石原吉郎と鹿野武一のこと:遺された手紙(2/2)



II 兄の手紙

 二十八年十二月一日舞鶴に着いて三十年三月二日早朝、高田市県立中央病院で急死する一年三ケ月の間に、私は兄から封書葉書計三十五、六通の通信を受けとった。どれも紙の両面を使用し、細かい字でぎっしり書かれている。十年間、日本語から離れていた人とは思われない位、正しい漢字と、旧かなづかいを用いている。私はこれらを見るのは唯「涙の素」になるだけなので、二十年間蔵いこんだままにしていたが、石原さんの死を契機に、兄の死を考えなおしてみようと、文箱の蓋をとった。烈しい感慨が思考力を停止させるけれどシベリヤの極刑を了えて帰国したばかりの、兄の想いの中に私も暫らく身を沈めよう。

 「二十八年十二月八日付 (略)四日帰京後、殆ど家に落ち着く暇のない中にやうやく新潟行車中の人となった。京都での歓迎接待振りはありがたかった。(略)以上車中で書き終ったが、今日午后十日町駅着。駅前に診療所の往診用小型自動車が待って居り、約一時間余疾駆して松代村に差しかかると、村長始め村民一同多数の出迎えがあり、村役場前で村長の歓迎の辞に対してお礼の挨拶を申し述べた。後、関屋の家に入った。主だった親戚十数家との会食が今やうやく終ったところ。(略)」

 「同二十九日付 昨二十八日午后十一時やうやく京都に帰り着きました。(略)二十八日は終日学校関係の知人、盛大堂等を訪ねました。(略)今日は書簡の整理(石原君その他より)正月一日又は二日夜京都を出て、名古屋K先生を経て松代に行きます。病院勤務の話を決め、一旦帰京(途中H君に寄る)準備をととのへて赴任する予定です。(略)
 よいお正月を!」

 「三時間程前に京都に帰り着きました。(略)二十四日午后松代を出ました。十日町まで五里の雪道をはじめて一人で歩きました。途中で風が出て吹雪になりました。(略)十日町病院に行って院長、事務長、薬剤長に会って勤務上の連絡をして(略)」

 「同三十一日付 押入の本箱をかき廻しました。父上母上関係の手紙、父上子供時代の図画習字等、新潟で自分の手許に保存することを許して下さい。自分達の子に、"おじいさん、おばあさん"を示してやります。自分がこの家に残すのは『菜学雑誌別刷論文〈タチバナモドキの成分に就て〉嶋田玄弥・鹿野武一』といふ印刷物です。(自分)の一モニュメントです。(略)今日はAさんの妹さんが見えました。Aさんは今回残留した憲兵軍曹、ハバロフスクで一九五〇年以来のつき合い、好ましい人でした。先日留守宅を訪ねましたが、お母さん一人で、部屋に敷きはなしてある寝布団の中に軍服姿のAさんの写真をおさめた額が見えるのです。このお母さんは、いつも息子の写真を抱いて寝るのです。胸がつまりました。(略)いよいよ後数時間で一九五四年となります。本年は自分にとって新しい生です。(略)」

 鳥追いの行事、ホンヤラ堂の風習について、長々と詳しい説明を記した後、「ネオンのない、自動車の警笛のない、広告のない、アクサセリーのない土地、半月の淡い光に照らされ、雪に覆われた田舎家、背後の疎林、谷水の音、ヨシと手をとって村道を歩きながら、これが現実とは信じかねました。獄屋の鉄窓をもれて入ってきたあの月光、そして東安の月を思ひ出す今、人生には幅があることが自分にわかりました。"人生の幅"を自分達は「歴史の歯車」の回転によって思ひ知ったのですが、自分達自身がこの歴史の歯車の回転に加はるため(略)とに角、ヨシの犠牲に於て自分だけ先へ進むことは全然意味のないことです。こちらに正式に勤務するのは三月一日になるでしょう。(略)二十九年一月二十二日付」

 「二十九年一月十七日付 (略)名古屋では東安時代と開拓地時代の友六人を訪ね、それぞれ一泊して旧交を暖めました。」名古屋から長野、十日町、松代と雪一色に変化していく車窓外の風景を詳細に記している。日本の田舎を深呼吸している様子が見える。

 「ヨシと一緒に村道を歩く時、『自分達には、十一歳になる男児があった……』と話し合ひます。」

 「同年一月三十一日付 明後月曜日から京大病院薬局へ研修に通ふことになりませう(略)」

 「同年二月六日付 今日は研学三日目、さすがにくたびれます。分秒を惜しんでつめ込んでゐます(略)あなたのテーブルを飾るものを受けとって下さい。Unsere Lieblinge! 後に気がついたのですが、記念文字を刻めばよかったのにと、又いつかそちらを訪ねた時、刻みませう。1954.2.12 武一とね(略)」

 「同年二月十日付 先日京都の興安丸帰還者が日赤で集まりました。集まった七人の話を聞き、就職状況や服装から見て、自分がめぐまれてゐることがよく分りました。目下実務の知識をとり入れることに分秒を情んでゐます。  —  (略)」

 「同年四月二日付 京大の見学は昨日で終り、明日から四日間学会に参加、八日の夜出発の予定です — 略 — 」

 こうして妻の故郷、山間の閑かな十日町病院に勤務することになった。
 しかし、一方自分の内面についてはこの様に書いている。

 「二十八年十二月十四日(帰国早々である。)( )内は登美記入。S先生C先生K君S君に会っても自分が全然昔と変ってゐないといふ。この人達の言い方は、勿論私を批難し、軽蔑する意味でないのはよく解る。しかしどんな生活条件、環境にも変らない、或ひは変り得ない"自分"が、自分自身どんなに苦しいものであるか。骨身に徹してゐる。 — 菅さんは日本に帰ってから恩師の務台博士や学友から育と全然変ってゐないといわれ、務台氏は『重圧された軍隊生活とそれをつづくシベリヤの永い俘虜生活の中でこんなにも変らずにゐる』ことに一種の驚きをもって菅さんを眺めたと書いてゐる。しかし菅さん自身は帰国直後の感想として『まる六年 — 軍隊も俘虜収容所も私をほとんど変えなかった — 私はあいかわらずセンチメンタルな哲学青年、弱くていつもふるえてゐる魂、いや、私は*一そう*哲学青年になってゐる。私の魂は*一そう弱り傷ついてゐる*』と書き、自殺の一週間前には……『自分がこれから先、どうなるのかについては何も良い見通しはない。私は現在自分が恐しく単純でばかになってゐることを感じる……』遂に遺書の中では……『わたしはもともと弱い人間でしたが、ホリョ生活で*一そう*弱くなりました。わたしの死は自分の弱さの絶望によるのであって』」……と長々と菅さんの言を写してゐる。「私はハバロフスクでの自殺未遂以来、興安丸がナホトカの岸をはなれた時でも、未だ生きる自信がなかった。 — 略 — 。先づお前が、私をこの世に片足つれ戻した。そしてヨシが、それから京都で松代でのこの数日が、だんだん私を強く強くひき戻しつつある。しかし、この力をそのまま信じ頼りにすることが、正しいとは考へない。このカそのものは一つの意慾であり、盲目的であり、不安であり、破壊的でさえある。( — 略 — )真実に自分の生きる力となるためには、この力が別の*権威*によって浄められねばならぬと考へた。
 菅さんは私のいふこの*権威*を全然考へつかなかったのであろうか。菅さんにとっては全然意味がなかったのであろうか。 — 略 — 」と菅さんの当時の心情をどこまでも追って自分と重ね合わせ、考察してゐる。

 「二十九年一月二十一日付 ( — 略 — )自分の立場はといへば、ソ連にいた時、一つの立場をとろうとしたのですが、自分が余りにも非政治的な性格を持つことを思ひ知ったので、政治的な立場からは自分から"脱落"したのです。自分は"人間性"には政治的な立場をはなれて人間の"真実"があり、それによって人と人とが相結び得るとラーゲルで考へてゐました。しかしそれが不可能なこ とは菅さんの死がよく説明してゐると思はれます。自分は彼地での体験を十分整理し、正しい評価を与えてその後、現実に対してはっきりした態度を取るべきだと考えてゐます。」これは東安時代の師友を訪ね、その多くが、所謂"真赤"になって帰国したり、帰国後入党したという話を聞き、更に自分の去就が、人々から如何に注目されているかを知って、その政治上の立場を書いたのである。

 素朴でもの静かな東北の山間の村で、妻とその両親、義弟夫婦とその子供等と共に生活をし、十日町病院へ通勤することになったが、ニケ月程で挫折した。その頃から四ケ月間位私は手紙を受けとっていない。そして

 「二十九年十月二十四日付 久し振りに手紙を書きます。自分でも少し元気が出てきたからです。といふのは家で収穫の農作業が始まってから自分も毎日父や弟の嫁等と一緒に山へ出て(この辺りの地勢で田もお宮の石段を六十段上って更に又坂を登って行った辺りにあるからです。)皆の仕事の手伝いが出来ることで孤独感から大いに救はれてゐること、もう一つは近く就職の見込みがあるからで す。自分が四月こちらに来て僅かニケ月程で敗退したのは、精神的には自分の能力に対する一種の虚栄心といふべきか、劣等感といふべきかその様なものに自分が圧倒されたからです。"眼高手低"といふ言葉があります。自分が目指すところは極めて高く遠いが、それに到達するための所謂手段は極めて貧しいといふことでせう。これを自覚したとき、自ら発奮努力して遂に立派な手段を自分のものとして目的に到達する人もあるでせう。( — 略 — )自分は残念ながらその様な道を辿る中途で失敗したものです。( — 略 — )"目標"が観念のお化けになって自分を倒したのでした。お化け的な観念を持つのは、一種の虚栄心の産物でせう。志向努力を放棄するのは劣等感に敗かされたからでせう。自分の生来の能力に関する一種の虚栄心、これは或る意味で自分達の年少時代の生活 — 学校の通知簿の評点が人生の最高唯一の価値であると思はされたあの頃の愚かさよ。自分が抑留生活の間、或る程度、真面目な働き者、そして勉強家(本を読むこと活字からの知識が多いこと)と一部の人々から思はれたのもその様なポーズを自分にとらせた一因はこの虚栄心でした。つまり自分はもう幼少年や学生ではなく、既に妻ある大人であり、しかもあの厳しい生活条件 — 人間をすっかり裸にしてしまうと思はれる捕虜生活の中でも自分は虚栄の皮をかぶったポーズをもった人間だったといふことです。だからあの生活で自分が敬意を払ったのは、すっかりむき出しの人間性を発揮した人々でありながら、その人達には真に近付く勇気がなく、多くを語り合ふ機会を持ったのは、ポーズを持った人々であったと言へませう。純真な人々の中には自分のポーズに欺むかれて近寄って来た人も二、三ありましたが。劣等感といふのは自分の場合、生理的状態にかなり影響される様です。ナホトカ港に集結の五ケ月間は無為の生活がつづいたためハバロフスクでの労働期間に比べると体力が落ちたのでした。( — 略 — )自分の能力、業務の成果に身の程を越えた望みを持たなかったら、日本で一番劣等な薬剤師たることに甘んじる勇気といふか、*悟り* — これが劣等感と虚栄心にとらはれてゐる時 には、この世で最もいやしむべきものと考へられるのですが、 — があれば自分は職を失はずにすんだし、そしてその間には徐々に立ち直って実際にこの世で一番劣等な薬剤師であることもなくなったでせう。と今考へるのです。」と酷似した欠点を持つ私に繰り返し書き続けるのである。( — 略 — )「自分は先日県庁へ復職を依頼したが、もし容れられれば、高田市の県立中央病院に行くことに なるかも知れません。」

 「( — 略 — ) あなたと自分との類似したこれらの弱点は、第三者からの批判である。石原は自分を万年中学生などと同情的に云ひ……略」
 石原さんと文通していたのだ。十月三十一日付

 「同年十一月十一日付( — 略 — )当地は一ケ月後に冬ごもりに入りませう。野外の種々の道具を片付けたり、桐等の若木の雪害を避けるため支へ棒や覆ひをしたり、山の落葉や枯枝を集めたり、冬支度に大童です。先便にも書きましたが、日毎に深する山の紅葉が悲壮な美しさとして胸に迫ります。( — 略 — )」

 「同年十一月二十九日付 自分の高田県立中央病院赴任は多分十二月上旬をすぎてからになりませう。単身で行くつもりで下宿先も決めてあります。( — 略  — )」

 「三十年一月一日付( — 略 — ) 自分の就職の件、県の人事委員会で大分異議もあったようですが、県病院局資材係長(薬専の一年後輩)の尽力で医療課長の協力を得ることが出来、人事委員会の詮考を通過し」とあるように、帰国以来、常に友人、旧師等の温かい友情の中に支えられていた。健康診断の結果、肺腋磯能と肝臓幾能に僅かな障害が見付かり、"要注意"ながら就業に差支えないと認められ、雪深い松代から猛吹雪の中を歩いて大島部落という地点に着き、そこからバスで高田へ出たと記している。雪の谷底へ吹きとばされるかと思う位の苦労をして到着した高田市の繁華街に並ぶパチンコ屋、飲食店、服装品店、洋裁学校等を見て……、「自分は雪に埋もれた松代や大島がなつかしくなりました。」と書いている。「帰還後二度目の正月を又もやヨシと一緒でないことはかわいそうですが、それでも生活の前途の見透しがついたので先づ先づと……(略)」

 「同年一月十七日付 ( — 略 — )十二月十日付で発令になり出勤してゐます。身体も好調です。( — 略 — )」

 「同一月二十四日付 ( — 略 — )自分の肝臓障害も軽減し、身心ともに好調です。高田教会の半田牧師が家を世話しょうと好意を示されましたが、今松代から出ることは到底無理なので、雪が消えるまで待ちます。(略)」

 「同年二月十六日付(略)今日復職後初めて給料を受け取りました。同封の額、あなたの身心の養ひに役立てて下さい。( — 略 — )ついでの折、ヨシ宛に金を受け取った旨知らせてやって下さい。(略)」

 これが最後であった。病院の向いにある高田教会へ通うようになり、帰国直後の十二月十四日の手紙に書いた*権威*を求めたのであろうと思う。そこで又思いがけない知人にめぐり合い、家庭に招かれるなどして、徐々に、心は開いていくように思われた。

 三月一日の夜、宿直勤務につき、二日朝六時定刻の巡回を終えて、日誌を記入し、もう一度、床にもぐる時点までは、数人の方と言葉を交している。朝食時が大分過ぎても出て来ないのを不審に思った婦長さんが、宿直室をたずねて下さった時は、まだ僅か体温が残っていたそうである。病院のこととて能う限りを尽して下さったが、引き戻すことは出来なかった。薬剤師であったこと、下宿の部屋が余りにきちんと整理されていた事等から自殺でないかと、警察の調査も行われたが、心臓麻痺と診断され、職務中の事故として扱われた。三十八歳であった。枕頭には最近、入手したばかりのソ連の薬学書の頁が開かれたままであった。後日聞いたところによると、病院の職員コーラスのサークルを作る準備を手がけていたと云うことである。

 舞鶴上陸以来一年三ケ月の間に、驚く程大勢の方々を訪問している。十年乃至二十年振りの再会の喜びを語り、「自分にも段々人生観察の材料が増えて来た。」とも記している。

 ハバロフスク第六分所で石原さんの勇気ある友情を得られなかったら、この友達との再会の喜びもなかったし、私も、"兄の死"は唯怨念そのものとしてより受けとれなかったかもしれない。

 「海を流れる河について『望郷の海』」の終りの部分にある言葉〈極限状況は、およそどのような教訓からも自由であるというのが、私が待た唯一の「教訓」である。人は教訓を与えられるために、極限状況へ置かれるのではない。人はそこでは、そのまま状況におしつぶされるか、かろうじてそこから脱出しうるかのいずれかになる。もしわずかに脱出しえたにせよ、帰って来たものは、なん らかのかたちですでに、人間としてやぶれ果てた姿だという事実を忘れるべきではない。一人の英雄もそこからは帰ってこなかったのである。〉私が兄がナホトカを離れても、興安九の船中でも、上陸しても、生きる自信がなかったと云い、肉親友人によって此の世に足を引き戻されても尚安堵ができなかったのを思うと、〈なんらかのかたちですでに人間として……〉の言葉を悲しいけれども、真実を認める以外ないのだ。

一九五六年から一九五八年までのノート」から

一九五七年〈2・5「性格というものは変えることができるのだろうか。」 — 略 — そのような自己と二人きりで向いあうことを意味する。〉兄がシベリヤの八年も含めて遂に生涯苦しんだのは実にこのことであった。3・24の虚栄心についての言も同様である。

一九五九年から一九六二年までのノート」から

 五九年9・15 10・27の言にも私は兄の姿と重り合うものを見る。

一九六三年以後のノート」から

 いづれにしても、集団をにくむものは集団の指導者を単独に殺害するか、集団のなかで自殺するか、あるいはみずから疎外して、凍結するしかない。」舞鶴上陸の際の兄の顔が「凝縮」そのものであったことを思い、私はぞっとした。

 『強制された日常から』 「私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。」
 私の兄はこの苦しみを味わうことなく死んだ。シベリヤでは同じ刑を受けたが、帰国後は兄の刑は僅か一年で終った。なお、私は兄から直かに聞いたが、ハバロフスクで一九五〇年からずっと交わりのあった京都出身の方が「応召する前の家族同志のトラブルに巻きこまれるあの苦しみに比べたら、シベリヤの重労働の方がまだしも耐え易い。」と話されたということを思い合わせ、人間の精神が抱えている底なしの淵の深さに、今更怖しさを覚える。

 石原さんに教えられて読んだ霜山徳爾氏の「人間へのまなざし」の中の一節を引用させて頂く。「極限の孤独・2『望郷と海』より」
 「しばしば西欧にあって日本にはない精神的な異常 あるいは異常行動として「強制収容所後遺症侯群」というのがあるといわれる。しかしわが国でも、このソ連抑留生活を七年も八年もした人には、この症候群の人が少なからず存しているのである。ただ「進歩的」な若い精神科医などほ全くこれを理解せず、また理解する能力も持っていないし、それほどの社会科学的感覚を有していないというだけである。
 長谷川四郎氏の『極光の蔭に』石原吾郎氏の『望郷と海』などのすぐれた記録が殆ど省みられず、ベストセラーになるべき内実を持っていながらそうならないのは驚くべきことのように思われる。それはマスコミが故意にこれを無視するように操作されたという説があるほどである。右であれ、左であれ政治の黒い影にはわれわれは戦慄を感ぜざるを得ない。」

 石原さんの告別式の後、私は詩人の島崎光正さん、柴崎聡さんからお聞きしたことであるが、石原さんは、「霜山先生にお会いしたいなあ、でもお会いしたら患者にされちゃうからな。」と笑われたそうである。いつの日か、地上遙かな遠い国で霜山先生、石原さん、鹿野武一、それに菅秀治さんも共に会して心ゆくまで語り合って頂きたいと私は空想し、願っている。



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