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back.gif休暇村 瀬戸内東予

休暇村あっちこっち

休暇村 雲仙






[雲仙普賢岳へ]

 2011年4月中旬、 ”雲仙” に行くぞ、と連れ合いが言う。
 雲仙に行くのなら、彼は普賢岳に登るつもりでいるはず。荷物の中にハイキング用の衣服他を入れる。

 

 朝 7時30分過ぎの山陽新幹線に乗車すると、博多で長崎本線に乗り換え、諫早駅で島原鉄道バスに乗り継いでも、小浜には午後2時前に到着する。
 "休暇村雲仙" の送迎バスは、小浜発 14:30、16:10、17:20 の 3本(2011年3月現在)ということだったので、14:30を予約して家を出た。

 途中、車窓から遠望した諫早湾潮受け堤防・水門の、なんと禍々しかったことか。ムツゴロウや貝たちの無残な姿が目の先にちらつく。愚かなニンゲンの犠牲になるのはいつももの言わぬ生き物たちだ。


   

 休暇村雲仙は、地図で見ると、島原半島中央部に位置する雲仙岳から南西方向に下がった "諏訪の池"の 畔にある。小浜のバス停(観光地図などには "バスターミナル" とあるが、終着点ではない)からは、送迎バスで約15分。

 

 1974(昭和49)年オープンの "休暇村雲仙" の造りは、鉄筋3階建て。客室数44室(和室:42室 / 洋室:2室)。宿泊定員153名と冊子には記されている。2003年に改築(?)されたという情報があるが、泊まってみて、改装の誤りではないかと思っている。建物そのものが、それほど新しいようには見えない。
 浴場(女性用浴室)の天井に設けられた換気装置や、かつては観葉植物が置かれていたでもあろう浴槽脇のスペース(私の利用時には人工芝がのせてあった)などは、さながら昭和の意匠だ。47、8年前、九州への修学旅行で宿泊した旅館の浴室が思い出された。
 また、到着後、着替えを済ませ、クローゼットに衣服を掛けていた時、そばに消臭剤が置かれているのに気づく。これはどんな時に使うのだろうねと、連れ合いと話していたが、翌朝、トイレを使用した際、換気が十分でないことが判明する。なるほど、これはそういう時に使用するのか、と納得。部屋には、スペースはさほどではないものの洗面設備もあり、トイレも洗浄機能付きの新しいものだったが、改築なら、当然換気装置も計算に入れられるだろう。改装と思う所以であるが、それにしても、換気がうまくいかない事情が、何か他にあるのかもしれない。
 それに、ドアの枠とドアが、なぜかマッチしていない感じで、鍵穴が枠に近寄り気味なのだ。隣室の年輩の女性は、節電でか(?)、廊下の照明が落としてあったこともあり、薄暗がりの中で、なかなか鍵が差し込めないと苦笑しながら鍵穴を探しておられた。
 2003年になされたらしい "改装" は、客室内部が中心だったのだろう、と勝手に想像している。


 

 到着時にフロントで、翌日普賢岳に向かう予定を告げ、交通機関について尋ねると、雲仙の温泉街にある島鉄バスセンターまで送迎が可能だとのこと。
 島鉄バスセンターから仁田峠までは乗合タクシーが1日3往復運行している。その第一便(島鉄バスセンター発 9:02)に乗りたい旨、申し出て送迎を請う。乗合タクシーへの乗車希望者は、出発時刻30分前までに予約が必要となっているが、有り難いことに、これも休暇村でしてくださるという。
 帰りも、12時40分に島鉄バスセンターまで車を出してくださる由。「足」を持たない私たちにはたいそうありがたく、むろんお願いする。

 3階の和室に旅装を解き、すぐにお風呂を使ったのだが、私ひとりの静かな浴室で、髪を洗っていた時、天井の換気装置から吹き下ろすひんやりとした空気に、一瞬、大きな鳥か何かが、背をかすめて舞い降りたような気がして思わずふり向く。もちろん何もいるわけがない。昼間だからか、湯船に張られたお湯は温かった。
 当休暇村のお湯は温泉ではない。雲仙や小浜など、著名な温泉地近くにありながら、温泉が湧出していない、あるいは、引き湯できないのは、宿泊施設にとって、集客の点で、一般的には "押し" に欠け、少々気の毒な感がしなくもない。

 

 お風呂から戻った後、翌日着て出る服を揃えるなど、準備を整えてから、部屋にくつろぎ、持参の本を読んだり、テレビを見たりして、夕食までのひとときを過ごす。

 夕食会場は2階。フロントやラウンジ等のある玄関スペースの真上がレストランになっている。3階からは、ちょっと古風な手摺の、彎曲した階段を下りる。三方に窓を配したレストランは、思ったほどの広さはないが、外の木立の影を映して独特の雰囲気を醸していた。照明の明々としていなかった分、よけいにそう思えたのかもしれない。
 テーブルに着こうとして見ると、一人旅、または仕事か何かで投宿しているらしい単身の人、数人が、木立のひらけた側のテーブルで、ひとりひとり、落ち着いた雰囲気の中、静かに食事する姿があった。休暇村で、このような光景を目にしたのは初めてである。一人旅でない私にも、宿舎側の配慮がちょっとうれしい。
 私たちの夕食は「長崎味めぐり〜春〜」 "春の真鯵とうちわえび" である。「橘湾直送の新鮮な刺身は真鯵をメインにした盛合せ」、「伊勢海老よりもおいしいと云われる『うちわえび』、長崎サラダなど」、休暇村雲仙お勧めの地元食材を使ったコースだ。
 連れ合いは甲殻類を苦手とするものだが、茹でて縦に切ってあった(と記憶する) "うちわえび" を手に持って、ふんわりとした弾力のある身と、一瞬、蟹だっけ、エビだっけ、と思わせる "みそ" を、おいしそうに口に運んでいた。もちろん、甲殻類の苦手でない私は、ちょっと身をせせるのは面倒だな.....といういつもの思いも忘れて、おいしく食した。特に "みそ" は格別においしかった。
 ここで特筆したいのは "長崎サラダ" である。長崎の人たちにとっては珍しくもないサラダなのかもしれないが、私は、出発前から、どんなサラダだろうか、とあれこれ具材を思い浮かべて想像していた。と言っても、サラダの具材など、どんなに考えても知れたものである。長崎スーパーポークが思いきりよく乗っかっているのだろう、くらいにしか思い及ばなかった。ところが、ところが、目の前に現れたサラダは、意外なことに、皿うどんに使うような細い揚げ麺の上にサラダの具材(もちろんポークも)をのせ、そこによく合う "ドレッシング" をかけるというものだったのだ。これがまた私好みで、久々の大ヒット。ドレッシングを工夫して家でも再現しようと、思ったことだった。

 夕食を済ませ、部屋に戻って、しばらくゆったりと過ごした後、二人で床をのべ、早めに寝に就いた。雨の降りそうな気配もなく、お天気の心配をせずに眠った。



 

 翌朝は、空一面に白っぽい雲がかかっていたが、ハイキングには支障のない空模様だ。時間を見計らって、朝食会場に向かう。
 レストランにはすでに利用者の姿があった。朝食はバイキングである。スタッフの握る熱々ご飯のおむすびに人の列ができていたが、私たちはいつもどおり、パンとサラダとジュースとコーヒで朝の食事を済ませる。

 部屋にかえり、身支度を整えて、送迎バスの発車時刻(8時30分)に余裕を持たせて1階に下り、ロビーで時間の来るのを待つ。この日、この時間の、雲仙温泉方面への送迎バス利用者は私たちだけだった。雲仙に団体客を迎えに行くというバスに "貸し切り" で乗せていただく。

 島鉄バスセンター前から、仁田峠行き乗合タクシーに乗ったのは、外国人三人(女性1人・男性2人)と私たち二人の、計五人。
 乗合タクシーは、原則、乗って行った便で戻ることになっている。例えば、島鉄バスセンター9時2分発の一便に乗車すれば、仁田峠には9時20分に着く。この便は、1時間後の、10時20分に仁田峠を下るのだが、一便でやってきた者はこれに乗車して戻らなければならない。
 だが、三峰(妙見・国見・普賢)に行って戻ってくるには、1時間では足りない。そこで、仁田峠12時20分発の、二便の下りに乗せてもらえないか、乗務の方に尋ねてみたところ、二便の乗客がどれくらいあるか分からないが、一応、所定の時間までに乗車地点に来るように、との指示を得た。ダメな場合は、その時考えることにする。

 乗合タクシーが仁田峠に着いた時、乗務の方が「今日は天気がよくないですねえ。あっ、この時期にはめずらしい霧氷が出てますよ」と、指差された。確かに仁田峠上部には濃いガスがかかっており、陰鬱に見えたが、私の眼に霧氷の有無は今ひとつはっきりとは判別できなかった。だが、寒いのは確かだった。島鉄バスセンターですでに雨具の上着を着込んでいたが、仁田峠は、高度があるとは言え、4月の九州とは思えない寒さである。外国人の男性たちは、私たちより温かそうなパーカーを着用しているにもかかわらず、寒い! 寒い! を連発していた。

 ロープウェイに乗ったのも、外国人の彼らと私たちの5人だけ。歩き始めてからでは面倒なので、私たちはロープウェイの中で雨具のズボンも着ける。
 雲仙ロープウェイは "国立公園最初の観光ロープウェイ" だそうだ。

 

 妙見駅でロープウェイを降り、ガスで何も見えないことは分かっていたが、一応展望所まで行く。ほんとうに何も見えない。晴れていれば見えるであろう山や景色を頭に思い描きながら、取って返す。
 外国人男女とは展望所で別れる。彼らは乗ってきた第一便の乗合タクシーで仁田峠を離れるという。
 私たちは、妙見神社に詣で(妙見岳山頂[1333m]には、普賢岳噴火以降 "立入禁止" の由)、神社左の捲き道を国見岳へと向かう。道両側の木々は "セット櫛の歯" のようにきれいに一方向に並んで "生えた" 霧氷に覆われている。霧氷は肩が触れると、薄くて脆いガラスの切片がこぼれ落ちるように、かすかな乾いた音をたてて散った。なるだけ身体が触れないよう、霧氷を壊さないように、腰を屈めて歩く。

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 天候などの条件が揃って初めて見ることのできる霧氷。
 4月中旬のこの時期に霧氷が見られるなんて......、なんという幸せ!

 第二吹越(ふっこし)登山道との合流地点を過ぎ、国見岳分岐を左にとると、道は上りになり、国見岳に至る。頂上(1347m)は狭い。濃いガスがかかり、眺望はまったくない。鈍色の世界だ。
 来た道を分岐に戻り、下り坂を下りきると最低鞍部の紅葉茶屋である。今そこに茶屋はないが、"紅葉茶屋" がいつごろまで存在したのか、気になるところだ。ここから道は再び上りに転じ、普賢岳へと向かう。ガスの中にコンクリート製の小さな普賢神社お社が浮かび上がる。礼拝し、右手に行くと、一等三角点(1359m)のある頂上はすぐだ。10時45分、相変わらず濃いガスで何も見えなかったが、普賢岳頂上を踏む。

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 かつての雲仙岳最高峰、普賢岳頂上の標柱。
 現最高峰 "平成新山" は背後のガスの中。

 頂上の標識のそばに腰をおろし、熱いコーヒーを淹れて、簡単にクロワッサンで早い昼食を摂るが、けっこう強い風があって、じっとしていると寒い。
 連れ合いは、目の前にあるであろう、平成新山と名付けられた溶岩ドーム(1483m)を写真に収めようと、シャッターチャンスを待っていたが、ドームが姿を現すのは、風によってガスの吹き払われる、ほんのひと瞬きの間で、ついにうまく写真に捉えることはできなかった。それにしても、ガスに阻まれ見ようとして見えない溶岩ドームが一瞬目の前に現れた時の、その意外な近さと迫力に、思わず「わあ〜〜〜」と声をあげてしまった。ガスがかかっていたからこその "サプライズ" を、寒さも忘れて楽しんだ後、下山にかかる。
 前を歩いていた連れ合いが、ガスの中、小さな普賢神社お社の背後に姿を消したので、「どこへいくの〜」と叫ぶと、「ここや、ここや」と声がする。行ってみると、立入禁止の看板があり、ロープが張ってある。

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 1991年2月、普賢神社そばの屏風岩火口から噴火。
 神社も周辺の樹木も火山灰に覆われ、見る影もない。
      (注:この画像は "インターネット博物館" より拝借)

 噴火のとき、このあたりには火山礫や火山弾、火山灰などが恐ろしく降り注いだにちがいない。想像すると、足下から地熱が伝わってくるような気さえするのだった。

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 溶岩ドームの裾がかすかに見える。
 この付近にあったものは、今はない。普賢神社も何もかも。






ガスで何も見えなかったが、先に進めば、溶岩ドームに踏み込むことになったのだろう。その溶岩ドームの下には普賢神社や屏風岩、普賢池、砲台跡が埋もれている。




 左手上方、小さなコブの上にぼんやりと建っている標識のようなものが見えたが、あれは秩父宮の登山記念碑のはずだ。


 

 パラパラと霰が降ってきたりする中、もと来た道を辿り、紅葉茶屋、国見岳への分岐を経て、ロープウェイ妙見駅には11時40分に戻る。
 仁田峠の乗合タクシー乗り場に、第二便の折り返し便(12時20分発)が停まっていたので、乗車の可否を尋ねると、座席に余裕があり、乗せてもらえるとのこと。復路が気になっていたが、これで12時40分までに島鉄バスセンターに帰り着くことができる。ほっとした。

 雲仙温泉に戻った後、少し時間があったので、「地獄」の入り口のほんの一部分を "巡り" 、島鉄バスセンター向かいのバス停ベンチに腰掛けて、休暇村からの迎えの車を待った。
 寒いね、と言いながら、あたりを見回していると、風に捲れあがった旗に何か書いてある。立ち上がって見に行くと「噴火まんじゅう」とあった。 "この雲仙で犠牲者も出た噴火を売り物にするなんて信じられない。商魂の逞しさには驚いてしまう" 等々と、最初は "毒づいて" いたりしたが、いったいどんなものか、だんだん興味が湧いてきた。そこで、その「噴火まんじゅう」とやらを買ってみることにする。すっかり思う壷に嵌まった体だ。
 「噴火」の仕掛けは、箱に取り付けられた紐を引くと、生石灰が水に反応、消石灰となる過程で熱を発し、"まんじゅうが熱々の蒸かしたてになる" というものである。ただし、"煙" が出るので、窓を開けて "操作" するように、との注意書きが添えられていた。宿に帰ったら、"噴火" させて、お茶にしよう、などと話しながら、紐を引っ張るのを楽しみにしていた。まさかこの直後、信じ難い事態に見舞われようとは思いもせずに。

 迎えの車に「お世話になります」と声をかけて乗り込む。
 スタッフに問いかけられ、見てきたばかりの、この時期には珍しい普賢岳の霧氷の話を始めた時、腹部に、突如、経験したことのない膨満感が襲ってきた。単にお腹にガスが溜まるというようなものではない。シートに掛けているのも苦しいような感じになったかと思うと、押し上げるような吐き気が襲う。生まれてこのかた乗り物酔いとは無縁の私である。 "これは何......." 頂上で食べた早いお昼は小腹を養う程度で、吐く物などないはず。息を深く吸って嘔吐をこらえ、ザックからビニール袋を取り出して中にティッシュペーパーを入れ、ザックのかげで、運転のスタッフや連れ合いに気づかれないように吐く。案の定、胃液のようなものしか出なかった。車内に吐瀉物の臭いがしないか気が気ではなく、袋の口をすぐに閉じる。だが、事態はそれだけでは済まなかった。腹部全体に急速に痛みがまわり、その痛みが増幅していくのだ。休暇村までの15分程の間、やっとの思いで痛みや吐き気を堪え、車から降りて、フロントで鍵を受け取るのももどかしく部屋に急ぐ。お手洗いに行けばこれらの症状は治まるだろうと思っていたが、増していく痛みは "半端" ではなかった。
 ようやく部屋のトイレにたどり着いたが、便は出ない。朝、きちんと排便していたうえ、お昼の量も少なかったので、当然だったが、お手洗いにいても、一向に痛みの引く気配がない。吐き気も治まらない。これはいったい何なのだろうかと、痛みの中で考えを巡らせていたが、埒が明かない。一度、部屋で横にでもなれば治まるかもしれないと、立ち上がって、便器に眼をやった時、事態は単なる腹痛でないことを知る。便器内が一面血の色に染まり、中心部がどす黒く澱んでいたのだ。自分に何が起こっているのか、分からないことがもどかしかった。
 一旦トイレを出て、連れ合いに情況を告げる。
 再びトイレに入って、どうするのが最もよいかを考えた。問題は、いよいよ増す痛みである。我慢していて痛みが収まればよいが、その確証はない。深夜に耐えられなくなり、周囲に迷惑をかけるようなことだけは避けたい。心はその一点で決まった。
 再び、ピンクに染まった便器を見ながら立ち上がる。
 連れ合いに、病院に行ってくると告げ、すぐにフロントに電話して病院の紹介とタクシーの手配を依頼する。折り返しの電話がくるまでの間に、保険証とお金をバックに入れる。連れ合いには、お風呂に入り、汗を流して、ゆっくりして待っていて欲しいと言いおいて、階下に下りる。このころには、痛みで身体をまっすぐにしているのがつらくなりつつあった。
 フロントでは、小浜温泉にある診察可能な開業医院を見つけてくださっていた。そして、その医院まで車で送ってくださるという。スタッフの方にはそれぞれの持ち場があり、忙しく働いておられることを思うと、身の縮まる思いがしたが、刻々と痛みが激しくなっていたこともあり、厚意に甘えさせていただく。
 途中、激しい吐き気に耐えきれず、停車を願い、路肩の草むらに嘔吐した。胆汁様のものしか出なかった。運転のスタッフが車から降りて、背をさすってくださる。自分の身体を自分でコントロールできない無念をしたたかに味わう。
 送っていただいたお礼もそこそこに、身体を折り曲げて医院に入るが、受付を待つ間も、とても立ってはおれず、片手でカウンターにぶら下がるようにしてしゃがみ、痛みに耐える。激痛のせいか、眼が薄くなってよく見えない感じになっていたが、差し出された問診票にかろうじて必要事項を記入する。
 促されて、検尿のための採尿にトイレに入ったものの、しばらく痛みで身を捩っていたが、何とか少しお小水を採ることができた。赤い尿だった。外から「大丈夫ですか」と声をかけられたので、「はい」と応えてそろそろと立ち上がる。
 次にレントゲン室へ。撮影のためには身体をまっすぐしなければならなかったが、痛みで身体を伸ばすことができず、困った。
 点滴をしますからと言われ、ベッドに導かれるが、上を向いて身体を伸ばすことができない。左を下にしてお腹を抱えるように丸まって横になったが、悪寒がして身体が小刻みに震えていたので、看護師の方が布団をかけてくださった。
 伸ばした腕に点滴の針がさし込まれた。しばらくして医師が来られ「痛みますか」と声をかけてくださったように思うが、痛みと吐き気と悪寒に耐えるのに懸命で、きちんと応えられたのかどうか、覚えがない。
 点滴の落ちるのを見ながら、身体を丸め、ひたすら痛みと吐き気に耐えるだけの時を過ごす。
 痛みが引き始めたのは、点滴の袋が2度(?)取り替えられ、液もなくなりかけたころだったろうか。徐々に痛みが引いて身体が軽くなり、吐き気も治まって、いつの間にか悪寒もしなくなっていた。身体も少しずつ伸ばせるようになる。そして、3時間ばかり経ったころには、すっかり痛みも取れた。痛みが消えてしまうと、あの激烈な痛みや吐き気は、いったい何だったのだろうかと思われるくらい、何とも不思議な呆気なさだった。
 と同時に、急に連れ合いのことが気になり始めた。
 ちょうどその頃、彼も、私があまりにきっぱりと近所に買い物にでも行くように病院に行ってくると言うので、一人で出したものの、なかなか戻らないので、病院に向かおうとしていたという。
 アンドロギュノスの私たちとしたことが、初めての経験にうろたえてしまっていた。これが、彼の身に起こった異変であれば何をおいてもついて行ったにちがいないが、自分のこととなると、つい "自分の身の始末は自分でつける" という、身についた "習性" が先行してしまう。

 点滴を受けている間、何度も様子を見にきてくださっていた看護師の方が「点滴は、後もう少し、30分ぐらいの辛抱ですよ」と知らせてくださったので、タクシーの手配をお願いすると、「休暇村に、30分後くらいに迎えに来ていただくよう、電話で連絡してありますから」とおっしゃるのだ。こんなことなら、もう少し早くタクシーを依頼するのだったと、ひどく悔やまれた。宿舎の厚意に甘えるにも程があり、胃が縮む。
 点滴の最後の一滴が落ちた後、医師より、腎臓にできた石が尿管に落ち、痛みを引き起こした旨の説明と投薬の説明とがあり、水分をしっかり摂ってお小水を十分出すようにと指示される。それ以外、食事などは普通にしてよいとのこと。
 医師に病名を告げられ、初めて、私は自分の腎臓に石の生じていたことを知った。また、結石が、何の前触れもなく、激痛を伴って顕在化することも、身をもって知る。


 

 今回の私のような急患が出た場合、休暇村には何か共通の申し合わせや対処法があるのだろうか。
  いかにも古い情報だが、昭和39年度早稲田大学観光学会『国民休暇村(調査報告書)』(p.73)によると、「休暇村に、医師が常駐している所はなく、病人が出た場合には、附近の医者を呼びに行くという事である。宿舎に於ける医療設備は、救急箱位のものであり、その点、少し不安な様な気もするが、現在では、医師の常駐は難しいので、応急の手当が出来る様に、薬品を一応備えておく程度で仕方のない事であろう。しかし、乗鞍高原の場合(冬期に、毎週、土、日曜日に、日赤本社の人が来て、休暇村に駐在する)の様に、シーズン中だけでも医師が休暇村に来て駐在してくれると、我々にとっては有難い事である」と記されている。
 休暇村乗鞍高原が現在も冬期の土・日「日赤本社の人」を駐在させているか否か、寡聞にして知らないが、一般には、救急箱・AEDの設置や救急法を心得たスタッフの配置は可能でも、医師の常駐は現実的ではないだろう。今回の私の経験からしても、適切な医院(または病院)の紹介とタクシーの手配があれば十分であり、さらに重篤で急を要するような場合には救急車を要請するのが妥当だと考える。


 

 休暇村の出してくださった車で、小浜温泉の医院を後にする。
 痛みから解放されてみると身も軽く、心もなんと晴れやかになることか。往路の苦痛に満ちた姿とのあまりの違いに、スタッフも驚いておられたが、まるで何事もなかったかのような快癒に、当の本人である私自身が信じられない思いでいた。

 

 一旦部屋に戻った後、予約してあった夕食時間に遅れていたこともあり、連れ合いと大急ぎで食事会場に向かう。
 夕食には、♪天然あわびと雲仙牛しゃぶしゃぶ♪が予約してあった。「雲仙牛は長崎4大和牛の一つで、潮風吹くミネラルたっぷりの牧草を食べて育」ったのだそうだ。午後の苦闘で、私のお腹は空きに空いていた。彼に、医院に向かって後のあれこれを話しながら、雲仙牛をゆっくりと味わう。あわびも美味しかった。それよりも何よりも、いつものように彼と向かい合って食事のできる喜びが心に染みた。


 普段、風邪を引くことさえ稀な私が、旅先で何の前触れもなく尿路結石を発症するという生涯初めての思いがけぬ経験をした。この突然の発病に際し、休暇村雲仙の方々には適切で手厚い対応をいただき、翌日、無事帰宅を果たす。

 帰宅後、すぐにかかりつけ医を訪ね、状況を報告。指示を仰ぐ。

 

 まだあるらしい我が腎臓の石は、その後、鳴りを潜めたまま沈黙を保っている。



 

[追記] 本文中にも述べたように、普賢岳にあったという "紅葉茶屋"がいつごろまで存在したのか。また、それにまつわり、かつての普賢神社や1792(寛文四)年に発生した大規模な噴火災害がどのようなものであったのか等々を、次の「休暇村 雲仙(2)」において述べたいと思う。

          
forward.gif休暇村 雲仙(補説1)