休暇村 竹野海岸
[岩手網張温泉"仙女の湯"]
東北の温泉は、湯治場としての歴史が古く、野趣や鄙びた趣きがあっていい。
この度、わが連れ合いをして「今までに経験のある露天風呂の中でも、屈指の風情があった」と言わしめたのは、休暇村岩手網張温泉の、より源泉に近い "仙女の湯" だ。
到着してすぐ部屋に荷を置き、大粒の雨の中、一本の傘に入って湯に向かう。休暇村の建物から数分の場所にあるこの "仙女の湯" へは、少し起伏のある木立の中の山道を行く。
雨音だけがする小屋掛けの脱衣場は男女に分かれていた。折りからの雨で中は薄暗い。山靴を脱ぎ、棚に置かれた脱衣かごに衣服を入れて、休暇村のフロントで借りてきたタオル地の "湯着" (レンタル料 300円)を身につける。この湯着、ここでは "ゆゆ着" と言う。
湯へと続く山道で、雨の中を駆け戻ってきた若い男性とすれ違ってからは、木立の中のそこかしこに人の気配はなかったけれど、隣の彼に「誰か人います?」と訊ねてみる。雨音の間から「誰もいない!」という声がした。「では」と小屋を出て、傘をさして湯ぶねへ。
連れ合いはすでに野天の湯ぶねに身をしずめ、野趣を添える滝(亀の滝)を眺めながら、「い〜い露天風呂や」と悦に入っていた。彼の背を確かめ、余人のいないのを確かめて掛かり湯をし、湯着をすばやく洗面器に入れるや、白濁の湯に身体を滑り込ませた。雨足が強く、傘を差しての露天風呂である。
虻が一匹、まとわりつくように私のまわりを飛びまわる。無造作に置かれていたハエたたきは "虻" 用だった。
湯着を借りては来たものの、先客があれば、私は入らないつもりでいた。連れ合いも「先に女性が入っていれば、入るのは遠慮した。それが "たしなみ" というもんだろう」と言っていたが、人気のないのを幸いに雨の露天風呂を心置きなく楽しんでいる。私は、誰か人が来はしまいかと、始終落ち着かず、とにかく人のやって来ないうちにあがらねば、と虻を追いながら焦っていた。
混浴は苦手だが、この度は強い雨が味方した。ついに余人の来訪はなかった。
「仙女の湯」とはよく名づけたものだ。後ろは「亀の滝」。
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この、連れ合い言うところの "屈指の風情" ある露天風呂 "仙女の湯" は、数キロ離れた網張温泉の源泉から引き湯してきているのだそうだ。かつて山中を散策していた休暇村スタッフが、こんな所に露天風呂があれば.....と思ったことがきっかけで、みんなして造ったのだという。したがって、人工の湯ぶね。大水が出たような時には流されてしまうため、その都度、休暇村スタッフが補修などをして、維持してきたという。
網張温泉とはいうが、現在 "網" が張られているわけではない。
網張という温泉の名に興味を惹かれ、ちょっと探ってみた。
岩手県立図書館蔵『雫石通細見路方記』(10/43) [1]に拠ると、
「官家市中を北江去る事二里半余湯の岐と云温
泉阿り一名網張の湯と云往古ハ狩人山立の入浴
する所ニして魔を辟る為尓網を張て入浴せし由
依亭阿ミはりの湯と云近年ハ諸病ニ功阿りとて諸人
入浴ス然ニ入浴阿れハ雨降寒気おこりて五穀ニさ王
流故此比入湯禁断ト奈流岩王し山の西姥の嶽の東
アルイ子沢の北ニ阿る温泉也」とある。
すなわち、「盛岡藩庁(のある)市中を北に隔てること10km余り、湯の岐[マタ]という温泉がある。またの名を網張の湯という。大昔は猟師や山立[2]の入浴する場所で、魔性のものをはらい禦ぐために網を張って入浴していたという。そのため、あみはりの湯という。近年はもろもろの病に効用があるというので多くの人が入浴する(ようになった)。ところが、入浴があると、雨が降り寒冷な気候が生じて米・麦・粟・豆・黍・稗など穀物の稔りに差し障るため、このごろは入湯が差し止めとな(ってい)る。岩わし山[岩鷲山=岩手山]の西姥の嶽の東アルイ子沢の北にある温泉である」という。
多くの人々に知られるずっと昔、猟師や山立といわれる人々が「湯の岐という温泉」に入湯するに際し、魔性のものに付け入られないよう網を張って入湯したことから、湯の岐の湯は "網張の湯" と言われるようになったと記されている。
ところが、『雫石通細見路方記』がまとめられた文政九(1826)年から文政十(1827)年ごろには、この網張の湯への入湯は差し止めとなっている。理由は、山神を崇めることのない俗人が精進潔斎もせず網張の湯に入ると、魔性のものの付け入るところとなり、冷たい雨が降って寒気が起こり五穀の稔りに差し障るからだというのだ。
江戸時代は気候的には寒冷期にあり、全国的にたびたび冷害(寒冷・低温・霖雨・降霜 など)に襲われた時代であった。中でも東北は深刻な凶作・不作が頻発。万単位の人々が餓死するような甚大な被害が出ていた。記録によっては数年に一度冷害に襲われたとするものもあり、いかに東北が慢性的凶作に陥っていたか分かる。
"有名な飢饉" だけを挙げても、
*元和五(1619)年の飢饉
*寛永の飢饉(寛永十九(1642)年〜寛永二十(1643)年)
*延宝の飢饉(延宝三(1675)年・延宝八(1680)年)
*天和の飢饉(天和二(1682)〜天和三(1683)年)
*元禄時代(1688年〜1704年の間)
特に、元禄八(1695)年と元禄十五(1702)年は大凶作に陥っている。
*宝暦五(1755)年の飢饉
*天明の飢饉(天明三(1783)年〜天明七(1787) )
*天保の飢饉(天保三(1832)年〜天保九(1838) )
中でも、天保四(1833)年と天保七(1836)年はより激しい飢饉となる。
などがあり、冷涼な気候風土の中で、東北に生きる人々、とりわけ農民は喘ぎ、悲惨な日々を生きていたのだ。
当然、人々は冷害や凶作を避けるため、知恵を絞り、考えられるかぎりのことをしたにちがいない。もちろん神仏にも祈っただろうし、神仏の怒りに触れると思われる行為は極力避け、他者にも禁じたことだろう。現代の我々なら、合理的に考え、一笑に付すようなことさえも、大真面目に取り組んだものと考えられる。その一つが「網張の湯」への入湯禁止であったのだろう。魔性のものに付け入られないよう網を張って入湯した温泉に、むやみに人が入り魔性のものに付け入られて冷害が引き起こされる可能性があるのなら入湯禁止など厭うてはおれない。人々は凶作を、飢饉を回避するために、文字どおり必死だったのだ。
だが、そうした状況下にもかかわらず、『雫石通細見路方記』(40/43)には、禁を破って網張の湯に入った者たちが盛岡藩の役人に捕らえられた際の記述と "落書(らくしょ)" が残されている。曰く、
「網張温泉兼て入浴者御禁断申伝如く有之候
文政十丁亥年度々之風雨寒気ヲこる六月十三日
岡目付らして御従目付衆ヲ遣ら禮於網張
ニ四人今日捕王れ縄被帝御城下江引かれ介り是
猶以入浴きひ敷なる
落書ス
「網張の阿み尓可ゝ里し罪人ハ
連ヲ魚船(?!)尓くゝら連尓介り
「網張遠度々破るむくひとて
つひ尓王罠尓可ゝ流縄付
「網張の網ハ破れと一ト筋の
縄目尓こ満る四ツの罪人 」と。
すなわち、「網張温泉は前々から入浴は御禁断が申し伝えられているごとくでございます。文政十(1827)年丁亥[ひのとゐ]の年は、度々風雨、寒気が起こっていた。6月13日、(藩庁は)岡っ引きたちを従えた目付衆を(湯の岐に)派遣し、網張において四人が今日(その目付衆たちによって)捕えられ、縄をかけられて御城下に引かれていった。これよりさらに入浴は厳しくなった。
(誰かが)落書する。
「網張の網(入湯禁止の規則の網)にかかった罪人は 一蓮托生で
漁船(?!)[役人(?!)]に括られた[捕われた]ことだ」
「網張(の網、また、入湯禁止の規則)を度々破った報いとして
ついには(捕縛の)罠にかかり縄付[罪人]となったことよ」
「網張の網(また、入湯禁止の規則)は破ったけれど (たった)一筋の
縄目[罪人として縄にかけられること]に困る四人の
罪人であることだ」」
と、記されている。
この四人が、飢饉とは無縁の遠隔にして温暖な地方の町場からわざわざ入湯するためにやって来た者たちで、網張温泉における入浴と気候の関連性など皆無だとするような合理的思想を持った者たちとも思えない。
たとえ町方の者であったにしろ、この四人の者たちが繰り返される飢渇の惨状を見聞きしていないはずはなく、自分たちの行為によって、さらに多くの人々を苦境に陥れる可能性のあることを知っていたはずだ。それなのになお禁を犯し、捕縛のリスクを犯してまで入湯しなければならないような、どんな理由があったというのだろう。
すでにこの年も「度々風雨、寒気が起こっていた」から、もはや自分たちが入湯しても状況は変わらないと考えた浅はかな者たちの行為だったのか。あるいは、軽薄な者どもが酒類の入った勢いで、見つかるわけなどあるはずないと高を括って起こしたバカな行為だったのか。のっぴきならない病を抱えた者が他者の苦境を顧みる余裕もなく同情する者と共に決死の覚悟で入湯したものか。連年飢渇に見舞われていた四人の農民が "ヤケ" になり、捕縛を覚悟で入湯したものか(まさかそれはないと思うけれど)。
いずれにせよ、四人の者たちが禁を犯して入湯した理由はわからない。
現在の網張温泉は、休暇村岩手網張温泉が一軒宿とされるが、その周辺には日帰り入浴施設がある。ひとつはビジターセンターに隣接する休暇村付帯の "網張温泉館" 。もうひとつは主に雫石町民向け(町民以外も入浴は可)"網張温泉・ありね山荘" である。いずれの湯も犬倉山中腹を源泉とする。
現在のこの源泉が和銅年間(708年〜715年)に発見・開湯されたとされる当時の "もの" と変わることがないのか、さらにこの犬倉山中腹の谷間が "湯の岐" に同定されるのか否か、上記文献(『雫石通細見路方記』)以外には当たっていないので、私には云々することができない。
泉質は、単純酸性・硫黄温泉(硫化水素型)・低張性酸性高温泉
効能は、慢性皮膚病・慢性婦人病・切り傷・糖尿病・動脈硬化症 など
乳白色の硫黄臭のする湯で、温泉に入ったと実感できる温泉らしい温泉と言えるだろう。
宿泊施設のある "休暇村岩手網張温泉" は、3基のリフトが掛かるスキー場を背に負い、眼下に雫石盆地を望む場所に位置する。
建物は、西館と東館に分かれ、西館は4階、東館は3階建ての比較的大きな造りで、それぞれ西館に "大釈(たいしゃく)の湯"(以前は "見晴らしの湯" と言ったような......)、東館の方に"白泉の湯"と名付けられた浴場がある。
客室は全部で75室(和室44室 / 洋室31室)。宿泊定員は218名。休暇村の施設の中では規模が大きな方だ。
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まだ40代半ばだった頃、私たちは裏岩手を縦走し、三石山荘に一泊して鬼ヶ城から岩手山に。さらに乳頭山を経て秋田駒ケ岳へと向かう計画を立てた。
その年、東北はついに梅雨明けしないまま "夏" を迎え、天候に不安を残していたが、計画を立てた段階で必要なところには予約を入れてもいたので、計画どおり出発。
*アプローチ
・盛岡から一度バスを乗り換えて ”見返り峠” へ。
(当時ここにはレストハウスがあったが、今は閉鎖されているらしい)
この日は見返り峠から八幡平頂上までを往復する。
・国民宿舎 "蓬莱荘" (今はもうない)泊
*第一日:
蓬莱荘→登山口→畚岳(1577)→諸桧岳(1516)→嶮岨森(1448)→大深岳直下
→小畚岳(1467)→三ツ石山荘 泊
この日、大きな ”キスゲ” の咲く大深避難小屋(当時は土台が朽ち、ひどく傾いていた)で、岡山大学ワンゲル部のナベノさんという人に ”遭遇 ”。この道で人に会おうとは思っていなかったので驚く。
大深避難小屋から先は飽和寸前の濃く深いガスが立ち込め、それはもうほとんど雨。水滴がメガネに付いてワイパーがほしいくらい。視界はまったくきかない。三ツ石山頂あたりでは強い風が加わって寒かった。
*第二日:
三ツ石山荘→犬倉山直下→犬倉山(1408)→姥倉山分岐→黒倉山(1568)→
不動平→不動平休憩所[3] 泊
前日夕方から強い雨が音を立てて降り始め、朝になっても小止みになる気配はなかった。ナベノさんが先に出発。湿地に建っている山荘の周りは池のようになって木道も水没して見えない。出発してほどなくパトロールの人に出会い、お花畑のあたりは土砂崩れの危険があるので鬼ヶ城を行くように言われたので、鬼ヶ城コースをとる。
不動平の小屋内部は内壁も床も一面のカビ。湿気が満ち満ちて冷たい。明るいうちに食事を済ませ、寝袋に入って横になっていると、ネズミが現れてトコトコと連れ合いの顔に近づいてくる。連れ合いは寝袋から手を出すのが億劫で、「ふっふっ」と息を吹いて追い払おうとした。ネズミは一瞬キョトンとして立ち止まり、その場でちょっとためらっていたが、連れ合いにメンチを切って何処かへ立ち去った。外は強い雨風のようだった。
*第三日:
不動平休憩所→お花畑→笹子屋分岐→黒倉山→姥倉山→犬倉山分岐→
三ツ石山荘→滝の上温泉・みやま荘 泊
朝、強い風が吹いて視界のきかない濃いガスのような雨の中、外輪山を周回。わずかに人影はさすものの何も見えない。
前日、鬼ヶ城に取っ掛かるあたりだったか、谷側に傾いた濡れた木道を下るのは嫌だと私がぐずったため、連れ合いは最短の御神坂(おみさか)を下ることにしてくれる。御神坂を半分くらい下ったあたりで激しい雷雨になり、見る見るうちに道が川のようになった。そんな雨の中でたくさんのアブに捕まってしまった私は、”ぶちっ” という音とともに額を噛まれ、足を滑らせて激しく流れ下る水の中に尻餅をついた。それからは ”ワァ〜ン” と纏わりつくアブの群れを引き連れて、まるでマンガのように歩く羽目に。連れ合いがタオルで叩いたり追い払ったりしてくれたが、国道219号線に出た後もアブたちのテリトリーを抜けるまでしつこく纏わりつかれ、したたかにあちこち噛まれた。アブから解放され、東観岩手高原ホテル(だったと思う)の建物が見えた時はホッとした。ホテルからタクシーを依頼して滝の上の ”みやま荘” へ。
日本最大級といわれる地熱発電所に近い ”滝の上温泉” 周辺では地熱の蒸気が白煙となってあちこちから立ち昇っていた。
*第四日:
滝の上温泉→烏帽子岳(1472)→分岐→千沼ヶ原→三角山(1418)→
千沼ヶ原→笊森山(1541)→湯森山(1471)→笹森山(1414)→分岐→
阿弥陀池避難小屋 泊
一晩中降っていた雨は朝には止んでいたが、登山道からは水が流れ落ちてきていた。そんな登山道を登り返すのが嫌になり、翌日乳頭温泉側から登ることにして、宿を探す。
みやま荘の人の勧めで国民休暇村乳頭山荘(現:休暇村乳頭温泉郷)に電話してみたところ、「満室です。当日電話してきても部屋があるわけないです」と、信じられないような語調で断られた。当時、国民休暇村なる宿泊施設について全く知らなかった私の心にひどい印象が残った。そんな私たちを「いい部屋ではありませんが」と、蟹場温泉の方が拾ってくださった。部屋の良し悪しよりあたたかい言葉がうれしかった。
タクシーで蟹場温泉に。
”下界” に雨は降っていなかったが、地元の中学生たちがずぶ濡れになって下山してきた。
*第五日:
アミダ池避難小屋→横長根→国見温泉
※この日は前日の行程を、乳頭温泉側からとる。
蟹場温泉→孫六温泉→→乳頭山(烏帽子岳)→笊森山→湯森山→横岳→
阿弥陀池避難小屋→横岳→横長根→国見温泉 泊
山に入って間もなく、濃い雨雲に頭を突っ込んだように雨が降り出し、その後は国見温泉に着くまで強い雨の中を進む。道はほとんど川だった。汗と雨とで全身濡れないところはなく、手指は長湯の後のようにほとびて白く皺になった。もちろん景色は何も見えない。黙々と歩くのみ。
前夜泊まるはずだった阿弥陀池避難小屋で荷を置いて、お昼も兼ねて身体を温めるために ”善哉” を作っていると、女子大生が寝袋の中で寒さに震えているというので、二人分を三人に分けて温まる。
国見温泉はいい温泉で、宿の人も親切だった。緑色(だったと記憶する)の湯にゆったり浸かり、その夜は気持ちよくぐっすり眠った。
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上記1991年の山行に際し、雨で見ることのできなかった景色を見るために、そして東北の山で残っていた八甲田をやり、東北の休暇村二つ(休暇村岩手網張温泉と休暇村田沢湖高原 [現在の休暇村乳頭温泉郷] )を訪ねるために計画したのが、2014年夏の旅だった。
2014年 夏は、
1日目:昼過ぎに新青森駅に到着後、せっかくなので三内丸山遺跡を見学。
この日は青森市内に宿泊する。
50年近く前に一度 "国鉄青森駅" に降り立ったことがあったが、記憶にある当時の様子とはすっかり変わってしまっていて、本州の北の果て、青函連絡船の発着する港町の"猥雑"で活気のある面影は片鱗さえ残っていなかった。予想はしていたが、寂しかった。
2日目:青森駅前から、バス「みずうみ2号」で八甲田ロープウェイ駅に移動。
ロープウェイで山頂公園駅に。
山頂公園駅→赤倉岳→大岳避難小屋→大岳→大岳避難小屋→上毛無岱→
下毛無岱→酸ケ湯 泊
お天気が良く、景色を眺めながらぽこぽこ楽しく歩き、昼過ぎに酸ケ湯に下山。酸ケ湯は、前に広い駐車スペースをもつ拍子抜けするような雰囲気の宿だった。
大岳避難小屋のそばでコーヒーを淹れ小腹を養っただけだったので、お昼にうどんとおでんを食べ、宿の宿泊受付時間まで椅子にかけて下山してくる人や温泉を訪れる人々を "観察" しながら時間を潰す。
3日目:朝、酸ケ湯温泉の送迎バスで青森駅へ。新青森駅に移動して盛岡駅に。
盛岡駅からは岩手県交通バスで網張温泉に向かう。
※休暇村岩手網張温泉に到着後、部屋に荷を置いてすぐに露天風呂
"仙女の湯" を楽しんだことはこの稿の最初に述べたとおりである。
"事件" はこの後に起こった。露天風呂には浸かって "楽しんだ" だけなので、湯着をフロントに返し、洗髪などするために着替えを抱えて内湯の「大釈の湯」に向かった。その時の私は、まだカーキ色のシャツと紺のズボンという山行の出で立ちのままだった。
女性用浴場に入ると、昼間の早い時間帯であるにもかかわらず、ずいぶん混雑していたので、脱衣場の入り口に近いところで私は衣服を脱ぎ始めた。と、私の方に向かって「ここをどこだと思っているの! ここは女風呂よ!」と、睨みつけるようにして鋭い口調で言った中年女性があった。振り向いた別の女性も「ここは女性用よ!」と威嚇するように強い口調で同調した。その場にいた女性たちが手を止め、警戒するような表情で一斉に私の方を見た。私は内心「ああ〜、また、きた! 」と思った。地方のトイレや浴場では、私のベリーショートの髪型とカーキ色のシャツ、紺色のズボンという山の衣服に反応して "男性だ!" と思い込むらしい人間が間々いる。この種の人々の特徴は、目から入った情報が脳を経由せず、いきなり口に短絡することだ。少し間を置くとか、ちょっと考えてみるというようなことをしない。思い込んだらそこまでである。
気分はよくないが、こうした人々にわざわざ女性だと識別してもらうため、連れ合いと縦走山行を始めた30代後半から今に至るまで繕い繕いして着続けている衣服を、近年流行りの "山ガール衣装" に取って替えようとは思わない。衣服は着られるかぎり着るというのが私たちの信条だ。また、快適な短髪をやめ、見るからに "女らしい" 髪型にしようなどとは思わない。ポリシーを変えるつもりはない。
「なぜ私が入ってはいけないのですか」とだけ言って、衣服を脱ぎ、浴室に向かった。私の身体に人々の視線が集中している。後ろから、ためらいがちに「ごめんなさい」という声が聞こえてきたが、あまりにバカバカしくて私は振り向く気にもなれなかった。
4日目:岩手山へ [4]
展望リフト(第3リフト)終点→分岐→姥倉山分岐→黒倉山→お花畑→
不動平→内輪山→不動平→笹小屋分岐→姥倉山分岐→分岐→展望リフト
休暇村岩手網張温泉 泊
岩手山往復を考えていたが、朝、空模様を見ると、前日のように午後雨になりそうな気配だった。視界がきかなければ意味がないので、とにかく行けるところまで行って、お昼頃には帰ってくるつもりで出発。リフト3基を乗り継いで分岐を目指し、さらに姥倉への道をたどる。上部に出ると強い風が吹くばかりで景色は何も見えなかった。そこで黒倉山へは向かわず、姥倉山頂をピストンして、来た道を戻る。
下山後、宿の前を通り、そのまま橋を渡って日帰り入浴施設 "網張温泉館" に直行した。昼間だがやはり混雑していた。前日と同じ格好をしていたが、男性に間違えられるようなことはなかった。
温泉館から帰って、休暇村の喫茶室で簡単に昼食を済ませ、部屋に戻って外を見ると、驟雨がきていて、結局、夕方まで降ったり止んだりを繰り返していた。
東北の山深い温泉というと、鄙びて静かな湯を想像しがちだが、これもまた "立派な" 思い込みにすぎない。確かに、東北の温泉は湯治場の歴史が長く、温泉らしい温泉で、泉質もいいが、今ではよほど条件が揃わないかぎり、"静かにのんびり" というわけにはいかない。
休暇村岩手網張温泉やその付帯施設も、私たちの滞在していた両日、日帰り入浴に訪れる大勢の人々で混雑していたのだった。
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注:
[1]『雫石通細見路方記』(岩手県立図書館 請求記号:22/53)
岩手郡雫石村の絵入り名所案内。
雫石の名前の由来や温泉・名所などが紹介されている。
[2] 「山立」(やまだち)とは、
"類聚名物考" には、「一定の住居もなく野に伏し山に立明すところから」
山立という、とあり、
"俚言集覧" には、「ヤマタチ(山発)の義。タチは川ダチのダチと同じく、
産の義、そだちの意」とある。
『定本柳田國男集』第十二巻 p.180「神を助けた話 六 山立由來記」には、
「清和天皇の御代に、關東下野國日光山の麓に、萬三郎と云ふ人があつた。弘名天皇と云ふ方の九十三代の末で、下野國に流され、日光の麓には住んで居たのである。無類の弓の名手であつて、空飛ぶ鳥は聲を聞いたゞけで、必之を射落した。山に鹿猿を獵して、月日を送つて居た。其頃日光の權現は、上野國赤木の明神と、度々合戰を爲されたが、赤木は御丈十丈に餘る大蜈蚣 [筆者註:オオゴコウ。"大ムカデ"のこと] の姿を現したまふ爲に、權現は幾度か御負けなされた。或時權現白い鹿に化つて、山に御出なさるゝ。萬三郎此鹿を射取らんとして押掛かれども、不思議に箭中らず。三日三晩の間之を追掛けて、遂に日光權現の堂の庭まで來ると、其鹿忽權現と顯はれたまひ、如何にこれ萬三郎、汝を爰まで誘つて來たのは、別の仔細では無い。上野の赤木大明神と、數度の合戰に及ぶと雖、赤木は長さ十丈餘の蜈蚣也、自分は大蛇である故に、勝つことが六かしい。汝は日本一の弓の名手であれば、汝を頼んで赤木を射留めんと思ふのである。若し戰に勝つならば、日本國中の山々嶽々、其身其儘で山立をさせよう。幸に今月十五日は合戰の日である。其用意をせよと仰せらるゝ。萬三郎は頭を地に附け、誠に有難い仰せでござる。いかさま仰に隨ひ奉るべしと申上げると、乃白木の弓に白羽の神通を添へて、萬三郎に下された。有難しと之を頂戴し、既に其日にも成つたれば、大風震動し雷電頻に鳴りはためいたが、萬三郎は少しも驚く氣色無く、其弓に神通の矢を張り、善曳(よつぴ)き兵(ひやう)と離せば、明神の目にはたと立つ。二の矢は亦右の御目にはたと立つ。流石の神も兩眼を射られ、忽黒雲に隠れて、上野赤木山に引きたまふ。日光權現は大に喜びたまひ、其より内裡に上つて萬三郎が事を物語り、誠に日本の弓の名人と言上したまへば、御門の御感斜ならず、内裡よりの御褒美として、山々嶽々を知行するのみに非ず、日光山の麓に正一位伊佐志大明神と祝はれ、今に御堂も立つて居る。此由緒を以て、山立は如何なる山嶽へも、行かぬ處無く御免を得て居る。山立の先祖は三位の流である。萬三郎の先祖、位人に勝れたる故に、産の火と死の火とを忌むのである。山で鹿猿を食ふことは、權現の御免である。今日山神を齋ふことは萬三郎がことである。山立する人々は、月の十五日に水を浴び精進して、明神を誦せねばならぬ。又其文句、南無西方無量壽覺佛と、日に千遍づゝ唱ふるならば産の火死の火一切の穢と云ふことが無いであらう云々。
此だけが奥州に傳へた山立の由來である。山立は近世の文學に於ては山賊のことである(柳田註:言海に、やまだち、山中に潜みて行劫などする盗人、山賊、山豪とある。併し萬葉集二の山多豆は、是今造木者也と云ふ註があり、必しも獵人のみでは無かった)が、其實は歴史を誇り得る高尚な職業であつたことが此で分る。併し同時に又、日本中の山々嶽々、何處でも御免だと主張するのは、取りも直さず特定の獵場を有たぬ民であつたことを意味して居る(柳田註:木地屋と云ふ漂泊部落にも、之に類する由緒書がある。明治になつて、之は公認せられなかつた)。奥羽の山にはマタギと謂つて、狩を主業として居る特別の村があつた。今でも冬に爲ると、峰づたひに熊を逐ひながら、信州あたり迄も漂泊して來ると聞いて居る。眞の山立は元は此徒の中の人であつたらう」とある。
(『定本柳田國男集』第12巻 p.180「神を助けた話 六 山立由來記」
筑摩書房 昭和53年)
※興味のある方は、同 第31巻 所収「山立と山臥」
(pp.107〜116)も参照されたい。
[3]『内史略(后六)』 [岩手山登山道に道標設置]
(岩手県立図書館 請求記号:21.5/1)
「文政2年(1819)に岩手山の柳沢口登山道に山麓から頂上まで十本の道標が建てられ、不動平に休息所の小屋(沼宮内接待小屋か)が設置された。江戸時代末期から岩手山への参詣者が急増したらしく、岩鷲山を信仰する町人の寄附により建てられたようである。その後、平笠口にも道標が建てられ、山頂に三十三観音の石像も建立されている」とある。
[4]『陸中国岩手山及網張温泉道中絵図』
(岩手県立図書館 請求記号:22/90)
「明治15年(1882)に元盛岡藩士の沢村亀之助(陸中国南岩手郡大沢村五拾八番地)により発行された定価四銭の観光案内地図」で「盛岡の夕顔瀬橋を起点にした滝沢からの岩手山登山ルートと雫石からの登山ルートに加え、網張温泉までの行程と里数が記されている。当時、年々増えていた網張温泉の湯客と岩手山登山者に供するため作成された」とある。
『陸中国網はり温泉真景』
(岩手県立図書館 請求記号:22/90)
「明治15年(1882)に沢村亀之助により刊行された網張温泉の絵図。明治になり利便性を考え、網張温泉への道を開拓し、また温泉から岩手山山頂までの道も開いたためこの地図が作成された。湯治場の様子と網張温泉からの岩手山登山道が図示されている。「新暦五月廿日比ニ浴場ヲ掃除シ十月十七日比ニ商舎ヲ閉ツルトナシ」[ 注:「新暦5月20日ごろに浴場を掃除し(て湯治場を開業し)、10月17日ごろに(売店などの)商業施設を閉じるとして云々」] と記され、明治の湯治期間も知られる」とある。
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