休暇村 吾妻山ロッジ
[帝釈峡へ]
全休暇村を巡ると決めたとき、近くにある休暇村は、できるだけ一時に二村訪れることとした。交通費節約のためである。
したがって、吾妻山・比婆山行を決め、吾妻山ロッジでの宿泊が決まると、同一県(広島県)下で地理的にも近い、未訪の休暇村帝釈峡を訪れるのは既定の行動であった。ただ休暇村帝釈峡に行って何をするか。比婆道後帝釈国定公園にあり、観光の「売り」が帝釈峡のようだから、帝釈峡に行くしかないだろう、と思い定めて出発する。
「吾妻山ロッジ」と「帝釈峡」の送迎バスの合流地点で下車した私たちは、送迎バスを乗り換え、休暇村帝釈峡へと向かった。運転は、明るい感じの好青年。「帝釈峡」への期待が高まる。
到着時、建物横の芝の斜面では、大阪の小学生の一団が芝すべりに興じており、それは賑やかなことであった。しかし、この一団もお昼ごろには帰阪の途に就くという。
まずは、フロントで、3時まで上帝釈峡を歩いてくる旨を伝え、チェックインの手続きをとる。用紙に必要事項を記入していると、後ろに人の気配がするので、ふり向くと、30半ばくらいの男性と目が合う。男性は何ごともなかったように左手にまわり込み、フロントの中へと入って、ちょっと何かをした後、奥に消えた。
(おいおい、おめえさん、それはねえだろ。仮にも客商売だ。いらっしゃいとは言わねえまでも会釈ぐれえしたって損はいくめえ。なに、面倒だって。馬鹿言うんじゃねえ。これでおまんま食ってんだろ。ちったあ客を大事にしねえな)私の頭は、突如、時代劇モードだ。
そういえば、以前にも、来訪が歓迎されていないかのような、妙な違和感をおぼえた休暇村があったことを思い出す。旧厚生省の肝煎りで作られた施設だからか、と勘ぐりたくなるような経験をするものではある。
ものは序でということもあるので、ここで「国民休暇村」が設立されるに至った経緯を、昭和36年度版『厚生白書』第二部、第八章、第二節、二、国民休暇村 に見てみよう。『白書』には、以下のように記されている。
「.......すでに利用施設が集中して存在している地域においても、あるいは歓楽地化し、あるいは高級化して、一般国民の利用を遠ざけているところも少なくない。このため、一般国民が安心して快適な利用を楽しめるようなところを国の責任で積極的に作るべきであるという強い要望が各方面から出ていたが、厚生省としてもこれに対処して、三六年度から国立公園と国定公園にある集団施設地区のうち、自然の景観、交通の便宜、レクリエーシヨンの可能性など一定の条件を備えた地域を国民休暇村として定め、ここに低廉な宿泊施設をはじめ、海水浴場、野営場、スキー場などの有料施設や、基本的公共施設を集中的に整備することとした。このような方針のもとに、国民休暇村に対しては、国費をもつて、基本的公共施設の整備を重点的に行なうとともに、厚生年金保険や国民年金の積立金の融資を財源として、各種有料施設の整備を図ることとしている。なお、このような有料施設の設置経営は、国民休暇村の性格から民間企業にまかせることは望ましくないし、また国や地方公共団体が直接経営することも、その能率、機能などの点からみて適当でないため、国の監督がじゆうぶんに行なわれる財団法人にあたらせるという基本方針をとり、現在財団法人国民休暇村協会(仮称)の設立準備が進められている。
なお、現在の計画では、三六年度に始まる五か年計画をもつて、全国で二二か所の国民休暇府を建設するものとし、とりあえず三六年度は五か所の建設に着手する予定である。」
さらに、昭和40年度版『厚生白書』では、施策の内容をより明確化するとともに、整備の進捗状況や投資額、利用者数などを明らかにしている。
「国民休暇村は,国立公園及び国定公園のすぐれた自然環境のなかに,安くて清潔な宿泊施設を中心とする各種の利用施設を集団的に整備し,家族連れを中心とした国民一般の利用を対象とする総合的保健休養地を造成しようとするものであり,自然公園の利用者の増加に対応したモデル的な集団施設地区の整備であるとともに,新たな利用拠点の開発である点においては,地域開発をも兼ねた施策である。36年以来,全国に17か所を選定し, 総面積1,438ヘクタールの土地に,それぞれの土地柄に応じた建設が進められ,現在,すでに,16か所において一部の施設を利用に供している。
国民休暇村の造成にあたつては,園地,駐車場等の基本的な公共施設は,国(国立公園)又は地方公共団体(国定公園)が整備し,宿泊施設等の有料施設については,財団法人国民休暇村協会が建設,運営にあたつている。これまでの投資額は,28億5,600万円で,うち公共投資が,5億7,900万円,協会の投資が22億7700万円(厚生年金保険積立金還元融資及び国民年金積立金特別融資)となつている。
国民の認識が深まるにつれて,国民休暇村の利用は逐年増加し,40年度は約40万人の利用があつた。
今後とも,設立目的に沿つた健全な保健休養の場として,さらに利用施設の整備充実を図り,内容が改善されることになつている」(第3章、第3節、3 自然公園の利用施設の整備)。
さて、必要事項の記入を済ませ、パンフレット『秘境、帝釈峡』にある「観光タイム キロ程表」に表示の柏岩橋・マス養魚場間の詳細と、翌日行く予定の下帝釈峡について、フロントの女性スタッフに尋ねるが、彼女の返答は曖昧で、もうひとつ要領を得ず、下帝釈峡に至っては、車でなければ行くのは難しいというような話であった。
その彼女の話から、上帝釈峡には川沿いの道もあり、それほど汗をかかずに行けるだろうと判断。たいへんな汗かきの連れ合いも、私も、持参していたハイキング用の服には着替えず、それぞれにハンカチを持った程度で、荷物を預けて出発する。
だが、神龍橋を渡ってしばらく行くと、川沿いの道は土砂崩れで通行不可の告示がなされていた。今日や昨日になされた告示ではなさそうである。
実は、休暇村は、周辺事情や観光情報に、意外に疎い。
休暇村で得た情報をもとに行動した結果、困惑することになってしまったのはこれが最初ではなかった。休暇村で掴んでいて当然と思われるような情報を、スタッフが知らなかったり、スタッフの思い違いか、こちらが情報の誤りに気づかなければ、あわや「ガセネタ」に翻弄されるところだった、というようなこともあった。
この帝釈峡でも、スタッフが当然知っていなければならないような情報がキャッチされていなかった。
国民休暇村の建設が「自然公園の利用者の増加に対応したモデル的な集団施設地区の整備であるとともに,新たな利用拠点の開発である点においては,地域開発をも兼ねた施策である」のならば、利用者のニーズにあわせ、当該自然公園の情報を、的確に提供できなければ意味がないのではないか。そのためには、アンテナをめぐらせ、地方公共団体や民間の持つ情報を、常にキャッチする努力を惜しんではならないはずだ。
一流ホテルのように、コンシェルジュを置けとは言わない。休暇村でキャッチした、確実な情報を、スタッフ全員で共有すればよいのだ。知っている者は知っているが、知らない者は知らず、曖昧なことを曖昧に伝えられるのが、利用者にとっては、一番始末に負えない。
今や、ちょっと気の利いた旅館やペンション・民宿なら、知らないことや自信のないことは、すぐに町や村・県などに問い合わせるなどして調べ、確実な情報を提供してくれる。
「地元のことは、その土地の人に聞くのが一番」とは昔から言い古されたことばだ。それをしも、利用者の甘え、怠慢だというのなら、公共の宿の存在意義とは何か、問い返したい。低廉な宿を提供するだけなら、公共の宿は、すでに役目を終えている。旅行雑誌などには、企業努力で料金をかなりなまでに抑えた宿が紹介され、けっこうな人気を博していることは周知の事実だからである。
川沿いの道が通行不能だったため、中国自然歩道を行く。
この道を行けば、幕岩だの鏡岩だの屏風岩、それに、雄橋と対の雌橋が見られないじゃないか等々、文句が次々と頭の中をよぎる。連れ合いは、もう汗びっしょり。ズボンはウエストからお尻のあたりまで汗が滲み、ベルトまで濡れてしまっている。遊歩道のぶらぶら歩きどころの話ではない。しっかりハイキングだ。山道から出て橋を渡ったあたりから、ようやく道は川沿いを行くようになる。あとはフラットな道だ。「秋は紅葉でいいだろうね。でも人が多そうでやだね」等と言いながら、断魚渓を経て雄橋に至る。
雄橋は、帝釈川がカルスト台地を浸食したことによってできた自然の岩橋で、世界の三大天然橋(スイスのプレヒシュ・アメリカのロックブリッジ・雄橋)の一つに数えられ、国の天然記念物にもなっているらしい。
鬼神の架けたという"雄橋"。
帝釈峡のハイライトである。
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この雄橋と雌橋とは、帝釈天に命ぜられた陰陽二柱の鬼神が造ったといわれ、その鬼神の供養塔(大小二つの柱状の岩)が、さらに前進した先にあった。そのような謂われなら、なおのこと雌橋も共に見たかった。
帝釈峡という名の由来も、二柱の鬼神に雌雄の橋の造営を命じた帝釈天にあり、古刹永明寺にはその帝釈天が本尊として祀られているという。
空腹で、白雲洞と名付けられた鍾乳洞は素通りし、お昼を求めて、車道手前の弥生食堂という店に入る。
どこから来たのか、尋ねられた私は、問いの意味を取り違え、休暇村から、と答えると、「えっ」と言ったお店の人は、さらに「車で」と聞く。歩いて来て、これからまた歩いて戻ると言うと、それはたいへんだと言う。服装から中国自然歩道を歩いて来たとは思えなかったのだろう。たいていの人は車でやって来て、ここを起点に雄橋か断魚渓まで、徒歩か貸し自転車、あるいは観光馬車(轍の跡は見たが、私たちは、馬車自体は見なかった)で行き、そこから引き返すらしい。
足が頼りの私たちは、腹ごしらえを済ませたなら、もと来た道を歩いて休暇村へと引き返すしかない。帰りは、寄倉岩陰遺跡を覗き、次に白雲洞(有料)を見学、さらに鬼の唐門の奥にちょっと足を踏み入れた後、再び汗みずくになって休暇村へと戻った。
小学生の一団が帰った休暇村は、とても静かだった。とにかく、何をさておいてもお風呂に飛び込む。
この日の夕食はバイキングである。二日目の夕食を、広島牛の刺身と石焼きのセットにしたからだ。どんなに美味しい料理でも、二晩同じメニューは興ざめである。したがって、メニューが他にない場合にはバイキングにすることとなる。
休暇村のバイキングは、今まで、どの施設においても、品数が豊富なうえ、郷土料理やそれぞれの土地の産品を使った料理などが組み込まれており、味もよかった。ゆったりできるよう配慮・演出されてさえいれば、苦手意識は別にして、満足のいく食事ができる。
朝食のバイキングも、地方の名の通ったホテルなどのそれよりも、よほど品数があり、味において勝っている。
ハーフボトルの三次ワインにほんのり酔い、初夏の宵を部屋に憩う。
帝釈峡の夜は静かに更けていった。
二日目の帝釈峡も、梅雨の最中とは思えないような晴天である。
しかし、前日のスタッフの話から、下帝釈峡に行く計画は断念し、一日持参の本を読んで過ごすことにする。
10時前に、喫茶コーナーに下りていき、コーヒを飲みながら向かい合って、それぞれ本を読んでいたが、ほど近いロビーのソファで、中年女性数人のグループが、何やら旅行の話で盛りあがり始めたので、そっとウッドテラスに出た。時折、下の道を車が通る音はするが、静かだ。
テラスの先は、手入れの行き届いた芝生の広場である。一面の芝の中に、点々と大木や岩が配されている。その向こうには森も見える。
目に疲れを感じると、芝生の上をぶらぶら歩きしたり、六月の蒼い空を眺めたりしながら、お昼を挟んで夕方までそこにいて、ふたりそれぞれに一冊の本を読みあげた。
神龍湖畔の山林を切り開いて建造されたという、この休暇村の敷地は広大で、本館背後の園地には、芝生広場、パターゴルフ場、テニスコート、テントサイト、コテージ、運動広場、体育館等々の施設が設置されている。そして、それらの間を縫うように、3キロに及ぶ、起伏に富んだ散歩コースが設けられており、大仙山なる518mの「山」やドリーネまで見ることができる。この散歩コースには、かつての山林を残したのか、その後植樹したのか、随所に落葉樹の「森」があり、その森から木立のないぽっかり開けたところに飛び出すと、そこは、一面に芝が張られた広場になっている。自然を擬した不自然なありようではある。
だが、小学生や若者たちの団体旅行誘致にはこうした施設・設備が「売り」になるのだろう。集団を退屈させずに過ごさせるには、ここは格好の施設なのかもしれない。「自然」の満喫できる施設として。
私たちが帰途に就いた日の午後には、専門学校が一校あげて、泊つき研修旅行にやって来るということであった。団体と団体の利用の狭間、静かに宿泊できたことにほっとしつつ帝釈峡を後にした。
帰宅後、”休暇村スタッフの言ったことはほんまかいな”との思いがつのり、下帝釈峡について調べてみる。
確かに、上帝釈峡や神龍湖に比べると、下帝釈峡は訪れる人が少ないようではある。しかし、歩いている人がないわけではない。下帝釈峡でも神龍湖近辺の地図「神石・永野ウォーキングマップ」などは、土産物店で何か買うともらえることもあるらしい(下帝釈峡とは、本来、帝釈川ダム下流から岡山県境までをいうようである)。
神龍湖近辺の下帝釈峡には、道案内の道標もところどころに設置されている。以前は、道が険しく、ワンダーフォーゲル部(詳細不明)の遭難事故(太郎岩を正面にしたトンネル出口の岩壁に遭難者の慰霊プレートがはめ込まれているという)もあったようだが、岩をへつるようなことさえしなければ、問題のない道が通っていて、ハイキングは十分に可能だと思われる。
休暇村が、この程度の情報さえ掴んでいないのだとすれば、怠慢の謗りは免れないだろう。
なお、文中に登場する「神龍湖」とは、岡山県倉敷市へと流れ下る高梁川上流の、支流の一つである帝釈川に、大正13(1924)年に建設された「帝釈川ダム」(現在は中国電力管理:発電用ダム)の貯水池のことである。この貯水池を上空から見た時、龍のようであったことから、神龍湖と名付けられたという。完成が大正13年と古く、今ではダム湖とは思えないような趣を呈している。
この帝釈川ダムの上流域を上帝釈峡、下流域を下帝釈峡といい、上下帝釈峡一帯を、国は国定公園第一種特別地域に指定している。
ひょんなことから始まった私たちの「休暇村めぐり」。それは、蒜山三座縦走を計画したことがきっかけとなった。中国地方関連で、次は、休暇村蒜山高原と出会った話をしよう。 |