休暇村 雲仙(補説2)島原大変肥後迷惑
[東尋坊と永平寺へ]
休暇村越前三国は、JR芦原温泉駅発、越前松島水族館経由の東尋坊行き路線バスが通る道沿いに建つ。
今では、玄関先にまで路線バスが入るようになっているらしいが、5年前は道沿いに休暇村のバス停があり、バス停を示す標識が一本立っているだけだった。バスが去ってしまうと、私たちは映画の一コマのようにそこに取り残された。道端の草むらには茎の先に咲いた小ぶりの黄色い花が潮風に揺れていた。旅の記憶に残るワンシーンである。2008年5月下旬のことだった。
広々とした芝生広場の先に建物はあり、休暇村越前三国の印象は開放的だ。
1996年建造当初は、洋室3室 / 和室49室、定員251名だったものが、2006年3月にリニューアルされ、洋室33室 / 和室37室(全70室)、宿泊定員214名となっている。建物が鉄筋コンクリート5階建てであることに変わりない。
10年でリニューアルとは、ちょっと早い気がするが、この時「三国温泉 ありその湯」と名づけられた露天風呂がオープン。洋室を増やすなど、"時代" のニーズにいち早く合わせたというところか。
残念だが、休暇村越前三国の記憶はここまで。宿泊した部屋は、"請求・領収書" に 311 と記されているので、「そうだったんだ」と思うだけで、窓外の景色を含め部屋の記憶はない。そこで連れ合いとどんな会話を交わしたのか........。予約注文した料理の名前は記録にあるので分かりはするが、ほとんど忘却の彼方である。
時折、休暇村情報誌 「倶楽部Q」の "読者のひろば:行ってきました休暇村" 欄に、全ての施設に宿泊を果たした人の話が、掲載されることがあるが、それらの人々は、ひとつひとつの休暇村をどう記憶に留めているのだろうか。
休暇村からの予約完了の郵便物やパンフレットの類も手許に残っていないところをみると、この時は、旅を思い立ってすぐ予約を入れ、出発したのだろう。
JR芦原温泉駅へは、私たちの住む最寄りの駅から "雷鳥" か "サンダーバード" に乗車すれば1時間半程度で到着する。そのため、午前中、少し早く出発しさえすれば、宿に入る前に東尋坊へは余裕で立ち寄ることができる。
それまで私は東尋坊を訪れる機会を持たなかったが、連れ合いはすでに複数回当地を訪れている。東尋坊から目と鼻の先にある宿に泊まるのに行かないということもなかろう。一度くらい見ておいてもいいのでは........と、彼が言ってくれたので、まずは東尋坊へ。
東尋坊バス停でバスを下り少し行くと、両側に "門前町"よろしくさまざまな魚介を扱う店が軒を連ねて寸分の空き間もない。通りの頭上は、雨除けか日除けか、テント地のようなもので覆われていたように思う。そこを通り抜けると、すぐ眼の前に日本海が広がり、岩頭が目に入る。さらに耳には岩壁の絶景を海から眺められるという遊覧船の案内が聞こえてきた。
岩の上に立ち、下を覗くと、この時は引き潮で、眼下の海水は遙か下の岩の間でゴミを浮かべて澱んでいた。観光用には、岩にぶつかって雄々しく砕け散る波涛の様子ばかりが喧伝されるが、当然干潮の時もあっての自然だ。がっかりしたのはゴミだった。
遊歩道をぐるりと歩いて戻ってくると、自殺を思いとどまらせる看板が目にとび込んできた。ここは、所謂 "自殺の名所" であったことを思い出す。
魚介の店の居並ぶ中をバス停に戻る途中で、一軒の店に立ち寄り "海鮮丼" を注文、お昼とした。食材が新鮮なのはさすがだ。
さらに少し行ったところで、三国湊などが見渡せるという塔があったので、料金を支払って上ってみる。あの塔は今もあるのだろうか。何だか年代物の塔のようでエレベーターが古く、魚か何かの臭いがした。
翌日、永平寺には行かないと言っていた連れ合いが、「時間もあることだし、ここまで来たのだから、やっぱり行ってみるか」と言うので、一旦JR芦原温泉駅に出てバスを乗り換え、永平寺に向かう。
当初、予定がなかったため、私たちは京福バスの "東尋坊・永平寺マル得2日フリー乗車券" を購入しなかったが、両方へ行くのなら、この "マル得2日フリー乗車券" はお得だ。JR芦原温泉駅前バス停あたりの窓口で購入できたような気がする。
訪ねてみるまで、私の永平寺のイメージは以前に見たNHKの番組によるところが大きかった。
厳冬のしんしんと降る雪の中に老杉の黒々とした樹様が浮かびあがる。やがてカメラは埋もれるごとく雪に覆われた七堂伽藍を映し出したかと思うと、伽藍の軒に列なる氷柱と、氷柱をつたって滴る雫にズームインして止まる。ゆっくりと間を取った後、再び雪の底に沈む静謐かつ清浄な永平寺全山をカメラは捉えて峻烈なイメージを見る者に焼きつける。
野々村馨著『食う寝る坐る 永平寺修行記』(新潮社 平成13年8月 以下『食う寝る坐る』)から、その先の映像を補完すると、
「まだ夜の闇にすっぽりと覆われ、空には星が瞬く午前三時半。永平寺の一日は、伽藍を全速力で駆け抜ける振司[しんす:永平寺における公務のひとつ。起床の時を告げるため、鈴を振り鳴らしながら全山を順路どおりに駆け抜ける役割の者]の、張り裂けるほどの鼓動で始まる」
続いて、ドキュメンタリー映像は雲水たちによる廻廊掃除の光景を映し出すのだが、『食う寝る坐る』は次のように記している。
「まず袈裟や衣を脱いで着物だけになり、その着物の丈を一本の腰紐でちょうど膝上くらいに上げる。そして手巾を背に交差させ、襷とするのである。この手巾は、指一本差し込む余地なくきつく掛けることを要求されている。足はもちろん裸足である。(中略)
廻廊掃除は、永平寺の一番上の法堂脇から始まった。全山の雲水が、手に雑巾を握り締め、全速力で法堂まで駆け上がるのである。その様はまさに殺気立っていた。誰一人として、モタモタと歩きながら上がってくるような者はいない。
僕も長い長い廻廊を、全速力で駆け上がった。そして法堂の脇に達した頃には、もうほとんど体力を消耗しつくし、一瞬、目眩がした。しかし廻廊掃除はこれからである。固く絞った雑巾で、法堂の脇から承陽殿にのびる廊下を一気にふき始める。
この場合、時間をかけて丹念にふき清めるなどということは要求されていない。とにかく、敏速に隅々までである。そして、膝をつけることは厳禁。
ここが終わると次は、法堂から仏殿に下りる長い階段である。ここも膝をつけずに中腰のまま、両手で押さえた雑巾を右に左にと大きく動かしながら、一段一段と下まで、またたく間にふき進む。と同時に、また一気に法堂の脇まで駆け上がり、再びふき始める。これを旦過寮のわれわれは、五、六回繰り返すのである。少しでも速度が落ちると怒鳴られ、蹴り飛ばされる。もう心臓が破裂しそうになった。
その後は、仏殿から僧堂前、中雀門をへて、最後に山門前の長い廊下へとふき進む。この廊下を、古参雲水の「よし終われ」という声がかかるまで、延々と何往復も何往復もふき続けるのである。
最初に絞った雑巾は、二度と水につけることが許されないので、もうこのあたりにくると雑巾は板の上でほとんど滑らず、筋肉の疲労と反比例して、ますます力を要するようになる。息は絶え絶えに、足はガクガクになってくる。それでも、一向に声はかからない。
膝をつき、動けなくなった円海が、手巾をつかまれ引きずられている。なるほど、手巾をきつく締めるのはこのためかと後で思った。蹴り飛ばされている者もいる。
「ああ、僕ももう駄目だ、今度向こうの端まで行ったら休もう」と何度思ったかしれない。しかしそのたびに、「お前は好きでここに来たはずじゃないか、こんなことで弱音をはき、さぼっていたら、何のために来たのかわからないぞ」という心の呼びかけが、寸前のところで思い止まらせた。
いったい何往復しただろう。ようやく終わりの声がかかった時には、まだ木陰に根雪の残る寒い朝でありながら、全身汗でびっしょりになった。
白い息をハアハア吐き、ふらふらになり、山門の前に整列した。
「いいか、こんなことで弱音をはいているようじゃ話にならんぞ。こんなのはまだまだ序の口だと思え。わかったか!」
序の口。何ということだ。こんなことが毎朝あると思うと恐ろしくなってきた。こういった訓示に一抹の不安を胸に抱きながら、われわれはまた駆け足で旦過寮へ戻った」
旦過寮(たんがりょう)とは、本来、夕刻草鞋を脱ぎ、旦晨すなわち朝立ち去る行脚僧のための部屋の意であるが、現在ここは「上山した者の修行に対する心構えを試すとともに、娑婆から引きずってきた我見をへし折り、これから修行生活をおくるうえでの必要な規矩(規則)や作法といったものを徹底的に体にたたき込むための場所」となっている。「期間は通常七日間。その間、起床から就寝までのほとんどの時間を、ここで壁に向かって坐ることに費やす」という。ただ「この旦過寮は、あくまでも朝に過ぎ去る行脚僧のための部屋であり、したがってここに入ったからといって、まだ永平寺の雲水になったわけではない。ここで七日間の苛烈な試練を経て、ようやく永平寺の雲水としてのステップを踏み出す」ことができるのだと。
(『食う寝る坐る』は、筆者野々村馨が曹洞宗大本山永平寺で雲水として修行した一年間の体験を描いた書である。)
永平寺バス停は、大方の有名寺院同様、永平寺門前にではなく、門前街を出外れたところにある。門前街の道幅は京都清水寺や銀閣寺参道のそれよりけっこう広い。緩やかな坂道の両側には土産物店や茶店が並ぶ。いずこも同じ門前街の様相だ。
永平寺域に足を踏み入れようとして、私の足はちょっと止まった。漱石の『門』の一節「彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで濟む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた」が頭に浮かんだからである。
「自分は門を開けて貰ひに來た。けれども門番は扉の向側にゐて、敲いても遂に顔さへ出して呉れなかつた。たゞ、「敲いても駄目だ。獨りで開けて入れ」と云ふ聲が聞えた丈であつた。彼は何うしたら此門の閂を開ける事が出來るかを考へた。さうして其手段と方法を明らかに頭の中で拵へた。けれども夫を實地に開ける力は、少しも養成する事が出來なかつた。從つて自分の立つてゐる場所は、此問題を考へない昔と毫も異なる所がなかつた。彼は依然として無能無力に鎖ざされた扉の前に取り殘された。彼は平生自分の分別を便に生きて來た。其分別が今は彼に祟つたのを口惜く思つた。さうして始から取捨も商量も容れない愚なものゝ一徹一圖を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ、思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもつて生れて來たものらしかつた。夫は是非もなかつた。けれども、何うせ通れない門なら、わざわざ其所迄辿り付くのが矛盾であつた。彼は後を顧みた。さうして到底又元の路へ引き返す勇氣を有たなかつた。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時迄も展望を遮ぎつてゐた」に続く一節だ。
『門』の主人公 "宗助" は、愛のために友人安井を裏切ったという過去もつ。その影に脅かされ心煩わせつつ、宗助は安井のかつての女である妻御米とともに社会の片隅でひっそりと生きていた。そんな宗助が、眠れぬ或る夜、「もっと鷹揚に生きて行く分別をしなければならないと」決心し、鎌倉の一窓庵に十日ばかりの参禅を試みて、「悟」を得られぬまま寺を後にするくだりである。
「一窓庵」は、円覚寺(臨済宗円覚寺派大本山 瑞鹿山円覚興聖禅寺)の塔頭帰源院がモデルで、漱石自身二十八歳の暮れから正月にかけて帰源院に参禅している。その際の心の消息がほとんどそのままに、小説『門』のなかに織りこまれているという。
"門" という言葉はまた、私にあのカフカの『掟の門』を想起させる。
"門" は暗喩に満ちた言葉である。
門前に立って、あたりを見渡し、杉の高い梢を眺めて足を永平寺に踏み入れる。
連れ合いは、早くも参道のずいぶん先を行く。追いつこうと、急に駆け出したので、ちょっと息が弾む。
連れ合いは、どこへいっても "入場料" の類を要するような領域には入らないのが常だが、この時は違っていた。入ってみるかというのだ。ちょっと戸惑いながら拝観料を払って建物内部に入る。
順路にしたがって廻廊・廊下を進み、階段を上り下りするが、当然昼間の伽藍には全速力で鈴を振り鳴らしながら全山を順路どおりに駆け抜ける雲水の張り裂けるような鼓動も、雑巾を手に廻廊掃除する雲水たちの荒い息遣いも無く、静かな大寺の趣であった。
ここ永平寺で『食う寝る坐る』の筆者野々村馨はどのように坐ったのか。
決められた坐禅の時間以外にも、薬石[夕食]後の六時から七時の間[雲水にとって数少ない自由時間]、いつも一人僧堂に坐ったという筆者は、
「永平寺の坐禅は、坐ることを目的にも方法にもしていない。ようするに悟りを得るために坐るのではなく、ただ坐るのである。
では、このただ坐るということは、どういうことなのか。確かに、足を組み坐ることには違いない。しかしこれは、坐る、立つ、歩くなどといった行為を超越したもの、いわゆる、ある形になることである。形になるということは、決定的に自分がその形になりきることで、すべてのしがらみや自我をぬぎ捨て、ただ大気とともにこの一瞬の時にまみえることなのだと思う。(中略)
僕は、そんな永平寺での一瞬一瞬を信じて坐った。足を組み、静かに壁に向かっていると、体中のいろいろな感覚が冴えてくる。大気の動きや自然の流転が、微細な振動になって鼓膜に伝わる。そしてある時は、その振動にハッと心を揺さぶられることもある。(中略)
その一瞬のあるがままを、すべて無条件に受け入れる。これが一年を坐りぬいて感じた、僕の「只管打坐」だった。(中略)
生きるということから余分な付加価値をすべて削ぎ落として考えてみると、無闇に心を悩ませていた多くのことが忘れられた。まず、このただ生きているという事実を無条件に受け入れ、そしてその生を営ませている日々の一瞬一瞬を大切に生きる。これが、永平寺の、洗面し、食べ、排泄し、眠る単調な日々の繰り返しの中で、体で感じた僕なりの一つの答えだった」と言い、乞暇。永平寺を去る。「出家」し、永平寺に上山して一年後のことである。
曹洞と臨済の違いはあるが、『門』に臨済宗における "修行" の様子が、ほんの少し描かれている。坐禅修行に訪れた宗助を一窓庵で世話した宜道[法嶽宗演の高弟宗活がモデル]について触れたくだりである。
「紹介状を貰ふときに東京で聞いた所によると、此宜道といふ坊さんは、大變性質の可い男で、今では修行も大分出來上がつてゐると云ふ話だつたが、會つて見ると、丸で一丁字もない小モノ[まだれ+斯]の様に丁寧であつた。かうして襷掛で働いてゐる所を見ると、何うしても一個の獨立した庵の主人らしくはなかつた。納所とも小坊主とも云へた。
此矮小な若僧は、まだ出家をしない前、たゞの俗人として此所へ修行に來た時、七日の間結跏したぎり少しも動かなかつたのである。仕舞には足が痛んで腰が立たなくなつて、厠へ上る折などは、やつとの事壁傳ひに身體を運んだのである。其時分の彼は彫刻家であつた。見性した日に、嬉しさの餘り、裏の山へ馳け上つて、草木國土悉皆成佛と大きな聲を出して叫んだ。さうして遂に頭を剃つてしまつた。
此庵を預かる様になつてから、もう二年になるが、まだ本式に床を延べて、樂に足を延ばして寐た事はないと云つた。冬でも着物の儘壁に倚れて坐睡する丈だと云つた。侍者をしてゐた頃などは、老師の犢鼻褌迄洗はせられたと云つた。其上少しの暇を偸んで坐りでもすると、後から來て意地の惡い邪魔をされる、毒吐かれる、頭の剃り立てには何の因果で坊主になつたかと悔む事が多かつたと云つた。
「漸く此頃になつて少し樂になりました。しかし未だ先が御座います。修行は實際苦しいものです。さう容易に出來るものなら、いくら私共が馬鹿だつて、斯うして十年も二十年も苦しむ譯が御座いません」」というものだ。
宗助の―実は漱石の―参禅の様子はどんなだったか。
宗助は「悟といふ美名に欺かれて、彼の平生に似合はぬ冒險を試みようと企て」、「もし此冒險に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救ふ事が出來はしまいかと、果敢ない望を抱い」て参禅に挑む。
一窓庵を訪ねたその日、宗助は老師[実は洪嶽宗演]の相見において「まあ何から入つても同じであるが、父母未生以前本來の面目は何だか、それを一つ考へて見たら善からう」と言われる。「宗助には父母未生以前といふ意味がよく分からなかつたが、何しろ自分と云ふものは必竟何物だか、其本體を捕まへて見ろと云ふ意味だらうと判斷」する。
一窓庵の自分の室と決められた六畳に入り、宗助は冷たい火鉢の灰の中に細い線香を燻らして、教えられたとおり座蒲団の上に半跏を組む。「彼は考へた。けれども考へる方向も、考へる問題の實質も、殆んど捕まへ様のない空漠なものであつた。彼は考へながら、自分は非常に迂闊な眞似をしてゐるのではなからうかと疑」う。「彼の頭の中を色々なものが流れた。其あるものは明らかに眼に見えた。あるものは混沌として雲の如くに動いた。何所から來て何所へ行くとも分らなかつた。たゞ先のものが消える、すぐ後から次のものが現はれた。さうして仕切りなしに夫から夫へと續いた。頭の往來を通るものは、無限で無數で無盡藏で、決して宗助の命令によつて、留まる事も休む事もなかつた。斷ち切らうと思へば思ふ程、滾々として湧いて出た」。線香はまだ半分しか燃えていなかった。「宗助はまた考へ始めた。すると、すぐ色のあるもの、形のあるものが頭の中を通り出した。ぞろぞろと群がる蟻の如くに動いて行く、あとから又ぞろぞろと群がる蟻の如くに現はれた。凝としてゐるのはたゞ宗助の身體丈であつた。心は切ない程、苦しい程、堪へがたい程動いた」。
翌朝、勝手の竈の前に蹲踞まって朝飯を炊きながら本を讀んでいた宜道を見て、「腦を疲らすより一層其道の書物でも借りて讀む方が、要領を得る捷徑ではなからうかと思い付いた」宗助が、宜道にそう告げたところ、「讀書程修行の妨になるものは無い様です。私共でも、斯うして碧巖抔を讀みますが、自分の程度以上の所になると、丸で見當が付きません。それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが坐る時の妨になつて、自分以上の境界を豫期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべき所に頓挫が出來ます。大變毒になりますから、御止しになつた方が可いでせう」と、たしなめられる。
やがて朝食を了え、自分の室に帰った宗助は「又父母未生以前と云ふ稀有な問題を眼の前に据ゑて、凝と眺めた。けれども、もともと筋の立たない、從がつて發展のしやうのない問題だから、いくら考へても何處からも手を出す事は出來なかつた。さうして、すぐ考へるのが厭になつた」。
その夜老師の室中に入るを前に、午餐の後「消化れない堅い團子が胃に滯ほつてゐる様な不安な胸を抱いて」自分の部屋に戻り、宗助は再び線香を焚いて坐る。だが、夕方までは坐り続けられなかった。「どんな解答にしろ一つ拵らへて置かなければならないと思ひながらも、仕舞には根氣が盡きて」しまうのだった。
時至り、宗助は宜道に導かれて老師の室に向かう。
「宗助は此間の公案に對して、自分丈の解答は準備してゐた。けれども、それは甚だ覺束ない薄手のものに過ぎなかつた。室中に入る以上は、何か見解を呈しない譯に行かないので、已を得ず納まらない所を、わざと納まつた様に取繕つた、其場限りの挨拶であつた。彼は此心細い解答で、僥倖にも難關を通過して見たい抔とは、夢にも思ひ設けなかつた」。ただ、頭から割り出した、あたかも絵に描いた餅のような代物を持つて、室中に入らなければならない自分を恥じていた。
老師の面前に力なく坐った宗助の、口にした言葉はたゞ一句で尽きてしまう。老師からは「もつと、ぎろりとした所を持つて來なければ駄目だ。其位な事は少し學問をしたものなら誰でも云へる」と言われる。宗助は宿無し犬のように元気なく老師の室を退く。
「彼は山を出る前に、何とか此間の問題に片を付けなければ、折角來た甲斐がない様な、又宜道に對して濟まない様な氣がしてゐた。眼が覺めてゐる時は、之がために名状し難い一種の壓迫を受けつゞけに受けた。從つて日が暮れて夜が明けて、寺で見る太陽の數が重なるにつけて、恰も後から追ひ掛けられでもする如く氣を焦つた。けれども彼は最初の解決より外に、一歩も此問題にちかづく術を知らなかつた。彼は又いくら考へても此最初の解決は確なものであると信じてゐた。(略)彼は此確なものを放り出して、更に又確なものを求めようとした。けれども左様なものは少しも出て來なかつた。
彼は自分の室で獨り考へた。疲れると、臺所から下りて、裏の菜園へ出た。さうして崖の下に掘った横穴の中へ這入つて、凝つと動かずにゐた。宜道は氣が散る様では駄目だと云つた。段々集注して凝り固まつて、仕舞に鐵の棒の様にならなくては駄目だと云つた。さう云ふ事を聞けば聞く程、實際にさうなるのが、困難になつた。(略)
「道は近きにあり、却つて之を遠きに求むといふ言葉があるが實際です。つい鼻の先にあるのですけれども、何うしても氣が付きません」と宜道はさも殘念さうであつた。宗助は又自分の室に退いて線香を立てた。
斯う云ふ態は、不幸にして宗助の山を去らなければならない日迄、目に立つ程の新生面を開く機會なく續いた」。
宗助は問題解決への未練を棄てて寺を去る。
伽藍を巡り終え、老杉の木立の下を逍遙しながら、「出家」とは、「悟り」とはいったい何なのか、考えあぐねていた。
連れ合いは言う、
「そのとき、達磨大師は少林寺で面壁、坐禅をしていたという。慧可は大師に弟子入りを願い出たが、すげなく断られた。何度願い出てもかなえられず、思いあまった慧可は自分の左臂を引きちぎって、これで大師を撃ったという。有名な「慧可断臂」の伝説である。
求道の一念がそうさせたと言われる。しかし、面妖である。自分の臂ではなく、相手の臂を引きちぎって、それで相手を撃ってもよかったのではないか。
どうやら、求道には、隠れた自己破壊衝動があるようだ。それも、ただおとなしく消えてゆくというのではなく、こぶしを固めて、それで自分を無茶苦茶に叩きつぶしたい、というような破壊衝動である。
なぜか。
いろいろ考えられようが、今は問わない。自己破壊衝動ということに、もう少し焦点を当ててみよう。
達磨や慧可は、5, 6世紀の人と考えられている。時期を同じくして(あるいは少し先んじるが)、エジプトやシリアの砂漠には、4, 5世紀、砂漠の修道士たちが現れる。彼らの多くは、文字どおり墓の中に自分を閉じこめた。
「彼 [ テオドーロス ] の頭はすさまじい悪臭であったが、それは傷と膿によるもので、そのためにおびただしい蛆虫が洞窟には住んでいて、そして、彼の骨はむき出しとなり、彼の髪は固く結ばれていた。そして、悪臭と、彼から散らばってくる蛆虫のために、誰も彼の近くに立つことはできなかった。彼の外見は死人のようであり、端的に言うなら、その痛苦によって、少年ヨブと見なしうる」(足立広明「『聖人伝』に現れる砂漠の苦行僧」史林 72(5) 1989.09 p.138 )。
自らを墓穴に閉じこめ、文字どおりそのまま死んで逝った者も多数いたであろうが、そうやって「聖性」を獲得し、「聖人」と呼ばれるに至った者たちもいた。そして「聖人」は、
「イエスと異なって極めて長命で、神の助力による奇蹟を、長年月にわたって人々の間で示すことになる」(同上、p.147)
これがあるために、彼らの自己破壊衝動はあまり気づかれないのであるが........。
彼らはなぜものを書き残さなかったのか。
読み書きを知らなかったのだという説がある。つまり、彼らは「粗野なコプト人の農民」で「非常に低い生活水準」にあった、したがって読み書きもできなかったと言うのだ(マレーの説)。
しかし、この主張は信じがたい。少なくとも、後世に名を残した修道士たちの何人か―例えば「アントニオスの誘惑」で有名なアントニオス―は、捨て得るだけの相当な財産を持っており、相当の教養もあったと見るべきであろうから。
そうだとするなら、彼らがものを書き残さなかったのも、自己破壊衝動の一面と見てよいのではないか。つまり、こちらの自己破壊は、身体を破壊するのではなく、自分の存在自体を、意味なきもの、書き残すにあたいしないものと見たと考えてよいのではないか。これを人々は、「謙遜」の徳の体現者と評するのであるが.....。
ここで一遍の語録に触れておこう。
一遍が「捨てよ、捨てよ、捨てよ」と言ったのは、上品の者には悟り=救いに至る道は幾つもあるが、自分(たち)は「下品」であるから、これしかないのだという認識があったからだ。
「念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願にもつともかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆浄土なり」。
それでは、彼らを「聖人」として書き残したのは誰か。
例えば、エジプトの修道者たちのことを記した『ラウソス修道者史』の著者パラディウスは、アレクサンドレイアやニトリアの近くで自ら修道生活を送ったが、病のために修道生活を放棄した人物であった。つまりは挫折者にほかならない。
そのおかげで、私たちは砂漠の修道者の存在を今に知ることができる。だから―しかし、そこから先は、各人が考えることであろう。
もちろん、「出家」の期間や動機に評価の上下をつける気はないけれど、人生の味つけ程度にしかならない出家など、「出家」とは言いたくないな」と。
それにしても、『門』の中で宜道が「少しの暇を偸んで坐りでもすると、後から來て意地の惡い邪魔をされる、毒吐かれる、頭の剃り立てには何の因果で坊主になつたかと悔む事が多かつた」という記述があるけれど、なぜ坐る者の邪魔をするのか。
「そもそも邪魔だと思うのは "我" があるからだ。"自分" が坐っているのに....、という思いに囚われている。邪魔だと思うなら、他所へ行けばいい」と、連れ合いに一蹴された。
そういえば、閭丘胤[天台丹丘(台州)の官吏]が豊干から教えられた寒山と拾得を国清寺に訪ね、礼拝しようとした際、他の僧侶たちが応対している隙に二人は寺を出て行き、遂に戻らなかったという話を思い出した。
それに、彼が以前話してくれた『ラウソス修道者史』第34話の修道女もまた、「馬鹿とダイモーン[に取り憑かれた]ふり」をして、他の修道女たちから忌み嫌われていた。修道女たちは彼女と食事を共にしないほどであった。
彼女は「食卓についたことなく、パン切れをもらったことなく、食卓の上の屑を集め、壺を洗って、それら[の残り物]で満足していた」。そんな彼女を他の修道女たちは酷使し、侮辱し、罵り、嫌悪する。
ところが、聖ピテールゥムに天使が臨み、彼女のことを告げる。聖ピテールゥムは女たちの修道院に出かけ、彼女の足下に身を投げだして彼女に祝福を乞う。その後間もなくして、彼女は他の修道女たちの「讃美と礼遇に耐えられず、また、弁解を負担に感じて」ひそかに修道院から出て行く。
『ラウソス修道者史』第34章
そういえば、無門慧開は『無門関』の自序において、
大道無門 千差有路 大道無門、千差路有り。
透得此関 乾坤独歩 此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
と、頌に詠んでいる。
「大いなる道には入る門が無いけれども、その門はまたどの路にも通じてい る。
この[無門の]関を透り得たならば、その人は大手をふって大地乾坤を闊歩す るであろう」(『世界古典文学全集』第36巻B 筑摩書房 1974年 p.360)
というのだ。
寒山も拾得も、『ラウソス修道者史』に描かれた修道女も無礙に乾坤に独歩し得た人たちなのであろう。彼らは門の有無など考えもしなかったにちがいない。
永平寺の門を出て、再び店々の前を通り、バス停に向かう。小腹が空いていたが、いずこも同じ観光客向けの店構えに臆して入る気になれず、二人寡黙に足を運ぶ。ほとんど門前街を出外れようかというところで意を決し、珈琲の看板のかかった土産物店の小さなスペースに腰をおろした。
来た道をバスで戻ったのだが、休暇村から永平寺まではけっこうな距離があるので、休暇村に帰り着いたときにはお昼もずいぶん回っていた。
どんな午後を過ごしたのかは思い出せない。
翌日、帰りのバスの窓からふり返ると、遠ざかるバス停の傍の草むらで、来たときと同じ黄色い花が心許なげに海風に揺れていた。
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