休暇村 紀州加太
[讃州高松へ]
2011年9月、長らく縁の絶えていた四国に、40数年ぶりに "上陸" する。
本州と四国の間には、連絡橋が三つ(神戸・鳴門ルート / 児島・坂出ルート / 尾道・今治ルート)架けられ、本州と四国が地続きとなって久しい。しかし、それまで、私たちは、天保山から船で小松島に渡るのが常だった。かつて四国には祖母の里があった。
この度は、全く乗り換えなしで高松に入ることができるというので、高速バスを利用。乗車4時間余りでJR高松駅前バスターミナルに到着した。
時はお昼、食事を摂ろうと思ったものの、周辺の地理や当地の食事処に疎い私たちは、手っ取り早く当たり外れのない食べ物に "ありつきたい” と思い、駅前高層ビルのレストランに向かう。レストランは、上階にあってフェリーの埠頭や近くの島々、屋島や高松市内が一望できた。ところが、思いがけないことに、案内に出たフロアチーフらしい男性の接客態度が洗練されておらず、不愉快。
四国の旅の振り出しは "がっかり" 。上がりが心配される。
休暇村讃岐五色台の送迎バスは、15時30分、一便のみ。骨休めが目的の旅でもあり、チェックインの15時に休暇村に入ることを考えたが、連れ合いが「まあ、いいではないか」と言うので、宿泊予約時に送迎バスの予約も済ませていた。
15時30分までの間に、私たちが行くことにしたのは、レストランから眼下に見た "玉藻公園" だ。「何もない、ただの公園ですよ」と人は言ったが。
レストランのある高層ビルを出て、"鯛願城就" と書かれた水色の旗が風にはためくそばを通り、堀に架かる橋を渡って、西入り口から玉藻公園に入る。入園料は200円。
この公園は、高松城趾を一般に開放したもので、三方が、海水を引き入れた堀に囲まれており、その堀には、鯉ならぬ鯛に代表される海魚がたくさんいるという。その鯛の餌(100円)がおみくじになっていて、 "鯛願城就" は "大願成就" の こじつけ・だじゃれ というわけだ。さなぎ粉を練り固め、乾燥させた豆粒大の餌を投げ入れると、水音を立てて盛り上がるように鯛たちが群がる。餌をやり終えて見ると、プラスチック容器の底に紙切れが一枚、"ハズレ" とあった。" やっぱりね!"
高松城は、日本三大水城のひとつ [他は、今治城(愛媛県今治市) と 中津城(大分県中津市)] で、玉藻城ともいわれ、その名は、枕詞「玉藻よし」に由来するという。
「玉藻よし」は、美しい海藻の多い地、藻の採れる国の意で、地名「讃岐」に掛かる枕詞だが、『萬葉集』にあって、柿本人麻呂の長歌に、ただ一度登場するのみである。
* 『萬葉集 巻二』
挽歌
藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇
・讃岐狹岑嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌 并 短歌
(讃岐ノ狹岑ノ嶋ノ石中ノ死人ヲ視テ柿本朝臣人麻呂ノ作レル歌 并ビニ 短
歌)
[讃岐國(鹽飽諸島の)砂彌島の海邊の岩石の間に横たわっている死人を見
て、柿本朝臣人麻呂の詠んだ歌 並びに 短歌]
二二〇 玉藻吉 讃岐國者 玉藻よし 讃岐の國は
國柄加 雖見不飽 國からか 見れども飽かぬ
神柄加 幾許貴寸 神からか 幾許貴き
天地 日月與共 天地 日月と共に
滿將行 神乃御面跡 足り行かむ 神の御面と
次來 中乃水門從 つぎきたる 中のみなとゆ
船浮而 吾榜來者 船うけて 吾がこぎ來れば
時風 雲居尓吹尓 時つ風 雲居に吹くに
奧見者 跡位浪立 沖見れば とゐ浪立ち
邊見者 白浪散動 邊見れば 白浪さわく
鯨魚取 海乎恐 鯨魚取り 海をかしこみ
行船乃 梶引折而 行く船の 楫引き折りて
彼此之 嶋者雖多 をちこちの 島は多けど
名細之 狹岑之嶋乃 名くはし 狹岑の島の
荒礒面尓 廬作而見者 荒礒面に いほりて見れば
浪音乃 茂濱邊乎 浪の音の しげき濱邊を
敷妙乃 枕尓爲而 しきたへの 枕になして
荒床 自伏君之 荒床に ころふす君が
家知者 徃而毛將告 家知らば 行きても告げむ
妻知者 來毛問益乎 妻知らば 來も問はましを
玉桙之 道太尓不知 玉桙の 道だに知らず
欝悒久 待加戀良武 おほほしく 待ちか戀ふらむ
愛伎妻等者 はしき妻らは
[通釈] 讃岐の國は その国のゆえにか 見ても飽きない。
(地の)神のゆえにか たいそう貴い。
天地 月日と共に
満ち足りて行くであろう 神のお顔(讃岐)として
昔から続いてきている 那珂の水門をとおって
船を浮かべて 私が漕いで来たところ
(潮の満ちくるときに吹く)風が 雲のかかる空を吹くので
沖を見ると うねり立つ浪が立ち
海辺を見ると 白浪がざわざわと音を立てている。
海を畏れ多く思い
漕ぎ行く船の 櫂を強く動かして進路を横にまげ
あちこちの 島は多くあるけれども その中で
名の美しい 狭岑の島の 荒波うち寄せる礒のほとりに
粗末な仮小屋を作って 見ると
浪の音の 絶え間ない浜辺を 枕にして
岩の多い海岸に 自ら伏せっている君が(いるではないか)。
家を知っているならば 行って告げもしよう。
その妻が知っているならば 来てたずねもするだろうに。
(夫のころふす場所にやってくる)道さえ知らず
心晴れずに (夫の帰りを)待ち恋うているであろうか(待ち恋うて
いるにちがいない)
いとしい妻は。
・反歌二首
二二一 妻毛有者 採而多宜麻之 妻もあらば つみてたげまし
佐美乃山 野上乃宇波疑 佐美の山 野の上のうはぎ
過去計良受也 すぎにけらずや
[通釈] 妻もいたならば 摘んで(共に)食べるであろうに。
砂彌の山の 野のよめなは(その)時節が過ぎて
(食べるに適さないまでに長けて)しまったではないか。
二二二 奥波 來依荒磯乎 沖つ波 來寄る荒磯を
色妙乃 枕等卷而 しきたへの 枕とまきて
奈世流君香問 寝せる君かも
[通釈] 沖の波の 寄せ来る荒々しい礒を 枕として
寝給う君であることよ。
人麻呂はこの作において、讃岐の国が「優れた国柄であり、今後も栄えていくべき国として神代の昔から続いて今日に至っている」と詠っている。その讃岐の国は、当時、美しい海藻(玉藻)の採れる、豊かな海に面した国でもあったのだろう。「玉藻よし」という枕詞を冠して人麻呂は詠うのだ(「ーよ・し」は共に助詞。感情をこめ、語調を整えるために用いる語。「はしきよし」「あをによし」等の「ーよし」に同じ)。
空海も『三教指帰』において、「玉藻」という語を用いているというので、改めて見てみると、確かに、「巻下 假名乞兒論」の中に見える。
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虚亡隱士が問う。
「吾熟視公已異世人視頭無一毛視體持多物公是何州何縣誰子誰資」
[吾レ熟(つらつら)公ヲ視ルニ 已ニ世ノ人ニ異ナリ 頭ヘヲ視ルニ 一毛ナシ 體チヲ視ルニ多物ヲ持セリ 公ハ是レ何ノ州 何レノ縣 誰レカ子 誰レカ資ソ]
(私がつらつらあなたを視ると、まったく世の人間と異なり、頭を視ると一毛もない。體を視ると、多くの物を携えている。あなたはどこの州 どこの縣の人で 誰の子 誰の弟子ですか)
と。
それに対し、假名乞兒が応えて言う。
「・・・(略)是汝與吾從無始來更生代死轉變無常何有決定州縣親等然頃日間刹那幻住於南閻浮提陽谷輪王所化之下玉藻所歸之島橡樟蔽日之浦未就所思忽經三八春秋也」
[・・・(略)是レ汝ト吾ト無始ヨリ來(このかた) 更(かはるがはる)生レ 代(かはるがはる)死シテ轉變無常ナリ 何ゾ決定ノ州 縣 親等アランヤ 然レドモ 頃日ノ間 刹那幻ノ如ニ 南閻浮提ノ陽谷 輪王所化ノ下タ 玉藻歸ル所ノ島 橡樟日ヲ蔽スノ浦ニ住シ 未ダ思フ所ニ就カズシテ忽チニ 三八ノ春秋ヲ經タリ]
(・・・(略)そなたと私と、いくら遡ってもその始めのない昔よりこのかた、かわるがわる生まれかわり、代わる代わる死にかわりして生滅変化し、少しもとどまるところがない。どうして決まった州、縣、親等があろうか(ありはしない)。そうではあるけれども、このごろの間は、ほんの刹那、幻の如くに(私は)、われわれ人間の住むこの世界の、太陽の昇る東の果ての地[日本の国]、轉輪聖王[ここでは "天皇" ]の統治のもと(にある)、玉藻よるところの島、クスノキの日を覆い隠して繁茂する浦[讃岐の國多度の郡屏風ヶ浦]に住し、まだ思うところに赴かないで、たちまちのうちに二十四年の歳月を経過してしまった)
と。
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空海の時代、和歌を詠むほどの人々の間では、「玉藻」はすでに「讃岐」を表す語として定着していたものと考えられる。
高松城そのものは、天正十六(1588)年、生駒親正が築城に着手し、生駒家4代 54年間、松平家11代 228年間(初代藩主は水戸光圀の兄、松平頼重)居城した城だといい、"讃州さぬきの高松さまは城が見えます波の上" と唄われたという。最盛時、総面積が66万平米あったという敷地に、三重四階(地下一階)の白壁の天守閣が聳え、要所には、これも白壁の約20の櫓が配された城を海上から望見する時、城は美しくも豊かな海の上に、まるで浮かぶように見えたにちがいない(創建当初の天守は下見板張りの黒い外観であったようだが、寛文十一(1671)年、松平氏による大改修に際し、白漆喰総塗籠の天守に改築されたという)。
だが、残念なことに、今ではここもまた、どこにでもあるようなベイエリアとなり果て、海もまた、晴天のもとでは青々と美しく見えはするものの、 "玉藻の浦" と呼ぶにふさわしい海なのか、訝しい。
"鯛の餌場" を後にして、内苑御庭と呼ばれる枯山水の庭へと進み行くと、かつて「藩の政庁および藩主の住居として建てられた」という書院風建築物、披雲閣の横に出た(もっとも、松平藩時代、三の丸にあった披雲閣は現披雲閣の建坪[570坪余 / 1887平米]の二倍あったという)。そこで目に入ったのは、ずいぶん大きな手水鉢であった。連れ合いが側に立つと、彼の背丈(175cm)よりさらに丈が高い。重さも、10トンはあるだろうと連れ合いは言う。上部には、これまた、えらく柄の長い柄杓が伏せてあり、私たちには、たいそう扱いにくく思えるのだった。しばらく他愛ない手水鉢と柄杓の話に興じた後、月見櫓の方にまわるが、このあたりから空模様があやしくなり、ぽつりぽつりと雨が落ちてきた。折しも、紀伊半島にひどい豪雨災害をもたらした台風12号一過。晴れていたかと思うと一瞬雲の蔽う不安定な天候だったが、この時は驟雨となった。傘は持っていたが、披雲閣の車寄せまで駆けて行き、雨宿りする。若い男性がひとり、私たちの後から駆け込んできた。床几に腰掛け、三人が三人、黙って雨の止むのを待った。私は鉢の睡蓮に降りかかる雨粒を見ていた。聞くと、連れ合いも睡蓮を見ていたと言う。
もうひとつの "大岩成樹" 。
一粒の松の実、もし岩の亀裂に落ちずは.........。
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雲が去り、青空が見え始めたので、桜御門に向かう。石垣に囲まれた矩形の地(枡形)に立つと、にわかに閉塞感が襲い、勢いを削がれた足軽集団の一人になった心地がしたのはおもしろかった。旭橋の袂から外を覗き、艮櫓、桜の馬場、再び桜御門を経て、左手に天守閣跡・鞘橋等を見ながらゆっくり歩を進め、内苑御庭の隅にあった四阿に腰を下ろす。老松の深い緑を眺めていると、スイッと目の前を過ぎるものがある。黄トンボだ。目を上げると、ハゼの葉の一叢が色づき始め、周囲の木々の緑をいっそう濃くしている。小柄な若い男性がひとり、地図を片手に、大飛び石を飛ぶように大股で通っていった。「意外に、ここはひとり旅の若い男が来るんやなあ」と連れ合いが呟く。そう言えば、この日、女性の入園者には終ぞ会わなかった。雨宿りの若い男性もひとりだったし、艮櫓の手前ですれ違ったのも単身の若い男性だった。
しばらく四阿に憩い、玉藻公園を後にする。
15時30分少し前、JR高松駅構内端の「ワープ旅行」高松支店前で点呼を受け、送迎バスに乗り込む。ほぼ満員。途中、再びやってきた驟雨が勢いよく車の窓を叩くが、程なく雨はあがった。車はフラットな広い道路から脇道に入り、どんどん坂を上っていく。高松市と坂出市の境界を縫うように走っているらしい。左手上方に見える鉄塔あたりまで行くのだという。
乗車時間、約30分。坂出や丸亀方面、大槌島や小槌島、さらに瀬戸大橋の遠望できる高台 "五色台" に着いた。
五色台は、坂出港の東で槌戸瀬戸にせり出した溶岩台地である。この台地には幾つかの峰があるのだが、その中の五つの峰に、紅峰(赤峰?)・黄の峰・黒峰・青峰・白峰と色の名が付けられている。弘法大師が唐へ渡るに際し、航海の無事を祈るために当地を訪れ、五つの峰に五智如来の色別に即して名を付けた由。
標高400mの地点に建つ休暇村讃岐五色台の建物は、鉄筋5階建て。総客室数66室(和室62 / 洋室4)。宿泊定員246名(308名とも)。1995年に改装されている。
いつものとおり、チェックインの手続きを済ませ、部屋に旅装を解いて、すぐにお風呂へ。
広々とした浴場は、素っ気ないほどシンプルだが、さっぱりとしていて清潔。気に入った! 湯船には備長炭が沈められていて、お湯のピリピリ感がない。
"展望風呂だ" といっても、たいていの浴場の窓は湯気にくもって、何も見えない。だからといって、窓を開け放つわけにもいかず、がっかりするのがオチだが、当展望大浴場の、瀬戸の内海に向かって大きくとられた窓にはくもりがなく、瀬戸大橋が一望できた。絶景かな! お風呂で五右衛門もないが、すばらしい眺めの、印象に残るいいお風呂だった。
この日の夕食には、オリーブ牛の鉄板焼きをプラスしてある。
オリーブ牛とは、オリーブを搾った後の果実を与えて飼育した讃岐牛のことで、香川県の新ブランドだそうだ。オリーブ栽培は、日本では小豆島が発祥の地である。オリーブを与えられ育てられた讃岐牛の肉は、おいしさ、やわらかさが増し、後味がさっぱりしているという。
夕食会場に足を踏み入れる。
レストランも海に向かって大きく窓が取られ、瀬戸の夕陽が楽しめるようになっている。テーブルの間隔にも余裕があり、ゆったりした気分で食事が摂れそうで、うれしい。
「いらっしゃいませ」という、セーブされた、明るくもきっぱりとした声に耳が止まる。いつもは聞き流してしまう挨拶だが、気持ちよく迎えられたと思える、爽やかな声に惹きつけられた。
案内された席に着き、食事を楽しむ。
ただ、讃岐ワインの銘柄が「遍路」というのには、ちょっと"躓いた"。遍路は、今では肯定的で明るい観光的側面ばかりが強調されているが、抜き差しならぬ情況で苛酷な遍路をした人々のあったことを思うと、少々複雑な気持ちになった。
オリーブ牛は、確かに柔らかくて美味、胃にもたれることもなかった。
夕陽が落ち、夕闇の迫る頃には、多くの人々が食事会場に参集。その間にも、耳に爽やかな声の主は、あちこちに目配りをしつつ、きびきびとした動作でくるくるとたち働いて無駄が無い。連れ合いとの会話の合間、彼女の動きにふと目が行った時、厨房に入ろうとして身を翻した彼女の手から、スルリとトレイが滑り落ちた。さっとトレイを拾い上げ「失礼しました」と言って顔を上げた彼女と、一瞬目が合った。互いに微笑み交わしたのだったが、俊敏な彼女の動作は爽快でさえあった。
私たちの宿泊した部屋は洋室だったが、"五色台"のベッドは私たちには快適だった。和洋折衷というべきか、上部シーツをベッドに挟み込んで、所謂ベッドメーキングしたものではなく、ベッドと同じサイズくらいの夏用掛け布団が乗せてあったのだ。休暇村を巡り始めて、初めて出合うベッドである。これは私たちにとって使い勝手がよく、我が家のベッドに近い寝心地で、気持ちよく眠れた。
前日の不安定な天候とはうって変わり、青空の広がる明るい朝が明けた。
朝食を済ませ、部屋に戻って、扉のノブに掃除不要札を掛ける。大人二人の部屋にそれほど埃が溜まるわけでもなし、また、毎夜シーツ交換を必要とするような年齢も過ぎた。歯ブラシ・櫛・髭剃り等々の類は持参している。浴衣も、連れ合いは着用するが、予備は部屋に備えられており、替えを願う必要もない。私は部屋着やパジャマは持参しているので、ほとんどの場合、浴衣を着ることはない。したがって、部屋の "掃除" は不要というわけである。
この掃除不要札を掛けておくと、クリーンスタッフは部屋に立ち入らないことになっているので、たいてい、バスタオル・洗面所用手ふきタオル・替えの浴衣・歯ブラシ・お茶菓子などが、━━休暇村によって異なるが━━透明のビニール袋や紙の手提げ袋に入れられて、ノブに掛けられていたり、ドアの傍に立てかけられていたり、ドアの外に小さな台をセットして、その上に置いてあったりする。
二連泊ばかりの私たちにとっては、ほとんどのものが交換不要なので、その中から、そっと洗面所用手ふきタオルとお茶菓子を取り出し、その他のものは使っていないことが分かるように、クローゼットの隅に立てかけておくようにしている。
ただ、冷水の交換依頼には気を遣う。いつのことだったか、到着時にフロントで二日目の冷水について依頼しておいた。そして二日目、どこに行って帰ってきたのだったか、最早忘れてしまったが、見ると、ドアの前の "地べた" にぽつんと満水の冷水ポットが置かれていた。地べたはちょっとね........と、その時、思ったことが記憶にある。一度は、フロントに電話したことで、フロントの若い女性スタッフを "走らせ" てしまった。ひどく気ずつなかった。
今回は、施設周辺の散策に出かけるだけだったので、10時ごろ、冷水ポットを持って出て、近くの部屋で作業中の若い男性クリーンスタッフに、新しい冷水をお願いできないか尋ねてみた。そのスタッフはとても誠実そうな人で、気持ちよく依頼に応じ、早速、氷と冷たい水のいっぱい入ったポットと交換してくださった。
フロントで周辺の簡単な地図をもらい、駐車場端の木製デッキから小径に下りて、大回りの径を辿り、ビジターセンターに向かう。途中、小暗い木立の中で、引率されて自然観察に来ていた小学生の一団に出合う。ひとかたまりになって、何か説明を聞いているところだった。この年頃にはちょうどいいフィールドのようだ。「こんにちは」と声をかけ、彼らの横をすり抜ける。台風で大小の枯れ枝がひどく散乱しているかと思ったが、それほどでもなかった。木製スロープを上がると駐車場で、小学生が乗ってきたと思われるバスが止まっていた。舗装道路の向かいの建物が、瀬戸内海国立公園五色台ビジターセンターである。入り口には、松ぼっくりで作られたおとなの背丈ほどもある「トトロ」が立っていた。思わず傘をさして横に立とうかと思ったくらいである。
♪トットロ トトロ トットロ♪。
"月夜の晩にはオカリナふくかな"
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センターの展示ホールに入り、五色台遊歩道情報、五色台全体を撮影した航空写真、ネイチャー・ライブラリー、環境問題についての企画展示コーナー等々を見て回る。中でもクラフトコーナーには、とてもシロウトが趣味で作ったとは思えない優れた作品が展示されていて、目を見張った。案内カウンターで頒けていただけないか、尋ねてみるが、売り物ではないので、ということだった。
センターを出ようと、カウンターの前にさしかかった時、先ほどの方が「お孫さんにどうぞ」と小さな竹笛を二つ持って出てきてくださる。「お孫さんに」ということばに虚を衝かれ、「えっ」と声を発しそうになったが、かろうじて抑えた。私たちもそんな年齢になっていたのだ........。外に出て、二つの竹笛を吹いてみると、それぞれ異なる音が出た。小さな子どもが喜びそうな笛だった。まずは私が月夜の晩に吹いてみよう.......。
オートキャンプ場を縦断して、タンベ池に沿う道をとり、ふれあい広場(?)を経由して、後は道なりに休暇村に戻る。小1時間の逍遙だった。
休暇村レストランのランチタイムは11時30分からである。昼食を済ませてから部屋に上がろうと、ラウンジのソファにかけて時間の来るのを待った。その間、ちょっと彼の傍を離れ、お土産物を見て戻ると、彼が満面に笑みを湛え、休暇村で初めての経験をした、と言う。喫茶コーナーの若い女性スタッフに、遊歩道は台風で荒れていませんでした?、と話しかけられたというのだ。「特別何もない時に、休暇村スタッフに話しかけられるなんて初めてだよ。感じのいい人だったぞ」と楽しげである。喫茶コーナーに、その彼女の姿があった。お昼は目前だったが、蜂蜜ソフトを注文して楽しく話す。柔らかな笑顔が印象に残る、心根の愛らしそうな人だった。
ランチタイムになろうかというころ、「お昼に鯛茶漬けはいかがですか」と周囲にアピールしながら、写真付きメニューの立て看板を持って来られたのは、かの爽やかな声の持ち主である(「林田さん」と名札で知る)。この時もまた、互いに目が合ってニコッ。「鯛茶漬けとサーモン丼とどちらが美味しいですか」と尋ねると、ちょっと悪戯っぽく「どちらも美味しいですよ」と。そうだろう、そうだろう。
ラウンジ奥の窓際、食事スペースに席を移す。彼は迷わず鯛茶漬けを、私はサーモン丼を注文して、お昼を済ませた。
食事をしながら窓の外を見ていると、車でやって来て、パーキング周辺のビューポイントから眺望を楽しんだ後、昼食に来る人がけっこうあった。
白雲と瀬戸大橋と多島の海と。
"お〜い、雲よ" と呼びかけて、小さく手を振ってみる。
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部屋に戻って一息ついた後、陽光の中でお風呂を使って、部屋にくつろぎ、夕食までそれぞれ本を読んで過ごした。
この日の夕食の「海鮮宝楽焼き」は美味しかった。
先附けに始まり、クロソイ・サヨリ・エビ・ハマチ・タイのお造りも、カジキマグロの大トロしゃぶしゃぶも、それぞれ「ネタ」が新鮮で美味しかったが、「宝楽焼き」は、ネタの新鮮さもさることながら、魚の切り身も絶妙の大きさ、火の通し加減も最高。結果、それぞれのネタがぷっくりと "ジューシー" で "旨味" が引き出されている。「これは旨い!」と、連れ合いがめずらしく声をあげた。
心もお腹も満ち足りて、それ以上は入らなかったので、ラウンジに用意されたデザートは辞退して、部屋に戻る。
"五色台" では、思いの外、気持ちのいい人たちに出会えて、幸いだった。
休暇村も20箇所以上巡ってくると、建物や内部施設、部屋、周囲の散策路等々が似たり寄ったりの造作であるだけに、細部はほとんど思い出せなくなっている(年齢の所為もあろう)。しかし、快い出会いや場面などは、背景をも含め、その状況をつぶさに思い出すことができる。今回宿泊したこの部屋は、やがて思い出せなくなっても、クリーンスタッフの青年やラウンジで話した若い女性スタッフ、そして、林田さんのことは忘れないだろうな、と思いながら、寝に就いた。
翌朝も晴れ。
この日はJR予讃線で、東予の中心、壬生川に向かうことになっている。四国のもう一つの休暇村、瀬戸内東予を訪ねるためだ。
9時30分発JR高松駅行き送迎バスは、途中、四国霊場第八十一番札所白峰寺に立ち寄り、門前で男性を降ろす。
白峰寺は、五色台の最も西、標高400mの白峰にある。青峰には第八十二番札所の根香寺があり、骨休めの旅とは言いながら、休暇村に近いこれらの寺に、行ってみるか、などと言い合ったりしていたが、そのうち遍路に出向くのならばと、今回は訪ねず終いとなった。
数年前から連れ合いは「もう少し歳をとったら、遍路に出るか」と言っている。かつて、ハンセン病等の病を得て郷里に住めなくなった人々が、人目を避けて歩いた道を地図に落とそうというのである。潤沢な時間と体力とsome money の三つが揃えばの話だが、すべてを揃えるのはなかなかに難しい。実現の可否は不明である。
高松駅始発の特急列車自由席は、当駅で私たちが乗車した時には、ほとんどが空席だったが、駅に止まる度に乗客が増え、やがて満席となった。
伊予西条を過ぎたあたりだったか、左車窓に石鎚を見る。この時、石鎚も台風12号による土砂崩れで登山できなくなっていた。紀伊半島に甚大な土砂災害をもたらした台風12号は四国に上陸したのだった。
その後、登山道がいつ復旧したか、寡聞にして知らない。
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