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back.gif休暇村 讃岐五色台

休暇村あっちこっち

休暇村 瀬戸内東予






[東予は 壬生川へ]

 12時26分、壬生川駅に降り立つ。

 JR四国の幹線予讃線の壬生川駅には、この地に旧東予市の市庁舎が落成した翌1978(昭和53)年10月より特急列車が停車するようになる。
 だが、壬生川町は市制施行の前段として、1971(昭和46)年1月三芳町と合併、東予町となった際、自治体としては消滅している。
 1972(昭和47)年、東予市が誕生した当時、この地域は隆盛期にあった。新産業都市として開発が進み、多数の工場が立地、人口も増加して、将来への期待が高まっていた。人々の夢は膨らみ、将来は愛媛県東部地方の「中核的地域になるのではないか」との”希望的観測”から、市名を「東予市」とする。原地名「壬生川(にゅうがわ)市」とするには漢字の表記が難読だという理由で、市名には採用されなかったのだそうだ。
 合併に際し、簡単に地名が替えられていくが、市や町にもアイデンティティというものがある。人がアイデンティティの喪失によって深刻なダメージを受けるように、市や町も名を失い、アイデンティティを失うことによって「疲弊」していくことは十分に考えられる。
 「壬生川」は東予町となり、市となって、さらには行政力を高め、近隣の都市に伍していくためにと、2004(平成16)年には東予市という名も捨て、西条市と合併。ますます存在感を希薄にしているかに見える。そう遠くない将来、壬生川駅には特急列車の停車しなくなる日がくるだろう。経済の論理はシビアだ。


 駅舎を出る。
 壬生川では、喜左衛門狸が祀られているという大氣味神社と、伊予の豪族河野氏の分国支配のもとで築かれた鷺森城の趾(鷺森神社)を、そして、知名度はないが、森岡神社なる神社を訪ねたいと思っていたので、まずそれらの所在を確かめる必要があった。
 駅前は整備されてはいるものの、営業中の店舗はといえば、駅舎のすぐそばに真新しい小さなベーカリーが一軒あるばかりだ。
 見ると、そのベーカリーの背後というか、すぐ隣に公共の施設らしい建物がある。入ってみたが、誰もいない。物産の展示コーナー手前に、パンフレットの並べられた一画が目に入ったので、近辺の観光イラストマップをはじめ、役に立ちそうなパンフレットを数点選び、奥の方に声をかけるが、やはり応答がない。仕方なく「もらっていきます」と、大きな声で断って外に出た。
 連れ合いと、それらのパンフレットを片端から見てみたが、私たちの訪ねようとする場所の記載はない。お腹も空いていたので、パンを買うついでに尋ねてみることにして、小さなベーカリーに入る。店内には、意外にもガラスの壁面にカウンターが設けられ、数脚の椅子が用意されていて、購入したパンが食べられるようになっていた。飲み物はコーヒのみ。サンドイッチを買い、コーヒを注文して昼食を済ませた。お店の女性に、大氣味神社の所在について尋ねると、気軽に教えてくださる。だが、鷺森城趾、または鷺森神社は知らないとのこと。

 まずは大氣味神社に向かい、鷺森城趾(鷺森神社)については、その辺りで尋ねることにして、駅前を後にする。
 教えられたとおりに進んでいくと、こんもりとした木立が民家の屋根越しに見えた。多分、目指すはあの木立のあたりにちがいないと、なおも進むと、瓦葺き屋根のあまり大きくもない門(四脚門だったか.......)の前に出た。狛犬一対と「大氣味神社」と彫られた石柱が立っている。大氣味神社は鶴岡八幡神社の境内摂社であるから、神社本殿鶴岡八幡の鳥居のある方が正面だとすると、こちらは裏神門ということか。

 ”喜左衛門狸”というのは、江戸時代は宝永のころ(元禄から宝永にかけての1700年代初頭は元禄地震や宝永地震、富士山の大噴火など、地震の活動期にあり、災害の多発していた時代であった)、鶴岡八幡神社境内の「数百年を経た大樹の空洞」に棲んでいたと伝えられる老狸のことである。

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 賽銭箱の前の狸像。
 ”喜左衛門殿、お主、何に化けなさる”。
 

 この老狸、『多賀の氏神さま』という、大氣味神社に置かれていたパンフレットには「自然に神通力を会得しよく化け、或る時は人に又物にと変幻自在、その術は巧妙であった。ある時瓦師をだましたのがもとで捕らえられ窯に投げ込まれ焼き殺されてしまった。ところがその後悪疫が流行ったり、火つけをする者がでたり、盗人が横行したり禍がしばしば起きた。里人は、これは老狸の祟りと恐れ、これを鎮めるため神号を喜野明神として祀って来た。以来大氣味神社の眷属(神のおつかい)として七大誓願(五穀豊穣 家内安全 無病息災 商売繁盛 交通安全 学業成就 男女和合)を立て人々を救済し、大氣味神社の神威を高めることとなった」とある。

 上記パンフレットと一緒に置いてあったA4判両面刷りの「大気味神社と喜左衛門狸」と書かれた薄緑色用紙の裏面に、宮司白として”喜左衛門と屋島の禿狸のおはなし”が記されている。日付はない。
  その”おはなし”はこうだ。
 「むかし、このお社の森に、それは大きい木がありました。その木の穴を住みかとする喜左衛門という古い狸がいました。この狸は、神通力をそなえて自由自在に化け、里人を感心させていました。讃岐の屋島に住む禿狸とともに大変名高い狸でした。
 ある日のこと、喜左衛門は狸道を通って屋島へやってきました。そこで禿狸と化け競べをすることになりました。まず禿狸は、屋島に伝わる源平合戦絵巻を、それはみごとに化けてみせました。赤旗白旗なびかせた鎧武者、馬のいななきも勇ましく、源氏と平家の戦いをみせました。あまりのすばらしさに喜左衛門狸も舌を巻いてみほれました。突然、目の前の景色がかき消えて、禿狸がにこにこしながら姿を現わし「喜左衛門殿、いかがでしたかナ」と話しかけます。喜左衛門は「さすが禿狸先生、みごとな出来ばえでした」と。禿狸は満足げに「こんどはお前の番だ」ということで、喜左衛門はちょっと思案したのち、そうだ、あと少したつと紀州の殿様のお国入りがある、これにしようと思いつきました。喜左衛門は「それでは、わしは紀州の殿様のお国入りの大名行列をお目にかけよう。八月十五日満月の夜、紀州街道の松のもとで待っていて欲しい。お駕籠に乗った殿様にわしは化けよう。もしよく出来ていたら、「喜左、よう化けたぞよ。」と声をかけてくれと約束しました。
 禿狸は、約束の日が来たので海を渡って紀州へ出かけ、街道の手ごろな松の陰に腰をおろして行列を待ちました。今か今かと思っているうちに、下に下にのかけ声も物々しく大名行列が来ます。禿狸は喜左衛門の言った通りの行列でしたから、大いに感心し、お駕籠が目の前まで来た時に、ついとお駕籠の前にかけ寄って「おい喜左、上出来だ。」と賞めそやしました。ところが警護の侍が刀を抜いて「無礼者」とうちかゝりました。禿狸はおどろきました。這々の体でしっぽをからげて屋島へ逃げ帰りました。
 それもそのはず、これは本物の紀州の殿様の行列であったのです。喜左衛門狸の知恵には、さすがの禿狸も一本をとられてしまいました」というのだ。
 【注】喜左衛門と屋島の禿狸との化けくらべについては、『伊予路の伝説・狸
    の巻』(合田正良 新居浜郷土文化研究会 1951)や『東予市誌』(東予市
    誌編纂委員会 東予市 1987)にも記載があるようだが、直接当たって
    いないので、ここでは触れない。

 柳田國男の「日本の昔話」(昭和5年 アルス社より『日本昔話集』として刊行)所収 ”芝右衛門狸”(『定本柳田國男集』第二十六巻 筑摩書房 昭和54年4月 pp.54〜55)の筋立てそのままだ。
 もっとも、柳田の「昔話」に登場する阿波の禿狸は、播州舞子の浜において、大名行列の伴の武士の槍にかかって死んでしまうのだが。

 さらに、柳田の「昔話」より以前に採録された「袋谷の藤兵衛」という話がある。四国第一の化け上手と、高慢になった狸が、中国地方の狐の総大将と化けくらべをし、あわよくば中国地方も自分の領分にしようと企てる話だ。
 「美馬郡岩倉村字西田上の山際に袋谷という谷がある。樹木がいやが上にも生い茂って、昼でも暗いような所である。昔ここに名を藤兵衛と呼ばれる古狸が住んでいた。化けることが非常に上手で、あるいは武士に化けたり、あるいは美人に化けたり、又ある時は旅僧の姿に化けたりなどして、近在を徘徊しては村民を悩ましていたが、何しろ化けるのが巧みなので、人々もどうすることも出来なかった。
 (中略:高慢になった狸の藤兵衛は四国の対岸、中国地方に渡り、狐に化けくらべを挑む)
........化けくらべの相談が出来て、まず狐の方が先に化けて見せる事になった。そこで狐がいうには、
「お前は四国の狸じゃそうなが、四国にはろくな大名が無いから、大名行列の立派なものを見たことがなかろう。中国にいると大名行列の立派なのが始終見られる。中でも毛利公の行列などは実に威勢なものじゃ。わしらの仲間では嫁入りの行列がいちばんの得手になっているのじゃが、今日は御客さんの眼の御馳走に、ひとつ毛利公の行列の真似をして見せてやろう。しかしこれには手も大勢いるし、道具を揃えるのにも暇がいる。もう夜も更けているから、今からすぐ用意にかかっても、行列の始まるのはいずれ明日の早朝になるだろう。お前は向こうの松の木の辺で待っていて見てくれい」といって、狐はどこかへ姿を隠してしまった。
 藤兵衛は、くだんの松の木の下で一夜を明かして、いよいよ約束の朝となったので、自分も浪人風の武士の姿に化けて、行列の来るのを今か今かと待っていた。
 しばらくすると、果たして向こうの町はずれから一隊の行列が繰り出して来る。だんだん近づいて来るのを見ると、先払いの武士を首として、定紋つきの挟み箱から毛槍・索馬・弓・鉄砲と、型のごとくに練って来る。列の中程には十数名の武士に警護されて、殿様の御駕籠が粛々として進んで来る。その鮮やかさ、真に迫って狐の仕業とも思われない。さすがの藤兵衛も感心してしまって、思わず横手を拍って、
「やあ、狐殿お手なみあっぱれ!」と声高らかに褒めたてた。すると、
「それ無礼者、許すな!」と、四、五名の武士がばらばらと飛んで来て、浪人姿の藤兵衛を捩じ伏せた。藤兵衛は驚いて、
「やあ、もうよしよし、無礼者を咎めるところまで真似をせいでも可かろう。狐殿、俺は藤兵衛じゃ。お手なみは分かった分かった」というと、かの武士らは、捩じあげている手を緩めるかと思いの外、
「何をたわけ者めが!」と、口々に罵りながら、たちまち藤兵衛を雁字搦みにふん縛ってしまった。藤兵衛はいよいよあわてて悲鳴をあげる途端に、狸の尻尾を現したので、
「それ狸めじゃ」といって、気の早い一人の武士は、たちまち刀を抜いて藤兵衛の首を打ち落としてしまった。
 藤兵衛が感心した大名の行列は、実はほんとうの毛利公の行列であったのである。狐はその日の早朝に毛利公の行列が通ることを知っていたので、これを利用して藤兵衛を騙したのである。そうしてその狐が中国の総大将でも何でもなかったことももちろんである」というものだ(『阿波の狸の話』笠井新也著 中央公論新社 2009年 pp.143〜147)。
 【注】中央公論新社版は、昭和2年、郷土研究社より刊行された『阿波の狸の
    話』の復刻である。本書出版時の、著者自身による”はしがき”には「昭
    和元年十二月下旬」とある。

 さて、柳田の「日本の昔話」に登場する”芝右衛門”は淡路の狸であるが、上記『阿波の狸の話』に登場する”柴右衛門”は”柴谷の柴右衛門”という(前掲書 pp.151 〜153)。
 阿波国板野郡瀬戸村大字堂ノ浦日出(ひうで)の、柴谷という谷で、日出明神の申し子として生まれた柴右衛門は「生まれつき怜悧でかつ強胆であったので、間もなく仲間から推されてこの界隈の狸の頭」となる。彼は力を得ても非道なことや悪戯はせず、むしろ義侠心に富んでいた。この柴右衛門が、讃岐国八島の禿狸の末流、津田の松兵衛という悪い古狸を懲らしめるため、単身津田の松原に出かけて行って、化けくらべを申し込む。「化け自慢の松兵衛はすぐに承知した。そうして相談の結果、松兵衛がさきに化けて見せることになって、彼は得意の八島合戦の芝居を演じた。さすが禿狸の末流であるだけにその演じるところは真に迫って、源平の戦をさながらに見る心地がした。しかし柴右衛門はわざと少しも感心しないような様子をしてお前の手腕はそんなものかい、俺は八島合戦なんてそんな古臭いものはやらん、俺は現在の高松の殿様の行列をやる、お前は向こうの街道の松の木の下で見ておれといって姿を隠した。こいつなかなか法螺を吹くが、実際に高松侯の行列がやれれば偉いものだと、松兵衛は道端の松の木に上って待っていると、程なく一隊の行列が静々と練って来る。なるほど高松侯の行列にそっくりである。さすがの松兵衛感心して、ヤア見事見事と思わず声を上げると、ソレ狸じゃ打ち取れっという誰かの声がする。しまった、こりゃ騙されたと感づいた時には、松兵衛は既に槍持ちの槍先に貫かれていた。
 それが高松侯の行列にそっくりであるも道理、それこそ高松侯の行列そのものであったのである。
 柴右衛門はこのようにして松兵衛を亡した。そうして柴右衛門の名は阿讃の両国に鳴り響いた。
 その後、柴右衛門はあまねく天下を漫遊して、諸国の名ある狸に交じり、阿波の柴右衛門の名は日本全国に知られるに至ったという」。

 

 こうした話に登場する化けくらべで、狸のしばしば見せる”屋島の戦い”(”屋島”は『平家物語』では”八嶋”、能楽では”八島”と表記)だが、これには先行する話がある。上州館林(現群馬県館林市)の、曹洞宗青龍山茂林寺縁起だ。
 肥前国(現長崎県)平戸藩第九代藩主(1775〜1806)松浦清(号:静山)が、藩主を退き隠居した後の、文政四年11月17日(1821年12月11日)甲子の夜に起筆したとされる随筆集『甲子夜話』巻三十五の三〇に見てみよう。ただし、茂林寺七世月舟禅師の時世にあったとされる”分福茶釜”の話は、ここでは直接の関係がないので、割愛する。[ ]内は筆者注。
 「往昔茂林寺に守鶴といふ老僧あり。応永年中[応永三十三(1426)年]、開山禅師[大林正通和尚]にしたがつて館林に来り、茂林寺十世岑月禅師まで随従す。此僧有徳碩学にて又能書なり。(中略).....年月をへ、十世岑月禅師の代にいたり、或時守鶴一睡のうち手足に毛はへ、尾見えたりなど、たれとなくさゝやきければ、守鶴早くさとり、方丈に向つて曰。我開山禅師に随しより当山にあること百弐拾余年になりぬ。然るに今化縁つきてしりぞき侍る。我誠は数千載をへたる貉なり。釈尊霊就山にて説法なし給ふ会上八万の大衆のかずにつらなり、それより唐土へわたり、又日本へ来りすむこと凡八百年。開山禅師の徳にかんじ、随従せしより、今に至るまで由来の高恩言語にのべがたし。今はなごりをおしまんため、源平八嶋のたたかいを今あらはして見せ申さんと、一つの呪文をとなふるうちより、寺内たちまちまんまんたる海上となり、源氏は陸、平氏は船、両陣たがひにせめたたかふ有様、恰も寿永の陣中にあるがごとし。人々ふしぎと見るうちに、あとかたもなくきえうせぬ。又釈尊霊山会上説法のていを拝せ申さん。しかしかりの戯れごとなり、とふとしと思ひ給ふことなかれとて、又も呪文をとなふれば、庭上梢紫雲たな引、空に花ふり音楽きこえ、七宝のようらく、千しゆのせうごん、ありありと釈尊獅子の宝坐に説法あれば、あまたの御弟子羅漢たち、かふべをうなだれ聴聞のてい、今見ることのありがたさよと、皆一同にふしおがめば、守鶴今はこれまでなりと、正体をあらはし貉となりて飛さりぬ。方丈はじめ一山の僧俗、みどり子の母にわかるゝごとく、なげきしたはぬはなし。其のち神に祭り、守鶴宮とて一山の鎮守となり、今にれいげんあらたなり。(中略) 右にいふごとく守鶴むじなとなり、飛さるといへども、まことは是羅漢の化現なりといふ。実に左もあるべし。百有余年のうちの善功善行、子弟をおしへ、俗をみちびく。皆よのつねの人のよくおよぶところにあらず。とうとむべし。敬ふべし。        上州館林青竜山茂林寺」と(『甲子夜話 2』松浦静山 平凡社[東洋文庫 314] 1977年 p.365〜p.366)。

 

 数編だが、上に掲げた話を時間的に遡っていくと、話の伝播に伴って、取り込み、脚色、潤色、焼き直し等々、作り替えられていく有様や人々の心理が見えるようだ。
 もちろん、守鶴の話の種も茂林寺の縁起が初出ではない。前がある。だが、これくらいにしておこう。
 因に、「貍」が化ける話は、日本では『日本書紀』巻第二十二「豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと) 推古天皇」の条に「卅五年春二月、陸奧國有狢、化人以歌之」[三十五年春二月(きさらぎ)、陸奥国(みちのくのくに) 狢(うじな)有り、人に化(な)り 以て 歌うたふ]とあるのが、初出とされる
( cf.『日本書紀』(四) 坂本太郎他校注 岩波書店 1995年2月 p.148)。
 【注】*推古天皇「卅五年」は、627年。
    *「うじな」は "むじな" に同じ。
 言うまでもないが、「貍」の類が化ける話の "元ネタ" は、中国よりもたらされた書物にある。

 

 ただ、" li " または "mai" と発音する「狸(貍)」、『大漢和辞典』(諸橋轍次)によると、この漢字が意味するところの動物は、私たちが動物学標準和名のタヌキとして捉えている動物ではなく、"野猫" とある。だが、調べて行くと、貍を野猫やヤマネコ等と「厳密に一対一に対応させることはできない」らしい。中国における貍とは「ヤマネコを中核とするネコ的な中型哺乳類の漠然たる総称」とするのが妥当のようだ。では、中国でタヌキを指す文字は何かといえば「貉」だということで、「現在でもタヌキの動物学標準中国名は貉」だという。
 ところが、貉(he, hao, mo)は、上記『大漢和辞典』には "むじな" とある。
 では、"むじな" とは何か。『日本国語大辞典』(小学館)には「あなぐま(穴熊)の異名。たぬき(狸)の誤称」とある。タヌキの毛色がアナグマに似て、混同されやすいのだそうだ。イタチ科の哺乳類である "アナグマ"が、地方によってはイヌ科の "タヌキ" と混同され、 "むじな" と言われる。
 アナグマは、あなほり・ささぐま・まみ・みだぬき・むじな、とも称し、
 タヌキは、むじな・まみ・たたけ(たたげ)・たのき、とも称するようだ。
 "まみ(猯)" は、これもアナグマ、タヌキの類らしいが、『邦訳日葡辞典』には「山犬に似た獣の一種」と出ている。

 そもそもヤマネコの棲息しなかった日本において、家ネコが渡来し、野生化したネコが生じてからも、日本人は「貍」の概念を形作るのにかなりの時間を要している。だが、やがて意味の揺れの中から、タヌキとアナグマの混在する形で貍のイメージを固め、「狸(貍)」はタヌキとなっていく。


 喜左衛門狸はタヌキだったのか、アナグマだったのか、あるいは、狸と称する遊行の宗教者だったか........。
 境内摂社だというので、私は、小さなお社があるくらいに思っていたが、"喜左衛門" が眷属・喜野明神として祀られる大氣味神社社殿は、本殿の鶴岡八幡神社社殿に並ぶくらいの大きさがあり、立派だった。見方によっては本殿より立派かもしれない。
 上記『多賀の氏神さま』に、大氣味神社の由緒沿革を見ると、「元禄から宝永のころ、この地方一帯に虫害や風水害が相次いでおこり作物が稔らない。ついに神明の助けを得ようと五穀の神 大氣都姫をはじめ諸神を境内の出雲神祠に勧請合祀し豊作を祈願したところ五穀が豊かに稔り、里人は神徳に感謝し愈々崇めた。宝永二年(1705)のことである」と記されている。当初、喜埜社または喜の宮と称された大氣味神社は、当地はもとより中予をはじめ東予地区一円から崇敬されていたらしい。
 四国が行者や遊行の僧らの修行の場であったことを思えば、喜埜社の噂を聞いた彼らが当地に立ち寄り、さらに、各地の「貍(狸)の話」を伝えたであろうことは容易に想像できる。
 「喜左衛門講」という講も存在したらしい(『伊予の狸話』玉井 葵著 創風社出版 2004年10月 pp.113〜114)ので、あるいは、当初は "流行神" 的要素があったかもしれない。しかし、この大氣味神社、昭和8年4月に現在の神殿・弊拝殿に造り替えられていることから考えると、長きにわたって土地の人々から尊崇され、大切にされてきたのでもあろう。


 社殿内部のいろいろな狸像を写真におさめ、外に出ると、1台の軽トラックが止まっていた。傍らに年輩の男性がおられたので、もしやご神職ではと尋ねると、氏子だとのこと。拝殿に置かれた張り子の大狸は、この方が何年か前の "狸祭り" (平成8年以来、毎年5月の第三日曜日に開催されるとか)に際して制作されたものだった。
 この方に鷺森神社(鷺森城趾)の所在を教えていただく。

 教えられたとおりの道を辿り、鷺森神社へ。
 9月初旬のこの日はまだまだ暑く、国道196号線沿いの日陰のない道を歩いていると、汗が噴き出す。
 鷺森神社もまた、大楠の梢が目印になる。
 訪れる前は巨木の繁茂する鬱蒼とした森を思い描いていたが、行き着いてみて、その「空虚さ」に、"神さん、ほんとにここに居たはるのやろか、往んでしまわはったのやないやろか" という思いに駆られる。社殿は立派だが、社務所があるようにもなく、神職が常駐しているようにもない。
 境内には「松山藩年貢米倉庫跡」等々の石碑もあったが、何より参道に置かれた一対の鉄錆色に塗られた砲弾形のオブジェが眼を引いた。戦没者の忠魂慰霊のためのものだろうが、刻銘などは見えない。

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 参道の砲弾形オブジェと楠。
 城跡は3分の1が神域として残るのみ。
 

 傍に、西条市教育委員会による「鷺の森神社の楠」なる説明板があった。そこには、境内の大楠は「市指定文化財 天然記念物 昭和58年7月18日指定」とあり、「大きいものでは樹高25m、胸高幹周6.1m、樹齢600年余である。多数群生していたが、国道の改修や台風の被害で半減した(現在は5本が保存指定)。伊予守護職河野通盛(通有の七男)がこの地に伊勢神宮を勧請したとき、楠の若木を植樹した」と記されていた。さらに、付言として「この地は鷺の森城跡である」とあった。

 鷺森城、あるいは鷺森神社にまつわる史実について、典拠を明示した信頼に足る確かな資料に当たっていないので真偽のほどは不明だが、知り得た情報からおおよそのところをまとめてみると以下のようになる。
 そもそも鷺森城のあったこの辺りは、数本の川が海に流れ入る湿地帯で、"入り川" あるいは "入川(ニフかは→にゅうがわ)" と呼ばれていたらしい。ところが、延喜(901〜923)のころに、川の上流で丹が採取されたのを機に、「丹生川(にふかは→にゅうがわ)」に改められたという。
 この点については、私見ながら、土地の人々は、延喜以前から「丹」の存在を把握しており、"丹土を産出する地" という意の語「ニフ」に"入"の字を充てていただけで、後に「丹生」と表記するようになったまでではないかと考える。
 その後、伊予の豪族河野氏の九代、伊予守護に補任された河野通盛が、文和元(1352)年にこの地を埋め立て、伊勢神宮を勧請、奉祀した際、地名の表記が天照大神の妹、丹生都比賣を祀る「丹生川上神」社と同じでは畏れ多いというので、文和元年が壬辰(みずのえたつ)の年であったことから、「丹(ni)」の文字を「壬(nin)」の字に差し替え、壬生川としたという。地名「壬生川」の誕生である。
 ところで、この「壬生川」を難読とするのはなに故か。
 上に示したように「壬」の音は "ニン" 、それに「生」の訓読みの "う" が続く。すなわち、nin+u→nin・u (ニンう)となる。ここで "n" が脱落。歴史的仮名遣いにおいては、iu は yu となることから、nyu (ニュウ)と発音するのは別段奇異なことではない。
 河野通盛らは、壬生川を "にゅうがわ" と読むに、難読などとはゆめ思わず、また、そうした理由で、壬生川という地名が、後に退けられることになろうなどとは思いもよらなかったにちがいない。
 難読とされるのは、ニブが訛ってミブとなった「壬生」が、平安京大内裏の大路の名や、寺の名、他、各地の地名となって定着したため、「壬生はミブと読むのが普通だ」とする考えから生じた誤解だろうと私は思っている。

 

 伊勢神宮勧請の際に植えられた楠に、やがて鷺が多く棲むようになり、人は神宮の森を"鷺森"と呼ぶようになる。
 さらに時代が下り、応永元(1394)年、河野氏十三代、通之の時、讃岐の細川氏が東予の豪族たちと気脈を通じて攻め入るのを防ぐため、神領を没収して、この地に城(鷺森城)を築く。防禦の任には一族の桑原通興があたった。
 桑原氏は一時期 "壬生川氏" を名乗り、鷺森城を居城に代々道前の地を治めていたが、剣山城主黒川通博および金子山城主金子元宅の攻撃にあった際、毛利氏派遣の安芸よりの援軍によって落城を免れたことから、神恩感謝のため、神官矢野義時を厳島神社に代参させて、分霊を城内に勧請奉斎し、管弦祭をとり行った。これが鷺森神社の始めとされる。
 鷺森城は、その後、天正十三(1585)年、小早川隆景の攻撃を受けて落城。
 伊予守護河野氏も、程なくして四国征討の秀吉に降り、その後、滅亡する。

 

 鷺森神社を後に、護岸を巡らせた川沿いの道を国道に出る。左に折れるとすぐに、鷺森神社境内で見た楠より、さらに太くて樹高があるかに見える楠があり、その巨樹の根方に小さなお社があった。森岡神社だ。鷺森城城主の墓所のあった所だとされる。お社ま近に寄って手を合わせ、身体を反らせて楠を見上げると、濃い緑が頭上に覆いかぶさるようだった。神社というにはあまりに狭いこのお社と巨木のすぐ側には、拡幅された国道が迫まるように走っている。
・"地方経済の発展のためにゃ文化財の何のときれいごとなど言ってられっか
 い、文化財で食えっかよ、えっ!"、というほどの本音丸出しの「国道さま」
 のお通りでがす。
・なんだかワビシイねえ。とはいうものの、領地を守るために神領を没収して
 城を築いた場所だあね。
・因果は巡る小車の.......、ってやつですかい。
・人間って奴あ、トホホだね。

 

 もと来た日なたの道を黙々と取って返し、壬生川駅正面に向うバス道に入ったあたりだったか、二人とも暑さで喉も乾いていたが、小腹も空いていたので 、洋菓子店の経営するらしい喫茶店に入る。ドアを押し開けるや、カウンター奧の席にいて店の女主人(?)と話していた三人の女性たちが、話を止めて一斉に私たちの方をふり向いた。「よそ者」の登場に、一瞬店内の空気が固まった。入り口近くの席に着いた私たちに、好奇と胡散臭さの入り交じった「視線」の注がれるのが感じられた。最近では随分と珍しくなった「よそ者」への反応だ。西部劇の酒場のシーンと同じ、仇なすかもしれない、得体の知れない部外者に対し、人間の防禦機制が動いたのだ。かつて人間はこうして自分たちを守ってきたのだったが........。
 当然、注文を取りにきた女主人(?)はニコリともしない。
 見ると、この店、あまりお客が入らないらしく、テーブル近くまでつり下げられたランプシェードの内側に蜘蛛の巣が張っている。連れ合いが「あそこにも」と目配せした天井の隅にもクモが巣をかけていた。
 時折、ひそひそとした話し声の聞こえる中で小腹を養い、外に出る。外は相変わらず暑かったが、よそ者としての居心地の悪さを振り落とし、壬生川駅を目指した。


 JR壬生川駅発、休暇村瀬戸内東予の送迎バスは、15:40 と 16:40 の2便(所要時間約15分。要予約)。
 一方、JR今治駅から河原津経由新居浜行き路線バスを利用して "瀬戸内東予" に向うという方法もあるようだが、こちらは所要時間約30分。休暇村入り口で下車し、約10分歩くことになる。
 宿泊予約の際に、私たちが迎えを願い出ておいた、JR壬生川駅発の便(15:40)までには、しばらく時間があったので、指定された「壬生川駅前バス乗り場」で待つことにする。暇に飽かせて、待ち合いの長いベンチに置かれた、A4サイズのプラスチックケースの中を覗くと、"壬生川発" とするビラが入っており、相撲の番付に擬した「四国狸大番付」(喜左衛門狸の会発行)が掲載されていた。
 時計を見ると、15時も40分近くなっている。それにしても、ここの休暇村のバスは遅いね、と話していると、ベーカリーの女性がパンを焼く姿のまま駆けてきてくださり、「休暇村の車、来てますよ。店の中から見ていると、バス停に二人の姿が見えたので、乗り遅れると面倒だろうと思って」と教えてくださったのだ。予約時に指示された場所で待っていた私たちは "狸につままれた" ような思いで「どこにですか」と尋ねると、駅の前のパーキングだとのこと。お店をあけてきたからと言って、大急ぎで取って返される女性にお礼を言って、私たちも大慌てで荷物を持って駅の前に走る。サンドイッチを買った際、宿泊先を尋ねられ、休暇村にと答えたのを覚えていてくださったのだ。
 「××の○○です。待つ場所が違ったみたいで、すみません」と言って、送迎バスに乗り込んだが、担当スタッフの応えはなかった。送迎案内図を確かめたが、間違いはなかったので、私たちが駅前から乗らなければ、「バス乗り場」に立ち寄ることになっていたのかもしれない。だとしても、何か一言くらい言ってもよさそうなものを、いきなり白ける。
 付記すると、四国の二つの休暇村は、他の休暇村同様、チェックインを15:00としているが、公共交通機関の利用者は、15:00にチェックインしようと思えば、歩くか、タクシーを利用する以外、方法はない(2011年9月現在)。

 休暇村瀬戸内東予は、燧灘に面した桜井海岸南端の高台(海抜60m)にある。
 建物は鉄筋5階建て(2003年に改築されているようだ)。客室 : 49室(和室39 / 洋室10室)。宿泊定員176名。

 チェックインの手続きを済ませ、部屋に荷物を置いて、いつものとおり、お風呂へ向う。陽のあるうちにお湯を使うのが私たち流。
 フロントで浴場の位置と行き方を聞いたが、ややこしい。4階の私たちに充てられた部屋からは、いったん玄関やフロントのある2階に下り、ラウンジを通り抜けて、浴場専用エレベーターかその脇にある階段で3階に上がらなければならない。面倒な造りだ。
 当休暇村のお風呂は "ひうちなだ温泉" と名付けられた、アルカリ性単純泉で、リューマチ、神経痛、不眠症、冷え性に効能があり、疲労回復効果もあるという。
 女性用の浴室は、私が入ったのは4時〜4時20分の清掃直後だったが、雑然として人も多く、とりわけ中年女性二人が大きな声で話していて、ゆったり温泉気分に浸れるような雰囲気ではなかった。"銭湯だね。やれやれ" と思いながら、身体を洗い、髪を洗って、サウナへ。サウナの中は一人。静かに横たわり、汗もしとどになるほどに時間を過ごして出てくると、まだ二人は喋っている。さっと汗を流して、外の湯船にちゃぶんと入って出てくる。

 到着が遅かったので、お風呂を上がると、夕食の5時30分までにほとんど時間がない。日頃の習いで、夕食はできるだけ早く摂り、胃を軽くして眠りに就きたいので、夕食時間は、いつも最も早い時間を指定している。
 二連泊、第一日目の夕食はバイキングで済ませた。

 私たちが宿泊した部屋のある4階は、和室の禁煙室が並ぶフロアだったが、滞在中、廊下にはタバコの臭いが充満していた。連れ合いは、ラウンジの隅に設けられた喫煙ブースの排煙装置に問題があるのではないか、と言う。いずれにせよ、部屋の中にまで臭いは入ってこなかったので、難を逃れた思いだった。


 

 翌朝。
 "骨休め" が目的であり、急ぐこともなかったが、7時に朝食を摂り、ゆっくり身支度を整えて、ドアノブに「清掃不要札」を掛け、休暇村敷地内の "自然の小径" (パンフレットによると、歩行距離:約2.5km、所要時間:約60分) を散歩しに出かける。
 白っぽい空だったが、お天気は良好。

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 木の間より彼方を望む。
 島影が霞んで見える。
 

 本館を出て、燧灘に浮かぶ島々が一望できるという最初の東屋の下まで来ると、女性たちの大きな話し声と笑い声が降ってきた。で、そこはパス。歩を進めて松林の間を抜け、テニスコートを左下に見ながら小径を辿る。砂礫の径は、タウンシューズでは滑りやすく、歩きにくいので注意を要する。木の間に海を見て、径なりに下っていくと浜辺に出た。周辺はキャンプ場のようだ。

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 九月の、誰もいない瀬戸の浜辺 。
 ”かもめ岩” から今治方面を望む。
 

 かもめ岩にしばらく遊び、浜辺に貝殻を拾いながら大崎鼻に向けて移動。内海の遥かに続く砂浜は穏やかすぎて、取り留めなさに戸惑うくらいだ。
 浸食されアーチ状になった岩のある大崎鼻から龍神社には直登できそうだったが、靴が靴だったため断念。おとなしく小径を上り返し、龍神さまにお参りし、宿舎に戻った。

 ラウンジでコーヒを飲みながら、ランチまでの時間をつぶす。
 午前の自由時間なのか、テニス部の合宿らしい大学生たちが、ラウンジやホールのあたりを、三々五々、あっちに行ったり、こっちに来たりしている。連れ合いが「最近の学生は贅沢なもんやなあ」と呟く。"リゾート合宿" というらしいが、"リゾート" と "合宿" が結びつくことの不思議を、私などは今も解せないでいる。

 レストランで昼食を摂り、部屋にくつろいだ後、大浴場へ。
 昼間ならお風呂も入浴者は少ないだろうと思ったが、やはりけっこうな数の利用者があり、落ち着いてゆったり温泉気分に浸ることはできなかなかった。ささっと入ってささっと上がる。
 男性の方の入浴者はそれほど多くなかった、とのこと。

 夕食まで、本を読んで過ごす。

 この日の夕食には「伊予牛づくし」を予約。
 ただ、茶碗蒸しも "すき焼き茶碗蒸し" なら、ご飯も "伊予牛しぐれ丼" 、汁椀も "テールスープ" 。文字どおり、先付け、サラダ、香の物以外はすべて伊予牛が使われているとのことだったので、胸焼けするのでは......という思いがちらりと頭をかすめたが、思ったようなことはなかった。伊予牛の ”みかんしゃぶしゃぶ” も、思ったほど奇抜な感じはなく、さっぱりとしたごく普通の鍋だった。
 ただ、両手付きブイヨンカップに入ったテールスープには、スープといいながらスプーンがついていなかった。和食として器を持って食せ、というサインかとも思ったが、たっぷりスープの入ったカップを、最初から両手で持ち上げて "すする" のは憚られたので、スプーンを持ってきてもらう。


 

 四国を離れる朝になる。
 休暇村発 8時40分の送迎バスで、JR壬生川駅前バス乗り場へ。
 高速バスの発車まで、ほんの少し時間があったので、ベーカリーまで駆けていって、ご親切をいただいた女性にお礼を述べ、帰途に就いた。



   

 今、手元に一枚の紙がある。
 「 "八社参りに行こう" 八社参りは春秋の社日に巡る周桑地方の古くからの行事です。いなか暮らしの真ん中に鎮守の森の八幡宮(八社の名前が列記されている)。周桑のすばらしい平野を一望に、もう一度氏神さんの良さを考えて見ませんか。毎月自分の月誕生日に近くの神社を巡り歩いて見ませんか。鎮守の森を守ろう。植えて育てよう」等々という文字が、A4用紙の左半分一面に踊っている。右半分には「八社参り順路」(地図)と距離表が記されている。八社参りの会の発行だ。鶴岡八幡神社で、鷺森神社の所在を尋ねた際、氏子の方からいただいたものである。
 これを見ながらひとり思う。
 地域は「まれびと」のためにではなく、土地の人々が自身のために、住みやすく居心地のいい場所へと守り育てていかなければ、今の時代、地域は疲弊し衰退していくばかりだと。
 ただ、"オラさのところが一番" と思える地域をつくるには、発想の転換を必要とする。「外」にばかり眼を向けるのではなく、「内」なる良きものに眼を向けることが肝要だ。その際、高年者は老いを託っていてはならない。地域では大いなる "戦力" なのだから。遥かなる浄土を目指し、前を向いて生きてもらわねば。
 誰が来なくてもいいではないか。自分たちにとって心安らぐ場所であれば。

 

 いつか再び壬生川を訪れた時、鎮守の森の鬱蒼とした木陰に鳥たちが憩い、道には季節の花々が咲き乱れ、そこここに高年者が、たわわに稔った木々の実(なぜか、私の頭の中では熟した "びっくりグミ" の実や桑の実)を、楽しそうに摘んでいる姿があればいいな.........。そして、みんなにご褒美のような少しばかりの収入があれば.........。
 桃源郷って、そんなところではないのかしら、と勝手なことを夢想している。

          
forward.gif休暇村 雲仙