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back.gif休暇村 乗鞍高原

休暇村あっちこっち

休暇村 吾妻山ロッジ






[吾妻山・比婆山へ]

 車を運転しない生活を選んだことに悔いはないが、遠方への旅行は、いつも二の足を踏む。交通費が高いからだ。そのうえ、便数が少なかったり、接続が悪かったり、場所によっては、足そのものさえないことがある。高い交通費が、いやが上にも高くなる。
 温室効果ガス大幅削減をぶち上げ、外に向けていい顔を見せた某国の首相、内に向けては高速道路無料化を公約していると聞く。「矛盾じゃないか! 何が温室効果ガスの削減だ! 何がエコだ、省エネだ! 車社会こそが問題じゃないか!」と吠えてみるが、空しい。今後、私たちのような少数派は、さらに遠出しにくくなるだろう。急がなくっちゃ。


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吾妻山中腹から見下ろした吾妻山ロッジ。

 そんなこんなの事情で、近いところから始めた「休暇村めぐり」だったが、2009年6月には、近くで残すところは、広島県の「吾妻山ロッジ」と「帝釈峡」のみとなった。

 中国地方は、出雲族を自認する連れ合いのふるさとである。地元で有名な観光地"帝釈峡"には、人出の多そうなイメージがあり、なかなか「それっ!」という気持ちには なれなかったらしい。
 だが、吾妻山が、「古事記」に登場する、かの比婆山に近いことが判明するや、梅雨のただ中にもかかわらず、残る中国地方二カ所の休暇村利用の計画はすぐに成り、出発する。

 中国地方へのアクセスは、意外によい。大阪から高速バスが出ている。料金も、私たちにはうれしい金額である。指定のICで下車すれば、予約は必要だが、休暇村からの送迎も願える。

 吾妻山ロッジには、お昼ごろに到着した。
 チェックインの3時までに、吾妻山を往復するつもりであったので、昼食をすませ、フロントに、荷物をそのあたりの隅に置いていく旨の了解を得に行くと、部屋の準備が整っている、という。
 部屋に向かう廊下には、来客を迎える準備に余念のない人たちが忙しく立ち働く姿があった。「いらっしゃいませ」という声にふり向くと、「いいお天気ですね。お昼ころにはお着きになるということでしたので、早くお部屋を整えておきました。どうぞごゆっくり」と言う女性があり、にっこりと会釈をして、次の仕事にとりかかった。ありがたいことであった。

 着換えをし、荷物を置いて、吾妻山に向かう。
 梅雨だというのに、さわやかな青空が広がっていた。濃い赤紫の菖蒲咲く池のそばを通り、道はなだらかな起伏をなす芝の丘陵を緩やかに上っていく。ムックリとした小坊主の下を巻いて、ちょっと行くとヤブが現れ、道はその中に入る。快適に歩を進め、汗がにじんできたころ、難なく頂上に達した。
 眼下の、なだらかな草原の隅っこに休暇村の赤い屋根が見える。彼方へと幾重にも続く山々は中国山地だろうか。目を反対側に転ずると、比婆山連峰と、明日登ってくるはずの道が見えた。
 吾妻山の名の由来は、この山の頂から伊耶那岐命が、比婆山にねむる伊耶那美神を追慕して「吾が妻よ」と呼びかけたことによるといわれるが、この日の吾妻山は、心地よいそよ風が吹き、五月晴れのもと、居ずまいをただしているかのように静かだった。

 夕暮れにはまだしばらく時間のある、明るいレストランでの夕食は、ゆったりと落ち着いた雰囲気のうちに進んだ。食事の世話をしてくださる男性が、ここしばらくは雨ばかりで、昨日まで吾妻山の姿も見えなかったが、とてもよいお天気になって何よりと、何げない会話に誘ってくださる。連れ合いの顔が、一瞬明るく輝いた。何を隠そう、連れ合いは”晴れ男”なのである。場は、さらに和やかになった。
 献立は、出雲に近い、吾妻山ロッジならではの「創作ワニ料理」であった。もちろん、クロコダイルやアリゲーターの料理ではない。稲羽の菟が、淤岐嶋から気多前に度らんとして欺いた海の和迩、すなわち、鮫の料理であるが、ピンクがかった白身の、意外に淡泊な魚料理であった。衣服(きぬ)を剥がれたのが菟ではなく、和迩というのは皮肉だが、神話を彷彿とさせる、着眼点のよい料理だと思った。

 食事も終わり近くになって、「水物」を持ってきてくださった、フロントにおられた男性(HPで、岩脇氏と判明)が、今日の夕日はとてもいいので、小坊主に行くといい、と声をかけてくださる。
 ワインが入り、すっかりくつろいでしまっていたので、ちょっとためらったが、この際と、大急ぎで果物をいただき、素足に靴を履いて、ダブダブいわせながら、小坊主に急いだ。山の端に、ほおずきのように、まあるく美しい夕日が沈むところだった。空も雲も連れ合いの顔も茜色に染まっている。背後には、黒々と吾妻山が鎮座していた。

 翌朝も抜けるような青空だった。ハイキングには申し分ない。
 立烏帽子駐車場まで送ってくださったのは、前日、庄原ICまで迎えに来てくださった方である。この方が、めっぽう地元のことに詳しく、ロッジから駐車場までの、対向車とすれ違うのにも技術を要するような、細く曲がりくねった道を走りながら、詳細にガイドしてくださった。
 1968(昭和43)年、広島県は、明治百年記念事業として「県民の森」造成事業を計画する。その対象地域となったのが、ちょうど比婆山連峰一帯である。このあたりには、たたら製鉄遺跡のあることが知られていたが、造成工事の過程で、その所在が明らかとなり、現在、その遺跡は「六の原製鉄場遺跡」として、保存されているという。
 その昔、鉄穴流しに際して点された松明の明かりが、あかあかと山の上から下まで続くのが、里からも見えたとのこと。
 鉄穴流し(かんなながし)とは選鉱方法の一つで、「鉄穴場と呼ぶ切り羽で、砂鉄を含む花崗岩の山を掘り崩し、井手と呼ぶ溝に落とし込んで下流に運び、洗い池で比重の軽い砂を流し去って、砂鉄を選り出すもの」だそうだ。洗い池は、砂溜、大池、中池、乙池、洗樋の五つの池で構成されるといわれる。休暇村のそばにある大池も、そんな洗い池の一つだったのだろう。
 鉄穴流しによって得られた砂鉄には、中国山地の日本海側で採取された「真砂」と、瀬戸内海側で採取された「赤目」とがあり、「真砂」からは刀剣の素材となる玉鋼が作られる。
 中国山地の山深い村の、旧家の大黒柱の下には、この玉鋼が埋められていると、以前、連れ合いから聞いたことがある。そして、たたら製鉄や鉄穴流しをめぐって、たたら場の人々と農業を営む人々との間に確執があった、ということも。

 送ってくださった人の指の先に目をやると、田の中に巨岩が盤踞している。元は、比婆山の頂上あたりにあったものが、いざり下りてきたのだそうだ。およそありそうにない場所に、金輪際動くまいぞ、というがごとくに居すわる巨石の姿には、ほんとうにいざり下りてきたと思わせる迫力があった。
 この人は、このあたりの山を何度も歩かれているのだろう。地理にも詳しく、折々のポイントでは、思わず、二人、身を乗り出して、説明される方向を見たものである。

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気持ちのよい大膳原から、吾妻山への登り道。
この山の向こうに吾妻山ロッジがある。

 駐車場に着く。
 立烏帽子山へはちょっと急な上り坂だが、ものの15分ほども行けば頂上だった。展望はあまりきかない。ぽこぽこ下って、ちょこっと上りかえすと池の段。遮るもののない360度の眺望が開けていた。ふり返ると、今しがた通ってきた立烏帽子山の全容が掴めた。目と鼻の先にある南陵を往復する。ひらっとした地形だからか、草原の中に大きなケルンがあった。晴れ男の面目躍如たる碧空のもと、軽い足取りで比婆山に向かう連れ合いの後ろ姿を写真におさめ、あとを追った。
 少し下ると樹林帯に入り、さらに進むと、越原越という峠に至る。このあたりから烏帽子山あたりまでのブナ林は天然記念物だそうだ。樹林の中の小暗い道を行くと、立派な大木があり、陵墓と見紛う。思えば、あれが天然記念物の門栂とイチイの木だったのだろう。「ここが陵墓? ちょっと違う感じ」と、キョロキョロ見回しながら前進すると、立派な大木に囲まれた大きな岩が目に入った。伊耶那美命の陵墓とされる岩だ。大きくはないが白木のお社もある。
 天つ神によって天の沼矛を与えられ、「是ノ多陀用弊流国を修理メ固メ成せ」と命じられた伊耶那岐命と伊耶那美命の二柱の神は国生みにとりかかる。国を生み竟えると、二柱の神は、更に神々を生む。しかし、伊耶那美命は、火之夜藝速男神という火の神を生んだことに因って、美蕃登を炙かれ、亡くなってしまう。伊耶那岐命は「愛しき我が那迩妹命乎、子之一つ木に易へむと謂へ乎」と言って、枕方に匍匍い足方に匍匍って哭き、亡くなった伊耶那美命を出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬ったのだ、と『古事記』はいう。
 御陵横の道を入っていくと、太鼓岩があり、叩いてみる。わずかに響くような感じがして、なるほどと思う。どこかに空間があるのだろう。細い道の先には、真ん中で縦に鋭い割け目の入った大岩、産子の岩戸があった。「今にも赤子が生まれそうな」と、形容されるこのような岩が、よくもまあ具合よく伊耶那美命の陵墓の近くにと、ひとり感心していると、「想像力! 想像力!」と連れ合いは言い、どこに続くか判らない道を先に進もうとする。「こんなとこで迷いたくない!」と足踏みする私に、「大丈夫! さっきの道に出るから。臆病な奴!」と言って、連れ合いは笑う。だが、不安な私は、もと来た道を強引に引き返させてしまった。御陵をあとにしてすぐ、彼の言ったとおり、先ほどの道に続くと思われる小径がしっかりと見て取れた。「ちゃんと出るやろ。ほんまに難儀な奴やなあ」と、したたかに笑われた。
 烏帽子山からは、柔らかに弧を描いた、穏やかな姿の吾妻山が見える。このあたりに、条溝石があったはず、と探す。広い頂上部の隅のほうにそれはあった。彫られた溝の中心線がまっずぐに伊耶那美の御陵の方角を指しているという。
 大膳原手前の、朽ち錆びたゲートのそばのテーブルで、熱い紅茶を淹れ、クロワッサンで、早いお昼をとった。そよ風に梢が揺れている。どこまでも静かだ。ゲートは、ここが、かつて放牧地であったことを示していた。
 まこと大膳原は、放牧地に適した伸びやかな草原だった。ちょうど、その真ん中あたりに、山小屋の標識がある。建物は見えない。連れ合いは、見てくると言って草原の先にある、こんもりとした木立の中に入っていった。
 目に染むような青空を、幾度も首を回して見る。梅雨のただ中とは思えない爽やかさだ。耳元をそよ風がささやくように通り過ぎていった。
 目の端に動くものがあったので見ると、彼が両手を大きく広げ、風と戯れるように、草原を右に左にくるくる回りながらこちらに向かってくる。踊っているのだ。ここ数年、身体の不調を抱え、山に入っても楽しめなかった連れ合いが、気持ちよさそうに、軽やかに舞っている。陽光がやさしく彼を包んでいた。
 木立の中には、キャンプ場の管理棟のような立派な小屋があったそうだ。広い草原で雷にでも遭えば悲惨だが、小屋があれば逃げ込める。そんなことも考えられているのだろう。このあたりは、正面に吾妻山が見えるだけの、何もない、広々とした草原なのだ。こんなところで雷に遭ったら怖いだろうな、と改めて思いながら、大膳原を通り過ぎた。
 吾妻山山頂には、そこここに憩う人たちのグループがあった。少し眺望を楽しみ、休暇村への道を辿る。
 休暇村のそばの、大木の木陰に、手足を伸ばして寝転がった彼は、心地よい疲労感の中をたゆたうように、しばらく青空の彼方を眺めていた。

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休暇村の裏に広がる草原と、大樹。木陰は最高の憩いの場。

 お風呂に入って汗を流す。
 湯船に身体を解き放つと、次第に血液の循環がよくなって、疲れが取れていくようだ。吾妻山ロッジのお風呂は温泉ではないが、私たちに、温泉へのこだわりはない。清潔なお風呂にゆったりと気持ちよく入ることができれば、それ以上、何を望もう。

 この日の夜も、比婆牛の石焼きに舌鼓を打ち、ワインに酔って、そぞろ山歩きの余韻に浸りながら、夕食を楽しんだ後、部屋にくつろぎ、床に就いた。


 「休暇村吾妻山ロッジ」の施設は、1992年に改築されたもので、鉄筋コンクリート二階建て、和室17室、宿泊定員53人と、ガイドにはある。近年、冬期の営業が休止となった(休止期間:12月1日〜4月下旬ごろ)。
 以前は、JR芸備線備後庄原駅から「吾妻山麓」まで、路線バスがあったようだが、今はもうない。「足」を持たない、私たちのような利用者は、JR備後庄原駅か庄原バスセンター、もしくは庄原ICバス停まで、休暇村の送迎に頼るほかない。休暇村にはすまないが、50分タクシーに乗ることを考えると、まことにありがたい。

 思えば、吾妻山ロッジは、こぢんまりとした、鍋に譬えれば、「小鍋立て」のような、子供にはわからない、おとなの味わいがある休暇村であった。
 第一に「人」がいい。フロントの岩脇氏(実は営業主任)の、誰に対しても変わらぬ、笑顔での対応ぶりは、プロのものである。見ていて気持ちがいい。小柄で落ち着いた雰囲気の、少し年輩の人物も、いつ出会っても、軽い会釈で、利用者に配慮される。食事の世話をしてくださった、黒いベストの似合う、背の高い男性との、食前酒のような楽しい会話も忘れられない。彼も笑顔の素敵な人だった。そして、飾らない人柄で、ちょっとシャイな感じの、送迎を担当してくださった方。おとなの「男」が揃っていた。
 第二に「シンプル」でいい。必要なものは揃っている。余計なものは何もない。
 第三に、周辺状況がいい。観光客目当ての店や遊技施設が、何一つなく、喧騒とは無縁である。時折、中高年のハイキンググループが、何ごとか大きな声で話しながら通ってはいくが、行き過ぎてしまうと、もとの静けさに戻る。そこにはただのびやかな丘陵が広がっているだけ。
 吹き渡る風の音を聞きながら、本を読んで過ごすのも悪くない。本に倦み疲れたら、小坊主まで駈けていこう。吾妻山まで行ってもいい。連れ合いも、大いにここが気に入ったようだ。


 休暇村帝釈峡から吾妻山ロッジに向かうグループのキャッチアップ地点まで、ロッジの送迎バスに同乗。そこで、帝釈峡に戻る送迎バスに乗り換えて、休暇村帝釈峡に向かう。
 到着時、フロントで帝釈峡への移動方法を尋ねた私たちに、岩脇氏のとってくださった措置であった。偶然あった便とはいえ、手厚い配慮に感謝しながら吾妻山ロッジを後にした。

forward.gif休暇村 帝釈峡