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back.gif休暇村 大山鏡ヶ成

休暇村あっちこっち

休暇村 大久野島






[大久野島へ]

 広島県竹原市忠海町の沖合い約3kmにある大久野島は、訪ねるに気の重い島である。

 周囲約4.3km、面積約70haの、芸予諸島に属すこの小島では、1929(昭和4)年から1943(昭和18)年ごろまでの間、毒ガス(糜爛性毒ガス"イペリット"および"ルイサイト"、窒息性毒ガス"青酸"、くしゃみ性毒ガス"ジフェニール・シアンアルシン"、催涙ガス"塩化アセチフェノン"など)が製造されていた。


 JR伯備線根雨駅から「やくも16号」に乗車した私たちは、一路岡山に向かう。どうやら途中で台風とすれ違ったようだ。岡山からは新幹線で三原に。三原からは港まで10分ばかり歩き、山陽商船の「小さな船」で大久野島に渡る。
 船から見る、雲の垂れ込めた大久野島は、東洋一の高さを誇る鉄塔の台座という趣で、そそり立つ大鉄塔は、虫の体に寄生する「冬虫夏草」を連想させた。
 穏やかなはずの瀬戸の内海は、台風が北上していったせいか、波が高く、雨もぱらつき、船は接岸したものの、タラップは大きく上下し、手すりを持っての下船となった。
 桟橋から宿舎までは徒歩5分〜10分、案内板もあるというので、歩くことにしていたが、赤い桟橋の向こうに休暇村のワゴン車と人影が見える。その便に乗船したのは私たちだけだったので、私たちを迎えに出てくださったにちがいない。桟橋を渡ると、果たして、温厚そうな青年が私たちの名前を確かめるや、微笑みながら「天候が悪かったので」と言って、車に招じ入れ、宿舎まで運んでくださるというのだ。
 ものの数分間の乗車だったが、感じのいいスタッフに、休暇村大久野島は、私の頭の中で、いい宿としてのイメージができあがってしまった。「すぐその気になる...」と連れ合いには揶揄されるが、気持ちのよい人に出会うと、そこにあるすべてのものがよきものだと思い込んでしまう"ヘキ"が、どうも私にはあるようだ。思い込みや期待は、得てして裏切られるものと相場は決まっているのに。

 「毒ガス資料館」や「ビジターセンター」のある道を抜けると、フェニックスや蘇鉄等、南洋植物の立ち並ぶ芝生の広場に出る。その広場を回り込んで、車は休暇村本館玄関前に横付けされた。
 建物内に足を踏み入れると、フロントのあるロビーは、かなり広々としていたように記憶する。フロントで宿泊手続きなどをしていると、何かあるのか、奥から数人の男性スタッフと覚しき人たちがわさわさっとカウンター内に姿を現した。だが、目を上げた私に会釈する人物もいなければ、挨拶する人もいない。"へえ〜、こんなこともあるんだ"と頭の中で思いながら、再びペンを走らせた。こちらから「こんにちは! お世話になりま〜す!」と言えばよかったか。ひどく居心地の悪い思いだった。歓迎してくれとは言わないが、来訪者を迎える側として、それはそれなりの態度というものがあろう、としきりに思ったことを憶えている。そして、後に、ここ大久野島で感じたことが、休暇村ではままあることに気づいていくことになる。

 今、この島は、島全体が数百羽のウサギの生息する「休暇村」となっているが、島の歴史は重い。この重い毒ガス製造の歴史に「向き合う」のは翌日にして、部屋に荷物を置き、夕食前にお風呂を済ませることにする。
 お風呂は「温泉」で、泉質は単純弱放射能冷鉱泉、神経痛やリュウマチに効き、冷え性や疲労回復などにも効能があるという。浴室は二つあり、それぞれ「大沓の湯」「小沓の湯」と名づけられている。湯船が沓形をしているのでもあろうかとは思ったが、それがなぜ沓形なのかは聞かずじまいに終わった。当日、女性に充てられたのは「大沓の湯」で、窓の外には南洋植物の植えられた芝生の庭がひろがっていた。「小沓の湯」からは海が見えるはずである。

 お風呂の帰り、フロントに寄り、是非見たいと思っていた"ウミホタル"について尋ねてみる。ただ当日は、観察会の日程に入っていないことをパンフレットで知っていたので、船の料金を別途支払ってもと、こちらの意を伝えてみるが、予想どおり、そういうプログラムはないと、あっさり断られる。私たちがこの島で"ウミホタル"なるものを見る機会はこの時消えた。

 この日の夕食は、詳細には憶えていないが、なぜか汁物(一つは小鍋立ての「粕汁」、一つはお吸い物、他の一つは失念)が三品も出、お腹がだぶだぶして弱ったことが強く印象に残っている。献立を考える場合、普通、素人でも重複は避けるだろうが、なぜこんなことになっているのだろうと、連れ合いと二人、顔を見合わせたことだった。


 翌朝目覚めると、台風一過、瀬戸内の空はよく晴れて暑くなりそうだった。

 最近の宣伝写真などを見ると、休暇村大久野島の食事会場は明るい感じに仕上がっており、バイキングの品数も多そうで、当時とは変わったのだろうと推測するが、私たちの宿泊した際の朝食(バイキング)は、品数もそれほどにはなく、爽やかな朝の食卓という雰囲気からも少し遠い感じがした。大きなガラス窓を巡らせた、前庭の望める開放的な食事会場なのに、今ひとつ晴れやかさが感じられなかったのはなぜだろう。
 私たちは常日頃から、朝はパンにしているので、品数という点では、サラダとジュースとコーヒー、それに、少しの果物があれば、さほど「注文」をつけることはない。
 思い起こすと、確かに当日は宿泊者が少なかったようではある。だが、宿としては演出や工夫も必要ではないかと思う。

 当初よりハイキングの出で立ちの私たちは、ためらうことなく島を徒歩で巡ることにし、1991年改築、客室数65室(宿泊定員は237名)という鉄筋4階建ての大きな本館建物を出る。この本館のある「三軒家」といわれる辺りには、戦時中、イペリットやルイサイトなどの糜爛性毒ガス製造工場があったようだ。
 広い芝生の前庭にはウサギたちの姿があり、私たちを見ると足もとに近寄ってくるが、餌がもらえないとわかると離れていった。芝の間やまだらに剥げて地肌の見えた地面にはコロコロとした糞が無数に落ちていた。
 海岸沿いの舗装道路(外周道路)に出、島内を時計回りに巡るかたちで歩を進めることにする。島のインフラは旧軍の建設したものをそのまま使用していると聞いた。
 本館を出て間もなく、毒ガス(イペリット)貯蔵庫跡が目に飛び込んでくる。柵から身を乗り出し、アーチ型天井の二つ並んだ構造物の中を覗く。中にはコンクリートの台座があり、当時、この台座の上には糜爛性毒ガスの鉄製タンクが置かれていたという。内壁に書かれた落書きが目障りだった。
 夏の名残の強い日ざしのもとを海風に吹かれながら、さらに歩いていくと、あまり使われているようには見えない運動広場とテニスコートが現れ、背後の木立の間から、山の斜面に構築されたらしい構造物の遺構が見え隠れする。この辺りは、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(毒ガス工場)が誘致されるまでは耕地で、背後の山には段々畑もあり、数少ない島の住人が耕作するほか、忠海から出作りに来る人もあったようだ。
 そこから、さらに北に向かうと、島内最大の「毒ガス貯蔵庫跡」(長浦毒物貯蔵庫跡)がある。大層天井の高いコンクリート造りの、左右に向かい合って三区画ずつ並ぶ貯蔵庫内部には、タンクの基部が残っており、それぞれの周囲の壁にはアメリカ軍が火炎放射器で毒素を燃やし無害化したという黒い痕跡が見えた。ただ、戦後の長年月を経てもなお残留化学物質の危険性は払拭できないらしく、立ち入りを禁止する赤い文字の看板が正面に立てられていた。
 のどかな海を眺めながら進むと、北に突き出た半島のあたりだったか、フェンスに囲まれ、扉に錠のおろされたエリアに、何かは不明だが、シートで覆われたものが残置されていた。
 北部砲台跡の広場を過ぎたところから山道に入る。記憶が曖昧ではっきりしないが、山道は階段になっていたかもしれない。
 頭上に送電線の通る坂道をしばらく行くと、私に「冬虫夏草」を連想させた、本州と四国を結ぶ送電線の大鉄塔の下に出る。鉄塔の高さは226m。忠海・大久野島間(2357m)の送電線を海上40m以上に張ろうとすると、この高さになるのだとか。確かに大きくて背丈の高い鉄塔だった。

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 大鉄塔
根元から見上げる。首が痛い。

 鉄塔のすぐ南にある中部砲台跡を通過して、展望台に至る。表土の流失を避けるためか、地面に直接「木」が張ってあり、傍に望楼が築いてあった。上ると、瀬戸の内海がぐるりと見渡せた。小さな船が青い海に澪を引いて通っていく。大三島も本土も指呼の間だ。
 送電線から離れ、火力発電所跡に向かって道なりに下っていく。
 旧火力発電所に通じるゲートのような重油搬入トンネルの、向かって右側壁に大きく「MAG2」と書かれていた。兵器・食料の倉庫、特に弾薬庫を意味する "Magazine" の略のようである(ちなみに、火薬庫は "Powder Magazine" といい、雑誌は「知識の宝庫」いう意味で"Magazine"である)。1950(昭和25)年6月に勃発した朝鮮戦争に際し、アメリカ軍はこの発電所跡を弾薬庫として使用。相当量の弾薬を貯蔵していたといわれ、その当時のサインが「MAG2」だと思われる。
 トンネルをくぐり抜けると、そこには見上げるような高い旧発電所の建物があった。建物は思いのほか大きい。外壁はツタの匍うに任され、廃墟の思いを募らせる。
 建物の内部に足を踏み入れる。広い! その広い床に、剥がれ落ちた内壁や天井、割れた窓ガラスの破片や枯葉が散乱している。その上、残された壁には至る所に、よくもまあと思われるような位置にまで落書きがしてある。「こんな所に落書きする人間って何考えてるのか」と呟いた私に、連れ合いは「何も考えてない。考えてないから落書きできるんだ」と言って、破片を踏んで奥へ進もうとする。私はもう十分だった。彼のベルトを引っ張って、早くここから出たいと言った。いつもは私をからかう彼だが、何も言わずに一緒に建物を出てくれた。
 トンネルの前には桟橋跡があり、明るい日ざしの中を瀬戸内の青い海に向かって「道」が沈み込むように延びている。汀まで行って大きく息を吸った。足元で細波がさわさわと小さな音をたてている。両側には白砂の浜が広がっていた。
 美しい景色など顧みられることなく、経済に翻弄され、戦争に利用され、なおも人間の都合に振り回される島の「呻き」が人の心に届くのだろうか。ささやくような波の音が今も私の耳に残っている。
 海沿いの道をそのまま進み、キャンプ場、防空壕跡を通って、毒ガス資料館へ。ここには、この島での毒ガス製造の実態が凝縮され展示されていた。

 冒頭で私は、この島は「訪ねるに気の重い島である」と書いた。だが、それは、かつてこの島において毒ガスが製造されていたという理由からだけではない。「人間」の問題に行き当たるからである。
 大久野島の対岸、忠海にある忠海病院(現呉共済病院忠海分院)は、戦後、毒ガス障害者に対して臨床治療をしてきた病院である。
 この病院に、1962(昭和37)年、行武正刀医師(後忠海病院長。2009年3月26日死去。享年76歳)が、広島大学から赴任してきた時には、大久野島で毒ガス製造に携わった元工員たちがすでに入院しており、「かなりひどい状態」だったという。
 その後、行武医師は、毒ガスを間接吸引したため重い後遺症に悩む毒ガス障害患者を46年にわたって診察。治療に尽くす一方、大久野島で働いた約6600名の内、入院もしくは通院した患者約4200名のカルテとともに、診察に際して彼らの吐露した心情をも記録し、残している。彼ら患者たちの「言葉は戦争の貴重な記録」だと考えたからだという。現呉共済病院忠海分院には、それらの「記録」が保管されていると聞く。
 だが、大久野島で働いていた元工員の中には、進駐軍によって罪を問われることを恐れ、毒ガス製造に携わったことを秘匿したまま、治療を受けずに亡くなった人もあるという(行武正刀講演記録、樋口健二『毒ガス島―大久野島毒ガス棄民の戦後 樋口健二写真集』三一書房 1983、等を参照。NHK ETV特集『カルテだけが遺された〜毒ガス被害に向き合った医師の闘い〜』も視聴)。

 しかし、戦争における加害の責任は、ひとり軍人や毒ガス製造者らに帰せられる問題ではない。国家を形成する国民が等しく負わなければならない重い課題である。
 1946(昭和21)年6月、映画監督:家城巳代治は、第1回全国映画芸術家会議において、以下のように「告白」している(南博編『戦後資料・文化』日本評論社 1973年 p.123)。
 「(今次の)戦争が正しかつたとしても、又は正しくなかつたとしても、私は正しくなかつたのだ。これだけが間違ひない事実である。はつきり言はう、私は少くとも反協力者ではなかつた。寧ろ協力者の積りであつた。だが、どれだけの信念が自分を支へてゐたのか。どれだけ自己という主体が確立されてゐたのか。敗戦後私を襲つた此の動揺、この混沌は一体何であらうか。真相はかうなのだ、われわれはだまされてゐたのだ、と済まされる事であらうか、真相は自分が、身を以て掴まなければならない事なのだ。だまされたとは何といふ恥づかしい言葉であろう。若し私がだまされたとするならば、私はだました人間に何等の憎悪もない。唯々だまされた自分への嫌悪があるだけである。その愚かさ、その軽薄さ、なんたる醜態であらう、それが嫌ならば私はだまされたのではない、自らそれを信じたのだ、と今もなほ叫んで後に自己批判をすればよいのだ。だが然し前に言つたやうに、それだけ自己を信ずると叫び得ない自分が残るのだ。要するに私は軽薄な中間者であつた。中間者とはさういふ"位置"ではない、位置に値しない所の浮遊動物の如きものである。これが私の恥づべき告白である。.........(略).........私の恐れ、嫌悪する所は勝つた時に、敢然と協力した、と言ひ、負けた時に、止むを得ず協力させられたと言ひはしないか、さういふ自分ではないのか、といふ事だ」と。
 そして、家城は、当時の時代情況にあって「今程孤独を感じたことはない」と言い、「自由を、デモクラシーを叫ぶ滔々たる流れの中で、愈々孤独な自分を私は一体何うすればよいのか。而もうつかりすると私はその流れに身をまかせさうだ。その流れの善悪を言つてゐるのではない。厳しい自己の追求なくして戦争に身を任せたこれとそれは全く同一のことではないのか」と厳しく自己に迫る。この自己への迫りなくして家城の戦後はなかったにちがいない。
 それにしても、一般に、「人間」は戦争を嫌悪しながら、なぜ戦争に駆り立てられていくのか。「国」が戦争へと進もうとするとき、なぜ「人間」はそれを阻止し得ないのか。阻止し得ないばかりか、ついには状況に隷属・迎合していくのはなぜか。そして、状況が変われば、再び新たなる状況に迎合・埋没し、過去を不問に付して生き得る「人間」とは何ものなのか。
 人間の歴史は戦争の歴史であった。嫌悪しながらも戦争を繰り返してきたように、この先も嫌悪し、憎悪しながら戦争を繰り返して飽くなき存在が「人間」ではないのか。
 考えれば考えるほど気が重い。
 戦後60年余、あまりに「安易な」人間の日常ではある。この国の政治情況は、いつも学ぶことのない人間の危うさを感じさせる。

 北部、中部、南部の砲台跡が示すように、大久野島は明治以降、戦争と共にあった。
 大日本帝国陸軍は軍都広島の守りとして、日清戦争後の1897(明治30)年3月、大久野島北部砲台を手始めに、芸予要塞(瀬戸内海の忠海海峡と来島海峡の線に設置)の建設を開始。1902(明治35)年2月までにすべての砲台を竣工させ、備砲工事も完了させる。
 だが、1921(大正10)年のワシントン会議において、日・英・米・仏・伊の間で海軍軍備制限協定が結ばれると、芸予要塞は廃止される。
 その後、第一次大戦後の不況に続く世界恐慌の中、忠海町は大久野島に陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(毒ガス工場)を誘致する。その誘致には当時の忠海町長望月忠吉と、その父親で内務大臣を務めるなどした政友会代議士望月圭介が動いたといわれる。
 「毒ガス工場」の操業については「毒ガス資料館」の展示に詳しい。
 そして、敗戦。
 敗戦時、大久野島に貯蔵されていた毒ガスは、海洋投棄・焼却・島内埋没という方法によって処理されたとされる。その後、1947(昭和22)年6月、この島が聯合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers [GHQ/SCAP]) から日本に返還された時には、島全体に、約3センチの厚みでChlorkalk(塩化石灰)が撒かれていたという。
 だが、1950(昭和25)年、朝鮮戦争が勃発すると、翌年、アメリカ軍は大久野島を接収、弾薬貯蔵場とし、1953(昭和28)年、朝鮮戦争が終了した後も、引き続き弾薬解体処理場として管轄下に置いた。1957(昭和32)年、再び返還されるまで、大久野島は一般人の立ち入ることのできない島だったのである。
 再度の返還後、1960(昭和35)年、政府は大久野島を大蔵省(現財務省)から厚生省(現厚生労働省)に移管。戦後、すでに瀬戸内海国立公園に編入していたこの島を、「竹原市の要望を入れるかたちで」国民休暇村に指定する。

 ここに1枚の地図がある。1963(昭和38)年7月、大久野島国民休暇村が営業を開始した当時の地図である(『国民休暇村(調査報告書)昭和39年度』早稲田大学観光学会編 1965年)。
 その地図によると、現在、本館のある旧三軒家のあたりには、宿舎(久のしま荘)・温泉センター・室内海水プール・休憩所・久野島ロッジ・食堂の文字が見え、そのあたりから、現展望台あたりに向けて一本の線が延びている。観光リフト(チェアリフト)があったらしい。
 運動場は現在の位置のようだが、テニスコートは見あたらない。代わりに旧長浦桟橋を過ぎたあたりに遊園地があり、「毒ガス貯蔵庫跡」の先の半島部にアドベンチャーランドの文字が見える。
 大鉄塔から現展望台あたりまでの間は展望園地となっており、展望休憩所なる建物があったようだ。展望園地から東方を見下ろしたあたり、島を一周する道路沿いには温室もある。"一周道路4km"という文字のそばに"ミニチュアートレーラーバス"という文字があるところからすると、そのような乗り物を走らせてもいたのだろうか。
 舟遊施設というのは現在二番桟橋とされているあたりか。その陸地側には大体育館(集会劇場)や小体育館、山の中には植物園もある。
 水泳場は現在と同じ。灯台の近くにはレストハウス、少し離れたところに第2宿舎というのもあったようだ。
 ただ、発電所跡の文字は見あたらない。毒ガス資料館も国民休暇村営業開始当時はまだ建設されていなかった。毒ガス資料館の竣工は1988(昭和63)年である。
 「かつての毒ガス島も、今や一大レジャーランドとなっている」という言葉はこういうことだったのかと納得した。
 とは言え、現在の大久野島には、観光リフトや遊園地、アドベンチャーランド、展望休憩所の建物、温室、舟遊施設、大小の体育館、植物園等はなく、ミニチュアートレーラーバスなる乗り物も走っていない。「行政」は"レジャーランド"から"うさぎと平和学習の島"に軸足を移したようだ。
 だが、大久野島および周辺海域には、今も遺棄された毒ガスが残っており、土壌汚染や海洋汚染、投棄物による傷害の危険は去っていない。
 近くは今年(2010年)3月20日にも、『中国新聞』が「旧日本軍の毒ガス工場があった竹原市大久野島沖の海底に、毒ガス兵器とみられる不審物が放置されていた問題で、環境省は19日、昨年8月に引き揚げた不審物23点のうち2点を、毒ガス兵器のあか筒とほぼ断定する最終分析結果を発表した。一方で、環境省は「周辺の環境に影響はない」として追加調査や撤去はしない方針を示した」ことを報じている。政府の「モグラたたき」はいつ果てるのだろうか。敗戦から60余年、「島」はいまだ戦争を抱えて呻いている。

 お昼前に宿舎に戻り、朝夕の食事会場であるレストランで昼食を摂って、午後は部屋で持参の本を読む。

 夕食は「瀬戸内の紅葉鯛」を使った料理である。"かわいらしい"鯛の焼き物もあったように思う。ビールで我らが「山陰山陽の旅」の打ち上げをした。
 この辺りのタコは「瀬戸内の早い潮流に育まれ」て身が締まり「絶品」だとのこと。予約時に勧められたが、タコはちょっと苦手なので、鯛料理を予約しておいたのである。


 翌朝、かつての検査工室や研究室・薬品庫であった建物の前を通って桟橋に向かう。途中、船で出勤してきた人物とすれ違う。休暇村に勤める人なのだろう。だが、来島時、私たちを桟橋に出迎えてくださった青年以外、この島で「人」に会ったという印象は希薄である。
 船の時間まで、前日寄らなかった、
・毒ガス障害死没者慰霊碑(1985(昭和60)年建立)
・大久野島神社(『大久野島神社縁起』によると、この神社は、古くは久野鳥(ママ)神社 と称し、大久野島の鎮守として大江谷に鎮座していた神代の神の社であったという。だが、陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所誘致に伴い、古来住人たちの祀ってきた神社は対岸の床浦神社に合祀されることになった。そこで、総代と製造所が協力、神社は再び島の守護神としてこの島で祀ることができるようになったことから、浄財を募って社殿を修営した後、昭和4年10月10日、社号久野島神社を大久野島神社と改称。昭和7年秋になって、製造所の拡張工事が神社の境域に及ぶに至り、現在地に遷座した、とのことである)
・殉職碑(1933年〜1937年の間に、青酸注入作業中に誤って青酸の飛沫を浴び、青酸ガスを体内に吸入したことによって亡くなった人等、三名の事故死者の名を刻む)  を「巡拝」。

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 気がつくと、そばに!
愛想がなくてゴメンね。

 船を待ってぶらぶらしていると、ウサギが、どこからともなく現れ、そばに寄ってきては所在なさそうに私たちの足元で遊んでいたかと思うと、いつの間にかどこかへ行ってしまう。しばらくすると、また別のウサギがやって来ては姿を消す。ウサギたちにとって、私たちは愛想のない来訪者にちがいない。


 船上からふり返った大久野島は、雲の広がる空の下にあり、やはり「冬虫夏草」を思わせた。痛々しい思いが心にしみ通るようであった。
 連れ合いは、ちらっと目をやっただけで、二度とふり返らなかった。

 
forward.gif休暇村 茶臼山高原