昭和十三年、東京に開催を予定されていたオリンピックが、前年に勃発した日華事変のため中止に決定した年の春、私は東京外語(旧制)のドイツ語部貿易科を卒業して、大阪ガス会杜の研究部に就職した。大阪へ就職したのは、前年中国大陸で戦死したおなじドイツ語の先輩のあとを補充するためである。
その年の夏の初め、兵役の延期が切れた私は、徴兵検査のため父と共に初めて郷里の伊豆を訪れた。修善寺の小学校で行なわれた検査の結果は第二乙種で、そのひと月後に第一補充兵役の証書がとどいた。
私が多少とも信仰ということを私自身にかかわる問題として考え始めるようになったのは、これらの一連の出来事が契機となっている。
つぎつぎに職場を去って行く現役入隊組の姿を見送りながら、いずれは私自身にも召集が来ることをいやでも覚悟しなければならなかった。当時はまだ戦争の初期で、戦死者の数はそれ程多くはない頃であったが、しかし戦場へ行く以上は死ぬことを考えておかなければならず、それまでに多少とも自分自身の姿勢を決定しておく必要があった。併し、死という考えに平生なれていない私には、それがばく然と大きな不安として目の前にあるということで、具体的にそれをどう考え、どう受けとめたらいいかについては、全く手がかりというものがなかった。
結局その年の夏ごろ、大阪南郊の私のアパートに近い日本基督教会派のS教会を訪ねることになるのであるが、仏教その他の宗教でなくキリスト教をえらび、カトリックをえらばずにブロテスタントをえらんだ理由については、全くの偶然だったというほかない。
私が訪ねた教会は当時高齢の牧師が牧会していたが、たまたまそこでいわば客員のようなかたちで教会に来ていたエゴン・ヘッセルというドイツ人に紹介された。ヘッセル氏は当時松山高校(旧制)のドイツ語の教師をしており、ヘッセル氏に私が紹介されたのは、私がドイツ語ができるという以外に、別に意味はなかったと思われる。ヘッセル氏もときどきS教会の講壇に立ったが、日本語がまだ不自由なヘッセル氏のために説教の手伝いを依頼された。まずヘッセル氏が説教をドイツ語で書き、私が和訳したうえでタイプでローマナイズしたものをヘッセル氏が読みあげるという面倒な手続きを経たものであったが、この仕事のことで田辺のヘッセル氏の自宅に出入りするうちに、当時まだ名前しか知らなかったカール・バルトの思想にすこしずつなじむようになった。
ヘッセル氏はカール・バルトに直接師事した人で、当時福田正俊、宮本武之助、赤岩栄、石島三郎、滝沢克己といった人々と共に「十字架の言」という雑誌を発行して、当時まだ少数の人にしか知られていなかったバルト神学の紹介に努めていた。
ヘッセル氏は、バルトについてほとんど予備知識のない私にぜひ読みとおすようにと『ロマ書』の原書を貸してくれたが、到底私の歯の立つ代物ではなかった。さいわいバルトの著書で当時唯一の邦訳書であった丸川仁夫訳の『ロマ書』が出版されていたので、とびつくようにして買い求めて読んでみた。なにぶん予備知識というものもなく、それにかなりあらい訳文をとおして読んだので、一読した程度では、到底深い理解など望むべくもなかったが、それでも、「にもかかわらず」とか「垂直に」といったような用語がいたるところで待伏せている、独得の表現の魅力のとりことなるには充分であったといえる。背理をのりこえ、のりこえして展開されるその論調は「弁証法神学」と呼ばれるにふさわしく、兵役を前に切迫した姿勢をせまられつつあった私にとって、まず背理そのものとしての信仰の位相を気づかせるに充分であったといえる。
私は今でも教会に対して、数多くの偏見と先入主をうごかしがたく持ちつづけているが、それらのほとんどはそれぞれの具体的な出来事やイメージに結びついている。それらの偏見が今なお私にとって致命的なリアリティをもっているのはそのためである。その一つで、今でもあざやかに記憶にのこっている出来事がある。
さきに、キリスト教を私がえらんだのは、まったくの偶然にすぎないといったが、S教会に関してもまったくおなじことがいえる。
私がS教会をえらんだのは、その教会が私のアバートのすぐ近くにあったことと、たまたま通りがかりに見た、見事な蔦に隙間なく掩われたその建物の古めかしさが気にいったという、単純な理由からにすぎない。だが、思いつめている時ほど、その行動は単純なものである。その思いつめ方も、教会には求道者の純粋さとうつったらしく、時々行なわれるヘッセル氏の説教の準備に私が必要だったこともあって、比較的好意をもって私は迎えられた。しかし一と月も通ううちに、私はその教会に次第に低抗を感ずるようになった。高齢者が多いため全体の空気が停滞して、ひどく退屈なこともあったが、なによりもがまんならないのは、牧師の説教であった。牧師はすでに高齢で、説教はひどく常識的であるだけでなく、あきらかに当時の軍国的な風潮に進んで迎合する態度が露骨にみられたからである。
もちろん、私自身教会の門をくぐったのは、戦争を前提としてのことであったが、しかし私が教会に期待したのはそのような説教ではなかった。いずれにしてもその時の私自身の信仰への傾斜は、そのままで行けば当然受洗を予想しなければならないものであり、そうした不満と危倶をかかえたまま洗礼を受け、S教会に所属してしまうことは、私には到底耐えられないことであった。
教会へ行くようになって二た月ほど経った頃、休日を利用して、知りあいの神学生を神戸の中央神学校にたずね、寮に一泊したことがある。牧師の説教について彼の意見を聞くのが目的だったが、S教会に多少関係のある彼の態度は慎重で、さいごまで自分の意見はいわなかった。
失望して大阪へ帰った私は、数日してヘッセル氏をたずねた。ヘッセル氏は私の不満にはっきり同意して、「私もあの牧師の説教はけっしていいとは思わない」と答えた。
私はS教会をあきらめ、ヘッセル氏のすすめに従って、S教会からほど遠くないH教会へ行くことにした。共に当時の日基派に属する教会である。
私はまだ初歩の求道者にすぎず、S教会の会員ではもちろんなかったから、いつ教会をやめようと私の自由だとは思ったが、それでは義理がすまぬように思われたので、とりあえず牧師に、「自分の考え方とかなりちがうと思うので、他の教会へ行くことにしたが、お許しを願いたい」と正直に書き送った。結局これが、意外なトラブルをひきおこす結果になった。
このトラブルと前後して、私はH教会でヘッセル氏の手で洗礼を受けているが、トラブルと受洗のいずれが先であったかは記憶がはっきりしない。だが、そのいずれが先であったかで、当時の私にとっての受洗の意味は大きくちがうことになったはずである。
教会をかわってしばらく経った頃、私の新しい教会で大阪南部地域の合同祈祷会が、各教会の牧師や信者の代表の参加のもとに行なわれた。S教会の老牧師の姿もみえた。祈祷会が型どおりの次第を追って進み、何人かの出席者がこもごも立って祈り終るのを見はからったように、最前列の老牧師が立ちあがった。牧師の祈りはまず「主よ、このなかに恥ずべき裏切り者、ユダの徒がおります」という異様なことばで姶まった。ユダの徒が私を指してのことばであることは即座に。分った。あきらかに私の同席を意識しての牧師の祈りは、ほとんど罵倒と挑発に近いものであったが、その祈りを彼が、このようた許しがたい僕(しもべ)の罪をも、主のみこころにより許したもうように、とのことばで結んだとき、私は胸がわるくなってそのまま外へ出た。私のかたわらにいた人のことばによると、その時の私は文字どおり顔面蒼白だったそうである。一体私が何を「裏切った」というのか。
私はその翌日、牧師をたずねて詰問することを考えたが、結局あらたなトラブルを起すことをおそれて思いとどまった。
老牧師はその翌年他界したが、私はこの牧師を今に至るまで許していない。公開の祈祷の場をかりて私憤をぶちまけ、一人の信徒の出発に重大なつまずきを与えるがごときは、牧師にあるまじき行為であり、あまつさえ罵倒に近いその祈りのあとで、ののしった当の相手の罪の許しを乞うそらぞらしさに至っては、言語道断というほかないものである。このような場面でしばしば語られる、「神は教訓を与えるため、*彼*を借りて悪魔に語らせたのだから、あなたは感謝しなければならない」といったまやかしを私は信じない。ともあれ、このような牧師が実在したのである。
この事件と前後して、私は洗礼を受けている。いずれが先に起ったかについては、記憶がはっきりしないと先に書いたが、おそらく洗礼が先であろう。もしこのトラブルが先に起っていたら、私はただちに教会を離れたであろうし、従って洗礼を受けることもなかっただろうと思うからである。
私はその後も教会に通っており、結局は神学校入学を決意して上京することになるが、このようた醜悪な出来事のあとで、まがりなりにも信仰への姿勢を持続しえたのは、私に、受洗という一つの*事実*があったからである。
しかしこの事件によって、すくなからず私が動揺したことも事実である。この事件があってから、むしろ加速的と思えるほど、信仰への傾斜をはやめて行ったが、それはただ、私自身のそれ以上の動揺をひたすら危倶したためであろう。ついには献身を決意するに至るが、この決意をいざなった有形無形の誘因のなかに、この祈祷会を契機とした危機感があったことはまちがいない。
ただ動揺をおそれるあまり、私はしばしば動揺の振幅をはるかにこえる飛躍を決意することがある。私自身の狭隘な視野のなかでは、すべてが不安で、動揺をくりかえしており、それをくいとめるためには、不安を上回る態度決定が私には必要であったというしかない。
召集を目の前にして、神学校入学の準備にかかるといったことが果して可能なのかを考える余裕は、私にはまったくなかった。この時の私自身の意志決定には、多分に心情的なものがあり、今考えも分らない部分が多い。当時はすでに、神学生のなかからさえ海軍予備学生の志願者があらわれるような時勢だったのである。
ともかくも私は、当時自由神学派が優勢を占めていた神戸の中央神学校を避け、バルト神学への関心をようやく深めていた東京神学校をえらんだ。入学試験に備えるため、九月に入って身辺を整理して、ヘッセル氏を訪れている。
この時私がヘッセル氏に神学校入学のことを話したかどうか憶えていないが、多分なにも話さたかったと思う。もし話していれば、相当熱っばい話題となったはずである。ヘッセル氏から私は、東京へ行ったらぜひ信濃町教会の福田正俊牧師を訪ねるようにとの慫慂を受けた。たまたま話がゾルダーテンプリヒト(兵役義務)に及び、その義務の有無をたずねられた。ヘッセル氏はすでにドイツ本国からの召集を拒否しており、いずれは亡命を余儀なくされる立場にあったが、暗に、そのようた立場について考えてもよいのではないかと、遠まわしの暗示を受けた。私はこれに対しては、何も答えなかった。答えうる立場というものが、そもそも私になかったというのが本当である。私がヘッセル氏に会ったのはそれがさいごである。のちになって私は、ヘッセル氏が米国へ亡命したことを知らされた。
兵役なり出征にっいては、私は、当時の青年の平均的な考え方以上のものを持っていたわけではない。拒否するにたる明確な思想的立場というものは何もなかった。というよりは、戦争を政治の延長として考える立場が、私には徹底的に欠けていた。戦争というものを、そのままに死へと短絡して行く考え方は、すでに牢固として抜きがたいものになっていたといっていい。運命としての死の受容。その激烈な様相が私にとっての戦争であったと、私は考える。これを訂正する立場には今もない。
戦争において受身の立場に終始したことは、現在の私の立場にそのままつながっており、その立場の継続においてこそ、今も生きているのである。
十一月中旬、結局召集が来た。正確には、郷里の役場へ召集令状がとどき、役場から私に電報がとどいたのである。召集が先か、入学が先かという危倶のなかで、はらはらしながらすごした時間は、これではっきり打ち切られた。神学校入学の希望は、ひとまず挫折することになるが、私の未来というものが、十中八、九確実なはずの召集をまったく無視して設計されたのであってみれば、致し方もないという気持であった。
応召へのなんの身がまえもついにもちえぬまま、一切を放擲したかたちで郷里へ出発した私は、そこで赤紙(召集令状)を受けとり、おなじ村のなん人かの壮丁と共に静岡市の歩兵第三十四連隊(中部第三部隊)に入隊した。所属は歩兵砲中隊遠射砲(対戦車砲)班であった。
奇妙なことに、私は、聖書の代りに小型の賛美歌集をかくしもって入隊している。結局は挫折したという苦い反省が、反射的に聖書を避けさせたともいえるし、当時聖書の携行を禁止していた部隊もあり、まだしも賛美歌集の方が安全だと判断したともいえるが、東京を出発する直前になって両者を見くらべての、とっさの間の選択であった。その頃ようやく聖書に読み疲れて、苦痛になりだした私には、賛美歌の歌詞になんとなくほっとしたものを感じていたことも事実である。賛美歌集は、どこへ行くにも、肌身につけてもってあるいた。
私が入隊した部隊は留守隊で、原隊は中支に移動しており、現役を併せて年に三回か四回入隊する兵隊を三か月程度の教育をしたのち、補充要員として戦線へ補給していた。
ひととおり教育が終了した一月末に、師団の一期検閲があり、私たちの動員が決定したが、私は動員に洩れた。「野戦行き」に洩れるのは第一に幹侯(幹部候補生)であるが、私は幹侯を志願しなかった。当時は、志願はまだ自由意志であった。その他は多く身体虚弱者であり、残留の理由も分らずに営内勤務についていた私は、ある日、中隊の人事係の准尉に呼ぱれた。准尉は「おれにも内容はよく分らんが」と前置して、こんど犬阪に陸軍露語教育隊と弥する部隊ができた。連隊から三名分遣するが、さいわいお前は資格があるから行ってこい、という。資格は中等学校以上の卒業者ということである。期間はと聞くと、一切分らんが、相当長期にわたるかもしれんという。一般に特業教育の分遺は、三、四か月どまりで、それ以上長期になると、兵隊はいやがる。進級がおくれがちになり、うっかりすると中隊から忘れられてしまうからである。
内務班へ帰って戦友に相談すると、分遣なぞ他にいくらでもある。そんなわけの分らん分遣は、今のうちに断ってこい。命令が出たらおしまいだぞといわれ、あわてて准尉に断りに行った。
召集下士官あがりの准尉は、さいわい温厚な人物だったので、ちょっと考えたあとで、「なにも軍隊まで来て、横文字でもないだろうな」と了承してくれた。そのあとで、しかしお前は分遣要員として残されたのだから、このままでおいておくわけには行かん。さいわい三島の野重三(野戦重砲兵第三連隊)で蹄鉄工の特業教育があるので、三か月ほど行ってこいといわれた。私の中隊には火砲運搬用の輸馬がかなりいたので、蹄鉄工が必要だったのである。
蹄鉄工なら、語学で頭を痛めるよりはましだろうと納得して、引き下がったが、結局その二日後、夜の点呼で命令が出てしまった。語学習得のため、歩兵三十七連隊へ分遣を命ず、という内容である。驚いて准尉に問合せると、准尉は当惑げに、「俺の方から一応は連隊本部へ申し入れはしたが、三名のうち一名だけどうしてもきまらんので、結局お前になった、外語出身という資格があるので仕方がない。命令が出た以上、とにかく行ってこい」ということで、私も観念した。
他の二名のうち、一人は日本大学出身、一人は県の農学校出身者で、いずれも乙種幹部侯補生(下士官要員)の伍長であり、私は初年兵教育を終ったぱかりの二等兵であった。出発を前に、私ははじめて外泊を許可され、下宿先の東京の自宅へ二泊したのち、昭和十五年四月、分遣先の大阪へ向った。
陸軍露語教育隊は、ノモンハン事件でにがい経験をなめた陸軍が、第一線に直接配属するための通訳要員を短期間に養成する目的で、全国七か所に急遽設けた特殊部隊で、一ないし三個師団につき一校の割で設立された。いずれも普通科(初等科)課程の水準で、私たちはその第一期生である。
大阪城に近い歩兵第三十七連隊内の仮兵舎に到着したのは、名古屋、大阪、姫路の各師団から分遣された下士官、兵約六十名。部隊長は当時「フランス語四週間」「イタリア語四週問」などの著者として知られた徳尾俊彦少佐であったが、のち日本軍の仏印進駐と共に転出し、航空機の事故に遭って死去した。
私たちに知らされた教育期間は、四月から十一月までの八か月。教育修了後の方針については全く不明とのことで、開校直後のため、部隊長にもわからぬことが多すぎた。
到着直後に辞書と教材が支給され、特に辞書は兵器に準じて扱えとの指示が出たが、それがどういうことになるのか、私たちには見当がつきかねた。教育は大阪外語の教授二名と同校の卒業生二名。他に隊付きの下士官三名がいたが、教育に直接関係はなかった。
第一期生ということもあって、防諜はきびしく、当初は隊内で教育は行なわず、大阪城内の施設を利用し、関係者以外の立入りを禁止して行なったが、のちには部隊の教室を利用するようになった。
教育内容はふつうの教育施設での語学教育と大差はなく、ほかに各兵科に応じた演習や行軍などがときどき行なわれた程度である。この種の施設には、えてして誇張された伝説がつきまとうが、私の知るかぎりでは、さほど特殊な内容のものではない。教育は前期と後期に分けて行なわれ、それぞれ四か月ずつであるが、後期になると新しく会話の時間が設けられ、ハルピンから派遣された白系ロシア人二名がその指導にあたった。後期に一度だけ「会話演習」と称する奇妙な訓練が行なわれた。これは、京都見物を兼ねて、自由会話を行なわせようという趣旨で、その前日に与えられた指示では、演習中かならず一回はロシア人と自由会話をこころみること。会話を逃げても、隊付きの下士官が背後で監視しているからすぐ分る。さらに、明日は京都の動物園にも寄るので、「必要な」動物名を十以上今夜じゅうに暗記しておけとのことで、私たちはたちまち恐慌をきたした。
教育隊が果して所期の成果を達戎しえたかどうかは知る限りでないが、すくなくとも軍隊という特殊な環境での語学教育の効率のよさには、外語出身の私も一驚した。第一に、日曜以外は全然自由行動を許されないから、文字どおり完全なカンヅメ教育である。夜は、消燈後も一時間自習を強制され、隊付き下士官の監視がつくので、居眠りをしてもすぐ起される。第二に、教材以外の書物は、原則として許可されないので、退屈しのぎにも、辞書と教材をながめるしかない。第三に、会話演習の例でみるように、語学の習得はここでは「命令」である。命令には従うしかない。
当時は大阪の教会に対する関心はすでに薄れており、日曜の外出を利用して、H教会を二、三度訪ねた程度であった。自習時間にも監視がつくくらいだから、こっそり持ちこんだ賛美歌集もおおっぴらに読むわけには行かない。
とやかくしているうちに秋になって、私たちの今後の処遇がおぼろげながら分りかけて来た。生徒(私たちは教育隊ではそう呼ばれていた)の一部を選抜して、近く東京に新設される高等科へ送り、さらに語学を習得させる。残りは原隊に復帰して、語学力の維持につとめる。そのためには定期的に試験問題を送付する、という方針が一応きまったのである。
十一月、予定どおり一期生の教育が終了した。生徒のなかから五名ほどの高等科要員が選抜された。私もその一人であった。私は一旦静岡の原隊へ復帰したが、すでに同じ班の同年兵が二名中支の戦線で戦死し、一名が負傷して後送され、原隊で勤務していた。彼の話によると、上陸当時、本隊はすでに、敵の包囲下にあり、本隊に合流するためこれを突破する途中で大分戦死者が出たとのことであった。
原隊でしばらく待機したのち、ふたたび命令が出て、野砲兵一連隊内東京教育隊へ分遣のため出発したが、結局この原隊へは帰らずしまいになった。野砲兵一連隊は世田谷の三軒茶屋にあり(現在の昭和女子大の位置)、営内の二つの兵舎が東京露語教育隊に当てられていた。普通科兵舎には近衛師団と第一師団、それに支那派遣軍から分遣の第二期生七、八十名、また高等科兵舎には、全国の普通科教育隊の出身者約三十名があらかた到着していた。他に隊付きの将校(中尉)と下士官がそれぞれ三名おり、最先任の将校が部隊長の職責をとっていた。
この高等科で私は、奈良教育隊の兵長・鹿野武一に邂逅するのであるが、その夜行なわれた自己紹介の席で、この教育期間を通じて自己を発見して行きたいといった趣旨の、いかにも彼らしい挨拶をしている。
私が彼とはじめて口をきいたのは、到着後しばらくたった日曜日の午後である。その日、教育隊の生徒にとって初めての外出が許可されたが、鹿野と私は当番で残留した。午後になって、私たちがストーブの傍で所在のない時間をすごしていたとき、急に思いついたように口笛を吹きはじめた。私の知っているメロディであった。Espero(希望)という題の、エスペランチストの集会では必らず歌われる曲である。私は学生のとき、エスペラントをやったことがあるので、大へんなじみの深い歌曲であった。珍らしく思って、こころみに私がたずねると、即座に[C]u vi parolas Esperanton(君はエスペラントを話すか)という問いがはね返って来た。Jes(イエス)という答えを待ちかねたように、彼はつぎつぎとエスペラントで話しかけて来た。余り話しなれていないらしい口調だったが、正確な表現で、私にはほとんど理解できた。
彼は京都薬専の出身で、エスペラントは、学生時代彼がときどき訪ねた京都南禅寺の柴山全慶師のすすめによるものと分った。京都は当時、東京、札幌とならんでエスペラントの盛んな所で、中心は京大である。また柴山全慶師は、当時若い仏教徒の間で比較的支持されたエスペラント運動の中心的存在で、仏典の翻訳もあった(宗教とエスペラントが結びついた顕著な例は、他にも大本教があり、出口王仁三郎の手になる辞書もある)。
最初の対話がエスベラントではじまった事もあって、この人工語はその後私たちの間では、かなり重要なコミュニケーシヨソの手段となった。軍隊のような環境や、抑留後のシベリアでは、さしさわりのある会話は、結局はエスベラントに頼ることになった。その後鹿野から、エスペラント訳の聖書は非常にいい翻訳だから、ぜひ一読するようにとすすめられたが、今に至るまでその機会を得ていない。
高等科のふんいきは普通科にくらべると、かなり寛大で、書籍の持込みも一応自由であり、連隊側も教育側の管理態勢には直接介入はしなかったので、いわば一種の治外法権ともいうべき一区画が連隊内に出現した。
高等科の生徒は、ほとんどが高等専門学校以上の出身者であったため、この環境を奇貨として、いくつかの読書サークルが隊内に出来た。サークルは消燈後の教室でなかば公然と行なわれたが、結局二つのグループが残った。一つは京大の農業経済出身者が指導するマルクス主義研究グループで、テキストには、当時まだそれほど批判の的にはなっていなかったポクロフスキーの『ロシヤ史』を使用した。このグループから鹿野ほか一名が、後に満州の開拓村に入植するが、あるいはグループのふんいきが、二人をこういうかたちで動かしたのかもしれない。
もう一つは、普通科のKという牧師出身の兵隊と私が作ったキリスト教の読書グループで、テキストにはその出版を待ちかねるようにして入手した福田牧師の論文集『恩寵の秩序』をえらんだ。鹿野は両方のグループに出席した。集会の内容については、環境が環境なので、それ程めだった成果があったわけではないが、福田牧師の格調の高い、重厚な、そして危機感にあふれた文章に接することができただけでも、私たちには得がたい収穫であった。
東京教育隊在隊中は、日曜の外出を利用して、できるだけ教会の礼拝に出席したが、その頃の礼拝には、動員前のこうした機会を利用した軍服姿があちこちに見られた。たしか鹿野も、私と一緒に一度だけ礼拝に出席して、福田牧師の説教を聞いているはずである。
またその頃、外人による教会主宰はなるべく遠慮させるという当局の方針に従って、三軒茶屋に引退していたニコライ堂のセルギイ神父を、さきにのべたKの案内で訪ねたことがある。神父は、派閥争いのため管長の後任がなかなかきまらないのをしきりに嘆いておられたが、軍服姿の訪問は、周囲への遠慮もあって、それだげで終った。
翌年の六月に入る頃から、日曜・祭日の外出が一切中止になり、理由も分らぬままひと月経った。ある日、公用で外出した教育隊の兵隊が帰って来て、地方(陸軍では軍隊以外の一般人の世界をそう呼んでいた)で、聞いたこともないような大がかりな召集が始まっていると語ったが、これが例の関特演(関東軍特別演習)と呼ぶ大動員で、南方への転用を予定したものであった。本来北方要員として教育された私たちもこの関特演で動員され、原隊を経由せずに、そのまま関東司令部へ転属することになる。
動員に先立って、高等科で成績上位の五名ほどが、参謀本部要員に残された。鹿野もその一人であったが、転属を希望して、結局私たちに同行した。
爾後満州での情報勤務、終戦、抑留、受刑、帰国という、いわば信仰の空白がつづくわけであるが、この時期に関する記述は、すでに書いたいくつかのエッセーと重複するので割愛したい。
抑留中私は、信仰によって危機を支えられたという経験を、ついに持たなかった。あるいはそのようなかたちで、実は支えられていたということになるのかもしれないが、このことについて明確に語るちからは、今の私にはない。
私は昭和二十八年末帰国し、教会に復帰して現在に至ったが、この期間の私自身を回顧することは、今の私にはまだ苦痛である。
『断念の海から』(日本基督教団出版局、1976.2.)