[解題]
鹿野武一は、8年間のシベリア抑留生活の後、1953年(昭和28)12月1日、舞鶴に上陸した。いったん京都の実家に寄り、同月8日には、妻の実家である新潟県松代で歓迎を受けている。
手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1953年12月14日付)
登美
十二月八日付葉書 昨日見ました。七日に京都を発って車中より長島〔愛生園〕あてに書いたのですが。一昨日柏崎武田さんへ挨拶に行って昨日帰って来たのです。武田さん一家は本当によろこんでくれました。奥さんは涙ぐんでよろこばれ、仁輔ちゃんがすぐ先生と啓子さんに電話して先生は近くの中学校ですからすぐ帰って来られました。啓子さんは約2キロ離れた隣村の小学校でずっと泊り込んで居るのです。折から激しい暴風雨で屋根板を叩く霰の音で話しが妨げられるほどでしたが、電話の返事では明日帰るからといひながらしばらくして玄関を開けたのは啓子さんの成長した姿でした。鹿野さんが林ゴがお好きだときいたからといって林ゴの袋を携えて。仁輔ちゃん――自分の記憶では一度東安の向陽台の官舎に奥さんと一しょに来たことがあり、仁輔ちゃんは泊って遊んでいくといふので奥さんだけ帰って仁輔ちゃんが残りしばらくは西瓜やまくわうりをよろこんで食べたり池でボートに乗ったりして機嫌がよかったが夕方日が暮れはじめたらしくしく泣き出してどうしても家へ帰ると云ひ出し とうとう手にあまって自分が先生の家に送って行った――その仁輔ちゃんは来年高等学校に入るといふ。自分に挨拶してすぐ奥へひっ込みしばらくして大きな鳥篭を抱える様にしてもってきて自分の傍へおいて黙って又ひっ込んだ。見ればその大きな鳥篭の中には木の枝が据えてあり *めじろ*が三羽止ってゐる。奥さんの説明によるとこの小鳥とりが仁輔ちゃんのパッションだといふ。啓子さんは柏崎で女学校を出てからすぐ奉職し今玉川大学の通信教授をうけてゐると。表情や物の云ひ方、体躯の立派さ、その成長振りは私に昆虫類の変態を思ひ起させた。
こんなに変る人、変り得る人、成長する人があるのに、この自分は?
佐野先生や嶋田先生に会っても島村君や小西君に会っても自分が全然昔しと変ってゐないといふ。この人達の云ひ方は勿論私を軽蔑し或は批難する意味で云ふのでないのは私にも解る。しかしどんな生活条件、環境にも変らない、或は変り得ない”自分”が自分自身にとってどんなに苦しいものであるか 私はお前とともに骨身に徹してよくわかってゐる。菅さんは日本に帰ってから恩師の務台博士や学友から昔しと全然変ってゐないといわれ、務台氏は、「重圧された軍隊生活とそれにつづくシベリヤの永い俘虜生活の中で、こんなにも変らずにゐる」ことに一種のおどろきをもって菅さんを眺めたと書いてゐる〔『語られざる真実』の務台理作の序〕。
しかし菅さん自身は 帰国直后の感想として
……まる六年――軍隊も俘虜収容所もわたしをほとんど変えなかった――わたしは、あいかわらずセンチメンタルな哲学青年、弱くていつもふるえてゐる魂、いや、わたしは*一そう*哲学青年になってゐる。わたしの魂は*一そう弱り傷ついてゐる*……〔菅季治の日記、『語られざる真実』p.118。傍点(*部)は武一〕
と書き、自殺の一週間前には
……自分がこれから先どうなるのか?については何も良い見通しはない。私は自分が現在恐しく単純でばかになってゐることを感じる……〔菅季治の日記、『語られざる真実』p.134〕
遂に遺書の中では
……わたしはもともと弱い人間でしたが、ホリョ生活で*一そう*弱くなりました。……わたしの死は自分の弱さの絶望によるのであって……〔務台理作宛遺書、『語られざる真実』p.135。傍点(*部)は武一〕
わたしは今年の一月自殺未遂以来 興安丸がナホトカの岸をはなれた時でも未だ生きる自信がなかった。舞鶴入港の前夜、デッキや船室の円窓から漆黒の海面上に僅に舷側近く躍りあがる白い波頭を眺めながら、私は一月以来の不決断に今こそ断を与える最后の機会だと心の中に叫びながら遂に海面がほのぼのと白んで来ると共に遂に最后の機会を逸したことに汚辱の涙をのみながら内心の闘争に勝利を占めたものは生への執着以外の何物でもないと自認せざるを得なかった。舞鶴の埠頭に足を印してもわたしの心は重かった。出迎人の誰かが私の肩を叩いて「元気をお出し」と叫んだのが耳に残る。私はお前やキエの出迎へを殆んど期待してゐなかった。私自身がそれに価するとは考へられなかった。先づお前が私をこの世に片足つれ戻した。そしてキエが、それから、京都や松代でのこの数日がだんだん私を強く強くひき戻しつつある。
菅さんもいった
……だが今しばらくは生きねばならない――たとえこの世に於けるわたしの単なる存在、それだけでも安心し喜ぶ人々(老いた父母)がいる限り、そして、だまって考えよう――冷えしぼんだ魂を自分であたためさすりながら。(帰国直后)〔菅季治の日記、『語られざる真実』p.118〕
登美よ、お前はこの様な力――わたしをだんだんと此の世にひき戻しつつあるところの――を信じない道を択んだのだったね。
私といへども、この力をそのまま信じ頼りにすることが正しいとは考へない。この力そのものは一つの意欲であり、盲目的であり、不安であり、破壊的でさえある。私はこのことを東安でキエとの結びつきの際、はっきり知った。そしてこの力が真実に自分の生きる力となるためにはこの力が別の*権威*によって浄められねばならぬと考えた。この考へ方は、私は十年后の今でも変らない。
自分の結婚後の生活の反省は、この*権威*を追求する真面目さが不十分であったといふことにある。菅さんは私のいふ*権威*を全然考へつかなかったのであらうか。菅さんにとっては全然意味がなかったのであらうか。
私は今後の生活を、お前をも含めて考へてゐる。奥田さんにはまだ会ってゐない。武田さんにはお前のことを話した。松山のどこ? 宇和島には扇合(センゴウ)博君が居る。(宇和島市丸之内一ノ一九一 小児科神経科医院)訪ねる機会はないか。それから愛生園には京都の古いエスペランチストで山口さんといふ人が電気関係の仕事をしてゐることをカニヤさんからきいた。山口さんも自分のことは記憶にあると思ふ。
自分は尚二、三日松代に滞在。途中美代、加藤先生、堀田君(現在、三重県度会郡五ケ所町五ケ所高等学校内(英語教師))、城さん等を訪ねて京都に帰る予定。マサ子が肺結核で肺葉切除手術をする(こちらの診療所で)といふのでキエは当分そのまま働く。
若し東京へ行くならナホトカで知り合った中村繁次(ハンジ)さん(元、ハルビン電業支社長、その奥さん中村綾子さん、東京代々木、上原教会(赤岩栄牧師)夫人会長)、東京都世田ケ谷区世田ケ谷町二〇二四を紹介しよう。 沢崎堅造氏のことは舞鶴で外務省の係員の人に依頼した。その調査の結果は追ってそちらに行く筈。
自愛を祈る。
於 松代
十二月十四日
武一
手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年1月17日付)
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