休暇村 能登千里浜
[早春の近江路・八幡へ]
今も昔も、近江八幡は我が家から日帰りの圏内にある。
その昔、25,6年くらい前になるだろうか、津田山(標高424m。別名:奥島山・仙居山・笠鉾山)から長命寺山(標高333m)へ奥津島山連山を、連れ合いと歩いたことがある。全行程の短いこの道を歩くことにした理由は忘れた。
古いことなので、明確には思い出せないが、JR近江八幡駅から「長命寺行き」のバスに乗り、「渡会」で下車。若宮神社の近くを通って林道に入り、古杉の方に遠回りして津田山へ向かった、と思う。尾根筋に出ると、樹林の間から琵琶湖が見え隠れしていた。津田山の三角点辺りには巨大な盤座(いわくら)があったように記憶する。津田山から長命寺山までは30分くらいだったろうか.....。長命寺山の山頂は樹林に囲まれて小暗く、眺望はなかった。後は、ものの10分もしないうちに長命寺に出た。本堂にお参りした後、長い石段(808段ある由)を下る。全歩行時間は3時間くらいだったか.....。
そのころは、山向こうの宮ヶ浜に「国民休暇村」のあることを知らなかった。関心の外だった。
琵琶湖東岸に位置する長命寺山は、古代、琵琶湖最大の島に聳える山であったらしい。
現在、この周辺は陸化されているが、昭和の中頃までは水郷地帯の面影をとどめており、長命寺のすぐ南には津田内湖、南東の方には大中の湖(この大中の湖は「愛知川の河口から伊崎不動のある山丘に向けて延びる砂洲により界されているが、西に長命寺山の山丘があるので、北側に大きく開いた湾状の地形をもつ琵琶湖の一部だった」とのこと)、その南側には、西から西の湖・小中の湖(安土内湖)・伊庭内湖が大中の湖の湖水を共有し、連なって存在していたらしい。だが、昭和の干拓事業により、大中の湖や小中の湖・伊庭内湖は陸化され、現在では広大な農地となっている。
この「大中の湖」の干拓によって、辺り一帯が長期(縄文時代から平安時代ころまで)にわたり、人々の集落として栄えていたことが判明。1973(昭和48)年4月、国の史跡(「大中の湖南遺跡」)に指定されている。
さらに、もう一つ。この近江八幡近辺、JR東海道本線(琵琶湖線)を挟んだ東側の一帯は、かの有名な "蒲生野" であった。額田王と大海人皇子との相聞歌(『萬葉集』巻第一 雜歌 20 ・ 21)に詠まれた、あの "蒲生野" である。
歌は以下のとおり。
* 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌
(天皇、蒲生野に遊獵[みかり]しましし時、額田王の作れる歌)
20 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 (元)
(あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る)
* 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇
(皇太子の答へませる御歌) (明日香宮にあめのしたをさめたまひしすめら
みこと)
21 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方 (元)
(紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも)
紀曰、天皇七年丁卯夏五月五日縱獵於蒲生野。于時大皇弟諸王内臣及群臣皆
悉從焉。
(紀に曰く、天皇七年丁卯[ひのとう]夏五月五日、蒲生野に縱獵したまひき。
時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣ことごとに從ひきと言へり)
澤瀉久孝は言う(『萬葉集注釋』巻第一 中央公論社 1981年6月 p.200)、「蒲生野は滋賀縣蒲生郡の野。東海道線近江八幡駅の東廿餘町(近江鐵道あり)に武佐村がある。その東に南野、そのまた東に(八日市市)蒲生野、野口、(安土町)内野などの地名が殘つてゐる。そのあたりであらう。蒲生は和名抄(五)郡名のところに「加萬不」とある。この遊獵は左注[ここでは、21の歌の下に記した]にあるやうに五月五日に行はれたもので、冬から春にかけて行はれる野鳥野獸を狩る獵でなくて、鹿茸(角袋ともいふ。新たに生えかはつた鹿の角)をとつたり、藥草を採つたりするもので、藥狩とも云ふ」と。古代、近江八幡近辺の蒲生野では「藥狩」が行われていたのである。
現在では、JR近江八幡駅発着の、近江鉄道八日市線市辺駅(東近江市)の北方、徒歩5分の船岡山に "万葉の森" が設けられ、自然の巨岩に「元暦校本萬葉集」の原本どおりに、上記二首を彫った石板が嵌め込まれていると聞く。
私たちが「休暇村近江八幡」に向かったのは、2008年2月も下旬にさしかかろうというころであった。日帰り圏内の施設ではあっても、全休暇村を巡るからにはいずれ行かずばなるまい。それに2月なら「二八(にっぱち)」と言われるくらいだから、観光客も少なかろう、というわけで、思い立ったが吉日、電話で予約を入れ、ちょっとそこまで、という軽い気持ちで家を出た。旅行気分はなかった。
JR近江八幡駅からは、近江鉄道バス "休暇村行き" に乗車、35分程で終点休暇村に到着した。家を出てから2時間弱だった。
休暇村近江八幡は、国民休暇村計画第一期施設16ヶ所のうちの一つとして、昭和37(1962)年7月に営業を開始している。当初は "宮ヶ浜荘" という、定員200名の施設をもって開業したようだが、早稲田大学観光学会の昭和39年度調査報告書(『国民休暇村』 昭和40年6月 p.4)によると、調査当時、「11ヶ所で開業しているとはいえ、施設が完全にでき上っていないのと、P.Rが不十分なため、国民休暇村の存在すら知らない国民が圧倒的で、その利用客もまた少なく、ほとんどの休暇村が赤字経営を行なっており、黒字経営になっているのは、近江八幡等2,3ヶ所に過ぎない」と記されている。"国民休暇村近江八幡"は京阪神に近いという地の利もあってか、創業当初より"優良な"営業成績を残している。
当初、国民休暇村近江八幡の施設(営業中及び建設中の施設)には、宿舎の他に、キャンプ場・バースハウス(bath house : 琵琶湖での水浴に伴う更衣所か)・ダイニングロッジ・舟遊施設・レクレーションセンターなどがあったようだ。しかし、現在入手できるガイドにダイニングロッジや舟遊施設、レクレーションセンターなどの記載は見当たらない。ただし、湖水浴・キャンプ・釣りなどは、今も周辺アクティビティーとして明記されている。
他方、その後、増設されたものに、テニスコートや子供用プール、芝生広場などがある。他に、開業当時より最も大きく変わったのは宿舎だろうか。現在、西館と呼ばれている鉄筋3階建ての建物が、昭和56(1981)年に建造されている。こちらは和室のみで35室、収容人員は116名。その後、平成10(1998)年に、鉄筋5階建ての東館(現在は和室51室 / 洋室9室。定員222名)がリニューアルオープンする。これが元の "宮ヶ浜荘" かと思われる。
さらに、平成15(2003)年には、温泉の掘鑿に成功し、"宮ヶ浜の湯" が開湯。「近江八幡市初の天然温泉」だそうだ。泉質は弱アルカリ単純泉で、疲労回復・関節痛・五十肩・神経痛・慢性消化器病・冷え性などに効能があるという。
休暇村近江八幡の施設総面積は約28万平米とか。周辺に民家などの建物は見当たらない。
琵琶湖東岸のこの休暇村より、歩き慣れた比良の山並みが雪を頂いて白く輝いているのを望見した時には、なぜか旅の思いが胸に迫るように思われた。
東館3階の部屋に、あるかなしかの手荷物を置いて、まずはお風呂に。
"露天風呂" は、露天とはいうものの、屋根のついたベランダに浴槽を設けたような趣きで、窓ガラスがない分、外の景色がはっきり見え、外気も感じられはするが、文字どおり山奥の "露天" の温泉を知る身には、どうも無理があるように思えてならない。近年、公共の宿等で、時折、この手の "露天風呂" にお目にかかることがあるが、「無理しなくていいのになあ」と、つい思ってしまう。
この日の夕食には、「近江しゃも鍋」を予約しておいたのだが、入れ歯の増えた連れ合いにとって、しゃもの肉は少々固かったようだ。
二泊の予定ではあったが、思い立って、急遽出てきたため、中の一日をどう過ごすかについては未定であった。部屋に置いてあったパンフレットを見ながら、水郷めぐりにでも行くかということになる。だが、もうひとつ詳細が掴めなかったので、夕食後、フロントに尋ねに行く。「水郷めぐりですか? やっていますよ」と、若い女性スタッフ。水郷めぐりといっても、幾通りかあり、車を持たない私たちにとって、時間的に便利そうなところからの乗船を考えていた。しかし、そこに齟齬が生じていることには気づかず、すべての水郷めぐりが実施されているものだと受け取った私は、部屋に戻って連れ合いに報告。その夜は、水郷めぐりの図を思い描きながら、床に就いた。
翌朝、食事を済ませ、パンフレットをよくよく見ていると、どうもおかしい。私たちの考える水郷めぐりは、冬期は行われていないようなのだ。フロントに行って、再度確かめると、「ああ、そこは、今はやってません」という答え。それならそれと早く言えよ、とムッとしながらも、早く気付いてよかった、あわや無駄足を踏むところだった、と安堵の胸を撫で下ろす。
ではと、沖島について尋ねると、「何にもありませんよ」と、さもつまらない所だといったふうの答えが返ってきた。観光案内に記載の島でもあり、それはないだろう、と思いながらも、"何もない" ことに心惹かれたが、3時ごろには休暇村に戻り、ゆっくりしたかったので、結局、近隣の町場の観光でお茶を濁すことにする。
「近江八幡観光パスポート」を購入すると、近江鉄道バス割引クーポン券が4枚付いていた。大杉町で、クーポン券と共に差額分を払ってバスを降り、日牟禮八幡宮に詣でた後、ロープウエーで標高271mの八幡山(鶴翼山)に上る。豊臣秀次の築いたという城の遺構を見るべく、頂上部をめぐる細道を辿る。水はけの悪い日陰の小道には氷が張っていた。
山の上から近江八幡の町や安土町を俯瞰。蒲生野はあのあたりかと目星をつけて見渡すが、2月の蒲生野は冬枯れて、まだ春の気配は感じられなかった。
ロープウエーの麓の駅で、沖島の佃煮があるのを見つけ、幾種類か買って帰ったが、これは美味しかった。熱いご飯の上にのせて食べると、堪えられない。余計なものが全く添加されていないのもいい。佃煮が好きではない連れ合いが何度もお箸をのばすのには、目を見張った。取り寄せできないものかと、今もふと思うことがある。
再び日牟禮八幡宮の前を通ってバス通りに出、橋の下に降りて、八幡堀に沿った細い 側道 を歩く。水面の高さとほぼ同じ高さに立って見る堀端の景色は新鮮だ。少し立ち位置を変えるだけで景色が変わる。土蔵の造られた時代にトリップするかのようだった。
ひと頃は悪臭を放ち、埋め立ても検討されたという八幡堀。
今は白壁の土蔵が水面に映える。
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さらに、観光パスポートで入場できる市立資料館・歴史民俗資料館・旧西川家住宅・旧伴家住宅等を見て回ったが、"かわらミュージアム" と " NO-MA" なる「近江商人:野間清六の分家を改築」したボーダレス・アートギャラリーはスキップした。
その後は、JR近江八幡駅近くまで歩き、早昼を摂って、西国三十三ヶ所観音霊場 第三十一番札所 天台宗 姨綺耶山 長命寺へ向かう。以前、山から下りてきた時は、ほとんど通過しただけだったこともあり、再訪することにしたのだ。
バス停に足を運び、時刻表を見ると、長命寺に行くためには小一時間も待たなければならない。時間潰しをするにはいかにも中途半端だ。仕方なくタクシーをひろう。
せっかくなのでズルをして、かの石段をすっ飛ばし、車で行ける限界までタクシーで行き、残りの石段をちょこっと上って、まずは本堂に詣でる。檜皮の屋根の上には雪が残っていた。こけら葺の三重塔は全面丹塗り。写真を撮る。
この塔にはくすんだ丹の色が似合う。
建立は慶長二(1597)年だとか。
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反転し、三仏堂、護法権現社に詣り、鐘楼の前を通って、太郎坊権現社へと向かう。拝殿に上がって見上げると、太郎坊権現社のお社は石段の上だ。見れば、傾斜のきつい石段には雪が凍って張り付いている。滑りそうで怖かったが、意を決してそろりそろりと上り、お詣りした。石段途中の右側斜面に、まるでへばりついたかのような巨石があったが、その大岩は、太郎坊(大天狗になったという、長命寺の元僧普門坊のことで、太郎坊とは天狗になってからの名前だとか)が、京都の愛宕山から飛ばしてきた岩だとか。背後の山を歩いた際にも、山中で巨大な盤座に出合ったが、長命寺には巨石信仰があったものとみえる。
休暇村に戻ろうと、長命寺バス停で時刻表を見るが、またしても1時間ばかり待たなければならない。ベンチに腰掛けて、しばらく釣りをする男性を見ていたが、一向に釣果が上がらず、つまらなくなって、周辺をぶらぶらうろうろ。公園の中に "琵琶湖周航の歌" の歌碑を見つける。歌碑には、「黄金の波に いざ漕がん 語れ我が友 熱き心」と、六番後半の歌詞が刻まれていた。六番の全詞は、
西国十番 長命寺
汚れの現世 遠く去りて
黄金の波に いざ漕がん
語れ我が友 熱き心
なのに、なぜ後半の歌詞だけなのか。長命寺が西国三十一番であるのに、「西国十番」と詠われているからか....。それにしても、作詞した小口太郎(享年26才)も、原曲「ひつじぐさ」作曲の吉田千秋(享年24才)も、なんと早く逝ってしまったことか.....等々、取り留めのないことが浮かんでは消えるのにまかせつつ、あっちにうろうろ、こっちにぶらぶら時間を潰す。
連れ合いは、と見ると、ベンチにかけて思索に耽っている。すべては頭の中にあるので、退屈はしない、と。こんな時は、邪魔をしないがよいのだ。
"ようやく" 休暇村に帰り着き、何はさておき、お風呂に。
なんだか疲れきっていて、夕食までの時間、ぼんやり過ごしていたように思う。
ところで、旅に出て気にかかるのは宿泊施設の善し悪しだろう。「休暇村」は、その点、現今のニーズに合わせ、施設を順次リニューアル等し、設備・備品等々を充実させ、清潔さにおいても、概ね一定のレベルを維持するに至っていることは、これまでにも幾度か触れた。
次は、やはり宿舎で出される「食事」だろう。各休暇村では、地元農家栽培の旬の食材や地元漁港で水揚げされた新鮮な魚介類を使用。土地土地の代表的な味覚や郷土料理、また昨今の健康志向に合わせた有機野菜の創作料理や薬膳料理を取り入れるなどして、利用者の舌と心を惹きつけようとしている。それが、近江八幡なら、「日本三大和牛のひとつ、近江牛」というわけだ。
これらの食事は、休暇村においては食事会場で摂る。その際の基本となる食事形態は "バイキング" である。言うまでもなく、供食方式としてのバイキング("Viking" 和製英語)とは「並べられた各種の料理を、各自が好きなだけ取り分けて食べる形式の食事」で、所謂 "ビュッフェ(buffet) " スタイルである。英語で言えば "All you can eat" 、「食べ放題」だ。事業者にとって、この供食方式は費用対効果が高いうえに、集客を目的とした「買い得商品(目玉商品)」になっていると聞く。一方、利用者にとっても、一定の料金で「並べられた各種の料理を、各自が好きなだけ」セルフサービスで食べられるというので、人気を博しているらしい。著名なホテル内のレストランでも、人々が列をなしているのを目にすることがあるくらいだから、よほど双方の思惑がうまく合致したのだろう。
この食事形式は「北欧のスモーガスボードとよばれる前菜にヒントを得て、日本で始められたもの」だという。だが、セルフサービスの食べ放題というこの食事スタイルは、時として、食事会場の雰囲気を落ち着きのないものにするようだ。
それにしても、十数カ所の休暇村を訪れてみて、少し工夫があってもよいのでは、と思うのが食事に際しての席のありようである。席などどうでもよいようなものの、そんな些細なことがけっこう旅や宿の印象を大きく左右する。
私たちが、二日目の夕食に予約しておいたのは "近江牛のしゃぶしゃぶ" だった。休暇村では、 "バイキング" の他に会席料理や一品料理を予約・注文することもできる。
問題は席である。私たちに充てられたのは、大きな食事会場の隅っこ。カーテンにへばりつくように設えられた席だった。それはいい。あながち、私たちは隅っこが嫌いなわけではない。ただ、そんな隅っこの席を取り巻く席にグループの席が配されたのでは、閉塞感が増し、息の詰まりそうな空間となってしまう。
隣席の、私たちより年輩だと思われる10人ばかりのグループは、グループである故にけっこうなパワー。周囲の席への配慮は特段あるようには見えない。彼らにしてみれば、せっかくのグループ旅行である。何の遠慮か、と思ったとしても訝るほどのことでもあるまい。問題は、賑やかに食事をしたい人々と静かに落ち着いて食事をしたい者を隣り合わせにする理由である。サービスする側の利便性かとも思うが、もうよそう。
然りながら.....、"湖畔の宿"にあって、情緒のほんの片鱗さえも見いだせないのはいかにも口惜しいではないか。
いつだったか、友人がひとり旅した際、数泊のうち一泊を休暇村にしたという。「どうだった」と尋ねる私に、彼女曰く「休暇村ねえ.....。食事のバイキングスタイルも嫌いじゃないけど、自分には合わない感じ」と。そういえば、休暇村のざわめく食事会場で、所在なげにひとり食事する人をまま見かける。「雑踏の中の孤独」を楽しめる人ならいいが、ひとり静かに旅を楽しもうとする人には、やはり違和感があるのかもしれない。
お一人様でない私たちも、もちろん落ち着いて静かに食事がしたい。ちょっとした席の工夫で実現可能な気もするのだが、配慮の感じられる「施設」に、まだ巡り合えないでいる。
そう言えば、先日(2011年2月9日)、地方新聞に掲載された、地元温泉旅館の取り組みを読んだ。一昔前までは、女性ひとりの宿泊は断るのが通例だったが、近年、自分にご褒美をあげたいとして、ひとりで温泉を訪れる女性が増えている。男女を問わず、ひとり旅する人々をも積極的に受け入れる準備・工夫をしている、というのだ。機を見るに敏というべきか、生き残りをかけた対応の素早さは半端ではない。
その点、休暇村はじめ「公共」の宿は、個人の利用客が減少しても、児童・生徒・学生等、学年や学校をあげての団体旅行、または会社の社員研修等々を誘致する道が残されてあり、憂慮することなどないのかもしれない。
翌朝、帰途に就く。
JR近江八幡駅行き路線バスは休暇村から帰る年輩者で満員。連れ合いと並んでつり革にぶら下がりながら、飛び去る窓外の冬枯れた田畑を見るともなく見ていると、脈絡もなく、私たちの常食する減農薬五分搗き米が大中町産こしひかりであったことを思い出した。
太平洋戦争後の食糧難の時代から60余年、時代の変遷に伴って日本の農業は大きく変貌した。今また環太平洋戦略的経済連携協定(TPP : Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement)への参加が問題となっている。関税撤廃という「嵐」の中で、日本の農業はどこに向かおうとしているのだろうか。
もちろん、私たちは可能なかぎり国内産無(減)農薬農産物にこだわるつもりでいる。
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