休暇村 雲仙
[雲仙岳に "紅葉茶屋" はあったか]
"紅葉茶屋" というのは、溶岩円頂丘より成る東西約10km、南北約15kmの集成火山雲仙岳三峰五岳[1]のうちの三峰、妙見岳・国見岳・普賢岳に囲まれたお椀の底のような鞍部(標高1,180m)の名である。
"紅葉茶屋" と名付けられたその鞍部へは仁田峠(標高1,070m)からロープウエイで妙見岳駅まで行き、ロープウエイを降りてからは、妙見岳を左に巻いて1時間ばかり歩くと到達する(仁田峠から徒歩で "あざみ谷ルート" をとってもよい)。このあたりの樹林は「普賢岳紅葉樹林」として国の天然記念物に指定されており、10月中旬頃から11月初めにかけての紅葉はすばらしいらしい。そのような場所なら "紅葉茶屋" があっても不思議ではない。
それにしても、茶屋は実際にあったのだろうか。それはいつごろまであって、なぜなくなったのか。それとも紅葉が美しいという理由で名付けられたにすぎず、茶屋は初めから存在しなかったのか。何だか無性に知りたくなった。雲仙観光協会に問い合わせてみたが、分からなかった。
そこで、自分で調べてみることにした。
雲仙岳は、昭和九年に国立公園に指定されるまでは "温泉岳" と表記されていた山で、『肥前国風土記』には「高来の峰」として登場する山である。
高来の郡。郷は九ヶ所。小里は二十一。宿駅は四ヶ所。烽火台は五ヶ所である。
昔、纏向の日代の宮において政を執っておられた天皇(景行天皇)が、肥後の国玉名の郡の長渚の浜の行宮にいまして、この郡の山をご覧になって言われたことには、「あの山の形は、離れ島に似ている。陸に属する山か、陸から離れてある山か。朕は知りたい」と。そこで神大野宿祢に勒令して、見に行かせた。往きてその郡に到着した。まさにその場所に人があり、迎え来て言うことには、「私めはこの山の神、名は高来津座です。天皇の使いが来られるのを聞き、ただただお迎え申し上げるばかりです」と。これによって高来の郡という。[2]
『風土記』においては「高来の郡」の記述に続き、「土歯の池」の記述があった後、「峰の湯の泉」について述べられる。そこで "高来の峰" が湯泉の湧き出ずる山であり、それ故に温泉山(うんぜんざん)と称せられるようになったことが分かる。[3]
『風土記』撰進の命が下ったのは和銅六(713)年だが、それより前の大宝元(701)年に、あくまで伝説ではあるが、行基が高来の峰(温泉山)に大乗院満明寺を開いたといわれる。
この大乗院満明寺、時代が下り、 "キリシタン" によって一宇残らず焼き払われている。その跡地に、寛永(1624〜1643)年中、高力攝津守が寺を再建。その際、寺名を一乗院満明寺と改める[4]。
その一乗院満明寺が、安永七(1778)年島原藩に提出した書上帳『島原御領 温泉山起立書』によると、大乗院満明寺は、
" 行基菩薩の開基にして聖武皇帝の勅願所で、往古は山内に千坊ございました由。うち七百坊は別所と申す所にあり、三百坊は釋迦堂近邊にあって繁昌地でございました。ですが、中頃たびたび炎燒致し、その後建立されましたが、何かのたびごとに、邪宗門のために燒き拂われ退轉いたしましてございます。ではございますが、有馬修理公の御代に二十坊御取り立てがございましたのに、松倉長門守公の御代に邪宗門が起こり、寺院一宇も残らず焼き拂われましてございます。その後高力攝津守公の御代に三嶽ならびに四面宮であります當院(一乗院満明寺)も(高力攝津守公が)御建立されましたことでございます。往古繁昌の節は寺領三千八百町の御寄附がありましたことが縁起にくわしく(書いて)ごさいます。が、数度炎燒によって寺院が退轉いたしました旨、申し伝えられております。高力攝津守公より同左近大夫公の御代まで(の間)、當院(になりまして)より、(高力家が)寺領百石を仰せつけられましたので、松平主殿頭様(である)忠房公の御代に右寺領を扶持と御引き替えなされ、當御代[注:この『温泉山起立書』の提出された藩主松平忠恕の時代]まで御代々御扶持を頂戴いたしております "
と記されている。[5]
一乗院については、『深溝世紀』[6]にも以下のような記述がある。
「文武天皇の大宝元(701)年(一に天平二(730)年という)僧行基が日本山大乗院満明密寺(一に高来山一乗院という)を温泉山に創始する。数百年を経て寺院の建造物はますます盛んに多くなり広がる。塔頭は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊ある。元亀[1570〜1573]中に白雀の乱が起こり、瀬戸石原の僧徒が別所を攻め、火を放ってことごとく別所の僧坊を焼く。(この時、瀬戸石原・別所の僧は皆寵愛する稚子をもち養う。瀬戸石原の[稚子が]立派な籠に白雀を飼っていた。別所の稚子がこれを見て羨しさに堪えなかった。[そこで別所の稚子は]しばしばその白雀を所望するけれども物惜しみして与えない。とうとう互いに刺して死ぬ。このときに[瀬戸石原・別所]二寺の僧[の間で]言い争いが生じ、果ては兵を出動させて互いに戦う。瀬戸石原の僧が火を放ち、別所の僧坊をことごとく焼き滅ぼす。領主の有馬修理大夫義純が兵三百を派遣して[争いを]制し、やっと鎮定するを得た。世にこの争いを白雀の乱というとのことである。)このときに[別所の]寺はついに衰退する。寛永[1624〜1644]中に有馬の賊[キリシタン]がまた瀬戸石原[の塔頭]を焼き、突然その寺を滅亡させた」と。[7]
さらに、『温泉山起立書』によると、
「温泉山真言宗一乗院は、本寺は京都御室御所、仁和寺の直御末寺でございます。山号は温泉山、この山号のことは往古よりの山号でございます。尤も熱湯涌出につきましての山号でございます。寺号は満明寺、これも往古よりの山号にて繁昌の時分より一山の寺号でございます」
と謂い、安永七(1778)年には一乗院満明寺が仁和寺の直末寺になっていることが分かる。
また、普賢山(普賢神社)には、境内に石堂があり、銅製の厨子に納められた普賢菩薩尊躰唐金像が祀られていること。妙見山(妙見神社)にも同様に石堂があり、唐金の妙見尊像が安置されていること。敷地は、普賢・妙見ともにそれぞれ一町歩あること等々それぞれの神社の詳細が事細かに記され、さらに、四面(現雲仙温泉神社)・普賢・妙見の三ヶ所はともに一乗院支配であったこと等々が記されている。[8]
私たちの登った現雲仙岳、高来の峰は『風土記』撰進以前に山岳修行者によって開かれ、大乗院満明寺という寺院も創建されて繁栄していたことが分かる(この寺が行基の開基というのは権威付けのための創作だったかもしれない)。多くの寺院と同様、時代の流れの中で満明寺も宗教間の確執による焼き打ちや内部の軋轢等々によって衰退の憂き目に瀕し、滅亡の淵にも立たされるが、島原半島を領する大名たちによって取り立てられ再建されている。時代が要求したと言うべきか、島原半島の中央に立地する"高山"にある故か、温泉湧出もひと役買っていたのか、寺は消滅することなく、形を変えながら現在に続いている。
中でも山そのものをご神体と仰ぐ山岳信仰に支えられ、古来島原に住む人々の信仰を集めて温泉山はあったようだ。人々は一乗院に詣で、さらに奥の院ともいうべき普賢菩薩の鎮座する普賢岳に登拝したものと考えられる。
"休暇村 雲仙(1)" でも触れたが、かつて普賢神社は普賢岳山頂に近い屏風岩の傍に建てられていた。だが、1990年に始まった火山活動の結果、溶岩ドームに埋もれて今はない。『温泉山起立書』に記されてある、銅製厨子に納められた普賢菩薩尊躰唐金像が無事で、今も頂上直下登山道脇の小さなコンクリート製お社に安置されているのかどうかは知らない。
妙見神社は今も妙見岳にある。唐金の妙見尊像も健在かと思う。
では、その昔、一乗院満明寺のあった現雲仙温泉付近は島原の城下からどれくらいの距離にあり、どのような様子であったか。
寛政四(1792)年二月九日、藩主忠恕が温泉山噴火を老中に告げる書簡に「臣[わたくし]の封ぜられた領地肥前の国島原の城を距てること西に三里、小浜村という。高山がそびえ立ち、その麓は四方の境界に及んでいる。[山の]やや西で少々平らな所に温泉を湧出する。故に温泉山と号す。[ここには] 神祠(四面大明神)、寺院(一乗院) 民家があり、湯浴みの場としている。ここより登ること一里余りで山頂に至る。普賢菩薩を安置する。故にまた普賢山ともいう」と記されてある。普賢山が噴火する以前の様子である。[9]
また、日向(宮崎県)佐土原は安宮寺(当山派)の住職にして大先達泉光院野田成亮の廻国の記録『日本九峰修行日記』に見ると、当時、雲仙嶽の山上とは、一乗院のあった現在の雲仙温泉付近を言い、そこには周囲約2km強の地獄の他、谷下に明礬の製造場[10]、さらにその下に田地や百姓家が十軒ほど、一乗院の門前には十三、四軒の旅宿等が軒を連ねていた模様である。
地理的には、島原村から一乗院まで五里とあるので20km。寛政四(1792)年の噴火・眉山の山体崩壊跡地を迂回して三里の道程を山の麓まで行き、麓から一乗院まで二里山道を登っている。一般に4kmの歩行時間を1時間と考えると、5時間くらいだろうか。ぶらぶら歩きはしまいから、山道を含めてもこれくらいか。いや、健脚の彼らはもっと速かったかもしれない。出立が辰の刻[午前8時]とあるので、昼頃か昼過ぎには "雲仙嶽山上" に到着したのではないか。
普賢嶽へはそこからさらに山道を東へ三里とのこと。[11]
上記の記述から考えると、温泉山は島原城下からは早立ちすれば、庶民でも徒歩で往復できる距離ではなかったかと思う。
そして、現雲仙温泉付近は、当時町場とまではいかないまでも、ちょっとした宿場か門前町のような趣があったかもしれない。旅宿が十三、四軒といえば、そこそこの人数を収容することができる。山に登ってくる人たちが、常時それ相応にあったことを示す数ではないかと思う。明礬の製造場も盛んに"稼動"していたようだ。
承応二(1653)年には延暦湯という共同浴場が開かれたというから、湯治客や一乗院参拝を兼ねて浴湯を楽しむ人々もあったかもしれない。因みに、安永七(1778)年の湯所支配は「温泉新湯共小左衛門」であったらしい。
『温泉山起立書』には、祭礼の時などは藩の役人たちが登山する他、領内よりやって来る參詣・見物の者たちを当て込んで商人たちが小屋掛けする等、たいそう賑わったこと。また、諸国より六拾六部と言われる行者や巡礼、泉光院野田成亮のような廻国の修行者たちや旅人たちが多くこの地を訪れていることが記されてある。[12]
では、その一乗院満明寺の役割にはどのようなものがあったか。『温泉山起立書』に見ると、
藩主には、
-
正月・五月・九月にご武運長久、ご息災延命のご祈祷護摩供修行をいたし、お札を差し上げてまいりました。
- 殿様が[参勤交代で]江戸にご出発の際、海陸御安全のご祈祷を相勤め、二、三日前にお札を差し上げております。
- お上より仰せつけられました護摩修行、またその外ご祈祷仰せつけられました節、その節のご様子次第で二夜三日と続け三日三夜また七日と続けます。仰せつけられた必用具等、お上より仰せつけられたご祈'祷'のお初穂料、金銀等が[役所に]仰せつけられましたことでございます。
雨乞い、日乞いに関しては、
- [干天の際の]雨乞いや[長雨に際しての]日乞い等もご祈祷仰せつけられ、相勤め申しますことでございます。
- 雨乞いのご祈祷を仰せつけられました節はご家老や郡方お奉行、ならびに諸役人衆が三嶽に[殿の]ご代参に[お出でで]ございます。
領民には、
- 当院より三嶽ご祈祷を相勤め、五穀成就のお札を[領内]三十三ヶ村の家々に相納めましてございます。
- お上より耕作成就のご祈祷を仰せつけられました節は、当地ご領内のご祈祷を相勤め、虫除け等のお札を仰せつけられ差し上げましてございます。一村に一枚あて板札等も差し上げましてございます。尤も必用具等御少なく、ついては[御札の]差し上げ代銀等[を領民に]仰せつけられ、[また]お布施等も仰せつけられましたことでございます。
村方寺社頭としては、
- 先のご城主より御代々ただ今まで、年始の謁見をさせていただいております。ただし村方寺社頭[として]でございます。ご当代は正月四日[殿様が江戸にご逗留で]お留守の節、御帳にて[ご挨拶]申しております。尤もお札は差し上げましてございます。
さらに旦那寺としては、
- 寺付きの旦那がありましてございます。尤も葬儀の節、山近辺の村々へ弟子どもを派遣して葬儀をとり行わせましてございます。北目の場合、旦那が東方閑村ならば生松菴、西目南目山より遠方は南串山村歓喜菴の代理僧に行かせて葬儀を相勤めましてございます。
等(他には "旅人" への手形発行の"業務"もあった)とある。[13]
一乗院満明寺の果たす役割には裏打ちされる現実があったはずである。それがどのような現実であったのか、『深溝世紀』から拾ってみた。
藩主自身に関わることでは、上記武運長久・息災延命、参勤交代に伴う海陸安全の祈祷、お札献上の他に、罹病した際の祈祷についての記載がある。
- 深溝松平が島原に移封され初代藩主となった忠房から数えて三代(以下、同様に忠房を基点として数える)、忠俔(ただみ:正徳元(1711)年〜元文三(1738)年 / 諡号:悼公)の世のこと、
忠俔の養父忠雄が江戸において病に罹ったのだが、元文元(1736)年正月十六日、病が重篤であることを書で島原に告げる。家臣たちはこれを聞き、護摩法を温泉山に修して平快を祈っている。前藩主忠雄は、二月七日に死亡。
- 六代目にあたる忠馮(ただより:明和八(1771)年〜文政二(1819)年 / 諡号:靖
公)の代には、
文化十三(1816)年七月二十七日、「世子疾有り頗る劇し」と江戸より知らせが入る。忠馮は世子の平快を猛島祠及び温泉山四面祠に祈る。家士も神佛に祈り平快の護符を献上する。この時は、同年八月十二日「世子の疾稍々愈ゆ」という知らせが江戸よりもたらされている。
- 第八代忠誠(ただなり:文政七(1824)年〜弘化四(1847)年 / 諡号:平公)は、弘化二(1845)年五月二十二日、俄に病み、寒気転筋したものの医薬によって小康を得ていた。しかし、同月二十五日に再発。平快を猛島祠及び温泉山に祈り、奥山彦十郎に蟇目法[注:鳴弦]を行わせる。家士たちも神仏に祈り符ロク[竹+録](注:未来の運命を記した道教の文書)を献上する。
この後も、忠誠は病の再発と小康を繰り返す。
- 九代目忠精(ただきよ:天保三(1832)年〜安政六(1859)年 / 諡号:匡公)は、安政六(1859)年六月に入って病を得るが、同月二十八日早暁、その病が俄に劇しくなり、多くの医師があらんかぎりの方法で治そうとしたがおよばなかった。そのため猛島祠及び温泉山に祈り、使者を派遣して宇佐八幡祠に祈らせ、書を熊本の老臣に送り黄玄朴(高名の医師か)を借りたが、時すでに遅かった。家士や庶民皆奔走して神佛に祈るが、午後十二時ついに亡くなる。[14]
当時の水準で最高の医療を受けることのできた藩主にあって、なお不安を拭えない時、いちいちの記載はなくても猛島祠や温泉山に祈っていたことが想像できる。当然、庶民も病に際して、これに準じた行動をとっていたにちがいない。医療の恩恵をさほど受けられない者ならばなおのこと神仏にすがるのは自然の成り行きというものであろう。
病といえば、悪性の流行病[疫病(えやみ)]がある。
延宝三(1675)年十月、島原「封内に大疫あり(病者三千餘人)。六日公[忠房]侍医小笹道雪・渡部玄佐をして村内を巡行して薬を施さしむ」とした記述が見える。ひとたび流行病が発生すると、またたく間に感染者が増加するのが当時の状況であったろう。
特にコレラは、それまでは日本に無かった伝染病である。
安政五(1858)年五月二十一日、アメリカ船ミシシッピ号の入港で長崎に上陸したコレラは六月初頭長崎周辺に、そして六月下旬には西日本から東海道に広がり、七月下旬江戸に達する(cf.『幕末狂乱(オルギー)??コレラがやってきた!??』高橋敏 朝日新聞社 2005年)。
『深溝世紀』巻二十(p.26)にその時の様子が記されている。安政五年八月の記事である。
「近ごろ彗星が東北(方向)の空に現れ、光芒は三、四尺、その後やや西北に移動する。大きいことは金星のようで光線の先端は一丈以上である。この月に至って夕暮れ時に北に現れ、明け方に西に至り、(その)長さは天の半分ほどもある。江戸に強い悪性の伝染病があり、人が多く死亡する。(当藩江戸)屋敷の中でもまた(その)悪性伝染病に罹患して死亡する者が多い。十七日感徳寺の寺主を招き、大般若経を転読させてこれ(疫病)を'祷'い、護符を邸内の家臣に下される。島原にもまた悪性の伝染病があり、入江河内に命じて猛島祠において祈'祷'させ、護符を家臣に下される。この時島原領内すべてに(この悪性伝染病が)流行する。村や町の民衆は横町毎に神仏の壇を土を盛って築いて昼となく夜となく詣で拝み、年若い者たちは路上でかんなぎに舞楽を舞い神を招いて祈'祷'することを請い、酒で気力を起こさせて縦横に(悪性伝染病を起こす)悪鬼を追い払う。読経の声、鉦・太鼓・法螺貝の音が日夜絶えず、猛島の神輿は臨時に城内外・村や町を巡行して悪性伝染病を鎮める」
「彗星が現れてより天下に強い悪性伝染病が流行しその症状は烈しく下痢することである。朝に下痢すれば夕べには死亡し、伝染すること極めてはやい。人は虎狼痢(コロリ)と呼ぶ。その猛烈であるを言うのである。この時世に初めてこの悪性伝染病が生じる。医はまだ治療の方法を獲得していない。死亡する者がはなはだ多い。彗星が消え失せるに及んで悪性伝染病もまた(それに)したがって終息する。世の人々挙げて洋夷の伝染させるところのものであると言う。島原より報ず、「領内で前月(八月)に死亡する者およそ六百六十六人」と」[15]
ここでも言われているが「医未だ治療の方を得ず」というのは人々にとって極めて深刻な状況である。人々は上も下も救いを求めて神仏に祈るしか方法はなかったといえる。
旱魃、長雨等々、五穀豊穣を妨げる自然現象も枚挙にいとまがない。まずは、藩主が祈'祷'を命じたり、自ら温泉山に登り詣拝した事例を取り上げてみる。
- 文政元(1818)年:
七月八日、一乘院に命じて雨を温泉山の普賢祠に祈らせる。板倉勝彪は郡務を執り行う役人を率いて公(忠馮)に代わって山に登り、詣拝する。
- 天保三(1832)年:
この年は五月より七月に至るまで雨が降らず、官村民こぞって神佛に祈り雨を乞うが雨はいっこうに降らなかった。藩主忠侯はこれをどうしたものかと思い患い、普賢の画像を松閣に掛けて、潔斎して五晝夜にわたり禮拜したが空しかった。
そこで、
七月二十八日普賢山(即ち温泉山)に登りて麻畑に至り、香を焚いて遙拜し、板倉勝彪を代りに參詣させるに(此の時家臣は皆前後に日を分け、普賢、若しくは三岳に登って雨を乞う)絶頂に至るころ細雨俄かに降る。翌日小雨が降り、その後は降ったり止んだりの日が続いた。
八月十一日になって大いに雨が降り田畑は潤う。村民はたいそう喜び、忠侯や官吏の祈請に頼って雨を得たことを感謝する。
- 天保八(1837)年:
六月二十日、公(忠侯)は領内の祝司に命じ、集めて豊穣を猛島祠に祈らせる。また一乗院に命じて温泉山に祈らせる。
十月十三日、今夏の五穀の豊熟を温泉山及び猛島祠に祈りて応験が有る。各々米三苞を納めて豊熟を神に報謝する。
- 安政三(1856)年:
七月、島原は五月より雨が降らず。五日、(藩主忠精は)入江河内及び一乗院に命じて降雨を祈らせ、十二日また普賢山に祈り、老臣以下の諸官が日を分けて普賢山に登って詣拝する。
- 安政六(1859)年八月:
十五日、連日ひどい旱魃で田の稲を傷い、雨を猛島祠・温泉山に祈る。
- 元治元(1864)年:
六月頃より島原は旱魃に見舞われ、雨を神仏に祈ったが、時に小雨がある程度で、土膏を潤すには至らなかった。時代はそれどころではなかったろうが、八月二十二日、一乗院に命じて雨を温泉山に祈らせ、家士が交々詣拝する。この日、公(忠和)山に登って自ら祈る。[16]
自然による災害といえば、大風雨の被害も半端ではない。例えば、
- 延宝六(1678)年:
八月五日、烈しい風が吹き大雨が降る。明くる日の夜には海が溢れ城の櫓を破壊し人家を倒し(二千六百戸余り) 大木を(大地より)ひき抜き(楠二千本余り) 田の稲を耗損する(五千石)。豊前・豊後の別途与えられた封土にもまた雨風があり、家屋を倒し (三百八十戸余り) 田の稲を損耗する。(三千石余り)。公(忠房)はこうしたことを聞き銀を災害に遭った貧しい家に貸す。
- 延宝七(1679)年:
七月二十一日、島原に大風がある。城の櫓や外廓で(大風が)破壊するもの半分以上、倒壊した人家千二百戸、損耗した田の稲七千七百余石である。近隣の諸侯は使者を派遣してこの災厄を見舞う。領民たちで災害に遭った者に銀を貸し、かつ眉山を解禁して、"たきぎ" や "まぐさ" を採ることを許す。
- 延宝九(1681)年:
八月朔日島原に大風と甚だしい大雨がある。家屋を破壊し(二百余戸) よく実った穀物を損耗する(千二百石余り)。[17]
今でいう台風の襲来であろうが、当時の人々は、ここに挙げたような連年の自然災害による打撃をどう乗り越え、立ち直っていったのだろうかと思うくらいだ。
一乗院ではまた、耕作成就の祈'祷'の後、虫除けのお札を配布しているが、当時、虫害は災害と言っていい規模で生じている。
例えば、当時の人々が経験した虫害の有様はこうだ。
-
寛文十三(1673)年:
二月十二日「是より先眉山の松林に蟲有り、其の葉を食う。三街(古町・新町・三会町)の市人及び島原の村民(三街五百十一人、島原村六十五人)請いて之を捕え七十八苞を獲たり」
- 元禄五(1692)年:
三月「十九日、是より先眉山の松樹に松喰虫を生じ、其の葉を食う。治下の村市の人をして之を捕えしむ(島原村八十人、市街二百六十人)。九十余苞を獲たり(其の労に報い、毎一人に松枝一担を與う)」
「苞」というのは藁を編んで造った米俵のこと。近世の年貢米は、米苞ひとつ、すなわち一俵に三斗五升入りを標準としていたが、後には三斗七升入りを普通とするようになる。容積にしてだいたい65リットル〜72リットルくらいか。その米俵(苞)に松喰い虫を、人の手で78苞とか90余苞獲るというのだ。
当時、害虫の防除技術も進歩しつつあったとはいえ、発生規模が甚大になると、やはり困り果てることになる。人々は虫害の起きぬよう神仏に祈り、祈祷をし、時に人の手で害虫を捕殺、あるいは鉦や太鼓をうち鳴らし法螺貝を吹くなどして田んぼの間を回り歩いたり、虫を村の境界の外へと送り出す等の儀礼(「虫送り」「虫追い」「実盛送り」等)を執り行っている。
享保十七(1732)年には、蝗(イナムシ)の大発生によって「享保の大飢饉」が起こっているが、島原領内でも田の稲を損耗することまた夥しく、老中に文書を提出して言うことには「封邑の蝗減らすこと島原三万五百二十二石五斗(水田二万五千三百八十一石八斗、陸田五千百四十石七斗)、豊後[ママ]一万千五十八石三斗(水田九千百七十八石、陸田千八百八十石三斗)、豊後[ママ]一万七百七十四石八斗(水田八千八百八十五石八斗、陸田千八百八十九石)、総計五万二千三百五十五石六斗なり」と。
虫害の苛酷さに驚く。
この後、幕府は水田に害虫が発生した場合、鯨油で駆除するよう(「注油法」:水田に油類を浮かべておき、おもにウンカ、ヨコバイ類を水面に払い落として油の被膜で虫が飛ぶのをふせぎ、同時に気門をふさいで窒息死させる方法)、鯨油の使用法とともに代官あてのお触れを出したという(cf.『虫の文化史』小西正泰著 朝日新聞社 1992年3月 pp.218〜221)。
一乗院満明寺の果たす役割を裏打ちする現実を拾ってみたが、『深溝世紀』には、当時の民衆の温泉山にかける思いが垣間見えるような記事もある。
忠侯の治世、
天保二(1831)年六月九日、是より先、多比良村の村民が庄屋の交代を何度もその筋に訴願したが、そのたび毎に却けられる。そのため、船津名の金左衛門・森名の松藏等が村民三百余人を糾合し、和光院に頼って東照宮に祈り、神力を借りて願いを適えようとして先ず御宮山に寄り集まる。宮監某がこれを見、こうした集まりはよくないと説いて彼らを返す。村民たちはまた一乗院に祈ろうとして、そこで御宮山を去って温泉山に登ったというのだ。[18]
村人たちは訴願が聞き入れられず、"実力行使" するに及び、まずはより"力を持つ" と考えられる東照宮に祈ろうとしている。だが、神職に説得され初期の目的を達することができないとなるや温泉山に向かう。
こちらの神が駄目ならあちらの神に向かい、状況を打開しようという情動は極めて日本的であるが、温泉山はやはり島原領民にとって願いを聞き入れてもらえる "信仰の対象" だったのである。
ところで、温泉山は信仰の対象ばかりでなく、他の一面もあったことを深溝松平初代島原藩主忠房の行動が明らかにしている。
忠房は元禄に入って、温泉山に登り、紅葉狩りを楽しんでいるのだ。
-
元禄元(1688)年:
十月朔日、温泉山に登り、玉のように美しい仏像の天蓋垂飾のような躑躅の花が霜に染まって紅葉するのを観賞する。
- 元禄三(1690)年:
九月二十三日、温泉山に登り、躑躅の花の紅葉を観賞する。
- 元禄七(1694)年:
八月二十九日、温泉山に登り、紅葉を観賞する。一乗院に憩う。[一乗院の]水をそそぎ、ほうきで掃き清めて、汚れなく整えられてあるのを褒め、米十苞を賜う。
- 元禄九(1696)年:
九月二十七日、温泉山に登り、紅葉を観賞する。
- 元禄十二(1699)年:
閏九月二日、温泉山に登って紅葉を観賞する。[19]
実は、温泉山一乗院満明寺境内には禁制札(「禁制温泉山」)が建てられてあり、その中の一項に「ひとつ 猥りに竹木を伐り(または)狩ること。加えて躑躅を掘り取ること、ならびに花を折り取ること」とあって、「右、一條一條堅く停止するものである」と記されている。[20]
「玉のように美しい仏像の天蓋垂飾のような躑躅の花が霜に染まって紅葉する」さまはいかほどであったろうか。江戸期の植生はよくは分からないが、ドウダンツツジの類いが多く生え、紅葉が素晴らしかったのかもしれない。
現在も「普賢岳や妙見岳の山腹[中略]の紅葉は南西日本の代表的なものとして国の天然記念物(「普賢岳紅葉樹林」)に指定され、紅葉植物は120種を数え」るという。
かつて一乗院満明寺のあった、現雲仙地獄周辺は「硫化水素を含んだガスと地熱それに強酸性水と土壌のため植物が生育するにはとてもきびしい環境」で、そのような環境に耐え得る植物のみが自生しているといい、「雲仙地獄の自然ガイド」("雲仙あちこちガイドシリーズ" 雲仙お山の情報館運営協議会監修・発行)には、躑躅の仲間のシロドウダン、ミヤマキリシマ、シャシャンボなどの名が見える。
8世紀初頭にはすでに開かれていたと思われる"温泉山" には、古来山岳修行者をはじめ信仰や祈願を目的にした人々が多く訪れたことだろう。特に深溝松平の治世、温泉山に再興を許可された一乗院満明寺が藩の祈願所となるに及び、旱魃や長雨等に際して、時に藩主自らが登山して祈る一方、民衆もまた "願いの適わぬ" 時は頼みの綱にして温泉山に登っていた。
また、藩主が紅葉狩りに訪れるくらいであるから、紅葉のころには民衆も訪れたにちがいない。それは「禁制札」からも推測できる。
さらに、祭礼の時は藩の役人たちが登山する他、領内よりやって来る參詣・見物の者たちを当て込んで商人たちが小屋掛けしたというから、山はたいそうな人で賑わったのだろう(因みに、現在、雲仙の温泉神社並びに普賢神社の例大祭は、毎年9月27日から29日まで、三日間行われる由)。
江戸時代、私たちが想像する以上に人々が登ったと思われる "温泉山" の、お椀の底のような "あの" 鞍部に、ちょっと腰の下ろせる季節の掛け茶屋が実際にあってもいいのではないか。
それが、青葉茶屋でも若葉茶屋でもなく、また"つつじ茶屋" でもない理由は、私には分からないが、とりわけ温泉山の美しい "紅葉" に魅了された人々があり、折しも例大祭などで登ってきた人々によって名づけられたのが紅葉茶屋だったと考えられなくもない。
九州とはいえ、雪が降り、霧氷のかかる厳しい寒さの冬は休業したとしても、桜や瑞々しい若葉のころ、木々が紅や黄に彩られる季節、また蝉時雨のなかを登り来て、頂上間近一息入れたくなる夏のころ、"あの場所" に茶屋があればどんなによいことだろう。
"紅葉茶屋" はきっとあったのだと、今では確信に近い思いを抱いている。
そしてそれは、第二次世界大戦前夜まではあったのではないか、と思う。なぜなら、まず、戦時中「雲仙はその山岳地形から重要な役割である対空監査を担うため、軍により接収され」、普賢岳頂上に偵察用電波塔が建設されて、その近くに情報を受信する施設が置かれたという。もとよりそれは国家機密であり、住民の近づけない場所となったこと(cf.長崎県公式ウェブサイト)。
第二に、戦後流入した化学薬品(農薬)によって人々は病害虫をねじ伏せ、また "合理的な思想" によって急速に自然への畏敬の念を失い、やがて地域に根付く信仰をも放棄してしまったと考えられること。
こうした理由で、人々とともにあった "紅葉茶屋" もいつしか忘れ去られ、存在したかしなかったかさえも、もはや分からなくなってしまったのだと。
注:
[1] |
三峰五岳とは、
三峰:妙見岳(1333m)・普賢岳(1359m)・国見岳(1347m)
五岳:野岳(1142m)・九千部岳(1062m)・矢岳(940m)・高岩山(871m)・衣笠山(870m)
これらに、1996年、新しいピーク、平成新山(1483m)が加わった。 |
[2] |
「高来郡。郷玖所。里廿一。駅肆所。烽伍所。昔者、纏向日代宮御宇天皇、在肥後国玉名郡長渚浜之行宮、覧此郡山曰、『彼山之形、似於別嶋。属陸之山歟、別居之嶋歟。朕欲知之』。仍勒神大野宿祢、遣看之。往到此郡。爰有人、迎来曰、『僕者此山神、名高来津座。聞天皇使之来、奉迎而已』。因曰高来郡。」
〔高来(タカク)の郡。郷は玖所。里は廿一。駅は肆所。烽は伍所なり。昔は、纏向の日代の宮の御宇天皇、肥後の国玉名の郡長渚浜の行宮に在して、此の郡の山を覧して曰く、「彼の山の形、別れ嶋に似たり。陸に属く山か、別れ居る山か。朕知らまく欲し」。仍りて神大野宿祢に勒して、看しむ。往きて此の郡に到る。爰に人有り、迎へ来て曰く、「僕は此の山の神、名は高来津座なり。天皇の使ひの来るを聞き、迎へ奉るのみ」。因りて高来の郡と曰ふ。〕 |
[3] |
「峰湯泉。在郡南。此湯泉之源出郡南高来峰西南之峰、流於東之。云々」
〔峰の湯の泉。郡の南に在り。この湯泉の源 郡の南の高来の峰の西南の峰より出で、東に流る。云々〕 |
[4] |
「温泉山ハ寛永年中高力攝津守忠房侯大定院之'旧'地ヲ興し一乘院萬明寺ト改大定院の'旧'跡ヲ襲キ四面宮別當トス。城主'并’ニ一郡内ノ祈願所ト成リ本堂護摩堂聖天堂釋迦堂再建に相成リ繁盛二百年余ノ久キヲ持ス」
※『温泉山縁起』のこの追書は、一乘院十四世法印 滿明寺宥乗 が、明治30年'旧'5月26日朝6時半頃護摩堂の裏より出火、焼失した大佛はじめ諸仏他の再建と、忠房勧請伝来の四面像や普賢妙見の三嶽社殿の建立のために志を募った勧進状[明治31年3月付]である(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月 p.572)。 |
[5] |
一乗院満明寺書上帳『島原御領 温泉山起立書』
大乗院満明寺は「行基菩薩之開基ニ而聖武皇帝之勅願所ニ而往古山内ニ千坊御座候由内七百坊別所與申所ニ有之 三百坊ハ釋迦堂近邊有之繁昌ニ(ママ)地而御座候 然共中頃切々致炎燒其後建立有之候處 折々邪宗門之爲に燒拂退轉仕候 然共有馬修理公御代に貳拾坊御取立御座候處松倉長門守公御代に邪宗門起こり寺院一宇も不殘燒拂申候其後高力攝津守公御代に三嶽'并'四面宮當院も御建立被成候儀ニ御座候 往古繁昌之節ハ寺領三千八百町御寄附有之候儀縁起ニ委く御座候 然共數度炎燒ニ而寺院退轉仕候旨申傳候 高力攝津守公'より’同左近大夫公御代'迄'當院'より'寺領百石被仰付候處 松平主殿頭様忠房公御代右寺領ヲ扶持御引替被成當御代まて御代々御扶持頂戴仕罷在申候」(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月 pp.565〜566) |
[6] |
『深溝世紀』:1669年、島原に移封された深溝松平家の治世の記録。
原著者:渡部政弼[雅号:松風] 溝上慶治読解 "仮名交じり文" 巻一〜巻二十三
(全18冊) 島原市教育委員会 / 平成7年〜平成18年
※ 島原図書館内 "肥前島原 松平文庫" 所蔵。
巻一に記された例言に、この書は「一藩の事跡を記し、天下の大勢に関わる者には非ず。然れども建国より藩籍奉還に至る三百餘年間、東西に封地を換え、古今、国務・世態・人情に處するの沿革は、焉を観るべき無きに非ざるなり。政弼嘗て命を承け、先世の行事を閲して心に謂えらく、其の稿本を具えて異日修史の者の用に充てんと。既にして廃藩に会し、主家東京に徙り、官僚悉く解散す。此の時に及び、編輯に人を俣ち果されずんば、恐らくは三百餘年の事跡は竟に湮滅に帰せん。是を以て固陋を忘れ、敢て其の梗概を叙ぶ。然れども知を極むること多くして謬見を疏する者、幸いに刪正せよ」とある。 |
[7] |
「文武天皇の大宝元年(一に天平二年と云う)僧行基日本山大乗院満明密寺(一に高来山一乗院と云う)を温泉山に剏む。数百年を経て寺塔益々繁衍す。小院は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊有り。元亀中白雀の乱興り、瀬戸石原の僧徒別所を攻め、火を放って悉く其の坊舎を焼く。(此の時、瀬戸石原・別所の僧皆愛童を蓄う。瀬戸石原の竜籠に白雀を養う。別所の童之を見て欣羨に堪えず。屡々之を乞うと雖も嗇にして与えず。竟に相刺して死す。是に於て二所の僧諍論を生じ、遂に兵を搆(ママ)えて相い戦う。瀬戸石原の僧火を放ち、別所の坊舎盡く焼亡す。大守有馬修理大夫義純兵三百を遣わして之を制し、纔かに鎮定することを得たり。世に之を白雀の乱と曰うと云う。)是に於て寺遂に衰う。寛永中有馬の賊又瀬戸石原を焼き、卆に其の寺を滅す」と(『深溝世紀 仮名交じり文』巻八 烈公 中 / 渡部政弼(松風)原著 溝上慶治読解 島原市教育委員会 平成7年〜平成18年 pp.24〜25)。 |
[8] |
「温泉山眞言宗一乘院儀 本寺京都 御室御所 仁和寺直御末寺ニ而御座候 山號 温泉山 此山號之儀往古'より'之山號ニ而御座候 尤熱湯涌出ニ付候山號ニ而御座候 寺號 満明寺 是も往古'より’之寺號ニ而繁昌之時分'より'一山之寺號ニ而御座 候」
(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月所収:『島原御領 温泉山起立書』 p.563)
※ 現在、四面大明神は、雲仙温泉島鉄バスターミナル前の国道57号線をほんの少し北に行った向かい側の、 "温泉神社" と記された石柱とその右横に "四面社" と彫られた小さくも古い石碑の傍の鳥居をくぐって、参道を進むとある(四面宮は1916(大正五)年 雲仙温泉神社と改称)。
四面・普賢・妙見の三ヶ所を支配していた温泉山真言宗一乗院は、歴史の紆余曲折の末、ややこしいことに、今ではかつて一乗院の末寺であった歓喜庵(南串山町)に移り、満明寺はかつての一乗院釈迦堂に宗教法人雲仙山満明寺として独立。一乗院の法類寺院となって、島鉄バスターミナル横のコンクリート階段上に建っている。
行基が開いたとされる大乗院満明寺「開山大宝元年四月」の石柱は島鉄バスターミナル向かいの "富喜屋" から南に下がったあたりにある。 |
[9] |
「臣の封邑肥前国島原の治城を距つること西三里、小濱村と曰う。高山屹立し、其の麓は四境に渉る。稍西にして地少しく平なる處に温泉を出だす。故に温泉山と號く。神祠(四面大明神)、佛刹(一乘院)民屋有り、浴湯の場と為す。是より登ること一里餘にして山頂に至る。普賢大士を安置す。故に又普賢山とも曰う」(『深溝世紀 仮名交じり文』巻十六 定公 ) |
[10] |
「明礬は止血剤や皮なめし、染物で染料を反物に固定させる媒染剤(ばいせんざい)としては不可欠なものである。古くは中国からの輸入に頼っていたが、江戸時代に入り国内生産が活発となった。宝暦13年(1763)ころの国内生産高は20万斤(120t)で、内訳は速見郡鶴見村(森藩領 別府市)7万斤(56t)、同野田村(幕府領 別府市)7万斤、薩摩3〜5万斤、肥前島原1万斤であった」
明礬は地中から鉱石を掘り出すのではなく、温泉の熱気が吹き上げているところに土をおおって数日おくと、土に結晶が塩のように付着するのだという。そこから精製して明礬を採取するようである。
( cf.「大分の歴史事典」 |
[11] |
『日本九峰修行日記』:文化九(1812)年九月、野田泉光院が57歳の折、時の佐土原藩主島津忠持の許可を得て、町人の従者平四郎[剛力として随行]を伴って郷里を出で、九州・山陰・北陸・中部・関東・奥羽・関東・東海・熊野と歩いて6年2ヶ月の旅を全うした記録。
文化九(1812)年「十一月廿三日曇天。島原村立、辰の刻。雲仙嶽へ赴く、一乘院迄五里、先年崩れたる山の鼻を'廻'る、焼けたる跡に大いなる池出來、崩れし山は草木の類一本もなく切立たる如くなり、麓より一乘院迄二里登る、山上の雪二尺計り、直ちに一乘院へ詣り、揚り切手を出し納經す。夫れより地獄'廻'りす、先つ三津の川、死出の山、紺屋の地獄、酒屋飯炊など云ふ地獄其數を知らす、其湯の湧き様によりて銘々に名付たり。'廻'り二十丁計り、高みもあり、谷も有り、所々湯湧き出る湯煙り天を覆ふ。谷下に明礬の製造場あり、其下に田地あり、百姓家十軒計、門前町十三四軒、普賢嶽は東三里にあり。大乗院は東向、四社明神は西向、旅宿は寺より割付出る、日は西山に落つる故に門前に宿り直ちに入湯す」
(『日本庶民生活史料集成』第二巻 三一書房刊 1969年 p.18)。 |
[12] |
「一 毎年四月八日佛生日九月九日四面宮祭禮ニ付前以朔日二日頃ニ當院'より'御仰申上候ヘハ 御徒士目附壹人御横目壹人中間壹人〆三人四月七日ニ御越同九日御歸 九月ニハ八日より御越同十日御歸
一 其之内參詣人等御座候ニ付町'并'村方'より'商人等小屋ヲ掛見世賣仕候 尤町者別當乙名村者庄屋乙名方'より'當院江當て手形參候ニ付 右之通小屋掛爲致差置可申候 右商人之儀當院'より'支配仕候」
(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月所収:『島原御領 温泉山起立書』 p.566) |
[13] |
「一 正五九月御武運長久御息災延命御祈'祷'護摩供修行仕御札差上來候
一 殿様江戸御發駕之節海陸安全御祈'祷'相勤二三日前ニ御札差上申候
一 御上'より'被仰付護摩修行亦者其外御祈'祷'被仰付候節 其節御様子次第二夜三日與續三日三夜又ハ七日與續 被仰付入具等御上より被仰付御祈'祷'御初穂金銀等被仰付候事ニ御座候
一 雨乞日乞等も御祈'祷'被仰付相勤申候事ニ御座候
一 雨乞御祈'祷'被仰付候節者御家老郡方御奉行'并'諸役人衆三嶽御代參ニ而御座候
一 當院'より'三嶽御祈'祷'相勤五穀成就之御札三拾三ヶ村家々へ相納申候
一 御上'より'耕作成就之御祈'祷'被仰付候節當地御領内之御祈'祷'相勤虫除等之御札被仰付差上申候 一村ニ壹枚宛て板札等も差上申候 尤入具等御少ク付差上代銀等被仰付御布施等被仰付候事ニ御座候
一 先御城主御代々唯今'迄'年始之御目見仕候 但し村方寺社頭御座仕候 御代者正月四日御留守之節御帳に付申候 尤御札差上申候
(中略)
一 寺附旦那有之申候 尤滅罪之'節'山近邊村々へ弟子共遣滅罪取行セ申候 北目'節'旦那東方閑村生松菴西目南目山'より'遠方者南串山村歡喜菴代'僧'ニ差遣し滅罪相勤申候
(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月所収:『島原御領 温泉山起立書』 pp.567〜568) |
[14] |
*[忠俔(ただみ):正徳元(1711)年〜元文三(1738)年 / 行年:28 / 諡号:悼公]
・元文元(1736)年「丙辰、正月十六日、老公[忠雄]の疾病なり。公[忠俔]衣帯を解かずして湯薬に侍す。其の危篤を度り書を為りて島原に告ぐ。諸士之を聞き護摩法(経音儀に云う、護摩は梵語なり。唐には火祭と曰う。邦人の燔柴の如し)を温泉山に修して平快を祈る」
*[忠馮(ただより):明和八(1771)年〜文政二(1819)年 / 行年:49 / 諡号:靖公]
・文化十三(1816)年七月「二十七日江戸より報ず、「世子疾有り頗る劇し」と。公平快を猛島祠及び温泉山四面祠に祈る。家士神佛に祈りて平快の符を献ず」
*[忠誠(ただなり):文政七(1824)年〜弘化四(1847)年 / 行年:24 / 諡号:平公]
・弘化二(1845)年五月「二十二日、公[忠誠]遽に疾み、寒気転筋す。医薬を薦めて稍解く。家士皆起居を候う。 二十五日、又発す。平快を猛島祠・温泉山に祈り、奥山彦十郎をして蟇目法を行ぜしむ。家士神佛に祈りて符ロク[竹+録]を献ず」
*[忠精(ただきよ):天保三(1832)年〜安政六(1859)年 / 行年:28 / 諡号:匡公]
・安政六(1859)年「六月二十日、公[忠精]疾有り、月城当直の士起居を候う」(中略)
二十七日、公用人をして代りて猛島及び五社の神祠を拝して平快を祈らしむ。二十八日暁、公の疾遽かに劇しく、衆医方を盡して之を治するも応ぜず。因って猛島祠・温泉山に祈り使者を遣わして宇佐八幡祠に祈らしめ、書を熊本の老臣に貽りて黄玄朴を借る(数日を径て来るも事に及ばず)。家士・庶人奔走して神佛に祈るも午時遂に薨ず」 |
[15] |
「頃日彗星東北に見われ、光芒三四尺、其の後稍西北に転ず。大なること太白の如く芒は一丈を過ぐ。此の月末に至りて昏に北に見われ、暁に西に抵り、長さは天に半ばす。府下に大疫あり、人多く死す。邸中にも亦疫に罹りて死亡する者多し。十七日感徳寺主を招き、大般若経を転読せしめて之を祷い、符を邸士に賜う。島原にも亦疫あり、入江河内に命じて猛島祠に祈禳せしめ、符を家士に賜う。此の時境内悉く流行す。村市民巷毎に神仏の壇位を設けて昼夜詣拝し、少年輩は道巫を請い、酒もて作気せしめて縦横に疫鬼を逐う。誦経、鉦・皷・螺の声日夜絶えず、猛島の神輿は不時に城内外・村市を巡行して以て疫を鎮む」
「彗星見われてより天下大疫して其の症は暴痢す。朝に瀉すれば夕に死し、伝染すること極めて捷し。人虎狼痢(コロリ)と呼ぶ。其の猛を言うなり。世始めて此の痢有り。医未だ治療の方を得ず。死する者太だ多し。彗星滅ゆるに及びて痢も亦従って息む。世を挙げて洋夷の伝うる所と為すと云う。島原より報ず、「封内に前月に死する者凡そ六百六十六人」と」 |
[16] |
*文政元(1818)年「七月八日、一乘院に命じて雨を温泉山の普賢祠に祈らしむ。板倉勝彪郡務吏を率いて公(忠馮)に代わりて山に登り、之を拜す」
*天保三(1832)年七月「二十八日普賢山(即ち温泉山)に登りて麻畑に至り、香を焚きて遙拜し、板倉勝彪をして代りて詣でしむるに(此の時家士皆前後に日を分ち、普賢、若しくは三岳に登りて雨を乞う)絶頂に至る比細雨俄かに降り、明日治下に微雨して尋いで連日或いは雨ふり或いは歇む。翌月十一日に至りて大いに雨ふり、田野湿潤す。是に於て村民大いに悦び、郡吏に因って、公(忠侯)及び官吏の祈請に頼って潤雨を得たるを謝す」
*天保八(1837)年六月二十日「公(忠侯)封内の祝司に命じ、会して豊穣を猛島祠に祈らしむ。又一乗院に命じて温泉山に祈らしむ」
十月「十三日、今夏五穀の豊熟を温泉山及び猛島祠に祈りて応験有り。各々米三苞を納めて之に賽す」
*安政三(1856)年「七月、島原五月より雨ふらず。五日、(藩主忠精は)入江河内及び一乗院に命じて之を祈らしめ、十二日又普賢山に祈り、老臣以下の諸官日を分ちて登りて拝す」
*安政六(1859)年八月「十五日、連日亢旱して田稼を傷い、雨を猛島祠・温泉山に祈る」
*元治元(1864)年八月二十二日「一乗院に命じて雨を温泉山に祈らしめ、家士交々詣拜す。比の日公(忠和)山に登りて自ら祷る」 |
[17] |
*延宝六(1678)年八月「五日、烈風甚雨し。明日の夜海溢れ城櫓を壊り人家を倒し(二千六百余家)大木を抜き(二千余章)田禾を耗す(五千石)。二豊の別封も亦風雨あり、屋を倒し(三百八十余家)田を耗す。(三千余石)。公之を聞き銀を災に遭う貧戸に貸す」
*延宝七(1679)年七月「二十一日島原大風あり。城櫓外廓破壊するもの過半、倒るる人屋千二百戸、耗る田禾七千七百余石なり。近隣の諸侯使を遣わして之を'とむら'う。諸民の災に遭う者に銀を貸し、且つ眉山の禁を解き、薪蒭["たきぎ" と "まぐさ"]を採るを免す」
*延宝九(1681)年「八月朔日島原に大風甚雨あり。屋を破り(二百余戸)稼を損ず(千二百余石)。 |
[18] |
天保二(1831)年六月「九日、是より先、多比良村の民相い議りて以て謂う、「旧荘屋村里四郎左衛門父子は商賣の胤(商家の子来りて荘屋を継ぐ)にして稼穡の事を知らず、此の人上に在りて村内太だ不便す。假荘屋中尾仁左衛門は農家の子にして耕種に詳しく、且つ善く村民を撫す。因って其の事を陳べて、数々四郎左衛門を廃し、仁左衛門を立てて真と為さんことを請うも、(時に四郎左衛門故有り、荘屋を罷めて仁左衛門之を摂す)吏輒ち之を却く。是に於て船津名の金左衛門・森名の松藏等村民三百余人を糾合し、将に和光院に頼りて東照宮に祈り、神力を假りて我が願を適えんとして先ず御宮山に聚会す。宮監某之を見、不可を説きて之を返す。村民又一乗院に祈らんと欲し、乃ち去りて温泉山に登る。此の時代官を御宮山に使わして之を喩さしめんとするも、至れば即ち既に去る。代官遂に多比良に赴き、村民の温泉より帰るに会す。乃ち召して其の由を問うに皆曰く、「嚮者数々請書を上るも聴許せられず、故に力を神佛に假りて以て之を成さんとするのみ」と。代官之を報ず。乃ち命じて金左衛門等を拘えしむ」 |
[19] |
・元禄元(1688)年「十月朔日、温泉山に登り、瑶珞たる躑躅花の染霜して紅葉するを観る」
・元禄三(1690)年九月「二十三日温泉山に登り、躑躅花の紅葉を観る」
・元禄七(1694)年八月「二十九日温泉山に登り紅葉を観る。一乗院に休う。其の灑掃修潔なるを嘉し米十苞を賜う」
・元禄九(1696)年九月「二十七日温泉山に登り、紅葉を観る」
・元禄十二(1699)年閏九月「二日温泉山に登りて紅葉を観る」 |
[20] |
禁制温泉山
一 從此境地内諸殺生事
一 猥伐狩竹木事
附躑躅堀(ママ)取'并'花折取事
一 野原放火之事
右條々堅ク停止者也 仍而如件
元文四年四月日 御名主
(『修験道資料集 ll』五来重 編 名著出版 昭和59年12月所収:『島原御領 温泉山起立書』 p.565) |
[付記]
『深溝世紀』に記された、寛文四(1792)年の普賢岳噴火災害については次の章で触れたい。
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