休暇村 伊良湖
[能登千里浜へ]
旅に出るなら、なるだけ人出の多い季節は避けたい。特に、北陸地方への旅においては旅行代理店が「冬の味覚ズワイガニと温泉の旅を!」と煽りたてるような時節は避けたいと思っていた。ところが、この年3月に発生した「平成19年能登半島地震」以降、半年以上経過していたが、観光客が激減したまま戻らないとのこと。所謂風評被害である。なら、ほとんど役には立たないだろうが、私たちが行こうじゃないか、ということで、11月も下旬になって能登路をめざす。
ただ、全休暇村巡りの一環として、まず休暇村への宿泊ありきの旅では、当該地でついでに何かをしようと思うと、これがけっこう難しい。昔ならそれなりに地元の鉄道やバスを乗り継げば、広範囲に動くことも可能だった。だが、今では、下手をしてバス一本逃そうものなら、途方に暮れることになる。地方の公共交通機関そのものの本数も、昔に比べ格段に少なくなっている。接続も悪い。車を持たない者にとって、幹線からはずれた地域へ足を伸ばすためには、潤沢な時間とお金がなければ、かなり厳しい状況に立ち至っている。
そうしたことがあってかどうか、休暇村能登千里浜には、以前より「貸切バスツアー付宿泊プラン」(奥能登巡りや立山黒部方面へのツアー、白川郷や五箇山を訪ねるツアー等々)なるものがあったが、2009年秋からは「全国13の休暇村が旅行業登録し、休暇村が自信を持っておすすめする観光ツアーをご案内できるようになりました」として、「休暇村に泊って気軽に観光 休暇村"旅Q"」というプランが登場した。
「13の休暇村」とは、以下のとおりである。
*陸中宮古………岩手県(陸中海岸国立公園)
*裏磐梯…………福島県(磐梯朝日国立公園)
*日光湯元………栃木県(日光国立公園)
*乗鞍高原………長野県(中部山岳国立公園)
*南伊豆…………静岡県(富士箱根伊豆国立公園)
*茶臼山高原……愛知県(天竜奥三河国立公園)
*能登千里浜……石川県(能登半島国定公園)
*越前三国………福井県(越前加賀海岸国定公園)
*近江八幡………滋賀県(琵琶湖国定公園)
*竹野海岸………兵庫県(山陰海岸国立公園)
*紀州加太………和歌山県(瀬戸内海国立公園)
*讃岐五色台……香川県(瀬戸内海国立公園)
*志賀島…………福岡県(玄海国定公園)
希望があれば、行き先や内容、最少携行人数やツアー実施日、費用等々、詳細を当該休暇村に問い合わせ、旅の計画を立てるのもよいだろう。
私たちは、不便を忍んでも「我が道」を行く組ではあるが。
今回も山行同様、金沢までは高速バスを利用。金沢でお昼を摂り、金沢からはJR七尾線で羽咋へ。羽咋駅からは、いつものことながら休暇村送迎バスのお世話になる。
到着すると、休暇村能登千里浜のロビーは中高年の利用客で賑わっていた。風評被害に苦しんでいるという情報が嘘のようだ。
その様子から、程なくお風呂の混雑することが予想されたので、受付を済ませ、何よりまずお風呂だと、部屋に荷物を置いて着替えを済ませるや、タオルを持って浴場に飛んで行った。旅先で、混雑したお風呂に入るほど情けないことはない。温泉か否かに執着はないが、のんびりとお湯を使えるか否かは、私たちにとっては大問題である。肌を触れあわんばかりの湯船、しぶきのかかる浴室内の空間など、入らなければよかったと後悔することになるからだ。このときは、まだ早かったこともあり、浴室は比較的空いていた。だが、混んでくることは目に見えていたので、ささっと身体を洗い、「なみなみの湯」と名づけられた、2003年オープンの"源泉掛け流し式"露天風呂に浸かってあがる。
「なみなみの湯」の名の由来は、どうやら「毎分ドラム缶2本分という豊富な湧出量」にあるようである。肌触りの柔らかいお湯だった。泉質は「ナトリウムー塩化物・硫酸塩泉」で、関節痛はじめ、五十肩や慢性皮膚病などに効能があるという。
衣服を身につけ、部屋に戻ろうとして、帰るべき自室の番号を失念してしまっていることに気づく。焦った。部屋の鍵は、いつもあがるのが早い連れ合いが所持している。何ともばつの悪いことだったが、フロントに行って部屋の番号を尋ねることに。
フロントの周辺は、いよいよ中高年の利用客でごった返していた。
中年にさしかかったかに思われる女性のフロントスタッフが、何か?という面持ちで、目配せしてくださったので、恥ずかしながらと、部屋番号を尋ねる。顔から火が出そうだった。
立ち去り際、「ずいぶんお忙しそうですね」と声をかけると、「お蔭さまで」と穏やかな微笑みが返ってきた。忙しいと、とかく粗雑・不機嫌になる「人間」の多い中で、得難い人物に出会うことではある。
部屋に戻ると、湯上がりの連れ合いは浴衣をちょっとはだけてゆったりとくつろいでいる。部屋の番号を忘れ、フロントまで行ってきたことを話すと、大丈夫かいなと笑われた。慌てると碌なことはない。
夕食までの時間、部屋でゆったりと過ごす。廊下は行き交う利用者で賑やかな気配だ。
夕食の時間になったので食事会場に行くと、けっこう広い会場のほぼすべてのテーブルには食事の準備が整えられており、席の主を待っていた。その日の利用客の多さを物語る光景である。早くお風呂を使っておいてよかったと、内心胸を撫でおろす。
案内された私たちのテーブルには、存在感ある青いタグ付き「加能ガニ」が背を赤く染めてお皿の上に座っていた。
この「加能ガニ」、「北陸では『越前ガニ』、山陰・丹後では『松葉ガニ』と、産地で呼び名が変わるずわいガニ」で、「加賀、能登の漁港で水揚げされたずわいガニは、青色のタグが付けられ、『加能ガニ』と称され」ているらしい。「品質は折り紙つき。身がぎっしり詰まった極上『加能ガニ』は、『越前ガニ』や『松葉ガニ』といった日本海の別のブランドのずわいガニに負けていません」とチラシに謳われている。
「ずわい蟹会席」だから、蟹のオンパレードであることは驚くに足りないが、実際に料理の数々を前にすると、その品数と量に腰が引けた。とても一人前とは思えない。いったい誰がこれだけの"かに料理"を丁寧に完食するのだろうか……と、疑問が頭をもたげる。
おそらく「加能ガニ」以外の蟹は地物ではないだろうが、使われている蟹の量たるや、私たちの"ふつう"の域を越えている。資源の枯渇が叫ばれて久しい漁獲制限のかかった海産物の料理とも思えない。
手前のタグ付き「加能ガニ」の、その向こうには「冬の能登海鮮刺盛り」なるカニ刺・地魚のお造り盛り合わせ、先付け、蓋もの(かに饅頭和風あんかけ)、カニの小鉢、カニの天ぷら、セイコガニサラダ、かに茶碗蒸し、カニの炭火焼き、カニ鍋、香の物、デザート二種……が次々と並べられる。
この季節、カニ目当ての人々を惹きつけるには、これくらいの品数が必要だということなのかもしれない。
ただ、私たちはといえば、ちょっとせせっては次の足や部位にいくような食べ方ができず、「加能ガニ」を手始めに、ひたすら隅々までカニの身をせせっては口に運ぶ羽目に。ゆっくりワインを楽しみながら会話しつつ……などという余裕もなく、ワサビで、二杯酢で、専用タレで、塩等々で、料理のひとつひとつを丁寧に、片端から黙々と食していった。考えれば、その間、連れ合いと交わしたことばは二言三言。蟹を味わうことさえ忘れていたような気がする。
だからと言うべきか、私たちは甲殻類が苦手である。
それにしても、"月夜の蟹"ではないが、いかにも貧相な、身の入っていないカニならいざしらず、この夜出された「加能ガニ」とその他のカニの、どこに違いがあるのか、実は、私たちには判らなかった。どの蟹にもしっかり身が詰まっていたし、味にもさほど違いがあるようには思えなかった。素材が厳選されているということか.....。
遂に、カニ鍋までは食べることができず、ラップのかかった大皿の食材はそのままにして、スタッフに断り、食事会場を後にした。
図らずも「カニと温泉の旅」を経験したことで、日本人の食行動について、改めて考えさせられることになる。
カニは日本人にとって人気の高い水産物だといわれる。そのずわい蟹の日本における漁獲量は1970年代をピークに減少。漁獲制限をかけ、資源の保護を行いつつ現在に至っている。その一方でロシアなどから輸入もされているが、2004年には、ロシアにおける一年間の漁獲許可量約1万トンの倍のカニが日本に輸入されたという。それだけ需要があるということだろう。漁獲許可量以外のカニがどのような漁によるものか、考えなくても判ろうというものである。高度経済成長期以降の日本人の消費行動はあまりに放漫と言わなければならない。
マグロにいたっては、世界の食糧を漁る日本の商社のあの手この手で、台湾や地中海沿岸諸国、オーストラリアなどから37万トンも日本に輸入されている。先ごろ、大西洋クロマグロの国際取引禁止法案がワシントン条約締約国会議に上程されたことは記憶に新しい。今回、この案は否決されたものの、日本人の消費動向、とりわけ海産物の消費動向は「地球の水産資源の未来を左右する大きな要素」として世界中から注目されている。
だが、箍の外れてしまった日本人の消費行動を制御する有効な手立てがあるようには思えない。
翌朝、早めに身支度を調え、支払いを済ませて、千里浜を散策する。
この浜は砂が特別に細かく、水分を含むと固く締まって、車を乗り入れてもそれ自体の重さで沈むことがないため、車の走行が可能だ。この千里浜のような浜辺は、他に、アメリカ(フロリダ半島東海岸[Volusia County Fla. U.S.A.]:ダイトナ・ビーチ[Daytona Beach])と、ニュージーランド([Northland:Levin Manawatu]:ワイタ レレ ビーチ[WAITA RERE BEACH])にあるという。
休暇村敷地内の小径を辿り、クロマツ林の間を抜けると、砂浜の先に蒼い海と碧い空とが私たちを待っていたかのように広がっていた。静かな晩秋の浜辺の朝だ。
砂防柵の向こうには静かな朝の日本海が。
海鳴りとともに、冬のやって来るのももうすぐだ。
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だが、私はちょっと戸惑った。かつての千里浜と様子が違う。
まだ学生だった1965(昭和40)年夏の終わり、私は知人に誘われて、名も知らぬまま、この浜に遊んだことがある。浜に降り立った私は、意表をつかれ、息を飲んだものだ。当時のこの浜は、背後のクロマツ林から汀までの距離が驚くほどあり、そんな広々とした浜辺が目の届くかぎりどこまでも続いていて、私の見知っていたどこの浜辺ともスケールが違っていた。
それがどうしたことだろう、凡庸な浜辺に変容してしまっている。眼を疑った。だからだろう、砂に刻まれた幾本もの轍の跡が殊更に煩わしかった。
それでも、細かくさらさらとして足が沈み込んでしまいそうな、乾いた砂を踏み、汀近くまで行くと、砂は水を含んで歩きやすくなる。なぜか鴉がちょんちょんとついてくる。「あげるものは何もないよ」と言いながら、連れ合いとふたり、静かな朝の浜辺を歩く。余人の姿はない。
足元に目を遣ると、しじみ蝶のように薄くて白い二枚貝が落ちていた。桜貝かと思ったが、それほどの色もなく、もっと儚げだ。その貝を、この日の想い出に、ふたりして拾い、壊れないよう、ハンカチにそっと包む。
碧く凪いだ遠浅のこの海が、やがて来る冬には色を変え、一面鈍色の荒れる海へと変貌するとは、俄には信じがたい静かな朝の渚だった。
休暇村の前に戻り、送迎バスを待つ。
"能登千里浜"の建物は日本海を背に建てられた、鉄筋3階建て(全66室[和57室 / 洋9室]、定員217名)。建造は1995年である。大きく張り出した、エントランスの両流れの屋根が記憶に刻まれている。
しかし、建物内部の施設については、断片的には思い出せても、お風呂を含め、ほとんど記憶に残っていない。午後に到着し、翌朝出発するような旅では、よほど印象に残るような出来事でもないかぎり、記憶には残らないのかもしれない。それに、休暇村の施設がどこもよく似た造りになっている所為もあろう。
さて、今回の旅行は、せっかく能登に行くのに、千里浜だけではというので、「能登半島温泉と冬の味めぐり紀行」なる宿泊プランで予約しておいた。このプランは、国民宿舎能登小牧台(所在地:石川県七尾市中島町小牧井部55番地 / 当国民宿舎は、中島リゾートビューローという株式会社の設立で、冊子には「休暇村サービスが運営のお手伝いをしています」とある)とタイアップしたプランである。
したがって、この日は能登半島の真ん中辺りまで移動しなければならない。
休暇村の送迎バスでJR羽咋駅に出た後は、一旦JRで七尾まで行き、のと鉄道に乗り換えて、小牧風駅と銘打たれた西岸駅へと向かうのだが、途中、七尾駅で下車し、"山の寺寺院群と瞑想の道"を歩いてみることにした。のと鉄道株式会社作成の沿線マップを見ていた際に目に止まり、時間的にも行けそうな場所だったからである。ただ、あまり期待はしていなかった。
なぜなら、京都などは、今も「古代シルクロードから伝わってきた大陸文化を日本らしく昇華させ、より輝かせた」と評価され、「伝統と革新が交差する場所」として、四季を問わず人々の訪れるところとなっている。しかし、私が学生だった頃の京都と今の京都では、もはやほとんど別物である。大文字山(如意ヶ嶽)から見た半世紀近く前の京都は、四囲を山が繞る盆地の、真ん中に寄り集まった、落ち着いた佇まいの町だった。町中を歩いても、軒の低い古くからの家々が建ち並び、そこここに京ことばが聞こえたものだ。それは特別のことではなかった。柳の枝のそよともしない夏の昼下がりなど、
「今日はえろう暑おすなあ」
「ほんまに。いつまで続きますねやろ、この暑さ。お互い夏ばてせんよう気いつけなあきまへんなあ」
と、すれ違いざまに交わされる、こんなことばも今は聞くこともない。
格子窓の向こうの、奥まった薄暗がりから近所をじっと見据えているような視線も感じなくなった。辻や通りにあった雰囲気も"匂い"も消えた。町は周囲の山々を這い上るような勢いで広がり、京都は"光"ばかりの、陰翳のない、のっぺりとした町になってしまった。それと同時に、どこかおっとりとした落ち着きのある"空気"も失われた。町は喧騒に覆われている。「経済」が町を変えた。
"山の寺"も、七尾市の観光スポットとして、寺と寺とを結ぶ道が整備され、"山の寺寺院群と瞑想の道"として紹介されているのだ。
"山の寺寺院群"は、七尾市市街地の南西、丘陵地帯にあり、その歴史は、天正九(1581)年、能登27万石を領有することになった前田利家が小丸山に城を築いた際、「能登方面からの攻撃に備え、桜川を内堀とし、29ヶ寺を防御陣地として配置し、北側の守りを固めたところから」始まったとされる(七尾市観光協会パンフレット 2007年 他)。
29ヶ寺のうち、現存するのは16ヶ寺。以下に、順を追って、その16ヶ寺を挙げてみよう。
- 浄土宗 正覚山 西念寺(さいねんじ) : 知恩院末
天台宗真盛派から改宗。山門横に六体の地蔵尊が祀られている 。
- 浄土宗 攝取山 常通寺(じょうつうじ) : 知恩院末
山門横に六体の地蔵尊が祀られている。
- 浄土宗 無量山 宝幢寺(ほうどうじ): 知恩院末
もと真言宗で福昌院といい、石動山にあった由。その後、浄土宗に改宗とのこと。
歯治し地蔵がある。
- 曹洞宗 瑞雲山 龍門寺(りゅうもんじ) : 總持寺派直末
長谷川等伯筆「紙本墨画達磨図」一幅(県指定文化財)を所蔵。
七尾市指定天然記念物「ラカンマキ」がある。
- 曹洞宗 天満山 徳翁寺(とくおうじ) : 總持寺派直末
もとは真言宗で石動山にあったが、他町を転々とした後、当地に至ったという。
参道入り口に、眼疾及び耳疾に霊験のあるという地蔵尊が祀られている。
- 曹洞宗 休岳山 長齢寺(ちょうれいじ) : 總持寺派宝円寺末
当初は、前田利家が小丸山城内に建立した寺院であったが、山門を残して焼失。当地に再建された。もとは宝円寺と称したが、利家が加封され金沢に移った後、金沢に宝円寺を建立したことから、父母の法名をとって、当山を休岳山長齢寺としたという。
境内には、前田利家の父母の墓がある。
宝物館は有料。
- 日蓮宗 華開山 成蓮寺(じょうれんじ)
石動山天平寺の、御用船の廻船問屋番匠家の菩提寺(真言宗)であったが、番匠家は日像上人との"縁"で 菩提寺の宗旨を日蓮宗に改宗したとのこと。
長谷川等誉筆「紙本白描淡彩涅槃図(慶長四年七月二日長谷川等誉是写也)」一幅(市指定文化財)がある。
(注:長谷川等誉は長谷川派の絵師。等伯の血縁か。詳細不明)
- 日蓮宗 遠壽山 本延寺(ほんねんじ) : 京都本法寺末
長谷川等伯の生家奥村家の菩提寺。
26歳の長谷川等伯(当時、等伯は「長谷川又四郎信春」と名乗っていた)が寄進した「永禄七甲子年十月十三日」銘の彩色木像日蓮座像、また、長谷川等誉筆「絹本著色釈迦涅槃図」を所蔵。二点共、市指定文化財。
- 日蓮宗 本源山 實相寺(じっそうじ) : 京都本圀寺末
本堂裏の樹齢700年の椎の神木は、宿り神が「妙連大善神」とも、また「天狗様」ともいわれ、「絶体絶命の際、祈らば一度は必ず助ける」との神託があったという。
本堂右横にある通り道の入り口を潜って奥に進み、椎のご神木に会う。
- 法華宗 宝泉山 印勝寺(いんしょうじ) : 越後三条本成寺末
境内には桜の木が多く植えられている。
- 法華宗 揚柳山 本行寺(ほんぎょうじ) : 京都妙蓮寺末
天正十三(1585)年、前田利家の命によって現在地に移転した寺で、"山の寺寺院群"の中核をなす寺だとのこと。
隠れキリシタン巡礼の本懐「ゼウスの塔」がある。
境内には楓の木が多い。
- 日蓮宗 久遠山 長壽寺(ちょうじゅうじ) : 京都立本寺末
長谷川等伯の養家の檀那寺で、養父母の過去帳と墓碑がある。
長谷川等誉筆「絹本着色釈迦涅槃図」一幅(市指定文化財)を所蔵。
- 曹洞宗 円通山 恵眼寺(えいげんじ) : 總持寺派直末
線路が参道を横切っているが、踏切がないので、回り道をしなければならない。
- 日蓮宗 法性山 妙圀寺(みょうこくじ) : 京都本圀寺末
- 日蓮宗 久住山 長興寺(ちょうこうじ) : 立本寺旧末
遊女たちが参ったことで有名な寺だという。
- 高野山真言宗 小嶋山 妙観院(みょうかんいん)
観音堂には、その昔、当地が小島だったころ、諸国行脚の途上、この島に立ち寄った弘法大師が、島の漂着木に刻んだという「聖観音菩薩」が祀られているとのこと。
他にもいくつかの伝説があるようだったが、この寺には行かなかった。
「唐門造り」の山門に見るべきものがあるようである。
私たちが当地を訪れた日は、寺々を結ぶ小逕で、人に遇うこともなく、観光地にありがちな喧騒もなかった。寺は、無住ではと思われるような寺から、手入れの行き届いた庭や建物の寺まで、秋の日ざしの中、静寂に包まれて、枯れ枯れとした趣を呈していた。
折しもあたりは紅葉の盛り、寺の境内や小逕の木々がとりどりに色づき、趣を添えている。中でも黄葉の冴え冴えとした美しさが秀逸だった。
ひと葉ひと葉に
仏のおわす気さえして.....。
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観光スポットとして売り出したからには、そのうち、どの寺も建物を新しくし、庭を整備して拝観料を取り、近隣に「山の寺歴史資料館」なるものなどを設ける一方、周辺には土産物屋が軒を連ねるようになるのだろうか。そのうえ、「絵師 法眼等伯」などというNHK大河ドラマでも制作放映されようものなら、観光客が押し寄せ、虚実ない交ぜになった史実とやらが乱れ飛び、押しも押されもせぬ立派な観光地として認知されるようになるのだろうなあ.....と思うと、この日の静けさが惜しまれてならなかった。
だが、常なるものなどあるわけがない、と思い直す。
連れ合いは言う、「惜しむ心がいけない、いかようになろうとも"あるがままだ"」 と。
のと鉄道西岸駅は無人駅であった。
駅から車で15分、七尾北湾に突き出た台地にあって、小島の浮かぶ七尾湾や岬、さらには立山連峰が一望できるという、2001年改築の、国民宿舎能登小牧台は、大きな三角屋根と赤い列柱のあるエントランスが印象的だった。建物は鉄筋三階建て、部屋数20室(和・洋各9室 / 和洋室2室)、定員は82名である。
到着後、お湯(露天風呂を備えた大浴場は温泉。ただし、加水、加温あり。また、塩素系薬剤を投入し、循環濾過装置を使用。泉質はナトリウム・塩化物強塩泉。神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・慢性皮膚病などに効能があるとのこと)を使った後は部屋にくつろぐ。窓の外は七尾北湾。牡蠣の養殖筏の向こうには、波をかき分けてどこかへ行ってしまいそうな、小さな島が見える。あいにく、この日、立山連峰は見えなかった。
夕食は、地元中島町産の牡蠣"満喫コース"に舌鼓を打ったのだが、食事も終わりにさしかかったころ、連れ合いのために牡蠣の釜飯をよそおうとして、ワインのボトルに手が触れ、少し残っていた赤ワインをこぼして、椅子の座面を汚してしまった。係りの方が持ってきてくださったお手拭きで拭い取りはしたものの、粗忽なことで、ほんとうに申し訳ないことであった。思い出すと、今も心が痛み、身の縮む思いがする。
翌日、能登を後にするに際し、今一つどこかに寄って帰ろうということになり、藤瀬霊水公園に行くことにした。その時、霊水の来歴は知らなかったが、霊水ということばに惹かれたのだ。だが、"足" がない。フロントでタクシーの配車を依頼。
かなり待った後、やって来た車の運転手は女性であった。
霊水公園に到着してみると、湧水の前には白い大きなポリタンクが数多くびっしりと並べられてあり、とてもではないが湧水に近づくことすらできない。名水百選にも認定されたというからこんなことだろう。広くもない公園をくるっと歩いて、ものの10分もしないうちに駐車場に戻り、そばのふるさと産品直売所で何があるか見ていると、直売所の方がご自分のために汲んでおかれたペットボトル入りの湧水をくださるという。遠慮なく、ありがたく頂戴し、小豆(ささげ?)を買って、公園を後にした。
藤瀬霊水公園の概略は以下のとおり。
藤瀬(山間にある集落)にある座主家の先代当主、座主正盛氏は、十年来重度の神経痛に悩まされていたが、昭和54(1979)年の或る夜、月光観音が夢枕に立たれ、「裏山の湧水を飲めば治る。治ったならば他の者たちにも教えよ」と告げらる。そこで、正盛氏がその湧水を飲み続けたところ、神経痛は程なく快癒。以来、"月光観音の霊水" として話題になり、多くの人が霊水を求めて訪れるようになった、とのことである。
その後、1994年、住民が管理組合を結成。湧水周辺を公園として整備。祠が設けられ、中に寄贈された観音像が祀られている。
この年、2007年3月25日9時41分58秒に発生した「平成19年能登半島地震」の震源は輪島市西南西沖40kmの日本海。地震の規模はマグニチュード6.9。七尾市は輪島市・穴水市とともに震度6強の揺れに襲われている。
のと鉄道中島駅への道すがら、車中で、地震について尋ねた私に、運転の女性は、恐ろしいほどの揺れだったと。そして、今では一見すると被害は無かったかに見えるが、一歩中に入れば、まだまだ被害の痕がそのまま残っている所があると話しておられた。
事実、七尾の市街地や中島町、のと鉄道沿線で、私たちが「能登半島地震」の痕跡を目にすることはなかった。人々も日常にあって何ら変わりないかに見えた。だが、当事者の方々の心に残る地震の記憶は、私たちの想像の外である。
近年、地震の活動期にある日本列島において、いつ、どこで大地震が起こっても不思議ではないと言われる。活断層は、まだ把握されていないものを含めると、日本中隈無くと言っていいほどにあるらしい。直下型以外にも、プレート境界型(海溝型)地震発生の可能性も極めて高いと警告されている。火山性地震も考慮しなければならない。
旅の途上で大地震や大災害に遭遇した場合、サバイバルは可能か。なかなかに難しい問題である。 |