休暇村 乳頭温泉郷
[休暇村 羽黒へ]
7月初旬、またしても東北の梅雨は明けていなかったが、山形に発つ。
かつて夜行列車一本で行けたものを、今回は新幹線で、いったん東京に出た後、上越新幹線に乗り換えて新潟に。新潟からは、さらに羽越本線で鶴岡へと、たいそう回りくどい経路をたどることになった。
目的は、休暇村 羽黒を訪ねるついでに、お天気がよければ、三たび月山にも登ろうというものだったが、その目論見は沙汰止みとなる。強い雨に降り込められたのだ。
この時期、芭蕉もまた、奥州の旅の途中、羽黒を訪ね、月山にも登拝している。
元禄二(1689)年六月のことである。
彼らの滞在した六月三日から六月十二日の間(鶴岡から酒田に向かう十三日を含む)の、羽黒及び鶴岡における動向を『曾良旅日記』(岩波クラシックス8『芭蕉 おくのほそ道』萩原恭男 校注 岩波書店 1984. 4) にたどってみると、
*六月三日 [陽暦7月19日]
申の刻[午後3時〜午後5時]、羽黒山麓手向(とうげ)村の近藤左吉[1](留守)宅に着く。本坊から帰宅した左吉に会う。本坊若王子別当執行代和交院[2]宛、大石田平右衛門[3]よりの添え状を露丸子[近藤左吉の俳号]に渡す。左吉はその添え状を本坊に持参。再び戻って、南谷へ同道。(参道の脇を流れる)祓川あたりより暗くなる。(南谷は) 本坊の院居所[4]である。
*六月四日
天気よし。昼時、本坊へ招かれて、蕎麦切り[今でいうところの蕎麦]でもてなされ、
會覚に拝謁する。また、盛岡藩主南部重信殿代参の僧浄教院[陸奥国南部七戸城下、法輪陀寺塔頭・浄教院の僧珠妙]・江州[飯道寺の僧]円入に会う。
(その本坊において誹諧を興行。この日の)誹諧は表六句だけで帰る[5]。 三日の夜、稀有なことに、思いがけずも観修坊釣雪に出逢い、互いに感涙にむせぶ。[6]
*六月五日
朝のうち小雨が降る。昼ごろより晴れる。昼まで(三山参拝のため)断食潔斎して注連(しめ)をかける。夕飯後、先ず羽黒権現の神前に詣でる[7]。
(羽黒権現から)帰って、(前日に引き続き興行された)誹諧は「一の折」に満ちた。
*六月六日
天気よし。 (三山巡拝)登山(の日である)。[8]
三里で強清水。(さらに)二里で平清水[六合目][9]。(平清水から)二里で高清水[七合目]。このあたりまでは馬足にかなう道であった(人家は小屋掛けである)。
弥陀ヶ原[八合目]には小屋[弥陀ヶ原参籠所]があった。昼食をとる。
(これよりフダラ[東補陀落[10]]で、濁沢・御浜池などと言い始める)難所である。
(東補陀落から)御田[=弥陀ヶ原]に戻る。(弥陀ヶ原を発ち、月山に向かうと)行者戻り[九合目付近]に、小屋[現 仏生池小屋]がある。
午後三時半ごろ月山に到達する。先ず(月読命をまつる)月山権現[現 月山神社本宮]
を拝して、(頂上の泊まり小屋のひとつ)角兵衛小屋に入る。(この日、頂上付近は)雲が晴れて来光はなかった。夕べには東に、朝には西に(来光が)ある由である。[11]
曾良のイメージしていた "来迎" とは.....、
このようなものではなかったかしら。
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*六月七日
湯殿に向かう。鍛冶屋敷小屋がある[9]。牛首[12](本道寺へも岩根沢へも行くことができる)を過ぎると、(装束場の)小屋がある。(清川(きよめがわ)が流れており、神聖な湯殿の霊場に足を踏み入れるに際し)身の穢れを去って清浄にするため、ここで水を浴びる。少し行って、草鞋を履き替え、(湯殿山神社の入口で)木綿手[糸+強](ゆうだすき・木綿しめ)を掛けるなどして、(湯殿の)御前に下る(御前よりすぐに "しめかけ" "大日坊" にかかって鶴岡へ出る道がある)。これより奥に持ち込んだ金銀銭は持ち帰らない。総じて取り落としたものも取り上げてはならない。白い浄衣と宝冠[頭巾]、木綿注連だけ(を身につけて)行く。
昼時分、月山に戻る。昼食をとって下向[=還向]する。強清水まで(羽黒山南谷の役僧)光明坊より弁当を持たせ(られた人が出て)、境迎え(さかむかえ)せられる[13]。日の暮れになって、南谷に帰る。たいそう疲れた。
△草鞋脱ぎ替え場より志津という所へ出て、最上へ行く(道がある)。
△堂者坊[山小屋]に一泊、三人で一歩。月山にて一夜の宿、小屋賃二十
文。方々の入り用二百文のうち、お賽銭二百文のうち、あれやこれや
で一歩銭は余らなかった。
*六月八日
朝の間、小雨が降る。昼時より晴れる。和光院(會覚)がお見えになり、午後四時ごろまでおられる。
*六月九日
天気よし。時々曇る。断食する。昼になって、身につけた木綿注連をはずして[三山巡拝を]終了する。 "そうめん" を食べる。[14]
また、和光院(會覚)の御入来があって、ご飯や銘酒などお持ちくださり、午後四時ごろまでおられた。"花の句"がなり、誹諧が終わる。[15]
曾良、発句が四句までできる[16]。
*六月十日
曇り。江州飯道寺の正行坊が来訪。会う。
昼前、(南谷の別院を出て)本坊にたち至った際、(會覚が)蕎麦やお茶、酒など出してくださる。出立は午後一時半ごろになる。道まで円入に出迎えられる。そのうえまた、大杉あたりまで送ってくれる。祓川において手水して羽黒山をくだる。近藤左吉宅から芭蕉のみ馬で行き、手向正善院前の黄金堂まで釣雪は送ってくれた。左吉は同道。道中小雨が降るも、濡れるほどではなかった。
申の刻(午後3時〜午後5時)、鶴岡の長山五郎右衛門重行宅に到着[17]。粥を所望し、食べ終わった後、仮眠、休息して、夜に入って(芭蕉の)発句ができ、四吟歌仙が
一巡し終わった[18]。
*六月十一日
時どき通り雨がある。誹諧の興行があったが、翁[芭蕉]、持病がよくなかったため、昼ごろに中途で止める。
*六月十二日
朝のうち、通り雨があった。昼には晴れる。誹諧、四吟歌仙が終わる。
○羽黒山南谷別院方(近藤左吉・観修坊は南谷方である)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊とその子息平井貞右衛門。○本坊:芳賀兵左衛門・大河八十郎・梨水・新宰相
△花蔵院△正隠院は両方共に先達である。円入(近江[滋賀県]飯道寺不動院に尋ぬべきこと)、(七ノ戸[現青森県上北郡七戸町])南部城下法輪陀寺塔頭浄教院の僧珠妙
△鶴ヶ岡、山本小兵衛殿は長山五郎右衛門の縁者。図司藤四郎は近藤左吉の弟である。[19]
*六月十三日
(この日)川舟で酒田に向かう。舟に乗っての航行は七里。陸上は五里だという。出
船の際、羽黒から飛脚、(會覚が)旅行の帳面をお調べになるためにお遣わしになる。
また、浴衣二枚を贈られる。さらにまた、発句などもお見せになられた。船中少し雨が降って止んだ。午後四時ごろより曇る。[以下、略]
以上のとおりである。
芭蕉と曾良が羽黒に滞在した間、東北はまだ梅雨のさなかであったろうが、彼らは天候に恵まれ、六月六日には羽黒口を出発して月山に登拝。さらに湯殿山に詣でて月山に登りかえし、羽黒山に戻るという三山巡拝を成し遂げたことは、上記『曾良旅日記』に見たとおりである。
以下にその歩程をざっとさらうと同時に、記されていない箇所を補いながら、実際はどうだったのかを探ってみると、
[一日目]
・南谷を出発
↓ 30丁余り
・荒沢
↓
・一合目 駒の王子(現:海道坂)
↓
・二合目 大満 *虚空蔵堂があった。小月山とも呼ばれる。
↓
・三合目 神子石
↓
・四合目 "強清水(こはしづ )"
↓ ※曾良は、出発してここまでを"三里"としているが、実測は2里半。
・五合目 狩籠 (かりごめ) *狩籠池があり、鉾立新山権現とあがめられていた。
↓
・六合目 "平清水(ひらしづ )"
↓ ※曾良は "強清水" から "二里" としているが、実測は28丁。
・七合目 "高清水(がうしづ)" [現:合清水]
↓ *不動尊とその眷属三十六童子が祀られていた。
↓ ※曾良は "平清水" からここまでを "二里" としているが、実測は11丁。
↓ 足の弱い者は、ここまでは馬で来ることができた。
・八合目 "弥陀ヶ原" ※平清水から約23丁。 ───
↓ ↓↑ 2里半(概ね3時間くらい) ↓
↓ "東補陀落" ↓
↓ ↓
↓ 約20丁 1時間45分
・九合目 "仏水池(ぶすいけ)" ↓
少し上に "行者戻し" ↓
↓ 約20丁 ↓
・月山頂上 ※ "角兵衛小屋" に宿泊。 ─────
[二日目]
・月山頂上
↓ 1時間30分
・湯殿の御前
↓ 2時間35分
・月山頂上
↓ 約40丁 1時間25分
・八合目 "弥陀ヶ原"
↓
・七合目 "高清水"
↓
・四合目 "強清水" ※ "境迎え" を受ける。
↓
↓
・還向。
以上のようになろう(※ 時間は、現在使用されている「山と高原地図」に示された歩行
時間である)。
ただ、『曾良旅日記』当時のルートや道の "実際" がなかなか掴めないうえ、曾良の記録と実測が異なるようで、はっきりしたことが分からず、何か曖昧なものになってしまった。
羽黒修験に詳しい戸川安章は、南谷から荒澤までは約30町ほど、荒澤から月山までは6里としており、弥陀ヶ原から東補陀洛の往復の距離2里半[注:現在の上記地図では弥陀ヶ原と東補陀洛とをただ往復するだけならば1時間20分になっている]を、戸川のことばどおりに足し算すると、三山巡拝1日目の六月六日、彼らは約37km歩いたことになる。2日目の六月七日も、月山を湯殿の御前に向けて下った後、来た道を登り返し、月山頂上からふたたび6里(約23.5km)の道を荒澤へと下って、さらに南谷まで約3.3km歩いたものと推定される。
巡拝路はそれなりに踏みならされ、強力の先導あって道迷いの心配なく、荷も重量を感じるほどには負っていないにしても、旅で鍛えた彼らの脚力は侮れない。
それから127年後の文化十三(1816)年丙子七月、雲仙の項で触れた泉光院野田成亮[20]も、当然のことながら羽黒を訪ね、三山巡拝を遂げている。その際の様子を、『日本九峰修行日記』[21]に見ると、
*七月九日
晴天。............鶴ヶ岡城下へ出る、お城平地、追手東向、町數多し。夫より羽黒山
の方へ赴く。城下より三里、麓門前町へ宿す。平四郎[剛力にして従者の町人]は上野
國六部と同道にて別當所へ山役等聞合せに行く。羽黒、湯殿、月山三山駈先達案内賃山役迄一人前六百五十文也と云ふ。外に山上にて諸々入用定りあり、一人前〆て錢一貫文宛入用也と云ふ。當町は寺境内にて皆々坊號あり、予が宿せしは養善坊と云ふ俗宅也。明日晝時より宿坊駈入りの沙汰あり。
*七月十日
夕立大雷。晝過より別當所藥王寺と云ふに駈入る。一の花表より十八丁上る、此間に二王門、道に諸堂一の坂より三の坂迄一丁計りづゝに三つあり。本坊北向、寺廣し。參詣の者は國々宿坊あり、夫より登る。宿坊無き者は當寺より上る。夕飯一汁五菜、夜に入り護摩修行あり參詣の者佛前に詰むる、護摩相濟み十念祓懺悔の文授け等濟み夜食出る、あん餅也。多く食ひたり。
*七月十一日
晴天。朝飯夕べに同じ。卯の刻[午前5時〜午前7時]出立、先達と言ふに付添ひ上る。廿五丁に羽黒山權現あり、此所高山にあらず、又五丁に奧の院とて宮數々あり。夫より山上平地芝原を行くこと二里計りに馬返しと云ふがあり、此所より月山に駈る、山上迄五里あり。一里目に佛の原とて宿あり、此所より一里半脇道に補陀洛山とて霊地あり詣づ。彌陀、藥師、觀音三尊の大石あり、高さ二丈計り、此所靈地三ヶ所あり、御池あり、不動石あり、又元の佛の原へ返る。絶頂月山本堂迄には所々茶店あり、又靈佛とて錢取る所多し。上宮月山權現小社、脇に役所あり。少し下に籠り堂小屋三軒あり。實に蕉翁の謂はれし如く、笹を敷き篠を枕とす、風烈しく霧籠りて衣體は濡れて嚴寒よりも寒し、此柴木屋に一宿す。夕飯盛切一膳出る、代八十文結び一つ二十文。
*七月十二日
霧天。卯の刻より湯殿に詣づ。道に月山と云ふ刀鍛冶屋の跡あり。下る事三里半にて谷口に高さ三間幅五間計りの大石あり、是れが湯殿山なり。色赤く、此石より汗の出る如く湯湧き出る也。因て湯殿と名付く、此石を金剛界大日と稱す。又谷合を下ること五丁にて靈地行場所々にあり。此間に五間計りの金の鎖り二ヶ所あり。又三間計りの金の梯子あり、元の湯殿に戻る。錢踏道など云へるは此湯殿の道の事也。夫より月山に登る。元の道へ引返し夜に入る頃宿坊藥王寺へ歸る。夕飯仕舞ひ夜話の時役僧何か奉納句などなきやと云ふ、古へ翁も登山の時宿坊にて一句望みたりとあり。予にも其通りなり。短册取出し望むに付書付ける、
憂き業の影耻かしや月の山
四つの苦を洗ふ湯殿や霧時雨
と書付け役僧に渡す、一興なり。
*七月十三日
晴天。宿坊立、辰の下刻。昨夜より今朝晝食迄の飯料一人前百文宛出る、當國善光寺へ詣納經。.......(略)
とあり、泉光院野田成亮も、芭蕉たちと同じ経路を辿って三山を巡拝したであろうことが推測できる。彼は当山派修験者であり、健脚であることは言うまでもない。
私たちが鳥海、月山・湯殿山に向かったのは、1990年8月のことであった。
第一の目的は、鳥海越えで吹浦の石仏を訪ねた1985年夏[ cf. 「アンドロギュノスの山旅」]のリベンジだったのだが、ついでに、月山・湯殿山も訪ねることにする。
鳥海は前回と同じ、矢島コースをとる。その間、山行など始めていたとはいえ、5年前の "しんどさ" は何だったのかと思うくらい難なく七高山に達した。象潟口鉾立に下山後は吹浦の十六羅漢を再訪、鶴岡に移動する。
月山八合目終点でバスを下り、弥陀ヶ原の湿原をぬけて、踏みならされた道を頂上に。さらに、その頃はまだあった鍛冶小屋の前を通り、牛首を経て湯殿山に下山する。
当時、鳥海や月山には、まだ、スタンプラリーでもするようなピークハンターたちの姿はなく、ふるさとの夏山を楽しむ人々や、時に信仰登山と見受けられる人の姿がほとんどの、けばけばしさや騒がしさとは無縁の山だった。
自然と一枚になることを願い、私たちの山行を「求道」と位置づけていた連れ合いにとって、東北の静かでたおやかな山々は肌合いがよかったようだ。
月山や湯殿山を訪ねるからには、下山後は是非にと、出発前、湯殿山参籠所に宿泊を願い出てあった。参籠所は積雪に耐える堅牢な建物で、1977(昭和52)年竣功とのこと。案内され、二階に上がる。私たちが泊めていただいたのは、間仕切りで区切られた、一番奥の広い "一室" だった。 仕切りを取り払うと、大広間になるつくりである。大祭や四季の峰入り等の行事、また大きな講の直会等に際しての設えかと思われた。
お湯を使わせていただき、食膳に着いて、ふと目に入ったのは、「献立」を記した紙片であった。添え書きに私たちは唸った。そこには "湯殿山参籠所 膳献立" とあって、
下に記された "機知に富んだ喩え" は、実は、修験者の密教的な隠語に由来するとか.....。
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虹 鱒 田 楽 湯殿の神饌
胡 麻 豆 腐 山道石畳
天 ぷ ら 行者の装束
洗 い 行者の禊
お 汁 お滝のにごり
酒 清めの清水
ビ ー ル 滝壺の泡立
ジュ ー ス
季 節 の 山 菜
ふ き 山伏の護摩木
う ど 剣岳の土砂崩れ
ぜ ん ま い 仙人の尺丈
か の か わ 仙人岳の風倒木
い り な め 梵字川のさざれ石
酢 の 物 湯殿の四季
(季節によって山菜が変わります)
と記されていたのだ。どなたが考えられたのだろうか、思いがけなくも当地ならではの機智に富んだ喩えの妙に感嘆するばかりであった。
ただ、この時の "献立表" 、何かの理由でこの時だけのものだったのか、1999年夏、羽黒を訪ね、再び月山から湯殿山に下山して、参籠所にお世話になった際には、もう見ることはなかった。
1999年8月の羽黒・月山・湯殿山、三山行に際しては「齋館」にも宿泊させていただいた。
現在、羽黒山参籠所として一般の宿泊も可とされる齋館の建物は、江戸期にあって華蔵院[注:『曾良の日記』では、花蔵院となっている]といい、正穏院、智憲院とともに先達寺院として、羽黒山執行別當につぐ "宿老[注:江戸幕府でいえば老中、諸藩においては家老職にあたる高位の僧]" の住した寺院であった由。だが、明治五(1872)年九月の修験宗廃止令[22]によって山伏たちの住した寺々が取り壊されるなか、唯一、華蔵院のみが神館(かんだち) [注:神事を行うに際し神官などが参籠して潔斎などをする建物] として残され、今に至っているという。
敷地に足を踏み入れ、正面玄関を前にした時、御所の御車寄せが思い出されたほどに、格式の備わった、往時を偲ぶに十分な建造物であった。
神館として唯一残された先達寺院。
静かなたたずまいの重厚な造りに往時を偲ぶ。
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通されたのは、ガラス戸を三方に巡らせた、いちばん奥まった立派な広い部屋で、障子が開け放たれてあったため、一つ部屋のようであったが、幾部屋かに仕切ることのできる造りである。当日の宿泊者は私たちだけの由で、その広い "空間" を自由に使ってよいとのこと。せっかくのガラス戸だったが、濃い霧に閉ざされて外の様子はわからなかった。
風格のある広々とした部屋に座ると、8月下旬だったが、空気は湿気を帯びて肌に涼しく、かつてここにあった高位の修験宗僧侶の生活が偲ばれるとともに、経る時代の中で、この建物に参籠、潔斎などして神事に臨んだという神官たちの様子が知りたいと思えてくるのだった。
膳の "雰囲気" は同じだが、料理はどうなのだろう。
画像は、現在のものを拝借。
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別室での食事は、朱塗りの膳に並べられた料理が、本膳、二の膳、三の膳と続いた。それは、実際には、当館の主が野山を駆け回られたのでないにしても、当地の人々が山野を駈け巡って採取されたであろう山菜が丁寧に調理され、馳走とはこのようなものを言うにちがいないと思わせる品々であった。
中国地方の山里で育った連れ合いは、早春の、まだ花開かない固い蕾の蕗の薹がおいしいと言う。蕗の薹味噌にもするが、摘んできたばかりのものを細かく刻み、ちょっと生醤油をかけるだけ。ほろ苦さがたまらないらしい。わらびもアクを抜いて水に晒した後、3センチばかりに切って鰹節をのせ、これにもちょっと生醤油をかけるだけである。ウドは少しの油で炒め煮にするのが常。
彼の遠い思い出にある故郷の山菜のあれこれは "普段使い" 以外のものではない。保存のきかないものは季節のものとして食べ、ゼンマイ、ワラビ、ウド、イタドリ、すずのこ等々、保存可能なものは塩漬けにして、一年を通してお菜とするが、そもそも手間隙かけて丁寧に "調理" するというようなことはなかった、と言う。
それが、ここ羽黒では、山菜ひとつひとつの個性が生かされた奥ゆかしい味わいの、ある種、到達すべき域に達した料理となっているのに驚かされた。この地に息づく "伝統の調理法" があるものと推察される。地場のもので訪問者をもてなすに、これ以上のものはないだろう。
「これはあの山菜。この味はあれ!」「ほろ苦さがいい.....」等々、話題は尽きず、箸先につまんで口に運ぶのが愉しかった。
それから17年、かつてバスの中から、この施設は何だろうと思って見ていた "休暇村 羽黒" の前に降り立つ。杉林を背にした本館の前に広がるスペースや駐車場他、施設の外観は記憶と異ならない。
建物は1975(昭和50)年築造の鉄筋三階建て。屋根はゆるやかに左右に流れる。
1998(平成10)年に一度改装されているようだが、
客室数:29室(和室:禁煙17室・喫煙3室 / 洋室:禁煙9室)に変化はない。
宿泊定員:79名
現 "休暇村" が、国民休暇村として発足したのが1962(昭和37)年であるから、施設としては後発。また、客室数からみて、小規模な施設といえるだろう。
少し前のエリアマップの冊子に「........羽黒山頂駐車場からT字路の荒沢寺までの間は、庄内交通(株)の有料道路になっており、またT字路の東側には国民宿舎、野営場、植物園などの集団施設を配置した「羽黒国民休暇村」がある」と紹介されている。
最新の周辺図に植物園は見当たらないが、キャンプ場、スキー場[注:ゲレンデは初級・中級のコースが樹木によって分けられている由。スキーリフトは2基ある様子]とそのロッジ、芝生公園があり、上空写真によると、少し離れているが、月山ビジターセンター横にテニスコートAW4面が見える。
到着時、曇り空だったせいか、休暇村 羽黒のロビーは薄暗く、沈んだ感じがして、外観の印象とはずいぶん違った。
フロントでの受付をすませ、月山に行く予定で2連泊の申し込みをしてあった私たちは、スタッフに問われるまま、翌日の部屋の清掃は不要と告げ、バスタオルや冷水等備品の交換のみを願っておいた。
だが、翌日は強い雨。旅は山行が主目的ではなく、休暇村全村巡りの一環としての
"羽黒" 訪問だったこともあって、まあいいかと、のんびり停滞することにする。
午前10時を前に、清掃の物音を避け、ロビーに下りる。それほど広くないロビーの窓側は幼児の遊び場コーナーが占めていて、"孫旅" の大きなポスターが掲げられている。中央には円形のソファがあって、そこではハイカー風の中年女性グループが濡れた雨具の着替えをしていた。くつろげそうな場所もなく、行き場がないので遊び場コーナー横の椅子に腰かけて、しばらく写真雑誌を見ていたが、そばにテーブルと椅子が2セットだったか(?)あり、喫茶コーナーのようだったので、フロントに声をかけてコーヒーを注文してみる。寡黙な男性スタッフによって淹れられたコーヒーがどんなだったか........とんと思い出せない。
外は強い雨が降り続いている。
昼食時間を待ちかねて館内の "食堂" に行くと、すでに奧の席に熟年の女性がひとり。少し離れた席に私たち。しばらくして、年の頃は40歳くらいの二人連れの男女が席に着いた。が、スタッフが現れる様子がない。じれったくなって、私が「ちょっと、厨房に声をかけてきますかね」と言うと、連れ合いは「放っておけ」と言うので、急ぐこともないか........と、そのままにしてあれこれ話しながら待った。いよいよ誰も来ない。埒があかないと思われたのか、奧の席の女性が厨房の暖簾に上半身をさし入れて、声をかけられた。出てきた女性スタッフは何ごともなかったように注文をとった。
部屋に戻ってみると、ほとんどなくなっていた冷水も使ったバスタオルやその他の備品も交換されていない。フロントにポットとバスタオルを持っていくと、「交換していませんでしたか........」と一言。冷水が入ったポットと新しいバスタオルを受け取って部屋に戻る。
窓の外を見ていると、強い雨の中、バスがやって来て、 "一個団体" を降ろし、トランクからさかんにキャリーバッグ等の荷物を降ろしている。
お風呂が混雑しそうだったので、急いで浴場に向かう。
「ミネラルを多く含んだ月山の雪解け水、硬度15度の軟水を使用」したというお湯は、前日同様温め。当浴場はカランとカランの間隔がけっこう狭い。隣の飛沫のかかるのは、互いにあまり快いものではないが、多人数に対応するためには、銭湯仕様の方が合理的かもしれない。
食事は、1日目「四季の膳 "ごっつぉ" コース」、2日目は「山形肉会席」を選んであった。両日とも、固形燃料を用いる卓上用コンロが、陶板焼きに蒸籠蒸し、銀色の汁物小鍋にと二つ三つ並べられ、テーブルを賑やかしている。
料理は、手をかけて丁寧に調理したという品は意外に少なく、食材を切って器に並べたといったふうのものが多かった。"山形ブランド" だという庄内彩鶏も山伏豚も、山形牛も新庄馬刺しも "ブランド" の特徴が何なのか不明。山形牛だという肉は脂が多く、長めに焼いてその脂を落とそうとするとスジばって固くなった。出される部位や切り方によっても印象は変わるはずだから、出された肉は若者向けだったのだろう。
一方、寡聞にして知らなかったが、庄内は「食の都」と言われるそうで、「夏にも美味しい食材が沢山! この時期に旬を迎える口細カレイの揚げ物や、高級魚........海の幸をふんだんに使用した 云々」として、"山の中" の羽黒でも海の魚が出る。冷蔵技術に依るところ大というところ。
おいしかったのは、「ごはん」とお漬け物だった。「はえぬき」だったか「つや姫」だったか、あるいは、その両方だったか。ごはんとお漬け物さえあれば、他には何もいらない。"ごっつぉ" が、はるかに霞む。
「ちなみに、"ごっつぉ" とは庄内方言で、"ごちそう" を意味します」と紹介されているが、私たちの住む近畿圏でも彼の郷里でも「ごちそう」のことを「ごっつぉ」と言い、庄内地方の専売ではないのではないかと思う。
ただし、使い方として、食卓に招いた客人に "あらんかぎりのもの" を出したとしても、照れや冗談を除いて「我が家の "ごっつぉ" です。召し上がってください」と言うことはない。よくあるのは、食卓に並べられた料理やその数を見て、外から帰ってきた家人が「今日はえらい "ごっつぉ" やなぁ」とか「えらい "ごっつぉ" どすな」と言い、また、親しい友人なら「こないにぎょうさん "ごっつぉ" 出してもろて、どないしょ」等と言って、喜んだり、驚いてみせたりする。挨拶としては「"ごっつぉ" になります」、「えらい "ごっつぉ" になりました」、「"ごっつぉ" さんでした」と言い、受け手、すなわち、馳走される側が発することばであるように思う。
他に、自分が金銭を出して他者に "奢る" という意味で「今日は、私がごっつぉするし、遠慮せんとついてきて」といった使い方はある。
そんなこんなで、「"ごっつぉ" だから、食べて!」と出される食事や状況には少々違和感を感じるが、休暇村 羽黒で "ごっつぉ" として出される料理は、羽黒を含む山形県庄内地方の人々にとっての "ごっつぉ" 、すなわち "立派でおいしい料理" とされるもので、それらを、来訪するスキーツアー客やバス旅行の団体、グループ等々に、いちどきに短時間で提供できるようにしたものなのではないかと推察する。
ただ、料理を出された側が、その料理を "ごっつぉ" とするか否かは別の問題である。
翌朝、雨に降りこめられた "休暇村 羽黒" を後にして、帰り道と言うには少々無理があるが、もうひとつの休暇村、"妙高" に向かう。
雨は小雨になっていたが、天候がすっきり回復するという気配はなく、東北の梅雨明けはまだしばらく先のようだった。
休暇村 羽黒に宿泊して、利用者への対応や料理等々から、この施設は、ゼミナールハウス等、研修施設に限りなく近いように思われた。
施設も、利用者のニーズによって規定もされようし、立地や施設設立の目的もあろう。休暇村にもいろいろあるのだと、改めて思う旅となった。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
[注]
[1] もと鶴岡藩士近藤左吉宅に着く。当時、近藤左吉は山伏法衣の染色師をしており、一名を圖司呂丸、また、露丸と号す俳人であった。もどる
[2] 大石田平右衛門より託された添え状宛名書きに「本坊若王子別當執行代和交院」とあったようだが、正しくは「本坊若王子(やくわうじ)執行別當代和合院」。
当時の本坊若王子執行別当代は會覚、称号和合院、本名照寂。貞享四(1687)年より元禄四(1691)年まで別当代を務め、その後は美濃谷汲の華巌寺に転住した人物である。
別当は、もとは山の主権者として、一山の諸務を統べ衆徒を支配する者として羽黒に在住していたが、その後は江戸東叡山に在って赴任せず、別当代に職務を代行させるようになっていたという。もどる
[3] 大石田平右衛門、本名・高野平右衛門は、出羽国大石田村の最上川河港近くで船問屋を営む一方、一榮と号す俳人でもあった。
芭蕉たちは、五月二十八日、立石寺より大石田の一榮宅に着き、二十九日・三十日と滞在。誹諧(四吟歌仙)を興行している。もどる
[4] 「院居所」とは "隠居所" の当て字の由。
曾良は、南谷を「本坊の院居所」としているが、「天和二年(一六八二年)に覺前院良タン[言+甚]が別當代に任ぜられ、翌三年に入院すると、山内の諸制度の改革に着手したついでに、貞享元年(一七八四年)には若王子を本坊とし、南谷を執行寺として別當寺の別院としたから、寺内の人數も減じ、きはめて閑散になった。曾良が南谷を「本坊の院居所」と考へたのも無理はない。しかし、當時は本坊の院居所といふものはなかつた」という。
cf.『芭蕉研究論稿集成』第5巻 久富哲雄監修 クレス出版刊 1999.12 所収
「羽黒山における芭蕉をめぐって(一)」戸川安章 pp.617〜618もどる
[5] 元禄二年六月四日、羽黒山本坊における歌仙の会は會覚が主催者となって興行される。「誹諧書留」には " 有難や雪をかほらす風の音 " という芭蕉の句を発句として、露丸・曾良・釣雪・珠妙・梨水・円入が一座し、會覚が名残の花の一句をよんだ歌仙(八吟歌仙)一巻が収録されている。
以下のとおり。
初折(一の折) ────────────────────────────────
・有難や雪をかほらす風の音 翁 発句(立句) 表(初表)
・住程人のむすぶ夏草 露丸 脇
・川船のつなに螢を引立て 曾良 第三
・鵜の飛跡に見ゆる三ヶ月 釣雪 四句目
・澄水に天の浮べる秋の風 珠妙 五句目 月の定座
・北も南も碪打けり 梨水 六句目(折端)
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・眠りて昼のかげりに笠脱て 雪 初句(裏移) 裏(初裏)
・百里の旅を木曾の牛追 翁 二句目
・山つくす心に城の記をかゝん 丸 三句目
・斧持すくむ神木の森 良 四句目
・歌よみのあと慕行宿なくて 雪 五句目
・豆うたぬ夜は何と泣く鬼 丸 六句目
・古御所を寺になしたる檜皮葺 翁 七句目
・糸に立枝にさまざまの萩 水 八句目 月の定座
・月見よと引起されて恥しき 良 九句目
・髪あふがするうすもの(羅)ゝ露 翁 十句目
・まつはるゝ犬のかざしに花折て 丸 十一句目 花の定座
・的場のすゑに咲る山吹 雪 十二句目(折端)
名残折(二の折)‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
・春を経し七ツの年の力石 翁 初句(折立) 名残の表(名表/二の表)
・汲ていたゞく醒ヶ井の水 丸 二句目
・足引のこしかた迄も捻蓑 圓入 三句目
・敵の門に二夜寝にけり 良 四句目
・かき消る夢は野中の地蔵にて 丸 五句目
・妻恋するか山犬の声 蕉 六句目
・薄雪は橡の枯葉の上寒く 水 七句目
・湯の香に曇るあさ日淋しき 丸 八句目
・むささびの音を狩宿に矢を矧て 雪 九句目
・篠かけしほる夜終の法 入 十句目
・月山の嵐の風ぞ骨にしむ 良 十一句目 月の定座
・鍛冶が火残す稻づまのかげ 水 十二句目
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・散かいの桐に見付けし心太 丸 初句(裏移) 名残の裏(名裏/二の裏)
・鳴子をどろく片藪の窓 雪 二句目
・盗人に連添妹が身を泣て 翁 三句目
・いのりもつきぬ関々(!)の神 良 四句目
・盃のさかなに流す花の浪 會覚 五句目 花の定座
・幕うち揚るつばくらの舞 水 挙句(揚句)
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芭蕉七・梨水五・露丸八・圓入二 江州飯道寺・ソラ六
會覚一 本坊・釣雪六 花洛・珠妙一 南部法輪寺
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[6] 観修坊釣雪は「誹諧書留」に "花洛" と注のある人物。もどる
[7] 三山参詣登山の前夜には「夕飯がすむと、道者は道場にあつめられて、護摩がたかれ、十念・祓・懺悔の文などをさづけられたのち、『惣道者衆。このお山は甚深秘密の道場でござる。よつて、娑婆にでても、たとへば親子夫婦たりとも他言は堅く禁制でござる。もし、他言いたしたならば、たちどころに権現のお罰を蒙らうといふ誓ひをたててこのかねを打たつしゃれ。』といつて、そこに持ちだした"とこがね"といふものを打ち、他言をせぬ旨を誓約させられた.............このかねを打つ作法を金打(きんちゃう)といひ、月山を拜するときにも懺悔と金打をさせられるが、湯殿山の木戸口では特に嚴重に申渡される」という。
cf.前掲書「羽黒山における芭蕉をめぐって(二)」戸川安章 p.631もどる
[8] "こより" を撚り合わせた紐を輪にして作った修験袈裟を首にかけ、寶冠という、長い白木綿で頭を包むようにして巻いた頭巾を被って、強力の先導で羽黒口から月山に向かって登山を開始する。
強力とは、『奥細道菅菰抄』に「修験の弟子、笈など負せて従はしむるもの。則チ登山の案内先達なり」とある。一般には、登山者の荷を負い、案内に立つ者のことをいい、また、修験者などに、荷を負って従う下男のことも "強力" という。もどる
[9]
修験者の秘所 "東補陀落" 、
三宝荒神(立岩)の威容。
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東補陀落は、峰入り修行をする修験者の秘所で、弥陀ヶ原の東北に位置する。ニゴリ沢を経て、"難所" とされる鉄梯子を下り、御浜池の弁財天に参拝。さらに、観音・弥陀・薬師の三尊や藁田禿山(1217m)山麓、立岩の三宝荒神などを巡拝する。もどる
[10] ここでいう"来光" とは "来迎" のことで、陽光を背に立ち、その反対側に雲や霧がかかっていて、うまく条件が揃った場合に現れる、いわゆる ブロッケン現象 (Brockengespenst) のこと。北ドイツのハルツ山地(Harz:Mittelgebirge)の最高峰ブロッケン山 (Mount Brocken:1,142m)でよく見られる現象であることからかく言われるが、日本では、雲や霧に投影された像の周縁に、環状の虹のような彩りが見られることから、弥陀が光背を負うて来迎するのになぞらえられる。
1994(平成6)年夏、折立から太郎兵衛平を経て称名平に向かった際、薬師の稜線、愛知大学山岳部遭難(1963(昭和38)年1月)の "鎮魂" のケルンを過ぎたあたりで、私たちは西の空に自分たちの大きな "影" が映し出されるのを見た。彼は、七色の輪の中に浮かびあがった私たち二人の影を8mmカメラにおさめた。数分のできごとだった。もどる
[11] 頂上より200mほど下ったところに、かつてあった小屋。無愛想な小屋だったが、今は小屋跡の碑が建つのみで、建物はなくなっているらしい。もどる
[12] 月山山頂より1.25km(20分くらいか)ばかり下った地点。もどる
[13] 「 "さかむかへ" とは、參拜を終へて下山する道者を出迎へるため、重箱につめた料理をたづさえて山の口までゆき、迎へるものと迎へられるものとが、それを取りあつて食ふのであつて、神まゐりのために遠くに旅したものの帰村にあたり、村人たちが酒食をたづさへて村境まで出迎へをし、共同飲食をすることによつて "せい" をつけさせ、旅の疲れを恢復させようといふもので、各地で古くからあり、今もなほおこなはれてゐる習俗である。夏の月山道者は、普通には大滿あたりまで "さかむかへ" をしたのであるが、翁の場合は特に合清水まで迎へをもらつたわけであろう」と、戸川安章はいう。
cf. 前掲書「羽黒山における芭蕉をめぐって(二)」戸川安章 p.630
※「各地で古くからあり」とあるが、古記録などにも頻出する語である。もどる
[14] 「下山の翌朝は斷食し、小晝に "そうめん" をたべるのはお山成就の祝ひで、これも山のしきたりである。そして晝までは "あと精進" をつづけ、晝食がをはると "精進おろし" となり、それまで肩にかけてゐた注連をはづして木の枝にかける。これが「及晝シメカクル」といふ言葉の意味で、翁がどの木に注連をかけられたかはわからないが、普通は拂川の橋のそばにある櫻の木にかけたもの」だと、前掲の戸川安章はいう。cf.「羽黒山における芭蕉をめぐって(二)」 p.633
芭蕉たちの場合、三山巡拝後の行事としては一日遅れの九日にではあったが、肩にかけていた木綿注連を納め上げ、一連のしきたりを踏んで三山巡拝を終了している。もどる
[15] この日、初折の十八句で中断していた八吟歌仙が、會覚の "名残の花の句" を得て満尾した。もどる
[16] 四句のうちの三句は「誹諧書留」に記されている。
・月山や鍛冶が跡とふ雪清水
・銭踏て世を忘れけりゆどの道
・三ヶ月や雪にしらけし雲峯
あとの一句は、『おくのほそ道』に「坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。」とあって、芭蕉の三句のあとに「湯殿山錢ふむ道の泪かな 曾良」とあるのが、それとされる。もどる
[17] 長岡五郎右衛門重行は近藤左吉(露丸)の縁者で、鶴岡藩士(百石取り)。もどる
[18] "めずらしや山をいで羽の初茄子" の、芭蕉の発句ができ、重行・曾良・露丸との四吟歌仙が一巡し終わったことをいう。その際の四吟歌仙は以下のとおり(満尾は六月十二日)。
初折(一の折) ────────────────────────────────
序 表(初表)
・めづらしや山をいで羽の初茄子 翁 発句(立句)
・蝉に車の音添る井戸 重行 脇
・絹機の幕さわが[門+市]しう梭打て 曾良 第三
・閏弥生もすゑの三ヶ月 露丸 四句目
・吾顔に散りかゝりたる梨の花 行 五句目 月の定座
・銘を胡蝶と付しさかづき 翁 六句目(折端)
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破 裏(初裏)
・山端のきえかへり行帆かけ舟 丸 初句(裏移)
・苳無里は心とまらず 良 二句目
・粟ひへを日ごとの斎に喰飽て 翁 三句目
・弓のちからをいのる石の戸 行 四句目
・赤樫を母の記念に植をかれ 良 五句目
・雀にのこす小田の刈初 丸 六句目
・此秋も門の板橋崩れけり 行 七句目
・赦免にもれて独り見る月 翁 八句目 月の定座
・衣々は夜なべも同じ寺の鐘 丸 九句目
・宿の女の妬きものかげ 良 十句目
・婿入の花見る馬に打群て 行 十一句目 花の定座
・旧の廓は畑に焼ける 丸 十二句目(折端)
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破 名残の表(名表/二の表)
・金銭の春も壱歩に改り 翁 初句(折立)
・奈良の都に豆腐始 行 二句目
・此雪に先あたれとや釜揚て 良 三句目
・寝まきながらのけはひ美し 翁 四句目
・遙けさは目を泣腫す筑紫船 丸 五句目
・所々に友をうたせて 良 六句目
・千日の庵を結小松原 行 七句目
・蝸牛のからを踏つぶす音 丸 八句目
・身は蟻のあなう(憂)と夢や覚すらん 翁 九句目
・こけて露けきをみなへし花 行 十句目
・明はつる月を行脚の空に見て 良 十一句目 月の定座
・温泉かぞふる陸奥の秋風 蕉 十二句目(折端)
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急 名残の裏(名裏/二の裏)
・初雁の比(ママ)よりおもふ氷様 丸 初句(裏移)
・山殺作る宮の葺かへ 良 二句目
・尼衣男にまさる心にて 行 三句目
・行かよふべき歌のつぎ橋 丸 四句目
・花のとき啼とやらいふ呼子鳥 翁 五句目 花の定座
・艶に曇りし春の山びこ 良 挙句(揚句)
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もどる
[19] ここには、芭蕉および曾良が羽黒で出会った人々について記されている。
ただ、この記述だけでは分かりにくいので、戸川安章の前掲書から引用する等して、少し説明を加えておきたい。
*「且所院」は "壇所院" で、「南陽院とともに羽黒山の衆徒。いづれも本坊から
二十八俵の配當をうけてゐた」。
*「源長坊は山麓の妻帶修驗三十六坊のうちで姓は田村」、息子の「平井貞右衛門
も同じ身分で修驗名を彌勤坊といつた」。
*芳賀兵左衛門は『三山雅集』の編者・呂茄の父の仙學で、羽黒手向の人。「當時
の身分は平門前から御恩顧分(ごおんぶん)に取りたてられたばかりで、源長坊や
彌勤坊には及ばなかった。この家が三十六坊並みの御恩顧分に列したのは『三山
雅集』と『三山惣繪圖面』を出版した功によるものだった」。
*大河八十良は羽黒「山麓の妻帶修驗で、身分は御恩顧分である」。
*梨水は不明。
*新宰相も不明。ただし、戸川安章は「會覚の兒小姓で、しかるべき身分を持つ山
麓妻帶修驗の子だつたのではあるまいか。山麓修驗の子が別當や大先達の弟子と
なつて得度受戒をすると度牒を授けられる」としている。
*花蔵院および正隠院(正しくは、正穏院)は、ともに羽黒山の寺坊で、当時、花蔵
院の清海、正穏院の胤慶は大先達であったらしい。大先達は別當につぐ重職であ
る。
[追記] 六月十日の項にある「飯道寺正行坊」の正行坊については不明。もどる
[20] "雲仙・紅葉茶屋" の項でも触れた、日向(宮崎県)佐土原は安宮寺(当山派)の住職にして大先達の泉光院野田成亮。俳号 一葉。もどる
[21] 『日本九峰修行日記』は、文化九(1812)年九月、泉光院野田成亮が57歳の折、時の佐土原藩主島津忠持の許可を得て、町人の従者平四郎[剛力として随行]を伴って郷里を出で、九州・山陰・北陸・中部・関東・奥羽・関東・東海・熊野と歩いて6年2ヶ月の旅を全うした記録。もどる
[22] 太政官布告第二七三号 明治五年九月十五日
修験宗ノ儀自今被廃止本山當山羽黒派共従来ノ本寺所轄ノ儘天台真言ノ両本宗へ帰入被 仰付候条各地方官ニ於テ此旨相心得管内寺院へ可相達候事
但、将来営生ノ目的等無之ヲ以、帰俗出願ノ向ハ始末具状ノ上、教部省へ可申出候事もどる
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