五月のわかれ 右手をまわしても 左手をまわしても とどかぬ背後の一点に よるひるの見さかい知らぬげに あかあかともえつづける カンテラのような きみをふりむくことももう できないのか ふりむくことはできないのか 〈サンチョ・パンサの帰郷〉 五月のわかれ冒頭九行 |
「お手紙ありがとうございました。私の文章がようやく確かな手に受けとめられたような気持ちがして安堵の思いでおります。
あの文章は、帰国後十五年ほど経て書いたものです。それまで私は自分の体験についてはとても書けないと思っておりました。ただ鹿野君については、シベリヤの環境で例外的な生き方をつらぬいた日本人としての証言をのこす義務のようなものを常に感じておりました。それがきっかけとなって、十篇ほどのエッセイを書きつづけ、去年一応打ち切ってほっとしたところでした。
舞鶴で別れたきりになってしまったのが、かえすがえすも残念です。(略)
あなたのことは兵隊の頃から鹿野君はよく話しておりました。
シベリヤで鹿野君と会わなかったらそれなりになったでしょうが、実際に自分の目で鹿野君の生き方を見たことは、私にとって決定的でした。現在の私のものの見方、考え方は鹿野君の影響をぬきにしては、とても考えられません。(略)
しかしなによりも私の文章があなたの目にとまったことは、私にとって大きな喜びです。ありがとうございました。
私は現在新橋で働いております。もし東京へおいでの折は、遠慮なくお立ち寄り下さい。(名刺を同封いたしました)(略)
四十八年二月十九日付で、石原さんから頂いた最初の手紙である。何度読み返しても、私は申し訳なさに身が縮むようだ。「ようやく確かな手に受けとめられたような……」あのきびしく深遠な事実と思想をどれだけ理解できたろうか。実は私は『望郷と海』を新聞の書評欄で始めて知った。その頃私は勤務先の大変複雑な問題の渦中にあって、心身弱り果てていた。空しい思いで夜更けに新聞を広げていた私の目に、「望郷と海」という文字が、続いて「石原」更に「鹿野武一」が飛び込んできた。書評を読み終えた私は、衝撃のため立ち上って部屋の中を歩き廻ったのを覚えている。「どうしよう。何から始めたら良いのかしら」と独り言ちながら。”石原吉郎”の姓名は、はっきり記憶していた。ハルビンで、舞鶴で、又兄からの手紙の中で。しかし既に十年近くも以前にH氏賞を受賞された詩人であられることも、それらのエッセイが数種の雑誌に掲載さ れていたという事も全く知らなかった。一方兄の死後十七年、あの無惨な悲しみも、ようやくその形を変え始めていたのに、ハルビンの路上から突然消えて行った兄が、あの朝の恰好のまま帰って来たような錯覚というか、二十七年間の歳月が、今の一瞬に凝縮されて浮上して来たような思いに突き上げられた。とも角、石原さんの住所が知りたかった。私は筑摩書房宛に往復葉書を出したが、編集部の持田氏が、直ちに速達で返信を下さった。「鹿野武一氏に妹様がいらっしやることは、石原氏から何度もお聞きしたことがあります お問い合せのあったこと石原様にもお伝えしておきました 」という親切な文面であった。それに勇気を得て私は石原さんに手紙を書いたという次第であった。その後ずっと引き続き、幾度となく御自身の著作を送って下さり、『望郷と海』についての数々の評論を教えて頂いたり、或る時は必要部分をコピイにとって送って下さったりした。今、私はそれらを読み返して感謝の念いを新たにしている。
「四十八年二月二十三日付 詩集をおとどけします。それから鹿野君のお墓の所在ついでの折にお教えいただければ幸甚です」
「同年四月十九日付 その後お元気でおすごしでしょうか。実は四月十七日夜の民間テレビの番組「私の昭和史」で「ソ連強制収容所にて」という題で三〇分ほど対談し、鹿野君のこともすこし話しました。この番組は、半月か一月後京都の近畿放送で放送するそうですので、もしごらんになるのでしたら、放送局へ日時を問い合せてごらんになるといいと思います。とりあえず右お知らせまで」
「同年五月十七日付 『読書新聞』に鹿野君に言及した文章がありましたので、おとどけします。最近出た平凡社の「ドキュメント・現代史4・スターリン時代』に私の文章が、すこし証言として収録されており、解題が附されております。店頭へでもお立寄りのせつ、ごらん下さい。なおこの本には、鹿野君や私に適用された刑法五十八条六項が掲載されております」
「同年七月三日付、私自身について割合い納得できる文章がありましたので、おとどけします。自分についての文章というものは、気のひけるものですが、私を通して著者が受けとめた鹿野君のイメージは、私にはよく納得できました。(略)」
佐藤節子さんの石原吉郎論『死の中の詩』のコピイが同封されてあった。これを頂いて私は分らないまま、とも角『花であること』を覚えてしまった。
「同年七月十七日付( 略 )私はほとんど福田氏の影響下に信仰の出発をしたようなものでした。(略)福田氏の思想から受けた影響だけは、今でも私の中に残っています。それともう一つの想い出は……」と語り継ぎ、後に刊行された『断念の海から』の〈教会と軍隊と私〉に記されている東京教育隊当時の事を丁寧に書き綴り、「人はいろいろなところで自分の知らないつながりを持っていると思いました」と結んであった。これはあるきっかけから、私が信濃町教会の前任牧師福田先生を存じ上げていることが話題になった時の手紙である。
「同年十一月( 略 )ことしの酷暑には完全に参って、ひと月で四キロほどやせました。秋に入ってやっと息をふきかえしたところです。こんど『望郷と海』で「歴程賞」というささやかな賞をもらいました。(略)
「五十年十月三十日付 鹿野君にふれた文章がありましたので同封いたします。」と、〈鶴見俊輔〉氏の『私の地平線の上に・わが欠落』のコピイが入れられた大層部厚いものであった。
「五十年十二月八日付 『文学界』九月号に鹿野君に関する記事がありましたので同封いたします。(略)私は今月末伊豆で開かれるYMCAの夏期セミナーの講師をたのまれましたが、クリスチャンの集りで話をするのは初めてなので頭を痛めております。(略)蛇足になりますが、来年日基教団出版局からエッセイ集が出る予定です。(略)」 『八木義徳氏・一冊の本から』のコピイを頂いた。
「五十二年一月二十四日付 (略)昨年は私にとり、大へん苦しい年でした。六月末から急速に食慾がなくなり、何も食べられなくて昏睡状態になりました。永い間の無理が出たのでしょうか。八月半ば救急車で町の病院へ運ばれ、二日間意識不明のまま、二週間の点滴でやっと立ち直りましたが、家内が看病疲れで、(略)疲労と洒の飲みすぎでまた倒れ(略)この間約二週間治療をつづけながら、出勤し、仕事のおくれをとり戻すための苦しい日がつづき、十二月二十九日やっと退院しましたが、もとの体に戻るのにはまだ疲労が残っています。(略)賀状の短歌は入院中の作品です。(略)」
「五十二年四月初旬付 お目にかかれず残念でした。鹿野君の行動について大へん行きとどいた分析がありますので、お送りします。(略)『四次元第五号石原吾郎特集号』を頂いた。その時の表書きは夫人の手で美しい立派な字であった。
「五十二年五月十三日付 折角上京されながらお目にかかれず、申し訳なく思います。(略)昨年六月末私が発病して以来苦しい一年でした。私は現在元気でおりますから、ご安心下さい。(夏には私の「対談集」が出ます。)なお中央公論社から霜山徳爾氏が『人間へのまなざし』という本を出しましたが、この中で鹿野君に言及しています。」私は八月に入ってから『人間へのまなざし』の読後感を簡単に書いて送ったが、返事は遂に頂けず、三ケ月後、夜更けのテレビニュースが、石原さんの死を伝えたのであった。
最も不確かな受けとめ手に過ぎない私のために、多忙と疲労の中から、手間をかけ、労をいとわず、届けて下さったこれらの通信は、唯一つ私の兄の事に関した内容を持つものに限られていた。それは私が詩心を持たず、表現の世界と無縁の者であるからには違いなかろうけれど、それに加えて石原さんの姿勢 「生き残ったということは、私には大変重たい事実であって、不用意に私はその事実から立ち去ることはできない。(四十九年秋朝日新聞・生きることの重さ)」がその根拠になっていたのだと思う。終始一貫固苦しいまでの律儀さが香っていた。
私は石原さんから二つの大きい贈りものを頂いた。一つは「望郷と海」を通して被害と加害の同在、告発をしない姿勢と言うきびしく深い考え方であった。私は当時直面していた職場の複雑陰湿な混乱に対して、この考え方で対処する事を得た。シベリヤの極限と私の当時の環境とでは、全く次元は違うけれど、私なりにその日常は極限状態であった。自分が被害者意蔑を持たないこと、そこに自立があること、尚自分も何時でも加害者となり得ること、だから告発しないと言う思想は、聖書の言のように重く逃れがたいものとなった。
他の一つは"詩心"である。石原さんから詩集を送って頂いたけれど、正直に言って解らないので、余り読まなかった。石原さんが急逝されて、突然生じた心の大穴を埋める手段もないまま、石原さんの詩集を開いた。"自死″を決意されるまでの魂の歩みの跡が、何か語られているかもしれないとの思いもあった。昼間は声を出して、くり返しくり録し[ママ]リズムを感じながら読み、夜は床に入ってからもずっと考えつづけた。かつて石原さんから頂いた「四次元五号」に大野新氏の「『位置』の中の位置」に〈星のように光って入魂するひっそりした劇を〉という言葉があるが、私は何時の間にか、入魂された彫像が仏様になるように、いくつかの詩は魂を持つ人格のようなものとして受け容れている自分に気がついた。『礼節』『北条』『足利』と変化していくことにも気付いた。そこで詩誌を開いて、多くの詩人や評論家の方が述べておられるところをたどると、理解を助けられるという事も知った。このような経験は本当に始めてであった。今はまだ石原さんの死に捉えられて身動きできないでいるが、いづれこの場から歩み出た時、”詩”はもはやかつてのような見しらぬ人ではなく、友人のように見つめて行けるだろうと思 う。何故なら入魂された詩は「人格」だから。
石原さん! ありがとうございました。
問い (石原さんへの)
きわみまで掘りさげた
地底の深みから
あなたは星を見ていた
一つ二つ三つ
星たちは生れかわって
詩になった
「私の兄が詩の中に今も生きづくのは
星だったからですか。」
五三年三月二日 兄の命日に