休暇村 雲仙(補説1)
[『深溝世紀』にみる "普賢岳噴火災害" ]『深溝世紀 仮名交じり文』(渡部政弼(松風)原著 溝上慶治読解 島原市教育委員会 平成7年〜平成18年)を読むに至ったのは他愛ない動機からであった( cf. 休暇村あっちこっち "休暇村 雲仙(2)" )が、 "普賢岳噴火災害" に関する一連の記述は、いろいろな意味で、とても通り一遍に読み過ごすことはできなかった。 とは言え、当時島原にあった人々の恐怖や悲惨を、どこまで我が身のものとして捉えることができたか分からないが、この箇所を読み進めるうち、時に藩主に、時に家臣に、時に民衆に感情移入している自分のいたことは驚きであった。 ここには、大災害後の惨状と大災害に遭遇した人間のとる行動が "網羅" されていると言っていい。被災した人を助ける人間の行為も、救助活動の様子も、災害に乗じて悪事を働く人間や危険な状況であるにもかかわらず物見高い行動をとる人間の姿、遠隔地にまで広がる流言飛語、近隣の諸国からの援助や相互扶助の様子、横死した人々の埋葬とその後の供養、政庁を預かる藩主の大災害時における采配のしかたや決断、幕議を慮り避難をためらう家臣たちの心情、上級官庁(幕府)への報告等々。時代の "制約" はあっても、災害時に人間のとる行動や情動は驚くほど変わらない。 それは「『深溝世紀』巻十六 定公 下」に記されている。 定公とは、深溝松平が寛文九(1669)年島原に移封されてより六代目に当たる松平忠恕[ただひろ]の諡号である。 "寛政地変" ともいわれ "島原大変肥後迷惑" ともいわれる寛政の温泉[うんぜん]普賢岳噴火災害は、忠恕の島原における治世最晩年[寛政三(1791)年〜寛政四(1792)年]に発生する。 さて、『深溝世紀』当該箇所に入る前に、この箇所に登場する人物や語彙等について、少し『深溝世紀』中の記述から拾い書きするなどしておきたい。 [人物]・ 忠恕(ただひろ): ・ 栄子: ・ 美保子: ・ 花房職喬: ・ 忠馮(ただより): ・ 中務: ※栄子は中務忠睦の女(むすめ)ということであるが、『深溝世紀』中、"忠睦" の名を他に見つけられなかった。忠胤の別名か否か、他の史料に当たっていないのでここでは言及を避けたい。 ・ 戴公(たいこう): [語彙 他] ・温泉山(うんぜんざん):かつて "雲仙" は "温泉" と表記されていた。 ・長崎監務:深溝松平は忠房のとき、寛文九(1669)年六月八日「汝累世の忠義吾敢えて遺れず、且つ其れ躬づからも亦数々公事に服して功労有り。即ち先人の志を執って墜さざる者、豈に褒奨莫かるべけんや。是を以て采邑二万石を加え、肥前島原城に移さん。夫れ島原の地は鎮撫最も難しと為す。故に其の人を擇びて之を遷す。能く我が意を體認し、益々忠義を勉めて以て成績有らしめよ」として、福知山から肥前島原に移封される。領地目録には「肥前島原(三万八千三百石)並びに豊前(一万三千五百四十石)豊後(一万四千五十石)の地凡そ六万五千九百石其れ之を領せよ」とあった。 [備考]
寛政三(1791)年 辛亥・二月十五日 寛政四(1792)年壬子・正月十八日夜温泉山鳴動し、その音は城下に達して激しい雷鳴のようである。人は[みな]怪異なことだと思う。明くる朝温泉山を望み見ると、煙がさかんに生じ、絶え間なく湧き起こって天を覆い、その様子は夏雲のようである。そこで、役人を派遣して [温泉山の様子を] 調べさせる。山頂に普賢菩薩を安置してある。その祠の前三十間 [注:一間=1.81m] ばかり、陥没し湯を噴き出す穴が二つある。[その穴は] 直径三、四間、泥土を噴出して二町 [注:一町=109.09m] 以上外に流れ出ている。穴の中の湯気は極めて激しくあがり、煙と焔とが砂礫を巻きあげて飛揚し、[視界が] ぼんやりとして天が見えない。灰や砂が四方に勢いよく飛び散り、数里の間、草や木が悉く白く、まるで雪か霜を被ったようである。 ・正月二十一日湯煙少々衰える。だが鳴動は過日に倍する。役人がその様子をうかがい、報じて言う、「わき出る湯は減ったとはいえ、激しく上がる気体はますます甚だしい」と。人々はこれを聞いて天変地異のあることを思いはかり大いに恐れる。 ・二月四日穴迫谷が鳴動し、岸が崩れ石が落下する。 ・二月六日巳時 [注:午前10時] [穴迫谷の] 鳴動殊に甚だしく、湯を発する穴は泥や砂を噴出する。だが温泉山の起こした活動に比べると [その動きは] 頗る微少、穴迫(三会村に係属)は[藩庁である]城を距てること二里余り、温泉の支山である(温泉山の起こした活動場所から距てること東に一里余り)。この地は至って険しく且つ震動していて、人は行き着くことができない。遙かにこれを計測するに、[谷の] 岸を破壊すること三丁余り、湯穴の大きさは知ることができない。 ・二月九日公、文書を老中に呈して異変を注進する。その概略に曰く、「臣[わたくし]の封ぜられた領地肥前の国島原の城を距てること西に三里、小浜村という。高山がそびえ立ち、その麓は四方の境界に及んでいる。[山の]やや西で少々平らな所に温泉を湧出する。故に温泉山と号す。[ここには] 神祠(四面大明神)、寺院(一乗院)、民家があり、湯浴みの場としている。ここより登ること一里余りで山頂に至る。普賢菩薩を安置する。故にまた普賢山ともいう。この山が先月[一月]十八日激しく鳴動して噴煙が空を覆う。役人を派遣してこれを調べさせると、[普賢菩薩の]祠の前に二つの湯穴を生じ、泥土や砂礫を噴出してその勢いは猛烈である。 またその東北を穴迫といい、深い谷がある。本月[二月]四日震動し、[谷の]岸が崩れ砂石を転落させる。六日には[そこから]湯煙を発し、泥土を飛ばす。だがその勢いは温泉山の起こした活動と比べれば頗る微少である。この地は至って険しく人跡は絶えてない。それ故にその詳細を究明することができない。[現在のところ]田野や人畜に傷壊の被害がないけれども、希有の異変であるのであえて上聞する」と。 この夜、穴迫の湯穴が火を発し、[その火が]谷じゅうに広がって両岸の草や木は悉く焼け、岩石は皆火となる。[火の]長さは百余間、幅は[長さの]半分以上と程度を増している。[火となった]この岩石が震動する毎に崩れて谷を転落するものが、樹木や石に触れ、粉々に砕け勢いよく飛び散ってまた谷底の草木を燃やし、その様子は極めて熾烈である。二、三日を経て火が燃え上がる様子は少々衰えたものの、再び大いに発し、谷じゅうに突如黒く焼けた石を現出して数日のうちに一小山となる。延焼はますます広まってとどまるところを知らない。[延焼は]次第に民家に近づき、人は皆憂え恐れる。この時温泉山の湯穴を発するものがやや平穏に近づき、その跡は池か沼のようで、ただただわき出る湯をふき上げること五、六尺 [注:一尺=0.303m] のみである。 当初穴迫の燃岩が飛散するや、見る者で驚き怖れない者はなかった。[だが] そうこうしているうちに次第に燃岩の飛散する様子に狎れ、遊覧する者が日毎に多くなった。その後領内および近隣の村の男女が弁当をととのえて酒宴を設け、歌を歌う声、三味線の音が山野に充ち満ち、富家の老人が輿に乗って赴くことがあるまでになった。 呂木、千本樹(村内の小字)では にわかに酒屋、茶店を設け、酔客が往き来して日夜絶えない。公、これを聞き 触れを出して遊覧を禁止する。ただ家の主で [山の]様子を探る者には許して山に赴かせる。 ・二月二十九日温泉山の東北十余町、蜂窪という[所が]、まだ正午にならないころ、震動して湯煙を発す。 ・閏二月三日その [蜂窪の] 西二町余り、飯洞岩という[所が]、また震動して湯煙を発す。その他少しく煙気を発するものがあちこちにある。蜂窪も飯洞もまた至って険しく人が往って湯穴の大きさを詳しく知ることはできない。これを山の下より遠望するに白雲がさかんに起こり、まるで山の洞穴から出ているようである。その色は朝と暮れ方、晴れと曇りとによってこれを変える。時に黒・白となり時に赤・黄となってはかり知ることができない。その後(この月[閏二月]下旬)火気を発し、震動はますます烈しい。穴迫遊覧の男女は行途の便利で近いことを理由にまた往って見る。人が多いと震動は平素より甚だしい。民衆は言う、「この山は諸々の峰を抜いて最も高くして尊い、そもそも婦女の月の穢れある者の来るのを憎む」と。そこで私的に立て札を立てて女子を禁ずる。 当初温泉山が湯穴を生じると、人はその様子を聞いて甚だ恐れた。この地もまた猛烈なことは温泉山に劣らない。[温泉山に異変の生じた]始めには [人は] 憂慮していたが そうこうしているうちに狎れ、後に遊覧するに至る。公がこうした遊覧を禁止するに至って山野はひっそりとして人声がない。 ・閏二月六日公、また文書を老中に呈してその状況を告げる。これより先、長崎奉行永井筑前守死去する(閏二月七日)。公、東覲前の監視をかねて、出かけて行って高木菊二郎(代官)および福岡侯の諸臣(両番所守衛者)に会い、長崎の状況を下問したところ 何事もない旨を報告したため [島原に] 帰る(十七日)。 ・閏二月十四日一乗院、覚王院(小浜村の山伏)が 公の命を承け、護摩壇を比賀多良山(穴迫谷の下流)に築いて真言秘密の法[注:壇を設け、本尊を請じ、真言を唱え、手に印を結び、心に本尊を観じて行う]を修し 、[温泉山の] 鎮火を祈ること七昼夜、そして境域内の神官、僧侶は、或いは命を承け或いは私的にみんな祈り祓う。 ・閏二月十五日これより前 銕砲町(小役人の住居する町の名)杉岡某の家が地震の度に柱の下が鳴動し、棚の上の器物が悉く顛倒する。この日、役人に命じて試しに[柱の下]を掘ってみる。五、六尺に至って普通と異なった状態はなく鳴動は結局止む。 ・三月朔日これより先 地震が一日としてない日はない。この日申の刻[注:午後4時]後また大いに[大地が]震動し、夜になってますます甚だしく、震動する毎に温泉および眉山が崩れ、その音はどよめいて まるで荒れ狂う浪が湧くようである。また時に大砲を発する[ような]音があり、雷のような音をさかんにとどろかせ震わして[それが]山頂より東の海に達する。民衆は皆言う、いつもの地震とは異なると。諸々の家臣たちは登城して公の動静を伺う。公は小役人をして村や市中を巡行せしめ不慮の災難を警戒させる。往来の男女が地震を避け、荷物を担いで奔走するありさまはまるで東西に機を織るようである。家臣の家族は或いは月城に避難し或いは宅地に蓆を敷いて そうして朝を待つ。夜半 公は布令して、異変に応じて対処させる。その概略に曰く、「燃岩が平地に至り、或いは山水が流出したならば、境域内の村役人は時を移さずその所有する船舶を悉く出し領内に物資を運べ」と。[また]曰く、「燃岩が人家に迫らば、市民は必ず南條の村落に避難せよ」と。[また]曰く、「山麓に見回り所を設置し、山奉行などは日夜交替して当直し[山の]状況を望み見て、もし異変の起こるようなことがあれば速やかに知らせよ。この時早鐘を撞いて侍といわず庶民といわずすべての者に告げよ。[早鐘の撞き方として] 二区切りは山水の流出とし、三区切りは燃岩の切迫とする」と。[また]曰く、「燃岩がすでに浄林寺に至ったならば、幕府および先祖代々の位牌は奉じて北村の仏寺に移せ。中務および子供たちは守山、山田村に避難せよ。この時にあたり、米倉に積んである米穀は諸村に移せ」と。[また]曰く、「城中の火薬は予め穴倉を諸村にうがち、異変あるに従って、方向を選んで移し替え、海路を漕してこれをいたせ。或いは至急にして船に乗せるに暇がなければ、ただちに城の堀に投げ込め。武器は皆富岡に移せ。ただ長崎における外寇に備えるものを留め置いて山田の本陣に置け」と。[また]曰く、「家臣の家族は多比良村以北に物資を多く止めおく場所をつくり、その糧食の米は勘定奉行がこれを出して助けよ」と。[また]曰く、「家臣が [避難先に] 移った後は町の中は空虚であるので恐らくは窃盗があるだろう。物頭は組の者どもを率いて日夜城の内外を巡視せよ。大目付は職務の合間にもまた所属する役人を率いて巡視せよ。夜はすなわち拍子木を打ち鳴らして巡視し窃盗の起きないよう戒め、主人がその家を留守する者もまた拍子木を打ち鳴らしてこれに応え、そのようにして夜間数回自分の居る町なかを巡行して、もし変事があるならばその拍子木をはげしく打ち鳴らして知らせよ」と。[また]曰く、「老臣や番頭は昼間は城の内郭を巡察し、城代は日夜城の外郭を守衛せよ。諸々の士分にある者および衛士で進仕して月城において当直する者は、平日のようにせよ。ただし昼夜代わり合って番にあたり その [殿舎の中の] 部屋を誰もいない状態にしてはならない。大手門の守衛は失火の時のようにし、物頭、馬廻りがこれに当直せよ。その上に 取次ぎ[の者]を加えて他国の使者が来るのに備えよ」と。[また]曰く、「官船は皆船出の準備をし、米、薪、塩、味噌を積み込んで内港に繋留し、公家の用向きに備えよ。諸村の船舶で領内に来る船は家臣の用具を漕運するのに充当せよ」と。[また]曰く、「燃岩が鉄砲町に達したならば そこに留まっている者は必ず城内の空いた部屋に移動せよ。この[燃岩が鉄砲町に達した]時 人足を起用して燃岩[流]の道筋にある家を毀すのに充て、普請奉行は役職にある者たちを率いてこれを指揮せよ。[燃岩が]すでに城の外郭に及んだならば孤はそこでこれを避けるであろう。[われに]従う者は大手門外に待て。これより船に乗り、海上より景況を視よう。さらに[燃岩が]本丸に至り[本丸が]燼滅すれば、そこで山田村に赴くであろう。もし山水あるもまた然り」と。[また]曰く、「山水がにわかに出づれば 孤および子供らは本丸に避けるであろう。この時 船手は小舟二艘を運び来て諸人を捌け」と。[また]曰く、「家臣の家族は水と火とを論ぜず月城下の空き地に集まれ(家が郭内にあるからである)。役人はその避ける所を指授せよ。小役人の家族は([家が]郭外にあるからである[が]) 都合の良さにしたがって 水や火を避けてよい。もし水火が蔓延し、道路が梗塞するならば そこでまた月城の外にやって来ること。みんな肩にたすきを施して[身の]証となし、そうして城門を出入りせよ。右の条目は予め変に応じての方策を示したものである。衆人はこれを周知せよ。諸役人はその職の用件に関しては 各々がよくこれを調査し、変事に臨んで誤ることのないようにせよ」と。 ・三月二日前夜より大地震が相続き、室内のへだてとなるものを悉く屋外に放り出す。明け方に間がある、しかしながら昼夜動揺し、[ちょうど]その時にあったものか また大いに震う。 ・三月三日三日の地震は先日に比べやや緩やかである。数日の地震で領内の所々が地割れする。大方の割れ目は西から東に走る。当初は差し渡しが一、二寸ばかり[だったが]、震動する毎にだんだんと開き、甚だしいものは一尺余りになって[その割れ目の]深さは測ることができない。試しに小石を投げてみるに、しばらくして音がした。去年の冬より今に至るまでしばしば大いに[大地が]震動し、石垣の大半は崩壊した。安徳村・今村名(島原村内の小字)等、庶民の家で完全なものはなく、人と家畜とがかなり死傷する。この日、公はまた文書を老中に呈してその状況を告げる。郡の役人が見回り所を折橋・六樹等に設け、交替で当直して山の様子を望み見て、様子を報告する。全村の船舶は悉くやって来て小深に繋留し、皆合図の旗を建てる。およそ千余艘である。これより前、山水と燃岩の異変に際しての早鐘の件について布令しこれを[人々にあまねく]告知する。それ故に臨機応変の処置として諸寺が梵鐘を撞くのを休止する。時報の鐘楼は石を積み重ねて基礎とし、高さは数丈[注:1丈=約3m]だ[が]、朔日の地震で破壊される。そのため仮の楼を組み立てて鐘を撞くが、地が低いため音が遠方に達しない。人は皆[鐘の音が聞こえないことに]困苦する。 ・三月六日公の子供たちが山田村に避難する。(一説に守山村という。数日にして[城に]帰る。[帰った]日は詳しくは分からない) ・三月九日眉山の前に一つの支山がある(南北百二十間、東西五、六十間)、楠が生い茂っている。故に世間一般にはヨ[木+予+象]章山と呼ぶ。この日天気は穏やかでのどかであったのに[何の]理由もなくひとりでにヨ[木+予+象]章山がその場を]抜け出て、東に移動すること八、九十間、人はこれを異様なこととし、行って[移動した]跡を見ると、ただただ赤岩が盤踞するだけであった。連日の地震で、近隣諸国の山で温泉山脈に集まり向かう山もまた鳴動する。人は皆大いに恐れ、変事が四方に噂として伝わり種々の根も葉もない言説があって、都、大坂等では伝えて言うことには、「島原の眉山上に火の燃えさかる穴が生じ、山はまさに赤裸になろうとしている。妖気をはらんだ鬼で頭に三本の角を生やした者や、額がぱっくりと開いた一つ目なる者があり、[それらの者が]夜 町なかを徘徊している」と。或いは[また]言うことには、「眉山が崩壊して島原城を押し潰し、領内の人や家畜は悉く死んでしまった」と。またその図を作って販売する者があるに至るという。近隣諸国の諸侯は地震のあるを聞くとすぐに皆使者を派遣し[当藩を]見舞って、日夜 足繁く行き来する。そうではあるが[中でも]佐賀侯は特に手厚い。度々[当藩を]訪問し人を佐賀藩内に留めて我が[藩の]用務を捌かせ、また役人および官船を神代(佐賀の地で島原にある土地)に置いて非常の変災に備える。これより前は諸侯の使者が来れば、新町の別当の家において接待していた。新町の家並みは瓦で葺いてある。[そのため]地震の度にその鳴動は草葺きの家に倍する。或る日或る諸侯の使者が来訪した。役人が出てその使者を接待した。[が]ちょうどその時大いに[大地が]震動し、屋根瓦が皆揺れ動いてその音は激しい雷のようであった。使者がたいそう驚き恐れて言うことには、「事は聞くところより甚だしい」と。[その使者は]慌ただしく立ち去った。或る時は 徒の侍で書信を携えて来て見舞った者で、地震を畏れ返書を受け取らないで逃げ帰った者があった。そこで改めて杉谷の荘屋および晴雲寺をして応接の場所とした。 ・三月中旬この月中旬になって地震はやや休息する。そこで月城や諸門の交替しての当直をやめ、領内の召し出していた船を返す。そして市民で地震を避けていた者が徐々に家に帰り、領内の繁盛は復旧に近づき、人は初めて間違いなく安全だと思った。だがしかし市人は長い間家を離れていたことからまだ生業に就かず、市中の店において米穀雑品を販売する者がなく 人は大いに困り、どうかすると貧しい家に至っては糧食がとぼしい[状態になっている]。公は米倉を開いて市人に米を施し救う。 ・三月二十五日蜂窪が震動によって唖渓(温泉山内)に毒石を出現させる。役人で山の様子を探る者や或いは木樵りがここを通り過ぎる時に、呼吸がたちまちにして詰まり、意識が朦朧とする。狐や兎、鳥類でその[毒石の]傍に死ぬものが有る。そのため渓の入り口に立て札を立てて人が[唖渓に]行くのを禁止する。 ・四月朔日〜二日終日陰鬱な曇り空、酉の刻 [午後6時] の後大いに震動すること二回、眉山が二つに裂け開けて前海に放り込まれ、たいそうな山水を出す。海は裂けた山のために逆巻き、また大浪を起こして市中の街並みを一掃し尽くし、[さらに浪は]広がって近くの村および他藩に及ぶ。この時山海が鳴動し、まるで天が折れ地が欠けるようであった。 家臣たちは異変のあるを知り、月城に登って動静を伺う。公は役人に命じて村市を巡行させ、その状況を視察させる。 道路に駆け回る者の衣服は濡れ汚れ、或いは泥が混ざり、皆役人を迎えて洪水を告げる。大手門に至る頃、夜はすでに暗黒となり、わずかな距離にあってもその物の色を識別することができない。[大手]門外の高く聳える松の木が門に差し渡す横木を覆い隠し屋根を破壊し、積み重なって山となっている。その[積み重なった物の]下に怒号して救助を求める声がある。そこで手燭を照らして声を認め、行ってこれを捜索するが竹が幾重にも重なって助け出すことができない。そのため大きな鋤きでたわめつり下げてこれを剪り除く。或いは柱や梁などの巨材に挟まれた者はノコギリで[巨材を]切って出す。その[救出された]人は大概負傷していても口に出して言うことができない。これらの人を城門の中に送致して、火を焚いて温め、薬湯を与えて治療する。がしかし死亡する者が多い。 当初、役人は負傷者を救うために竹木をとり除き、人の声を認めてそしてそれらの人を救出して思うことに、災害は洪水だけであると。[ところが]明け方、眉山を仰ぎ見ると[眉山は]その半分を割き、海中には無数の島々を生み出している。町は変じて砂の丘陵となり、死屍があちこちに重なり合っている。そこで初めて山海が共に水を出だしたことを知ったのである。その水の深いことは三、四丈[注:約9m〜12m]、高い木の上に茅の屋根や家財が引懸かっている。そうして一抱えもある大きな木も根こそぎになり幹が断ち切れている。人で沈み溺れた者は生者死者とも皆裸体で、そうでなければ衣服は裂けてぼろとなっている。水勢の激しいことが知れよう。役人が人夫を率いて被災地を巡ると、顔が割け砕かれた者、脇腹を締めくじかれた者があり、[また]腹や背を負傷する者あり、手足を切断する者あり、半身が地に埋まる者あり、巨木が身体を圧する者があり、それらの人で息がまだ絶えていなければ助けて養生場に搬送する。この時養生場を大手、田町門内および月城の外に設置し、大釜で薬を煎じ、大鍋で練り薬を練る。医師が数十人(官医[だけ]では足りず、村医者三十余人を召し出して[これらの人々を]助けさせる) 或る者は投薬し、或る者は練り薬を塗り、白木綿を裂いて負傷者を包み、古い着物やむしろをかぶせ、火を焚いてそれらの人を温めて、[各人の]害せられるところにしたがって治療を施す。上および下の厨房では飯を炊き粥を煮、しもべの者がこれを運んで役人と人々および怪我を負った者にふるまう(上の厨房で飯を炊いて役人と人々の食べ物とし、下の厨房で粥を煮て怪我を負った者に与える)。 役人が午の刻[午前12時]に白地[注:地名]に至ると死傷者がさらに多くある。ひとりの男子 歳は二十四、五ほど[の者が]、善法寺の門前に倒れていた。その顔は[何か]物に突き当たり、目の玉が潰れ出てまぶたの外に垂れ下がり雑木が肩、胴、背中に刺さっている。見る者はいたみ悲しみ魂消てしまった。同じくこの者を大手[の養生場]に搬送する。この人が喫煙を求めた。人夫が彼に[たばこを]与える。そこで[彼は]一、二回吸い終えて、医師に言うことには、「わたしは言うまでもなく生きることのできる者ではない。願うのはこの[身体に刺さった]木を抜いて死にたいものだ」と。医師が試みに木を揺り動かすと、[身体に刺さった木の]本末が砕け、骨髄を引き攣らせる。[木を]左右に回転し、力をこめて木を引き抜く。この人 自若として痛み苦しむ様子がない。そうこうするうちに[その人が]喜んで曰く、「たいそう快い。厚く医を感謝する」と。間もなくして[この人は]息絶えた。人が申し上げて曰く、「この男 [身分は]卑賤であるが大丈夫の胆力がある」と。何者かを尋ねると白土船津の漁師であった(名は伝わっていない)。 地下に人の声がある。穴を穿つこと一丈五、六尺、ひとりの男子を救出する。[その人]曰く、「[四月]一日の地震の際、家を逃れ今にも後ろの戸から出ようとした時に、洪水の波が来て家を倒した。その後のことはぼんやりとして憶えていない。遠くに鶏の鳴き声を聞き、初めて人心地を取り戻し[洪水の襲い来た]前後を顧みると、[自分の]体は屋根の茅くずや壊れた材木の中に埋まっていた。声を張りあげて救助を求めたが人で[私の]声を聞く者はなかった。長時間経ち腹が減り、気力が尽きて、発する声に力がなくなり、人知れず終いに痩せ衰えて死ぬであろうことを恐れていたとき、幸いに皆がやって来て思いがけず救助するのに出会い、露命をつなぐことができた。[壊れた材木などの下に]陥っていた時の私の苦しみはどうかこれを推察せよ」と。[彼は]厚く感謝して去った。 片町に商人の荘平という者があった。[四月]一日、近村に行って商売をし、利益を得ることがいつもより多かった。大いに喜び、帰って妻に言ったことには、「月初めに利潤があるのは我が商いの吉兆である。当然お礼の酒をえびす神に供えなければならない」と。酒一升を買って曰く、「自分は二合五勺を飲んで十分である。その量を供えよう」と。そこで小さな焼きものの器に酌んでこれを[えびす神に]献上し、二度拝礼して曰く、「これは神を迎える酒である。自分が謹んで戴きよき運を祈ろう」と。[神棚より]下げて[供えた酒を]飲む。少し酒に酔って興に乗り、また焼きものの器に[酒を]酌んでこれを献上して曰く、「請う、明日も我が家にあって我が家を富ませよ。これは神を留める酒である」と。供えて下げ 飲んだ。すっかり酒に酔うに至り、また酌んで曰く、「再び明神が戻る。請う、前もって送りたい[ものだ]。これは神を送る酒である」と。供えかつ飲み、まだ飲み尽くさずに、泥酔して寝てしまった。さて大浪が来て荘平をほしいままにする。[藩庁のある]城の外堤に漂着してそれでもなお荘平はこうしたことを知らなかったのである。夜半に酔いが醒めてあたりを見ると、四方は暗黒で[そこが]どこであるかを識別することができない。左右を憶測すると城の堤にいるようである。たいそう怪しんで思うに、前に自分は我が家の部屋に寝た。どうしてこの地にあるのか。しかも衣服が濡れしみ透っているのもまたどうしてなのかと。首をもたげて周囲を見まわすと、城の上の灯りが星のように連なって早鐘がしきりに鳴り、悲しみ叫び泣く声があちこちに起こる。そのため思うに、自分は死んで閻魔大王の役所にやって来たか、その灯りや早鐘はおそらく閻魔大王が地獄におもむき、獄卒を召し出しているのだ。悲しみ叫び泣くのは罪人が責め苦を受け苦悶の声をあげているのだ。自分の衣服の濡れしみ透っているのは娑婆において水で濡らすこと三日、[死者の]衣服を日光にさらしているのだ(民間の習俗に人が死んで三日間、[死者の]衣服を日光にさらし、水に濡らして乾かないようにさせる。曰く、冥土を行く者が火の山を越えるに際し[死者の衣服を]濡らしてその熱を消すのだと)。だがしかし事細かにその声を聞くと、郷里の音にして耳に慣れ親しんでいるところのもの、自分の衣服もまた常日頃着ているところのもので冥土を行く衣服ではない。そうであるならばつまり自分は死んだのではないのか、疑惑はまだ解けない。試しに自分の股を捻ってみると依然として痛みを覚える。城の上の様子を見ると以前見るところのもののようである。ここに於いて生きていることをはっきりと知る。城の堤を降りて片町を捜し求めるが街は悉く砂の河原となり、我が家がどこにあるかも分からない。父母妻子を尋ね求めようとするけれども東西も向かう方角もはっきりしない。茫然として[その場に]立ちつくす。明け方になって初めて変災を知り、神代に昔からの知り合いがあるのを思い、ただちに[神代に]行ってその人に頼る。(別本大変記) この災害は、山と海とが一時に崩れ溢れて、庶民の押し潰され溺れて死傷する者が非常に多い。幸いにして難を逃れた者もまた親を喪失し子を亡くし、悲しみ叫び泣く声は道路に充満する。或いは一家すべてが流され亡くなって魂魄の帰るところのない者があり、その惨状は[ことばにして]言うことができない。公は深く憂え苦しみ、役人に命じて[こうした人々を]哀れみ恵ませる。ただちに急使を派遣して老中に報告させて曰く、「臣[わたくし]の封ぜられた領地島原が、昨日の夕暮れ時に地が大いに震動し、眉山が崩壊して水を出し、海が溢れて大浪を起こして、たちまちのうちに領内の市街をすっかり流し去る。近辺の村落では人民がこの災害のために押し潰され溺れて、死傷者は数えることができない。その崩壊したところの山が海に投げ出され、数カ所に島を生じている。だが城郭は無事である。非常の変災であるのでまず見たところのことについて敢えて一報する」と。 公が今まさに変災を避けようとして、再び[老中に]急使を派遣して曰く、「領地[島原]は変災の後も地震が未だ止まず、山嶽が鳴動している。しかも政務を取り扱う城は高大な山の域内にあり、災害の復興は[どれくらい日数がかかるか]見積もることができない。故にしばらく近村に避難して様子を見たい。あえて申し上げる」。また曰く、「ただ今臣わたくしは東覲の時期に当たっているが、領地に不慮の変災あり、さまざまな処置を指揮し、しかる後に出立したいと思う。こうした事情で東覲の期日を遅らせることをこいねがう」と。公が守山に赴くのを多くの家士たちが見送る。公が言うことには、「ただ今の変災は言語をもって表すことのできる者はいない。孤の城中を去るについては、[自らの]もともとの意志でないとはいえ 多くの家臣たちの勧めにもまた一理ある。しばらくはみなの進言にしたがって変災を避ける。また当然他日下知があるであろう。その際は各々職掌を守り、少しも怠ることなきよう。数日 骨折って勤め、今またその勤めに重ねるに留守を任せる。その労苦を極めてよく知ってはいるがさらに旗の下に 命じられた職務をとり行え」と。この時 川井治太夫(利強)が班列を出 稽首して曰く、「閣下が[私ども]家臣の者らを心にかけ 変災を避けるのにまずその願いをもってする。仁愛を垂れ恩を施すこと極めて深い。だがしかし城郭は幕府の委託するところ[のもの]、城を捨てて他所に赴く[ことについて]、未だ他日幕議がどのような議決を下すかを知らない。願わくはこの点を熟慮せよ」と。公 曰く、「汝の言は道理である。だがしかし孤は別に思うところがある、思慮をし過ぎて心を煩わせるでない」と。終に[避難地守山へ向けて]発し、桜門より往く。公子たちがこれに従う。これより前、家士たちで避難する者に申しつけて湯江以北、守山以南の八つの村に居させ、そうして役人に糧米を運ばせて仮の宿所を定めさせる。この日また命を伝え、城中の守衛を除く外は、速やかにその仮住まいに赴かせる。 ・四月三日役人が市内を巡行し、人足を雇って竹や木の散在するものを収拾する。竹木の下の死体は数え切れない。浄源寺・安養寺・その他数カ所に穴を掘ってこれを埋める。数日が経つにおよび、温気が死体を蒸して悪臭が鼻をつき、人足はこの悪臭に苦しむ。そこで人足の賃金を増やし、また酒を与えてせいを出させ、牢[に収監]中の軽い罪状の者を出して人足の仕事を助けさせる(事が完了した後、その罪一等を減ず)。そうこうしているうちに大卒塔婆を建てて、百人塚と名づける。村市の人民で災害に遭った者、および軽傷を被って藩の療養を受けた者が徐々に親戚・縁故の家に赴き、そうして幼児・老人で帰る所のない者はさらに養育する。 さて島原村の久左衛門の妻、清水郷の六右衛門の妻、澁江源太夫の母が孤児に乳を与えて育て養う。泥川清六は傷ついた者を泊めて治療を施す。三會村の孫八は老女を養う。柏野名の富右衛門は年とった男を養う。有田村の伊三郎は子どもが裸であるのを見て、着ているものを脱いでその子に与える。皆すがるところのない者である。公は[これらの話を]聞いて[善行を施した人々を]褒賞する。 この度の災害で藩庁のある城の南北六、七里、海に面した十七村が流れてすっかりなくなってしまう(杉谷・三会・三澤・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒・西郷・深江・布津・堂崎・有田・町村・隈田・北有馬・南有馬潮勢、北は西郷に至り、南は南有馬大江崎に至って[水勢は]衰えるという)。そして島原・安徳・中木場村の数名[注:名(みょう)。開墾・買得などの種々の原因で取得した田地に、取得者の名を冠して、その保有権を表明したもので、その持主を名主(みょうしゅ)と呼んだ]は山につぶされ、人畜で生きているものはない(島原村の今村・上原の二名、安徳村の北名、中木場村の某名)。治城も南、長さ十余町、広さ三、四町(善法寺より江東寺の所に至る)は土地が窪んで池となり(人が多く筏を組んで金帛[注:黄金と絹織物]を拾いあげ、急にその家を富ませる者がある)、船津は(三軒屋近傍)砂や土が堆積して丘となり、その高いことは一丈余り(また土を掘って物を得る者が多く、或る者は大判金を得る。人が言う、世間に通用している貨幣ではなく、庶民でこの大判金を所蔵するわけはない。そもそも公家が猛島祠に納めたもの、当然これをもとに戻すべきであると。そこでその言に従うという)。 ・四月五日公が羽太伊清に命令を伝えさせて曰く、「ただ今の変災は大昔から比べるものなく多くの家士たちがまだ城中に留まって[城を]守っている。孤は深く地震の未だ終息しないのを恐れている。再び災害が起こったならば当然皆[城を]去ってその被害を避けるべきである。ではあるが おまえたちに意見があるならばそれを述べて隠すでない」と。家臣たちはこもごも議論し、申し上げて曰く、「閣下が群臣のために御心を労し、感恩肝に銘じる。だがしかし家臣の者たちが城を去るならば[そのことについての]幕府評定の是非について帰するところを知らない。我ら家臣はひそかにこの点を思い案じ心を安んぜずにいる。そのために[公の]指令に背き畏縮に耐えないけれども自分ひとりであってもなお生きていれば、固く城郭を守りたいと思う。この志は矢の如く一途にして他意はない。伏して請い願うことにはどうかこれを十分に察せよ」と。伊清は復命した。 ・四月六日公はまた星野藤右衛門(用人)をして書を以て[臣下の意見に対し]論説させて曰く、「城を退避するという企ては、幕議を考慮して[孤の]身命を顧みない金石のように不変の[孤の]意志、孤はほんとうに[城から退避することをおまえたちに]依頼する。しかしながら、大手および諸門を閉ざして唯一諫早門を開き、家士が交番して守衛をすれば、城を空にして去ると言うことはできない。先日の変災によって大手の道路は塞がっている。そのために大手門を閉ざすことは既に老中に告げ知らせた。また諸侯で或いは城外に館を構えてそこに住む者があれば、ただちに今城を離れるといえどもそれでも守衛はまだ城にあり、どうして幕府の意向に背くことがあろうか[幕旨に背くことはない]。皆は疑念を差し挟むことなく、ひたすら速やかに城を去れ」と。藤右衛門はまた公の意向を口述して曰く、「多くの家士たちが城中にあって、もし皆が罹災して死亡するならば孤は面目をもって人に会うことはないであろう。その上ただ今のことは、敵に対し[門を]封じて城を守るのとは事情を異にしている。[城を]出て他所に往くといっても人が どうしてこれを非難する者があろうか[ありはしない]。しかもなお[この度の避難が]幕府の意向に違うならばそれは天から与えられた運命であり天のさだめである。ほかにこれを如何にしようか[如何ともすることができない]。みなの者はこの点を了解し、速やかに[城を]出てそして孤の心を安らかにせよ」と。皆 稽首して承諾する。 この日鍋島弥平左衛門(神代の主、佐賀侯の老臣)が守山の公の館に来て変災を見舞う。公は弥平左衛門に会い、うち解けて語り、時が経って[弥平左衛門は]帰る。 ・四月七日城を出て避難するという議決をし、官僚たちを近村に移し、景花園をもって会議所とし、時を報じる鐘を諫早門に置いて登城の時を告げる。或いはまた火水の変災が生じたならば[その鐘を]撞くのに[かねて命のあった]区切り打ちをして[急を]知らせる。この時災害に遭った傷がまだ癒えず、公の養生場に赴く者はあちこちの村に割り当てて糧食・医薬を与える。城門は大手を閉ざし、その他[の門]を開いて往来に役立てる。そして城中の守衛、[城]内外巡邏の家臣は居留し、その他の者は皆城を退去する。 ・四月八日家臣は悉く村落に移り、城中はもの寂しく静かである。川井治太夫は桜門を守衛して感慨に堪えず、割腹して死ぬ。これは城を去って避難することの不可なるを陳述して受け入れられなかったためである。 人皆川井治太夫の志節を憐れむ。 史実を記録する役人曰く、「定公は諫言を聞き入れない主君ではない。だが[川井治太夫]利強の言が行われなかったのはなぜか。そもそも非常の変災に公が家臣たちの罹災を考慮し、寧ろその身を遺して皆の者の望みとなるのは君主の人民を愛する至誠の心より出づ、そしてその他を顧みないのは即ち時に臨んで行使する[注:"措時"は 禮・中庸 二十三章「時措之宜也」に拠るか ]権力である。[一方]利強が武士は国のために死ぬという義にもとづき、たちまちその命を捨て[武士として]素志を成し遂げるのは人の臣たる者が主君に仕えるための節操を固守して終始変わらない、ただちに真っ直ぐな道を執る者の常法である。君臣の一権と一常法が並び行われてその宜しきを失っていない。故に各々がその職分を全うして非難すべき欠点はない。しかしながら或る者は言う『公は変災を怖れて諫言を拒み、利強は[諫言するという]事態に[情が]激して徒に死ぬ』と。どうして本意を知る者があろうか[ありはしない]。 領内の人民で災害を免れた者は再び変災のあるであろうことを恐れ、急ぎ慌てて朝に夕に必要な用具をまとめて去った。数日を経るに及んで人気のない家に入り物を盗む者が多くなる。役人はこれらの者を捕縛して牢獄に繋ぐ。また邪な民で人心の危惧に乘じて根も葉もない噂を吹聴し民衆を惑わす者がある。そこで布令を出して[そうした浮説を]禁じる。重ねて郡奉行が所属の役人を率いて村内を巡り歩いて取り締まり、疑いある者は捕らえて取り調べる。 ・四月十日役人が山の様子を探り状況を報告して曰く、「眉山は日毎に崩れ、舞岳・呂木山(共に温泉の支山)の山林が焼けることは先日より甚だしく、呂木の火はすでに鹿垣[注:枝つきの木で作ったさかもぎ。猪や鹿の侵入を防ぐための垣]を乗り越えること八間ばかり。上原の民家の井戸が溢れ、水は家の軒を浸し、流れて巨大な川になっている。眉山の割け開けた跡は地震の度毎に砂礫を落とし、その音はまるで大水が流れるようである」と。公は領内の神職や僧侶に命じて温泉山の鎮定を祈らせ、また使者を讃岐・遠江に派遣して金比羅・秋葉の山の神に祈らせる。高波が領内を一掃するが早いか、城郭を避けてやって来て、大手門の外の丈の高い松(高さ三丈余り、門から隔たること数歩)の上に雑草や塵芥を引っかける。しかし水は城門に至らなかった。諫早門は景花園を隔てることほんの小半里[2km弱]に足らず、大水の高さは景花園の樹木の高さに等しい。しかしながらここもまた[水は]門に至らなかった。人はこうしたことを不思議なことだと思う。 世に伝わるのは、「往古松倉豊後守重政がまさに島原に城を築くに 今村の地を選んで縄張りをし基礎を定めて城を造営しようとした。[その際]一夜の夢に神が松倉重政に告げて曰く、『森嶽に築城するがよい』と。そこでこの神のお告げに従う。思うに今回のような変災がある故であろう」と。また曰く、「高力氏の時代に温泉山が噴火し、その光が北村を照らして、夜道を行く者が手燭を持たないこと数日あり、その後山水が出て安徳・深江を流し去った。今を去ること百三十年、言うところの古燔(地名)はその際に焼けた所、水無河原(河磧の名前)は山水が流れて行った場所である。だがしかし災害は今回のこの甚だしさに及ぶものではない」と。神代の人が言う、「我々の地 神代は島原から隔たることわずかに四里、正月以来数々の地震があった。それなのに一軒の家も倒れなかった。四月朔日の大浪も[ただ]一人をも没さなかった。海水が[幾度も]前後したが神代を避けて島原の地を一掃し、死屍および家屋の木材が浜辺に漂着したがまた皆[神代を]避ける。不思議というべきである」と。 ・四月十三日午の時 急使(今月二日島原を発す)が江戸[屋敷]に至り変災を告げる。世子忠馮以下邸内の者は大いに驚き、そこで城からの使者をして用番[注:江戸幕府の老中・若年寄が毎月各一名ずつ交替して政務を執った]松平伊豆守信明に申し上げさせる。 ・四月十四日世子忠馮は富永十左衛門(用人)を島原に派遣して公の様子を伺う。この日老中松平越中守定信が城からの使者を呼び寄せられ島原変災の詳しい記録を届けさせ、そこで[使者は]その状況を[老中松平伊豆守に]申し上げる。曰く、「本月[四月]朔日酉の刻の後 二次にわたって大地が大いに震動する。西の方角で島原城の目前にあって高く聳え立つ山を眉山という。[その眉山が]山頂より山すそに至るまで一時に割け分かれ、大水が出る。その割け分かれた土砂が城の東の海になだれ込み、海が溢れて大浪を起こす。そして山水と海水とが激流となって島原市街を流し去って土砂を海中に堆積させ、数カ所が小高い丘となる。城の南に(城を隔てること十町余り)堤防のようなものが生じ、高さ十間ばかり、長くうねうねとして海の方に延び、一里あって遠ざかる。水の勢いは極めて猛々しく、その水と接触するところのものはたとえ周囲が一丈余りもあるような大木といえども幹を折り根こそぎにされないものはない。領内の南北十七村、海辺に沿った人家、城の外、東照宮および鎮守神・弁財天を安置した三島、その他和光院(東照宮別当)等の寺院九宇、見回り所十区、船倉(官船を蔵する所)、大小の船と併せて船方の家族三百人・城外の小役人五十余人悉く流され死亡する。治下の人民約二万七千人、大半は死亡する。幸いにして生存している者もまた多くは重傷を負いまだ[今後の]生死の如何は分からない。変災後眉山は鳴動し、崖を破壊し、常に砂礫を落とす。市街の流れ去った跡はとりとめなく一大河原となってどこがどの区域か識別できない。あちらこちら海水の浸すところとなる。また大きな丘となり谷となるところがあり、道路も塞がりまるで無人の地域のようである。そのために一時大手門を閉鎖して奸悪な盗賊に備える。今の状況は概略このようである。しかしながらその詳しく細かいことに至ってはまだ調査を経ていない。後日上申するものと食い違いないことを保証することはできない。この点を諒解せられることを求める」と。 その後(二十三日)越中守が城からの使者を呼び寄せられ[幕府の]命を伝えて曰く、「島原の城外、山は崩れ海は溢れ、市街を流し去って村落人民の死傷する者甚だ多い。封ぜられた領地の経営は自らこれを処理するのは祖先の旧法である。ではあるがこの度の変災たるや、田野の損耗はなはだ少ないとはしない[極めて損耗が多い]。それ故一時の費用を支えるために特別の思し召しをもって二千金を貸与する(金は大坂の官庫に赴いてこれを受ける)」と。 ・四月十九日公は守山より騎乗して市街に赴き、流れ去った跡を巡視する。先ず景花園に至り、役人たちに会ってその労を慰める。午前十時大手門に至って、高く設けた座に寄りかかり市街が一変して砂の河原となるのを観る。しばらく時を経て[公]曰く、「この変災は天が孤の身に附するものである」と。[公の目から]ひそやかに涙がくだる。従者で[公を]仰ぎ見ることのできる者はなかった。そこで趣いて城中に入り、三の丸の前の門の外に至って守衛の家臣に会いまた慰労する。三澤(荘屋)において昼食をとり、日が暮れて帰る。 ・四月二十三日 公は変災の地図および副書を作成し、松平景国を派遣して老中に届けさせて曰く、「温泉の支山穴迫が焼ける。治城を隔てること三十町余り、杉谷村の民家を隔てること五十間。 公は流れ去った[土地の]跡を巡視して人民が多く死亡するのを悼み、憤り嘆いて心を傷める。そうこうするうちに守山に帰[ったものの]、心惑って楽しまず、とうとう病気となる。医療を加えたけれども全快に向かわない。家臣たちは憂慮する。公は書簡をもって老中に願い出て曰く、「さきごろ封地に変災があり、[家臣たちを]指揮し[被災の跡を]処理したいと望んで願い出て東覲の時期を延べる。今やほぼ[復興の]筋道も緒に就きまさに[江戸に向けて]出発すべきであるが折しも下腹部に痛みの出る病が激しく起こり、長い道のりの旅行には難しいものがある。病気が少しばかり癒えるのを待って江戸に上りたい。失礼ながら[東覲の]遅れを謝罪する」と。また曰く、「封地の変災のために大小の舟船および船人が皆流され亡くなる。もし長崎に異変の起こるようなことがあれば、陸路は出て行って差し障りなしといえども海上の船での物資輸送をなすことはできない。そのため船舶の再びの建造に至るまで[長崎異変に際しての]防禦の兵を出すことを免除せられんことを請い願う」と。 公が守山に落ち着くと、家臣で村落に在る者が幕府の意向を思慮し、皆憂えおそれてあちこちに集まってひそかに議論する。公はこれを聞き、家臣たちの心を安らかにしようと欲し、大横目をして老中に上呈する書状を彼らに示させる。その文に曰く、「封土島原の変災の後、大地は震い山は崩れてなおいまだ止まない。治城の近傍は山野・村落・地脈が移動転変し、今に至ってもまだ静穏にならない。しかも処々に奇異なことが頻繁に起こることは別紙に申すところの(別紙は伝わらず)如くであるのでこれより以後変災が再び起こらないことを保証するのは難しい。かつ穴迫の火気はますます熾烈で、日夜[山野は]燃え焼けて、すでに山を下り田野に延びその勢いはまさに城郭に迫ろうとしている。今はこの火気を隔てること一里に足りない。その延焼する火が城内を通り過ぎるのか、城の外廓北の沖田を通り過ぎるのか見定めることができないけれども、何事もなく終息するものではないようである。そして城南は過日の変災で土地が転覆し、人馬の歩行を阻んでいる。[城の]東面は城を囲んで皆海で、港は流れ去って、船を繋留する所がない。そして西は穴迫の火が徐々に進んで城に至ればそのときは四方の行路が断絶し、死亡[者]は過日より甚だしいものがあるだろう。またここにとどまるのみならず、当今の地勢からして恐れるのにまだ思いがけない変災が再び何処から生起するかを知らないことである。すでにこの危急に臨み、城郭は無事ではあるが、家臣は守衛を除きその他は命令してしばらくの間城外に避難させた。敢えて申し上げる」と。 ・四月二十七日これより前、公の持病である疾癪が大いにおこり、これに加え肺結核・感冒の症状をもってして、悪寒と熱気とが時あって起こったり止んだりする。みづおちの部で動悸がして脈が強く、呼吸が迫り塞がって飲食が進まず、睡眠も安らかでない。日が経つにつれ痩せ衰え苦しむこと益々甚だしくなり、ここに至ってにわかに薨ず(丑時[注:午前2時])。享年五十一、在位三十年。変災の故に死亡を秘密にする。 佐賀侯は使者および医師を派遣して公の病を見舞う。すでに公の病気が非常に進んで重くなっているのを聞き、医師は脈を診ないで帰る。[江戸表にあった]世子忠馮は公が病気にかかっているのを聞くとすぐ、老中をたよりに自ら往って[公を]看護したいことを、かつまた井上良泉(幕府の医師)を借りて一緒に[島原に]行きたいということを願い出る。老中はこれを許可する。すぐさま江戸を出発し、三島の宿駅に至って[公の]薨ずるを知らせる[島原よりの]急使に出遭い、そこで[江戸に]引き返す。 公が薨ずると島原の家老が国の政務を統御して、大切な事は世子忠馮(ただより)に申し上げ、小さな事は協議して決裁する。 ・四月二十九日治下の地震が次第に沈静化するをもって景花園の会議所を廃止し、官僚たちを月城に移す。ここにおいて家臣で村落に避難していた者は皆[元に]帰る。大手門を開いて守衛を増員し配置して、諸門は元のようにする。 ・五月七日村市において災害に遭った者たちに米千石を与え、また市民で村落に避難した者皆に糧食を下賜する。その与え施す元手を出して与えることができるのは、己酉の年[注:三年前の寛政元(1789)年]に公が村々に命じて穀物を蓄えさせ[たからであり]、今その積み蓄えた物を配布するのである。 ・五月十四日公の死亡を公にする。 [中略] 今次の変災において、領内で大浪によって流れ去った所はおよそ十三里四十八町余り(五十町をもって一里とする)、村や市の人民で頼る所のない者には食糧を供給し、生活していくための仕事を失った者には資金を与える。死亡者は土中に埋葬し、銀貨を[埋葬地]所在の寺の僧侶に託して供養する(領内の快光院、三会村の専光院、多比良村の正覚寺、安徳村の徳法寺、布津村の圓通寺、隈田村の龍泉寺、南有馬村の常光寺、舩倉の回向堂、回向堂は本光寺の多福軒がこれを司っている)。 七月に至り、盂蘭盆において、本光寺の寺主に命じて施餓鬼の法要を片町の海浜で営ませる。晴雲寺の寺主もまた願い出て萬町の流れ去った地において[施餓鬼の法要を]営む。 近くの国の諸侯は皆 使者を派遣して見舞い慰める。その上見舞いの品もあった。福岡侯はまだ幼くいとけないけれども深く我が封国の変災を憐れみ、米千俵を贈る。そもそも[この贈り物は]福岡侯の心より出づという。大村侯は米・味噌等の諸物を贈り、また行商や店商いをして店を守山・山田の間に開き、布等の織物・紙や筆その他日用の雑具をならべ、平時の価格でこれらを売らせる。我等にとって役に立つ道具はお蔭でたやすく手に入る。唐津・平戸侯もまた手厚く金品を贈り与える。佐賀侯は親戚という理由で変災がまだ起こらないときからしばしば使者を派遣して安否を尋ね、役人および官船を神代に置いてさし迫った災難に備える。変災が起こるに及び、また銀・米および日用の具を贈ってその世話は特別なものとなる。また稲の苗を有喜村に植え、有喜村の荘屋をしてその稲の苗を贈らせる。我が領民で災害を神代に避ける者には衣食を支給し、[災害がおさまって後]自身の家に帰るに及んでは、皆書状をもって藩庁に報告する。世間で言うことには、昔 享保壬子[注:享保十七(1732)年]の饑饉は佐賀が最も甚だしく、戴公が多くの穀物を売り出す。そのためこれに報いるのであると。事態が落ち着くに及び皆に使者を派遣して礼を言う。 [中略] ・八月七日城内外の巡回警備を止める。 ・八月十二日家臣・領民の死傷、田地・家屋の流されなくなったものを老中に報告する。曰く、 召し使う者で死亡する者 576人(男 291人、仕女 285人) 村市民 8,835人(村 3,584人、市 5,251人、このうち男 4,018人、女 4,817人)、僧侶と神官・盲人123人、斃死する牛馬 496匹(牛 27匹、馬 469匹) 傷つく者 707人(男 360人、女 347人)、[傷が]癒えないで死亡した者 106人(男 53人、女 53人)、流れ去った城外の小役人の家屋および長屋 63戸、村市民の家屋 3,284戸(村 1,619戸、市 1,665戸、別に部屋・馬屋・倉庫・神社・寺院等は略す)、損耗する水田と陸田 378町(水田 259町、陸田 119町)、天草郡の托された地の、流れ去った民家 370余戸、溺死者 343人(男 148人、女 95人)(195人の誤り?)、斃死した牛馬 109匹(牛 45匹、馬 63匹)、損耗する水田と陸田 60余町。[4月]朔日の変災時に[天草]富岡の役人(島原藩の派遣した者)が急ぎの使者を発して変災を告げる。そこで命じて糧食を被災者に与えさせ、その死傷を哀れみ金品を与えて助ける。そして[被災状況を]老中に報告させる。後 幕府は四百金を貸して[彼らを]救う。また死者を弔い銀を施して施餓鬼法要を遍照院(大矢野組、東向寺の子院)に行う。我が島原藩もまた施餓鬼法要を九品寺(大浦村)に行う。流れ去った村の住民で、生活していくための仕事を失った者が多いと聞くとすぐに金や穀物を下賜して生業に就かせる。 ・九月朔日[亡き公の]子どもたちが月城に帰る。 ・九月四日将軍が特別の思し召しをもって金一萬を貸す。家臣はこれを聞いて涙する者がある。曰く、「公がなおご存命ならばその喜びはいかほどであったろうか[たいそう喜ばれたに違いない]。残念なことは[公が]憂労のうちに[生涯を]終えてこの特別の待遇を見ないことである」と。世間が伝えることには、「公が宇都宮に初めて入国するや一人の老人が有り、儀仗の兵を観、公を占って曰く、「善きかな、明君である。よく国を治めるにちがいない。だがしかし生涯を終えるに際し労苦を免れないだろう」と。まことにその[老人の]言のとおりだと言う。 [原文] (『深溝世紀』巻十六 定公 下 渡部政弼著 / 仮名交じり文(読解者:溝上慶治) / 発行:島原市教育委員会 平成十四年三月 pp.24〜41) 三年、辛亥、二月十五日、将軍公を召して帰封を命ず。長崎監務は故の如し。十六日、内桜田門の守衛を免ず。十九日、是より先栄子松平外記忠告に許嫁し、未だ婚を成さずして外記卆す。松平式部(後長門守)忠寧之を娶らんことを請う。公許諾す。二十五日西帰す。 片町に賈人荘平なる者有り。朔日、近村に行賈し、利を得ること平常より多し。大いに喜び、還りて婦に謂いて曰く、「月朔に利潤有るは我が商の吉兆なり。當に賽酒を蛭子神に供うべし」と。酒一升を沽いて曰く、「吾二合五勺を飲みて足る。其の量を供うべし」と。乃ち小瓶に酌みて之を奉り、再拝して曰く、「是れ神を迎うる酒なり。吾拝戴して佳運を祈らん」と。撤して之を飲む。微酔して興に乗じ、又瓶に酌みて之を奉りて曰く、「請う、明日も我が家に富宿せよ、是れ留神の酒なり」と。供えて撤して飲む。已に酣酔に至り、又酌みて曰く、「再明神還る。請 う、豫め之を送らん。是れ送神の酒なり」と。供え且つ飲み、未だ盡さず、泥酔して臥す。時に洪波来り之を蕩す。治城の外堤に漂着して而も荘平之を知らざるなり。夜半に酔醒めて之を見れば、四方暗黒にして何處なるかを辨ぜず。左右を揣摩するに城堤に在るが如し。大いに恠しみて以為えらく、前には吾我が室に臥す。何を以てか此の地に在る。而も衣服濕透するも亦何の故なるやと。首を擧げて回顧するに、城上の灯燈星羅して急鐘頻りに鳴り、哀號悲泣の聲数所に起る。因って謂えらく、我死して閻王の廰に至るや、其の灯燈急鐘は蓋し閻王獄に臨み、鬼卆を召すなり。哀號悲泣は罪人呵責を受け苦楚の声を発するなり。吾が衣の濕透は沙婆沃うこと三日、衣を曝すなり(民俗に人死して三日、其の衣を曝し、水に沃い乾かざらしむ。曰く、冥行の者の火山を踰ゆるに之を沃いて其の熱を消すなりと)。然れども審らかに其の声を聴くに、郷里の音にして耳に慣習する所、吾が衣も亦平常服する所にして冥行の物に非ず。然からば則ち吾死するに非ざるか、疑惑未だ解けず。試みに其の股を捻るに猶お痛を覚ゆ。城上の景象を視るに旧見る所の如し。是に於て生有るを決知す。城堤を降りて片町を索むるに街衢悉く砂磧と為り、我が家の何處に在るやを知らず。父母妻子を尋めんと欲するも東西向方を定めず。茫然として立つ。天明始めて災変を知り、神代に旧識有るを思い、乃ち往きて之に依る。(別本大変記) 此の災や、山海一時に崩溢し、民の壓溺して死傷する太だ多し。幸にして免るる者も亦親を喪い子を亡い、號泣悲歎の聲は道路に充満す。或いは一家悉く流亡し、魂魄の帰する所無き者有り、其の惨言うべからざるなり。公深く憂苦し、吏に命じて之を哀恤せしむ。乃ち急使を遣わして老中に告げしめて曰く、「臣の封邑島原、昨薄暮地大いに震い、眉山崩れて水を出し、海溢れて洪波を作し、忽ち治下の市街を流蕩す。近邊の村落人民之が為に圧弱(ママ)し、死傷算うべからず。其の崩るる所の山海に投じ、数所に島嶼を生ず。然れども城郭は恙無し。非常の變災なるを以て先づ其の見る所に就きて敢えて報ず」と。 史臣曰く、「定公は諫を容れざるの君に非ず。而して利強の言の行われざるは何ぞや。蓋し非常の変に公群臣の罹災を慮り、寧ろ其の身を遺して以て衆の望と為るは是れ人主愛民の至誠より出づ、而して其の他を顧みざるは即ち措時の権なり。利強士は国の為に死するの義に據り、輒ち其の命を損じて以て素志を成すは是れに人臣君に事うるの節操を固守して終始変らず、即ち執正の常なり。君臣一権一常併行して其の宜しきを失わず。故に各々其の職分を盡して間然する無し。而して或いは謂う『公は災を怖れて諫を拒み、利強は事に激して浪死す』と。豈に之を知る者ならんや」と。 治下の人民の災を免るる者復た変有らんことを恐れ、倉皇として旦夕必用の具を装して去る。数日を経るに及び虚室に入りて物を竊む者多し。吏之を捕えて牢獄に繋ぐ。又奸民の人心の危懼に乘じて虚説を鼓し、衆を惑わす者有り。即ち令を出して之を禁ず。尋いで郡奉行属吏を率いて村内を巡行して之を按撫し、渉疑有る者は執えて之を検治す。 |