title.gifBarbaroi!
back.gif休暇村 雲仙(補説1)

休暇村 雲仙(補説2)

島原大変肥後迷惑






[『深溝世紀』にみる "普賢岳噴火災害" ]

 『深溝世紀 仮名交じり文』(渡部政弼(松風)原著 溝上慶治読解 島原市教育委員会 平成7年〜平成18年)を読むに至ったのは他愛ない動機からであった( cf. 休暇村あっちこっち "休暇村 雲仙(2)" )が、 "普賢岳噴火災害" に関する一連の記述は、いろいろな意味で、とても通り一遍に読み過ごすことはできなかった。

 とは言え、当時島原にあった人々の恐怖や悲惨を、どこまで我が身のものとして捉えることができたか分からないが、この箇所を読み進めるうち、時に藩主に、時に家臣に、時に民衆に感情移入している自分のいたことは驚きであった。

 ここには、大災害後の惨状と大災害に遭遇した人間のとる行動が "網羅" されていると言っていい。被災した人を助ける人間の行為も、救助活動の様子も、災害に乗じて悪事を働く人間や危険な状況であるにもかかわらず物見高い行動をとる人間の姿、遠隔地にまで広がる流言飛語、近隣の諸国からの援助や相互扶助の様子、横死した人々の埋葬とその後の供養、政庁を預かる藩主の大災害時における采配のしかたや決断、幕議を慮り避難をためらう家臣たちの心情、上級官庁(幕府)への報告等々。時代の "制約" はあっても、災害時に人間のとる行動や情動は驚くほど変わらない。

 それは「『深溝世紀』巻十六 定公 下」に記されている。

 定公とは、深溝松平が寛文九(1669)年島原に移封されてより六代目に当たる松平忠恕[ただひろ]の諡号である。
 第五代目島原藩主となるはずであった忠恕の兄忠祇(ただまさ)は「幼齢[注:数え年八歳]にして封を継ぎ長崎監務に任えず」として、幕府は深溝松平家を下野宇都宮に移封する。その下野宇都宮藩主となった忠祇が、宝暦十二(1762)年九月晦日退老したのに伴い、封地宇都宮を襲いだのが忠祇の弟忠恕すなわち定公である。それから12年、安永三(1774)年六月八日、再び幕命が下り、深溝松平は領地替えとなって島原に戻る。

 "寛政地変" ともいわれ "島原大変肥後迷惑" ともいわれる寛政の温泉[うんぜん]普賢岳噴火災害は、忠恕の島原における治世最晩年[寛政三(1791)年〜寛政四(1792)年]に発生する。

 さて、『深溝世紀』当該箇所に入る前に、この箇所に登場する人物や語彙等について、少し『深溝世紀』中の記述から拾い書きするなどしておきたい。

[人物]

忠恕(ただひろ)
 島原藩深溝松平四代藩主忠刻(ただとき)の次子。
 寛保二(1742)年壬戌七月四日島原に生まれる。幼名八十之助。
 宝暦八(1758)年九月十一日頂髪を剃り、俗字を将監と改める。
 宝暦十二(1762)年七月十八日下野宇都宮藩主にして兄の忠祇が将監を養子とし嗣子にすべく請書を作り、その請書を幕府に提出する。
 同年七月二十三日将監立ちて世子となり、同年九月晦日宇都宮を襲封。
 明和六(1769)年八月十五日眞田伊豆守幸弘の妹と婚姻をなす。
 安永三(1774)年六月八日島原に移封。

栄子
 中務忠睦の女(むすめ)にして忠恕の養女。
 天明六(1786)年12月9日、松平外記忠告が忠恕に栄子を娶らんことを請い、忠恕はこれを許諾する。

美保子
 忠恕の三女。
 安永二(1773)年二月晦日宇都宮に生まれる。
 寛政元(1789)年二月十三日松平山城守信古に嫁ぐ。

花房職喬
 忠恕の四男。
 明和四(1767)年九月二十九日江戸の邸に生まれる。幼名繁之助。
 安永四(1775)年十一月二十四日忠恕命じて繁之助を忠近と名づける。
 安永九(1780)年12月、花房大膳職雍、忠近を養って嗣とし、その女を彼に配することを請う。忠恕はこれを許諾する。同日大膳は請書を幕府に提出し、忠恕も書を以て老中に申し上げる。
 天明元(1781)年閏五月十八日忠近は花房氏に移り、名を職喬、俗字を左京と改める。

忠馮(ただより):
 忠恕の六男にして嗣子。
 明和八(1771)年四月六日嫡夫人の子として生まれる。この子を取り上げるのに嫡子の禮を以てし、七夜になって幼名を秀太郎と名づけて、幕府に世子であることを告げる。

中務
 島原藩深溝松平四代藩主忠刻(ただとき)の四男。忠恕の異母弟。
 寛延二(1749)年正月三日に生まれる。幼名七三郎。
 宝暦十(1760)年十一月二十二日公名忠胤を与えられる。
 明和元(1764)年十一月三日俗字を帯刀と改める。
 明和六(1769)年四月十一日、これより前、巨勢伊豆守忠義叔父が帯刀忠胤を養って嗣とし、その女を配したい旨申し入れ、忠恕はこれを許諾していたが、この日幕府がこれを允許する。
 明和六(1769)年十一月十五日帯刀は巨勢氏に移り、名を至健(ゆきたか)と改める。
 明和八(1771)年七月五日帯刀は病を得たため、養父巨勢伊豆守忠義の意を失い、離縁となって帰り、箕田臺の邸に居たが、忠恕は老中に告げて帯刀を宇都宮に遣って治療をさせる。
 安永三(1773)年十二月二十七日島原移封に伴い、帯刀もまた島原へ赴くのだが、この日、忠恕に会いに行き、留まること一夜にして島原へと出発する。
 安永八(1779)年六月十四日帯刀はその名を忠雅(ただよし)に改めたい旨、忠恕に相談する。忠恕は「唯々自分の好むところに随え」と答えるが、故あってその思いは果たせなかった。
 天明三(1783)年八月三日帯刀は俗称を中務と改める。

※栄子は中務忠睦の女(むすめ)ということであるが、『深溝世紀』中、"忠睦" の名を他に見つけられなかった。忠胤の別名か否か、他の史料に当たっていないのでここでは言及を避けたい。

戴公(たいこう)
 松平忠雄(ただたか)の諡号。忠雄は深溝松平の支族理兵衛伊行の次子にして忠房の養嗣子。忠房が寛文九(1669)年島原に移封されてより二代目の島原藩主。

[語彙 他]
・公:この箇所における「公」とは "忠恕" のこと。
・孤:君主(ここでは "忠恕" )の自称。
・瘧(おこり):マラリア。蚊が媒介。一定の間隔をおいて発熱する。
・疾癪(しっしゃく):不快が積もって起こる病気で、胸や腹に急に激痛を起こす。
・菊置錦 :菊の花の縫取(刺繍)を置いた錦か? 菊は不祥や邪気を払うとされる。
・東覲(とうきん):参勤交代で東の江戸に赴くこと。
・物頭 :弓組・鉄砲組などの長。足軽頭・同心頭の類。
・用人:老臣の次に位し、庶務・会計などに当たった職。
・大横目:大目付。藩内の監査を司る。
・稽首する:首が地につくまで体を屈して拝する。

・温泉山(うんぜんざん):かつて "雲仙" は "温泉" と表記されていた。
・眉山(まゆやま):烽火台があった。
 天明三(1783)年四月二十三日の条に「眉山の烽火竈積む所の薪木朽腐す。因って命じて更めて之を積ましむ」とある。
・島原城:森岳という流れ山に築かれた城。本丸と二の丸は幅広く深い内堀で囲まれ、三の丸はその外にあった。本丸・二の丸・三の丸をさらに取り囲むように惣構え(外郭)があり、それに沿って塀をめぐらして、矢狭間をもつ瓦葺きの練り塀で囲む。内部に上士屋敷(下士屋敷は郭外西)があり、七門(大手・諫早・桜・田町・先魁・東虎口・西虎口)で固めていたという。( cf. "SHIMABARA CASTLE OFFICIAL SITE" )
・月城:諸記録から、島原城の場合は三の丸御殿をいう由(「島原城天守閣事務所」高田氏にご教示いただく)。

・長崎監務:深溝松平は忠房のとき、寛文九(1669)年六月八日「汝累世の忠義吾敢えて遺れず、且つ其れ躬づからも亦数々公事に服して功労有り。即ち先人の志を執って墜さざる者、豈に褒奨莫かるべけんや。是を以て采邑二万石を加え、肥前島原城に移さん。夫れ島原の地は鎮撫最も難しと為す。故に其の人を擇びて之を遷す。能く我が意を體認し、益々忠義を勉めて以て成績有らしめよ」として、福知山から肥前島原に移封される。領地目録には「肥前島原(三万八千三百石)並びに豊前(一万三千五百四十石)豊後(一万四千五十石)の地凡そ六万五千九百石其れ之を領せよ」とあった。
 新封に就くに際し、深溝松平家は将軍より長崎監務を言い渡され、島原城に藏する甲仗船艦を賜う。これより後、深溝松平は、東覲の前、帰封の後及び阿蘭陀舶が港を出航する毎年九月二十日には必ず長崎に行って監視し、特名の書を作成して御用飛脚をもって見聞したことを幕府に報告する(奉行であってもその内容を知ることはできない)。このことを子孫に伝えて家格とする。
 また後日[寛文十二(1672)年八月五日]、老中は忠房と大久保出羽守忠朝の二人を召し、「耶蘓教の厳禁たるは諸蕃稔知する所なり。然れども長崎は外交の地なれば恐らくは夷舶陰に其の法を齎らして士民を誑誘すること有らん。二人能く之を按検せよ。若し帰向する者有らば乃ち奉行と議り、法に據って處置せよ」との命を伝え、禁令條目及び下知牒で嘗て長崎奉行に授けたものを謄寫して与えて、さらに「西海の九国を見て異事あらば即ち状を具えて報告せよ」と言う。『深溝世紀』は言う「世俗の我が家を九州監察者と謂うは、蓋し此の命有るに由るなり」と。

[備考]
・ (  ) :原文中にあるもともとの補足。
・ [  ] :現代語訳するに際し、筆者の補足したもの。
・ " " :コンピュータ上に示せない漢字(主に俗字)をもとの漢字に換えたもの。
・ □ :コンピュータに文字がないもの。




mayuyama.jpg
眉山は二つの溶岩ドームから成り, 左側の天狗山が1792年に大崩壊した.
前面の小丘群が山体崩壊物の「流れ山」.手前が島原市街地.
画像出典: インターネット博物館

寛政三(1791)年 辛亥

・二月十五日
 将軍、公を召して帰封を命じる。長崎監務は旧来と同様である。
・二月十六日
 [幕府は公に課せられた] 内桜田門の守衛を免じる。
・二月十九日
 これより以前、栄子は松平外記忠告の許嫁であったが、まだ婚姻をなさないうちに外記が死亡する。[そこで] 松平式部(後、長門守となる)忠寧が栄子を娶りたいと公に所望する。公、許諾する。
・二月二十五日
 [公、江戸より 島原のある] 西方へと帰途に就く。
・三月二十八日
 島原に帰る。
・四月朔日
 板倉勝健(八右衛門)が太刀、馬、金、酒魚を奉り、公に家督相続[諒承]の恩を謝す。公は法酒を置いて、腰刀( [銘] 末則)を板倉勝健に賜う。
・四月七日
 美保子離縁となり帰る。
・四月十日
 公、長崎を監視する(十三日帰る)。
・四月二十八日
 公、おこりを患う。中務八之進(中務の長男)および老臣や諸役人が毎日公の起居を伺う。
・五月四日
 栄子が宮中に所蔵されている菊置錦を[公に]薦め、[瘧疾(マラリア)の因となっている] 邪気を祓う。
・五月二十九日
 女が江戸において生まれる。保子と名づける。
・六月二日
 公のおこりが治癒し、菊置錦を栄子に返す。
・七月四日
 [公の病の]快癒と誕生日を祝って月城当直の者に酒食を供する。
・九月三日
 世嗣忠馮(ただより)が本邸に遷る。
・九月十七日
 公、長崎を監視する(二十一日に帰る)。
・九月二十二日
 花房職喬が死亡する。種徳寺(赤坂)に葬る。
・十月月二日
 公、南有馬において騎遊する。にわか雨があり、徒の者は雨を防ぐ蓑笠がなく、[菅や茅を菰のように編んだ]苫をかぶって帰る。
・十月月八日
 地が大いに震動し、夜になって(戌の時 [注:午後8時])殊に甚だしい。この日より連日[大地が]震動し、[その震動は] 或いは強く或いは緩やかである。
・十一月五日
 城使に、蓄えている予備の石数(三百三十石)を記して勘定所に献じさせる。一昨昨年幕府が諸侯に命じ、諸侯の扶持一万石毎に五十石を蓄えさせたによってである。
・十一月七日
 公、愛津において騎遊する。

寛政四(1792)年壬子

・正月十八日夜

 温泉山鳴動し、その音は城下に達して激しい雷鳴のようである。人は[みな]怪異なことだと思う。明くる朝温泉山を望み見ると、煙がさかんに生じ、絶え間なく湧き起こって天を覆い、その様子は夏雲のようである。そこで、役人を派遣して [温泉山の様子を] 調べさせる。山頂に普賢菩薩を安置してある。その祠の前三十間 [注:一間=1.81m] ばかり、陥没し湯を噴き出す穴が二つある。[その穴は] 直径三、四間、泥土を噴出して二町 [注:一町=109.09m] 以上外に流れ出ている。穴の中の湯気は極めて激しくあがり、煙と焔とが砂礫を巻きあげて飛揚し、[視界が] ぼんやりとして天が見えない。灰や砂が四方に勢いよく飛び散り、数里の間、草や木が悉く白く、まるで雪か霜を被ったようである。

・正月二十一日

 湯煙少々衰える。だが鳴動は過日に倍する。役人がその様子をうかがい、報じて言う、「わき出る湯は減ったとはいえ、激しく上がる気体はますます甚だしい」と。人々はこれを聞いて天変地異のあることを思いはかり大いに恐れる。

・二月四日

 穴迫谷が鳴動し、岸が崩れ石が落下する。

・二月六日

 巳時 [注:午前10時] [穴迫谷の] 鳴動殊に甚だしく、湯を発する穴は泥や砂を噴出する。だが温泉山の起こした活動に比べると [その動きは] 頗る微少、穴迫(三会村に係属)は[藩庁である]城を距てること二里余り、温泉の支山である(温泉山の起こした活動場所から距てること東に一里余り)。この地は至って険しく且つ震動していて、人は行き着くことができない。遙かにこれを計測するに、[谷の] 岸を破壊すること三丁余り、湯穴の大きさは知ることができない。

・二月九日

 公、文書を老中に呈して異変を注進する。その概略に曰く、「臣[わたくし]の封ぜられた領地肥前の国島原の城を距てること西に三里、小浜村という。高山がそびえ立ち、その麓は四方の境界に及んでいる。[山の]やや西で少々平らな所に温泉を湧出する。故に温泉山と号す。[ここには] 神祠(四面大明神)、寺院(一乗院)、民家があり、湯浴みの場としている。ここより登ること一里余りで山頂に至る。普賢菩薩を安置する。故にまた普賢山ともいう。この山が先月[一月]十八日激しく鳴動して噴煙が空を覆う。役人を派遣してこれを調べさせると、[普賢菩薩の]祠の前に二つの湯穴を生じ、泥土や砂礫を噴出してその勢いは猛烈である。 またその東北を穴迫といい、深い谷がある。本月[二月]四日震動し、[谷の]岸が崩れ砂石を転落させる。六日には[そこから]湯煙を発し、泥土を飛ばす。だがその勢いは温泉山の起こした活動と比べれば頗る微少である。この地は至って険しく人跡は絶えてない。それ故にその詳細を究明することができない。[現在のところ]田野や人畜に傷壊の被害がないけれども、希有の異変であるのであえて上聞する」と。

 この夜、穴迫の湯穴が火を発し、[その火が]谷じゅうに広がって両岸の草や木は悉く焼け、岩石は皆火となる。[火の]長さは百余間、幅は[長さの]半分以上と程度を増している。[火となった]この岩石が震動する毎に崩れて谷を転落するものが、樹木や石に触れ、粉々に砕け勢いよく飛び散ってまた谷底の草木を燃やし、その様子は極めて熾烈である。二、三日を経て火が燃え上がる様子は少々衰えたものの、再び大いに発し、谷じゅうに突如黒く焼けた石を現出して数日のうちに一小山となる。延焼はますます広まってとどまるところを知らない。[延焼は]次第に民家に近づき、人は皆憂え恐れる。この時温泉山の湯穴を発するものがやや平穏に近づき、その跡は池か沼のようで、ただただわき出る湯をふき上げること五、六尺 [注:一尺=0.303m] のみである。

 当初穴迫の燃岩が飛散するや、見る者で驚き怖れない者はなかった。[だが] そうこうしているうちに次第に燃岩の飛散する様子に狎れ、遊覧する者が日毎に多くなった。その後領内および近隣の村の男女が弁当をととのえて酒宴を設け、歌を歌う声、三味線の音が山野に充ち満ち、富家の老人が輿に乗って赴くことがあるまでになった。

 呂木、千本樹(村内の小字)では にわかに酒屋、茶店を設け、酔客が往き来して日夜絶えない。公、これを聞き 触れを出して遊覧を禁止する。ただ家の主で [山の]様子を探る者には許して山に赴かせる。

・二月二十九日

 温泉山の東北十余町、蜂窪という[所が]、まだ正午にならないころ、震動して湯煙を発す。

・閏二月三日

 その [蜂窪の] 西二町余り、飯洞岩という[所が]、また震動して湯煙を発す。その他少しく煙気を発するものがあちこちにある。蜂窪も飯洞もまた至って険しく人が往って湯穴の大きさを詳しく知ることはできない。これを山の下より遠望するに白雲がさかんに起こり、まるで山の洞穴から出ているようである。その色は朝と暮れ方、晴れと曇りとによってこれを変える。時に黒・白となり時に赤・黄となってはかり知ることができない。その後(この月[閏二月]下旬)火気を発し、震動はますます烈しい。穴迫遊覧の男女は行途の便利で近いことを理由にまた往って見る。人が多いと震動は平素より甚だしい。民衆は言う、「この山は諸々の峰を抜いて最も高くして尊い、そもそも婦女の月の穢れある者の来るのを憎む」と。そこで私的に立て札を立てて女子を禁ずる。

 当初温泉山が湯穴を生じると、人はその様子を聞いて甚だ恐れた。この地もまた猛烈なことは温泉山に劣らない。[温泉山に異変の生じた]始めには [人は] 憂慮していたが そうこうしているうちに狎れ、後に遊覧するに至る。公がこうした遊覧を禁止するに至って山野はひっそりとして人声がない。

・閏二月六日

 公、また文書を老中に呈してその状況を告げる。これより先、長崎奉行永井筑前守死去する(閏二月七日)。公、東覲前の監視をかねて、出かけて行って高木菊二郎(代官)および福岡侯の諸臣(両番所守衛者)に会い、長崎の状況を下問したところ 何事もない旨を報告したため [島原に] 帰る(十七日)。

・閏二月十四日

 一乗院、覚王院(小浜村の山伏)が 公の命を承け、護摩壇を比賀多良山(穴迫谷の下流)に築いて真言秘密の法[注:壇を設け、本尊を請じ、真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を観じて行う]を修し 、[温泉山の] 鎮火を祈ること七昼夜、そして境域内の神官、僧侶は、或いは命を承け或いは私的にみんな祈り祓う。

・閏二月十五日

 これより前 銕砲町(小役人の住居する町の名)杉岡某の家が地震の度に柱の下が鳴動し、棚の上の器物が悉く顛倒する。この日、役人に命じて試しに[柱の下]を掘ってみる。五、六尺に至って普通と異なった状態はなく鳴動は結局止む。

・三月朔日

 これより先 地震が一日としてない日はない。この日申の刻[注:午後4時]後また大いに[大地が]震動し、夜になってますます甚だしく、震動する毎に温泉および眉山が崩れ、その音はどよめいて まるで荒れ狂う浪が湧くようである。また時に大砲を発する[ような]音があり、雷のような音をさかんにとどろかせ震わして[それが]山頂より東の海に達する。民衆は皆言う、いつもの地震とは異なると。諸々の家臣たちは登城して公の動静を伺う。公は小役人をして村や市中を巡行せしめ不慮の災難を警戒させる。往来の男女が地震を避け、荷物を担いで奔走するありさまはまるで東西に機を織るようである。家臣の家族は或いは月城に避難し或いは宅地に蓆を敷いて そうして朝を待つ。夜半 公は布令して、異変に応じて対処させる。その概略に曰く、「燃岩が平地に至り、或いは山水が流出したならば、境域内の村役人は時を移さずその所有する船舶を悉く出し領内に物資を運べ」と。[また]曰く、「燃岩が人家に迫らば、市民は必ず南條の村落に避難せよ」と。[また]曰く、「山麓に見回り所を設置し、山奉行などは日夜交替して当直し[山の]状況を望み見て、もし異変の起こるようなことがあれば速やかに知らせよ。この時早鐘を撞いて侍といわず庶民といわずすべての者に告げよ。[早鐘の撞き方として] 二区切りは山水の流出とし、三区切りは燃岩の切迫とする」と。[また]曰く、「燃岩がすでに浄林寺に至ったならば、幕府および先祖代々の位牌は奉じて北村の仏寺に移せ。中務および子供たちは守山、山田村に避難せよ。この時にあたり、米倉に積んである米穀は諸村に移せ」と。[また]曰く、「城中の火薬は予め穴倉を諸村にうがち、異変あるに従って、方向を選んで移し替え、海路を漕してこれをいたせ。或いは至急にして船に乗せるに暇がなければ、ただちに城の堀に投げ込め。武器は皆富岡に移せ。ただ長崎における外寇に備えるものを留め置いて山田の本陣に置け」と。[また]曰く、「家臣の家族は多比良村以北に物資を多く止めおく場所をつくり、その糧食の米は勘定奉行がこれを出して助けよ」と。[また]曰く、「家臣が [避難先に] 移った後は町の中は空虚であるので恐らくは窃盗があるだろう。物頭は組の者どもを率いて日夜城の内外を巡視せよ。大目付は職務の合間にもまた所属する役人を率いて巡視せよ。夜はすなわち拍子木を打ち鳴らして巡視し窃盗の起きないよう戒め、主人がその家を留守する者もまた拍子木を打ち鳴らしてこれに応え、そのようにして夜間数回自分の居る町なかを巡行して、もし変事があるならばその拍子木をはげしく打ち鳴らして知らせよ」と。[また]曰く、「老臣や番頭は昼間は城の内郭を巡察し、城代は日夜城の外郭を守衛せよ。諸々の士分にある者および衛士で進仕して月城において当直する者は、平日のようにせよ。ただし昼夜代わり合って番にあたり その [殿舎の中の] 部屋を誰もいない状態にしてはならない。大手門の守衛は失火の時のようにし、物頭、馬廻りがこれに当直せよ。その上に 取次ぎ[の者]を加えて他国の使者が来るのに備えよ」と。[また]曰く、「官船は皆船出の準備をし、米、薪、塩、味噌を積み込んで内港に繋留し、公家の用向きに備えよ。諸村の船舶で領内に来る船は家臣の用具を漕運するのに充当せよ」と。[また]曰く、「燃岩が鉄砲町に達したならば そこに留まっている者は必ず城内の空いた部屋に移動せよ。この[燃岩が鉄砲町に達した]時 人足を起用して燃岩[流]の道筋にある家を毀すのに充て、普請奉行は役職にある者たちを率いてこれを指揮せよ。[燃岩が]すでに城の外郭に及んだならば孤はそこでこれを避けるであろう。[われに]従う者は大手門外に待て。これより船に乗り、海上より景況を視よう。さらに[燃岩が]本丸に至り[本丸が]燼滅すれば、そこで山田村に赴くであろう。もし山水あるもまた然り」と。[また]曰く、「山水がにわかに出づれば 孤および子供らは本丸に避けるであろう。この時 船手は小舟二艘を運び来て諸人を捌け」と。[また]曰く、「家臣の家族は水と火とを論ぜず月城下の空き地に集まれ(家が郭内にあるからである)。役人はその避ける所を指授せよ。小役人の家族は([家が]郭外にあるからである[が]) 都合の良さにしたがって 水や火を避けてよい。もし水火が蔓延し、道路が梗塞するならば そこでまた月城の外にやって来ること。みんな肩にたすきを施して[身の]証となし、そうして城門を出入りせよ。右の条目は予め変に応じての方策を示したものである。衆人はこれを周知せよ。諸役人はその職の用件に関しては 各々がよくこれを調査し、変事に臨んで誤ることのないようにせよ」と。

・三月二日

 前夜より大地震が相続き、室内のへだてとなるものを悉く屋外に放り出す。明け方に間がある、しかしながら昼夜動揺し、[ちょうど]その時にあったものか また大いに震う。

・三月三日

 三日の地震は先日に比べやや緩やかである。数日の地震で領内の所々が地割れする。大方の割れ目は西から東に走る。当初は差し渡しが一、二寸ばかり[だったが]、震動する毎にだんだんと開き、甚だしいものは一尺余りになって[その割れ目の]深さは測ることができない。試しに小石を投げてみるに、しばらくして音がした。去年の冬より今に至るまでしばしば大いに[大地が]震動し、石垣の大半は崩壊した。安徳村・今村名(島原村内の小字)等、庶民の家で完全なものはなく、人と家畜とがかなり死傷する。この日、公はまた文書を老中に呈してその状況を告げる。郡の役人が見回り所を折橋・六樹等に設け、交替で当直して山の様子を望み見て、様子を報告する。全村の船舶は悉くやって来て小深に繋留し、皆合図の旗を建てる。およそ千余艘である。これより前、山水と燃岩の異変に際しての早鐘の件について布令しこれを[人々にあまねく]告知する。それ故に臨機応変の処置として諸寺が梵鐘を撞くのを休止する。時報の鐘楼は石を積み重ねて基礎とし、高さは数丈[注:1丈=約3m]だ[が]、朔日の地震で破壊される。そのため仮の楼を組み立てて鐘を撞くが、地が低いため音が遠方に達しない。人は皆[鐘の音が聞こえないことに]困苦する。

・三月六日

 公の子供たちが山田村に避難する。(一説に守山村という。数日にして[城に]帰る。[帰った]日は詳しくは分からない)

・三月九日

 眉山の前に一つの支山がある(南北百二十間、東西五、六十間)、楠が生い茂っている。故に世間一般にはヨ[木+予+象]章山と呼ぶ。この日天気は穏やかでのどかであったのに[何の]理由もなくひとりでにヨ[木+予+象]章山がその場を]抜け出て、東に移動すること八、九十間、人はこれを異様なこととし、行って[移動した]跡を見ると、ただただ赤岩が盤踞するだけであった。連日の地震で、近隣諸国の山で温泉山脈に集まり向かう山もまた鳴動する。人は皆大いに恐れ、変事が四方に噂として伝わり種々の根も葉もない言説があって、都、大坂等では伝えて言うことには、「島原の眉山上に火の燃えさかる穴が生じ、山はまさに赤裸になろうとしている。妖気をはらんだ鬼で頭に三本の角を生やした者や、額がぱっくりと開いた一つ目なる者があり、[それらの者が]夜 町なかを徘徊している」と。或いは[また]言うことには、「眉山が崩壊して島原城を押し潰し、領内の人や家畜は悉く死んでしまった」と。またその図を作って販売する者があるに至るという。近隣諸国の諸侯は地震のあるを聞くとすぐに皆使者を派遣し[当藩を]見舞って、日夜 足繁く行き来する。そうではあるが[中でも]佐賀侯は特に手厚い。度々[当藩を]訪問し人を佐賀藩内に留めて我が[藩の]用務を捌かせ、また役人および官船を神代(佐賀の地で島原にある土地)に置いて非常の変災に備える。これより前は諸侯の使者が来れば、新町の別当の家において接待していた。新町の家並みは瓦で葺いてある。[そのため]地震の度にその鳴動は草葺きの家に倍する。或る日或る諸侯の使者が来訪した。役人が出てその使者を接待した。[が]ちょうどその時大いに[大地が]震動し、屋根瓦が皆揺れ動いてその音は激しい雷のようであった。使者がたいそう驚き恐れて言うことには、「事は聞くところより甚だしい」と。[その使者は]慌ただしく立ち去った。或る時は 徒の侍で書信を携えて来て見舞った者で、地震を畏れ返書を受け取らないで逃げ帰った者があった。そこで改めて杉谷の荘屋および晴雲寺をして応接の場所とした。

・三月中旬

 この月中旬になって地震はやや休息する。そこで月城や諸門の交替しての当直をやめ、領内の召し出していた船を返す。そして市民で地震を避けていた者が徐々に家に帰り、領内の繁盛は復旧に近づき、人は初めて間違いなく安全だと思った。だがしかし市人は長い間家を離れていたことからまだ生業に就かず、市中の店において米穀雑品を販売する者がなく 人は大いに困り、どうかすると貧しい家に至っては糧食がとぼしい[状態になっている]。公は米倉を開いて市人に米を施し救う。

・三月二十五日

 蜂窪が震動によって唖渓(温泉山内)に毒石を出現させる。役人で山の様子を探る者や或いは木樵りがここを通り過ぎる時に、呼吸がたちまちにして詰まり、意識が朦朧とする。狐や兎、鳥類でその[毒石の]傍に死ぬものが有る。そのため渓の入り口に立て札を立てて人が[唖渓に]行くのを禁止する。

・四月朔日〜二日

 終日陰鬱な曇り空、酉の刻 [午後6時] の後大いに震動すること二回、眉山が二つに裂け開けて前海に放り込まれ、たいそうな山水を出す。海は裂けた山のために逆巻き、また大浪を起こして市中の街並みを一掃し尽くし、[さらに浪は]広がって近くの村および他藩に及ぶ。この時山海が鳴動し、まるで天が折れ地が欠けるようであった。

 家臣たちは異変のあるを知り、月城に登って動静を伺う。公は役人に命じて村市を巡行させ、その状況を視察させる。

 道路に駆け回る者の衣服は濡れ汚れ、或いは泥が混ざり、皆役人を迎えて洪水を告げる。大手門に至る頃、夜はすでに暗黒となり、わずかな距離にあってもその物の色を識別することができない。[大手]門外の高く聳える松の木が門に差し渡す横木を覆い隠し屋根を破壊し、積み重なって山となっている。その[積み重なった物の]下に怒号して救助を求める声がある。そこで手燭を照らして声を認め、行ってこれを捜索するが竹が幾重にも重なって助け出すことができない。そのため大きな鋤きでたわめつり下げてこれを剪り除く。或いは柱や梁などの巨材に挟まれた者はノコギリで[巨材を]切って出す。その[救出された]人は大概負傷していても口に出して言うことができない。これらの人を城門の中に送致して、火を焚いて温め、薬湯を与えて治療する。がしかし死亡する者が多い。

 当初、役人は負傷者を救うために竹木をとり除き、人の声を認めてそしてそれらの人を救出して思うことに、災害は洪水だけであると。[ところが]明け方、眉山を仰ぎ見ると[眉山は]その半分を割き、海中には無数の島々を生み出している。町は変じて砂の丘陵となり、死屍があちこちに重なり合っている。そこで初めて山海が共に水を出だしたことを知ったのである。その水の深いことは三、四丈[注:約9m〜12m]、高い木の上に茅の屋根や家財が引懸かっている。そうして一抱えもある大きな木も根こそぎになり幹が断ち切れている。人で沈み溺れた者は生者死者とも皆裸体で、そうでなければ衣服は裂けてぼろとなっている。水勢の激しいことが知れよう。役人が人夫を率いて被災地を巡ると、顔が割け砕かれた者、脇腹を締めくじかれた者があり、[また]腹や背を負傷する者あり、手足を切断する者あり、半身が地に埋まる者あり、巨木が身体を圧する者があり、それらの人で息がまだ絶えていなければ助けて養生場に搬送する。この時養生場を大手、田町門内および月城の外に設置し、大釜で薬を煎じ、大鍋で練り薬を練る。医師が数十人(官医[だけ]では足りず、村医者三十余人を召し出して[これらの人々を]助けさせる) 或る者は投薬し、或る者は練り薬を塗り、白木綿を裂いて負傷者を包み、古い着物やむしろをかぶせ、火を焚いてそれらの人を温めて、[各人の]害せられるところにしたがって治療を施す。上および下の厨房では飯を炊き粥を煮、しもべの者がこれを運んで役人と人々および怪我を負った者にふるまう(上の厨房で飯を炊いて役人と人々の食べ物とし、下の厨房で粥を煮て怪我を負った者に与える)。

 役人が午の刻[午前12時]に白地[注:地名]に至ると死傷者がさらに多くある。ひとりの男子 歳は二十四、五ほど[の者が]、善法寺の門前に倒れていた。その顔は[何か]物に突き当たり、目の玉が潰れ出てまぶたの外に垂れ下がり雑木が肩、胴、背中に刺さっている。見る者はいたみ悲しみ魂消てしまった。同じくこの者を大手[の養生場]に搬送する。この人が喫煙を求めた。人夫が彼に[たばこを]与える。そこで[彼は]一、二回吸い終えて、医師に言うことには、「わたしは言うまでもなく生きることのできる者ではない。願うのはこの[身体に刺さった]木を抜いて死にたいものだ」と。医師が試みに木を揺り動かすと、[身体に刺さった木の]本末が砕け、骨髄を引き攣らせる。[木を]左右に回転し、力をこめて木を引き抜く。この人 自若として痛み苦しむ様子がない。そうこうするうちに[その人が]喜んで曰く、「たいそう快い。厚く医を感謝する」と。間もなくして[この人は]息絶えた。人が申し上げて曰く、「この男 [身分は]卑賤であるが大丈夫の胆力がある」と。何者かを尋ねると白土船津の漁師であった(名は伝わっていない)。

 地下に人の声がある。穴を穿つこと一丈五、六尺、ひとりの男子を救出する。[その人]曰く、「[四月]一日の地震の際、家を逃れ今にも後ろの戸から出ようとした時に、洪水の波が来て家を倒した。その後のことはぼんやりとして憶えていない。遠くに鶏の鳴き声を聞き、初めて人心地を取り戻し[洪水の襲い来た]前後を顧みると、[自分の]体は屋根の茅くずや壊れた材木の中に埋まっていた。声を張りあげて救助を求めたが人で[私の]声を聞く者はなかった。長時間経ち腹が減り、気力が尽きて、発する声に力がなくなり、人知れず終いに痩せ衰えて死ぬであろうことを恐れていたとき、幸いに皆がやって来て思いがけず救助するのに出会い、露命をつなぐことができた。[壊れた材木などの下に]陥っていた時の私の苦しみはどうかこれを推察せよ」と。[彼は]厚く感謝して去った。

 片町に商人の荘平という者があった。[四月]一日、近村に行って商売をし、利益を得ることがいつもより多かった。大いに喜び、帰って妻に言ったことには、「月初めに利潤があるのは我が商いの吉兆である。当然お礼の酒をえびす神に供えなければならない」と。酒一升を買って曰く、「自分は二合五勺を飲んで十分である。その量を供えよう」と。そこで小さな焼きものの器に酌んでこれを[えびす神に]献上し、二度拝礼して曰く、「これは神を迎える酒である。自分が謹んで戴きよき運を祈ろう」と。[神棚より]下げて[供えた酒を]飲む。少し酒に酔って興に乗り、また焼きものの器に[酒を]酌んでこれを献上して曰く、「請う、明日も我が家にあって我が家を富ませよ。これは神を留める酒である」と。供えて下げ 飲んだ。すっかり酒に酔うに至り、また酌んで曰く、「再び明神が戻る。請う、前もって送りたい[ものだ]。これは神を送る酒である」と。供えかつ飲み、まだ飲み尽くさずに、泥酔して寝てしまった。さて大浪が来て荘平をほしいままにする。[藩庁のある]城の外堤に漂着してそれでもなお荘平はこうしたことを知らなかったのである。夜半に酔いが醒めてあたりを見ると、四方は暗黒で[そこが]どこであるかを識別することができない。左右を憶測すると城の堤にいるようである。たいそう怪しんで思うに、前に自分は我が家の部屋に寝た。どうしてこの地にあるのか。しかも衣服が濡れしみ透っているのもまたどうしてなのかと。首をもたげて周囲を見まわすと、城の上の灯りが星のように連なって早鐘がしきりに鳴り、悲しみ叫び泣く声があちこちに起こる。そのため思うに、自分は死んで閻魔大王の役所にやって来たか、その灯りや早鐘はおそらく閻魔大王が地獄におもむき、獄卒を召し出しているのだ。悲しみ叫び泣くのは罪人が責め苦を受け苦悶の声をあげているのだ。自分の衣服の濡れしみ透っているのは娑婆において水で濡らすこと三日、[死者の]衣服を日光にさらしているのだ(民間の習俗に人が死んで三日間、[死者の]衣服を日光にさらし、水に濡らして乾かないようにさせる。曰く、冥土を行く者が火の山を越えるに際し[死者の衣服を]濡らしてその熱を消すのだと)。だがしかし事細かにその声を聞くと、郷里の音にして耳に慣れ親しんでいるところのもの、自分の衣服もまた常日頃着ているところのもので冥土を行く衣服ではない。そうであるならばつまり自分は死んだのではないのか、疑惑はまだ解けない。試しに自分の股を捻ってみると依然として痛みを覚える。城の上の様子を見ると以前見るところのもののようである。ここに於いて生きていることをはっきりと知る。城の堤を降りて片町を捜し求めるが街は悉く砂の河原となり、我が家がどこにあるかも分からない。父母妻子を尋ね求めようとするけれども東西も向かう方角もはっきりしない。茫然として[その場に]立ちつくす。明け方になって初めて変災を知り、神代に昔からの知り合いがあるのを思い、ただちに[神代に]行ってその人に頼る。(別本大変記)

 この災害は、山と海とが一時に崩れ溢れて、庶民の押し潰され溺れて死傷する者が非常に多い。幸いにして難を逃れた者もまた親を喪失し子を亡くし、悲しみ叫び泣く声は道路に充満する。或いは一家すべてが流され亡くなって魂魄の帰るところのない者があり、その惨状は[ことばにして]言うことができない。公は深く憂え苦しみ、役人に命じて[こうした人々を]哀れみ恵ませる。ただちに急使を派遣して老中に報告させて曰く、「臣[わたくし]の封ぜられた領地島原が、昨日の夕暮れ時に地が大いに震動し、眉山が崩壊して水を出し、海が溢れて大浪を起こして、たちまちのうちに領内の市街をすっかり流し去る。近辺の村落では人民がこの災害のために押し潰され溺れて、死傷者は数えることができない。その崩壊したところの山が海に投げ出され、数カ所に島を生じている。だが城郭は無事である。非常の変災であるのでまず見たところのことについて敢えて一報する」と。

 公が今まさに変災を避けようとして、再び[老中に]急使を派遣して曰く、「領地[島原]は変災の後も地震が未だ止まず、山嶽が鳴動している。しかも政務を取り扱う城は高大な山の域内にあり、災害の復興は[どれくらい日数がかかるか]見積もることができない。故にしばらく近村に避難して様子を見たい。あえて申し上げる」。また曰く、「ただ今臣わたくしは東覲の時期に当たっているが、領地に不慮の変災あり、さまざまな処置を指揮し、しかる後に出立したいと思う。こうした事情で東覲の期日を遅らせることをこいねがう」と。公が守山に赴くのを多くの家士たちが見送る。公が言うことには、「ただ今の変災は言語をもって表すことのできる者はいない。孤の城中を去るについては、[自らの]もともとの意志でないとはいえ 多くの家臣たちの勧めにもまた一理ある。しばらくはみなの進言にしたがって変災を避ける。また当然他日下知があるであろう。その際は各々職掌を守り、少しも怠ることなきよう。数日 骨折って勤め、今またその勤めに重ねるに留守を任せる。その労苦を極めてよく知ってはいるがさらに旗の下に 命じられた職務をとり行え」と。この時 川井治太夫(利強)が班列を出 稽首して曰く、「閣下が[私ども]家臣の者らを心にかけ 変災を避けるのにまずその願いをもってする。仁愛を垂れ恩を施すこと極めて深い。だがしかし城郭は幕府の委託するところ[のもの]、城を捨てて他所に赴く[ことについて]、未だ他日幕議がどのような議決を下すかを知らない。願わくはこの点を熟慮せよ」と。公 曰く、「汝の言は道理である。だがしかし孤は別に思うところがある、思慮をし過ぎて心を煩わせるでない」と。終に[避難地守山へ向けて]発し、桜門より往く。公子たちがこれに従う。これより前、家士たちで避難する者に申しつけて湯江以北、守山以南の八つの村に居させ、そうして役人に糧米を運ばせて仮の宿所を定めさせる。この日また命を伝え、城中の守衛を除く外は、速やかにその仮住まいに赴かせる。

・四月三日

 役人が市内を巡行し、人足を雇って竹や木の散在するものを収拾する。竹木の下の死体は数え切れない。浄源寺・安養寺・その他数カ所に穴を掘ってこれを埋める。数日が経つにおよび、温気が死体を蒸して悪臭が鼻をつき、人足はこの悪臭に苦しむ。そこで人足の賃金を増やし、また酒を与えてせいを出させ、牢[に収監]中の軽い罪状の者を出して人足の仕事を助けさせる(事が完了した後、その罪一等を減ず)。そうこうしているうちに大卒塔婆を建てて、百人塚と名づける。村市の人民で災害に遭った者、および軽傷を被って藩の療養を受けた者が徐々に親戚・縁故の家に赴き、そうして幼児・老人で帰る所のない者はさらに養育する。

 さて島原村の久左衛門の妻、清水郷の六右衛門の妻、澁江源太夫の母が孤児に乳を与えて育て養う。泥川清六は傷ついた者を泊めて治療を施す。三會村の孫八は老女を養う。柏野名の富右衛門は年とった男を養う。有田村の伊三郎は子どもが裸であるのを見て、着ているものを脱いでその子に与える。皆すがるところのない者である。公は[これらの話を]聞いて[善行を施した人々を]褒賞する。

 この度の災害で藩庁のある城の南北六、七里、海に面した十七村が流れてすっかりなくなってしまう(杉谷・三会・三澤・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒・西郷・深江・布津・堂崎・有田・町村・隈田・北有馬・南有馬潮勢、北は西郷に至り、南は南有馬大江崎に至って[水勢は]衰えるという)。そして島原・安徳・中木場村の数名[注:名(みょう)。開墾・買得などの種々の原因で取得した田地に、取得者の名を冠して、その保有権を表明したもので、その持主を名主(みょうしゅ)と呼んだ]は山につぶされ、人畜で生きているものはない(島原村の今村・上原の二名、安徳村の北名、中木場村の某名)。治城も南、長さ十余町、広さ三、四町(善法寺より江東寺の所に至る)は土地が窪んで池となり(人が多く筏を組んで金帛[注:黄金と絹織物]を拾いあげ、急にその家を富ませる者がある)、船津は(三軒屋近傍)砂や土が堆積して丘となり、その高いことは一丈余り(また土を掘って物を得る者が多く、或る者は大判金を得る。人が言う、世間に通用している貨幣ではなく、庶民でこの大判金を所蔵するわけはない。そもそも公家が猛島祠に納めたもの、当然これをもとに戻すべきであると。そこでその言に従うという)。

・四月五日

 公が羽太伊清に命令を伝えさせて曰く、「ただ今の変災は大昔から比べるものなく多くの家士たちがまだ城中に留まって[城を]守っている。孤は深く地震の未だ終息しないのを恐れている。再び災害が起こったならば当然皆[城を]去ってその被害を避けるべきである。ではあるが おまえたちに意見があるならばそれを述べて隠すでない」と。家臣たちはこもごも議論し、申し上げて曰く、「閣下が群臣のために御心を労し、感恩肝に銘じる。だがしかし家臣の者たちが城を去るならば[そのことについての]幕府評定の是非について帰するところを知らない。我ら家臣はひそかにこの点を思い案じ心を安んぜずにいる。そのために[公の]指令に背き畏縮に耐えないけれども自分ひとりであってもなお生きていれば、固く城郭を守りたいと思う。この志は矢の如く一途にして他意はない。伏して請い願うことにはどうかこれを十分に察せよ」と。伊清は復命した。

・四月六日

 公はまた星野藤右衛門(用人)をして書を以て[臣下の意見に対し]論説させて曰く、「城を退避するという企ては、幕議を考慮して[孤の]身命を顧みない金石のように不変の[孤の]意志、孤はほんとうに[城から退避することをおまえたちに]依頼する。しかしながら、大手および諸門を閉ざして唯一諫早門を開き、家士が交番して守衛をすれば、城を空にして去ると言うことはできない。先日の変災によって大手の道路は塞がっている。そのために大手門を閉ざすことは既に老中に告げ知らせた。また諸侯で或いは城外に館を構えてそこに住む者があれば、ただちに今城を離れるといえどもそれでも守衛はまだ城にあり、どうして幕府の意向に背くことがあろうか[幕旨に背くことはない]。皆は疑念を差し挟むことなく、ひたすら速やかに城を去れ」と。藤右衛門はまた公の意向を口述して曰く、「多くの家士たちが城中にあって、もし皆が罹災して死亡するならば孤は面目をもって人に会うことはないであろう。その上ただ今のことは、敵に対し[門を]封じて城を守るのとは事情を異にしている。[城を]出て他所に往くといっても人が どうしてこれを非難する者があろうか[ありはしない]。しかもなお[この度の避難が]幕府の意向に違うならばそれは天から与えられた運命であり天のさだめである。ほかにこれを如何にしようか[如何ともすることができない]。みなの者はこの点を了解し、速やかに[城を]出てそして孤の心を安らかにせよ」と。皆 稽首して承諾する。

 この日鍋島弥平左衛門(神代の主、佐賀侯の老臣)が守山の公の館に来て変災を見舞う。公は弥平左衛門に会い、うち解けて語り、時が経って[弥平左衛門は]帰る。

・四月七日

 城を出て避難するという議決をし、官僚たちを近村に移し、景花園をもって会議所とし、時を報じる鐘を諫早門に置いて登城の時を告げる。或いはまた火水の変災が生じたならば[その鐘を]撞くのに[かねて命のあった]区切り打ちをして[急を]知らせる。この時災害に遭った傷がまだ癒えず、公の養生場に赴く者はあちこちの村に割り当てて糧食・医薬を与える。城門は大手を閉ざし、その他[の門]を開いて往来に役立てる。そして城中の守衛、[城]内外巡邏の家臣は居留し、その他の者は皆城を退去する。

・四月八日

 家臣は悉く村落に移り、城中はもの寂しく静かである。川井治太夫は桜門を守衛して感慨に堪えず、割腹して死ぬ。これは城を去って避難することの不可なるを陳述して受け入れられなかったためである。

 人皆川井治太夫の志節を憐れむ。

 史実を記録する役人曰く、「定公は諫言を聞き入れない主君ではない。だが[川井治太夫]利強の言が行われなかったのはなぜか。そもそも非常の変災に公が家臣たちの罹災を考慮し、寧ろその身を遺して皆の者の望みとなるのは君主の人民を愛する至誠の心より出づ、そしてその他を顧みないのは即ち時に臨んで行使する[注:"措時"は 禮・中庸 二十三章「時措之宜也」に拠るか ]権力である。[一方]利強が武士は国のために死ぬという義にもとづき、たちまちその命を捨て[武士として]素志を成し遂げるのは人の臣たる者が主君に仕えるための節操を固守して終始変わらない、ただちに真っ直ぐな道を執る者の常法である。君臣の一権と一常法が並び行われてその宜しきを失っていない。故に各々がその職分を全うして非難すべき欠点はない。しかしながら或る者は言う『公は変災を怖れて諫言を拒み、利強は[諫言するという]事態に[情が]激して徒に死ぬ』と。どうして本意を知る者があろうか[ありはしない]。

 領内の人民で災害を免れた者は再び変災のあるであろうことを恐れ、急ぎ慌てて朝に夕に必要な用具をまとめて去った。数日を経るに及んで人気のない家に入り物を盗む者が多くなる。役人はこれらの者を捕縛して牢獄に繋ぐ。また邪な民で人心の危惧に乘じて根も葉もない噂を吹聴し民衆を惑わす者がある。そこで布令を出して[そうした浮説を]禁じる。重ねて郡奉行が所属の役人を率いて村内を巡り歩いて取り締まり、疑いある者は捕らえて取り調べる。

・四月十日

 役人が山の様子を探り状況を報告して曰く、「眉山は日毎に崩れ、舞岳・呂木山(共に温泉の支山)の山林が焼けることは先日より甚だしく、呂木の火はすでに鹿垣[注:枝つきの木で作ったさかもぎ。猪や鹿の侵入を防ぐための垣]を乗り越えること八間ばかり。上原の民家の井戸が溢れ、水は家の軒を浸し、流れて巨大な川になっている。眉山の割け開けた跡は地震の度毎に砂礫を落とし、その音はまるで大水が流れるようである」と。公は領内の神職や僧侶に命じて温泉山の鎮定を祈らせ、また使者を讃岐・遠江に派遣して金比羅・秋葉の山の神に祈らせる。高波が領内を一掃するが早いか、城郭を避けてやって来て、大手門の外の丈の高い松(高さ三丈余り、門から隔たること数歩)の上に雑草や塵芥を引っかける。しかし水は城門に至らなかった。諫早門は景花園を隔てることほんの小半里[2km弱]に足らず、大水の高さは景花園の樹木の高さに等しい。しかしながらここもまた[水は]門に至らなかった。人はこうしたことを不思議なことだと思う。

 世に伝わるのは、「往古松倉豊後守重政がまさに島原に城を築くに 今村の地を選んで縄張りをし基礎を定めて城を造営しようとした。[その際]一夜の夢に神が松倉重政に告げて曰く、『森嶽に築城するがよい』と。そこでこの神のお告げに従う。思うに今回のような変災がある故であろう」と。また曰く、「高力氏の時代に温泉山が噴火し、その光が北村を照らして、夜道を行く者が手燭を持たないこと数日あり、その後山水が出て安徳・深江を流し去った。今を去ること百三十年、言うところの古燔(地名)はその際に焼けた所、水無河原(河磧の名前)は山水が流れて行った場所である。だがしかし災害は今回のこの甚だしさに及ぶものではない」と。神代の人が言う、「我々の地 神代は島原から隔たることわずかに四里、正月以来数々の地震があった。それなのに一軒の家も倒れなかった。四月朔日の大浪も[ただ]一人をも没さなかった。海水が[幾度も]前後したが神代を避けて島原の地を一掃し、死屍および家屋の木材が浜辺に漂着したがまた皆[神代を]避ける。不思議というべきである」と。

・四月十三日

 午の時 急使(今月二日島原を発す)が江戸[屋敷]に至り変災を告げる。世子忠馮以下邸内の者は大いに驚き、そこで城からの使者をして用番[注:江戸幕府の老中・若年寄が毎月各一名ずつ交替して政務を執った]松平伊豆守信明に申し上げさせる。

・四月十四日

 世子忠馮は富永十左衛門(用人)を島原に派遣して公の様子を伺う。この日老中松平越中守定信が城からの使者を呼び寄せられ島原変災の詳しい記録を届けさせ、そこで[使者は]その状況を[老中松平伊豆守に]申し上げる。曰く、「本月[四月]朔日酉の刻の後 二次にわたって大地が大いに震動する。西の方角で島原城の目前にあって高く聳え立つ山を眉山という。[その眉山が]山頂より山すそに至るまで一時に割け分かれ、大水が出る。その割け分かれた土砂が城の東の海になだれ込み、海が溢れて大浪を起こす。そして山水と海水とが激流となって島原市街を流し去って土砂を海中に堆積させ、数カ所が小高い丘となる。城の南に(城を隔てること十町余り)堤防のようなものが生じ、高さ十間ばかり、長くうねうねとして海の方に延び、一里あって遠ざかる。水の勢いは極めて猛々しく、その水と接触するところのものはたとえ周囲が一丈余りもあるような大木といえども幹を折り根こそぎにされないものはない。領内の南北十七村、海辺に沿った人家、城の外、東照宮および鎮守神・弁財天を安置した三島、その他和光院(東照宮別当)等の寺院九宇、見回り所十区、船倉(官船を蔵する所)、大小の船と併せて船方の家族三百人・城外の小役人五十余人悉く流され死亡する。治下の人民約二万七千人、大半は死亡する。幸いにして生存している者もまた多くは重傷を負いまだ[今後の]生死の如何は分からない。変災後眉山は鳴動し、崖を破壊し、常に砂礫を落とす。市街の流れ去った跡はとりとめなく一大河原となってどこがどの区域か識別できない。あちらこちら海水の浸すところとなる。また大きな丘となり谷となるところがあり、道路も塞がりまるで無人の地域のようである。そのために一時大手門を閉鎖して奸悪な盗賊に備える。今の状況は概略このようである。しかしながらその詳しく細かいことに至ってはまだ調査を経ていない。後日上申するものと食い違いないことを保証することはできない。この点を諒解せられることを求める」と。

 その後(二十三日)越中守が城からの使者を呼び寄せられ[幕府の]命を伝えて曰く、「島原の城外、山は崩れ海は溢れ、市街を流し去って村落人民の死傷する者甚だ多い。封ぜられた領地の経営は自らこれを処理するのは祖先の旧法である。ではあるがこの度の変災たるや、田野の損耗はなはだ少ないとはしない[極めて損耗が多い]。それ故一時の費用を支えるために特別の思し召しをもって二千金を貸与する(金は大坂の官庫に赴いてこれを受ける)」と。

・四月十九日

 公は守山より騎乗して市街に赴き、流れ去った跡を巡視する。先ず景花園に至り、役人たちに会ってその労を慰める。午前十時大手門に至って、高く設けた座に寄りかかり市街が一変して砂の河原となるのを観る。しばらく時を経て[公]曰く、「この変災は天が孤の身に附するものである」と。[公の目から]ひそやかに涙がくだる。従者で[公を]仰ぎ見ることのできる者はなかった。そこで趣いて城中に入り、三の丸の前の門の外に至って守衛の家臣に会いまた慰労する。三澤(荘屋)において昼食をとり、日が暮れて帰る。

・四月二十三日

 公は変災の地図および副書を作成し、松平景国を派遣して老中に届けさせて曰く、「温泉の支山穴迫が焼ける。治城を隔てること三十町余り、杉谷村の民家を隔てること五十間。
一、三月朔日の地震以来 穴迫の地がひび割れること数條、[地割れによる]間隙は郭の内外および本丸を経て東の海に至る。或るひび割れは火道となっているようだ。
一、城西の小役人の家は、地が裂けて海に達する。[裂け目の]深さは七、八尺、その他往々にして裂け目は概ね西から東に向かい、南北のすじをなすことは甚だ稀である。杉山の泉は源が干上がり、人は飲用水に困る(この水は南北に引き、人はこの水を汲んで飲用水としている)。
一、萩原名の井戸三ヶ所で、いつもは決まった水位の水が増えること一丈九尺。その一つは清水で、あとの二つは濁水である。
一、四月朔日の変災の後、上の原名の民家の井戸が溢れ、その勢いはたいそう強く、井桁を[越えて]噴出すること数尺、旧市街で店舗のある地の南北八、九町、東西百余間に水が停滞して池となり、数日で汎濫して江湖のようである。そのため大きな掘り割りを穿ちそれでもって[水を]海に注ぐ。
一、眉山の出水の跡は縦に裂けて六筋となり、その裂けた所は砂塵のような、[或いは]湯煙のようなものを噴出する。この山は晴れと雨との別なく時々鳴動し、鳴動する度に岩石を深い谷に転がり落とす。谷底にまた音があり、大釜が沸騰するようで、数百歩の外でも聞こえる。しかもその地は極めて険しく人は往くことができない。それ故にその確かなことは十分に詳しく見定めるのは難しい。
一、眉山出水の時、その山麓にある支山を押し出して海に入る際に、植えてあった多くの木々が依然として元のままで、一本も倒れることがなかった。
一、変災の後 地震・山鳴りはまだ止まず、また地中に大患いを起こしたような声がある。その声は方角を定めない。西北が強ければそのときは南方が必ず軽く、南方が強い場合もまたそのようである。そうではあるけれどもこれを過日に比べればわずかに間がある。
一、眉山の剖判は山頂より山の基部に至り、中ほどは東西に分かれ東に向かったものは海に入り、西に向かったものは現存する。そうではあるがまた次第に崩壊している。このようにして[崩壊が]止まなければ、八、九合目以上はやがてすべて崩れるだろうと思う。ここより南に半里ほど。地が割け湯煙を出す[所が]ある。だがこの湯煙はほんの少しだけである。おしなべて眉山が煙を出す時はその時その時でその場所を変え、一定しない。右の変災後の景況は概略 図のようである。だがしかし他日また地震や暴風があればそのときは山容や海の様子が変わらないとすることはできない[きっと変化するであろう]。この点を了解して[図を]見給え」と。

 公は流れ去った[土地の]跡を巡視して人民が多く死亡するのを悼み、憤り嘆いて心を傷める。そうこうするうちに守山に帰[ったものの]、心惑って楽しまず、とうとう病気となる。医療を加えたけれども全快に向かわない。家臣たちは憂慮する。公は書簡をもって老中に願い出て曰く、「さきごろ封地に変災があり、[家臣たちを]指揮し[被災の跡を]処理したいと望んで願い出て東覲の時期を延べる。今やほぼ[復興の]筋道も緒に就きまさに[江戸に向けて]出発すべきであるが折しも下腹部に痛みの出る病が激しく起こり、長い道のりの旅行には難しいものがある。病気が少しばかり癒えるのを待って江戸に上りたい。失礼ながら[東覲の]遅れを謝罪する」と。また曰く、「封地の変災のために大小の舟船および船人が皆流され亡くなる。もし長崎に異変の起こるようなことがあれば、陸路は出て行って差し障りなしといえども海上の船での物資輸送をなすことはできない。そのため船舶の再びの建造に至るまで[長崎異変に際しての]防禦の兵を出すことを免除せられんことを請い願う」と。

 公が守山に落ち着くと、家臣で村落に在る者が幕府の意向を思慮し、皆憂えおそれてあちこちに集まってひそかに議論する。公はこれを聞き、家臣たちの心を安らかにしようと欲し、大横目をして老中に上呈する書状を彼らに示させる。その文に曰く、「封土島原の変災の後、大地は震い山は崩れてなおいまだ止まない。治城の近傍は山野・村落・地脈が移動転変し、今に至ってもまだ静穏にならない。しかも処々に奇異なことが頻繁に起こることは別紙に申すところの(別紙は伝わらず)如くであるのでこれより以後変災が再び起こらないことを保証するのは難しい。かつ穴迫の火気はますます熾烈で、日夜[山野は]燃え焼けて、すでに山を下り田野に延びその勢いはまさに城郭に迫ろうとしている。今はこの火気を隔てること一里に足りない。その延焼する火が城内を通り過ぎるのか、城の外廓北の沖田を通り過ぎるのか見定めることができないけれども、何事もなく終息するものではないようである。そして城南は過日の変災で土地が転覆し、人馬の歩行を阻んでいる。[城の]東面は城を囲んで皆海で、港は流れ去って、船を繋留する所がない。そして西は穴迫の火が徐々に進んで城に至ればそのときは四方の行路が断絶し、死亡[者]は過日より甚だしいものがあるだろう。またここにとどまるのみならず、当今の地勢からして恐れるのにまだ思いがけない変災が再び何処から生起するかを知らないことである。すでにこの危急に臨み、城郭は無事ではあるが、家臣は守衛を除きその他は命令してしばらくの間城外に避難させた。敢えて申し上げる」と。

・四月二十七日

 これより前、公の持病である疾癪が大いにおこり、これに加え肺結核・感冒の症状をもってして、悪寒と熱気とが時あって起こったり止んだりする。みづおちの部で動悸がして脈が強く、呼吸が迫り塞がって飲食が進まず、睡眠も安らかでない。日が経つにつれ痩せ衰え苦しむこと益々甚だしくなり、ここに至ってにわかに薨ず(丑時[注:午前2時])。享年五十一、在位三十年。変災の故に死亡を秘密にする。

 佐賀侯は使者および医師を派遣して公の病を見舞う。すでに公の病気が非常に進んで重くなっているのを聞き、医師は脈を診ないで帰る。[江戸表にあった]世子忠馮は公が病気にかかっているのを聞くとすぐ、老中をたよりに自ら往って[公を]看護したいことを、かつまた井上良泉(幕府の医師)を借りて一緒に[島原に]行きたいということを願い出る。老中はこれを許可する。すぐさま江戸を出発し、三島の宿駅に至って[公の]薨ずるを知らせる[島原よりの]急使に出遭い、そこで[江戸に]引き返す。

 公が薨ずると島原の家老が国の政務を統御して、大切な事は世子忠馮(ただより)に申し上げ、小さな事は協議して決裁する。

・四月二十九日

 治下の地震が次第に沈静化するをもって景花園の会議所を廃止し、官僚たちを月城に移す。ここにおいて家臣で村落に避難していた者は皆[元に]帰る。大手門を開いて守衛を増員し配置して、諸門は元のようにする。

・五月七日

 村市において災害に遭った者たちに米千石を与え、また市民で村落に避難した者皆に糧食を下賜する。その与え施す元手を出して与えることができるのは、己酉の年[注:三年前の寛政元(1789)年]に公が村々に命じて穀物を蓄えさせ[たからであり]、今その積み蓄えた物を配布するのである。

・五月十四日

 公の死亡を公にする。

 [中略]

 今次の変災において、領内で大浪によって流れ去った所はおよそ十三里四十八町余り(五十町をもって一里とする)、村や市の人民で頼る所のない者には食糧を供給し、生活していくための仕事を失った者には資金を与える。死亡者は土中に埋葬し、銀貨を[埋葬地]所在の寺の僧侶に託して供養する(領内の快光院、三会村の専光院、多比良村の正覚寺、安徳村の徳法寺、布津村の圓通寺、隈田村の龍泉寺、南有馬村の常光寺、舩倉の回向堂、回向堂は本光寺の多福軒がこれを司っている)。

 七月に至り、盂蘭盆において、本光寺の寺主に命じて施餓鬼の法要を片町の海浜で営ませる。晴雲寺の寺主もまた願い出て萬町の流れ去った地において[施餓鬼の法要を]営む。

 近くの国の諸侯は皆 使者を派遣して見舞い慰める。その上見舞いの品もあった。福岡侯はまだ幼くいとけないけれども深く我が封国の変災を憐れみ、米千俵を贈る。そもそも[この贈り物は]福岡侯の心より出づという。大村侯は米・味噌等の諸物を贈り、また行商や店商いをして店を守山・山田の間に開き、布等の織物・紙や筆その他日用の雑具をならべ、平時の価格でこれらを売らせる。我等にとって役に立つ道具はお蔭でたやすく手に入る。唐津・平戸侯もまた手厚く金品を贈り与える。佐賀侯は親戚という理由で変災がまだ起こらないときからしばしば使者を派遣して安否を尋ね、役人および官船を神代に置いてさし迫った災難に備える。変災が起こるに及び、また銀・米および日用の具を贈ってその世話は特別なものとなる。また稲の苗を有喜村に植え、有喜村の荘屋をしてその稲の苗を贈らせる。我が領民で災害を神代に避ける者には衣食を支給し、[災害がおさまって後]自身の家に帰るに及んでは、皆書状をもって藩庁に報告する。世間で言うことには、昔 享保壬子[注:享保十七(1732)年]の饑饉は佐賀が最も甚だしく、戴公が多くの穀物を売り出す。そのためこれに報いるのであると。事態が落ち着くに及び皆に使者を派遣して礼を言う。

 [中略]

・八月七日

 城内外の巡回警備を止める。

・八月十二日

 家臣・領民の死傷、田地・家屋の流されなくなったものを老中に報告する。曰く、 召し使う者で死亡する者 576人(男 291人、仕女 285人) 村市民 8,835人(村 3,584人、市 5,251人、このうち男 4,018人、女 4,817人)、僧侶と神官・盲人123人、斃死する牛馬 496匹(牛 27匹、馬 469匹) 傷つく者 707人(男 360人、女 347人)、[傷が]癒えないで死亡した者 106人(男 53人、女 53人)、流れ去った城外の小役人の家屋および長屋 63戸、村市民の家屋 3,284戸(村 1,619戸、市 1,665戸、別に部屋・馬屋・倉庫・神社・寺院等は略す)、損耗する水田と陸田 378町(水田 259町、陸田 119町)、天草郡の托された地の、流れ去った民家 370余戸、溺死者 343人(男 148人、女 95人)(195人の誤り?)、斃死した牛馬 109匹(牛 45匹、馬 63匹)、損耗する水田と陸田 60余町。[4月]朔日の変災時に[天草]富岡の役人(島原藩の派遣した者)が急ぎの使者を発して変災を告げる。そこで命じて糧食を被災者に与えさせ、その死傷を哀れみ金品を与えて助ける。そして[被災状況を]老中に報告させる。後 幕府は四百金を貸して[彼らを]救う。また死者を弔い銀を施して施餓鬼法要を遍照院(大矢野組、東向寺の子院)に行う。我が島原藩もまた施餓鬼法要を九品寺(大浦村)に行う。流れ去った村の住民で、生活していくための仕事を失った者が多いと聞くとすぐに金や穀物を下賜して生業に就かせる。

・九月朔日

 [亡き公の]子どもたちが月城に帰る。

・九月四日

 将軍が特別の思し召しをもって金一萬を貸す。家臣はこれを聞いて涙する者がある。曰く、「公がなおご存命ならばその喜びはいかほどであったろうか[たいそう喜ばれたに違いない]。残念なことは[公が]憂労のうちに[生涯を]終えてこの特別の待遇を見ないことである」と。世間が伝えることには、「公が宇都宮に初めて入国するや一人の老人が有り、儀仗の兵を観、公を占って曰く、「善きかな、明君である。よく国を治めるにちがいない。だがしかし生涯を終えるに際し労苦を免れないだろう」と。まことにその[老人の]言のとおりだと言う。




[原文]
 

(『深溝世紀』巻十六 定公 下 渡部政弼著 / 仮名交じり文(読解者:溝上慶治) / 発行:島原市教育委員会 平成十四年三月 pp.24〜41)


三年、辛亥、二月十五日、将軍公を召して帰封を命ず。長崎監務は故の如し。十六日、内桜田門の守衛を免ず。十九日、是より先栄子松平外記忠告に許嫁し、未だ婚を成さずして外記卆す。松平式部(後長門守)忠寧之を娶らんことを請う。公許諾す。二十五日西帰す。
三月二十八日、島原に帰る。四月朔日、板倉勝健(八右衛門)太刀、馬、金、酒魚を献じて家督の恩を謝す。公法酒を置きて腰刀(末則)を賜う。七日、美保子大帰す。十日、公長崎を監視す(十三日帰る)。二十八日、公瘧を患う。中務八之進(中務の長子)及び老臣諸吏日に起居を候う。五月四日、栄子禁裏に藏する所の菊置錦を薦めて之を禳う。二十九日、女江戸に生まる。保子と名づく。六月二日、公の瘧愈え、菊置錦を栄子に返す。七月四日、平快及び誕辰を慶びて月城當直の者を享す。九月三日、世子本邸に遷る。十七日、長崎を監視す(二十一日帰る)。二十二日、花房職喬卆す。種徳寺(赤坂)に葬る。
十月二日、公南有馬に騎遊す。驟雨あり、徒士防雨の具無く、苫を被りて帰る。八日、地大いに震い、夜に至って(戌時)殊に甚し。此より連日震い、或いは強く或いは緩し。十一月五日、城使をして儲うる所の豫備の斛数(三百三十石)を紀して勘定所に薦めしむ。再昨年幕府諸侯に命じ、秩萬石毎に五十石を儲えしむるを以てなり。二十七日、愛津に騎遊す。
四年、壬子、正月十八日夜、温泉山鳴動し、其の声城市に徹し迅雷の如し。人以て恠異と為す。明朝山を膽るに煙気大いに興り、綿々として天を蔽い、其の状夏雲の如し。乃ち吏を遣わして之を検せしむ。山頂に普賢大士を安んず。其の祠の前三十間許り、地陥ち湯を発する穴二つあり。径三四間、泥土を噴出し、二町の外に延流す。穴中の湯気は極めて激昂し、煙焔砂礫を捲きて飛揚し、漠然として天を見ず。灰砂四方に奔散し、数里の間草木盡く白く、あたかも雪霜を蒙る如し。二十一日、湯煙少しく衰う。然れども鳴動は往日に倍す。吏其の形勢を候い、報じて云う、「沸湯は減ると"雖"も、猛気益々甚だし」と。衆之を聞きて変災あるを慮り大いに懼る。
二月四日、穴迫谷鳴動し、岸崩れ石墜つ。六日巳時、鳴動殊に甚しく、湯を発する穴は泥沙を噴出す。然れども温泉山の発動に比すれば頗る微なり、穴迫(三会村に係る)は治城を距つること二里餘、温泉の支山なり(温泉山の発動を距つること東に一里余)。此の地は至険にして且つ震動し、人至ること能わず。遙に之を測るに、岸壊ること三丁餘、湯穴の廣狭は知るべからざるなり。
九日、公書を老中に呈して変を告ぐ。其の略に曰く、「臣の封邑肥前国島原の治城を距つること西三里、小濱村と曰う。高山屹立し、其の麓は四境に渉る。稍西にして地少しく平なる處に温泉を出だす。故に温泉山と號く。神祠(四面大明神)、佛刹(一乗院)民屋有り、浴湯の場と為す。是より登ること一里餘にして山頂に至る。普賢大士を安置す。故に又普賢山とも曰う。此の山前月十八日、大いに鳴動して煙気空を蔽う。吏を遣わして之を検せしむるに、祠前に二湯穴を発し、泥土砂礫を噴出して其の勢猛烈なり。又其の東北を穴迫と曰い、深谷有り。本月四日震動し、岸崩れ砂石を転ばす。六日湯煙を発し、泥土を飛ばす。然れども其の勢は温泉山の発動に比すれば頗る微なり。此の地至険にして人跡を絶つ。故に其の詳細を究むること能わず。田野人畜に傷壊無しと"雖"も、希有の変なるを以て敢えて聞す」と。
此の夜、穴迫の湯穴火を発し、谷中に延びて両岸の草木は盡く焚け、岩石皆火となる。長さ百餘間、幅は強半を加う。此の岩石の震動する毎に崩れて谷を転ずるもの、樹石に觸れ、破砕奔散して又谷底の草木を焚き、形勢極めて熾盛なり。二三日を歴て気焔少しく衰うるも復た大いに発し、谷中枠かに焦石を現出して数日の間に一小山を為す。延焼益々曠まりて底止する所を知らず。漸く民居に近づき、人皆憂懼す。此の時温泉山の湯穴を発するもの浸々平穏に就き、其の跡池沼の如く、唯々沸湯を揚ぐること五六尺のみ。
初め穴迫の燃岩飛散するや、見る者驚怖せざるは莫し。已にして漸く之に押(ママ)れ、游観する者日に衆し。其の後治下及び近村の男女行厨を斎らして飲宴を設け、歌謠の声、三弦の音山野に充満し、富家の老人の轎輿に乗りて之に赴く有るに至る。
呂木、千本樹(村内の小名)俄に酒肆、茶店を置き、酔客往来して日夜絶えず。公之を聞き令を出して游観を禁ず。唯々家主の形勢を候う者に許して之に赴かしむ。
二十九日、温泉山の東北十餘町、蜂窪と曰う、未午震動して湯煙を発す。閏月三日、其の西二町餘、飯洞岩と曰う、又震動して湯煙を発す。其の他少しく煙気を発するものの往々にして之れ有り。蜂窪、飯洞も亦至険にして人の往きて湯穴の廣狭を審らかにするを得ず。之を山下より遠望するに白雲油然として岫より出づるが如きなり。其の色は朝暮晴陰に因って焉を変ず。或いは黒白と為り或いは赤黄と為りて端倪すべからず。其の後(此の月下旬)火気を発し、震動益々烈し。穴迫游観の男女、行途の便捷に因って亦往きて之を観る。人衆ければ即ち震動平常より甚だし。衆謂う、「此の山は諸峰を抜きて最も峻崇、蓋し婦女の月穢有る者の来るを悪むなり」と。是に於て私に榜書を揚げ、女子を禁ず。
初め温泉山の湯穴を発するや、人其の形勢を聞きて甚だ懼る。此の地も亦猛烈なること温泉山に譲らず。始めは則ち憂慮するも既にして之に狎れ、卒に游観するに至る。公之を禁ずるに至って山野寂として人声無し。
六日、公又書を老中に呈して其の状を告ぐ。是より先、長崎奉行永井筑前守卆す(本月七日)。公東覲前の監視を兼ねて、往きて高木菊二郎(代官)及び福岡候(ママ)の諸臣(両番所守衛者)を見、崎中の形況を問うに無事を告ぐるに因って帰る(十七日)。十四日、一乗院、覚王院(小濱村の山伏)公の命を承け、壇を比賀多良山(穴迫谷の末流)に築きて真言秘密の法を修し、鎮火を祈ること七昼夜、而して境内の祠官、寺僧、或いは命を承け或いは私を以て皆祈禳す。
十五日、是より先銕砲町(小吏居る所の巷名)杉岡某の家震う毎に柱下鳴動し、棚上の器物悉く顛倒す。此の日、吏に命じて試みに之を穿つ。五六尺に至って異状無くして鳴動遂に息む。
三月朔日、是より先地震日として之れ無きは無し。此の日申後又大いに震い、夜に至って益々甚だしく、震う毎に温泉及び眉山崩れ、其の声洶々として怒浪の湧くが如し。又時に大熕を発する音有り、殷然として山頂より東海に達す。衆皆謂う、平常の地震とは異ると。諸士月城に登り公の起居を候う。公吏卒をして村市を巡行せしめて不虞を戒む。道路の男女震を避け、負檐して奔走すること東西に織るが如し。士人の妻孥或いは月城に避け或いは宅地に席坐を敷きて以て旦を待つ。夜半公布令して、変に応じて處分せしむ。其の略に曰く、「燃岩平地に至り、或いは山水流出せば、境内の村監は當に其の所有する船艘を盡して治下に漕すべし」と。曰く、「燃岩人家に迫らば、市民は須らく南條の村落に避くべし」と。曰く、「山麓に邏所を置き、山奉行等は日夜交る交る直して形況を候い、若し変の興る有らば速に之を報ぜよ。此の時急鐘を撞きて士庶に告げよ。二節は山水と為し、三節は燃岩と為す」と。曰く、「燃岩已に浄林寺に至らば、幕府及び祖宗の霊牌は奉じて北村の佛寺に遷せ。中務及び児輩は守山、山田村に避けよ。此の時に當り、倉廩に積む所の米穀は諸村に移せ」と。曰く、「城中の火薬は豫め窖を諸村に鑿ち、変有るに隨い、法を選びて遷移し、海路漕して之を致せ。或いは至急にして装載するに遑あらずんば、乃ち城湟に投せよ。武器は皆富岡に移せ。唯々長崎に外寇に備うるものを留めて山田の本陣に置け」よ。曰く、「家士の妻孥は多比良村以北に富宿の處を為り、其の糧米は勘定奉行之を資給せよ」と。曰く。(ママ)「家士遷徙の後は、巷内空虚なれば恐らくは盗竊有らん。物頭は部卆を率いて日夜城内外を巡邏せよ。大横目は職務の餘暇にも亦属吏を率いて巡邏せよ。夜は則ち撃析(ママ)して之を戒め、主人の其の家を留守する者も亦撃析(ママ)して之に応じ、而して又夜間数次我が居る所の巷内を巡行して、若し変故有らばその析(ママ)を急撃して以て報告せよ」と。曰く、「老臣番頭は日に牙城を巡察し、城代は日夜羅城を守衛せよ。諸士及び衛士の進仕して直に月城に當る者は、平日の如くせよ。但々昼夜交番して其の局を虚しうすること勿れ。大手門の守衛は失火の時の如くし、物頭、馬廻り之に直せよ。更めて取次を加え、他邦の使者の来るに備えよ」と。曰く、「官船は皆艤し、米、薪、塩、噌を装載して内港に繋ぎ、以て公家の用に備えよ。諸村の船艘の治下に来るものは以て家士の用具を漕運するに充てよ」と。曰く、「燃岩銕砲町に至らば其の在留する者は須らく城内の空室に徙るべし。此の時役丁を起して火道の家を毀つに當て、普請奉行は諸官士を率いて之を指揮せよ。已に外郭に及ばば孤乃ち之を避けん。従う者は大手門外に"待"て。此より船に乗り、海上より景況を視ん。或いは牙城に至りて燼けば、乃ち山田村に赴かん。若し山水あるも亦然り」と。曰く、「山水遽かに出でば孤及び児が(ママ)曹牙城に避けん。此の時船手は小舟二艘を運搬して諸勢を弁ぜよ」と。曰く、「諸士の孥は火水を論ぜず月城下の間地に聚れ(家郭内に在る故なり)。吏其の避くる所を指授せよ。小吏の孥は(郭外に在る故なり)。便に随いて之を避けて可なり。若し水火蔓延し、道路梗塞せば則ち亦月城の外に来れ。皆肩に襷□[タク]を施して證と為し、而して城門を出入せよ。右の事條は預め應変の方略を示す。衆其れ悉く知れ。諸吏其の職の用件に関しては各々能く之を調査し、事に臨みて誤ること勿れ」と。
二日、前夜より大震相続き、室内の障□[テイ]外戸悉く放る。天明に少間あり。然れども昼夜動揺し、時有りてか又大いに震う。三日の震は往日に此(ママ)し稍緩なり。数日の震に治下の處々地折る。大概の釁郤は西より東に往く。初めは徑一二寸許り、震う海(ママ)に漸く闢き、甚しきものは尺餘に至りて深さは測るべからず。試みに小石を投ずるに、久しくして聲有り。去冬より方今に至るまで屡々大いに震い、石垣の大半崩壊す。安徳村・今村名(島原村内の小名)等、小民の家の完きもの無く、人畜頗る死傷す。此の日、公又書を老中に呈して其の状を告ぐ。郡吏邏所を折橋・六樹等に設け、更直して山勢を候い、其の景況を報ず。闔村の舟船は悉く来りて小深に繋ぎ、皆號旗を建つ。凡そ千餘艘なり。是より先、水火の變の急鐘を布令して之を報ず。故に権に諸寺の梵鐘を撞くを止む。報時の鐘楼は石を疊みて基礎と為し、高さ数丈なり、朔日の震を以て破壊す。因って假樓を架して鐘を撞くも、地低くして声遠方に達せず。人皆之に困しむ。六日、公子山田村に避く。(一に守山村と云う。数日にして帰る。日は詳ならず)
九日、眉山の前に一支山有り(南北百二十間、東西五六十間)、楠樹茂盛す。故に俗にヨ[木+予+象]章山と呼ぶ。此の日天気殊に和融するに故無くして自ら抜け、東に遷ること八九十間、人之を異とし、往きて其の跡を観るに、唯々赤岩の盤結するのみ。連日の震に、近邦の山の温泉山脈に湊合するものも亦鳴動す。人皆大いに懼れ、事四方に流聞して種々の訛言有り、京"師"、大坂等相い伝えて曰く、「島原の眉山上に火坑を発し、山将に赭ならんとす。妖鬼の頭に三角を生ずる者、額闢け一眼なる者有り、夜街衢を徘徊す」と。或いは曰く、「眉山崩れて治城を壓し、治下の人畜盡く死す」と。又其の図を作りて之を販る者有るに至ると云う。近邦の諸侯震を開(ママ)くや皆使を遣わして之をトムラ[口+言]い、日夜項背して相い望む。而して佐賀侯特に厚し。数々之を訪問し、人を治下に留めて我が用務を辨ぜしめ、又吏及び官船を神代(佐賀の地の島原に在るもの)に置きて以て非常の變災に備う。是より先諸侯の使者来れば、新町の別當の家に接待す。新町の比屋は瓦を以て葺く。震う毎に其の鳴動草舎に倍す。一日某侯の使者来る。吏出でて之に接す。時に大いに震い、屋瓦皆振いて聲激雷の如し。使者大いに駭きて曰く、「事聞く所より甚だし」と。匆卆に辞去す。或いは歩卆の書信を以て来りトムラ[口+言]う者、震を畏れ答書を受けずして逃げ帰る者有り。是に於て更めて杉谷の荘屋及び晴雲寺を以て応接の處と為す。此の月中旬に至って地震稍息む。是に於て月城諸門の更直を罷め、境内の召す所の船を返す。而して市民の震を避くる者漸々に家に帰り、治下の繁復旧に幾く、人始めて安を必す。然れども市人久しく家を離れて未だ其の業に就かず、市店に米穀雑品を販る者無く人大いに之に困しみ、或いは貧戸に至りては糧を絶つ。公倉廩を発きて之を賑救す。
二十五日、蜂窪震動に因って唖渓(温泉山内)に毒石を現出す。吏の山勢を候う者、或いは樵夫の之を過ぐるに、呼吸忽ち迫り、神気恍惚す。狐兎禽烏の其の傍に死するもの有り。故に渓口に榜を掲げて人の行くを禁ず。
四月朔日、終日陰曇、酉後大いに震うこと二回、眉山剖判して前海に投じ、大いに山水を出だす。海剖山の為に激し、又洪波を起して市街を蕩盡し、施びて近村及び他邦に至る。此の時山海鳴動し、天折れ地カ[缶+欠]くるが如し。
諸士變有るを知り月城に登りて起居を候う。公吏に命じて村市を巡行し、其の形況を視しむ。
道路に奔走する者衣服は濕汚し、或いは泥塗を混じ、皆吏を邀えて洪水を告ぐ。大手門に至る比、夜已に暗黒、呎尺するも物の色を辨ぜず。門外の喬松闌を遮りて屋を敗り、積みて堆と成る。其の下に怒號して救助を乞う聲有り。乃ち燭を照して聲を認め、往きて之を捜索するも、竹林沓疊して援出すべからず。因って銚"耨"を以て撓釣して之を掘剔す。或いは柱梁の巨材に介まるる者は鋸して之を出す。其の人概ね傷つくも口に言う能わず。之を城門の内に致して、火を焚きて之を暖め、湯薬を與えて治療す。然れども死する者多し。
初め、吏傷者を救うに竹木を排し、人声を認めて以之を援けて以謂らく、災は洪水に止まるのみと。天明、眉山を瞻仰するに其の半面を割き、海中には無数の島嶼を生ず。街衢は變じて砂磧邱陵と為りて、死屍縦横に枕籍(ママ)す。是に於て山海の共に水を出だせるを知るなり。其の水深きこと三四丈、喬木上に屋茆家財を掛く。而して合抱の樹も根を抜き幹を断つ。人の沈溺する者は生死とも皆裸體、否らざれば則ち衣裂け襤褸と為る。水勢の鋭なること知るべきなり。吏役徒を率いて災地を巡るに、破面の者、拉脅の者有り、腹背を傷う者有り、手足を断つ者有り、半身地に埋まる者有り、巨木の體を壓する者有り、其の人の気息未だ絶えざれば則ち助けて養生場に搬送す。此の時養生場を大手、田町門内及び月城の外に置き、大釜もて薬を煎じ、巨□[カク]もて膏を煉る。醫数十人(官医足らず、村医三十余人を召して之を助けしむ)或いは投剤し、或いは塗膏し、白綿を襞(ママ)きて之を裹み、故衣蓆藁を覆い、火を焚きて之を温め、其の病む所に隨いて治療を施す。上下の庖厨、飯を炊き粥を煮、僕隷之を運びて吏徒及び遭災の者に餉る(上の臺所に飯を炊きて吏徒のソン[夕+食]と為し、下の臺所に粥を煮て遭災の者に與う)。
吏午時に白地に至れば死傷猶お多し。一男子年は二十四五可り、善法寺の門前に倒る。其の面物に觸れ、眼晴潰出して瞼外に掛り薪木肩胴背を刺す。観る者愴然として魂を消す。亦之を大手に搬ぶ。其の人喫煙を乞う。役徒之に與う。乃ち一二回喫し訖り、医に謂いて曰く、「吾固より生くべき者に非ず。願わくは此の木を抜きて死せん」と。醫試みに之を動揺するに、本末破砕し、骨髄をコウ[手+勾]攣す。左右に回転し、力を極めて之を抜く。其の人自若として痛楚の色無し。已にして欣然として曰く、「大いに快し。厚く医を謝すと」(ママ)。幾くも無くして息絶ゆ。人相誥て曰く、「此の夫や卑賤なるも而も大丈夫の膽気有り」と。之を問うに白地船津の漁者なり(名は云わらず)。
地下に人声有り。之を穿つこと一丈五六尺、一男子を得たり。云く、「朔日の震に、家を避け後戸より出でんと欲するに、洪波来り之を倒す。其の後恍惚として識る所無し。遙に鶏鳴を聞き、始めて人気を復し前後を回顧するに、身茆屑敗材の中に陥つ。声を"励"まして救助を乞うと"雖"も人の之を聞く者無し。久しくして腹ヘ[木+号]り、気竭き、発声に力無く、人知らずして遂に此に痩死せんことを恐るるに、幸に諸君の来り援くるに遇い、露命を助くるを得たり。陥没中の吾が苦心は請う之を推察せよ」と。厚く謝して去る。

片町に賈人荘平なる者有り。朔日、近村に行賈し、利を得ること平常より多し。大いに喜び、還りて婦に謂いて曰く、「月朔に利潤有るは我が商の吉兆なり。當に賽酒を蛭子神に供うべし」と。酒一升を沽いて曰く、「吾二合五勺を飲みて足る。其の量を供うべし」と。乃ち小瓶に酌みて之を奉り、再拝して曰く、「是れ神を迎うる酒なり。吾拝戴して佳運を祈らん」と。撤して之を飲む。微酔して興に乗じ、又瓶に酌みて之を奉りて曰く、「請う、明日も我が家に富宿せよ、是れ留神の酒なり」と。供えて撤して飲む。已に酣酔に至り、又酌みて曰く、「再明神還る。請  う、豫め之を送らん。是れ送神の酒なり」と。供え且つ飲み、未だ盡さず、泥酔して臥す。時に洪波来り之を蕩す。治城の外堤に漂着して而も荘平之を知らざるなり。夜半に酔醒めて之を見れば、四方暗黒にして何處なるかを辨ぜず。左右を揣摩するに城堤に在るが如し。大いに恠しみて以為えらく、前には吾我が室に臥す。何を以てか此の地に在る。而も衣服濕透するも亦何の故なるやと。首を擧げて回顧するに、城上の灯燈星羅して急鐘頻りに鳴り、哀號悲泣の聲数所に起る。因って謂えらく、我死して閻王の廰に至るや、其の灯燈急鐘は蓋し閻王獄に臨み、鬼卆を召すなり。哀號悲泣は罪人呵責を受け苦楚の声を発するなり。吾が衣の濕透は沙婆沃うこと三日、衣を曝すなり(民俗に人死して三日、其の衣を曝し、水に沃い乾かざらしむ。曰く、冥行の者の火山を踰ゆるに之を沃いて其の熱を消すなりと)。然れども審らかに其の声を聴くに、郷里の音にして耳に慣習する所、吾が衣も亦平常服する所にして冥行の物に非ず。然からば則ち吾死するに非ざるか、疑惑未だ解けず。試みに其の股を捻るに猶お痛を覚ゆ。城上の景象を視るに旧見る所の如し。是に於て生有るを決知す。城堤を降りて片町を索むるに街衢悉く砂磧と為り、我が家の何處に在るやを知らず。父母妻子を尋めんと欲するも東西向方を定めず。茫然として立つ。天明始めて災変を知り、神代に旧識有るを思い、乃ち往きて之に依る。(別本大変記)

此の災や、山海一時に崩溢し、民の壓溺して死傷する太だ多し。幸にして免るる者も亦親を喪い子を亡い、號泣悲歎の聲は道路に充満す。或いは一家悉く流亡し、魂魄の帰する所無き者有り、其の惨言うべからざるなり。公深く憂苦し、吏に命じて之を哀恤せしむ。乃ち急使を遣わして老中に告げしめて曰く、「臣の封邑島原、昨薄暮地大いに震い、眉山崩れて水を出し、海溢れて洪波を作し、忽ち治下の市街を流蕩す。近邊の村落人民之が為に圧弱(ママ)し、死傷算うべからず。其の崩るる所の山海に投じ、数所に島嶼を生ず。然れども城郭は恙無し。非常の變災なるを以て先づ其の見る所に就きて敢えて報ず」と。
公将に災を守山村に避けんとし、又急使を遣わして曰く、「封邑変災の後地震未だ已まず、山獄鳴動す。而して治城は嶽址に在り、災患の復興は量るべからず。故に暫らく近村に避けて以て形勢を視ん。敢えて以聞す」。又曰く、「方今臣東觀の期に當るも、封邑に不慮の災有り。諸般の處置を指揮し、而る後発途せんと欲す。是を以て其の期を遅延せんことを請う」と。公の守山に赴くや諸士之を送る。公言いて曰く、「方今の變災は言語もて状すべき者無し。孤の城中を去る、素志に非ずと"雖"も群臣の勧進も亦理有り。姑く其の言に従いて之を避くるなり。猶お當に他日指揮有るべし。其の際は各々職掌を守り、敢えて怠り或(ママ)ること勿れ。数日勤苦し、今又之に重ぬるに畄守の任を以てす。其の労を極知するも尚お旆を懋めよ」と。此の時川井治太夫(利強)班列を出で稽首して曰く、「閤下臣等を念い先づ災を避くるに其の望たるを以てす。仁恩極めて深し。然れども城郭は幕府の托する所、之を捨てて他に適く。未だ異日幕議如何と為すを知らざるなり。願わくは之を熟慮せよ」と。公曰く、「汝の言は理なり。然れども孤別に思う所有り、過慮を煩わすこと勿れ」と。遂に発し、桜門より往く。諸公子之に従う。是より先諸士の避くる者に令して湯江以北、守山以南の八村に居らしめ、而して吏に糧米を輸して寓宿を定めしむ。此の日又命を伝え、城中の守衛を除くの外、速に其の寓に赴かしむ。
三日、吏市内を巡り、役夫を賃して竹木の散在するものを収む。其の下の死屍は算無し。浄源寺・安養寺・其の他数所に坑を鑿りて之を埋む。数日を経るに及び、温気之を蒸して悪臭鼻を撲ち、役夫之に困しむ。是に於て其の賃金を増し、又酒を與えて之を勗めしめ、牢中の軽因を出して以て其の事を助けしむ(竣工の後、其の罪一等を減ず)。已にして大卆塔婆を建てて、百人塚と號づく。村市の民の災に遭い、及び軽傷を被りて公家の療養に就く者漸々にして親戚・縁故の家に赴き、而して幼穉・老耆の帰嚮する所無き者は猶お之を養育す。
時に島原村の久左衛門の婦、清水郷の六右衛門の婦、澁江源太夫の母、孤児を乳養す。泥川清六傷者を宿めて治療を為す。三會村の孫八老婦を養う。柏野名の富右衛門老夫を養う。有田村の伊三郎童子の裡(ママ)體なるを見て、衣を脱ぎて之に與う。皆是れ依帰する所無き者なり。公開(ママ)きて之を褒賞する。
此般の災に治城の南北六七里、瀕海の十七村流蕩す(杉谷・三会・三澤・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒・西郷・深江・布津・堂崎・有田・町村・隈田・北有馬・南有馬潮勢、北は西郷に至り、南は南有馬大江崎に至りて衰うと云う)。而して島原・安徳・中木場村の数名は山に壓せられ、人畜のショウ[西+焦](ママ)類なし(島原村の今村・上原二名、安徳村の北名、中木場村の某名)。治城も南、長さ十餘町、廣さ三四町(善法寺より江東寺の所に至る)は地窪みて池と為り(人多く筏を結びて金帛を拾い、俄に其の家を富ます者有り)、船津は(三軒屋近傍)砂土堆積して岡と為り、高きこと一丈餘(亦地を穿ちて物を得る者多く、或いは大判金を得。人曰う、世間通行の幣に非ず、民にして之を舍蔵するの理無し。蓋し公家の猛島祠に納むるもの、宜しく之を復すべしと。乃ち其の言に従うと云う)。
五日、公羽太伊清をして命を伝えしめて曰く、「方今の変は振古無比にして諸士猶お城中に留守す。孤深く地震の未だ已まざるを恐る。復た災患有らば宜しく皆去りて以て其の害を避くべし。然りと"雖"も汝が輩別に意見有らば之を陳べて隠すこと勿れ」と。諸士相い議し、上疏して曰く、「閤下群臣の為に尊慮を労し、感恩膽に銘ず。然れども諸士城を去らば未だ幕府の議是非の帰する所を知らざるなり。臣等竊かに之を慮り其の心を安んぜず。故に指令に違い畏縮に耐えずと"雖"も一身にして猶お存すれば、固く城郭を守らんと欲す。是れ其の志矢にして他靡し。伏して冀くは之を亮せよ」と。伊清復命す。明日公又星野藤右衛門(用人)をして書を以て之に論さしめて曰く、「城を避くるの擧は、幕議を慮りて躯命を顧みざる金石の志、孤實に"倚"頼す。然れども、大手及び諸門を鎖して、唯々諫早門を開き、家士更番して守衛せば、城を虚しうして之を去ると謂うべからざるなり。往日の変に大手の道路梗塞す。故に其の門を鎖すことは已に既に老中に聞す。又諸侯の或いは城外に館舎を構えて之に住む者有れば、則ち今城を離ると"雖"も而も守衛は猶お焉に在り、何ぞ幕旨に違うこと有らんや。衆疑いを茲に容るる莫く、但々速に之を去れ」と。藤右衛門又公の意を口演して曰く、「諸士城中に在りて、若し皆罹災して死亡せば孤面目ありて以て人を見ること無けん。且つ當時の事は、敵に封して城を守るとは其の情を異にす。去りて他に之くと"雖"も人豈に之を非とする者有らんや。而も猶お幕旨に違わば是れ天なり命なり。復た之を如何せんや。衆之を領会し、速に去りて以て孤の心を安んぜよ」と。皆稽首して承諾す。此の日鍋島弥平左衛門(神代の主、佐賀侯の老臣)守山の公の館に来り災をトムラ[口+言]う。公之を見、晤語し、刻を移して帰る。
七日、城を避くるの議決し、諸官僚を近村に遷し、景花園を以て会議所と為し、報時鐘を諫早門に置きて進仕の期を告ぐ。或いは復た水火の変有らば撞くに其の節を以てして之を報ず。此の時遭災の傷未だ癒えず、公の養に就く者は諸村に配處し糧食・医薬を賜う。城門は大手を鎖し、其の他を開きて以て往来に便ず。而して城中の守衛、内外巡邏の士は居留し、其の餘は皆之を去る。八日家士盡く村落に徙り、城中寂然たり。川井治太夫桜門を守衛して感慨に堪えず、割腹して死す。蓋し城を避くることの不可なるを陳べて収れられざる故なり。
人皆其の志を憫む。

史臣曰く、「定公は諫を容れざるの君に非ず。而して利強の言の行われざるは何ぞや。蓋し非常の変に公群臣の罹災を慮り、寧ろ其の身を遺して以て衆の望と為るは是れ人主愛民の至誠より出づ、而して其の他を顧みざるは即ち措時の権なり。利強士は国の為に死するの義に據り、輒ち其の命を損じて以て素志を成すは是れに人臣君に事うるの節操を固守して終始変らず、即ち執正の常なり。君臣一権一常併行して其の宜しきを失わず。故に各々其の職分を盡して間然する無し。而して或いは謂う『公は災を怖れて諫を拒み、利強は事に激して浪死す』と。豈に之を知る者ならんや」と。

治下の人民の災を免るる者復た変有らんことを恐れ、倉皇として旦夕必用の具を装して去る。数日を経るに及び虚室に入りて物を竊む者多し。吏之を捕えて牢獄に繋ぐ。又奸民の人心の危懼に乘じて虚説を鼓し、衆を惑わす者有り。即ち令を出して之を禁ず。尋いで郡奉行属吏を率いて村内を巡行して之を按撫し、渉疑有る者は執えて之を検治す。
十日、吏山勢を候い景況を報じて曰く「眉山日に崩れ、舞岳・呂木山(共に温泉の支山)焚くること往日より甚しく、呂木の火は已に鹿垣を踰ゆること八間許り。上原の民家の井溢れ、水屋檐を浸し、流れて巨川と為る。眉山剖判の跡は震う毎に砂礫を落し、聲大水の流るるが如し」と。公封内の祠官寺僧に命じて鎮定を祈らしめ、又使を讃岐・遠江に遣わして金比羅・秋葉の山神に祈らしむ。高波の治下を蕩うや、城郭を避けて来り、大手門外の喬松(高さ三丈餘、門を距つること数歩)の上に草芥を掛く。而して水は城門に及ばず。諫早門は景花園を距つること小半里に足らず、洪波は園の樹と斉し。而して亦水は門に至らず。人以て奇と為す。
世伝う、「往昔松倉豊後守重政将に島原に城くに今村の地を擇びて経営せんとす。一夜夢に神之に告げて曰く、『宜しく森獄に城くべし』と。乃ち之に従う。蓋し此の災有るを以てなり」と。又曰く、「高力氏の世に温泉山焚け、其の光北村を照らし、夜行する者燭を秉らざること数日、後山水出で安徳・深江を流蕩す。今を去ること百三十年、所謂古燔(地名)は其の燒く所、水無河原(河磧の名)は山水流行する所なり。然れども災は今茲の甚だしきに若かざるなり」と。神代の人云う、「我が地は島原を距つること僅かに四里、初春以来数々地震う。而るに一戸を倒さず。四月朔日の洪波も一人を沒せず。海水前後するも神代を避けて島原の地を蕩い、死屍及び屋材の海濱に漂着するも亦皆之を避く。異と謂うべきなり」と。
十三日午時急使(本月二日島原を発す)江戸に到り変を告ぐ。世子以下邸内大いに駭き、乃ち城使をして用番松平伊豆守信明に聞せしむ。十四日世子富永十左衛門(用人)を島原に遣わして公の起居を候う。此の日老中松平越中守定信城使を召して島原變災の詳記を薦達せしめ、乃ち其の状を聞す。曰く、「本月朔日酉時後二次地大いに震う。西のかた治城に臨みて倔起するもの眉山と曰う。絶頂より山址に至るまで一時に剖判し、大水出づ。其の剖判するもの城東の海に入り、海溢れて洪波を興す。而して山水・海水相い激し市街を流蕩して砂土海中に積み、数所岡阜と為る。城南に(城を距つる十町余)堤防の如きもの生じ、高さ十間許り、蜒□[エン]として海に施び、一里にして遠ざかる。水勢極めて猛鋭にして、其の觸るる所周囲丈餘の大木と"雖"も幹を折り根を抜かざるもの莫し。封内の南北十七村、海に瀕む人家、治城の外、東照宮及び鎮守神・辨財天を安ずる三島、其の他和光院(東照宮別當)等の佛刹九宇、邏所十区、船倉(官船を藏する處)、大小の船と併せて船子の妻孥三百人・城外の小吏五十餘人悉く流亡す。治下の人民凡そ二萬七千人、大半は死亡す。幸にして存する者も亦多く重傷を被り未だ生死の如何を知らざるなり。災後眉山鳴動し、崖を破り、毎に砂礫を墜す。市街流蕩の跡は漠然として一大河磧を作して区域を辨ぜず。往々にして海水の浸す所と為る。又陵と為り谷と為るものあり、行路梗塞して無人の境の如し。是の故に一時大手門を鎖して以て奸盗に備う。方今の景況は"概"畧此の如し。然れども其の詳密に至りては未だ調査を歴ず。後日以聞するものと齟齬する無きを保せず。之を亮せられんことを請う」と。
後(二十三日)越中守城使を召して命を伝えて曰く、「島原の城外、山崩れ海溢れ、市街を流蕩して村落人民の死傷夥多なり。夫れ封邑の経営は自ら之を辨ずるは先世の旧法なり。然りと"雖"も此の災や、田野の耗損尠しと為さず。故に一時の費用を支えんが為に特旨もて二千金を貸す(金は大坂の官庫に就きて之を受く)」と。
十九日、公守山より騎して治下に赴き、流蕩の跡を巡視す。先づ景花園に至り、諸吏を見て其の労を慰む。巳牌大手門外に至り、胡床に倚りて市街の変じて砂磧と為るを観る。良久しくして曰く、「此の災は天孤の躬に附するものなり」と。潜然として涙下る。従者の能く仰ぎ見る者莫し。是に於て趣きて城中に入り、月城の前門外に至り守衛の士を見て亦慰労す。三澤(荘屋)に午ソン[夕+食]し、日暮れて帰る。二十三日公変災の地図及び副書を為り、松平景国を遣わして老中に達せしめて曰く、
「温泉の支山穴迫焚く。治城を距つること三十町餘、杉谷村の民居を距つること五十間。
一、三月朔日の地震以来穴迫の地□[サ]くること数條、釁隙は郭内外及び牙城を歴て東海に至る。或いは以て火道と為すなり。
一、城西の小吏の宅、地□[サ]けて海に達す。深さ七八尺、其の他往々にして圻(ママ)くるもの概ね西より東に往き、南北の行を為すこと甚だ稀なり。杉山の泉は源渇き、人飲用に困しむ(此の水は南北に引き、人之を汲みて用水と為す)。
一、萩原名の井三處、常水を増すこと一丈九尺、其の一は清水、二は濁水なり。
一、四月朔日の変の後、上の原名の民家の井溢れ、其の勢大いに勁く、井櫚(ママ)を噴出すること数尺、旧市店の地南北八九町、東西百餘間水停住して池と為り、数日にして汎濫し江湖の如し。故に大渠を鑿りて以て海に注ぐ。
一、眉山出水の跡は竪に□[サ]けて六条と為り、其の□[サ]くる所は砂塵の如き、湯煙の如きものを噴出す。此の山晴雨と無く時々鳴動し、鳴動する毎に岩石深谷に転ず。谷底に又音有り、大釜の沸湯するが如く、数百歩の外に聞ゆ。而して地絶険にして人往くを得ず。故に其の確実は審定し難し。
一、眉山出水の時、其の麓に在る支山推排して海に入るに、植うる所の諸木依然として舊に仍り、一も転倒する無し。
一、災後地震・山鳴未だ已まず、又地中に大煩を発する如き聲有り。其の聲方隅を定めず。西北強ければ則ち南方必ず軽く、南方強きも亦然り。然れども之を往日に比すれば稍間あり。
一、眉山の剖判は絶頂より山址に至り、中は東西に分れ東するものは海に入り、西するものは現存す。然れども又漸々に壊崩す。此の如くして已まずんば、八九合以上は将に盡く崩れんとす。此より南半里可り。(ママ) 地□[サ]け湯煙を出す有り。然れども是れ微少のみ。凡そ眉山煙を出すは時々に其の地を易え、一定せざるなり。右の災後の景況は"概"略図の如し。然れども他日又地震暴風あらば則ち山容海色変換無き能わず。請う、之を領して覧観を給へ」と。
公流蕩の跡を巡視して人民の多く死亡するを悼み、慨然として感傷あり。已にして守山に帰り、心惚々として楽しまず、遂に疾と成る。医療を加うと"雖"も平快に就かず。群臣憂慮す。公書を以て老中に請いて曰く、「嚮者封邑に變災あり、指揮處分せんと欲して請いて東觀の期を延ぶ。今や略々條緒に就きて當に発途すべきも会々疝疾大いに起り、長路の旅行に艱む。疾の少しく愈ゆるを待ちて東上せん。敢えて遅緩を謝す」と。又曰く、「封邑の變災に、大小の舟船及び船手皆流亡す。若し長崎に変の興る有らば、陸路は出行して妨礙無しと雖も海上の漕運を為す能わず。故に舟船の再造に至るまで防禦の兵を出すを免ぜられんことを請う」と。
公守山に適くや、家士の村落に在る者幕府の意を慮り、皆憂懼し、往々に相い会して私議す。公之を聞き、衆心を安んぜんと欲し、大横目をして老中に呈する書を以て之に示さしむ。其の文に曰く、「封邑島原変災の後、地震い山崩れて猶お未だ已まず。治城の近傍は山野村落地脈転動し、今に至って未だ静穏ならず。而して處々に奇異の連りに起ること別楮に白す所の(別楮は伝わらず)如ければ則ち此より以往變災の復を起らざるを保し難し。且つ穴迫の火気は益々熾んにして、日夜焚焼し、已に山を降り田野に延び其の勢将に城郭に逼らんとす。今は之を距つること一里に足らず。其の延焼するや城内を過ぐると、郭北の沖田を過ぐると豫め定むべからずと雖も、徒らに息むものに非ざるに似たり。而して城南は往日の變を以て土地顛覆し、人馬の行を阻む。東面は城を抱きて皆海、澳港流蕩し、船を繋ぐの處無し。而して西は穴迫の火漸々通りて城に至れば則ち四方行路を絶ち、死亡は往日より甚だしきもの有らん。又是に止まるのみに非ず、方今の地勢を以て之を惴るに未だ不虞の変復を何處よりして起るやを知らざるなり。既に此の危急に臨み、城郭恙無しと"雖"も、家士は守衛を除き其の餘は令して姑らく城外に避けしむ。敢えて以聞す」と。
二十七日、是より先、公の宿病疾癪大いに興り、旃に加うるに労役・感冒の症を以てし、寒熱時有りて発歇す。心下動して気抗強し、呼吸"逼"塞して飲食侑まず、睡眠安んぜず。日を経て疲労益々甚だしく、是に至って卒に薨ず(丑時)。享年五十一、在位三十年。變災の故を以て喪を秘す。
佐賀侯使者及び医を遣わして公の疾を問う。已に大漸に至るを聞き、医脈を診ずして帰る。世子公の疾むを聞くや、老中に因って自ら往きて省護せんことを、且つ井上良泉(幕府の医)を借りて倶に行かんことを請う。之を允す。即ち江戸を発し、三島驛に至りて薨を報ずる急使に遭い、乃ち返る。
公の薨ずるや島原の老臣国務を制して、大事は世子に啓廩し、小事は協議して之を決す。二十九日、治下の地震稍々鎮静するを以て景花園の会議所を罷め、諸官僚を月城に移す。是に於て家士の村落に避くる者皆帰る。大手門を開きて守衛を増置し、諸門は旧の如くす。五月七日、村市の災に遭う者に米千石を賑わし、又市民の村落に避くる者に皆糧食を賜う。其の能く賑給を資くる所以のものは、己酉の歳に公諸村に命じて穀を儲えしめ、今其の積聚を散ずればなり。
十四日喪を発す。近邦の諸侯皆使者を守山に遣わして之を弔う。六月十七日、空荼毘法を本光寺に行う。佛謚は瑞応院麒嶽源麟、後神祭を修し、更めて謚し、定公と曰う。明日公の棺深溝に赴く。
今茲の變災に、境内洪波の流蕩する所は凡そ十三里四十八町餘(五十町を以て一里と為す)、村市民の依る所無き者には食を給し、産業を失う者には資金を與う。死亡者は之を□[エイ]埋し、銀を所在の寺の僧に附して之を供養す(治下の快光院・三会村の専光寺、多比良村の正覚寺、安徳村の徳法寺、布津村の圓通寺、隈田村の龍泉寺、南有馬村の常光寺、舩倉の回向堂、回向堂は本光寺の多福軒之を司る)。七日(ママ)に至り、盂蘭盆を以て、本光寺主に命じて施餓鬼の法を片町海濱に行わしむ。晴雲寺主も亦請いて萬町流蕩の地に行う。
近邦の諸侯皆使者を遣わして之をトムラ[口+言]う。且つ贈遺有り。福岡侯は猶お幼穉なるも深く我が災を憫み、米千苞を餽る。蓋し其の意に出づと云う。大村侯は米・噌等の諸物を餽り、又其の商賣をして店を守山・山田の間に開き、布帛・紙筆其の他日用の雑具を陳べ、平價を以て之を販らしむ。我が用頼りて以て便を得たり。唐津・平戸侯も亦厚く贈る。佐賀侯は親戚の故を以て変災の未だ興らざるより屡々使者を遣わして存問し、吏及び官船を神代に置きて急難に備う。変興るに及び、又銀・米及び日用の具を贈りて周旋殊に至る。又稲苗を有喜村に植え、其の荘屋をして之を贈らしむ。我が民の災を神代に避くる者には衣食を給し、其の家に帰るに及びては、皆状を以て官廰に告ぐ。世に謂う、昔者享保壬子の餞(ママ)饉は佐賀最も甚だしく、戴公多く穀を糶る。故に之を報ずるなりと。事定まるに及び皆使者を遣わして之を謝す。
七月二十六日、公の棺深溝に到る。世子岩瀬勘平(町人)を遣わして代りて拜せしむ。秋元隼人正保朝の使者も亦来り会す。明日本光寺の先塋の域に葬る。羽太喜太夫・横山幸左衛門冢を守る。
八月七日、城内外の巡邏を罷む。十二日、士民の死傷、田屋の流耗を以て老中に告ぐ。曰く、
家士の死するもの五百七十六人(男二百九十一人、女二百八十五人)村市民八千八百三十五人(村三千五百八十四人、市五千二百五十一人、此のうち男四千十八人、女四千八百十七人)、僧祝・盲人百二十三人、斃るる牛馬四百九十六匹(牛二十七匹、馬四百六十九匹)傷つくもの七百七人(男三百六十人、女三百四十七人)、愈えずして死する者百六人(男五十三人、女五十三人)、流るる城外の小吏の屋及び連房六十三戸、村市民の屋三千二百八十四戸(村千六百十九戸、市千六百六十五戸、別に室・厩・庫・神祠・佛舎等は之を略す)、耗る水陸田三百七十八町(水田二百五十九町、陸田百十九町)、天草郡の托地、流蕩する民屋三百七十餘戸、溺死三百四十三人(男百四十八人、女九十五人)(百九十五人の誤り?)、斃るる牛馬百九匹(牛四十五匹、馬六十四匹)、耗る水陸田六十餘町。
朔日の災に富岡の吏(我が遣わす所の者)急使を発して之を告ぐ。乃ち命じて糧食を遭災の者に賑わしめ、其の死傷を哀恤す。而して之を老中に報ぜしむ。後幕府四百金を貸して之を賑救す。又死者を弔い白金を附して施餓鬼法を遍照院(大矢野組、東向寺の子院)に行う。我も亦之を九品寺(大浦村)に行う。流蕩する村民の、産を失う者多きを聞くや金穀を賜いて生業に就かしむ。
九月朔日、諸公子月城に帰る。四日、将軍特旨もて金一萬を貸す。家士之を聞きて泣する者有り。曰く、「公をして猶お在らしめば其の喜び如何と為さんや。恨むらくは憂労に終えて此の"殊"遇を観ざるなり」と。世伝う公宇都宮に入部するや一老人有り、儀衛を観、公を相して曰く、「善い哉、明主なり。能く国家を治むべし。然れども生を終うるに労苦を免れざらん」と。果して其の言の如しと云う。(以上)

forward.gif休暇村 越前三国