三月十二日(土)
八時半に飯田からバスが出ると云うので、七時半に起きた私は忙しかったです。8時のバスに乗りおくれたので、飯田までとことこ歩きました。春の陽ざしがポカポカして、オーバーコートは手に持ちました。途中、処処の家々からラヂオのピアノが聞えて来ましたが、確か、モーツアルトの何かです。「モーツアルトがとてもお好きだったお兄様、好いお天気ね」と、鞄の中に入れてあるお兄様と話し乍ら足を早め、飯田に着いた時、丁度其処のお店から、「唯今のピアノは……」ひびいてきたので、ああ8時30分だと思い、向うを見るとまだバスに乗る人が沢山待ってゐたので、ホッと致しました。
前の方に座る事が出来ました。けれど、穴水の手前三十分程の頃、とうとう吐きました。朝、食べすぎたからでしょう。大した事はなく、中も空いてゐたので、迷惑もかけず幸いでした。
金沢の手前の津幡と云う処で乗換えましたが、ホームのアナウンスが「北海道へおいでのお方は……」と云ったので、私は心から行きたくなりました。私はどうも北の方に憧れる癖があります。
この汽車に真向かい座った女性が、ひどい風が吹き込むのに、どうしても窓を大きく開けるので、一回丈たまりかねて「一寸閉めさせて下さい」と断って閉めましたが、又何時の間にか開けるので、咽喉を痛めないかと私は非常に不安でした。人て本当にそれぞれ好みが違うのですね。私も濁った空気は人一倍嫌いだけれど、こうひどく吹きこまれては弱ってしまいます。富山あたりから風景が目立って変って来ますね。海と云い山と云い、何と壮絶でしょう。私はひきしまる様な快感を覚えました。始めて見る親不知の海岸、でも今は”親不知鉄工所”と云う大きな建物が出来てゐて、盛に女の人迄もが箱を背負って何かを採集して運んでゐるのが見えました。何の鉱物なのでしょう。そう云えば姉ちゃんの家の直ぐ近所にも、能登鉱山発開[ママ]事務所と云うのがあって、随分発展してゐる様でした。新聞をよまない私の不見識を恥しく思った事です。
白鎧々[ママ]とは正に、あのアルプスの姿を云うのですね。冬の山の神秘な美を、今日程感じた事はありませんでした。今年の夏は高田へお訪ねして、お兄様と長野あたりまで遊び、浅間を登ったりしたい等と夢見てゐたものですが、正しく夢に過ぎませんでした。
北国の海も灰色に暮れ沈んで、鉄鉱所からの勤め帰りの人々で汽車が混んで来た時、やっと直江津に着きました。四十分も停車して、場内アナウンスが高田まで電車がある事を教えましたので、乗りかえました。その時、時間は充分あるのに、あわてたので、車内に汽車時刻表と(―昨年お兄様を迎えに舞鶴へ行った時求めたものだから、古いのですけど)、先日北白川付近で求めたチエホフの”シベリヤの旅”(一寸もよまないで)を忘れて来てしまいました。あわてたのは、乗りおくれたらと思うよりも、「高田だ」と思うと、一気に落着を失ったのです。
高田迄は直ぐでした。車中、今日夕方大火事があった事を人々が話し合ってゐました。本町と云う言葉が聞えるので、「緑屋」はどうだったかしらと思いました。”高田””高田”と聞いた時、そしてホームに降りた時、私は痛い程緊張せざるを得ませんでした。一足一足踏む大地が恰もお兄様であるかの様に思はれて、お兄様の地上の生命が永久にこときれたこの高田の土地、もし高田にゐらっしゃるお兄様をたづねて来たのだったら、ああ、それを思う事は止めましょう。私の足は、昔のシベリヤの流刑の人達の様に重く窒息するにも似た息苦しさが私の胸を塞いでゐました。小学校時代、地理で習った様に軒の長い廊下みたいな屋根の下を、私は真直ぐ歩きました。案に相違して雪は一塊も見られませんでした。お兄様のお手紙で、病院と旅館の間の距離方角は知ってゐましたが、駅からどう云う位置にあるのか分りません。正面にあった化粧品やで、クリーム(先日来なくて過してゐたのです)を求め、そこで緑屋旅館と病院の場所をていねいに教はりました。次でストッキングとタオルを別々の店で求めましたが。何処でも一様に感じた事は、とても言葉がきれいで、ていねいであった事です。語調に落着きがありましたし、標準語に近く、能登で困ったのと比べると不思議な様でした。どうして、同じ日本海沿岸の北方であり乍ら、こんなに違うのでしょう。能登の人々は殆ど村から出ないのに、こちらはよく他処と交流するのでしょう。そう云えば能登のあの辺りは、日本中の未開発村第何位とか云う有名な処だった様です。
緑屋旅館に私は何気ない態度で入りました。お玄関にゐた”おじさん”――つまりお手紙にあった”父親”ですね――が、「お泊りですか。○○ちゃん、お客様」と横を向いて呼びました。表はれ出た娘さん――即ちお手紙の”娘さん”ですね――が丁寧に、行届いて、しかし何だか冷たさをたたえて案内してくれました。階下の突き当りの大きな時計がかかってゐるわきの六畳です。直ぐ隣りに便所、続いて洗面所がありました。お兄様! お兄様もここを使はれたのですね。ね、そうでしょう。お兄様! 私は何にも言えない。お兄様と声に出して呼んで見る丈です。
おこたに火が入り、お茶が運ばれ、宿帳にも記入しました。私は松山の住所で、本名を書きました。女中さんが敏感なら私の顔と鹿野と云う一寸珍らしい姓とで、気付いたかも知れないのですが、何の事もなく、私が朝食も断ったものですから、前金を頂きたいと云って例の娘さんが参りました。ああ、宿やで朝早く逃げると云う話を聞いた事があったけど、こうしてその害を防ぐんだなと、始めて知りました。
お兄様! あの岡山の旅館の一夜、随分語り、笑い、共鳴し、おふとんを一枚づつに離したり、寒いと云って又重ねたり、朝9時頃まで何て楽しい愉快きわまる時を持った事でしょう。今、私は、お兄様が二ヶ月間一人で生活なさったその場処に、私はお兄様の遺骨を持って、訪ねて参りました。先づ、机の上にお骨と、聖書にはさんであるお兄様と二人で天満やでとった写真を出して、”お兄ちゃん、疲れましたね”て云いました。高田に来たので、ふと、中のお骨が変ったかもしれない様な気がして、又この小さなカンから抜け出して、アラビアンナイトの大入道の様に、お兄様の形になってくれないかしらと思って、おそるおそるハンカチーフを解いてふたをとりましたけど、脱脂綿にくるまったお兄様のお骨はやはり薄く菫色がかったカサカサのもろいもろいままでありました。お兄様! 生き返って! も一度生き返って! 私の前に出て来て、も一度お話して!
障子越しに、廊下の大時計の音がわづらはしい程ひびいてきます。お二階に泊ってゐる下宿の方でしょう、時々便所や洗面所に降りて見えます。お兄様とお話しなさった事のある人々でしょう。
娘さんに、お風呂の場所をたづねて、私は出かけました。何かの拍子で、お兄様のお骨にふれられたら困るので、写真も一緒にカバンにしまって、鍵をかけ、鍵は持って行きました。随分混んでゐたのと、私が疲れてゐたため上せそうであったので、早々に上り、帰途、背中が痛いので(疲れると私は何時もそうです)サロンパスと、そして明朝の食事にパンを二個と、今夜のおやつにもなか二個を買って帰りました。
店にはまだおじさんが座ってをり、娘さんが「お帰りなさいませ。お帰りなさいませ」とやさしい声で云いました。お兄様が毎朝夕、病院から帰ってらした時もそうだったのでしょうね。
も一度お兄様に生き返って欲しい。狂いそうな心の叫びも少し沈まって、私は床を気のすむ様にととのえ、お骨を枕許におき、電気を消して長い事静かにお祈りしました。明日出席する高田教会の礼拝のためにも、又、京都の北白川の礼拝の上をも祈りました。お兄様、岡山の時以来の二人での睡眠です。ゆっくり充分眠りましょうね。お兄様、私はやはり云はずにをれないし、現実に生きてゐるお兄様を高田へお訪ねしたかった。そうして心ゆくばかり、種々な話題について夜通しでも語りたかった。叱られたり、笑われたり、慰められたり、はげまされたり、又喜ばれるお話だって出来たでしょう。お兄様! 枕許のお骨の包みは、単なる物質にすぎないのかしら。私の心は切なくギリギリまで悲しみをたたえてゐるのに、それは何の変化も起しはしない。
おやすみなさい。
廊下の大時計の音がたまらなくわづらはしい。一時も、二時も、三時も知ってゐました。お兄様もこの時計の音が耳について、お困りになった事がおありだったかしら。
三月十三日(日)
七時、ラヂオの時報で目覚めました。天気予報を聞いてゐると、今日夕方から急に冷えるとの事です。雪国の急激な天候の変化を知らない私は、些か不安になりました。名残惜しげに、長い間床にゐました。洗面に行ってゐる間に、女中さんがお茶を置いて行きました。昨夜買ったパンを食べて、簡単な朝食を終へると、お部屋をきれいにしました。ごみを捨てる処が分らないので、石段を降りてゴミ溜迄行きました。お兄様もこんな事をなさった事が何度もおありだったろうと思い乍ら。
八時半、出かけようとしたら、お母さんと娘さんが出て来て、あいさつをされ、”これから何ちらにおいでですか”と、これは誰にでも云う決り文句なのではありましょうが、私は遂に黙ってられず、「私は鹿野武一の妹です」と申しました。二人の驚きは大きかったです。何故昨夜仰有って下さらなかったのか、そしたら、色々お話申上たのにと、おせじかなんか知りませんが、私は真実の様に聞きました。
「あんな、真面目な、静かなお方は、めったにございません。今時珍しいお方です。毎朝、お出かけになる前に、亡くなった赤ちゃんにお線香を上げて拝んで行かれるのですよ。なんだか昔を思はせる様な、なつかしいお方でゐらっしゃいました。鹿野さんはこちらの方の二階にゐらしたんですがね」
玄関から直ぐついてゐる階段を指しました。私は部屋が見せてほしいと口まで出ましたが、こう云うセンスの分ってくれる人であれば好いが、そうでなかった場合、妙なものだと思い、遠慮しました。
「一日の朝、”おばさん、今夜僕当直ですから、夕飯と明日の朝飯と、要りませんから”と鹿野さんが仰有るものですから、”そうですか、今夜はお淋しいですね”と申しましたら、”はははは”と笑っておでかけになったんでございますよ。二日朝、病院の方が見えて、鹿野さんが亡くなったと仰有っても、訳が分りませんでした。それはきちょうめんな、大人しい好いお方でゐらっしゃいました」
娘さんも、
「本当に好い方だったね。あんな方、ないね」と、お母さんに向って、何度か云ってゐました。
私は危く涙が溢れて来るので、それ以上話す事は出来ず、よく礼を云って去りました。
昨夕、火事のあった鉄道宿舎の処から右に折れると、お兄様の命が永久に消えて行ったその病院までは僅かでした。日曜なので、薬局は閉ってゐました。白いカーテンのすきまから、薬品棚が見えます。二ヶ月の間、お兄様が誠実にお働きになったこの場所、その隣が当直室です。扉は閉されてゐて、私には中は見る事は出来ませんでしたけれど、そこに、気高く眠るが如く安らかに息をひきとりなさったお兄様の姿を見る事は容易でした。「お兄様、ここでね」。私はそれ以外何も云う事は出来ず、心の中で長い間合掌してゐました。
それから病舎の方も少し歩いてみました。お兄様が患者さん達を慰めて歩かれた事もあっただろうその廊下の一歩一歩を、私は、勿体ない様な思いでふみしめるのでした。誰に紹介してもらう事もなくやって来た私は、ボツボツ挙動不審の眼で一、二の看護婦さんから見られました。来る迄は、先づ名乗り出て、案内を頼み、お兄様が最後までやってらした合唱のおけいこ等も聞かせてほしい位に思ってゐたのですが、さてとなると、恥かしい様な怖しい様な気分に満されて、も一度宿直室の前で合掌をし、出て参りました。
礼拝の時間迄はまだ少しあります。保健所の前を通ってみました。凡くはお兄様も幾度かゐらした事がおありだったでしょう。南城中学校の前も過ぎました。子供達の元気な遊びを暫らく立停って眺めなさった日もおありになったかもしれません。唯、通り〔に〕沿って歩いてゐる中に、葦が一面に生えてゐる広い沼地みたいな処に出ました。その向う側まで行きたいと思って、バスの通ってゐる真直な道路を行くと、即ち病院のある通りに出て、其処は市立図書館でした。折から風に伴ってみぞれがやって来ましたので、図書館の軒場で暫らく休みました。隣にゐた女学生が明るい声でシューバートの野ばらをデュエットしてゐましたが、愛らしく好ましい風景でした。
広い広い沼の周囲には何処までも大きな桜の木が打ち続き、やや芽ぶきかけてゐるその梢は、薄く煙の様に見えました。一寸京都の山科あたりか疎水付近を思はせます。
君が魂 いづち行くらむ 衣笠の梢の緑 つのぐむものを
と、ずっと以前府二の井上先生の死を悼んで歌った野津先生の歌を想い出しました。閑寂で雄大な、非常に良い展望です。私はその先に見える高田公田、高田城址と云う標柱の方へ行きました。公民館が左手にあって、右手は楽し気な公園でした。日曜の朝の散歩らしい親子づれ、兄弟づれに混って、私も”おさる”や”たぬき”……に暫らく見とれてから、池の傍のベンチに腰を下しました。池の真中には、青銅の女人仏像が据えられてありました。何かのいわれがあるのでしょうか。仲のいい女の子が、三人でおままごとをしてゐました。が、どうも空模様があやしくなって来たので、私はまだ礼拝には少々間があるけれど、教会へ急ぎました。
病院と教会はほんの筋向いなのですね。半田道夫牧師と云う名も幾度かのお手紙を通して旧知の人の様でした。講壇が向って右隅角の一段高い所にあり、オルガンは後のお二階からひびいてゐました。一人、二人、入って来る方もあり、私は左側の前方に席をとりました。さんびかを持ってないので、勝手に入口の机の上のを拝借に行きましたが、そこに、三月六日の週報がありましたので、何気なく手にとりました処、報告欄に、「この一月より毎週かかさず礼拝に出席し、中央病院薬局に勤務してゐられました鹿野武一兄は、三月二日(水)朝六時頃、突然昇天されました。病身の奥様、並に御遺族の上に、主のお慰めの……」
お兄様、お兄様が毎週必ず出てらしたとは知りませんでした。実を云うと、教会の方には、まだお兄様の死を御存知ないのぢゃないかしら、なんて思い乍ら来たのでしたが、お兄様がたった二ヶ月の間に、どんなに深い交りを持ってらしたかがよみとれました。
自分の席に週報をもって戻り、何度もよんでいゐると、熱い涙がとめどなく湧いて来るのを何うする事も出来ません。この会堂で真剣に祈られたであろうお兄様。御一緒にこうして祈りたかった。私は声を出さない様に泣きました。向いの部やから出て来た黒い粗末な背広を着た、清潔な風ボーの人が、そこここにちらばってゐる草履を忙いで[ママ]取片付けると、私の横に来て、「わたくし、牧師の半田です。始めまして。どなたでしょうか」と、云われました。私は、立上り、口の中でモソモソ鹿野の妹ですと申しましたが、聞きとれなかったのでしょう、「え、あいづさん」。「いえ、先日亡くなった鹿野武一の……」。「ああ、鹿野さんの……」
牧師は、まだ開会に時間があるので、お兄様のお話をして下さいました。
「最初、鹿野さんはここへゐらした時、妹の気持をよく解る様になるために来るのだと仰有いましてね、あなたの事もよく伺いましたよ。その後、僕も鹿野さんを家におたづねもし、ずゐ分失礼な事も云いました。又、鹿野さんも相当深い突込んだ話もして下さいました。かのさんが一番よく云われた事は、清いものになりたい、殊に家内との関係を全く聖められたものにしたい。自分は十年のブランクで仕事に対する自信を失ってしまった。薬剤師としての給料を貰うのは心苦しい位だ。唯、これからはハイリッヒな生活を送る事に、全力をつくしたい。ハインリッヒ〔ママ〕なもの、ハインリヒ〔ママ〕なものて云ってね、鹿野さんがハインリヒ〔ママ〕て仰有る時、余り熱がこもってゐるので、こちらが一寸怖くなる様でした。一月以来、一度も礼拝をお休みになった事はありませんでした。土曜の朝、9時頃、婦長さん――もここの会員なのですよ――がとんで来て、”なくなった、なくなった、先生、鹿野さんについて何か知らんか”と云うので、”病院の何がなくな〔った〕んですか。鹿野さんて、物盗る様な人ぢゃないでしょう”。”ちがうちがう、かのさん本人が亡くなったんだ”て云うんで、僕、とんでったですよ。そしたら、まだ温かったです。それはやすらかな、きれいな顔してられましたよ。
かのさんのお葬式は教会でしようと云う事になって、プログラムも出来、薬局長――もここの会員ですよ――が書いたんですがね、病院の事務の方から、そう云う事は京都のお家へ宗旨を問い合せ、その指示を待ってからすべきだと云いましてね、自分も、筋を通すと云う意味では、そうだし、無理に自分の方に引張り込むのもどうかと思って、病院の事務の人々の云い分に従いました。併し僕は、もしここでするならと、その時にはこんな事が話したいと思いました。ノアのはこ船から放たれた鳩が飛んでったけれど、そこは泥んこまみれの汚さで、住みつくべき場所は地上に一点もなかった。オリーブの葉を一枚くわえた丈で、鳩は再び船に帰らざるを得なかった。余りにも切実にハインリヒ〔ママ〕なものを求めた鹿野さんが生活して行けるスペースは、この地上には確になかったんですよ。地上に足を下せなかったかのさんは、神様の処に帰る他なかったのでしょう。本当に烈しく清いもの、清いものて仰有ってましたからね」
定刻になり、オルガンの奏楽も始められてから、牧師は講壇に上りました。私は涙をかみ乍らも、お兄様、天上に上げられた事を、心から信じる事が出来る様な喜びを感じてゐました。さんびかを一緒に歌おうとしても、声になりませんでした。出るのはやはり涙丈なのです。この少人数の礼拝で、お兄様のバリトンは美しくひびいた事でしょう。信仰告白はなさらなかったけれど、誠実に聖さを求めつづけた故に、主はきっとお兄様を天に上げ給い、お兄様はそこで受洗なさったに違いないと思います。ね、お兄様、そうでしょう。
”ヘブル書 二・一-四”に基いて、半田先生はいい説教をなさいました。半田先生て、一寸文学的ですね。違いますか。ゲエテだのベートーベンだのの話がよく出て来ましたのよ。松山教会の桜井伝道師の様に、とうとうとした、あざやかすぎる弁説[ママ]とは全然異って、半田先生は、北白川で若い人が奨励をする時の様な、とつとつとしてゐるけれど精一杯の、盛り切れない程な誠実さと純粋さが、聴衆の心の中にスーッと流れ込んで来るみたいな方でした。
説教の後で、定められたさんびかを止めて、565を歌うに当り、それに先だって私を皆に相当詳しく紹介されました。お兄様の報告も再びなされました。565の歌詞が、何の条件もなしに私の心の隅々にまでしみ透って来るのでした。会員同志も、皆、大変親しそうでした。きどってゐる処がなくて、ここの教会は好きです。
礼拝後、中村さん――お手紙の一老婦人で、繁次さんの御親戚の方だと直ぐ分りました――が、是非家へ来る様にと仰有るので、とうとう参りました。礼拝の始め頃は、ひどい風にみぞれが吹かれ乍ら降ってゐましたが、みぞれ丈は止んで、まだ強い風が冷たかったです。お兄様が高田で勤められた二ヶ月の間には、こんな日が随分あった事でしょう。
おこたに入って、お餅を頂き乍ら、中村さんの今迄の生涯がどんなに大きな事業と財産を大勢のお子さんを亡くされた悲しみとを持ち、戦争によるそれらの苦難を唯信仰丈でこんなに豊かに暮してゐらっしゃるのだと云うお話を伺いました。こう云う立派な老婦人を会員に持ってゐる教会は恵まれてゐます。
二時頃、半田先生が自転車でゐらっしゃいました。又、お兄様のお話をして下さいました。
「君はまだ来たばかりだから構わないよ」て同僚が云うのに、皆が苦労してやってゐるのに自分ばかり楽をしてゐるのは悪いですよ」て云って、引受けなさった最初の当直の夜、夜が更けるまでお義姉さまに手紙を書き、日記をつけ、買ったばかりの薬剤学年鑑?をおよみになり、定刻の巡回をなさったお兄様。朝、6時には、入院患者さんでお兄様にお会いしてゐる人が沢山あるのに、9時にはもうほのかな体温を残した丈になってらしたお兄様。その夜の投薬は30名もあったのですってね。その一人一人の記録を、詳細に書いてらっしゃるお兄様。用紙の印刷時の誤植まで赤インキで一字一字訂正してらっしゃるお兄様。当直を完全に果し終えてから、一寸床に入ろうとして、ネクタイもとかず、枕許にさんびかを置いてそのまま再び目覚めて下さらなかったお兄様。右手を上げて、枕を一寸はづして、眠る様に安らかに清潔な下着をつけて、誰も知らない間に死んでしまったお兄様。こんなにきれいな、立派な死方は見た事がないと云って、検死に来た警察の人まで泣かせたお兄様。
昨日も、一緒にお菓子を食べて、ロシヤ民謡を歌ったのに、嘘だとより思へないと云われる同僚の方達。
「俺もこんなにして死にたいな」
「だめだめ、こんなきれいな死に方は、そう簡単に出来るもんぢゃない」て、お通夜の時、話合った同僚の方々。
も一回、納棺までにお顔を見て来なくてはと、夜中に病院まで出て行かれた半田牧師夫人。
「鹿野さんは、平常からきちょうめんではゐらしたけど、余り下着がきれいすぎるんですよ。薬剤師ではゐらっしゃるし、皆、一応、自殺て思ったんですよ。僕は一番にポケットに手を入れました。薬包紙が一枚出て来たんですが、それは肝臓の薬が入ってゐたので、もう大分古いものだと云われましたよ。ねまきを下宿へ取りに行ってもらったんですが、そこが又キチッとしてゐてね、何一つ汚れたものもなければ、塵もない。又自殺かしらんて思った位にね。併し、かのさん――何時でもああだったな、本当に。真面目で、きちょうめんで、何時下宿に行っても、きれいだったな、ハインリヒ〔ママ〕、ハイリヒ〔ママ〕て仰有ったけど、隅から隅までハインリヒ〔ママ〕だったな。
仕事にも、大分自信が出て来てらしたんでしょ。小児科医と、処方の件で論争された事がありましてね、「この方法は重曹が下に沈殿するから、不可ないのだ」。「いや、そんな事位かまわんのだよ」。「いや、どうしてもいけない。もっとよい方法があるんだから、訂正すべきだ」。「いや、かまわんよ」。どちらもゆづらなかったんだそうです。でも、薬局長が、鹿野さんの方が正しいて云ったんで、お兄さんはその日の日記にも、これで一つ自信が出来た、て書いてらっしゃいますよ。ああ、本当に良い人だったな。ロシヤ語はとてもよくお出来になるし、あちらには好い本があるから、それを翻訳して日本の薬剤新聞に出そうと云う計画も出来て、あちらへ送金もなさったんでしょう。それから、病院でコーラスを始めたりなさってね、日記の中にも云ってられますよ。今迄歌声のなかった病院に、僕が来てから美しいロシヤ・ソングがひびく、てね。看護婦さんは勿論、事務の人も沢山参加してゐて、とても楽しみに毎日集まってたんですよ。薬局長の方も、鹿野さんのあの内省的な、慎重に慎重を重ねる性格はよく解ってられた様ですね。秋になれば、大島の分院へ転勤になるていうお話だったらしいけど、僕はかのさんは良い人だから惜しいなて云ったら、薬局長も、「そうですね。高田にゐる様に一つ運動しましょう」て云ってましたね。併し、かのさん自身は、あの僻地の雪深い、不便な土地で働かせてもらうと云う事が又一つの楽しみだったらしいですね。全く、かのさんには、あの長い間シベリヤに抑留されてゐたと云う事についても不満がないのですからね。実に、どんな事でも淡々として受取って行く方でしたね。病院の官舎を春になったら上げようといわれるのに、いや、自分は高田には長くない人間ですから、結構ですなんて云ってね、それで、谷沢さんのお家を借りて、雪が溶けたら、奥さんと一緒に暮される様おすすめしたら、その気になってらしたんだけど。
全く惜しい事をしましたね。
でも、ほんとに、かのさんみたいな聖い人は、この地上には足をつけるスペースがなかったでしょう。確に、神様から一度は放たれたけれど、オリーブの葉を加えて[ママ]、又戻って行かれたんですよ。
妹さんの事は、実によく云ってらっしゃいましたからね。僕、妹さんてどんな方かと思ってましたよ。
僕は中学卒業当時、信仰が一番焔みたいに燃え上ってゐた当時、友人と共に長島へ行った事がありますがね。実にひどいですね。僕は、神様、僕が伝道者になったとしても、たとえまちがっても、こんな処にはつかわさないで下さいて祈りましたね。私のよく知ってゐる白石さんと云う人が看ゴ婦になって行きました。その人は唯々信仰一筋に生きて、そのために行ったのですが、皆、よってたかって悪口を云う、かきたてる、便所の壁にまで、白石さんの悪口を書きたてると云う様な状態で、遂に辞めましたがね。こちらの誠実があれ位受け取ってもらえない処て、実さいひどすぎますね。僕は鹿野さんに云った〔の〕だ。妹さんが辞められたのも、そんな風な事ではないでしょうかね、と。お兄様も、自分もそう思うて仰有ってましたよ」
お兄様、愈々岡山を汽車が出る時、私は烈しく泣きました。黙って暫らく見てらしたお兄様は、余り泣くので、「気分が悪いのか」て、一言仰有ゐましたけど、又知らん振りをしてらした。でも、黙って、私が辞めざるを得なくなった理由と、今、烈しく泣く理由を深く考え、よくよく解ってゐて下さったのですね。ありがとう、お兄様。本当にありがとう。本当に何と云っても、お兄様程、私をよく理解して、優しくして下さった方は、誰もない。お兄様に丈は、生きてゐてほしかったのです。私は自分がお兄様より先に死ぬ事こそ、幾十度となく考えましたけど、お兄様の死て、考えた事がありませんでした。お兄様、これからが、本当の独り歩きの生活が始まるのです。どうか、助けて頂だい。
中村さんがお別れ〔の〕お祈りして下さって、私は半田先生と一緒に出ました。先生は途中、看護学院へ入試の事でお立寄りになり、教会へ着いた時は同時でした。ひどい風で、教会の立看板もたおれそうです。
あちこち外回りを直して歩く先生は、如何にも豆々しい感じがしました。私は中村さんが今玄関先で仰有った「しっかりしっかり、働いて下さいね」て仰有った言葉が耳について離れませんでした。本当にお兄様に続いて死んでしまいたいけど、自殺したら天国に行けないし、それこそお兄様と再びお会い出来なくなるのだ。使命と信じる処を、ひたむきに進んで、死んだ時にこそ、お兄様と必ず再会出来るのだて考えてゐました。
牧師夫人も清純な、育ちの正しさを思はせる人でした。御自慢のライスカレーを作ってゐて下さったらしいんですが、材料が悪くて変になったからって、中華そばをとって下さいました。私はまだ中村さんのお餅がこたえてゐて困りましたが、雅子ちゃんの食べるのが面白くて、つい引込まれ、とうとう全部頂きました。マーチャンは小児麻痺なのですね。右の手が石膏で固めてありますのね。「私が病院へ行くと、いつでも鹿野さんが出てらして、少し好いですかて、必っとたづねて下さったですよ」
半田牧師夫妻に存分に可愛がられてゐるマーチャンを見てゐると、幸福だなと、しみじみ思いました。そして、うちの施設の事どもを語りました。悲しくても、嬉しくても、放っておかれる子供たち、下に落ちてゐるものを拾って食べても赤痢にもならない子供たち。火鉢もないお部やで、固って寝る子供たち。それでも、入って来た当時よりは遙かに幸福に明朗になって行く子供たちの話を。 夜の汽車が八時なので、それまでお二階の先生の書斎で、ふかふかのおふとんで寝みました。お兄様だって半田先生のおへやで寝まれた事なんか一度もなかったでしょうに。先生の蔵書からして、先生の純粋さと、そして文学的な面にも深い事が知れました。
先生は私が寝てゐる間に、隣町へ伝道にゐらっしゃいました。七時に下へ降りてゆくと、夫人はおしるこを作ってゐて下さいました。人みしりのマーチャンとも大分仲よくなって、一寸冗談を云ったりして、高田に着く迄とは全く打って変った明るい気持で、お兄様の死を考へる事が出来る様になった事を、夫人に話し、又、必ず高田を訪問する約束をして去りました。もう鹿野さんともあれまで、おしまいかと思って、残念でたまらなかったけど、これでもうつながりが出来たから、本当に好かったて、夫人も仰有ってました。「どうか、禍が感謝に変ります様に」て、玄関の戸を閉める私に、夫人は云いました。感謝に変ります様にて、自分も繰返しました。
外はみぞれを混えた風が更に烈しく、私はベレーを深く冠り、ナイロンのふろしきはお腹にあてて歩きました。此処で始めて雨靴が役に立ちました。
汽車を待つ駅で、私は石川にハガキを出しました。確に私の心境はすっかり変化してゐました。お兄様の死を感謝する処までは、どうしても出来ませんが、お兄様が天上に上げられたと云う事、私が主に忠実に生きつづける限り、必ず天国で再会出来る事は、目に見える現実の事象より更にはっきりした確信を以て信じる様になりました。
お兄様、天国でお会い出来る様、私の信仰の歩みを助けて下さいね。そして必とお会いしませう。その時は色んな歌を唱うのよ、ね。デュエットしましょうね。中村繁次さんは、神学校にお入りになるのですってよ。長野までの間、座席に居合したのは皆感じの好い人々ばかりで、殊に何処かミッションスクールの先生らしい外人の一団は、きどってなくて、気持が好いでした。唯、余りにも厚顔しいりんご売りには僻易[ママ]しました。安いのは事実だけど、とても買う気になりませんでした。
加藤先生へのお土産に、”笹飴”を買った丈です。勿論、あの時のお兄様を真似したのよ。あの時は、松山へお土産にして、私はそこで食べました。ああ、何にでもお兄様との関係があるのよ。
長野からは、準急でした。急行券を私は車内で買いましたが、これは始めての経験でした。この車中、凄くおどろいた事は、学生らしい三人連のスキーヤーが乗りこんで来て、寝られる様な座席がないのを見定めると、何のためらいもなく、通路に新聞紙をしき、男子、女子、男子と、長くつながって寝てしまいました。来合はせた車掌が、
「戦後の混乱期と違いますからね。そんな事はして頂きたくないのです」
すると、
「そんなら、早よ寝台車をつくってくれよ」
「別に誰の迷惑でもないし、寝る人も楽なのだから、好いでしょ」て。
「御趣味なら仕方ありません……。でも悪趣味ですな」
て、車掌は行ってしまいました。確に車掌さんは数等倍この学生より教養が深い態度でした。所謂ティーンエイジャーの性格の露骨に現はれた一シーンでしょうね。私なんかもう一時代昔の人間になってしまいました。