[解題]

 石原吉郎の第2評論集『海を流れる河』(花神社、1974.11.)所収。




体刑と自己否定



 「自我の、非自我による全否定」というのが私に課せられた課題であるが、この課題に即応できる思考は私のなかにはない。私は自分が経験した事実からしか発想できない種類の人間に属する。したがってこの場合も、私自身のせまい経験から出発して、自我たるものをたどり出すしかない。

 私は自我について一度だけのっぴきならない経験をしているだけで、自我についての特別な思索や考察をしているわけではない。私は自我の凝縮と防衛しか考えない。自我の展開とか消滅にはほとんど関心がない。それが自我のたどる運命であるなら、当然そうなるはずである。戦争中、私はそのようにして自我の放棄を迫られたのであり、私は当然のこととしてそれを受容したのである。ただその場合、放棄をしいられた部分と、みずからすすんで放棄した部分があるはずである。私が戦争に参加したのは、放棄のこの積極的な部分においてであって、その部分の真の意味での、最終的な責任者は私自身である。もし私に自我の否定という行為が起るとすれば、そのような責任の自己貫徹においてである。

 いつの頃からか、私は、単独者とその位置ともいうべき発想を思考の基底とするようになったが、もし私に自我の全否定というような過程が起るとすれば、それはこのような発想を通じてでしかないだろうと私は考える。

 自我という言葉は、私にはあまりにも正統的でなじみがたいので、「私の条件では」という保留をつけたうえで、しばらくのあいだ「単独者」という言葉にこだわりたいと思う。あるいは単独者というかたちで、自我の否定ないし止揚はすでに姶まっているかもしれないが。

 この場合、単独者にいやおうなしに対置されるものは集団であり、その集団のなかの一人が集団を否定するというかたちで、単独者の位置を獲得する。

 私は軍隊という確固とした目的をもつ集団に所属したまま敗戦を迎えた。しかし敗戦によって崩壊するはずの軍隊は、そのままの規模で俘虜と呼ばれる集団へ横すべりし、さらにその集団から私は選別され、強制収容所という圧倒的な集団へ再編された。

 この、すでに崩壊したはずの集団が疑似集団へと再編されて行く過程で、かつての集団を秩序づけていたかにみえた連帯の体系が、強い人間不信によってつぎつぎに崩壊して行くなかで、一旦は放棄されたかにみえた自我が、遠心力ではじき出されるようにして浮かびあがった。いわばそれは、集団が連帯を喪失することによってはじき出された自我であり、相互に無関係に、ひたすら存続をねがう悲惨な存在としての自我であった。もし自我に、否定さるべき初源の契機があったとすれば、それはこの「ひたすら存続をねがう」ことにおいてであったと私は考える。それは無理由の存続、他者の生命を犯してでも生きのびざるをえない自我の存続である。

「この瞬間から、あらゆる人々の、あらゆる人々に対する戦いが燃え上るのである。」
                   (フランクル『夜と霧』)

 だが、こうして生き残った自我が、そのままのかたちで単独者へと移行するわけではない。旧軍隊がその枠組を強制されたままで、崩壊する秩序を内部へかかえこんだとき、連帯へひたすら馴れるだけであったその集団から狼狽した姿で一人ひとりの自我がはい出して来た。私はこういう奇妙な秩序の崩壊の例を他に知らない。すでに崩壊し分散したはずの旧い秩序と連帯の持続を要求したのは私たちの身柄の管理者、正確にいえばソピエト国家である。一個の自我として永遠に集団を立ち去るべきはずの個は、このようにしてきのうと寸分たがわぬかたちでふたたび拘束された。ちがっていたのは、管理の最高権威が大本営でなくクレムリンであり、目的が戦闘でなく労働であったことである。秩序のこのような再編成のなかで、ふたたび私たちは自我の放棄をしいられた。そしてそれを私たちにしいたのは軍律ではなく、強制労働による人間の「平均化」である。かつて連帯と思われたものにこの平均化が、ほとんどおなじ平面で入れ代ったのである。あずかり知らぬ人びとの福祉のために、私たちはもう一度隊伍を整えることを要求された。

 しかし、私たちの労働の結果が不毛であろうと、一個の具体的な建造物であろうと、私の関知するところではない。私たちにしいられた労働に意味があるか、ないかというところに私自身の発想の起点はないからである。

 私にとって重大な間題はそのようなことではない。重大な問題とは、そのような平均化の重圧のなかから、どのような例外としてわずかな人びとが、何をてこにして脱け出したかということである。

 「さいわいにして」、そのわずかな例外の一つを私は知っている。おそらくはいかなる教訓となることもないであろう一人の日本人の行動を。

 彼について正確な証言を行なうことは困難、というよりは不可能に近い。私は別の機会にこの「明確なペシミスト」について若干の記述を行なったが、それはあくまで外側からみた彼の行動であり、その行動の一つの側面にすぎない。どのような内的な契機によって、そうした行動へ自己を追いつめて行ったか、あるいはそれらの行動を含む彼の全体像については私はほとんど知らない。

 ただわずかに想像できることは、そのような追いつめられた条件で、人が容易に立とうとはしなかった加害と被害の問い直しの場に、彼は進んで立ったのだということである。彼は強制収容所という圧倒的な環境のなかで、囚人が徹頭徹尾被害的発想によって行動することにつよい疑念をもったにちがいない。被害的発想とは、囚人として管理されることへのそれであり、同囚の仕打ちにたいするそれである。彼は進んで加害者の位置に立とうとした。誰に。自分に。自分自身への加害者として。この場合の彼の発想と行動には、多分に生体実験的なニュアンスが伴なう。

 彼の行為を自己否定ないし自己放棄とみなすことから、ようやく私は、自己処罰ということばに行きあたった。自己処罰とは、自己を被告に見たてての訴追ではない。彼の自己追求の過程のいちじるしい特徴は、自己を自己が裁く法廷を欠いたことにある。法廷とは有罪を争う論証の場である。併し、すでに有罪であることを確信する者にとって、いかなる法廷、いかなる論証の場があるか。

 人間は本来なんびとを裁く資格も持っていない。たぜか。人間は本来「有罪」だからである。それが、兵役と強制労働を通じて彼が身につけた思想だったのではないか。

 彼の姿勢の大きな特徴は、この、裁かるべき法廷をとびこえて、刑そのものへ直結していることにある。彼は一九四九年夏ソ連領中央アジヤの一法廷で重労働二十五年の判決を受け、東シベリヤの強制収容所へ送られたが、この法廷は彼にとって事実上存在しなかったにひとしい。彼がみずからに確信した罪は、彼に適用されたロシヤ共和国刑法五十八条とは無関係である。人間を裁く資格が人間にない以上、彼が形式的に立った法廷は、彼にとってほとんどなんの意味ももっていない。

 私はここで、彼とはまったく対照的な立場に立つ一人の詩人を思い出す。

はじめて神に訊ねる!
じぶんだけ服役してしまふ共犯者は
裏切者か?
                  吉原幸子「共犯」から

 ここで詩人が要求しているものは「法廷」である。そして罰が罪に先行すること、あるいは罰が罪を置去りにすることを、彼女は「裏切り」と呼ぶ。罪という言葉を、あたかも誇らしいもののように、彼女はくりかえす。彼女は罪を承認するのではない。罪を「主張」するのである。罪意識のこの特異さに私は注目する。それは、最高の法廷に立っているという、はげしい自認によるものだ。私はその姿勢に、彼女の精神の高さを見るように思う。

 吉原幸子の倫理のはげしさは、法廷(むろん形式的な法廷ではない)の存在を主張するところにあり、*彼の*倫理の高さは、法廷の存在を否定するところにある。

 彼はいかなる刑罰を欲したのか。*体刑*である。彼はしばしば私に、「労働の名に値するものは肉体労働だけだ。精神労働というようなものは存在しない」と語った。そして労働が刑罰として課される強制労働体制にあっては、労働はそのまま体刑となる。労働についての彼の独自の考え方は、おそらくは強制労働のなかで身につけた実感であろう。肉体が担った苦痛こそが、刑罰の名に値する。そして体刑のそのなまなましい痛みを、沈黙して耐える姿勢が、本来加害者である一人の被害者を平均化された被害者の群れから峻別する。その時はじめて、一人の単独者がうまれる。それが彼の考えた「自由」であり(それはストイシズムとはおよそ別のものである)、自己否定ではなかったかと私は考える。

『海を流れる河』(花神社、1974.11.) 


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