[解題]

1953(昭和28)年12月1日、鹿野武一たちは舞鶴港に上陸。用意された宿舎に泊まり、12月3日、各方面毎に梯団を編成して家郷に向かった。
 武一は宿で夜を徹して書いたのであろう、妻に宛てた手記が残っている。
 「翌日(12月2日)、キエは夫から、ありあわせの用紙9枚の裏表にこまかく鉛筆で書かれ、最後は「キエよ、私が言」できれて未完の手紙を手渡されている。鹿野武一がその胸中をひらいた唯一の文章というべきこの長文の手紙は、キエがのこした遺品の中にあった。銀行の「定期積金」の文字が印刷された小封筒に入れられ、キエの字で「主人からの便り在中」と鉛筆で書いてあった」(澤地久枝『昭和・遠い日近いひと』p.272)




妻への告白:キエ宛(1953年12月1-2)

キエ
 今年の七月ハバロフスクの収容所から帰国のためとソ側から言われてナホトカの港に移動以来、この四カ月の間、日夜自分の頭を占めたのは、お前に会えばああも言おう、斯(こ)うも言おうということの一事であった。この八年間、殊に最后のこの一年、自分がようやく生きつづけて来たのは唯一つ、お前が待っているということだけであった。

 八年前、一九四六年の二月にハルビンで、昨日話した様な状況でソ側に逮捕され、きびしい取調べの後、他の人々と一しょに動物園のおりかごの様に仕切られた貨車にぶち込まれ、ソ連兵の銃剣とピストルの下に、零下何十度のシベリヤの雪と氷の暖野を一路西へ西へと輸送されたとき、その間に自分がこれから先何年かの未知の将来を予期しながら、自分自身に与えた課題は次のことであった。――人生。愛情の問題。

 一、自分とキエとの間、二、キエと登美との間、三、石原君とYさん(注・石原の女友達)との間。……自分はこれから先のロシアでの生活の間に、この問題にこそ真剣に取り組もうと決意した。自分の社会生活、社会活動に対する態度も又ここから流れて出てくると信じたのである。八年后の今、自分はこの問題を果して割り切り得たであろうか。

 昨日の夜、舞鶴入港を前にして、かなり波の高ぶった闇夜の日本海を走る興安丸のデッキから、白く光る波の山をみつめながら、自分が考えていたのは、自分自身の此の世での存在を一挙に清算する可能な手段を実行する勇気を、自分の身にあつめることであった。しかし、しかし、自分の勇気は遂に死の恐怖に打ち勝ち得なかった。そして暗い気持を抱いたまま船を下りてしまったのである。

 八年間の生活の間で、この様な暗い気持、死への慾望に*つかれる*様になったのは決して初めからではなかった。ハルビンで捕えられてから、チタ、カラガンダ(中央アジア)を通じて、四九年頃までは、自分は積極的に人生を肯定し、自分が生きて行くことは自分や他人にとって意味のあることを信じ、この自分の人生に対する態度に自信があった。小花君や菅末[ママ]治さんは、その様な時期に得た知己であった。

 二五年の矯正[ママ]労働という刑に科せられた後、監獄での数カ月、バームの冬のシベリヤ原始林伐採労働の半年は、自分の肉体から生命的な精気をしぼりとると共に、精神的な暗黒の中に自分の気持をとじこめて了った。……*腹が空る*、何とかして食い物がほしい、人のものでも盗りたい……この恥ずかしい気持を外に出すまい、抑えようとする努力だけで、自分の全精神力が涸渇して了った。そしてこの期間に犯した自分の(そして他に誰も知らない)恥ずかしい行為の記憶が、徹底的に自分の自信を失わせたのである。

 バームの山奥からハバロフスクという都会に出てきたとき(一九五〇年夏)、自分は心身ともにつかれ切って、何をする気分もなかった。労働作業を免除されるO・K(オー・カー)という体位に判定されていた間、ロシア語の出来る自分は収容所の中で文化部の仕事を手伝うことになった。その中、自分は体位を上げられて労働作業にでる様になった。自分は無器用で要領が悪く、到底1OO%の労働は出来なかった。しかし自分は体力の恢復に伴い、とに角、真面目に作業した。賃金の支払いは大低人並に、時には其(それ)以上別(わ)けてくれることもあった。

 作業から帰ってからは、自分は麻雀や碁の娯楽に加わらず、専(もっぱ)ら本を読んだ。この様な自分の労働作業に対する態度と本を読むことから、自分に親しみ近づいてくる人達が自分に与えられた。殊にその中の或る人との交わりの思出は、自分がお前と知り合った時程の感動をもって今思い出す。去年の春、高良トミ女史がハバロフスクの自分達とは別の日本人収容所に来たと伝えられた頃、帰国の可能性が自分にも思われ、昼は重労働に従事しながら、夜は睡眠時間を惜んで知識を集めた。

 去年の夏、収容所の中で夏季大学という企てがあり、自分にも講師として依頼があって、此の国の化学や医学での新しい研究や説を四回にわけて講演したとき、少くない人々が私に讃辞を呈してくれた。自分も大部[ママ]うれしかった。しかしこのことをお前が知ってくれたら、もっとうれしかったのにと思った(自分は八富里の開拓団で救急法の話をしたとき、后でお前が自分に云ったことを忘れてはいない)。

 この様な好調は、去年の秋から次第に変化した。手紙の返事が初めて去年の十一月に来た。興奮とともに一抹の不安を抱きながら長らく待った返事がとうとう届いたのである。

 不安の一つは、万一お前が……ということであった。松代や京都の家の様子はよかったが、お前が胃潰瘍で手術とは意外であった。結局、お前の胃潰瘍は二人の共同責任なのだ。

 手紙を受取る前に自分の持った不安の一つは、次の様のようなこともあった。――これを言えば、お前は私をさげすむ気になるかも知れない。しかし、私はその危険を冒して敢えてお前に打明ける。――それは、お前の返事が他の*奥さん*達からの返事に比べて見劣りのする、人に見られてはずかしい様な書き振りではなかろうかということであった。

 キエよ、仮にもこんな気持を持った自分を許しておくれ! お前の手紙は立派であった。私が知るべきことが十分順序を整えて、間違いなく正確に、そして優しく書かれてあった。これこそ学校出と称する奥さんに欠けるものであることを自分は他の人々の受取った返事の中に屡々(しばしば)見出した。

 去年の秋頃から其迄続いた心身の好調が変化したというのは、此の返事のせいではなかった。この返事によれば、私は何時かお前と一しょになれることにもっと希望と期待をかけてもよかったのである。

 それなのにだんだん暗い気持に沈んで行き、今年の一月二十四日に自殺を企てるまでに至った理由は完全に説明できないけれど、自分は今出来るだけ冷静に考え、説明したい。そして特にこの点をお前が深く注意して読んでほしい。

 幾つかの原因の最初は、その頃までに自分の生活が肉体的に精神的に、過度の緊張をつづけすぎた反動であろうと思う。第二の原因は、自分が益々強くお前のことを思いつづけるにつけ、自分の周囲に少くない近しい人々の友情や好意をもってしても、お前に対する自分の気持が満たされなかったのではなかろうか。……自分だけが孤独な、本当の愛情に欠けた存在に思われ、自分はもう誰とも親しみ得ない、本当に人を愛することが出来ない人間である様に思い込み、果は、 たとえ何日かお前と会う日が来るにしても、もうお前をも本当に愛し切れないのだと考えるようになった。誰をも真に愛し得ず、お前をも真に愛し得ないならば、最早や此以上生きるには値いしないのだと……。

 しかし自分の企ては遂行されなかった。幾多の人が私の所に来て種々の言い方で自分を思い返そう[ママ]とした。或る人が自分の所に釆て、唯一言「お前がどうしても死ぬというなら俺も一緒に死ぬ」といって去って行った。……或るロシア人が、しかもゲ・ぺ・ウ(注・国家政治保安部)の将校がこの問題で私に話したことは、真実に人間的な暖かい言葉であった(このことは別に話すことにする)。

 結局、私は思い止まった。私を思い止まらせたものは「友情」というより他に云い方がない。私の生命を友情が支えたのである。或は私は友情にすがったのである。これが今年の一月二十四日のことであった。

 けれどもこうして思い止まったものの、精神的な気力は中々元通りにはならなかった。自分の心に印された傷跡は直ぐには癒らないのだ。此の状態が七月ハバロフスクを出発してナホトカに来ても未だ癒らず、時として此の傷がうずき出す。

 昨日上陸前夜がそうであった。


〔 このあと、武一は彼の「正しくない」哲学的考え方のほかに、彼自身の性格があると書いている。小学校へ入学して、人に嫌われていると感じた。中学の四、五年生頃、自己厭悪に陥り、学校をやめて一燈園(注・京都の西田天香創立の修養団体)に入ろうとしたこともある。クラス主任の教師が自宅に武一をよび、家庭状況などを聞いた上で、学校で武一を見ていて孤児ではないかと疑ったといわれたこともあったと書く。

 軍隊生活によって意識過剰を一掃したように思ったが、性格が根本的に直されたのではなく、除隊後、次第に意識過剰になってゆき、救いを開拓団生活に求めた。終戦と抑留当初、生活態度に自信をもてそうだづたが、抑留生活の現実と一致しなくなり、ごく狭隘(きょうあい)な枠の中で自分の生活を守ることになった……。(澤地、p.277)〕

 自分の生活は反(かえ)って益々固い殻に閉じ籠り、遂に救い難いとの自覚が帰国が追るにつれ自分を苦しめ、上陸日の朝までその苦悩に打ち勝ち得なかった。どうして自分が本当に明るいみんなと一しょに朗らかに和して行く性格になり得るか。

 キエよ。自分は今その最后の手段をお前に求めている。お前こそ自分の最后の希望なのだ。キエよ、私は身も心もすっかりお前になげかける。今の私は「男一匹」ではない。囚人生活の暗さに打ちひしがれたみじめな弱い男にしかすぎない。キエよ。解ってくれるでしょう。

 自分は、自分が弱い男であることを知りながら、やはり、武彦がほしい。しかし、このことは私の欲望だけで問題を片付けてよいとは思わない。あなたの肉体的条件を考えねばいけない。十年前の私には、二人の生活を物質的に精神的に建設するプランがなかった。之は私の誤りであった。今度はそれではいけない。二人の生活を精神的な面だけではなく物質的な面でも十分検討しよう。あなたの考えを具体的に十分述べてもらいたい。


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