[解題]
帰還後、師友への挨拶まわりをすませた武一は、1954年(昭和29)1月から約2ヶ月間、京都大学付属病院薬局で研修を受けた。この間、登美は扁桃腺炎に罹り、武一はそれを気遣って葉書を書いた。
シベリヤの生活を語った数少ない1節を含む。
「匡一氏の自分達に対する批判」の具体的内容がわからないのが残念だが、もしかしたらそれは「万年中学生」というような内容だったのではないかという推測は可能であろう。
葉書:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年2月14日付)
十二日付葉書拝見。
もう入院しましたか。様子が心配ですが、一寸松山まで出掛けることもできません。経過を知らせて下さい。
先日栗田匡一氏の自分宛の手紙をキエよりあなたに廻すよう云っておいたので、すでに届いたか、或は近い中に届くだらうと思ひます。あなたの身体の悪いときに、こういふことはさけた方がよかったのですが、もしキエがすでに発送して了った後であれば、許して下さい。
自分は匡一氏の自分達に対する批判を[「無条件に」抹消]完全に容れます。このことは第三者の批判をまつまでもなく、自分自身で今日までの生活、殊に八年間のシベリヤの生活 といふよりは生存 の中で徹底的に苦しんだところのものです。自分は何らの成算を持って帰ってきたのではありません。徹底的に打ちくだかれてきたのです。今、自分がよりすがってゐる唯一のもの あなたに解りますか。説明したくはありません。
昨日、薬大の島田先生が家に立寄られました(自分の留守中)。薬大の所有する山林が山科にあるのですが、その手入れを頼んだ植木屋さんが、ソ連で捕リョ当時、自分に世話になったといふのです。その植木屋さんの名前を自分は憶えてゐました。カラガンダの十一分所で菅さん等とも共にゐた頃のことなのです。何時か京都駅で名を告げずに自分の消息をあなたに伝へてくれた人の話の中の通訳としての自分の努力によって、パンが沢山もらへたといふ、そのことなのです。
手紙:鹿野武一から鹿野登美宛(1954年10月24日付)
野次馬小屋/目次