[解題]

 1955年(昭和30)3月2日朝、鹿野武一は勤め先の病院宿直室で急死する。享年37歳、シベリア抑留を生き延びて帰還後、わずかに1年3ヶ月のことであった。
 帰還船の中で仲違いしていた石原吉郎と、再び交流を始めたばかりであった。石原は武一の死を聞き、とりあえずの悔やみ状を送っての後、洋罫紙16枚におよぶ長文の手紙を、武一の妻・キエ宛に送っている。それはキエのためというよりは、石原吉郎自身のため、自分の気持ちの整理をするためであったろう。
 この手紙(コピー)が妹・登美の手に入った経緯についてはわからない。
 なお、『石原吉郎全集』を出版した花神社編集部も、この手紙の存在は知らなかったらしい。

 余談ながら、多田茂治『内なるシベリア抑留体験』が妻の名前を「キセ」としているのは、「キヱ(旧仮名)」を誤認したものと考えられる。




手紙:石原吉郎から鹿野キエ宛(1955年4月4日付)



 お手紙をさしあげようと、何返も思いながら、書けば筆が重くなって、日をすごしているうちに、そちらからお手紙をいただいてしまいました。何とぞお許しねがいます。

 思いがけない出来事だっただけに、いつまでもショックがなまなましく残ってはなれません。私でさえ、そんなですから、奥様の受けられた打撃は想像に余りがあることと思います。

 私は、自分のほぼ四十年になろうとする生涯で、鹿野君ほど長い友情を持った友人は一人もありませんし、また、これからもないだろうと思います。

 私が鹿野君とはじめて親しく口をきいたのは、昭和十四年の十二月のある晩のことだったと思います。東京の世田カ谷にあるロシヤ語教育隊の一室でしたが、その時、私達は二人きりでストーブにあたっていました。鹿野君が、その時、何気なく吹いた口笛は、私が学生時代よく親しんだ、おまけに余り人の知らないエスペラントのメロディでしたので、私はびっくりして、その歌は何の歌かとたづねました。鹿野君は、即座にエスペラントで「君はエスペラントが分るか」と問い返して来ました。こんな訳で、私たちの最初の会話は、日本語でなくて、エスペラントで交されたわけですが、私と鹿野君とエスペラントは、その後、ずっといろいろなつながりをつづけて来ました。

 私たちは、いろんな点で同じものを持っていましたが、またいろんな点で、はげしいちがいもあったと思います。私たちは、軍隊生活のあいだ、ほぼ同じ考え方をし、同じ行動をとって参りました。ハルピンでひと足さきに除隊して、東安へ赴任する鹿野君を、たった一人でハルピン駅に送りに行ったことを憶えています。

   ひたぶるに友はい行くもはろかなる
     軌路のひびきに吾(あ)はし聞きいる
 こんな歌を書いて、追いかけるように鹿野君に送りました。

 鹿野君は、その時、新京と東安の両方に就職口があったのですが、中央を避けて東安へ行きました。

 それから三カ月ほどたって、私は新京の司令部に移りましたが、丁度六月ごろ、鹿野君は内地へ行くために新京へ寄りましたので、私はすぐ宿舎に会いに行きました。宿舎は興安大路に近い処で、どこもかしこも、青葉でむせかえるようでした。鹿野君が、私と一緒に町を歩きながら、「新京がこんなにいい処だったら、新京につとめてもよかったなぁ」と言ったのをおぼえています。

 私はその時、結婚したいと思う女の人が、神戸にいましたので、鹿野君にたのんで、日記と本をとどけて貰いました。

 その後、私は十一月末に除隊し、一旦東京に皈り、七月にまた渡満して、ハルピンの電電調査局に入りました。その当時鹿野君は、時々ハルピンに寄っては、私やつるがさんの処へ泊りました。

 十八年の秋の終りごろ、鹿野君が来た時、二人で勤め先の近くのレストランで昼食をとりましたが、その時鹿野君は、妙にあらたまった調子で、「実は僕は、結婚をした」と言いました。正直なところ、私には、鹿野君が結婚したということは、しばらく信じられなかったのです。鹿野君は、およそ家庭生活というようなものには縁の遠い人で、結婚するにしても、うんとおそく結婚するだろうと何となしに、そうきめていたものですから、鹿野君にとつぜん、そう言われた時には、非常におどろきました。

 その後、鹿野君は、開拓団に入って、会う機会が少くなって、そのまま終戦を迎えたのですが、終戦の混乱の中ではからずも、鹿野君と堀田君に会った時のことはいつまでも忘れることが出来ません。

 その頃、私は、事情があって、先輩の婦人と一緒に居りましたが、鹿野は、時おり見えて、おちつかない中で、いろいろな話をしました。

 奥様と妹さんがハルピンに来られたのは、その頃だったと思いますが、鹿野君が一度来て会ってくれと言われたのに、も少しおちついたらと思っているうちに十二月の末に私は抑留されてしまいました。

 抑留されて、私はすぐアルマ・アタに送られて、馴れない生活を送るようなことになったのですが、その頃、よく、帰ったら、何よりも先に、鹿野君に会ってシベリヤの生活でいろいろ考へてつけた結論らしいものを話したいと思ったのです。鹿野君が同じシベリヤに来ているなどということは夢にも考えていませんでした。

 四年目にカラガンダへ来た時、そこの二十分処から来た人が、鹿野君の手紙を渡して呉れたので、はじめて鹿野君がシベリヤに来ていることを知って、愕然としたのです。その時の手紙は、全部エスペラントで書いてありました。私は、すぐに、入ソ以来まとめた歌集を、人にたのんで鹿野君にとどけてもらいました。

 それから、ずっと連絡がと絶えました。私はその翌年の四月の末に、正式に裁判所のある分所へ送られ、そこで起訴されて、未決監に入れられました。ある晩、おそくなって、廊下に、新しく収容される人の声が聞えたので、注意して聞いていると、まぎれもない鹿野君の声で、「鹿野武一」と姓名を告げる声が聞こえました。鹿野君は、反対側の監房に入れられたのですが、私は、その晩、運命というものの、想像を絶した構造について考えざるを得ませんでした。

 而も、すぐ傍まで来ていながら会うこともできず、そのまま判決を受けて、カラガンダの草原のまんなかにある刑務所に移りました。追いかける様にして鹿野君は、同じ刑務所に移って来ましたが、ここでも監房が別で会うことが出来ないまま、夏の初め頃、鹿野君は、多ぜいの日本人と一緒に何処かへ出て行きました。

 その後一週間ほどたって、鹿野君が、出発に際して人に託した手紙が私の手に入りました。手紙はやはりエスペラントで「私は生きる力を失った」と書いてありました。この手紙については、私はしばらくのあいだ、ひどく心配しました。

 九月になって、私もまた、刑務所を出されて、カラガンダ市内のロシヤ人の収容所に送られたのですが、思いがけなく鹿野君が、そこに居ることを聞きました。もう夜半だったのですが、私はすぐ鹿野君のいるバラックにとんで行って、寝しづまったバラックの入口で、大きな声で「鹿野君」と呼んで見ました。

 鹿野君も僕の来たのを知っていたようでした。私はそこで、四年ぶりで鹿野君に会ったのですが、その時、最初に鹿野君が口にした言葉は「俺は君に会いたくなかった」ということばでした。僕は「馬鹿なことを言え」といって、大分憤慨したことをおぼえていますが、併し、入ソ以来、極度に自己と周囲を遮断して、完全な孤独の世界の中に、自分のいのちを守りつづけて来た鹿野君にとって見れば、それだけ僕に会うのは、辛かったのだろうと思われるのです。

 鹿野君は、躰が弱っていて休養中でしたし、私もその次の日の身体検査で休養を命ぜられたので、それからしばらくの間は、ひまさえあれば、一緒になって、話をしました。二人とも、現在の苦しいことについてはほとんど触れず、ただ昔のことばかり話しました。私たちが、シベリヤで一番親しく話し合ったのは、その数ヵ月であったと思います。夜は、時々、一緒の寝台で寝ました。

 その後、鹿野君は作業に出るようになり、お互に話をする機会は少くなりましたが、それでも、朝、鹿野君が作業に行く時はかならず営門まで送って行き、鹿野君は帰って来れば、まっすぐに私の処へ来て、その日あったことを話す習慣でした。

 ある日、鹿野君は、珍らしくはればれした顔で、私の処へやって来て、「もし君が日本へ帰ったら、僕の女房に会って『鹿野武一はX月X日(この日にちは忘れました)に死んだ』とそう伝えて呉れ」と言うのです。訳を聞くと、その日鹿野君は、いつもの様に、みんなと一緒に、護衛されて、作業場へ出かけたのですが、その途中、いつも通る大きな池のそばに来たのだそうです。とてもよく晴れた日で、朝の太陽の光が池にきらきら反射してとても美しく見えたので、「ああ、死ぬならこんな時だ」と思ったのです。そうこうしているうちに、眼鏡を大分前になくしていた鹿野君は、はっきり見きわめがつかないあいだに、いつのまにか池を通りすぎてしまいました。併し、鹿野君は結局、あそこまで考えたのだから、死んだと同じことだと考えて、その日一日、今までになく気持よく働いたというのです。

 その後も、鹿野君は、しょっちゅう、死ということを考えつづけていたらしいのですが、併し、もともと、科学者である鹿野君と、私とでは、死ということの受けとり方がずい分ちがっていたようです。死は今でも、私の、ものを考える上の大きな支えになっているのですが、私は、今度、鹿野君に会ったら、その事を、もっとはっきり話して見たいと思っていました。鹿野の事実上の死は、私を、今までより、もっと、はっきりとこの問題に近づけてくれたように思はれます。

 私たちのそういった生活は、その年の十月に終りました。私は鹿野君よりひと足さきに、バイカル湖の西の森林に送られて、そこでほぼ半年余、全く別々に暮しました。別れる日に、鹿野君に「帰ったら連絡できるように住所を教えてくれ」といったのですが、鹿野君は「そんな必要はない」といって、ついに住所を教えてくれませんでした。奇妙なことに、舞鶴へ着く前の晩、船の中で、私は鹿野君に、同じようなことを要求したのですが、やはりこの時も鹿野君は拒絶しました。帰還直後、鹿野君と私が少しこじれたのは、その事からなのですが、私は少し憤慨していましたので、奥様や妹さんが鹿野君を迎えに来られたことを知っていても、とうとうお会いせずにしまって、残念だと思っております。

 私たちのその森林地帯での半年余は、八年の生活の中で一番苦しい期間でした。その翌年、半年ぶりで、タイシェットに集結した時には、お互いの顔が分らない程やつれていましたし、死地を脱して再会したことに対してもほとんど、別に感動もしないほど、お互いに疲れきっておりました。

 それでも、私たちは、輸送の貨車の中でも、隣り合って席をとって、ハバロフスクに来ました。

 私たちは、ハバロフスクへ来て、やっと人間らしい気持をとり戻しました。待遇も多少改善されて、少しづつ健康を恢復して来ました。そしてその頃になって、はじめて、長い風雪の中で、まったく枯れはててしまったと思われていた私たちのさまざまな感情が、一時に新鮮な力を以て、あふれて来ました。

 鹿野君と私が、だんだん別々な考え方をするようになったのはこの頃からでした。

 バイカルの森林にいた頃から、鹿野君は志田君と親しくするようになったのですが、ハバロフスクに来てから、とりわけ二人は親密になりました。一つには、志田君が、受刑前の捕虜時代に、民主運動をやったので、周囲から白眼視され、全く精神的に孤立していたのに、鹿野君が同情したことが原因でもあったと思います。

 その翌年、二十六年の五月だったと思います。私のところへ、今まで一度も口をきいたことのない志田君がやって来て「鹿野君が急に飯を食わなくなったがどうしたらいいだろうか」と言うのです。話を聞いて見ると、その日、(たしか五月の二日か三日ごろです)作業場で、昼食時になって、急に鹿野君が、「俺は今日から飯を食わん」と志田君に言って、それを実行しはじめたらしいのです。私はすぐ鹿野君の寝台へ行って見ましたが、鹿野君は石のように黙って、全然返事をしないので、仕方なしに戻って来ました。

 幸い、この絶食は二日位いで終ったといって、志田君が大嬉び[ママ]で私に報告に来ました。その晩、はじめて、鹿野君は志田君に、絶食の理由を話したそうですが、丁度メーデーの祭日の前日に、ハバロフスクの文化公園の飾りつけに鹿野君たちが動員されたのだそうです。その時、若い娘さんが、この外国人の囚人を見て、可哀そうに思って、一人一人にパンを配ってやったそうですが、感じやすい鹿野君には、これがひどくこたえたらしく、一途に生きるのがいやになったというのでした。

 こんな事件があってから、鹿野君の心境も一応底をついたと見え、次第に元気を恢復して来て、躰も肥って来ました。その頃は、鹿野君は、労働の方でも、ずい分優秀だったようです。

 金がもらえるようになってからは、ずい分本を買ってもらって、ひまさえあれば寝台の上で読んでいました。その頃、鹿野君がよく読んでいた本はトルストイのものが一番多く、その他、生物学や医学の本をずい分持っていました。

 その頃の、鹿野君のものの考え方の中心となっていたと思われるものは、私の想像では二つあるように思われます。

 一つは、人間の「生命に対する執拗な執着」といえると思います。それは、人間の生命に対する愛着といったような感傷的なものでなく、もっと生物学的な、生命の本能の法則に対する、恐れに近い肯定といったものだと思います。これは、おそらく、医学や生物学に親しんだ鹿野君の教養から来たものでしょうが、停戦後、何度か、生き死にのどたん場を通って来た鹿野君が、最後にどうしても否定しきれないものとして、生きようとする人間の本能を肯定したのは、自然だと思います。私は、その翌年の春、鹿野君の口から「生きようとする意志。結局僕が肯定できるものはこれだけだ」という言葉を聞きました。この言葉自体は、別に珍らしいものでも何でもありません。私たちは、大なり小なり、みな、シベリヤの苛烈な風雪の中で、おのずとそういう考えに到達したのですし、誰もが、生きて行く以上、日常のモラルを越えた、そういうきびしい法則を身につけないわけには行かなかったのです。

 けれども、そういう動かない一つの法則を発見したことが、ふつうの人ならば、積極的に生きて行くための強い支えとなるところを、鹿野君の場合は、逆に、深い絶望をもたらしたといえます。

 「*どんなことをしても*、結局生きざるを得ない」ということから「どんなことをしても生きなければならぬ」という結論へ飛躍するためには、鹿野君は、余りに純粋であったし、余りに人間を愛しすぎていたと言えましょう。

 「どんなことをしても生きなければならぬ」という言葉を私たちは合い言葉のように使いました。そして、多くの場合、その言葉を私たちは、あの苛酷な環境の中で生きて行くために犯したさまざまのみにくい行為、あさましい行為、にくむべき行為、愚かしい行為への弁解のために使わざるを得なかったのです。

 鹿野君は、同じ人間として、自分の中にも、それと変らない本能があるという事を知った時、喜こぶよりも、むしろ絶望したにちがいありません。また、人間が生きて行くための最後のよりどころとして求めていた美しいものや、神聖なものが、結局そういう本能的な生の衝動であったと知った時の鹿野君の絶望は、大きかったにちがいありません。

 それから、もう一つ鹿野君の当時の考えの中心になっていたものは、深い本能的な「罪障感」でした。そして、このことは、鹿野君の教養というよりは、むしろ、その出生や、育って来た環境、鹿野君自身の性格の中にその原因があるように思えます。

 けれども、その罪障感、「罪の意識」が、はっきりしたものとなって鹿野君の行動の中にあらわれて来たのは、やはり、前に申し上げた「生きんとする意志」の肯定にむすびついていると言えます。鹿野君は、人間は「生きようとする意志」を捨てることの出来ないもの、そして、その為に一歩一歩罪障を犯さざるもの[ママ]を得ないものと見ていたのではないでしょうか。

 一度、鹿野君は「どうしたら、僕らの罪は消えるだろうかね」と言ったことがあります。こうした罪障感の深さは、必然的に信仰の問題を伴って来ると思います。信仰が問題とならなければ、罪障感の深いことは、むしろその人にとっては、いたましいものです。併し、鹿野君の科学者としての教養は、鹿野君に、信仰ということを冷たく否定していたようです。

 こうした暗い罪障感は、結局鹿野君の自虐的な行動となってあらわれました。二十六年の秋ごろから、鹿野君は、実にはげしく働き出しました。人が疲れて休んでいても、全然休むということをしないのです。併し、人の二倍も三倍も働く鹿野君の様子が、決して心から労働をたのしんでいるとは見えないのです。「疲れるために働くんだ」と、よく鹿野君は言っていました。

 結局、こういう生の本能や罪障感から逃れるために、苦行のように労働にはげんだというよりほかに仕方がありません。

 作業場で作業の配置につく時、出来るだけ楽な、出来るだけ条件のいい場所に行きたがるのは、きわめて自然なことなのですが、鹿野君は、きまって一番条件の悪い、一番苦痛の多い場所に、進んで行きました。そういうことは、決して英雄的な行為でなく、むしろ苦行者のような趣きがありました。決して心からよろこんで、そこへ行った訳ではないのです。

 「そうする方が、気がらくなんだ」と鹿野君は言っていましたが、肉体的に苦しんで、精神の安らかさを希う鹿野君の態度の中に、裏がえしにされた、全く同じ「生への本能」を見のがすわけには行きませんでした。

 こうした、特異な考え方によって、鹿野君は、収容所では、いつも孤独でした。併し、鹿野君は、自分で孤独でありたいと望んだわけでも、孤独であることを誇っていたわけでもありません。自分が特異な人物として、周囲と懸隔していることを、むしろ非常に苦痛に感じていたと思います。

 「僕は、変った人間と思われたくない」とよく言っていました。

 二十六年の夏頃、たまたま、収容所で上映した映画の中に出て来たラヴ・シーンが私たちの間で問題になったことがあります。男ばかりの六年近い生活でしたから、私などには、たとえ、甘い感傷的なものであったにせよ、映画のそういう場面は、非常に新鮮な感動を与えた訳なのですが、鹿野君は「僕は、人間の愛情というものは理解できるが、併し、ああいうのは全然理解できない」と言いました。

 私には、鹿野君のそういう態度が、何か、湧き上ってくるすなおな感情を、暗い理性と観念の力でかたくなにおさえているような気がしたので、「君は、ひどく常識的じゃない」と言いました。

 この言葉は、大へんまずい言い方で、自然じゃないというほどの意味なのですが、鹿野君はこの言葉がひどく気にさわったらしかったのです。

 その翌日から鹿野君は、全く私に口を利かなくなり、私を避けるようになりました。それは、徹底した避け方で、遠くの方で私の姿を見ても道を曲ってしまうのです。

 私は、自分の言った言葉が鹿野君にそんな重大なショックを与えたと知らないので、最初の間は、大分ふんがいしました。

 併し、鹿野君にとって、「変った人間だ」と言われることは、肉体的な苦痛に近いものであったということに、それから一年たってやっと気がついたのです。

 その一と言をきっかけに、鹿野君と私の不和は丁度一年つづきました。志田君が、ひとりで心配して、私と鹿野君の間に立って、気をもんでいたのですが、私はとも角、鹿野君の方は、徹底して頑固に沈黙を守る一方なので、ついに志田君もあきらめて、私たちは、道で会っても顔をそむけるようになりました。

 その間、併し、志田君とは、親密で、いつもよく一緒に話をしていました。併し、その間に、私は私なりに、鹿野君は鹿野君なりに、多少は考え方の屈折も展開もありました。

 そして、翌年の二十七年の春、志田君が「鹿野君が会いたがっている」と言っていたので、私は鹿野君の処へ行って、一年ぶりで話し合いました。その時、鹿野君は、「僕は、たとえ、今でなくても、いつか、誰かが自分を理解してくれるだろうという期待がなかったら、とても生きて行けない」と私に言いました。

 「人間が本質的に理解し合うということはないと思う。そういう理解者を望む方が無理だ」と私が答えると、
 「勿論それは知っている。僕は、今、*ほとんど*それをあきらめている」と鹿野君は言いました。

 こうして、一年ぶりで、鹿野君と私は、また口をきくようになったのですが、今申し上げた会話でお分りになるように、私たちは、お互いに理解し合える面と、おのずと、それに触れるのを避けるような面が出来ました。依然[ママ]のように、何でもかでも、考えたことを話し合うということはなくなりました。

 その頃から、鹿野君は、次第に志田君に対して冷淡になりはじめました。これは、私との場合のように別にきっかけがあった訳でもありません。また、志田君の態度には何の変化もないのに、鹿野君の態度の方が変って来たのです。しまいには、二人とも全く口をきかなくなり、ついに別れるまでそのままでした。

 このことは、鹿野君と志田君の人生観が全く異質的なものだったからだということができると思います。志田君は、非常に楽天的なマルクス主義者で、そのことは鹿野君もよく理解していましたが、ただ、ああいう、厳しい環境の中で、志田君の人間観なり、歴史観なりが、一向変化せずに固定したままであることが、次第に、するどく、とぎすまされてゆく鹿野君の気持に、だんだん合わなくなって来たのでしょう。

 人間は、お互いに全く別々の人生観なり、世界観を持つことは、やむを得ないとしても、お互い相手の考え方を、ある程度深く理解しなければ、友情というものは成立しないと思います。この場合、鹿野君の方は、志田君の考え方を非常によく理解していました。志田君の考え方は、いつも政治的なものにむすびついていて、内面的な陰影というものが全くなかったので、私にも、理解するのは容易だったわけです。それに、引きかえて志田君の方は、ほとんどと言っていい位、鹿野君の苦しみが理解できなかったのです。こんなことが、二人を次第に遠ざけるようになった原因ではないかと思います。

 ただ、鹿野君のこうした態度の中には、余りに唐突な処があり、時には常識の枠をはずれたような処もあった為に、しばしば周囲の人の誤解を招いた点もあったことは否定できないと思います。

 二十七年の夏から、秋にかけて鹿野君は珍らしく、精神的な平衡がとれたようで、顔色も明くなり、作業場での働きぶりにも余祐[ママ]が出来たようでした。その頃になって、鹿野の人柄に対して、尊敬の気持を抱く人々が少しづつ多くなり、特に若い人たちが、よく鹿野君の周囲に集まって来たようでした。

 併し、その年の冬になって、また鹿野君の平衡はくずれたようでした。そして、とうとう、ある日、収容所長に請願書を出して、自分は今后、労働をしないが、その代り食事もしないという意志を伝えました。

 その頃は、鹿野君に親しみを持つ人が相当あったため、誰もこのことに心を痛め、作業現場では、それとなく監視をつけたりして、鹿野君の行動に注意したりなぞしたのですが、鹿野君はそのことを知ってか、知らずか、その数日は固く沈黙を守ったまま、全く食事をとらず、誰が行っても相手にならないので、収容処の日本人の幹部たちもすっかり途方に暮れました。

 たしか、土曜日だったと思いますが、夜おそくなって、私は、幹部室へ呼ばれて、君は特に鹿野君と親しいと思うから、君から鹿野君の決心をひるがえすようなことを言ってくれないかと言われました。

 私は、鹿野君の気持は、鹿野君自身で解決するより他に、方法がないということを、これまでの経験で知っていましたし、唯、生きていなければならぬ、生きていさえすればいいのだ、といった幹部の単純な割り切った考え方がたまらなかったので、「鹿野君を死なせてやったらいいじゃないですか。それが僕たちの愛情というものだ」と言って、そのまま帰って来ました。

 けれども、それですませるはずはないので、私は一と晩考えた末、とに角鹿野君が、飯を食べるようになるまで、私も飯を食べないことに決心しました。これは、大変ずるい方法で、鹿野君が、そういうことに耐えられないと見こしてやった事なのです。私は、その次の朝から食事を抜いてその日の午後、鹿野君の処へ行き、「君が食うまで、僕は飯を食わないが、併し止(と)めるわけではないから、自分の好きなようにやってくれ」と言って帰って来ました。大へん芝居じみたやり方ですけれど、そうするより他、いい智恵が浮ばなかったのです。

 私は、少なくとも二、三日は絶食を覚悟していたのですが、思いがけなく、その日の夕方、鹿野君は私の処へやって来て、「飯を食うから、一緒に食堂へ行ってくれ」というのです。私は大喜びで、食堂に行き、二人で一緒に食事をしました。それから、二日ほど私と鹿野君は、朝晩一緒に食事をしました。

 そういうことがあってからも、私は鹿野君には、一定の限界以上には近づこうとは思いませんでした。孤独が鹿野君にとって一種の救いだったし、下手に、その内部に深く触れるとすれば、やはり以前のような事が起るのを覚悟しなければならなかったからです。

 併し、それでも、やはり淋しくなると見えて、鹿野君の方から私を訪ねて来て、ぽつりぽつりと、併し案外立ち入った話をすることがありました。最後の年の春、私は、急にギターが買いたくなったのですが、金が足りなくて困っていたところ、鹿野君がそれを知って金を出してくれました。その時、泣きたい程嬉しかったことを忘れません。


 話は、多少前後しますが、先程、鹿野君のシベリヤ生活の一つの特長は、その自虐的な生活態度だということを書いたと思います。けれども、これは決して、シベリヤ時代に始まったことではなく、軍隊時代にも、満州時代にも見られたことだと思います。鹿野君が東安の防疫所を出て開拓村へ行った前後のいきさつは、おそらく奥様が一番よくご存じであろうと思いますが、私なりの見方をすれば、そこに、直接的な生活意欲はあったにしても、その奥にやはり自虐への傾向があったことは否定できないような気がするのです。併し、シベリヤ時代には、その自虐がはっきり意識的に、意志的になったといえるかも知れません。鹿野君は自身誰よりもよくこの傾向を知っていましたし、そういったものに、自分の性格的なもののあることを強く感じていたようです。ですから、他人の自虐もよく理解することが出来たのでしょう。

 内地からの通信で、妹さんが癩院へ行かれたことを知ったことは、鹿野君にとって大きな感動であったようですが、併し、鹿野君は、妹さんのそうした行動が必ずしも人道的な感情から割り出されたものではないという風に感じていたようでした。「妹は、自分を葬りに行ったのだとしか思えない」と私に言ったことがあります。鹿野君は自分と妹さんのそういった類似の中に、何か悲劇的なものを感じていたのではないでしょうか。


 二八年の六月はじめ、突然私たちは集合を命ぜられて、その場で、帰還する組と残留する組に分けられました。鹿野君は帰還組に入って、その収容所に残り、私や志田君は残留組に入れられて、別の収容所に直ちに移されました。あっという短い時間の出来事で、私たちはお互に、誰が帰るのか、誰が残されたのかを確認するひまも、お互に別れを告げるひまもありませんでした。

 その日、新しい収容処におちついてから、鹿野が私たちの組にいないのに気付いて、暗い、やり切れない気持の中でも、とに角ホッとすることが出来ました。

 実際、鹿野君に、もう一度この生活を強いることは、不可能に近いものでした。

 幸い、三日後に、四十名ほどの帰還者追加があって、私もその中に加えられまたもとの収容所にもどされました。そこで、再び鹿野君に会った訳ですが、その時鹿野君は私に、「みんなが全部帰って、僕一人残されたらどんなに気持がいいだろうと思った」と語りました。これは、少し感傷的な言葉ですが、併し、その中にやはり、生来の自虐的な感情がのぞいていることは否定できないと思います。


 私たちは、それから一週間ほど後に、ハバロフスクを出発してナホトカへ来て、十一月末までそこで全然、労働もなにもない、ソ連へ来て初めての、のびのびした生活を送りました。

 それは、実に不思議な期間でした。およそ誰もが、そこで、過去八年間の生活を否応なしに回顧させられると同時に、これから始まる、新しい生活、人間として生きて行く権利の回復というものに対して一様にある不安を抱いたにちがいないのです。私たちは、そこでの静かな生活が永びけば永びくほど、次第に自分たちの未来に対して不安を感じました。勿論そういった不安は、自分たちを待ち設けている生活の不安とは全く別のものです。どう言ったらいいでしょうか。つまり、自分たちの内部に、人間として将来生きて行かれるだけの、それだけのものに価いするものが、尚お、残っているだろうかという不安です。私たちは、その数ヵ月の生活の間に、徐々に自信を失って行きました。

 勿論、そうでない人もいました。併し、人間らしい感受性の最後の一片をまだ持ちつづけていた人は、当然、絶望せざるを得なかったのです。少くとも、あの期間に、野心や希望を持ちつづけた人は、それだけ、非人間的であったというより他に仕方がありません。

 そして、鹿野君は、おそらく誰よりも、はっきりとそういう不安に直面しただろうと思います。

 「僕は、これから先、生きつづけて行ける自信はない。ひょっとしたら舞鶴へ船が着く前に、海へとびこみそうな気がする」という事をある人に言ったそうです。

 この、ナホトカでの数ヵ月の間に、私は鹿野君と、もっといろいろな話をすべきであったかも知れません。いや、そうすべきであったのです。

 併し、私自身、極度に不安定な心理状態で、過去についても、未来についても、考える気力も余祐[ママ]もなかったのです。


 忘れましたが、鹿野君は、ついに最後まで志田君と和解しませんでしたが、併し、内心ではその事に大分責任を感じていたようでした。

 「僕は志田君に対して、冷酷だったと、人に言われても仕方がないような気がする」と言っていたことがあります。

 結局、鹿野君は、志田君に何ら暖い言葉もかけずに、そのまま別々の収容所に別れてしまったのですが、ハバロフスクを出発する直前、志田君のいる収容所へ送ることになっていた被服類の中へ、手紙を入れて送ったそうです。その内容のことは、話しませんでしたし、また、志田君の手にその手紙が入ったかどうかも知る由もありませんでしたが、鹿野君の性格から推して、あの手紙には、志田君に対する態度を詫びると共に、やはり、はっきりと志田君の考え方に対して自分の立場を書いたのであろうと思います。


 私は、十二月一日に、丁度十年ぶりで、日本に帰って来ました。私の父母は私の知らない間に死んでおりましたし、私の一身に関しても、一返に考えなければならないような事がどっとおしよせて来ました。

 舞鶴へ上陸した直後は、誰も彼も、自分と自分の家庭について考えることで一杯で、お互い同志[ママ]をふり返る余祐[ママ]はなかったようでした。私自身は、自分を迎える家族は全くありませんでしたが、それでもやはり、いろいろと考えることはありました。舞鶴の寮では、鹿野君と私は一緒の部屋にいたのですが、ついに話し合う機会がありませんでした。

 船中で、鹿野君のちょっとした不可解な態度についてお互いがこじれたことは前にも申しました。私は、鹿野君の処へ、奥様方が来て、話しておられるのを見て、知っておりましたが、そんな訳で、全然近づきませんでした。尤も、私なりの遠慮もあったのです。

 あす、舞鶴を出発するという夜になって、はじめて鹿野君が私の処へ来て、自分の身辺の状況について、ごくみじかく話をして帰りました。私が鹿野君の顔を見たのも、鹿野君の話を聞いたのも事実上それが最後だった訳です。


 それから、京都からかんたんな葉書が来て、ずっとお互いの音信は杜[ママ]絶えておりました。おそらくその時期は、誰にも手紙を書く気にはならなかっただろうと思います。私も同じことでした。

 今年の二月になって、はじめて詳しい手紙が来て、それによって、この一年の鹿野の生活をほぼ知ることが出来ました。次で、又手紙を送って来て、ロシヤの歌の本と、医学関係のロシヤ原書について問い合わせがありましたので、とりあえず、歌の本を別便で、高田の病院の方へ送り、原書の方は、書店でしらべて、その目次のうつしを送りました。その時、自分の生活についての報告と共に、これから順調に文通がつづくことを予想して、自分が鹿野君に考えてもらおうと思った、大事ないくつかの問題のいとぐちを書いて送りましたが、その直後に奥様の葉書を受取り、次いで、鹿野君にあてた私の手紙は高田から返送されて来ました。


 鹿野君が、二月に送って来た手紙の終りの方には、「自分は今すべてをあげて妻に奉仕することを最大のよろこびとしています」という言葉がありました。

 鹿野君が、永い精神の遍歴を経て、もっとも、まちがいのない、全てを賭けるに価するものとして、さらに、其処に必ずしも明るいものでなかったと思われる半生の安らいの場所として、安んじて自分の身を託そうとしたものは、こういう、ひたぶるな愛情であったと考えます。


 私が、鹿野君と私との宿命的といってもいい程の長い交友について奥様にお知らせすべきことは、これで、ほぼ終ったような気がいたします。必ずしも、たのしいことばかりの追憶とは申されませんし、読んで不愉快なことも書いたと思いますが、私としては、とにかくありのままのことを書きました。鹿野君の印象についても、奥様の印象とはずいぶんちがうかも知れません。もしそうでしたら、お許しねがいます。


 「生者必滅 会者定離」ということを言います。私たちの先祖は、長い、長い時間をかけて、自分の悲しみにきたえられながら、少しづつ、そうした諦念を積みあげて来たように思います。そして、私たちの血の中には、やはり、そうした、無数の先祖の悲哀と諦念がうけつがれているようにも思います。シベリヤの生活の中で、私たちは、実にさまざまな人と出会い、その人たちと別れて来ました。私たちには、遭遇の数と、同じだけの別離の数がありました。そして、むしろ遭遇することよりも、別離することの方が、人間の本来の在りようではないかとさえ考えました。遭遇すると同時に、別離を予想しなければならないのが、囚人の生活というものであったのです。

 カラガンダで、鹿野君と別れて、バイカルの西へ送られる時、鹿野君は、私を収容所の門の見える所まで送ると、そのままだまって、踵を返して遠ざかって行きましたが、一度も後をふり返りませんでした。鹿野君が亡くなった知らせを知ってから、私は、よくそのことを思いだします。そういう風にして、鹿野君は、私たちの傍からはなれて行ったような気がいたします。


 鹿野君が、亡くなってから、私には死ということが、前よりもずっと身近な問題となったように思えます。

 私は、自分のこれから先の生活に対して、ほとんど期待を持っておりません。私の生活はシベリヤでほぼ終ったように思います。私は最少限度働いて生きておりますが、いつでも生活の一切を放棄できるようにと、そんな身構えで毎日を送っております。生きて行くということは決して楽なことではありませんし、むしろ、長い苦悩の連続のような生活の中で、時おり、ほんの瞬間だけ、明るい光に、奇蹟のように照らしだされるのが、私たちの生きているほんとうの姿ではないかと思います。

 鹿野君を失われた上、また、困難な手術を受けられることを考えると、どうお慰さめしてよいか分りません。

 けれども、人間の生活には、どんな時にでも、それなりの救いはあることと思います。

 どうぞ、くれぐれも、ご自愛なさいますようお祈りします。


 鹿野君が亡くなって後、さまざまに考えあぐんだ、私自身の結論といったもの(そういうものがあるとすれば)は、今は申し上げないことにいたします。


 追われるような状態で書いたため、いろいろ読みづらいと思います。お許し下さい。


 時折り、お閑な時にでも、御様子をお知らせ下さいましたら幸堪[ママ]です。

   四月四日
                            石原吉郎
 鹿野きえ様


forward.GIF「ペシミストの勇気について」石原吉郎
forward.GIF野次馬小屋/目次