹿野さんの欠陥だったのです。根強い反ソ感を持ち、軍国主義者的な私の頭を転換させてくれた人、そして私の*在*る側はどちらであらねばならぬかを暗示してくれた人は鹿野さんでした。以下の事を御伝へすることは私の大きな苦脳[ママ]であり苦痛であります。

1 鹿野さんの健康について
 丈夫な人です。48年の終り頃まで元気な身体で作業をして居られたけれど取調の為49年の正月は久しく所内の留場で拘禁されていました。解放後はそれが為か少しく体位が落ち〔ら〕れた様でした。又その頃物凄いブランの朝、食堂に行く際、眼も開けられない様な雪の為、はずしてポケットへ入れた眼鏡は忘れていたホコロビの為、雪中に埋もれてしまいました。強度の近視の鹿野さんには、大きな痛手だったのです。そして私達にはそれを手に入れる物質的な条件が備はっていな〔か〕ったのでした。それからの鹿野さんは、精神的に弱られた様に想はれました。然し元来、頑健な鹿野さんの事ですから、きっと元気で頑張っている事と私は確信します。

2 鹿野さんの居る処について
 今年の2月カラガンダ地区の日本人は全員ハバロフスク地区に転送されました。それと同時に日本人の囚人(この様に私は書かねばなりません)も亦、全部ハバロフスクに転送されました。16地区(ハバロフスク)の第2分所には旧大将山田乙三以下の人達が居る筈です。鹿野さんも其処に送られた事と判断します。

3 鹿野さんの心境について
 最后に私は次の様な意味の事を書かれた小さな紙切れを知らない人から受取った。

 総てを肯定した。私は私自身の嘘に対して耐えられない。今私はすがすがしい。新しい出発をする。(住所)

 私はシマッタ!と叫んだ。私自身を逞しいものに育て上げ様としていた私は鹿野さんに対して大きな罪悪を犯してしまったのだから……どうして彼の頃鹿野さんの欠点である潔白と純粋さを進んで汚してやらなかったのだらうか。どうしてあなたは虚無的なんだと怒鳴りたかった。鹿野さんがそれを捨てない限りに於て、鹿野さんは余りにも苦痛を背負う人なのだから。然も私はそれを知っていたんだのに。

4 鹿野さんのことども
A 鹿野さんと私
 48年の4月の中頃、鹿野さんと私は所内医ム室週[ママ]辺の除雪をした。皎々とした大陸の月が昇りました。私は言った。”大陸の月は余りにも澄みきっていて情緒的な処がないから俺は嫌だ”。黙って円匙を使っていた鹿野さんは、”だから戦争に負けたんではなからうか?”とポツンと言いました。私には解りませんでした。鹿野さんは次の様に説明してくれました。月を物質そのものとして看なければいけない。月に情緒を抱き、神秘視することによって唯神的な考へになる。物質としての月はその間に何らのものを持たないし、又持ち得ない。我々の物の見方・考へ方はその様に在らねばならない。でなければ又戦争の犠牲を繰り返すだらう。私はこの言葉に大きなショックを受けました。それからの私は8時間の労働の後、2年ぶりで本を読み、字を書く様になりました。鹿野さんは私と同じ様に、否、より以上に本を読んでいました。そしてあの部[ママ]厚いボルシェウィキ党史、レーニン諸問題等を殆ど記憶されていました。この様にして鹿野さんは私に新しい途の指標となってくれました。鹿野さんと私は黙ってゐても何を云おうとしてゐるか、何を求め様としてゐるか解る様になりました。然し作業の関係で居室が別になってから交際もまばらになり、その中、私は鹿野さんとの接触を無意識に避ける様になりました。それは新しく発見した途にバク進しようとしてゐる私は鹿野さんと話し合う事によってあの人の理性に引き戻される事を欲しなかったからです。鹿野さんの持つ異った一面、宗教的なものに触れたくなかったからです。鹿野さんと話す事によって自己の小ブル的な線が自慰されることを欲しなかったとも表現出来るでせう。然し黙ってゐても鹿野さんに対する私の私淑は異らなかったし、現在も変らない。そして将来も変らないだらう。

5 鹿野さんとゆう人

 初期のラーゲリ生活は先づ喰う事だった。人の頭をはねても喰う事は即ち生き抜く事だったから……。46年の冬頃、鹿野さんは炊事の通訳の任務を得た。然し翌日鹿野さん辞めて苦痛の伴う作業に出た。鹿野さんは言った、”皆飢えてゐます。炊事に居れば人一倍喰う事が出来ますが、私には他の人が腹をすかしてゐる時に私丈満腹することは出来ない”と。


 民主委員会で通訳を必要とした時、白羽の矢が鹿野さんに立った。勿論所内に残って作業には出ない机上の労働です。当時誰もが肉体労働を嫌っていました。鹿野さんは辞退しました。そして言った。”私は肉体を苦しめたいのです。そして考へます。人より楽をする事は、私には耐えられない”と。


 団?本部で作業関係の通訳を必要とした時も亦鹿野さんは上の様に答へた。


 毎朝タバコの配給が150gある。勿論喫う人にはこれ丈では足りないのです。だから配給の砂糖、パンと交換して喫っていました。つまり喫煙しない人にとってタバコの配給はパンや砂糖の配給と同じ訳だったのです。鹿野さんはタバコの配給を受けると無雑作に人にあたえ、お礼を云はれると恥かしそうにしていました。

五[ママ]〔「6」とあるべきところであろう。〕
 48年の冬、第一回の取調前後、体位の落ちた鹿野さんは、作業現場で砂や煉瓦を運般[ママ]して来るトラックの番号を登録する身体の楽な任務を負いました。ソ側の運転手は往復回数によって賃銀を受取る制度だった。従って係に1、2度余分に記載する事を要求するのを常としてゐた。勿論、我々はそれに対して報酬がある無しに拘らず、そんな事はどうでもよいことなのです。だから大概余分につけてやっている状態でした。ある日の夕方、鹿野さんは”どうしたらいいだらう、私はこんな事をしてしまった”と云って3ルーブル紙幣を私の眼の前に差し出しました。真剣な顔色でした。”運転手は2回分余分に書けと云って私に3ルーブル与えたのです。私はそれを受け取って希望通りにしてしまったのです”。

 鹿野さんの左の眼からスーッと涙が走りました。私はびっくりしました。物盗、配給食事の二重喰い、落したものは絶対出ないとゆうような当時の経済基盤に立った人々の中にこの様な人も在るのだらうか? ”そんな事は構はないでせう。それは国家が払うのです。誰も損をしていないのです。清濁合せ呑む事も必要ではないでしょか”その様な表現で鹿野さんを慰めた私は、私自身に嫌悪を覚えた。

 少々略す

 私は確信する。鹿野さんは必ず帰る。しかもより逞しくなって。

 10年前とは似ても似つかぬ灰塵[ママ]の後の我家に帰って周囲を見渡して、ソーカナーと想った丈の私も、この様に寛いて鹿野さんの事を考へると、悪かったとは言いたくない。悪夢の様な生活から引ずり出して、鹿野さんとゆっくり話したくなった。

 鹿野さんは必ず帰って来る。

 4.26
                           小花要三


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