休暇村 茶臼山高原
[歌枕 "伊良湖" へ]
奥三河は茶臼山から往路を逆に辿り、JR豊橋駅に出る。
その後、路線バスで伊良湖に向かったのだが、乗り継ぎに際しての時間的ロスなどもあって、同一県下にもかかわらず、休暇村伊良湖にたどり着いた時には、あたりはすっかり暗くなっていた。
それにしても、伊良湖に向かう路線バスのとる道(車を運転しない私にはよく分からないが、国道259号線か)の、なんと車の多いことか。それも乗用車よりは大型車が多く、その量は尋常ではない。窓の外を見ていると、追い越していったかと思うと、すれ違っていく。その様は、ひっきりなしと言って過言ではない。
目に映る景色も、私の思い描いていた伸びやかな田園の風景ではなく、遠景、近景に工場他の建造物が飛び交い、私たちはどこに運ばれていくのだろうかと落ち着かない。そのうち、心和む眺めもあろうかと思ったが、行けども行けども期待は空しく砕け散った。思い出すだに胸苦しくなる。
そんな中、今年(2010年)4月、休暇村伊良湖支配人より「伊勢湾フェリー伊良湖鳥羽航路存続祈願! カーフェリーを利用した宿泊プランのご案内」なるハガキが届いた。「9月30日をもって伊勢湾フェリー伊良湖鳥羽航路廃止のニュース。地域が一丸となって航路存続に向けて活動しています。休暇村でも伊良湖鳥羽航路の存続を祈願してカーフェリーパックの販売で存続に寄与したいと考えています云々」と。
私たちは人生の始めに、車を持たない・運転しない生活を選んだ。カーフェリーも無縁だ。しかし、何であれ、伊良湖を訪うなら、渥美半島を縦断するより、古人に倣って鳥羽を経由した方が、まだ旅らしい旅ができるのではないかと愚考する(実は、鳥羽も小学校の修学旅行以来、半世紀に余る歳月、訪ねたことがないので保証の限りではない)。ただ、それ以前に、私たち自身は、不要不急の車の使用に異議申し立てをしたいのだが。
休暇村伊良湖には、豊橋駅から路線バスで約1時間30分ということだったが、行けども行けども行き着かず、ひどく長い時間バスに乗っていた気がする。着くなりフロントに駆けていき、バスの遅れたことを告げたのを鮮明に思い出す。予約に際して、休暇村茶臼山高原から伊良湖に向かうことを告げ、バスの到着時刻に照らして、入浴を済ませてから夕食のテーブルに着けるようにしてあったのだが、部屋に荷物を置く暇のあらばこそ、まさに予約した食事の時間に、バスは休暇村前に到着したのだった。移動のほこりも落とさないまま食卓に着きたくはない。フロントで食事時間の変更を依頼する。
大急ぎで、部屋に駆け込む。予約時、部屋が狭いという点について、よいのかと念を押された際、一泊だから構わない旨、伝えたのだが、狭い! 実に狭い。なぜこんな部屋を造ったのか尋ねたいほどの狭さだ。そのうえ、先客が何をこぼしたのか、床のカーペットには茶色の大きなシミがある。狭いことは聞いていたが、床に汚れのあることは聞かなかった。聞いていれば、もちろん別の部屋にしただろう。
時間がない。とにかくお風呂に行く。そこでまた呆然。混雑した「銭湯」状態だ。しかし、文句を言っている暇はない。空いたカランを見つけ、とにかく身体を洗って湯船にも浸からずあがる。部屋にとって返すと、連れ合いも髭を剃らずにあがってきていた。
夕食会場に行って、さらにげんなりした。会場全体がざわついている。大きな声で、騒いでいるとしか思えないようなグループがあるかと思えば、食べ物を取りに行くのでもないのに立ち歩いている人、酔っている者もある。かなり年輩の男性がしどけない格好で椅子に横座りし、よたよたと立ち上がった老女に何か指図している。あちこちから聞こえてくる嬌声の入り交じった笑い声も耳に障る。遅く到着した者がとても落ち着いて食事できる雰囲気ではない。
しかし、食べないわけにはいかない。お腹は空いていた。頼んであったのは「とらふぐの会席」である。私たちの席の担当は接客に慣れない若いアルバイトのような男性で、並べるものを並べると、言葉少なに去った。説明されずともわかるが、何か腹立たしかった。それに、お鍋に入れるフグは数切れ。"てっちり" とも言えない。こんな程度でよい味の出るわけがない。値段からすればこんなものだろうが、ほとんど格好だけだ。当初から「休暇村でフグ?! 気が進まないなあ」と言っていた連れ合いに申し訳が立たない気分だった。「一度やってみましょ」 と言って予約したのは私だったのだから。
食事内容はともかく、休暇村伊良湖に限ったことではないが、食事会場において、席をまずグループと個人に分けるという配慮はできないのか。また、予約時に食事の時間を尋ねるのならば、遅く到着する者への配慮があってもいいはずだ。先に食事を始め、食べ散らかして騒いでいるグループの直中に、遅く食事を摂る者の席を設ける意味がどこにあるのか。サービスする側の利便性だけなら考え直した方がよい。
休暇村スタッフは、すべからく一度覆面で他の休暇村に宿泊してみるとよい。部屋やお風呂、食事会場のテーブルの配置や食事する者への気配り、接客のあり方等々、利用者の立場に立ってみるのだ。自分なら、こんな点が嫌だ、こんなことは耐えられない、心地よさとはこういうことだったのか、が体感できるはずだ。そうした実体験をレポートし、研修材料とすれば、体験である故に、問題点も見えやすくなり、改善も容易になると思う。
もやもやした気分のうちにも急いで食事を済ませ、休暇村企画の、夜の菜の花観賞行事に参加する。
休暇村のバスで近くの真っ暗な菜の花畑に到着するや、ライトが"ON" になり、目の前に菜の花が浮かびあがった。花の間を歩いてよいとのスタッフの声に、同行の者はみな車を降りる。眼を凝らして、道路より一段低い畑に下り、踏み跡を探して歩く。無残にも先客に踏まれたり折られたりした花が意外に多かったが、菜の花を見て、三河の春は伊良湖から始まるのだなあと思う。どんなに雪がなく暖かいといっても茶臼山はまだ冬だったのだから。
部屋に戻り、ベッドにもぐり込む。
狭く汚れた部屋でも目をつぶらなければ眠れないもんねっ、と独り言を言っていると、連れ合いがハハハと笑って「うまい、うま〜い、パチパチ」と、口で拍手。「わかりました?! ポリポリ」等と言い合っているうちに、移動に疲れ、時間に追われて心も疲れ果てていたせいか、知らぬ間に寝入っていた。
翌日の朝食バイキング会場も、がさがさとして落ち着かず、楽しみながらゆったりと朝食の摂れる雰囲気ではなかった。パンを選んだことは確かだが、何をお皿に取り分けたか、美味しかったのか、そうでなかったのか、何一つ思い出せない。ただ食べ物をお腹に押し込み、部屋にとって返したことだけが頭に残っている。
そして、身支度を調えるや、腰も下ろさず部屋を後にした。部屋でもくつろげなかったからである。
ロビーの椅子にかけて、伊良湖岬へのバスを待つ。
その間にも "野菜の詰め放題 イベント" が始まった。宿泊料金を支払った際、「プランですから」 と、このイベントのチケットを、私もまた二人分手渡されていた 。
見ていると、野菜を持ち込んだ近隣農家の壮年男性が、チケットを受け取ってはレジ袋と交換しながら、次々と野菜の箱を開けていく。群がった年輩の男女が手当り次第に野菜を袋に詰め込み始める。あちらに手を伸ばしこちらに移動して夢中の様子だ。見る間に人々の袋は野菜ではち切れんばかりになっていった。
驚いたのは、農家の男性がそばに落として気づかない詰め込み用ビニール袋を拾って、二枚目の袋に野菜を詰め込む者が一人ならずあったことだ。他方では、二人分とはとても思えない量の野菜を、空になった箱に盛り上げて車に運んでいく年輩夫婦もあった。
伊良湖の温暖な気候が豊かな農産物を約束するものならば、もっと別の方法で野菜を提供することはできないのかとしきりに思う。休暇村伊良湖の呼び物として、このイベントを目当てにやって来る利用者があるのかもしれないが、私たちにとってはあまり愉快な催しではなかった。
私の野菜詰め放題の実況を、背で聞いていた連れ合いがつと立ちあがり、入り口の方に向かって歩きだした。「行くぞ」と背中が言っている。
私は、農家の男性のところに小走りに駆けていき、手にしていた二人分のチケットを渡して、キャベツを一つ、ニンジン1本、切り干し大根一袋をもらって連れ合いの後に続いた。
前日は、暗くなってから到着したため、休暇村伊良湖の全容は把握できなかったが、客室数56室(和室52 / 洋室4)、宿泊定員194名、鉄筋三階建ての施設は、建物前に設けられた駐車場(駐車台数200)に立って見ると、けっこう大きな建物だった。1966(昭和41)年建造だという。改築はされていないようだ。
バスが来た。
休暇村伊良湖を後に、"いらごが崎" へと向かう。乗客は私たちだけだった。
伊良湖は古来歌枕として人に知られた地である。いったいどれくらいの人々に詠まれたのか、具体的な数は知らないが、私の知るかぎりの歌と発句を以下に挙げてみよう。
『万葉集』巻一の二十三「麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌」(「麻續王伊勢國伊良虞嶋ニ流サル之時人哀傷シテ作レル歌」)に、"いらご"の名は早くも登場する。
この詞書きには伊勢國伊良虞嶋とあるが、このことについて、澤瀉久孝は「半島でも昔は島と云った例があり、伊勢から近く望む事が出來るから伊勢の伊良虞の島と云ったと見るべきであろうといふ説」が一般的だとしている。しかし、その一方で、彼自身は私案として鳥羽港の海上にある答志島と現伊良湖岬との中間にある神島が萬葉の伊良虞の島ではないかとする考えを披露している(『萬葉集注釋』巻第一 中央公論社 昭和56年6月30日21版 227p.)。
この点について柳田國男は、伊良湖岬に遊んだ際、村の古老より聞いた話として、『遊海島記』に次のように記している。
「伊良湖岬、古は伊良虞ヶ島と云へり。中世海は改まりて、寄洲は海を繋ぎしかば、乃ち三河の國となりぬ。其前は伊勢國度會郡にて、神宮の御莊なりき。(略) 見玉へ、和地の大山より西に靡きたる群山と、此方の邑との間に在る一帶の平地は、すべて昔の海の跡なり。沙原は海の面より高きこと幾何もあらず。生ひたる松も皆若し。昔は伊勢の海に出入る船、皆此間をや通りつらん。對岸伊勢の海邊、贄崎辛洲などの濱より見るときは、伊良湖は志摩の神島と相竝びて、正しく二つの島と見ゆべし」と(『定本 柳田國男集』第二巻所収 筑摩書房 昭和53年 第19刷 pp.464〜465)。
この度私たちも、眺望のきく所に立って伊良湖岬を望見してみたが、「こやま」のある半島突端部分は、往古ほんとうに「島」だったのではないかと思わせるものがあった。
伊勢國伊良虞嶋の所在についてはさておき、上記詞書きの歌は、
23 打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須
(打麻を 麻續の王 海人なれや いらごの島の 玉藻刈ります)
[麻續の王は海人であるから伊良虞の島の玉藻を刈っていらっしゃるのだろうか(そうではあ
るまい)]
というものである。
この23の歌に、問答の体をなす次の歌が続く。
「麻續王聞之感傷和歌」(麻續王之ヲ聞キ感ジ傷ミテ和シシ歌)という詞書きのもとに、
24 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食
(うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ いらごの島の 玉藻刈り食む)
[空蝉のようなはかない命を惜しんで、浪に濡れ、いらごの島の藻を刈って食べることだ]
前者(23)に比し、こちら(24)の歌は自身のことであるだけに「浪に濡れ」と具体的に詠まれており、何か深刻さが感じられよう。
『萬葉集』巻一には、もう一首 "いらご "の詠み込まれた歌がある。柿本人麻呂の作である。
42 潮左爲二 五十等兒乃島邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋迴乎
(潮さゐに いらごの島邊 こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島回を)
[波が高く音立てて潮が満ちくる時に、いらごの島のあたりを漕ぎゆく舟に 妹は乗っている
のだろうか。波荒い島の回りを]
この歌は、伊勢國への行幸に際し、留京していた人麻呂が「妹」を想って詠んだ歌らしく、直前の41・42の歌とも関連があるのだが、ここでは説明を割愛する。
『萬葉集』所収の歌以外には、次のような歌がある。
『夫木和歌抄』巻第二十三 雜部五 島
・ 白浪のいらごが島の忘れ貝人忘るとも我忘れめや 基俊
[白浪立ついらごが島の忘れ貝よ たとい人が忘るとも私は忘れようか(忘れはしない)]
『夫木和歌抄』巻第二十六 雜部八 崎
・ 蜑のかるいらごがさきのなのりその名のりもはてぬ郭公かな 前中納言匡房卿
[海人が刈るいらごが崎の"なのりそ"は その名のとおり"告げるな"というのに、美しい鳴き
声の果てることない ほととぎすであるなあ]
・ 波のをるいらごが崎を入る船は はやこぎれ渡(ママ)しまきもぞする 中納言國信卿
[波の幾度も寄せては返すいらごが崎を通って入る船ははやく漕ぎ渡れ 万一激 しい風雨に
なるといけない(から)]
・ みさごゐるいらごが崎のそなれ松 幾世の波にしをれきぬらむ 讀人しらず
[みさごが止まるいらごが崎の磯馴れ松はどれほどの歳月 波にぐっしょりと濡れてきたのだ
ろうか(きっと長い歳月 波にぐっしょり濡れてきたにちがいない)]
・ 風わたるいらごが崎のそなれ松 しづえは浪の花咲きにけり 喜多院入道 二品のみこ
[風が吹き渡るいらごが崎の磯馴れ松 その下枝には塩が花のように咲いたことだよ]
・ なぐさめに拾へば袖ぞぬれまさる いらごが崎の戀わすれ貝 爲忠朝臣
[心の慰めに拾うと 袖が涙でさらにぐっしょりと濡れることだ いらごが崎の恋を忘れるとい
う貝を拾うと]
・ 岩におふるいらごが崎の松よりもつれなき人はねがたかりけり 清輔朝臣
[岩に生えているいらごが崎の松よりも つれない人はねがたいことよ]
・ 我が戀は伊良湖が崎の海人なれや やく鹽竈の煙たえねば 參西法師
[私の恋は伊良湖が崎の海人のようであるのかなあ 焼く塩釜のように もし焦がれる思いが絶
えないのならば]
『あづまうた』巻六 雜歌 附 雜體 竝 文 英虞湾
・ あごの海の海士の釣船にはをよみいらごが崎へこぎ渡る見ゆ
[英虞の海の海人の釣り船が海面を読んでいらごが崎へ漕ぎ渡って行くのが見えるよ]
『壬二集』[注:藤原家隆(通称 壬生二品)の家集」
上之下 冬十首
・ 島響く伊良胡が崎の潮ざゐに渡る千鳥は聲のぼるなり
[島に鳴り響くような伊良胡が崎の潮騒のために 渡る千鳥は その鳴き声がよく聞こえない
が、空高くのぼっていくようだ]
上之下 冬 鷹狩
・ 引き据ゑよ いらごの鷹の山返り まだ日は高し 心そらなり
[引き据えよ、いらごの鷹で山帰りの鷹を (なぜなら)まだ日は高い 鷹の心は定まってい
ない(のだから)]
『續群書類從』第四百四十四 和歌部七十九
・ 吹をくるいらこかさきのしほ風にやすくとわたるあまの釣舟 寂身法師
[背後から吹き送るようないらごが崎の潮風によって やすやすと渡って行く海人の釣り舟で
あることよ]
『堀河百首』
・ 玉藻かるいらこかさきの岩ね松いくよまてにか年のへぬらん 藤原顕季
[いらごが崎の大きな岩に生えた松はどれほどまでに年を経ているのだろうか (きっと幾世も
年を経ているにちがいない)]
西行(1118〜1190)もまた、"いらご" を詠んでいる。
彼は出家の後、断続的に幾度か伊勢を訪れているが、治承四(1180)年63歳の夏、高野山を去って伊勢に赴いたときには、文治二(1186)年初秋、東大寺再興の沙金勧進のために陸奥に発つまで、6年の歳月を伊勢に過ごしている。その間、"いらご"に渡る機会があったのか、ゆかりの詠歌が残されている。
詞書き「伊良胡へ渡りたりけるに、いがひと申蛤に、阿古屋のむねと侍るなり。それを取り
たる殻を高く積みおきたりけるを見て [伊良胡に渡ったときに、貽貝と申す二枚貝
に、阿古屋珠(真珠)が主としてあったのです。それを採った殻を高く積みおいてあ
ったのを見て]」のもとに、
・ 阿古屋とるいがひの殻を積みおきて寶の跡を見するなりけり
[阿古屋珠を採る貽貝の殻を積みおいて 宝の跡を見せるのだなあ]
と詠む。また、
詞書き「沖の方より風の惡しきとて、鰹と申魚釣りけるを舟どもの歸りけるに [沖の方から
風が悪いといって、鰹と申す魚を釣っていたのを(止めて)舟々が帰ってきたとき
に]」
・ 伊良胡崎に鰹釣り舟並び浮きてはがちの波に浮かびつゝぞ寄る
[伊良胡崎に鰹の釣り舟が並び浮いて 悪しき西北風に立つ波に浮かびながら 岸辺をさして近
寄ってくることだ]
と。さらに、
詞書き「二つありける鷹の、伊良胡渡りをすると申けるが、一つの鷹は留まりて、木の末に
掛りて侍と申けるをきゝて [巣鷹と山帰りの鷹と二種あるという鷹が、伊良胡渡りす
ると申したが、一方の鷹は飛び立たずに留まっておりますと申したのを聞いて]」
・ 巣鷹渡る伊良胡が崎を疑ひて なほ木に歸る山歸りかな
[巣鷹が渡る伊良胡が崎を (渡るのを)思いとどまってふたたび直木に戻る山帰りの鷹であるこ
とよ]
と詠んでいる。これら三首は『山家集』所収の歌であるが、『夫木和歌抄』巻第二十六 雜部八
崎 にも西行の歌が一首採録されているので、以下に挙げておこう。
・ 波もなしいらごが崎にこぎ出でてわれからつげるわかめかれ蜑
[波もないよ いらごが崎に漕ぎだして 海人自らが告げる さあ若布(を)刈れ 海人よ と]
発句については、芭蕉の吟がある。貞享四(1687)年10月、屏居する杜國(本名:坪井庄兵衛)を畠村(現愛知県田原市福江町)に訪ねた際に、
前書き「骨山と云は鷹を打處なり。南の海のはてにて鷹のはじめて渡る所といへり。いらご鷹
など哥にもよめりけりとおもへば、猶あはれなる折ふし [(いらご崎の突端の小高い山
である)骨山というのは鷹狩り用の鷹を生け捕る所である。南の海の果てであって鷹
がはじめて渡る所だという。いらご鷹などを歌に詠んだと思うと、やはり趣深いこと
だと思っていたちょうどその時]」
・ 鷹一つ見付てうれしいらご崎
と芭蕉は吟じた。
柳田國男は前述の『遊海島記』において、「思ひ出づる」こととして杜國に触れている(既出書 p.470)。
「篠島の名に由りて今一つ思ひ出づるは、俳人杜國がことなり。芭蕉が芳野の旅に伴ひて自ら侍僮萬菊丸と稱し、洒脱なる名を世に傳へたるは此人にて、初め名古屋に住み、事に由りて罪を得、此島に流されしが、中比竊に遁れ出でて(注:私は、この篠島に「流されしが、中比竊に遁れ出で」という点について、真偽のほどを知らない)、伊良湖の北なる畠村といふ處に來て世を終りぬ。芭蕉曾て越人と共に、此半島に遊びし時、初めて彼に逢へり。
鷹一つ見付けて嬉し伊良湖崎
といふ句は、斯る海角の荒濱に來て、圖らず逸材を見出でたる喜を述べたるものなりといふは眞にや。此折の唱和の巻は、今も土地の人の藏するありて、げに如何ばかり心の合ひつらんと、想い遣らるゝものなり。此人が事は近き昔なれば知る人も多く、我は又様々の日記手簡などを見て、更に其人柄の慕はしさを覺えぬ。墓は福江の港、潮音寺の門の南、三叉路頭の叢の裡に在り。碑苔に閉ぢて、高さ尺に足らず。曾て伊良湖の鷹とまで歌はれし人の跡ながら、埋るれば斯くも埋るゝものかと、坐に涙ぐまれき」と。
ただし、「芭蕉曾て越人と共に、此半島に遊びし時、初めて彼に逢へり」という箇所には、柳田の事実誤認があるようだ。貞享元(1864)年、芭蕉は「野ざらし紀行」の帰途、名古屋に立ち寄り、当地において「冬の日」五歌仙を興業、蕉風を確立したと言われるが、その際、杜國は連衆の一人として名を連ねている。したがって、芭蕉が杜國に逢うのは、この貞享四年10月が初めてではないのである。
さらに、「鷹一つ」の句が「斯る海角の荒濱に來て、圖らず逸材を見出でたる喜を述べたるもの」ではなく、杜國との再会を喜ぶものであってみれば、「眞にや」と問われると、「否、眞にはあらず」と答えないわけにはいかないだろう。
上記の句に続いて「いらごさきほどちかければ見にゆき侍りて」との前書きのもとに、
・ いらご崎にる物もなし鷹の声 武陵芭蕉散人 桃青
そのすぐ後に、「杜國が不幸を伊良古崎にたづねて、鷹のこゑを折ふし聞て」として
・ 夢よりも現の鷹ぞ頼母しき 芭蕉
の句がある。
この時、いらご崎に同道した杜國が吟じたとされる、
・ 師のかげにほし落ちにけりいらこ浜
の句が短冊に残されているようだが、詳細は知らない。
まだまだ"いらご" を詠った歌や句はあるかもしれないが、今私に挙げられるのはこれだけである。
伊良湖岬の灯台への遊歩道。
左上の建物は伊勢湾海上交通センターである。
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岬の灯台への遊歩道は "小山" を巻くように海岸沿いに整備されている。護岸の岩には歌の刻まれた黒御影石が嵌め込まれていたりする。中には磯丸(柳田 既出書 470p.に記述あり)の歌もあった。
灯台は絵に描いたように真っ白だった。碧い海と空を背景に写真を撮る。
背後に建つ海上保安庁第四管区海上保安部伊勢湾海上交通センターまで小山を登り、海岸線を右にして車道を道なりに進む。どこに行き着くか分からないので、適当な所から引き返し、恋路が浜に下る。砂粒の小さい、きれいな浜だ。浜辺に沿って日出の石門に向かって歩く。
朽ちたか壊したか、明らかに人の手になる構造物の残骸のようなものに行き当たる。そこが外海に面した海岸線上であってみれば、戦時中の構築物であったとしても不思議はないねと話しつつ、とって返す。
恋路が浜の静かな朝。
波の音を聞きながら貝を拾う。
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連れ合いと後になり前になって、貝を拾い拾いしながら辿る復路はさながら子どもに返ったようで、懐かしさがひたと胸に迫った。
砕ける波。
雄々しさに見蕩れる。
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外海に開いた浜は、思いの外、波が荒い。意外に近くを白く大きな船が通っていく。秋ともなれば、碧い空を水平線の彼方へと "百千鳥" の群れが渡っていくのだろう。自然は悠久の昔より変わらぬものと人は言う。だが、歌枕"伊良胡" は、もはや歌の中にしかなく、私たちの心に映るのは似て非なるものだとの思いを強くする。海の香、波の音、空のあおや雲のさま、風の匂いや木々のそよぎまでもが。
白い巻貝を耳に当てると、今もかすかに伊良胡の浜の波音が聞こえる。
休暇村伊良湖のことはもう忘れた。 |