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back.gif休暇村 岩手網張温泉

休暇村あっちこっち

休暇村 乳頭温泉郷






[滝の上から烏帽子岳(乳頭山)を越えて]

 網張温泉から "滝の上" に移動し、烏帽子岳に向かう。

 登り口からしばらく行った "十字路" で、まっすぐに登るべき道を左にとってしまい、先を歩いていた連れ合いが「変だなと思っていたが、この道は滝の上に戻る」と言いながら引き返してきた。元の地点に戻って見てみると、左の道を採ったのが不思議なくらい直進するのが当たり前の普通の登り坂だった。
 道に迷う時はきっとこのようにして迷うのだろう。秋田の山中には "あなたは今、道に迷っています" という看板が立っているというが、有るか無しかの踏み跡や獣道に踏み込んであらぬ方向に行ってしまうことはあり得る。歳のせいばかりではないと思う。

 深い緑の鬱蒼とした樹林に囲まれた "白沼" は、日が翳っていたせいか小暗く、陰鬱な空気を漂わせていた。斧を落とした樵のために、やさしい女神が斧をひろって沼面に現れるような、そんな沼ではなく、大きな蛇が身をくねらせて沼底から姿を現すのではないかと思えるくらい陰に隠っていた。
 沼のほとりの立派な説明板には「県指定天然記念物(動物) 白沼のモリアオガエル繁殖地」とある。モリアオガエルの産卵時には卵を包む泡で沼面が白くなるのか........。

 白沼から上は、ガレた "マムシ坂" を登り、小湿原の木道を通って、道に低く張り出した太い木の枝をくぐったり、その後に現れるごろくた岩の道を進んでいくと、森林限界を越えて見晴らしのいい草地(?!)に出る。
 それまで一度も休憩することなく歩いてきたこともあり、今しがた登ってきたばかりの、滝の上からの道が見える場所に腰を下ろし、コーヒーを淹れる。山で飲む熱いコーヒーは美味しい。
さらに歩を進めると間もなく烏帽子岳が見えてくる。

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首をもたげると、特徴のある山の姿が。
まこと烏帽子というにふさわしい山容。
 烏帽子岳は県境を越え、秋田県に入ると、乳頭山と名を変える。


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 乳頭山という山名は、 "乳頭" すなわち「乳房の乳首」の形状をしているところから、かく名付けられたというのが通説になっているようだが、この地で "乳首" はないだろう、という気がして調べてみた。

 柳田國男は、現在、秋田県側から "乳頭山 (にゅうとうざん)" と呼ばれている山は、本来、地元の人々からは "ニウツムリ" と呼ばれた峰であり、「形は明かに稻ニホと近く」、"ニウ" すなわち "稻ニホ" の "ツムリ(頭)" を意味する名称であった、と言い、 "乳頭" という表記は「恐らくは文字の知識のある者の想定に限られ、普通には是がニホであることを皆知つて居」た。「しかも或時節に消え殘つた雪の形を眺めて、來る秋の稔りを占なふ點」では、津軽の岩木山中にあるニヒボの瀧と似ている、と言う。[1]

  "ニホ" は、発音上は "にお" となる。[2]
 この "にお" には、「堆」の字が充てられるが、「堆」の字音は "タイ(dui)" で、慣用的に "ツイ(ツヰ)" と読まれる以外に、"ニホ" または "ニオ" という読みはない。ただ、「堆」には、「うずたかい。積もって高い。積み上げる。うずたかくなっているもの。山」等の意味があるので、意味をとって "堆" の字が充てられたものと思われる。
 稲作において、刈り取った稲は束ねて乾燥させなければならないが、その乾燥方法に、地干し(じぼし)、積干し(つみほし)、杭干し(くいほし)、架干し(かけほし)等があり、このうちの、稲を積み上げて干した「積干し」こそが "にお (堆) " である。

 柳田は、積干しの堆積方法には一つの共通の様式があり、「すべての稻の束を、穂を内側にして圓錐形に積む以外に、最後の一束のみは笠のやうに、穂先を外に向けて蔽ひ掛ける」のだと言い、(福島縣會津の農村) 大沼郡新鶴村の例を挙げて、この地方では稲積をニュウと呼び、稲積の上端には藁の小さな覆ひを載せるが、それをボッチと呼んでいると記す。その上で、「ともかくもニホが稻を穂のまゝに、或期間藏置する場所であつたことが明白だとすれば、是が農民の心のうちに占める地位が、今よりも遙かに重要であつたことは先づ推定し得られる」と言う[3]。
 そして、「東北地方の稻作は遅く始まり、鳰[kyniska註:二ホの当て字]を實用のものとしか考へなかつたので、折々は驚くやうな巨大なる藁ニホも造られるが、稻のニホは高さも定まり、又構造もやゝ丁寧で、底には必ず木の枠を据ゑて濕気の上るのを防いだやうである。泥棒の虞などは無かつたにしても、斯んなことをすれば野鼠の害がたまるまいと思ふやうだが、それにはちやんと天然の番人があつた。秋もやゝ寒くなる頃から、この中に入つて眼を光らしてゐる者に、善良なる青大將がある。それで我々の先祖はこの蛇を、神の御使として尊敬したのである。どういふ祭り方があつたかは、もう百姓も忘れたらしいが、ともかくも稻鳰はもとは祭られて居た。今から二百年も前の京都の書物に、「穗を拾うてメウに參らする」といふ諺が出て居る。メウ即ちニホの神は豐かなる稻を下さる神、それへ落穗などを供へるのは、無用のことだといふ譬へごとである」と述べる。(『定本 柳田國男集』第二十一巻所収「村のすがた」"鳰と藁鳰" p.434 筑摩書房 昭和54年刊) [4]

 要するに、"乳頭" と表記される "ニウツムリ" とは、積干しされた稲、すなわち稲堆に、笠のように覆い掛けられた、最後の稲の一束の突端、ツムリ[注:あたま。かしら。こうべ。"ツブリ" という場合には「まるい形のもの」という意もある] の部分のことである。したがって、乳頭山とは"ニウツムリ" の形状をした山という意味であり、人々はこの峰を "ニウツムリ" と呼び慣わしていたことがわかる。
 この "ニウツムリ" は、かつては、「或時節に消え殘つた雪の形を眺めて、來る秋の稔りを占なふ」山であり、この地で稲を作る人々にとっては「豊かなる稲を下さる」田の神の象徴であったのだろう。
 この地で稲作をする人々ならみんな、普通に "ニウツムリ" の "ニウ" は "ニホ" であることを知っていた、ということばには頷ける。

 もともと、地元の人々が、"乳頭" を "ニウツムリ" として重箱読みしていたものを、名称の由来を知らぬ者が "乳頭" の二字を "ニュウトウ" と音読みした結果、乳頭山は当地の人々の心の拠り所としてあったころの姿とはかけ離れた、あらぬ "姿" へと変貌していくこととなった。

 ときに、「文字の知識のある者」が、 "ニウ" に "乳" の文字を充て、その "ツムリ(頭)" ということで "乳頭" とした際、 漢語の"乳頭 (ニュウトウ)" が「乳房の乳首」を意味することばであることを知っていて、ニウツムリの形状と乳首が似ていることから、洒落っ気も手伝って、乳頭としたと考えられなくもない。だが、「乳首」のことを、この地方では「つっつ。ちっち。つっつぶ。つっつくび」と言っており、地元の多くの人々が乳頭をニウツムリと読んで、実際に、そこに「乳房の乳首」を思い描くことはなかったのではないか。なぜなら人々の関心は稲の豊かな実りにこそあった、と思うからである。

 今では、稻堆を祭って稲の豊作を願った人々もみな黄泉に去り、地元においてさえ乳頭山の名の由来など知る人はいなくなってしまったようだ。
 2008年10月28日付、朝日新聞マリオン欄掲載の、伊藤美枝子という記者(?)の記事の中に、以下のような記述がある。
 「乳頭の由来を宿主[kyniska注:乳頭温泉郷 "鶴の湯" の当主]の佐藤和志さんに聞くと、意外な答えが返ってきた。「戦前かな。昔のお偉いさんたちが酒を酌み交わしながら、女性の乳房に似た形の山を乳頭山と名付けたとか。そのふもとの湯だから、乳頭温泉となったんです」と。
 彼女がからかわれたようにも思えない。
 ただ、新聞社に勤める人間が基本的な調査もせずに "現地" を訪れ、容易には信じられないような山名の由来を聞かされて、その言をそのまま掲載するというのには少々戸惑いをおぼえる。毒にも薬にもならない記事だからどうだっていいようなもののお粗末の感は拭えない。

 TPPへの参加によって、日本の稲作農業はさらに大きく変貌するだろう。
 経済の論理はすべてのものを根こそぎ変えていく。お金になるのならともかく、お金にならないような、地名や山名の歴史的、文化的背景など、ますます顧みられることはなくなっていくにちがいない。
 "乳首山" だの "おっぱい山" だのと言われ、卑猥な笑みを浮かべられようと、酒の肴にされようと、観光客が、セクシーだ、妖艶だと、おもしろがってやって来るのなら、それはそれでいいではないか、ニウツムリなどとわけのわからない名前よりずっといい、というのが正直なところなのかもしれない。
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 ガレた乳頭山の頂上に荷を置き、小さなパンを二つずつ食べて小腹を養った後、乳頭温泉郷に向かう。

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頂上直下、秋田県側から見た"ニウツムリ"。
雪多い地で稲作に励んだ人々を想う。
 頂上を少し下がったあたりで左右に分かれる道を左にとり、一本松沢沿いの道を下る。長い木道歩きが終わると地道になる。彼は快適にスピードを上げ、私の前を見え隠れしながら下っていく。私はとにかくマイペースだ。
 彼はもうだいぶ先を行っているのだろうなあ........と思って、足元からふと目を上げると、道のはたに彼のザックが見える。"なになに?" と思いながら近づいてみると、Tシャツ、靴、短パン、靴下、パンツと順に脱ぎ捨ててあり、その先の白い "湯だまり" の中に、腰まで浸かって、こちらを見て笑っている彼がいた。

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ススキ越しに見る "お湯だまり" 。
ふたり入るにはちょっと窮屈。

 思えば、地図に温泉マークはあったが、何もない野天のお湯だまりに、思いがけずも彼が入っているのを見て驚いた。聞くと、湯加減はぬるく、お尻の下の白い "泥" がぬるぬるもこもこしているらしい。「美坂のおっちゃん[5]の真似して入ってみたけど、お尻の下から泥が湧き上がってきて思うほど気持ちのいいもんではないなあ」と言って、彼はちょっと首をすくめた。「究極の野天の湯じゃないですか!」と言いながら、私はススキ越しに、滅多に見られない彼の姿を写真におさめた。
 かつてここには、一名 "たつこの湯" [6]とも言われる一本松温泉があり、宿もあったらしいが、今は何もない。ただ、湯だまりの周りに大きな石が巡らせてあるので、ものめずらしさに入りに来る人や、彼のように通りがかりに入る人はあるのだろう。

 そこからは、一本松川の支流(?)と思われる川を石伝いに渡り、しばらく行くと、"黒湯" のそばに出る。当時、その周辺では砂防工事が行われていたが、そこを通り抜けて車道に。休暇村乳頭温泉郷までは1.5 km くらい歩いたか.......。

 現在、乳頭温泉郷と言われるエリアには、黒湯、孫六、蟹場、妙の湯、大釜、鶴の湯、の六軒の宿と、休暇村 乳頭温泉郷を合わせて七つの宿がある。それぞれの宿は独自の源泉を持ち、泉質も多様らしい。

 現 "休暇村 乳頭温泉郷" は、1965年冬、十和田八幡平国立公園内に「国民休暇村 田沢湖高原」として、スキーおよび温泉浴客を見越し、宿泊定員100名の規模で発足。当時は付帯施設としてスキーリフトがあったようだ。
 発足当初の「国民休暇村 田沢湖高原」という名称は、その後「国民休暇村 乳頭山荘」に、さらに2008、9年ごろには「休暇村 田沢湖高原」と言ったように思うが、近年は「休暇村 乳頭温泉郷」になっている。
 施設としては、
        客室数は38室:和室25室 / 洋室13室。宿泊定員:112名
 乳頭温泉郷にあるせいか、休暇村の中では予約の取りにくい施設だと言われる。
1991年夏、滝の上から電話をかけた私に、信じられないような語調で宿泊を断ったスタッフは忙しさのあまりイライラしていたのか、あるいは、態度の如何にかかわらず来訪者はあるのだからと、需要に対する供給側の強みもあって居丈高になったのか。いずれにせよプロの態度でなかったことは確かだ。
 予約を入れる際、かつてのこともあるので身構えたが、今回、不快な思いをすることはなかった。
 温泉は、"ブナ林の湯" (最近は「高原の湯」という ?! ) と名付けられた、文字どおりブナ林の中にある温泉で、露天の湯船には東屋のような屋根が設えられ、ブナの林が望めるように上部を大きく開けた板塀が巡らせてあった。ブナの木漏れ日が淡い影を落とす、肌に爽やかな温泉ではあった。
 泉質・効能は以下のとおり。
     * 内湯 / 泉質: ナトリウム炭酸水素塩泉
           効能:外傷(切傷)、火傷、慢性皮膚病 など。
     * 露天風呂 / 泉質:単純硫黄泉
             効能:高血圧、動脈硬化、慢性婦人病、糖尿病 など。
 だが、到着してすぐに向かった温泉は混雑しており、仕方ないか.......と思いながら、 そそくさと上がり、部屋でくつろぐ。


 翌朝は、8時30分に依頼しておいたタクシーで宿を出発。秋田駒ケ岳八合目に向かう。当初は、宿から歩いて笹森山に登り、駒ケ岳八合目小屋を経て阿弥陀池小屋に。小屋周辺の男岳などのピークをやって湯森山を越え、往路にとった道を下るつもりであったが、急遽、変更。のんびり行くことにする。
 この日は、夏休みも終わった9月1日の月曜日だったが、登山者はけっこうあり、視界にはいつも人の姿が入ってきた。
 かつて降り続く雨の中をひたすら歩いた時には何も見えなかった道を、景色を楽しみながら行く。


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 秋田駒ヶ岳は、玄武岩〜安山岩の成層火山で、山頂部は、北東側の北部カルデラと南西側の南部カルデラが相接している。本峰の男岳(おだけ、1,623m)は北部・南部両カルデラの接合部西縁上の峰で、南部カルデラに女岳(めだけ、1,512m)・小岳・南岳などの火砕丘がある。[cf. 国土交通省 気象庁 HP]
 峰の、高い方を男岳とし、低い方を女岳としたのは、男波・女波、男坂・女坂、雄竹・雌竹などと同じ発想であろう。
 ただ、秋田駒ヶ岳には、一対の男岳・女岳のほかに、男女岳あるいは女目岳とも書く側火山があり、標高が1,637mあることから、一等三角点はここに置かれている。
 側火山とは「大きな火山の側面に付随して生じた火山体」であり、「複成火山の主火口以外の場所での噴火活動で形成された火山性地形」で、「マグマを地表に導く火道が分岐して側方に別の噴火口を生じたり、主火道の位置が移動したりして形成される」といわれる。
 峰の名前からしても、男岳・女岳と対をなすような峰が形成された後でなければ、"ヲナメ(妾)" [7]などという名前は付されないであろうから、男女(女目)岳が後発の峰であることが推測できる。

 春先、仙北平野から駒ヶ岳を望むと、この山の名前の由来となった駒の雪形が見えると聞く。一度見てみたいものだと思い、いろいろ当たってみたが、雪形が白い背景に黒く浮き出るとしたものや、融け残った雪が馬の形をしているというものがあり、添えられた写真もさまざま。何がほんとうなのか........。
 ただ、東北農業研究センター、水田作研究領域・土屋一成氏は、「秋田駒ヶ岳の山名の由来となった駒(子馬)の雪形はかなり遅い時期まで見られます。馬は南部(岩手)の草を食べ、仙北(秋田)に排泄するので南部の土地は次第に痩せて凶作に見舞われ、仙北は常に豊かな稔りが約束されるようになったと言い伝えられています」と言う[9]。
 地球の温暖化による気候変動で従来のような目安はもはや通用しなくなっているかもしれないが、この雪形が現れると種蒔きをし、駒の首が切れかかると田植えを始めるというこの地方の稲作を思うとき、駒形についても現に農業に携わる人のことばが、私にはより腑に落ちるし、示された写真も信頼できる気がする。

 柳田はまた、嶽(岳)というのは、ただの山や峯という語とは違って、神山または霊山を意味する日本語かと思われる、と言い、奥州、今の福島・宮城・岩手・青森あたりでは虫送りや雨風祭に際して山に神を送るのを「ダケノボリ」ということが多いと記している。[8] ここでも稲作と関連する人々の営みが偲ばれる。
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"こんな景色だったのだ!" 歩を進めながら、欠落したあの日の想い出をうめる。
人の影を感じさせない、連れ合い会心の一作。

 木道の先に阿弥陀池の避難小屋が見えるてくる。雨の中では見えなかった景色だ。足もとを気にしながら木道を進んだあの日、間近に小屋が見えた時は、心底ほっとしたものだ。外側は雨で内は汗でずぶ濡れになった雨具を脱ぎ、"ぜんざい" で身体を温めた日のことが懐かしく思い出された。
 男岳には子どもから高齢者までけっこうな数の人が登っていたが、男女岳にはさらに多くの人が登っていた。

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斜面にずり落ちた靴の跡が。
だれかよそ見をしてたかな?!。

 日窒(日本窒素肥料株式会社)の硫黄採取場跡を経て八合目に出た後、登りかえして笹森山へ。頂上手前で立ち止まった連れ合いが、ふり返って「雨の中、あの稜線を歩いていたんだなあ」と、山々の輪郭をなぞるように指さした。
 笹森山からはちょっとでこぼこした道を下っていくと、背丈ほどもある草がボウボウと茂る休暇村のゲレンデ跡に出る。まっすぐ突ききって休暇村に帰る。

 ちょうどお昼時だったので、そのままロビー横の喫茶コーナーでお昼を済ませ、部屋に戻って着替えを持ち、入浴者の多いのを覚悟でお風呂に向かう。
 ところが、なんという "僥倖" ! 浴室は全体がブナの淡い木漏れ日の中で静まりかえっていた。わずかに水の流れる音がするばかり。入浴する人の姿はどこにもない。浴槽のお湯のおもてに木漏れ日がちらちら揺れて、静かなうえにも静かなひとときが流れていく。ニウツムリの山の、そして駒ヶ岳の神様の賜物に思える静けさの中で、独りだけの湯浴みを心ゆくまで楽しませてもらった。

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木漏れ日ばかりの浴室は、
どれほど幻想的であったか........。
(この映像は、休暇村 乳頭温泉郷 HP
より拝借したもの)

 網張り温泉の仙女の湯もよかったが、ブナの木立をそっと吹き抜ける爽やかな風の匂いや木漏れ日に包まれた乳頭温泉郷のこのお湯も、私たちには忘れがたい想い出の湯となった。

 夕食の品書きは、「霜枯の頃」と題されてあった。中にきのこの鍋があり、比内地鶏が入っていた。私たちの生活する地方では、九月に入っても暑い日が続き、とても秋とは思えないのだが、東北の山のこのあたりには、秋が、"霜枯れの頃" がひたひたと近づいてきているのだろうなあ........という想いにとらわれた。


 翌朝、宿を後にして、バスを待っていた時、音をたてて驟雨がきた。バス停の屋根の下に走りこんで、白い雨脚を眺めていた。秋のはしりを思わせる雨だった。


   

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注:
[1] 「江戸期の初頭まで近畿地方にも、ニョウに近い稻積の呼び名があつたといふ以上に、ミョウが拝みかしづかるゝ一種野外の祭場であつたらしい (略) 今日のニホ場も田に近く家に遠く、形式配置共に、土地毎の年久しい習はしはあつたらしいが、近年色々の社會不安が加はつて、穂のまゝでは永く屋外に積んで置くことが出來ず、僅かな間に藁ニホばかりが多くなり、それさへ此頃はもう段々に罷めようとして居る。古い生活の痕の消えてしまふのも遠くはあるまいが、それでも自分などの旅した頃までは、三河の作手(つくで)のやうな静かな山村で無くとも、四國九州の海邊や鐡道沿線にも、穂のまゝ稻を積む習俗はなほ見られた。東北地方は一般にニホの形が大きく、又技術が念入りであつて、近年は稻藁だけでなく、薪も枯草なども巧みにニホに積むやうにはなつて居るが、なほ多くの村々に穂ニホ又は本ニホといふ名称の存するのを見ると、ニホが本來は刈稻を其まゝ積んで置く場所なることを、まだ意識して居るのかと思はれる。ニホを新穂の義と解して居る人が今もそちこちに有る。岩木山の谷の奥にはニヒボの瀧、嚴冬にその瀧の氷の形によつて、次の収穫の豐凶を卜すべく、深い雪を分けて見に行く農夫も元は多かつた。漢字では乳穂とも書き、人の乳房の形に氷るとも言つたが、それは恐らくは文字の知識のある者の想定に限られ、普通には是がニホであることを皆知つて居た。羽後の仙北の境の山には、ニウツムリといふ遠くから見える一峰があつて、それも文字では乳頭山などと書いて居るが、形は明かに稻ニホと近く、しかも或時節に消え殘つた雪の形を眺めて、來る秋の稔りを占なふ點は、津軽の山中の瀧とも似て居た」
(『定本 柳田國男集』第1巻所収「海上の道」"稻の産屋" pp.181〜182  筑摩書房 昭和53年刊)

[2] 歴史的仮名遣いは音読上、語頭以外の " は・ひ・ふ・へ・ほ " は、" ワ・イ・ウ・エ・オ " と発音される。

[3] 「稻の堆積には一つの様式の共通があることで、すべての稻の束を、穂を内側にして圓錐形に積む以外に、最後の一束のみは笠のやうに、穂先を外に向けて蔽ひ掛ける者が今も多く、更に其上になほ一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せて置く風が今もまだ見られる。(略) 宮崎縣の西端、霧島山の麓、日向眞幸郷の小さな或部落では、刈稻を田に乾し束に結はへてコヅミに積んだ際、トッワラと称する藁帽子を作つて其上に被せる。トッワラは北九州などの各地でトビといふものと同じで、萬葉集にもある足柄山のトブサなどと多分一つの語であり、種俵の前後に取つける棧俵も同様に、本來は物の貴とさを標示する一種の徽章であつたかと思はれる。(略) 大沼郡新鶴村などでは、稻積をニュウと呼び、やはり其上端には藁の小さな覆ひを載せるが、この地方では一般に之をボッチと呼んで居る」
           (柳田上掲書 「海上の道」"稻積方式の特色" pp.183〜184)
 「ともかくもニホが稻を穂のまゝに、或期間藏置する場所であつたことが明白だとすれば、是が農民の心のうちに占める地位が、今よりも遙かに重要であつたことは先づ推定し得られる」(柳田前掲書 「海上の道」"産屋をニブ" p.184 )

[4] "鳰" の文字のこともあるので、この引用箇所の前半の部分も、ここに示しておくことにする。
 「ニホも恐らくは日本でしか見られない冬の田園の風物の一つであらう。名前の起りが判らぬものだから、鳰などゝいふ漢字を當てる人もあるが、その鳥とは何の関係も無く、又土地によつてはニョウだのミョウだのと、少しづゝちがつた發音もして居る。さうして奥羽の北端から、南は鹿兒島縣まで、飛び飛びに同じ名稱が行はれて居るのである。
 單なる稻藁の貯藏法のやうに思つてゐる人が、今は多いかも知れぬが、本來は、はさ木に掛けて乾した新稻を、秋の祭がすむまで斯ういふ形にして田の中に、圍うて置かなければならなかつたので、最初は或はこれが田の神の、祭壇であつたかとさへ我々は考へてゐる。乃ち村では上代の生活様式が、しばしば無意識に保存せられて居た一例である。
 九州の中部ではコヅミ、それから北の方は山口・島根の二縣まで、トシャクといふのがこの所謂藁鳰のことである。現在は藁を主とし、なほその以外に葺萱でも薪でも、牛馬の草の積んだのでも、皆同じ名で呼んで居るが、コヅミはもと穂積、トシャクは稻積をしやれて字音で唱へたものなることは、土地の學者たちもすでに氣づいて居る。さうして段々と少なくはなつて行くが、まだまだ稻の穂そのものを、斯うして積んで置く風は、方々にちやんと殘つて居る。その中でも殊に著しいのは、沖縄諸島のイネマヂン、文字では稻眞積と書くもので、これなどは一年中保存して籾藏の用を兼ねさせ、また今ある高倉といふものゝ起源ともなつて居る。近畿地方とその周圍の廣い區域で、ススキ・スズシまたはスズミといふのは、この稻積の祭壇の頂上に、立てゝある飾物の名から起つたものかと、私などは考へて居るのだが、その話は長くなるので爰では出來ない」(『定本 柳田國男集』第二十一巻所収「村のすがた」"鳰と藁鳰" p.433 筑摩書房 昭和54年刊)
 ※ 本文で引用した部分は、この文章の後に続く。

[5] 美坂哲男(1920.5.18〜2003.4.30)
 氏の著書『山のいで湯行脚』(山と渓谷社 1980年刊) を読んで以来、山行の行き帰りに "温泉を稼ぐ" という氏に親しみを覚え、私たち二人の間で、勝手に "美坂のおっちゃん" と呼んで、今も話題にしている。

[6] 田沢湖に伝わる "たつこ姫伝説" からとった名称か。

[7] おなめ (妾) [もと「おんなめ(妾)」の「ん」の無表記形]
  *日本書紀─欽明二三年七月
       「於是、河邊臣、遂引兵退、急營於野。於是、士卒盡相欺蔑、
        莫有遵承。鬪將自就營中、悉生虜河邊臣瓊缶等及隨婦、于時、
        父子夫婦不能相恤。鬪將問河邊臣曰 汝、命與婦、孰與尤愛。
        答曰 何愛一女以取禍乎、如何不過命也。遂許為妾。鬪將遂於露地
        奸其婦女」
     寛文版上記当該箇所訓「何ぞ一の女を愛みて、禍を取らむや。如何など
         いへども命に過ぎさらむ。遂に許して妾(ヲナメ)と為す」と。
     ※「寛文版訓」とは、
      「慶長勅板日本書紀は、後陽成天皇の勅により慶長四年、清原國賢の手
       でまとめられた日本書紀神代巻上下の古活字版であって、日本書紀版
       本の嚆矢とされている。後に全三十巻の古活字版が慶長十五年に印行
       されている。これらは、周到な本文校訂と勅板の権威によって広く世
       に受け入れられる所となり、以後最も重要な日本書紀のテクストとし
       ての地位を占めてきたのであって、特に寛文九年版本は初版以降数度        にわたって再刷・再版が行われ、本文のみならず訓読の面に於いて
       も、近・現代に至るまでいわゆる流布本の第一として用いられてきて
       いる」
       (「成簣堂文庫蔵本慶長勅板日本書紀に施された訓点について」
          杉浦克己 「放送大学研究年報」 第14号(1996) p.47 )
  *物類称呼 一「妾、おもひもの 京都にて、てかけとよぶ、東国にて、めかけ
          と云、西国及尾州にて、ごひ(御妃にや) 奥の南部にておなめ
          といふ」
  *方言として、青森県南部地方、岩手県、秋田県鹿角郡、岡山県邑久郡牛窓、
         愛媛県などでは、妾のことを"おなめ" という由。

[8] 「諸國ノ名山二駒ヶ嶽ト云フモノ多キハ人ノ善ク知ル所ナリ。「ダケ」ハ只ノ山又ハ峯ト云フ語トハ別ニシテ、神山又ハ靈山ヲ意味スル日本語カト思ハル。蟲送リ又ハ雨風祭二山二神ヲ送ルヲ「ダケノボリ」ト云フコト奥州二多シ。(略) 駒ヶ嶽ト云フガ如キ山ノ名ハ、固ヨリ偶然二出デ來ルベキ者二非ズ。故二今ノ人ガ此二無頓著ナルトハ正反對二、昔ノ人ハ色々ト其命名ノ由來ヲ説明セント試ミタリ。(略)

[9] 「東北農業研究センターたより」No.37  2012.7 "表紙のことば"
  独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 東北農業教育センター編集

              
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