[解題]

 『日常への強制』(構造社、1970.12.)所収。
 この書は、数編の随筆を加えて、『望郷と海』(筑摩書房、1972.12.)として出版され、衝撃をもって迎えられた。その中に、鹿野登美も含まれていた。このときの衝撃を、登美は次のように記している。
 実は私は『望郷と海』を新聞の書評欄で初めて知った。そのころ私は勤務先の大変複雑な問題の渦中にあって、心身弱り果てていた。空しい思いで夜更けに新聞を広げていた私の目に、「望郷と海」という一文字が、続いて「石原」さらに「鹿野武一」が飛び込んできた。書評を読み終えた私は、衝撃のため立ち上がって部屋の中を歩き廻ったのを覚えている。

 「どうしよう。何から始めたら良いのかしら」と独り言ちながら。”石原吉郎”の姓名は、はっきり記憶していた。ハルピンで、舞鶴で、また兄からの手紙の中で。しかしすでに十年近くも以前にH氏賞を受賞された詩人であられることも、それらのエッセイが数種の雑誌に掲載されていたということも全く知らなかった。一方兄の死後十七年、あの無惨な悲しみも、ようやくその形を変え始めていたのに、ハルピンの路上から突然消えていった兄が、あの朝の恰好のまま帰って来たような錯覚というか、二十七年間の歳月が、今の一瞬に凝縮されて浮上してきたような思いに突き上げられた。
          (鹿野登美『遺された手紙』)




ペシミストの勇気について



 昭和二十七年五月、例年のようにメーデーの祝祭を終ったハバロフスク市の第六収容所で、二十五年囚鹿野武一は、とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知られないまま行なわれたので、周囲の者がそれに気づいたときには、すでに二日ほど経過していた。絶食はハンストのかたちで行なわれたのでなく、絶食中も彼は他の受刑者とともに、市内の建築現場で黙って働いていたため、発見がおくれたのである。

 ハバロフスクには、六分所および二十一分所と、いずれも捕虜時代の呼称をそのまま踏襲した二つの収容所があって、いわゆるソ連の〈かくし戦犯〉(サンフランシスコ条約の一方的成立に備えて、ソ連が手許に保留した捕虜・抑留者の一部で、極東軍事裁判とは無関係に、ソ連国内法によって受刑したもの)を収容していたが、入所経路はまったくちがっていた。六分所は、ソ連の強制収容所でももっとも悪い環境にぞくするバム(バイカル・アムール鉄道)沿線の密林地帯から移動して来た日本人が主体で、移動後の緩慢な恢復期に、バム地帯での身心の凍結状態から脱け出すために、かなりアンバランスな緊張状態を経験しなければならなかった人びとが大部分を占めていた。人間の結びつきが恢復して行く過程もかなり特殊で、それも長い相互不信の期間を必要とした。前述の鹿野武一の絶食は、私たちがこうした恢復期をほぼ終ろうとする時期に起きた。

 入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ二回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動した。私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。おなじような条件で淘汰を切りぬけて来た私たちは、ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だったのである。

 このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。

 しかし、のちになって思いおこしてみると、こうした彼の姿勢はなにもそのとき始まったことでなく、初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで、つねに一貫していたと私は考える。彼の姿勢を一言でいえば、*明確なペシミスト*であったということである。

 鹿野と私は、同じ部隊で教育を受けて満州へ動員され、いく度か離合をくり返しながら、ほとんど同じ経路を経て帰国した。鹿野の精神形成にとって大きな意味をもっているこれらの経緯を逐一語る余裕はいまないが、ある時期の鹿野にとって、私はほとんどただ一人の友人だったといっていい。

 昭和二十年、敗戦の冬、鹿野と私は相前後してハルピンで抑留された。抑留のきっかけが、いずれも白系ロシヤ人の密告であったことも奇妙な暗合である。翌年初め、鹿野は北カザフスタン、私は南カザフスタンの収容所へそれぞれ収容された。

 私の最初の抑留地はアルマ・アタであったが、ここで三年の〈未決期間〉を経たのち、昭和二十三年夏、選別された一部抑留者とともに北カザフスタンのカラガンダヘ移された。その年の秋、すでにカラガンダヘ来ていた鹿野から一度、人を介して簡単な連絡があったが、その後消息不明のまま、翌年二月私は正式に起訴され、カラガンダ市外の中央アジヤ軍管区軍法会議カラガソダ臨時法廷へ身柄を移された。判決を受けるまでのニカ月を、私は法廷に附設された独房ですごしたが、ある夜おそく、真向いの独房へ誰かが収容されるらしい気配に気づいた。その頃私は、周囲の出来事にほとんど無関心になっていたが、警備兵の誰何にたいして「鹿野武一」とはっきり答える声を聞いたとき、さすがにおどろいてとび起きた。

 その翌日から私は、なんとかして鹿野と連絡をとりたいと、そればかり考えて暮した。ソ連兵の警備は見かけによらず大まかなところがあるので、双方がその気になれば、たいていのばあい連絡がとれることはそれまでの経験でわかっていたが、鹿野の方から積極的に連絡をとってくる気配はまったくなかった。

 四月二十九日、私は他の独房の十数人とともに重労働二十五年という予想外の判決を受けたのち、カラガンダ第二刑務所へ送られ、想像もできなかった未知な環境での、新しい適応の過程をあらためて踏みなおすことになった。

 七月に入って、新しく送られて来た既決囚の集団が別の監房に収容されたという噂が私たちのあいだにひろまったが、私はそのなかに、おそらく鹿野がいるはずだと考えた。起訴されて無罪になった例は聞いたことがなかったし、判決を終った日本人はぜんぶ第二刑務所を経由することになっていたからである。

 八月初め、この新しい集団は、炭坑に近い収容所に移され、日ならずして私たちもその後を追った。この収容所は、短期問の刑事犯専用の収容所で、私たちのような特殊な長期囚は収容できない所であったが、所長同士の、闇取引で、一時労働力を融通したことがあとでわかった。しかしこの闇取引のおかげで、私は思いがけず鹿野に会うことになった。ハルピンで別れてから、ほぼ四年目であった。

 私たちが収容所に到着したのは、もう就寝時間を大分すぎた時刻であったが、私は取るものもとりあえず、鹿野のいるバラックヘかけつけた。すでに寝しずまっていたバラックの入口で、私は鹿野の名を呼んでみたが、答えがなかった。二、三度呼んだあとで、バラックの奥の暗がりから、鹿野が出て来た。そして私の顔を見ずに、「きみには会いたくなかった」とだけいって、奥へはいってしまった。私は呆然として自分のバラックヘ帰って来た。

 翌日から私たちは土工にかり出された。鹿野の姿はときおり見かけたが、なんとなく私を避けているらしい様子に、私も積極的に話しかけることをためらっているうちに一週間ほどすぎた。

 ある日の夕方、作業から帰って来た鹿野が、思いがげなく私のバラックヘやって来た。彼は「このあいだはすまなかった」といったあとでしばらく躊躇したのち、「もしきみが日本へ帰ることがあったら、鹿野武一は昭和二十四年八月:日(正確な日附は忘れたが、彼がこれを話した日である)に死んだとだけ伝えてくれ」といって帰って行った。

 私はそのときの彼の、奇妙に平静な、安堵に近い表情をいまだに忘れない。後になって彼の思考の軌跡を追いはじめたとき、当然のことのように彼のその表情に行きあたった。しかしそのときの私には、彼の内部でなにかが変ったらしいことがかろうじて想像できただけであった。この時期を境として、ベシミストとしての彼の輸郭は急速に鮮明になってくる。

 八月末、私たちはあわただしく刑務所へ送り返され、いくつかの集団に編成されて、つぎつぎにカラガンダを出発した。私は先発の集団と共に囚人護送隊へ引渡され、ストルイピンカ(拘禁車)でツベリヤ本線へ向けて北上した。途中ペトロバウロフスクとノボシビルスクのニカ所のペレスールカ(中継収容所)を経由した私たちは、案に相異してタイシェットのペレスールカに収容された。このタイシェットがバム鉄道の起点であることを知ったときの、私たちの不安と失望は大きかった。

 私たちの到着後、日ならずして鹿野をまじえた後続部隊が到着したが、もうその頃には、東は極東、西はウクライナ、沿バルト三国に到る地域から続々と送りこまれて来たさまざまた民族によって、ペレスールカはぼう大な民族集団にふくれあがっており、私たちはたちまちそのなかにのみこまれてしまった。判決にさいして、本来あるはずのないソ連邦の市民権を剥奪された私たちは、ここで完全にソピエト連邦の強制労働体制のなかに押しこまれたのである。

 鹿野と私はここで一カ月ぶりで再会するのであるが、私たちをつなぐ言葉は、このときすでになかった。私たちは、行きどころのない人間のように、ひまさえあれば一緒にいたが、ほとんど話すことはなかった。ただ鹿野と私の絶対の相異は、私がなお生きのこる機会と偶然へ漢然と期待をのこしていたのにたいし、鹿野は前途への希望をはっきり拒否していたことである。タイシェットにいるあいだ、およそ希望に類する言葉を、鹿野は一切語らなかった。

 十月の終りに近い頃、この地方をしばしばおそう苛烈な吹雪(プラーン)のなかで、とつぜんエタップ(囚人護送)の命令が出た。私たちはつぎつぎに呼び出されて、車輌ごとに編成を終り、夜になって引込線にはいって来た貨車に押しこまれた。サーチライトに照し出された、厳重な監視下での異様な乗車風景は、そのさき、私たちを待ちうけている運命を予想させるに充分であった。それにもかかわらず、暗い貨車のなかに大きな樽が二つ用意されており、一つが飲料水、他が排便用であることを知ったときの私たちのよろこびは大きかった。〈走る留置場〉と呼ばれるストルイピンカでの経験から、人問は飢えにはある程度耐えられても、渇きと排泄にはほとんど耐えられないことを思い知らされていたからである。ストルイピンカでは、排便は二十四時間に一回という、忍耐の限度をこえたものであった。

 私たちは貨車に乗りこむやいなや、争って樽の水を飲んだ。飲めるうちに飲んでおかなければ、いつ飲めなくなるかも知れないという囚人特有の心理から、飲みたくない者まで腹一杯飲んだ。便器があるという安心もあったが、その容量まで考えて自制するような余裕は私たちにはまったくなかった。仮にあったとしても、すでに始まった混乱と怒号のなかでは、どうすることもできなかったであろう。発車後数時間ではやくも樽をあふれた汚物が、床一面に流れはじめた。私たちは三日間、汚物で汚れた袋からバンを出して食べ、汚物のなかに寝ころんですごした。収容所生活がほとんど無造作な日常と化した時点で、あらためて私たちをうちのめしたこれらの経験は、爾後徹底して人間性を喪失して行く最初の一歩となった。

 私と鹿野とは、このときべつべつの貨車に分けられた。貨車は沿線の収容所を通過するごとに、後尾から一輌ずつ切りはなして行ったが、出発後三日目に私たちの貨車が切りはなされた。貨車を出たのは、鹿野たちがさらに北上して行ったあとであった。十月下旬、沿線の密林はすでに雪に掩われており、汚物に濡れたままの私たちの衣服は、みるまにまっ白に凍って行った。

 私たちはただちに「コロンナ33」と呼ばれる収容所へ追いこまれたが、この日から翌年秋までの一年が、八年の抑留期間を通じての最悪の期間となった。それらの状況の詳細を語る余裕はない。ただ私自身は、これらのほとんど「脱人間的」な環境を通過することによって、鹿野が先取りしたペシミズムに結局は到達したと考えている。

 バム地帯のようた環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に、頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。

 後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくに危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。

 犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。

 実際に見た者の話によると、鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することに、よって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。

 翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者はふたたびタイシェットに送還された。私たちのほとんどは、すぐと見分けのつかないほど衰弱しきっていたが、そのなかで鹿野だけは一年前とほとんど変らず、贖罪を終った人のようにおちついて、静かであった。

 集結後日ならずして、ふたたびエタップが編成され、シベリヤ本線を東へ向けて私たちは出発した。このときは偶然おなじ貨車に、鹿野と乗り合わせたが、疲労のためほとんど口をきくこともなく、なかば昏睡状態のままハバロフスクヘ到着した。到着後私たちは、すでに捕虜が帰還したあとの六分所に収容されたが、健康診断に立会った軍医が容易にその理由を信じなかったほど、ほとんどが衰弱していた。

 このときから、私たちの緩慢な<恢復期>が始まる。待遇が一般捕虜なみに切りかえられたこともあって、健康の恢復は思ったよりも急速であったが、精神的な立直りは、予期しない逆行現象をもまじえて、試行錯誤に近い経過をたどった。誰もが精神的に深く傷ついており、*もっとも困難な状況でのお互いの行動*をはっきりおぼえていた。わずか一年の強制労働によって、人間として失たったものは私たちには大きすぎた。それらのひとつひとつを取り戻して行く過程は、とりもなおさず、人間としての痛みと屈辱を恢復して行く過程となった。一年後、ほとんど健康を恢復したあともなお、私たちの精神は荒廃したままであり、およそ理由のない猜疑心と、隣人にたいする悪意に私たちは悩まされつづけた。

 この時期になると、鹿野の「奇異な」行動はますますはっきりして来た。毎朝作業現場に着くと彼は指名も待たずに、一番条件の悪い苦痛な持場にそのままっいてしまうのである。たまたまおなじ現場で彼が働いている姿を私は見かけたが、まるで地面にからだをたたきつけているようなその姿は、ただ凄愴というほかなかった。自分で自分を苛酷に処罰しているようなその姿を、私は暗然と見まもるだけであった。冒頭に書いた鹿野の絶食は、このような精神の<恢復期>を私たちがようやく脱け出しはじめた頃起きたのである。

 鹿野の絶食は、その頃になってようやく彼の行動を理解しはじめた一部の受刑者に衝撃を与えた。彼らはかわるがわる鹿野をたずねて説得をこころみたが、すでに他界へ足を踏み入れているような彼の沈黙にたいしては、すべて無力であった。その無力を、さいごに私も味わった。すべてを先取りしている人間に、それを追いかけるだけの論理が無力なのは、むしろ当然である。

 絶食四日目の朝、私はいやいやながら一つの決心をした。私は起床直後彼のバラックヘ行き、今日からおれも絶食するとだけいってそのまま作業に出た。事清を知った作業班長が、軽作業に私をまわしてくれたが、夕方収容所に帰ったときにはさすがにがっかりして、そのまま寝台にひっくり返ってしまった。夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかた声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。

 メーデー前日の四月三十日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。

 これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。

 鹿野の絶食さわぎは、これで一応はおちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追及を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当ったのは施(シェ)という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。<協力>とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。

 鹿野はこれにたいして「*もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない*。」と答えている。取調べが終ったあとで、彼はこの言葉をロシヤ文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。

 その時の鹿野にとって、おそらくこの言葉は挑発でも、抗議でもなく、ただありのままの事実の承認であっただろう。だが、こうした立場でこのような発言をすることの不利は、鹿野自身よく知っていたはずである。私はまたしてもここで、ペシミストの明晰な目に出会うのである。私には、そのときの鹿野の表情がはっきり想像できる。そのときの彼の表清に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。真実というものは、つねにそのような表膚でしか語られないのであり、そのような表情だけが信ずるに値するのである。まして、よろこばしい表情で語られる真実というものはない。

 施は当然激怒したが、それ以上どうするわけにも行かず、取調べは打切られた。爾後、鹿野は要注意人物として、執拗な監視のもとにおかれたが、彼自身は、ほとんど意に介する様子はなかった。

 私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに<告発>の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された<空席>を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの<空席>の告発にかかっている。

 バム地帯での追いつめられた状況のなかで、鹿野をもっとも苦しめたのは、自動小銃にかこまれた行進に端的に象徴される、加害と被害の同在という現実であったと私は考える。そして、誰もがただ自分が生きのこることしか考えられない状況のなかで、このようないたましい同在をはっきり見すえるためにも、ペシミストとしての明晰さを彼は必要としたのである。

 おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は<集団としての存在>でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。<人間>はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。

 私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその<うしろ姿>である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。

 そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の<位置>の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。

 いまにして思えば、鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった。彼の追憶によって、私のシベリヤの記憶はかろうして救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心のなかを通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく私一人なのかもしれない。

  追記

 シベリヤから帰還後、<徳田要請事件>で証人として国会に喚問され、昭和二十五年に自殺した管季治氏と鹿野は、一時カラガンダの収容所で一緒だったらしく、管氏の遺稿集『語られざりし真実』(昭和二十八年、筑摩書房刊)につぎのような記述がある〔p.85-87〕。舞鶴上陸直後、鹿野は文中のKという人物が自分であることを、私に確認している。

  そのころ、わたしたちの収容所にKがいた。Kは京都薬専を出たおとなしい人だった。ドイツ語、ロシア語、エスペラント語にすぐれていた。Kとわたしは、よくロシア語文法やロシア文学について語り合った。彼はツルゲーネフを愛し、常にオストロフスキイの喜劇をふところにもっていた。作業場では、ちょっとの暇にも、ソヴェート新聞の切り抜きを読んでいた。或る時、わたしにこんなことを言った。「ぼくには、どうも二ーチェやキェルケゴールが一番深い影響を与えたようなんです。それで、これからコムニストになるにしても、そうした過去の思想的経歴をかんたんに捨て切れないでしょう。」

 Kにわたしは、「学芸同好会」のためにエスペラント語について話してもらいたいと頼んだ。Kは、はにかみながらも引き受けてくれた。わたしは「エスペラント語入門」というテーマで広告を出した。と言っても、小さな板きれを食堂にぶら下げたきりだけれども。

 その夜はひどい吹雪だった。夕食の終った人気(ひとけ)のない寒い食堂で、Kとわたしは、聞き手が集まるのを待っていた。ところが、話を始める予定の時間になっても、さらにそれから三十分も待っても、聞き手は一人も来なかった。わたしはKに気の毒で恐れ入った。しかしKはおだやかで静かだった。Kはただ一人の聞き手であるわたしのために、くず紙をとじた手帖を開いて「エスペラント語入門」の話しをはじめた。一先ず「わたしの愛するエスペラント語について話す機会を与えてくれたカンさんに感謝します」と前置きして。

 Kの話しは、きわめて系統的で内容豊かであった。
   一、エスペラント語の発生
   二、文法の基本
   三、エスペラント語の国際的意義
   四、日本におけるエスベラント語研究の歴史
   五、エスペラント語の研究文献
に就いて、二時間位Kは語った。最後に、ゲーテの「野バラ」のエスペラント語訳を説明し、「エスペラント歌」を二回唱ってくれた。冷えきった食堂にひろがる澄んだKの声を、わたしは、「学芸の愛」そのものとして感じたのであった。
 それからしばらくしてKは他の収容所に移された。別れる時、わたしに「野バラ」と「エスペラント歌」を書いてくれた。

 こういう美しい魂と一緒になっても、すぐ引き離されてしまうウォエンノプレンニク(俘虜)の身の上のはかたさを、その時ほどひどく感じたことはなかった。

 鹿野がエスペラント語を学んだのは、学生時代彼がしばしば訪ねた京都南禅寺の柴山全慶師の影響によるものである。東京の部隊(陸軍露語教育隊高等科)で鹿野と出会ったさいの最初の会話は、たしかエスペラントにかんしてであったと記憶している。私自身多少エスペラントを解した。

 カラガンダヘ移動後、人を介して私が受けとった鹿野の連絡文は、全文エスペラントでしたためてあり、末尾のMi preska[u] perdis esperon.(私はほとんど望みをうしなった)という一行は、いまだに私の記憶にのこっている。

 鹿野がどのようなかたちで、みずからをコムニストに擬していたかについては、私はまったく知るところがない。前述の<講演>ののち、鹿野はおなじカラガンダの日本人民間抑留者専用の収容所へ移された。おそらくそこで重大な挫折を経験したものと想像されるが、具体的な事実については、鹿野はついに語らなかった。

 帰国した翌年、鹿野は心臓麻痺で死亡した。狂気のような心身の酷使のはての急死であった。彼はさいごまで、みずからに休息をゆるさなかったのである。

『日常への強制』(構造社、1970.12.) 


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