死んだ子供を懐に入れて抱いたまま、二日間座りつづけている義姉に、私はどう対したらよいのかわからず、困りはてていた。男子収容所にいる筈の兄に連絡をとるすべは、全くなかった。
私が八月九日の朝、ソ連軍の参戦と同時に、東安市を出て、山中を彷徨い、海林収容所で二週間程過ごし、拉古収容所に入ったのは九月二十日頃であった。ここには国境地帯からの避難民が数万人も集まっていた。私は着くと直ぐ、「千振開拓団の方はいませんか」と川べりに集まっている人々の中を叫んで歩いた。三日目に義姉と小さな甥に会うことができた。あと一月でちょうど初誕生日を迎える甥は、まるでミイラのようで生まれた時よりも小さく見え、時折頬瞼手足が”ぴくり”と動くだけで生きている証のようなものは、もうほとんど無かった。義姉はもんぺの上衣の懐の中へ子供を入れて、のべつ静かにさすっていた。陽がおちる頃から子供の体温も冷えてしまうので、夜通しさすり続けていると、陽が上る頃からまた少し体温が戻ってくるのだと、小さな声で言った。そして千振から逃げてくる途中、襲ってきた暴徒が子供の首に草刈り鎌をかけたので、持ち物一切を渡して子供を助けてもらったのだと、つけ加えた。兄は八月六日最後の召集令で出て行ったので、母子だけで逃避行を続けてきたのであった。
東安の職場仲間と一緒に起居していた私は、朝夕、川へ用達に行く度、義姉達のいる棟に立ち寄っていたが、九月の朝、「いくらさすっても駄目なの」と義姉はうつろな声で言い、懐の子供から目を離さなかった。同室の人達は義姉に何かと話しかけ世話をしてくれるのだが、義姉は返事もせず、動こうともしないのである。千振からきた同室の人達の子供は五歳以下は全部既に死亡し、甥は小さいのに今日まで生き残っていたのである。二昼夜経つと、埋葬を説得する同室の人達の口調もだんだん[少しずつ]いらだちを見せるようになってきた[ってきた]。
「ね、決心したら?」
私は義姉の肩を揺さぶった。
「棺桶みたいなものに入れてやりたいの。このまま埋めるのがいやなの」と、義姉は案外しっかりした声で答えた。私はとっさに思いついて収容所内の病院へ走った。勿論ソ連軍の管理下であるが、日本人の病院関係者が多勢働いているので、一年前まで兄夫婦が勤務していた東安省立病院の職員もいるかもしれないと思ったからである。受付で話すと、幸い直ぐに兄達を知っている人に会えたが、棺桶の代用になるものはないので、顔の部分だけでも覆ってあげたら、と大学目薬の小さな木箱を呉れた。義姉もやっと諦めがついたのか、同室の人達と話をするようになった。みんな大切に保存している小麦粉やポーミー粉を出し合って団子を作るなどして葬いの準備をしてくれるのであった。私は木箱の一辺を壊して顔を覆えるようにし、落とした一片に”武彦の墓”と彫りつけるように鉛筆で一画一画力を入れて書いた。
「わたしはとても……。あなたにお願い」と義姉は懐から出した子供を私の腕に預けた。二三人の人達の後ろから私は軽い小さな亡骸を抱いてとぼとぼ歩いた。建物の棟から十五分ほど離れた広漠とした荒野が難民の即席の墓場になっていた。既に何千体かあるいはそれ以上埋められていた。掘ってもらった穴に甥を置き、木箱で顔を覆い、両手で土をかけて、小さな木片の墓標をたてた。団子を供えていると、いつの間にか五六歳位の子供が、四五人集まってきた。「そら、お供養や、お供養や」とやせ衰えた垢まみれの子供の手に団子を持たせた。私は、ぼんやりした想いでその光景を眺め、荒野の向こうに続く地平線に、やがて沈んで行く太陽に目を移した。
翌日午後、川へ行った時、墓地へ寄った。甥の墓に、髪の毛のそそけたった女がしゃがみこんでいる姿が見えたが、やがて私の足は凍りついて動かなくなった。亡骸を掘り返しているのだ。私は声も出なかった。ただ見つめていた。女は小さな亡骸から衣類をはぎとり、急いで埋め戻し立ち上がって振り向いて、はじめて私に気付いた。
「うちの子に着せよ思うて、えへへへへへ」
泣き笑いの声を残して走り去った。見送ってから私は墓にかけ寄って、ていねいに土を盛り、墓標をなおし、両手でしっかり押さえた。はじめて涙がとめどなしに溢れてきた。何もかも一切が荒涼としていて、慰めになるものはどこにも見あたらないのであった。服の袖で涙を拭ったが、それは山中で拾った日本軍の兵隊服の袖であった。武装解除された部隊が、着替えて古いものを捨てて行ったのだと思われるが、密林を彷徨して衣服がボロボロになっていた私は夢中で拾って身につけたのであった。他人の子の墓を掘り返してわが子を凍死から守ろうとした母親の子も、やがて土に埋められ、また他人に掘り返されるのだと思うと、余計、背中に吹きつける秋風が、ひどく冷たさを増したように感じられた。そして今見たことは兄夫婦に決して言うまいと自分と固く約束をして立ち上がった。 二三日して、通訳の任務を帯びた兄が来た。八月六日、千振で応召してハルピンに辿り着いたが、既に軍隊が不在でうろうろしているところを、男狩りに遭って収容所へ送られたのである。私は海林で日暮れ近い野道を女子収容所へ向かって急いでいる時、全く偶然に、男子収容所へ向かって急いでいる兄と出会ったのである。一二分立ち話をして別れたままであった。ロシヤ語が出来ることを隠しておくつもりであったが、家族の様子を見るために自分から通訳を申し出たのだと話した。三人で墓へ行った。並んでしゃがんでいる二人から、離れた所に私は一人立ち、あの凄惨な光景が言葉になってくる喉元を、両手でしめつけていた。背丈程の雑草のしげみの向こうにソ連のジープの音がして、兄を大声で呼びかけ、走って行った。
その頃毎夜、荒野の涯の闇をしきりに燐光が翔んだ。小さいよろよろしたのを見た時、私は甥の魂だと思った。
やがて拉古も結氷期が近づき、難民の大部隊は全員ハルピンへ移動することになった。この時ようやく、家族同士は男女が合流できることになり、私は職場仲間と別れて兄夫婦と一緒になった。ハルピン行きの貨車の中で、赤ん坊の亡骸を抱いた若夫婦と向かい合わせに座った。貨車はのろのろ動いては止まり、何時ハルピンに到着できるか見当もつかなかった。子供の亡骸を抱いた母親は黙りこくっていて、父親もただ寄り添っているだけであった。兄はいかにも先輩らしく余裕ある口調でその父親に話しかけた。
「思いきって埋葬してあげた方が、お子さんも幸せですよ。この調子ではハルピンにいつ着くか分からないし、着いてもちゃんとしたお葬いができる訳はないし、今度汽車が止まったら一緒に降りましょう……」
長い徐行の末に静止した貨車から、子供を抱いた若い父親と、つるはしを持った兄が飛び降りた。貨車はいつ動き出すかしれないのでハラハラしたが、二人は明るい表情で話し合いながら戻ってきた。若い父親はしきりにその妻に語りかけた。
その後、ハルピンの市中でソ連に拉致された兄は、二十八年十二月にやっとシベリヤから帰ってきたが、一年目に急死した。シベリヤの凍土に埋められる不幸からは免れ、故郷で先祖代々の墓に納まった。
窓甥の三十三回忌の折、義姉の立場になって書いたのだが、同じ悲しみを今ものみこんだままの母親が、何万人いるか、はかり知れないと思う。
木枯らしが体を吹きぬける夜は
カーテンをあけたまま眠る
夜半 月が傾き
窓いちめん銀のうろこが凍りつき
冷たい光が
網膜をとおり、胸のあたりをたたく頃
敗戦の年の秋
飢え死にした稚な児が
窓をあけて入ってくる
とおい北満の荒野に
ボロ布にくるんで埋めてきたのに
赤い頬とまるい瞳でじっと見るのだ
抱きよせようと腕をのばすと
月がかげって
暗い窓から子供はひっそり去って行く
あの時 火の玉になって翔んだから魂はないのね
ふとんをかぶり夜明けを待つ
朝やけの窓をあけると
隣家の子供の声が流れ
あわてて閉めてカーテンをひき
荒野となった寝床へもどる