[解題]

 舞鶴帰還後、いったん妻の実家である新潟県松代に帰った武一は、しかし、ゆっくり落ち着く間もなく、再び、京都にもどり、何よりも先ず登美の勤め先である長島愛生園を訪問、兄妹は、1日、岡山に遊んでいる(これが二人にとっては最後の別れとなった)。
 武一は、さらにその足で、年末から翌年(1954(昭和29)年1月)にかけて、師友への挨拶まわりに、大阪、名古屋など各地を訪問している。
 




手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年1月17日付)



登美殿
 一月三日付手紙と九日付葉書拝見。昨日(一三日)夕方やっと松代に着いたのです。京都を四日朝出発。夕方、挙母(名古屋からバスで一時間)の加茂病院に着き折から手術中の加藤先生に会ひ、手術が終ってから先生と一しょに本地の屋敷へもどりました。先生は自分の思想的動向に非常に興味を持ってゐます。夜の二時三時まで話しにひきこむのです。先生は今では自分が忘れてゐる様な東安時代の自分の議論を憶えてゐます。杉本さんが昨年六月中共から引揚げて来たのですが、先生の云ひ方によると「真赤」になって帰ってきたのださうです。杉本氏と一しょに養成所の一期生木村さん二期生菅沢、又伊藤裕一夫妻(保険科長)も帰ったのですが 何れも「真赤」といふことです。

 ソ連から帰ったのでは自分と同じく防疫所に居た二村五郎君が、昭和二十四年帰国后、入党してゐる様です。自分の立場はといへば、ソ連にいた時、一つの立場をとらうとしたのですが、自分が余りにも非政治的な性格を持つことを思ひ知ったので、政治的な立場からは自から「脱落」したのです。自分は「人間性」には政治的な立場をはなれて人間の「真実」があり、それによって人と人とが相結び得るとラーゲルで考へてゐました。しかしそれが不可能なことは 菅さんの死がよく証明してゐると思はれます。

京都で小西君から笠新太郎氏(朝日、論説主幹)の著書をかりました。名古屋で 赤岩栄氏の著書を買ひました(「人間の省察」)。自分は彼地での体験を十分整理し、正しい評価を与へて その後現実に対してはっきりした態度を取るべきだと考へてゐます。挙母の愛知小[ママ]年院(最近まで愛知小[ママ]年刑務所)に、東安時代、加藤先生の世話になってゐた古川三男氏が医務課長を勤めて居り、一晩泊りました。二年程前結婚したのですが、信子夫人は話しごたえのある人です。名古屋の市内で元養成生で引揚后医師の国家試験に合格し開業して「盛大」にやってゐる人、養成所の事務をやってくれた人で薬種商をやってゐる人、防疫所の二村君のところ 開拓団で堀田君と共に三人組の一人城さん(名古屋市外名城大学農学部畜産課の職員)夫々一泊旧交を暖めました。

かういふわけで名古屋での滞在が一週間以上になり、十二日の夜行中央線で名古屋から新潟に向ひました。長野で飯山線に乗換への待合せが約四時間あったので、善光寺さんにお参りしてきました。善男善女の群、古い堂宇、ガラン、仏像……此間京都で円山のギオンさんに行ったとき、正月初詣での人出に会って、その時にも思ったことなのですが、自分はこの現象に全然私の解する「宗教的」なものを感じないのです。人間が善くあらうとして絶望或は人間が己の限界性を認めたとき、人間以外のものにその救済の力を認めようとするのが宗教的感情だと思ふのです。しかし自分は茲でその様な力が客観的に存在するとは考へないのです。その力は飽まで人間自身の中にある力だと考へます。この力を見出し、それを用立てるためにある種の観念――例へば神――を媒介としてそれに至ることは許容されると思ひます。しかしその様な観念的な媒体(が必要でない人達)を必要とせずに直接人間の力を信じ得る人達も存在し得ると考へるのです。

しかしこの善光寺さんや、ギオンさんや、更には此間神戸の森本さんに泊ったとき静江さんにつれられて行ったカトリック教会の日曜礼拝に集る人々が、人間が本当に善くあらうとする願ひ、人間自身の手で善い人間生活(社会的―)をつくっていこうといふ努力、さうした願望や努力に充されてゐるとは、自分にはどうも受取れません。単に*暇*のある人、偶像に囚はれてゐる人、人間自身の努力を棚に上げてゐる人々等の群集[ママ]と自分には思えます。

本年正月の名古屋では新潟の「雪」は到底予想するのも困難でしたが、長野で道路の土が凍てついており、善光寺さんの裏の池が凍ってゐることを実際に見、さらに長野から飯山線に乗って三十分もすると車窓外の畑にはちらちらと霜のかたまりらしいものが見え、やがてその白いものが霜でなく本当の雪であることが判り、もう遠くの山々だけではなく、線路の傍の家の屋根まで厚く雪に覆はれてゐる風景が次第に展開してきました。

十日町から松代まで二〇キロ余の雪道を、父とキエが先にたち、その後について初めて雪の越路を踏んだのは丁度十年昔しのやはり正月でした。今度は政義が迎えに来て呉れました。土産や本や何かを詰めこんだ重いソ連製「信玄袋」は政義が背中に負ってくれましたが、あなたにもらった――有難う――ラヂオを片手に提げて二十キロの雪道は楽ではありませんでした。

 関谷の方は変りありません。マサ子の容態も順調です。やうやく床の上に起き上る様になりました。父がずっと付添ってゐます。この家で面白いのは政義夫婦の子供です。満三才と八ヶ月の政雄、満一才と七ヶ月の義雄、健康な子供らしい子供です。自分にとってなぐさめの一つです。キエと一緒に子供達をつれて村の道を歩くこともあります。自分達にはこの五つと三つの児の外に十一になる男の児があった筈だと話し合ひます。

 十五日正月は村では学校や役場も休みます。子供達は十四日の夜「鳥追ひ」といふ行事をやります。堆雪を洞穴の様にくりぬいて、部屋をつくります。これを鳥篭といひます。地面の上に藁を敷き、火鉢を持ち込み、炬燵をいれます。終夜この中で子供達は餅を焼いたり、菓子を喰べ、遊び興じます。時々外へ出て数人十数人が集団をなし拍子木で合の手をいれながら「鳥追ひ」の文句を声を合せて歌ふのです。キエも小さい頃はその仲間だったのですが、今はその文句を完全には覚えてゐません。その意味は「家の裏の畑に播いた種を鳥がくってしまった。何鳥が食ったのか。雀鳥、こま鳥……ホイホイ」

 村の本道をはづれからはづれまで往来して、又「鳥篭」に帰ってきて喰べ遊び興じます。十五日、子供達はこの「鳥篭」を壊して、これに使った藁やむしろ等を集め、御飾りのしめ縄等を一しょにして火をつけます。柳田国男さんのものにはかういふ民俗が紹介されてゐるでせう。ネオンのない、自動車の警笛のない、「広告」のない、アクセサリーのない土地、半月の淡い光に照されてゐる雪を覆(かぶ)った田舎家の並び、背后の疎林、谷水の音、キエと二人で村道を歩きながら、これが現実とは信じかねました。

 獄屋で鉄窓を洩れて入ってきたあの月光。キエの手をとって東安の月を思ひ出す今、人生には幅があることが自分にわかりました。

 「人生の幅」を自分達は「歴史の歯車」の回転によって思ひ知ったのですが、自分達自身がこの歴史の歯車の回転に加はるため、勉強が必要だと痛感してゐます。この村に、高等学校がありますが、夜学があり、通信教育もあるさうです。自分はキエと一しょにこの高等学校の勉強からやり直さうかと考へます。とに角、自分だけがキエの犠牲に於て先へ進むことは、自分にとって全然意味のないことです。

 二十日すぎに松代を出て美代と堀田を経て京都に帰ります。こちらに正式に勤務するのは三月一日からにするつもりです。


  あなたの手紙の中で……でもその果には*此の世のものではない様な*平安が約束されてゐる……とあります。それに続いて……いいえ、この現実生活の日々に於て云々とすぐ打消された云方があるので、誤解を免かれるのですが、この様な表現をあなたが用ひることは、あなたのロマンチシズムで、しかも浮ついたものと私は直言したいのです。


  小花君が二回も年賀状をよこしてゐます。自分達に会ひたがってゐる様です。あなたが「小花君に対して*犯した罪*」といふのは自分があなたをよほど低いものと考へた場合にだけ理解されるのですが……

 長島より京都に着いた荷物の中 あなたの依頼のあった被服類の梱包だけ開いたので、書籍の方はそのままにしておいたのです。

 「ゲル」のことはあまり心配しないで下さい。お菓子、進々堂のパンの注文は帰京後でよろしいか。

 舞鶴で「新潟日報」のとった写真は、自分達のところにもありません。舞鶴で郷土室で見せてもらったのです。入手できれば送りませう。

 夏休みにあなたの来る頃は、ここの裏のはなれ家に自分達の巣がある筈です(階上と階下に一室づつ)。歓待しますよ。小花君を其時よびませうか。  十四日に書き出した手紙が、暇がかかりました。許して下さい。

 キエよりも宜しく云っています。

 元気でいる様、切に自愛を祈ります。

  一月十七日            松代にて
                          武一


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