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back.gif休暇村 近江八幡

休暇村あっちこっち

休暇村 紀州加太






[陽春の紀州・根来寺へ]

 突然だが、柳田國男の著作の中に、加太について触れた、興味深い箇所がある(『定本柳田國男集』第二卷 所収 『雪國の春』「草木と海と」 筑摩書房 昭和53年11月  pp.55〜56)。
「中國の海の邊をあるいて居て、見落すことの出來ぬのは海の草の繁茂である。歌に玉藻と詠んだのは又別のものか知らぬが、一種たけ長く幅の細い、例へば蘭の葉の如くにして表滑かなのが、岸に打寄せると忽ち白く枯れて、風の後などは堆かく積まれて居る。岸近く船で行くならば、必ず濱の松の緑よりも珍らしい光景を爲すことゝ思はれる。備前の邑久郡の入江なども、底は悉く此草で其間に海鼠が住み、小さなトロールは藻の上を滑りつゝ、其外に出た海鼠の限りをさらへて行くやうになつて居る。海が荒れる日は葉がきれて岸に寄り、追々に潟の上を埋めるらしい。西に開いた紀州の加太の湊なども、何處から吹寄せるか奥の方は此藻ばかりで朽ちた土は沈んで干潟となり、片端ははや要塞兵の練兵場にさへなつて居た。諸國の入海の岸に住む民が、玉藻を苅るといふ昔からの手業は、之を何の用途に充てたのかを考へて見た者も無いらしいが、それは恐らく田に入れて土を新たにする爲であつた。さういふ隠れたる海の交渉も、今は亦既に絶えてしまつた」というのがそれだ。
 加太の湊に吹き寄せた藻。その藻によってできた干潟の片端が「要塞兵の練兵場にさへなつて居た」というのだが、この"要塞兵"のいた要塞 とは、1889(明治22)年から16年の歳月をかけ、大日本帝国陸軍が築いた、由良要塞の一画をなす"加太・深山要塞" のことで、兵は第四師団深山重砲兵連隊の兵士たちではなかったか。
 由良要塞は、敵艦船の大阪湾への侵攻を紀淡海峡でくい止めるべく築かれたもので、淡路島では由良・鳴門、そして友が島、紀伊半島側では加太・深山にそれぞれ建設・整備される。建造された30の砲台には、ドイツ製の砲が162門据えられたという。

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 "休暇村紀州加太" の若い桜。
 すぐそばに掩蔽壕の一部が残されてある。
     

 1963年、この要塞の深山第二砲台跡に造られたのが、他ならぬ "加太国民休暇村" であり、現在も、本館のすぐそばにトンネルのような煉瓦造りの掩蔽部が残されてある。休暇村敷地内の "自然の小径" も、かつての要塞内交通路の「再利用」のようだ。したがって、周回路を辿れば、第一砲台や第三砲台の砲座跡、深山重砲兵連隊の建造物の基礎や弾薬庫跡、探照灯台の跡等々を見ることができる。辺りには案内板が設置され、要塞の全容や歴史についても概ね把握できるようになっているようだ。


 私鉄を乗り継いで "休暇村 紀州加太" に向かったのは、2008年の花も終わりに近づいたころであった。
 かつて由良要塞深山重砲兵連隊の物資輸送を担っていたという加太軽便鉄道、現在の南海電鉄加太線の終点、加太駅に降り立ったのは、午前11時47分だった。遠い記憶の底にある加太駅の面影がうっすらと甦った。
 駅を後に、まず、淡島街道を歩いて淡島神社に向かう。
 駅前の加太観光協会案内所でもらった "地元加太の小学生のおすすめスポット 加太淡島温泉ウォーキングマップ" には「ゆっくり見物しながら歩いて」約35分とある。約2km。同マップには、歴史的建造物や史跡等が淡島神社を入れて14ヶ所紹介してあり、「ぜひ探検してみてください」と書いてあったが、空腹だったので、道沿いの建物などは見て通ったものの、奥まったところは「探検」せず、目的地の淡島神社を目指す。4月3日の大祭も終わり、花の盛りも過ぎた平日の淡島街道は静かで、消防署前の道しるべを過ぎた辺りからは、人に会うことも稀になった。
 行き着いた淡島神社社殿は、「ええ〜っ、こんなに朱かったかなあ〜」と思わず声を発してしまったほどに、朱の鮮やかな御社だった。

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 朱々とした淡島神社の社殿。
 縁の下にも回廊にも、所狭しと人形が置かれている。
 

 或る時、気儘な旅に出た柳田が、桑名の宿に泊まった折、「歴史は既に遠干潟の如く、遙かに目路のあなたに引退いて居る。此岸ばかりから物を觀てはならぬと思つた。それで船の路の次々に改まつて來たことを考へて、急に紀州の加太浦を見る氣になり、出來るならばそこから淡路へ渡つて行かうと思つ」て、加太を再訪する。
 「加太は私が想像して居た以上に、十二分に既に漁村化して居た。久しく磯の香の間に立ち盡して居たけれども、遠國の言葉などは一つだつて耳に入つて來ない。濱は土地の人ばかりの、むつまじい休養場であつて、淡路へ渡る船ももうこゝからは出ない。淡島様の御社では、紅い小さな紙の人形を、婦人の御守りとして出して居るだけで、今でも數多く田舎を巡つて居る修驗者の、本山らしい様子などは少しも無かつた。夏はやつぱり海水の御客だけを喚ぶやうに、宿屋の支度も改まり、風景も亦それに似つかはしくなつて居る。或は要塞あたりの干渉であつたかも知れぬが、兎に角に湊は案外に早く忘れられるものだと思つた」という(『定本柳田國男集』第二巻所収 筑摩書房 昭和53年11月 pp.141〜142)。

 私が初めて加太を訪れたのは、小学校に上がる前のこと。淡島詣での祖母に連れられて訪ったのが最初であった。再訪は、小学校高学年の夏。臨海学校が加太で開かれたのだ。当時の加太は、「われは海の子」の歌詞に描かれた挿絵のような、素朴な漁村で、どこか懐かしさのしみとおる思いがしたものだ。記憶に残る淡島神社の御社も、朱が剥げていたのか朱くはなかった(と思う)。浜辺に通じる細道の横に設けられた、人形を納める太い柱のスペースに、雛人形や「いちまさん」たちが堆く積まれてあったのに気圧され、怖くなったのを憶えている。それを思うと、今を去る50数年前の、私の訪れた加太の浜辺も「淡島様の御社」も「既に遠干潟の如く、遙かに目路のあなたに引退いて」しまっていたというのが、この度の私の印象でもあった。
 変わらぬのは、本殿の周りは言うに及ばず、至る所、こちらに向けて置いてある「人形」に見つめられて、心が落ち着かなかったことだけだった。

 お詣りを済ませ、昼食を摂るため、観光案内所で勧められた店へと向かう。
 なるほど、軒先に土産物を並べ、その横でサザエなどを焼きながら観光客を呼び込む式の飯屋が、大鳥居の傍の境内側に三軒並んでいた。何でも真ん中の店は味がいいらしい。入ってみると、昼時でもあり、狭い店内には、観光客らしい人物の食事する姿があった。イスを跨いで席に着き、壁に貼られた品書きを見ながら、連れ合いと相談して、二、三品注文する。ところが、4、50代くらいの店の女性が、それよりあちらがいい、こちらがいいと言って、私たちの注文を受けようとしない。出さないのなら品書きに書くなよ、と頭の中で毒づきながら、高がお昼だ、拘ることもないかと、勧められるものを食べ、店を出た。
  蘊蓄を傾け、偉そうな態度で、客を小馬鹿にしたような店屋のオヤジも嫌だが、なんだかんだと言って客の注文する品を出さない店も不快なものだ。味がよければ未だしも、それさえも言うほどのことはなかった。
 "お奨め" の店にも、当たり外れはある。今回は、たまたま外れ.....。

 休暇村の迎えのバスは、加太駅発13:50、14:50、15:45 の便があったが、淡島神社経由はない。再び駅に戻るというのも能の無い話だ。それに、3時のチェックインまで時間はたっぷりある。周辺の景色を見ながら、休暇村まで歩いていくか、ということになり、歩き始めるが、車でわずか10分ばかりの距離も、徒歩では結構時間がかかる。そのうえ、要塞跡に造られた休暇村は坂の上にあるため、すっかり汗みずくになってしまった。
 食事をした店の人たちは、私たちが休暇村まで歩いて行くと知って驚いていた。車で往き来している、地の人には考えられないことなのか。驚いている人たちを見て、私たちの方が驚く。今に始まったことではないが、車の浸透は、明らかに人間を退化させている。

 休暇村に到着後は、フロントで手続きを済ませ、部屋に荷物を置いて、もちろん、すぐにお風呂へ。温泉ではないものの、広い内湯と露天風呂とがあり、露天風呂からの紀淡海峡の眺めがいい。時間帯によるのか、入浴者の少なかったのが何よりよかった。
 ゆったりお湯を使って大満足。部屋にくつろいで夕食を待つ。
 現休暇村紀州加太の建物は、鉄筋4階建て(客室は和室のみ63室。定員は237名)。海から100mほど切り立った断崖上に建っており、眼下には紀淡海峡が広がっていた。さすが要塞跡地に建てられただけのことはある。部屋から望む海峡を、真っ赤に染めて沈む夕日が圧巻だということだったが、私たちの宿泊したこの日は、暮れ方に雲がかかり、残念なことに圧巻というほどの夕景にはならなかった。
 夕食は、せっかくなので、旬の魚が中心の「春会席 雅」を予約しておいた。
 旬魚の刺身三種盛り、鯛のあら炊きや旬魚の焼き物・揚げ物、海鮮鍋、炙り鰆のカルパッチョ風サラダ等が出た。新鮮な魚はやっぱり美味しい。汁物はアサリのお吸い物、釜飯には鯛が入っていたように記憶する。連れ合いにさざえの壺焼きを一品追加。ワインのハーフボトルを傾けつつ、ゆったり食事を終えた。

 部屋に戻り、ふたりで布団を敷き、シーツを掛け、就寝の準備を整えて、静かに一日の終わりを迎える。
 ここ紀州加太の休暇村では、全室が和室である。希望者には、スタッフが寝床をセットするというサービスも導入されているが、私たちは、ただ今のところ、利用するに至っていない。


 翌朝は、春霞のかかったような白っぽい空だったが、まずまずのお天気。
 この日は、予定どおり根来寺(和歌山県那賀郡岩出町。現岩出市)へ向かう。

 朝食は7時30分からだったので、8時45分の送迎バスは見送り、ゆっくり身支度を調えて、9時30分のバスで加太駅へ。さらに、電車で一旦和歌山駅に出た後、JR和歌山線に乗り換え、岩出駅で下車する。駅からは路線バスに乗る(15分くらい)つもりでいたが、時刻表を見ると、待ち時間が結構ある。"宿" に帰ってから、ゆとりある時を過ごすには、タクシーを利用する他ない。"車を持たない者は割を食うなあ" と、またしても歎息。

 では、なぜ根来寺だったのか。
 20年、いやもう少し前になるかもしれない。或る夏のこと、連れ合いが、『子連れ狼』(原作:小池一雄・作画:小島剛夕)を読むぞ、と言い、その全巻を入手。脇目もふらずに "もの凄い" 集中力で読破したことがあった。私が何を話しかけても、返事する暇のあらばこそ、寸暇を惜しみ、周辺のことは総て遮断して、彼は読み耽った。
 その横で、仕事や家事の合間に、彼の読み終わった巻を尻から私も読んだ。私はといえば、ただ筋を追うだけの荒っぽい読み方ではあったが、とにかく読んだ。
 物語としては、周知のとおり、柳生の陰謀によって、妻・薊を殺害され、その地位を奪われた元公儀介錯人 "拝一刀" (水鴎流剣の使い手)が、遺された子の大五郎を連れ、刺客に身をやつしつつ、柳生一族絶滅のため冥府魔道の旅を続ける、というものである。
 連れ合いは、今も物語の細部にわたるまでよく記憶しており、中でも其之九十二だったか、「苦労鍬後生買い」が心に残ったという。
 私は、根来衆が物語に登場することから、彼らを輩出した根来寺に、チャンスがあれば行ってもいいな、と思ったのを記憶しているくらいで、ひとつひとつの挿話など、言われれば何とか思い出しはするものの、ほとんど忘れてしまっている。
 だが、思いがけず根来寺訪問のチャンスが巡ってきた。加太に休暇村があったからだ。


 根来寺は、空海開基の真言宗から派生した、真言宗新義派(新義真言宗とも)の寺院であり、正覚坊覺鑁[かくばん]に始まる。来歴を、『日本仏教史 第一巻』(辻善之助著 岩波書店 1960年)他を参考にまとめると、
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 覺鑁は、1095(嘉保二)年、肥前國(現佐賀県鹿島市)に生まれる。1107(嘉承二)年、上洛して仁和寺の成就院寛助に遇い、出家。興福寺や東大寺において、唯識・倶舎・華厳・三論を学んだ後、高野山に登り、最禅院明寂に就いて秘印密言を受けた。
 その後、1126(大治元)年、平爲里[恐らく地頭であろうと、辻は言う]より石手庄を寄進されたのを機に、荒野を開拓して、毎年の春の修学会及び冬の練学会の料とすることを鳥羽上皇に願い出で、許される。同年、石手庄内にあった根来に伽藍を創める。先ず一祠を造って鎮護とし、傍らに神宮寺(僧坊)を構え、さらに豊福寺を作る。これが根来寺の始まりとされる。
 1130(大治五)年、覺鑁は高野山に小伝法院を建立し、奏請して鳥羽上皇の御願寺とするが、翌1131(天承元)年4月には、小伝法院は狭小のため、大法会は行えないという理由をもって大伝法院建立を奏請。これを許され、さらに翌年の1132(長承元)年10月には鳥羽上皇の行幸を得、上皇は大伝法院を供養。同日また、上皇は密厳院の落慶供養をも行い、伝法会の料として七ヶ所の荘園[弘田庄・山東庄・岡田庄・山前庄・相賀庄・志富田庄]を寄進。1134(長承三)年5月、官符をもって大伝法院と密厳院とを御願所とした。かくして覺鑁の勢力は高野山一山を圧するまでになったが、これこそが高野山における内訌の基になる。だが、一方で、覺鑁に対する上皇の信任はますます篤くなり、同年12月、覺鑁は院宣によって伝法院座主職と金剛峰寺座主職とを兼ねることとなった。これは、空海入定後、観賢[854(斉衡元)年〜925(延長三)]が確立した、東寺長者が金剛峰寺座主職を兼務し、東寺を本寺、金剛峰寺を末寺とするという本末制度の廃止を意味していた。ただし、覺鑁は、翌1135(長承四・保延元)年2月、法兄の眞譽に両座主職を譲っている。しかし、これは覺鑁が「自ら両座主を併呑するの誹を避け、眞譽を表に立てて、自ら實權を握ろうとしたのであらう」と辻は言う。この覺鑁の座主職兼務は、東寺及び金剛峰寺僧侶らの抵抗するところとなり、内訌に拍車がかかる。
 1140(保延六)年12月、金剛峰寺僧徒坊人らが、諸庄の兵士を集め、伝法院方を駆逐せんと伝法・密厳の両院を攻める。双方入り乱れて戦ったが、院方が破れ、覺鑁は根来に出奔。この時、勝ちに乗じた金剛峰寺の衆徒によって、密厳院はじめ、大伝法院の僧房八十余宇が破却された。
 以降、大伝法院方は根来にいたが、康治二(1143)年閏七月、大伝法院座主神覺および学頭兼海は、争いを止めんことを訴え、院宣を受けて高野山への帰住を願い出る。しかし、金剛峰寺の衆徒は同意しなかった。
 同1143(康治二)年12月、正覚坊覺鑁、寂す。
 大伝法院方帰住の院宣が五度下り、1147(久安三)年、神覚・兼海等が本寺(金剛峰寺)の法式に従うとの起請文を呈し、高野山に戻ることが許される。
 その後、覺鑁の弟子たちは、覺鑁に大師号を賜らんことを奏請。だが、高野山には、彼らのこうした不遜を憤る者たちが少なからずあり、憤懣はくすぶり続ける。
 ところで、高野山では、住僧は楮や麻等の墨染の衣を着し、絹の衣は身につけないというのが空海以来の起請であった。しかし、1168(仁安三)年伝法院修正会[正月に行われる法会]に際して、堂の天蓋・幢幡・瓔珞等の飾り、招請した僧侶の衣服が慣例と異なり、華美に過ぎたことから、本寺の僧徒がこれを咎め、争いに発展。本寺の僧徒が伝法院行道衆の衣裳を裁ち、伝法院別当隆海以下の二百余房に切り込んで、僧徒七百人余を追放。伝法院は焼失した。この「騒動」について、朝廷は、本寺の振る舞いは一時の乱暴ではなく、日ごろの悪行であるとして、寺家に陳述書を提出させる。本寺の僧徒は連署して紛擾の経緯を詳述し、隆海・日禅等を罰するよう要請、また、覺鑁への大師号下賜奏請は不当である旨を達した。そこで、朝廷は寺務の総管職である検校以下17人を召し出し、検非違使に訊問させ、判決を下す。すなわち、この度の騒乱は隆海・日禅以下の非法なる行為によって生じた結果であるとして、永く高野山に住むことを禁じたうえで、今後覺鑁の贈大師号を奏請してはならないとした。他方、本寺については、朝廷に訴え出ることなく、私怨をもって行動を起こし、公の裁きを後にしたことは不届きであるとして、阿闍梨宗賢を薩摩に、立信を壱岐に、学賢を対馬に流す等、それぞれを処罰した。所謂「裳切騒動」である。
 また、1241(仁治二)年7月、院方が伝法院において法華三昧を行っていた際、奥の院の武装した僧侶たちに道場を破却される。その下手人三人はそれぞれ流罪または禁獄となった。
 翌1242(仁治三)年正月、再び、奥院から遣わされた武装の者たちが大塔に乱入。供奉僧のうち伝法院の衆20人の名を除かせるという事件が起こる。
 以後、伝法院方及び金剛峰寺方双方は城郭を構え、対峙するようになった。
 さらに、同年7月には、奥の院の僧徒が伝法院を襲って、これを焼き、その翌年1243(寛元元)年正月には、また、本寺と伝法院の僧とが激しく戦い、院方が大敗。これについて9月、朝廷が裁きを下し、本寺の僧綱26人を流罪に処した。執行代道範は善通寺に、法性は出雲にと、それぞれが配流される。いずれの僧も、当時、仏教の教理に関する学問において一山にあまねく名の知れ渡った僧侶であった。
 1247(宝治元)年、金剛峰寺衆徒の訴えにより、大僧正行遍の寺務および座主職を停止する。行遍は院務だとして大伝法院に荷担し、本寺に違背。そればかりでなく、大塔御影堂を焼こうとの企てをしたというのがその理由であった。ために、考えを同じくする僧たちは、行遍を弘法大師の門より追放し、未来永劫、寺務に用いるべきではない、との誓詞をしたため、鎮守明神社内に納めた。もし行遍が寺務に就くようなことあらば、山門を閉じ、諸僧は分散する決意だ、というのである。
 その後、大伝法院に頼瑜が出る。
 頼瑜、字は俊音。1226(嘉禄二)年紀伊國那賀郡山崎(現和歌山県岩出市)の豪族土生川[はぶかわ]氏に生まれた。頼瑜は奥義を尽くして余す所なく、その名声、世に広まる。
 その頼瑜が、1284(弘安七)年、伝法院に大湯屋を建てようとしたところ、本寺が "先例がない"というので、これを取り止めた。ところが、院僧がこれを怒り、徒党を組んで檀場の仏閣を焼こうとしたことから本寺の衆徒が一時に蜂起。7月24日伝法院を襲い、両陣営は互いに戦いを挑んだが、夜に入って院僧の陣が崩れ、東西に散る。
 この件につき、院方、本寺方の双方が各々上奏、是非を争ったが、1288(正応元)年3月になって、院方は大伝法院や密厳院などを根来に移す。これは、両者を相立たせること不可能であるとの官武の評定を洩れ聞いた忠俊阿闍梨の計によるもので、裁決を俟たずして、院方は自ら引き、頼瑜は根来に移る。この時以降、覺鑁の門流は高野山から跡を絶つ[頼瑜、1304(嘉元二)年正月、寂]。
 院方が根来に移り、ようやくと言うべきか、両寺の直接の闘争は回避されるようになった。

 ここで、「仏門にある僧たちが、よくもまあ戦いに手を染めるものだ」思われる向きのために、『大般涅槃経』巻の第三「金剛身品 第五」([5-10]〜[5-23])に述べられていることを紹介しておこう。
 例えば 、[5-11] に「善男子よ、正法を護持する者は五戒を受けず、威儀を修せずとも、応に刀剣・弓箭・鉾(きっさき)のある槊(ほこ)を持ちて自戒清浄の比丘を守護せよ」(『新国訳大蔵経 大般涅槃経(南本) I 』校注:塚本啓祥・磯田熙文 大蔵出版刊 2008年4月) とある。
 興味のある方は参照されたい。

 さて、大伝法院(根来寺)が、鳥羽上皇の帰依を受け、荘園を領有する等、宗教権門として発足したことは既に述べたとおりであるが、その後も、1350(観応元)年、院宣によって大伝法院座主が醍醐三宝院門跡の相承となり、室町幕府の外護を受ける等、根来寺は戦国末期に至るまで宗教権門としての立場を維持する。
 だが、根来寺そのものの著しい発展は、戦国時代以降にあった。これは、当時の社会状況の中で、活発な高利貸や荘園の代官請負などを行った結果、急速に富裕となったことにもよるが、その背景に、有力農民や土豪の子弟を根来寺に入れ、子院を建立させて、土豪たちを氏人として組織化していったことがある。最盛時、山内には3800にのぼる子院があったとされ、紀伊北部・和泉一円・河内に多くの氏人を擁した根来寺は、流通と分業の拠点となって、寺内町・門前町において、根来塗や根来鉄砲など、独自の手工業を発展させていく。
 根来塗は、根来寺山内で使用される仏具をはじめ日常の什器・雑器から発し、山内やその周辺(寺内町・門前町)で大量に作られたという朱漆塗器が本来のようだが、制作の起源を記す史料(資料)が残っておらず、残念ながら詳細は不明。
 根来鉄砲は、根来寺山内の子院院主杉坊明算の兄・津田監物算長が、1543(天文十二)年種子島にもたらされた鉄砲を、翌年種子島より持ち帰り、門前町の刀鍛冶芝辻清右衞門妙西(仙齋とも)に複製させたと言われる。その後、量産化に成功、根来寺衆徒の有力な武器となる。

 このように、大伝法院方が根来に根づき、氏人や土豪勢力との関係が加わった結果、所謂 "根来衆" と呼ばれる集団が形成されていく。上述の杉坊はじめ、岩室坊、泉識坊、閼伽井坊などは氏人(=土豪)出自の子院であり、根来衆として知られた。だが、これら衆徒の武力は、単に各子院が武装するだけでなく、氏人の組織・人脈を通じて兵力動員が可能であったことや、富裕な財力を用いて足軽を雇い得たこと等により、さらに増大したと言われる。
 ただ、南北朝期は、自衛のためであり、権益を守るためであった根来寺衆徒の武装も、戦国時代を迎えるころには、時に合力の依頼に応じ、出兵の要請に呼応するなど、抗争・合戦に出兵・出陣して戦闘を行うようになっていた。1504(永正元)年9月、畠山尚順に呼応して泉州に出兵した際、泉州に所領・知行所を持つ子院の者たちがまず出兵。閼伽井坊が後に続き、当該地に知行の在所を持たなかった泉識坊も、報酬を得て出兵したということなどは、その例であろう。宗教権門としての権威を背景に武力を行使することにより、更なる権益の拡大をはかったようだ。

 ところで、根来衆を語る時、同じ紀州の、西北部、紀ノ川河口域に住した国人・土豪勢力、すなわち雑賀一揆に触れないわけにはいかない。戦国時代、雑賀は中郷、宮(社家)郷、南郷、十ヶ郷、雑賀荘の五つの郷から成り、当地の土豪・鈴木氏をはじめとする土橋氏、太田氏等が族党をつくって、雑賀一揆を構成していたが、その主要な一族である土橋氏は根来寺山内に泉識坊を持ち、中郷は岩橋荘の湯橋家は威徳院を持つ根来氏人でもあったからである。しかし、ここでは、本筋ではないので詳述は措く。
 この、根来衆と雑賀一揆は共に、1584(天正十二)年、小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉の背後を攻撃したことから、翌1585(天正十三)年、秀吉による、所謂 "紀州攻め" に遭い、根来寺はわずかに多宝塔などを残して灰燼に帰す。残った衆徒は四散。智積院や大和長谷寺などに難を逃れた僧たちがある一方、徳川や毛利に仕えた衆徒がいた。この者たちが、根来寺滅亡以後も "根来衆" の名を世に留めるに一役買うことになる。
 [参考文献は、上記、辻の著書以外は以下のとおり、
 *『日本仏教史之研究 續編』(辻善之助著 金港堂書籍 昭和18年12月第四版)
 *『中世社会と一向一揆』(北西弘先生還暦記念会編 吉川弘文館 1985年)
 *『僧兵の歴史』(日置英剛編・著 戎光祥出版 2003年4月)    以上]
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 私の関心は、延暦寺の山法師、園城寺の寺法師、奈良法師等々、武装化した僧徒が歴史の表舞台から名を消していく中で、根来衆がその後も名を留め得たことにあった。要因はいくつか考えられるが、劇画にまで登場の余地を残す者たちを生んだ根来寺とはどのような寺であったのか、我が目で一度見てみたいと思った。そこには、京都や奈良市街等に残る寺々にはない "何か" があるかもしれないと考えたのだ。
 根来寺は発足の当初より「闘争」を常とし、やがて戦闘集団を醸成。寺滅亡の後、直接戦闘に携わった、生き残りの衆徒は、出家の道に戻るのではなく、さらに仕官し、戦闘に身を置く道をとる。出自が国人、土豪の者たちだから、というだけでない、底流する根来寺独自の「何か」が感知できないかと思ったのだった。

 花見の名残か、寺の参道には露店が並んでいた。その間を縫って境内へと進む。
 桜は盛りを過ぎてはいたものの、まだまだ見るに耐える花の数が枝々に残っており、花の下でお弁当を広げる人もあれば、参詣者もけっこうあって、各地の観光寺院に変わらぬ寺の趣きである。
 大門は五間三戸、すなわち正面柱間が五間、うち中央三間が出入り口の、二階二重門[高さ16.88m、幅17.63m、奥行き6m。現大門は1845(弘化二)年上棟、1852(嘉永五)年落慶の由]で、南禅寺の三門を彷彿とさせる。

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 五間三戸の、根来寺大門。
 天正十三年 "紀州攻め" の後、長らく行き方知れずになっていたという。
   

 36万坪あるという境内には、高野山の根本大塔を模したといわれる多宝塔(国宝)・大師堂(国重要文化財。1585(天正十三)年3月、秀吉の紀州攻めに際し、焼失をまぬかれた、根来寺で最も古いお堂の由)・大伝法院(本尊三尊像[大日如来座像・金剛薩た座像・尊勝仏頂座像]を祀る。和歌山県指定文化財)・伝法堂・錐鑽不動堂・本坊などが散在しており、奥の院と称する木立の中には、覺鑁(勅諡号:興教大師)の廟があった。
 しかし、それだけだ。天正十三年に焼失した際、 "毒気" が抜かれ、さらに経る時が "毒気" を抜き、総てを凡庸にしたものか、「つわものどもが夢のあと」でさえなかった。

 境内か門前か判然としない場所にあった "食事処" で昼食を摂り、根来寺を後にして、市立岩出図書館のバス停まで歩くが、その時間帯にバスはなかった。傍の公衆電話から配車を依頼し、タクシーで岩出駅に戻る。
 車窓からは、往路にも見た、緑濃い山肌を大きく抉り取ったような跡が望見された。植林されないままの山肌は、生傷のようであまりに奇異な感を抱かせる。聞くと、それは関西空港建設に際し、埋め立て用土砂を採取した跡であるとのこと。放置されてあるのは、そのうち草木も生えてこよう、という思惑によるものか。岩出市というと、"あの景色" を思い出す。


 連泊の、休暇村紀州加太に戻り、一汗流して、海峡の眺めを楽しむ。もはや、要塞跡を 歩いてみる気は起こらなかった。

 この日の夕食は、天然桜鯛料理。
 「桜の咲く頃、産卵のため近海に入ってくるマダイを、その見事な桜色をしていることから、桜鯛と呼んでいます。冬を越すため身はしまり、さらに産卵前で栄養をいっぱいため込んだ春のマダイは、一年のうちでいちばんおいしい、極上の素材として珍重されてきました」との謳い文句で、3月から5月末日までの間、提供されている料理である。ただ、嵐等で漁師が漁に出られない日が続くと、天然鯛の入荷ができなくなる場合があり、その場合には、他の料理への変更もあるとのこと。
 幸い、私たちは変更という事態に立ち至ることなく、桜鯛を堪能することができた。せっかくなので、その品書きを挙げてみると、
      前菜:季節の小鉢三種
      向付:天然桜鯛造り
      蓋物:天然鯛あらだき
      蒸物:天然鯛茶碗蒸し
      焼物:天然鯛焼き物
      台物:鯛の海鮮しゃぶしゃぶ  天然鯛・旬の野菜
      油物:天然鯛揚げ物  旬の野菜
      替鉢:海鮮サラダ
      吸物:アサリ汁
      御飯:鯛釜飯
      香物:春野菜の漬け物
      デザート:旬の水物
 前菜、蓋物、吸物、御飯、香物、デザートは、前夜の "春会席 雅" と同じだったが、鯛が新鮮で美味しく、紀州の旅のフィナーレにふさわしい夕食となった。


 実は、この旅に出る前、加太国民休暇村発足当初の「深山・城ヶ崎地区施設配置計画図」(『国民休暇村(調査報告書)昭和39年度』早稲田大学観光学会編 1965年)を見ていて驚いた。創設当初の、"一大レジャーランド" 大久野島にあまりにもよく似ているのだ(cf.休暇村大久野島)。そのうえ、もし友が島が南海電鉄に買い取られていなければ、休暇村紀州加太は "休暇村友が島" となっていたかもしれない。
 ところが、今回訪ねてみて、大久野島同様、それらレジャー施設を目にすることはなかった。現 "休暇村紀州加太" が1989年築ということから考えると、25年ばかり使用(?)した後、跡形も残さず、きれいさっぱり撤去というわけか。凄い産業廃棄物が出たろうな......と、よそ事ながら思った。
 不思議なのは、戦跡を残している意味。戦跡が反戦思想の醸成に寄与しているようにも見えず、まさか「改憲」の暁には、リサイクルするつもりではあるまいなと、ブツブツ......。
 「コンピュータを駆使し、遠隔地から無人の飛行機を飛ばして標的を攻撃する時代に要塞のリサイクルなんて、まずない。戦争の形態が違う。ここの要塞だって、飛行機の登場によって、実際には無用の長物になったんやから」と連れ合いに言われ、フムフムフム......納得。

 小高い山の上から望む海沿いの、深山の集落や加太の町並みは美しい。だが、海沿い故に、ひとたび大津波が押し寄せれば、脆く潰えそうに見える。1993(平成五)年7月12日の北海道南西沖地震における奥尻島の惨状や、2004年12月26日に発生したスマトラ沖超巨大地震に際し、スマトラ島の港町を襲った大津波の後のむごたらしい様子が重なった。
 東海・東南海・南海地震が、近い将来、かなりの高確率で発生すると予想されるなか、高台の要塞跡に建つ "休暇村紀州加太" は、存外、地域の人々の避難場所として有効かもしれないなあ、と思ったことが記憶に残っている。
 ところが、その後、今年(2011年)、3月11日14時46分18秒、宮城県牡鹿半島東南東沖130kmの海底を震源として、マグニチュード9.0の超巨大地震 "東北太平洋沖地震" が発生。多くの人々が津波に呑まれ、東北太平洋岸の町々は壊滅した。
 休暇村の情報誌によると、2011年8月現在、災害地のただ中にある「休暇村陸中宮古」(岩手県宮古市崎鍬ヶ崎)では「震災直後より被災者の受け入れを行い」、その後は復興作業にあたる人々の利用に供しており、また、「休暇村気仙沼大島」(宮城県気仙沼市外畑)では、一時避難者を受け入れるとともに、園地内への仮設住宅建設に協力しているとのこと。


 我々も、いつ、どこで、どのような "大自然の脅威" に遭遇するやもしれない。野生を喪失し、自然災害や危機からの回避能力を喪失してしまった我々人間だが、森林をチョロチョロ動き回っていた時代の記憶を取り戻し、過去の災害を他山の石として災害や危機を察知する能力を磨き、自らの身は自らが守るという基本にたち返って、苛酷な情況に遭遇してもサバイバルする気概を持たなければならない。生き残りはそこにしかない。

 ただ、自然に還らぬ大量の "ゴミ" を、繰り返し抱え込まざるを得ない "母なる海" の、人には見えないダメージを、我々人間は贖うことができるのか......。"人間の罪" を悲しく思う。

forward.gif休暇村 讃岐五色台