休暇村 帝釈峡
[蒜山三座へ]
2005年は、いろいろな理由から、行動の制約された年であった。
しかし、無為に夏が過ぎていくのを看過できなかった連れ合いは、9月に入って、蒜山三座の縦走および皆ヶ山行を計画する。
9月下旬、犬挟峠から入山し、下蒜山・中蒜山・上蒜山と歩いて、蒜山高原に下山。翌日、皆ヶ山に登ることを基本計画とし、宿の選定に入る。
蒜山高原には、公共の宿泊施設「国民休暇村」があるというので、二日目と三日目の宿はすぐに決まった。予約は「やど489サービスセンター」を通して行う。
問題は、入山前日の宿をどうするかであった。
連れ合いが「ここどう? ホームページ開いて頑張ったはるみたいよ。ちょっと料金の安いのが気になるけど」と言って、見せてくれたコンピュータの画面には、お膳の様子(料理)、部屋、浴室などの写真が掲載されていた。画面を見る限り、特に問題はなさそうである。国民宿舎という選択肢もあったが、ホームページを開いている旅館に何かシンパシーを感じたらしい連れ合いの意見を尊重し、だめでも一晩我慢すればいいんだから、と電話で予約を入れる。愛想のよい女性の受け答えに一安心して受話器を置いた。
当日、予定通り我が家を出発した私たちは、定刻に現地に到着。
向こうの方から、あっぱっぱにエプロンがけの小柄なおばさんが、私たちの名前を呼びながら駆け寄ってきたときには、一瞬、何が起こっているのか状況が掴めなかった。おばさんは、旅館の「女将」で、私たちを迎えに出てくれたのだった。
案内された建物の玄関脇には、日観連加盟の看板が掛かっている。中に入ると、三和土の左右に、目の高さまで下足棚が掛いてあり、その前に下水板が回し置かれていた。上がり框を上がった、すぐ左が帳場である。その雑然とした薄暗がりの帳場の中では「おやじ」が椅子に腰掛け、背を反らせて新聞を広げている。私たちへの挨拶はない。
「いい部屋を用意しておきました」と言って通された二階の部屋は、ホームページの写真にあった部屋のようではあった。トイレ付きというので見ると、古い旅館にありがちの二段になった和式トイレが、室内板敷き部分の隅に不自然に造作されている。狭くて実に使いにくい。露出した配管のところどころに青いサビが浮いていた。
翌日山に入るという日には身体を休めるのが常だが、ゆったりとした気分にはなれそうもなかったので、有名な露天風呂とやらを見に行きがてら、外に出た。
岡山三大河川の一つ旭川に設けられた某ダムは、岡山県と中国電力との共同事業(旭川総合開発事業)として、昭和27年2月に着工、昭和30年3月に竣功した、治水と発電を目的とする重力式コンクリートダムだそうだが、そのダムの下流300mくらいの川の中に露天風呂はあった。24時間入湯可能のうえ、無料。ただし、混浴(水着の着用は御法度)。
対岸には大きな旅館が睥睨するように建ち、頭上の道路からは人々が覗き込んでいるようなダム底での入浴とあって、さすがの連れ合いも気が進まなかったようだが、話の種にと、ただそれだけの理由で、露天風呂への石段を下りていった。私は、少し離れた道路の柵にもたれ掛かり、釣り人の持つ竿の先を見ながら彼を待った。
上がってきた彼に感想を尋ねると、「雑然としていて風情も何もあったものではない。お湯も、いっぺん入ったくらいで効能云々もないだろう。ま、話しの種だけやな」と言うばかりで、後が続かなかった。
旅館の建ち並ぶ川沿いの道をぶらぶら戻り、河畔のベンチに腰掛けて時間を潰す。温泉が流れ込んでいるせいか、川の色は濁って見えた。
宿に戻ると、源泉掛け流しの内湯の用意ができているとのこと。おばさんひとり、明るく健気にたち働いている姿を目にしては、断りもできず、私からということで、浴室に向かう。脱衣場に入るや、立ちつくしてしまった。そのまま部屋に戻りたかった。だが、それではあまりに大人げない。思い返してそろそろと衣服を脱ぐが、いつ拭き掃除をしたかわからない古い木の棚の黒ずみ、合成樹脂製の脱衣カゴと足下の水切りマットの網目にこびりついた黒い汚れなどが目について困った。
"遠い昔、山奥の湯治場にはこんなところもあった。それならそれで覚悟というものがある。だが、ここは少なくとも「旅館」じゃないか" 口の中でブツブツ言いながら服を脱いでいた自分の姿を思い出すと、哀れにもおかしい。
ただ、湯船にはきれいなお湯が張られていたので、救われる。が、とても落ち着いて入っている気になれず、カラスも顔負けの短さでとんで出て、爪先立ちで部屋にとって返した。
彼は、露天風呂に入ってきたからと、内湯への入浴を遠慮する。
別室での夕食は、素人料理に毛の生えたようなものだった。ホームページの写真のようではあったが、什器が古く、塗り物の縁が剥げていたりする。
人が見ると、喧嘩でもした二人が、気まずく向き合って食事をしていると思えたに違いないほど、私たちは黙ってお箸を口に運んだ。いやあ、まいった、まいった、と思いながら。
翌朝も、おばさんは元気で明るくたち働いていた。
到着時、翌日の予定を話し、タクシーを呼んでほしい旨、伝えた際、おばさんは、知り合いがいるから、犬挟峠まで3000円でその人に頼んでよいか、という。賃走料金がいくらするのか知らなかったが、そんなものなのだろうと、私たちは承諾していた。
帳場で支払いを済ませ、靴を履いていると、おばさんが近寄ってきて、お金は車に乗る前に自分に渡してほしい、と言う。変なことを言うなと思ったが、3000円を出すと、ひったくるようにしてお金を受け取った。
やって来たのはタクシーではなく、おばさんの知り合いらしい男性が運転するワゴン車だった。おばさんは、運転席の窓に上体を突っ込み、運転の男性と何ごとかひそひそと話していたかと思うと、さっとお札を自分の懐に入れた。さしずめ仲介料でも取ったのだろう。明るく健気なおばさんはしたたかでもあったのだ。
それにしても、今ごろになって「白タク」に乗ることになろうとは。子供のころの白タク摘発報道が、妙に懐かしく思い出された。
下蒜山登山口、犬挟峠に、我らが「白タク」は到着した。
犬挟(いぬばさり)という峠名は、この地の特性に由来する。
中国山地脊梁部は、蒜山盆地の南にある1000m級の山々を連ねた線で、蒜山盆地はその脊梁山地と、北に噴出した火山に挟まれてできた典型的隔絶盆地である。「中国山地にはいくつも小盆地があるが、(中略)津山、勝山、新見盆地からこれらの盆地に行くには、堅い変成岩地帯を嵌込(ママ)蛇行する峡谷にそって北へ北へと進まねばならないが、そのとき、この先に果たして人家があるであろうかと思案されるほど、狭く険しく淋しい道をかなり長時間通らねばならない。そのもっとも険阻なところに乞児(ほいと)岩、乞児帰、犬挟などの地名がつけられている。それは食物を求めて放浪した乞児が、これ以上行くべきか帰るべきかと思案したり、あきらめて引き返したり、あるいはまた、犬も満足に通れぬほど狭いが故に名付けられた」(石田寛著「蒜山原」宮本常一編『秘境』所収 有紀書房 昭和36年8月 pp.148〜149)名なのである。
だが、私たちの降り立った「今犬挟峠」は、何台もの駐車スペースや四阿もある明るい草原状の広場であった。
2005年当時は、まだこの峠を主要幹線道路(国道313号線 / 通称美作街道)が通り、車の通行も多かったようだが、"犬挟トンネル"開通後の現在は、すっかり静かになって、冬には雪に閉ざされてしまうのだろう。
車を降りるや否や「お世話になりました」と言うが早いか、ザックを背にした連れ合いは、私が、運転の男性にお礼を言っている間にも、何かを振り切るように、草原の奥へと早足で突き進んで行く。丈高い草の陰に隠れてしまいそうな彼の姿を見失うまいと、挨拶もそこそこに、私も草原の中の道を彼の背を追って小走りに走った。
「終わった!」 肩から力が抜けていくようだった。
下蒜山の尾根道とりつき。
夢のように心地よい尾根道だ。
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草原の奥の小径を辿っていくと、尾根の末端に出る。急な登りがしばらく続くが、灌木帯を抜けると背の低い笹原となって、雲居平に着く。再び急な斜面を登り、二つほどコブを越すと、広々とした見晴らしのよい下蒜山山頂に到達した。終わったね、と目と目で話し、二つあったベンチの前で小休止したように記憶する。
笹原の中を下って樹林帯を抜け、再び笹原を行くと、最低鞍部フングリ乢である。この最低鞍部を登り返す。樹林を抜けたところで来し方をふり返ると、下蒜山の山容が美しく見えた。さらに笹原の中の急坂を進むと、塩釜冷泉からの道との合流点に至る。
体調のあまりすぐれなかった連れ合いは、中蒜山山頂を目前に、その狭い合流地点で大休止を号令。ちょっと早いかなと言いながら、お昼にすることにした。
塩釜から上がってきた人が、やれやれという表情で「ここが頂上ですか」と尋ねる。「いえ、いえ、頂上はもう少し上です」と答え、その人を見送って、ゆっくりお昼を摂った。
塩釜分岐からほんの少し緩やかに上っていくと、避難小屋があり、前を通過。平坦な中蒜山頂上の標柱を見て、上蒜山へと向かう。
ところが、このあたりから、私の山靴の右靴底が剥がれ始める。確かに靴底の減りはあり、近々張り替えに出さねばとは思っていたが、出がけにチェックした際には、底が剥がれるような様子はなかった。パクパクするので、予備の靴紐で縛る。
ユートピアという草原を下りきり、樹林の中の急坂を登り切ると、槍尾根の分岐である。上蒜山の山頂は、ここから少し進んだところだ。雨がパラパラし始めたので、大急ぎで頂上との間をピストンする。木立の中の上蒜山山頂は展望がきかなかった。
ブナ林の中を下っていくと草付き尾根に出る。そこが槍が峰だ。雨は上蒜山山頂付近でパラパラしただけだった。下方の蒜山原がよく見える、見晴らしのよい、ちょっと急な尾根を下降していく。二つばかりコブを越え、杉の植林帯を抜け、さらに牧場の敷地を抜けると、広い道路に出た。
私の靴は、槍尾根の下りで、もう片方の底も剥がれ、何とも哀れなことになっていた。両の靴底をそれぞれ予備の靴紐で縛っての下山である。チェックしたとはいえ、靴底の減りを甘く見た私の大いなる失点であった。
休暇村蒜山高原のチェックイン(午後3時)には、間もあり、幟にも引き寄せられて、途中、ジャージー牛の生乳製ソフトクリームで、蒜山高原を体感することになる。ザックを下ろし、椅子に掛けて、高原の風に吹かれながら、濃厚なソフトクリームをゆっくり味わった。
さて、と腰を上げ、休暇村蒜山高原に向かう。すぐそこに見える休暇村だが、牧草地をショートカットするわけにもいかず、車道を道なりに行く。けっこう距離があった。
現休暇村蒜山高原は、1961(昭和36)年夏、山陽休暇村ロッジとしてスタートしたようだ。現在は西館と東館に分かれており、西館は1984(昭和59)年に増築されている。当初は、和室(増築後72室)のみの西館で休暇村をスタートさせたのだろう。東館は1999(平成11)年建造の、かなり大きな4階建ての建物で、和室・洋室、それぞれ30室ずつあるようだ。フロントも東館にあった。
東館は、三木ヶ原という放牧場に面して建てられており、客室・大浴場・レストランなど、館内のどこからも蒜山三座が望める。私たちの宿泊した東館の部屋からも蒜山の景観を楽しむことができた。
チェックインの手続きを済ませ、早速、汗を流すため、高原の見下ろせる展望大浴場に向かう。休暇村専用の蒜山ラドン温泉(含弱放射能ナトリウム塩化物・炭酸水素塩泉)が引かれているとのことであった。ゆったりとしたスペースが嬉しい。
前日の経験が経験だっただけに、どこを見ても清潔なことに感動すらおぼえた。身体がのびのびしているのがわかる。
蛇口の前で身体を洗っていると、広い浴室内にはいくつも蛇口があるのに、わざわざ私の左隣にやってきて、身体を洗い始めた女性がいた。ひどく水しぶきがかかるので見ると、彼女の右肩に、手のひら大のずんぐりとした形の、真っ黒な蜘蛛の「模様」がある。それを見せたかったのかと思われるようなやりようではあった。明らかにシールかペイントだと分かる色だ。私が驚くとでも思ったのだろうか。
彫り物とは明らかに色が違う。敗戦後の町には、げんかいなおっちゃんやにいちゃんたちがいて、立派な彫り物を背負っている人も少なくなかった。二の腕や太ももにまで達する彫り物を間近に見ることのできた時代を生きた私に、"あほらし、相手間違うたらあかんで。けったいなもん、見せんといてほしいわ" 、と思いながら、場所をかえるのも癪なので、派手に水しぶきのかかるのに堪え、その場で髪を洗い身体を洗ってから、サウナで汗を流した。サウナから出てきたときには、"蜘蛛女"の姿はもうなかった。
身体を冷ました後、広々とした湯船に手足を伸ばして浸かっていると、昨日のことは嘘のように思えた。幸せだった。
フロントからロビー、部屋に至る廊下、室内にある洗面台・温水洗浄機能付きトイレも、掃除が行きとどき、気持ちがいい。寝具も、シーツ、ピロケース等、すべて洗濯済みなのは、何と言っても嬉しかった。備品なども過不足がない。
とりわけ、部屋に設えられた、独立した洗面台が、公共の宿にはあまり見られない大きなサイズで使いやすく、休暇村初体験の私を喜ばせた。部屋付属のトイレスペースにもゆとりがあり、誰にでも使いやすい仕様になっている。
心のゆとりは、時間的ゆとりとともに、空間のゆとりがあってこそ生まれるというものだ。
夕食までの時間、ゆったりと部屋にくつろぎ、窓外に広がる蒜山三座と高原のパノラマを堪能した。その間、私は「休暇村に泊まることにしてよかったね」と、しつこいほど繰り返していた。それほど、前日との落差が大きく、安堵の気持ちが深かったのである。連れ合いも、ベッドにのびのびと身体を横たえ、満足そうだった。
夕食の時がきた。
食事は、休暇村デビューとあって、どの程度の料理が出るのか、見当がつかず、必要ならア ラ カルトを注文することにして、まずは基本のバイキングで宿泊予約を済ませてあった。
蒜山三座に向かって開かれた、大きなガラス窓のレストランでは、余裕あるテーブルの配置が、ちょっと贅沢な空間を演出。暮れなずむ高原の眺望を楽しみつつ、ゆったりと食事のできる工夫がなされていた。適切な空間は料理に不可欠の「うつわ」と言えよう。
9月下旬のこの日は、利用客もさほど多くなく、また、むやみに歩き回る人もなくて、全体に落ち着いた雰囲気であった。バイキング形式も苦にならないばかりか、ゆっくり料理を見て回り、何を食べようかと思案するのも悪くない、と思えたくらいである。
数えたわけではないが、パンフレットによると和洋の総菜が「約50種類」。思いの外、日本海が近いという地の利のゆえか、山の中にもかかわらず、刺身なども豊富に並べられ、ついあれもこれもと手を出してしまいそうになって困った。
味も、素材の持ち味を生かしたもの、しっかりと味をつけたもの等、一品一品めりはりがきき、飽きさせない味に仕上がっていた。
ただ、バイキングの場合は、一つお皿に一つの料理というわけにもいかず、いきおい、2、3種類の料理を盛り合わせることになってしまう。少しずつ取り分けると、お皿が多くなり、トレーに乗りきらないため、何度かに分けて取りに行かねばならない。バイキングはそこが楽しいのだという人もあろうが、私たちには、その都度、席を立ったり座ったりするのが、小忙しくていけない。一旦席に着いたなら、ゆったり腰を落ち着け、料理を、できればゆっくり味わいたいのだ。
三座縦走の疲れが入浴にほぐされ、程良い食事に心も満たされて、夜を迎えた。
私たちは、不自然な空調が好きではない。特に、音が耳につく場合には、OFFにして眠る。問題は、ベッドのカバー様の掛け布団である。私たちは着衣なしで眠るわけではないので、これがけっこう暑い。シーツだけではペラペラするので、結局、シーツと掛け布団を大きく剥ぐって、バスタオルをお腹に乗せて寝ることにした。ちょっと小さいタオルケットをお腹にかけて眠る要領である。
翌日は、皆ヶ山に登るつもりであったが、私の山靴の両底が剥がれてしまっていたため、急遽、予定を変更し、自転車を借りて蒜山盆地一周(約35km)サイクリングに行くことにする。
朝食後、フロントで自転車のレンタル料(1台300円)を払い、ロードマップをもらって出発。赤い予備の靴紐で縛った山靴で自転車にまたがった。路上には、要所要所にマークが施されているが、剥げかけて、わかりにくく、迷ったところもあったが、蒜山原の概念図が頭にあったので、それほど大きな誤りもなく、自転車を止めて景色を眺めたり、写真を撮ったり、なんだかんだ言って遊んだりしながら走破した。
連れ合いは、男は自転車に長く乗ると、大切なところが圧迫されて大変なんだと言いながらも、私が油断していると、さっとスピードを上げてずっと先に行ってしまう。やっとのことで追いつくかと思われる距離まで近づくと、またすうっと離れて行ってしまう。からかわれているだが、追っても追っても捕まえられないのは不安なものだ。自転車を止めて叫ぶと、ようやく待ってくれる。
遊びながらとはいえ、急坂も何カ所かあり、けっこうハードなサイクリングだった。
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私たちが自転車で走った蒜山盆地は、蒜山火山が噴出する以前は湖だったようである。この湖の水は、もとは日本海に向けて流れ出ていたらしいが、西から東へと、上蒜山、中蒜山、下蒜山が次々に噴火すると、湖の北側が隆起し、湖水は南に向かって流出するに至ったらしい。その後、火山からの噴出物が堆積するなど、数十万年という長いスパンでの変化を重ね、蒜山は今ある「形」になった。
このように形成された蒜山盆地は、美作国(現岡山県北部)の北西端にあり、地域の最奥部に位置することから、古来"山中(さんちゅう)"と称されてきた。
蒜山盆地における農業の中心は水稲耕作であるが、冬が長く(「百日雪の下」と言われる)、年一度の米の収穫も不安定であった。このような状況下、享保11(1726)年、津山藩の理不尽且つ苛酷な年貢の取り立てに抗し、山中の農民が一揆(「山中一揆」)に及んだ。この一揆は藩の武力介入によって終熄するが、処刑された者51名の内23名が蒜山の百姓だったと伝えられる。
ただ、寒冷地であるため、農作物の生育には恵まれなかったが、煙草のみは良質のものを産したらしく、「山中煙草」の名が残っている。
この蒜山盆地には二つの街道が通っている。
盆地の南西端を通る大山街道がその一つで、かつてその街道筋には、大山の牛市に向かう博労たちの泊まった旅籠が軒を連ねていたといわれる。そういえば、大山に「博労座」という地名があったのを思い出す。
もうひとつは前述の美作街道である。人々は美作と伯耆の国境犬挟峠を越え、関金や倉吉(鳥取県)の町へ、折々の買い物に出かけたようだ。関金・倉吉方面からは行商の人々が頻繁にやって来てもいる。
明治31(1898) 年になると、大日本帝国陸軍は、この地において、住民の草刈り場(蒜山原では草を稲の肥料としてきており、聚落共有の草刈り場があった。毎年正月、聚落の住民が一堂に会し、その刈り場の持ち場や草刈りの日程を決めることは最も重要な「行事」だった)2300ヘクタールを買収。周囲を土塁で囲って厩舎を設け、放牧場とする。この軍馬の飼養は、大正6(1917)年まで続いた。
その後、昭和初期には射爆演習場となる。現在県立蒜山高等学校の建つ場所には、100棟に及ぶ兵舎が並んでいたという。
敗戦後、広大な演習地は解放され、耕作地として開墾されて、大根が栽培されるようになるが、一方、水稲耕作も寒冷地に適した早稲種の採用によって、格段に収穫率も高まったといわれる。さらに、牛の飼育もジャージー牛の導入により、大きな収益が上がるようになったようだ。
蒜山三座の南面は鳥取側の北面(ブナ林や杉の植林が多い)と異なり、草原が目につくが、これらは、上記のように水田の基礎肥料や牛馬の飼料としての草を確保するため、長年「火入れ(山焼き)」をしてきた歴史を物語っているようだ。ただ、山全体を焼いていたのは、射爆演習場のできる昭和初期までだったということではある。
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走行も終盤にさしかかり、のどの渇いていた私たちは、回転する黄色いランプに誘われ、広い敷地の中の「喫茶店」に向かった。屋外の椅子とテーブルのそばに自転車を止め、冷たいコーヒで喉を潤す。
オーナーの初老の男性によると、阪神大震災後、この地に移住してきた人が少なからずあったらしい。ただ、冬の寒さは生半ではなく、往年に比して雪は少なくなったとはいえ、冬期の生活にはかなり厳しいものがあるという。男性自身、高原の生活に憧れての"移住者"だそうだが、毎年、冬には町に戻るとのことだった。
昼前に休暇村に戻り、レストランで昼食を摂って、静かな午後を過ごす。山靴が壊れたことで、思いがけなくも得たゆとりのひとときだったが、休暇村にあっては、日がな一日、本を読んで過ごすのも悪くないなと思う。
翌朝、9時半ごろに部屋を出(チェックアウトは10時)、送迎バスの時間まで、広いウッドテラスの日除けの下でコーヒーを飲みながら新聞を読だり、何をするというでもなく、蒜山原の風景を眺めたりして過ごした。
休暇村デビューのこの時は、ゆったりとした施設と清潔さに「感動」するあまり、スタッフにはほとんど目が向かなかったが、喫茶コーナーの女性スタッフの穏やかな人柄と自然な応対が、僅かに記憶に残っている。そして、顧みると、送迎バスで江府ICまで送ってくださった年輩スタッフの柔らかい物腰が、休暇村蒜山高原の印象をよくしていることを、今改めて思う。
思えば、私たちと「休暇村」との出逢いは幸せなものだった。でなければ、吾が連れ合いが、すべての休暇村を巡ろうなどと言い出すはずもなく、私も賛成しなかったに違いない。だが、人に個性があるように、休暇村にも「個性」があり、それは、意外にも、そこに働く人々によって、決定づけられることを、追々知るようになるのだが、この時の私たちは、まだ知る由もなかった。
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