[解題]

 満州からの引き揚げ後、登美は京都の実家に、キエは新潟県松代の実家に身を寄せた。
 シベリアの武一からの最初の俘虜郵便が届いたのは1948年5月(多田茂治による)、京都宛であった。住所はカラガンダ第11分所(管季治といっしょの時と考えられる)。これによって初めて武一の所在が家族に知れた。
 以後、俘虜郵便が続くが、京都と新潟に分散し、保管状況はよくない。登美を中心に取材したと考えられる多田茂治『内なるシベリヤ抑留体験』(社会思想社)と、キエを中心に取材した澤地久枝『昭和・遠い日近いひと』(文芸春秋社)からそのまま引用する(著者の引用の仕方も厳密とは言い難いので)。




俘虜郵便1:鹿野登美宛(1948年5月?)

(前略)お前の健康が気にかかる。自分はお前のために祈る。唯祈る。お前もまた自分のために祈ってくれるのだろうか。
  草づたふ朝のほたるよ短かかる
    おのが命を死なしむなゆめ (茂吉)
 返事には高村光太郎さんか、晶子でも、宮澤賢治さんでもよい。
 堀田豊彦君によろしく(大阪外語英語部・昭和13卒)、鶴賀さんは元気、山路さんは亡くなられた。石原君はまだ会わない。果たして「諸法空想」か。



俘虜郵便2:鹿野キエ宛(1948年?月)

 キエヘ……クロウシタコトトサッスル シンボウセヨ カラダヲタイセツニセヨ タケヒコハエイエンノイノチヲエタリ ワレラノミチビキノトモシビナリ オモイヲフカメヨ マナベ アイミンヒノ オタガイノセイチョーヲキタイス 「ホノボノトマナコホソメテ イダカレシ コハイニシヨリイクヨヲヘタリ」(サイトウモキチ)
 トミヘ……ワレ ナンジノタメニイノルノミ (アワレ タノスベヲモタズ!) ナンジモ ヨノタメニイノラレンコトヲ。「クサヅタフアサノホタルヨミジカカルオノレガイノチヲシナシムナユメ」(モキチ) 「ホンシツテキニ ヒハンテキデアリ カクメイテキデアルヨウナ」ジンセイカンノタンキュウニワレハツトム。

 「あとの余白に虫のような小さい文字で般若心経が書きこまれている」(澤地、p.261)



俘虜郵便3:鹿野登美宛(1948年12月)

 第1信ハ京都ニ、第2信ハ松代ニ、第3信ノ機会ヲ与ヘラレテ登美ニ宛テル。登美ヨ健在ナリヤ。「死ニ至ルマデ忠信ナレ、ソノ人ハ生命ノ冠ヲ得ン」
 "草ツタフ朝ノホタルヨミジカカル オノガイノチヲ死ナシムナユメ"
 マタ「本質的ニ批判的デアリ、且ツ革命的ナ」モノニ眼ヲ向ケラレンコトヲ。
 キエヨ学ビアリヤ、吾大イニ学ビアリ、相見ン日ヲ互ヒノ成長ヲ比ベンコトヲ最大ノタノシミトス。武彦ハ我等ノ十字架デアリ又贖主ナリ、我等武彦ノ霊ニ導カルベシ。
 "ホノボノトマナコホソメテイダカレシ
   子はハ去(い)ニシヨリ幾夜ヲヘタリ"

 「そのあと、……般若心経が全体の三分の二ほどの「究境涅槃」まで書かれて余白がなくなっていた」(多田、p.113)
 書信の内容が重複・混乱しているように見えるが、自分の書信を相手が受け取っていることを武一が知るのは、1949年(昭和24)に入ってからである(澤地)。



俘虜郵便4:関谷政栄方キエ宛(194?年?月)

 四度故国へ筆をとる機会がたえられ、再び新潟にあてて書きます。
 父上、母上をはじめ皆様御変りございませんか。政義君達は無事帰ったでしょうか。
 キエお世話になっていることと存じます。どうか宜しくお願い致します。小生お陰でずっと健康で居ります。御安心下さい。内地の様子をいろいろ想像して居ります。
キエヘ、その后いろいろ苦労したことと察します。自分、元気で働いている。お互いの苦労がお互いの成長となることを希い且期待する。しっかり勉強しておくれ。お互いがどれほど勉強したか、成長したか、何時の日か会った日の最大のたのしみだ。私は武彦のことをよく考えることによって自分達の正しい道に近づけることと考えている。キエよ、お前と登美が*仲良く*行かなかったところに私の考えの浅さがあった。単に*考えの浅さ*だけではなく私がほんとうに真面目ではなかったのかと反省する。単なる考え方或いは生活*態度*、そうしたものが真面目だといわれるだけでなく*生活そのもの*が地についた偽りのないものでありたいと……堀田君や朝野兄と連絡を、また島村真一さんとも(京大薬学科に居た筈)〔以下、般若心経が書かれている〕



俘虜郵便5:キエ宛(1952年8月8日着信/再開第1信)

キエ 幾度カ年月ヲ送リ迎エテ今又送リノ筆ヲ手ニスル機会ヲ得タ。其後ハドウデアッタカ。自分ハ元気故心配無用。/京都ノ両親ノ供養ヲ怠ラヌヨウ。武彦ノ霊ガ自分達ヲ浄メルコトヲ忘レヌ様。何レノ日カ相見ル日マデハオお互イニ懸命ニ勉強シヨウ。身体ヲ大切ニ。叔父上ヲ初メ皆様ニ宜シク。
(1952年)6月18日 故国ノ梅雨ヲ思ワセル日ニ



俘虜郵便6:キエ宛(1952年9月7日着信)

キエ 此ノ前ノ手紙ハ届イタデショウカ。丁度1月目ニ又コノ手紙ヲ書ク機会ガ与エラレマシタ。/武彦ノオ墓ハツクッテヤリマシタカ。私ハソノオ墓ノ石二刻ンデヤリタイト思ッテ詩ヲ作リマシタ。何時カノ機会ニ書イテ送リマショウ。身体ヲ大切二。
登美 身体ハ何(ど)ウデスカ。人間トハドンナ境遇ニアッテモ何カシテ幸福ヲ見出スモノダト熟々(つくづく)思イマス。返事ニハ万葉集の二、三ヤ「べートーベン」カ「シューベルト」ノ何カノ節ヲ書イテ下サイ。デハ又



俘虜郵便7:キエ宛(1952年9月28日着信)

キエ、故国へ便リガ月1回許サレテカラ三度目ノ筆ヲトリマス。未ダ1度モ返事ヲモラエナイノデ残念デス。身体ハドウデスカ。私ハズット元気デス。安心シテ下サイ。東安ヤハルビンデノコトヲ考エテ、オ前ニスマナイコトヲシタト思イマス。許シテ下サイ。内地ハ残暑厳シイコトデショウ。当地モ暑イ日ガ続キマス。今日ハタ方カラ大キナ夕立チガキマシタ。手紙ヲ書イテイル今モ、窓ノ外ハハゲシイ雨デス。デハ、又



俘虜郵便8:キエ宛(1952年11月22日着信)

キエ 今日ハ10月8日デス。武彦ガ一人デ寂シソウニ待ッテイル様ナ気ガシマス。何日(いつ)カ三人ガ会エル時ヲ楽シミニシテイマス。武一



俘虜郵便9:鹿野登美宛(1953年1月)

キエ、第二信・第三信ノ返事ヲ無事入手シマシタ。有難ウ。十二月ハ京都宛 ニ書イタノデ待ッタコトト思ヒマス。其方カラノ両便ニ対シテ私ガ答ヘタイコトガ随分 アリマスガ、次ノ便ニユヅラネバナリマセン。コノコトハ其方モヨク解ッテクレルデセウ。 コノ便ハ其方ヲ経テ登美ニ届ク様オ願ヒシマス。 身体ヲ大切ニ。
御両親、政義君達ニ宜シク。新シイ年ガ希望ノ年デアルコトヲ希ヒマス。
一月十八日、(拾年前ノ此頃 初メテ松代ノ村ヲ訪レタトキノコトヲ回想シツツ)

登美、キエヨリノ第三信デ知リマシタ。五年前ニ一度受取ッタ便リニ アナタノ 記シタ言葉ヲ思ヒ返シテイマス。
ヤガテ来ン春ノ日ニ キエト一緒ニアナタノ子供達ヘノオ土産ヲ沢山用意シテ 瀬戸ノ小島ニアナタヲ訪ネル日ヲ待チマス。
アナタトアナタノ仕事ノ上ニ祝福ノユタカニ下リマス様 オ祈リシマス。
北国ノ凍ル夜空ヲ仰グトキ、タケヒコ!ト私ガ呼ビカケル星ガ瞬クノデス。今ハ モ一ツ アナタノ星ガ輝イテイルノヲ感ジマス。
                              武一



俘虜郵便10:キエ・登美宛(1953年4月22日着信)

キエ 第三信ノ返事マデ受取リマシタ。毎月当方カラノ便リハ届イテイルデショウカ。其方ノ返事ノ表書キハニ回目ノハ父上、三回目ノハ政義君ノ筆蹟ト思ワレマシタ。……私ハ毎晩寝ル前、外二出テ子守唄ヲ唱ウノデス。コノ声ガ、武彦二届クデショウカ。ケレド武彦ハ今ハ浄ラカナ浄ラカナ音楽ヲ日夜キイテイルコトデショウ。当地モ日中ハ凍ッタ道路ガ融ケル様ニナリマシタ。其方モ呉々モ身体ヲ大切ニスル様願イマス。登美ニモ知ラセテヤッテ下サイ。三月十五日
          武一


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