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休暇村 裏磐梯






[休暇村 裏磐梯へ]

 或る日、方位について考えていた連れ合いは、ふと「 白虎」 は年齢でいえば中年のはずだったが.....と思う。
 方位と色と四季と人生の段階を同時に表せば、次のようになるのは周知のとおり。
      東 = 青龍 / 青春 / 青年
      南 = 朱雀 / 朱夏 / 壮年
      西 = 白虎 / 白秋 / 中年
      北 = 玄武 / 玄冬 / 老年
なのに、会津戊辰戦争における白虎隊は16、7歳の少年で構成される隊である。これはいったいどういうことなのか。なぜ、白虎に16、7歳の少年を充てたのか。
 疑念を晴らしに取りかかった連れ合いは、これに五行説を重ねて考察することを思いつく。
 五行説とは、森羅万象を木・火・土・金・水という五元素で説明しようとする主張(西洋の四元素に、"中心"となる元素を入れるのが東洋思想の特徴)である。
 この五元素の関係(すなわち循環)については、三つの主張がある。
 (1) 生成順:「もっとも微かな存在の水から土に及ぶ」というもの。
        水→火→木→金→土
 (2) 相生順:木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木
       を生ずる。すなわち、五気が順次相生(そうじょう)していく関係ととら
       える考え方。
 (3) 相勝順:水は火に剋し、火は金に剋し、金は木に剋し、木は土に剋し、土は水
       に刻す。すなわち、五気が順次相剋(そうこく)していく関係ととらえ
       るもの、
である。
 他方、五行(五気)はまた、色彩(五色)、方位(五方)、季節(五時) 等をも象徴する。
      ・五行: 木   火   土   金   水
      ・五色: 青   赤   黄   白   黒
      ・五方: 東   南  中 央  西   北
      ・五時: 春   夏  土 用  秋   冬

 ここで、(2)の相生順を図示したものに、五行が象徴するものを当て嵌めてみると、以下のようになる。

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 ここから、火=朱雀を第1軍(18歳〜35歳)に、次いで木=青龍を第2軍(36歳〜49歳)に、次いで水=玄武を第3軍(50歳以上)に、そして金=白虎に16歳〜17歳の "少年たち" を充てたのではないか、と連れ合いは推測。
 この推測を裏づけるため、彼は資料を探したようだが、見つからなかったため、あるいは、会津に行けば、糸口が見つかるのではないか、と思ったという。


 他方、私はというと、『幕末・外国人要撃』をまとめていたころから、機会があれば、会津を訪ねてみるのもいいかなと思っていた。というのも、"外国人要撃" の時代背景として、
 「会津への侵攻を開始した新政府軍は、石筵・母成峠(安達太良山)方面から猪苗代湖を経て、若松城下に入る。激しい市街戦に、城下は大混乱に陥り、数々の惨劇が繰り広げられたといわれるが、会津征討越後口総督府軍の旗下にあった尾張藩士佐久間鍬三郎の草稿とされる『尾張藩 北越日記』(『北越戊辰戦争史料集』稲川昭雄編 新人物往来社 2001年11月25日刊 p.217)にも、手短だが、以下のような記述がある。
「一、坂下村南会城マテ道路、敵死者数ヲ不知多シ 殺セル死人ニ気難堪、城溝中死人又多シ。奥羽口ノ官軍、市中諸士ノ屋宇ヲ打毀チ、家財ヲ分取。其余商家ニ入テ、家財取テ、売店ヲ市中ニ聞(ママ)キ、農民ニ売之。嗟嘆之憐之。」(9月15日) [1]
 この間にも米沢藩に続き仙台藩が降伏。会津の孤立は深まっていった。そして、一ヶ月の籠城の後、明治元年9月22日、会津藩は東征軍の軍門に降る」
と、ほんの少しだが「会津戊辰戦争」に触れていたからだ。


 2017年5月、機会が訪れた。
 朝一番の新幹線で発ち、東北新幹線、磐越西線と乗り継いで、JR会津若松駅に降り立つ。

 家を出て以来、何も口にしていなかったので、まずは "腹ごしらえ" と、駅構内の手打ち蕎麦の店に入り、お昼の "ざる蕎麦定食" を注文した。運ばれてきた付け合わせ料理の「こちらは会津の郷土料理、棒鱈とニシン。それに、饅頭のてんぷらです」という説明に、私は思わず、「えっ、私たち、京都から来たんですけど」と言っていた。相手は、ちらっとこちらを見たものの、ひと間あって無言のうちにたち去った。
 なんでまた会津に来てまで、棒鱈とニシンなのか.....。あまり会いたくないものに出会ってしまったという思いと、その思いがけなさに、私たちは顔を見合わせて苦笑した。

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 京都では、円山公園内にある平野屋は "いもぼう" をもって知られる老舗[2]。棒鱈の甘煮は、かつて大阪や京都では、おせち料理のひと品として、家庭で干鱈を水に戻すところから始め、時間と手間をかけて作ったものである。日常の惣菜としても、小芋や海老芋などとの炊き合わせは、別段珍しい料理ではなかった。
 身欠きニシン[3]も同様に、京都では、甘く煮たニシンを蕎麦の上に載せた "にしん蕎麦" は、蕎麦屋の定番。 "にしんと茄子の炊いたん" も、おばんざいの店の定番として鉢に盛られて並んでいる。大阪でも、ニシンと野菜の炊き合わせや昆布巻きは、普通の家庭料理であったし、デパ地下では、今も鰊の昆布巻きを陳列の中に見ることができる。
 迂闊にも知らないのだが、京・大阪においても、棒鱈やニシンの料理は、観光客に郷土料理として紹介され、出されているのだろうか。

 ニシンや棒鱈が、各地で料理の素材として使われるようになったのには、北前船に因るところが大きい[4]のだろうが、会津と京都との関係を考えると、会津に残るニシンおよび棒鱈の、今に残る調理法や味付け等は、松平容保[会津藩第九代藩主:1836〜1893]の京都守護職就任[文久二(1862)年〜慶応三(1867)年][5] に伴う、京都滞在が影響しているものと思われる。
 ただし、生の鰊は冷蔵技術の進歩と物流の発達がなければ、内陸部での入手は困難であったこと等を考えると、この店で出された生の鰊の酢締めは、身欠きニシンを生の鰊に差し替えた"にしんの酢漬け"[6]擬きではなかったかと推察している。

 さて、"饅頭の天ぷら" 。"和菓子" として完成した "日本の饅頭" を、わざわざ "天ぷら" にして食べる必要がどこにあるのか、と頭を捻る。そして、
「甘味が貴重だった時代、何かの式典で出された薯蕷(上用)饅頭や到来物の饅頭、仏前のお供えや葬式饅頭等々、惜しんで取っておいたものに、黴びが生えたり、堅くなったり、あんこが酸っぱくなったり...ということが各家で起こっていた。とはいえ、甘味が貴重故、捨てるに忍びず、どうにかして食べられないものかと考えた挙げ句、"揚げる" ことを思いついた主婦がいた。主婦は、黴を摘まみ取り、あるいは広汎に黴びていた皮をめくり取って、衣を付けて揚げてみる。ところが、これがけっこういけるではないか。あんこの酸っぱいのも気にならない。火を通したことで食あたりの心配も解消。黴を云々する時代でなかったことも幸いして、饅頭は見事に蘇生!」と、私は、創作 "饅頭の天ぷら創生譚" [7] を開陳。連れ合いは「そやな。そうかもしれん。うん、うん。それにしても異なもんじゃ」と、"天ぷらにされた饅頭" を口に運びながら頷いてくれた。

 思わぬ所で、すっかり頭は会津の郷土料理に持って行かれた体になったが、とにかく店を後にして、駅舎を出た。


 バス[8]の時刻と順路から、当初、予定になかった鶴ヶ城に立ち寄ることにする。
 現鶴ヶ城は、戊辰の内戦に敗れ、明治七(1874)年、本丸など、ほとんどの建造物が破却された後、天守などが再建されたもので、あまり興味は湧かなかったが、蒲生氏郷[9]に所縁ある城郭でもあり、「鶴ヶ城ねえ、人が多そうで気が進まんなあ」と言う連れ合いと ”鶴ヶ城入口” で 、市内循環バス "ハイカラさん" を降りる。

 桜の季節も遠に過ぎた5月も下旬の平日だったが、高校生のグループや観光客らしい人の姿がそこここにあり、連れ合いは「やっぱり人が多いなあ」と言いながら、すたすたと先を行く。
 桜ケ馬場の前を通り、本丸茶屋を過ぎて、”史跡 鶴ヶ城跡” の石柱を横目に見、鶴ヶ城の最も重要な門、北追手門の跡に踏み込む。北追手門跡の枡形を過ぎると、北出丸跡。緩やかな椿坂を上って、太鼓門跡あたりだったか、"これらの枡形って五八の枡形[10]なのかなぁ"と思いながら、枡形を抜け、目をやや左上方に向けると、五層の白い天守閣が目に飛び込んできた。天守の窓には人影の動くのが見える。

 本丸跡地の芝生を左にとる。 "正一位鶴ヶ城稲荷大明神" の鎮座するのが目に入ったので、石段の下に連れ合いを残して参拝。馬洗石や井戸の跡などを見ながら先に進んで、土塁に上がる。
 そのころから連れ合いは、俄然「思いの外、立派な城や」と言いはじめ、「実戦に適した構造やな」、「堅牢な造りの城や。これはちょっとやそっとでは攻め落とせんな」と言い、しきりに堀を覗いては「しっかりした堀や。こんな立派な城やとは思わなんだ」と感心している。そして、ゆっくり土塁の上を歩きながら、周囲を眺め、見渡しては唸っていた。
 私は、堀に泳ぐ緋鯉を見下ろしながら、戊辰の内戦の折の「城溝中死人又多シ」という記述を思い出すとともに、その後に続く、会津の人々の "受難" の日々を思った。

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 「この建物、麟閣かも」と言いながら、木造建築物の背後をまわり、土塁を降りる。再建された天守閣は、私たちにとっては興味の他である。天守へは上らず、本丸の芝生の縁を北出丸へと向かい、鶴ヶ城を後にした。

 江戸時代の鶴ヶ城は、公園として整備された現敷地面積約26万平米の7、8倍もあったらしく、北はおよそ1km 離れたあたりに外堀が築かれていたという。"城" が「石垣や堀などで周囲を囲み、外部から中へは容易に侵入できないような造りになった区域の全体」を言うとすれば、私たちの見た鶴ヶ城は、内堀の内側の、ほんの一部に過ぎなかったというわけである[12]。


 再び "ハイカラさん" に乗って "飯盛山(372m:cf.国土地理院地図)" [11]へ。

 "白虎隊十九士の墓" のある場所へは「動く坂道・スロープコンベア」1号機、2号機を乗り継いで上る( 料金¥250 "ハイカラさん・あかべえ 専用フリー乗車券 (施設割引券) " を提示すると割引がある)。暑い日だったが、汗をかかずに済んだ。
 十九士の墓 他がある "広場" を経て、コンクリートの階段を降りていくと、地元滝沢地区の墓地の中に、小手をかざして鶴ヶ城を遠望する姿の、小ぶりの白虎隊士石像が立つ "自刃の地" に至る。
 会津盆地は、この日、ニュースにもなった気温35°Cの真夏日。市街は靄っていて、目を凝らしても鶴ヶ城を捉えることはできなかった。よし空気が澄んでいたとしても、今やとりどりの高低の、様々な建造物に埋めつくされた盆地の彼方に、いかに城とはいえ、一建造物を特定するのは難しいだろう。
 慶応四年八月二十三日(1868年10月8日)、彼らの見た光景が、黒い甍の低い家並みが点在する会津盆地であったとしても、街のあちこちから上がる煙火の向こうに、鶴ヶ城をつぶさに目視するのは難しかったにちがいない。この地点から鶴ヶ城を望むにはけっこう遠いのだ。

 白虎隊記念館に向かう途中、 "円通三匝堂 (えんつうさんそうどう / 通称:さざえ堂)" [12]に立ち寄る。ちょっと傾いだ感じが心許ない。"入場料" 400円を払って、堂内を一巡する。
 堂内は、当初、西国三十三所観音巡りができるようになっていたようだが、それも今はなく、僧郁堂[13]の木像などはあるものの、仏教の影は微塵もない。国の重要文化財に指定されているというが、ほとんどテーマパークの建造物のような趣である。

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 旧宗像神社、現厳島神社は、思いの外、小さなお社。

 戸ノ口堰洞穴(実は、直径約2m、長さ170mの、山に穿たれた隧道状水路)は、けっこう水量が多く、白虎隊士十六名が傷ついた体で通り抜けるのは難儀だったろうと思う。

  "白虎隊記念館" は、集めた多くの "史料" を、とにかく陳列しただけの施設で、学芸員と言うべきか、Curatorの存在が全く感じられなかった。
 ここでは、戊辰戦争そのものを"科学的"に分析し、奥羽越列藩同盟成立に遡らないまでも、薩長軍の母成峠突破あたりからの "会津戦争" 総体のうちに会津藩士総ての "戦い" を落とし込み、そのうえで、白虎隊という、元服[注:男子が成人の証として髪形をかえ服を改めて、頭に冠を加える。武士の場合は烏帽子名をつける。年齢は11歳〜16歳ごろが多かったといわれる]間もない者たちで構成された隊の戦闘実態を踏まえ、飯盛山に屠腹した16名の隊士(内1名蘇生)に "言及"する必要があるのではないか、寄付金などで運営される民営施設だとしてもちょっとなあ.....と、取り留めなく思いながら、展示物の前を通り過ぎた。
 結局、連れ合いの求めていた "糸口" も見つからなかった。



 翌日、「休暇村 裏磐梯」を目指して、会津若松市を離れる。

 5月の磐越西線は、木々の萌黄にうす紫を散りばめて、襲色目も春らしい磐梯の裳裾をなびかせるように走る。うす紫は、桐と藤。背後に深い傷跡を隠し、車窓に少しずつ角度をかえてゆく磐梯の、なんと雄々しくも端然としていたことか。膝の上の本のことなどすっかり忘れて見とれていた。

 会津は桐の産地。会津桐は目がよく詰まって硬く、木目の美しさで知られる。今ではめっきり履くことのなくなった連れ合いの下駄も会津桐。生活の変化で、伝統産業は衰退を余儀なくされている。磐越西線沿いの "桐たち" も顧みられることなく、やがては姿を消していくのだろうが、この景色のなくなるのは惜しい。


 降り立ったJR猪苗代の駅前は広々として、ロータリー(?)と駐車スペースがあるのみ。近年、列車の駅前は言い合わせたように閑散として味気ない。
 裏磐梯へは路線バスもあったが、"休暇村 裏磐梯" の案内を見ると、午前中にも送迎バスの利用が可能というので、予約を入れて家を出ていた。
 送迎バスを待つ間、駅前の "万平"という喫茶店に入る。古くはあったが、いいオーディオ器機が備えられていて、朝からジャズがかかっていた。この店の当主・万平さんの趣味だそうだ。この日、万平さんは不在。奥方が、私たちにコーヒーを淹れながら、仕切りを隔てた隣りの織物教室で、中年(?)女性にホームスパンの手ほどきをしている。コーヒーが飛びきり美味しかったわけではないが、記憶に残る店だった。


 裏磐梯では、まず休暇村のHPで紹介されていたウォーキングコース「ふれあいの道」12km (240分) を歩くつもりでいたので、休暇村裏磐梯に到着後、フロントにその旨を伝え、地図を求める。だが、その時の女性スタッフは「ふれあいの道」と言われて、即座には理解できなかったらしく、裏磐梯旅館組合の地図を出し 「この道のことだろう」と、鉛筆でザザッと地図上の道をなぞってこちらに差し出した。当地の人間には自明のことでも、訪問者にはそれなりの説明を要することがなかなか理解されない。ちょっとムッとして、心の中で「またか!」と思いながら、この建物を出てどちらの方向に行けばよいのかを尋ねる。道に出た後、左に行けばいいというので、とにかく道に出て左を見ると、今にも降り出しそうな空の下、霞んではいたが、磐梯が大きな傷跡をぱくりと見せて "二つに裂けて" あった。

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 会津を訪ねることにし、未訪の "休暇村 裏磐梯" 訪問を計画に入れてから、連れ合いは、
 「二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
  険しく八月の頭上の空に目をみはり.....
  わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し.....
  この天地と一つになつた」と、
"山麓の二人" のこのフレーズを繰り返し口にしていた。私は「なんでまた『智恵子抄』」と、揶揄した。「年甲斐もなくと、馬鹿にしてるやろ。何でって、磐梯のこと、そう書いてある」と、気恥ずかしそうに笑いながら言った。

 言われたとおり、道を左にとるが、何かおかしい。「ほんとにこれでいいの」と、きょろきょろしながら歩いていると "ライジング・サンホテル" の標示が見える。ここにきてようやく地図が読めた。結局引き返して、パーキング付近から細道に入り、道なりに桧原湖畔に向かう。
 曇り空だったせいか、桧原湖畔探勝路は薄暗く陰気で、モーターボートの基地のような場所を過ぎると、木立の中に使われなくなって久しい小屋小屋が途切れることなく何棟も何棟も見え隠れして不快。中には傾いて朽ちそうな廃屋もあり、何者かが潜んでいそうで気味が悪い。目を水際にやると、ゴミなどが目につく。ポイントによってはモーターボートのエンジン音も耳に障る。湖面は陰鬱だ。
 件の裏磐梯旅館組合の地図には、この探勝路は3.4kmとあり、「湖畔沿いは磐梯山爆発時の顔を出すアップダウンの多いコース。樹海におおわれた歩道は静かでロマンチック、そしてこの地点は平地と山地の野鳥が交流するところ」とある。アップダウンはまったく気にならないが、樹林の中の多くの"構造物"にはほとほと興冷め。東日本大震災に伴う原発事故によって降り積もった放射性物質が因で寂れたコテージ群なのだろうが、とても"ロマンチック"などとは思えない。
 探勝路から飛び出した車道脇には、コテージ村を示す幾つもの古びた"表札"の打ち付けられた棒切れが、所在なげに突っ立っていた。


 五色沼自然探勝路は3.6km。しっかりした道がつけられていて、時折雨の落ちてくるような空模様になっていたが、人の往来がけっこうある。どうやら五色沼は裏磐梯観光の一押しスポットのようで、当地で裏磐梯に行くと言うと、五色沼には是非行くようにと勧められたり、裏磐梯に行ったと言うと、五色沼には行ったかと尋ねられた。

 裏磐梯の湖沼群は、明治21(1888)年7月15日の噴火(水蒸気爆発)で小磐梯が山体崩壊した際の岩なだれによって谷川などががせき止められてできた、自然災害の"痕跡"である。
 中でも、桧原湖は、周囲 37.5km / 面積 10.8平方km / 最大深度 約31m / 水面標高 819m 。300あまりもあるという湖沼の中で最も大きく、渇水期には、湖底に没した旧檜原宿から、高台にあって水没を免れた山神社へとつづく参道の杉並木の根株や鳥居、集落にあった墓石などが姿を表わすという。

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 五色沼も、流下した岩なだれによって埋没したり堰き止められたりした川の、"水たまり"の状態から発した湖沼群で、雪解け水その他、経年の変化で、その後、今ある形になったようだ。名前の由来は、3.6kmの間に点在する沼の色が、ブルーの微妙な色合い(コバルトブルー、ターコイズブルー、パステルブルー、エメラルドブルー、エメラルドグリーンなど)を見せることにある。これらの色の要因は一般に「天候や季節、見る角度、水中に含まれる火山性物質などによると言われる」が、主には、水中の微粒子の大きさやスペクトル(spectrum)によるようで、火山灰土壌中に広く存在する水和物("amorphous"または結晶度の低い水和アルミニウム珪酸塩でできた粘土準鉱物"allophane"など)が作用しているらしい(cf.北塩原観光協会HP)。

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 明治21年7月15日、磐梯の噴火した日は、午前7時ごろに発生した地震が次第に強くなり、7時45分に1回目の爆発が起こる。その後「大きな爆発が15回から20回くらい引き続いて起こって、最後の爆発は北に横向きに抜けたと目撃されている。この最後の爆発の時に小磐梯山北側の山体が崩壊して、山津波のような岩屑なだれ(岩なだれ)となって北麓に流れ下った。このため北麓の5村11集落が埋没して477名が犠牲となった。この爆発に伴って疾風(爆風、ブラスト[注:Blast・突風]、水蒸気爆発サージ[注:surge・火山灰と火山ガスからなる、火砕流より希薄な混合物の流れ])が山麓を下って、特に東側の渋谷村の付近では、多数の木がなぎ倒されたり、家屋が破壊されたりするなどの被害が出た」という。さらに、大きく北に向けて馬蹄形の流れ山地形が形成され、当該地を流れていた長瀬川が埋没。各所で水をたたえていたものが、その後、幾度となく決壊しては土石流や火山泥流となって下流域を襲ったといわれる。
  (cf."過去の防災に学ぶ"(第5回)「1888年磐梯山噴火災害」「広報ぼうさい」No.30 2005.11)
 磐梯噴火から129年、災害の跡地は立派な "観光地" に.....。

 五色沼探勝路を抜け、本降りになりつつあった雨の中、歩く者にとって距離感のつかみにくい道路地図を頼りに、バス停にたどり着く。待つこと小1時間。バスに乗車したのは私たちだけ。本数が少ないわけだ。休暇村の玄関先で私たちを下ろした路線バスは空で走り去った。


 休暇村裏磐梯は、1964(昭和39)年4月、磐梯朝日国立公園内に設けられた裏磐梯国民休暇村として、営業を開始する。当初は、シーズン・オフの12月、1月、2月、3月は営業停止していたが、「営利追求のサーヴィス業ではないのだから単なる経営上の問題から(施設を)閉鎖するのは好ましくない。むしろ閉鎖するよりは、如何にして客を呼ぶかを考える方が先決問題である」と指摘されている(『国民休暇村(調査報告書) 昭和39年度』早稲田大学観光学会編 昭和40年6月)。昔日の感ある記述である。
 施設配置計画図を見ると、敷地内には、宿舎"桧原荘"の他、第2宿舎、ダイニングロッジ、セントラルロッジ、県営山の家や団体宿舎というのも見える。さらには、モーターキャンプ場、野営場、ビア樽バンガローがあり、"博物館"もあって、自然植物園というのも広がっている。
 ここで、敷地(園地)内に県営山の家とあるのを見て、はたと納得。国民休暇村とは、国立国定公園の一定区画に公的施設等を集め、"村"を現出させて、"国民"に国の考える理想的な休暇を過ごさせようとしていたのだ、と。だとすれば、大久野島や紀州加太他の、当初の、レジャーランド(?)を思わせる施設配置計画にも合点がいく。そうだったのだ.....。腑に落ちるのにずいぶん時間がかかった。

 現"休暇村裏磐梯"は、2005年ころには"休暇村磐梯高原"といった。
 今ある鉄筋コンクリート2階建ての施設は2001年に築造されたもので、当時は、
       客室数:60室(和室:28室 / 洋室:32室)  定員:256名
  建造年が比較的新しいせいか、和室の多い休暇村の施設にはめずらしく、洋室が多い造りになっている。現在も客室数そのものに変化はないが、宿泊定員が 176名と、ゆとりある設定に変わった。
 当時の紹介文には「桧原湖の南岸から小野川湖西岸に続く広大な緑の中に建つ。119haを占める敷地内には遊歩道がめぐり、宿泊施設の本館をはじめ各種レクレーション施設がゆったりと配置されている」として、「テニスコート8面(サンドフィル4面・AW4面)、キャンプ場(300サイト、テントほか貸し出し用品一式完備)、芝生広場があるほか敷地内でサイクリング、クロスカントリースキー(5・3・1.5kmの3コース)。ゲレンデスキーは付近に点在する数カ所のスキー場で」等と記されている。

 その後、2008年ごろには、敷地面積が93haになり、テニスコートはサンドフィルが4面に。空撮映像には多目的広場や休暇村ホール(何の催しが開かれるのだろうか)などの施設が写し出されている。
 最新(2018年2月発行)の情報誌によると、休暇村裏磐梯の喫茶コーナーが「装い新たにアウトドアステーション「森のカフェ」として生まれ変わりました。周辺エリアで体験できるアクティビティ情報提供や、VR(バーチャルリアリティ)を使い視覚でアクティビティ体験なども楽しめます」と紹介されている。「映像を利用して、裏磐梯の春夏秋冬多彩な自然とアクティビティ」が体感できるようだ。ならば、HPで紹介されている"道"の地図などは、スタッフが折々実際に歩いてみて、初めて当地を訪れた者にも距離感の掴めるリアルな地図を、是非とも独自に用意してほしいものだ。周辺環境も変化しているのだから。


 ところで、当休暇村の浴場には、ナトリウム硫酸塩・炭酸水素塩泉が湧出しており、動脈硬化症や火傷、切り傷、慢性皮膚病、慢性消化器病等に効能があるという。"こがねの湯"と名付けられた湯には鉄分が多く含まれているらしく褐色。白いタオルをうっかり浸してしまうと、薄茶色に変色する。お湯そのものは、それほど長く浸かっていなくてもよく温もった。
 当浴場の形態がまた特徴的で、「女湯」のスライドドアを開けると、すぐ右手にサウナ、その斜め向かいに寝湯が4基だったか(?)並んでおり、バブルの放出もある様子(生憎私の行った時は故障中)。それらの間の細長い廊下状の通路を行くと、左に湯船、右にカランの列があって、その左手奥に露天風呂があるという、全体に"細長い"形の、ちょっと印象的な造りである。「男湯」は反転の構造になっているのかも。

 部屋にくつろいだ後は夕食。食事会場は多くの利用者で賑わい、全体に落ち着かない雰囲気だったが、私たちの注文した「春のコース」の "筍・蕗・桜麩・山うどの焚合せ(ママ)" 他、煮物の舌に残る印象は、殊の外よかった。煮物の味など、どこも同じようなものだが、めずらしく"上手くできているな"と思ったことだ。
 翌朝の食事会場も、声高に話しながら動きまわる年配者たちで落ち着かなかったものの、スタッフの細やかな気配りが好もしく映る。"目玉焼き"コーナーの若いスタッフは、ちょっと頼りなげだったが、親切な青年だった。

 

 早々に朝食を済ませ、部屋に戻って、帰り支度を整え、帰途に就いた。たった1泊の短い逗留であった。

 帰り際、スタッフと交わした短い会話の中で、東日本大震災の際には、標高の高いこの地も激震に襲われて、道路が閉ざされ、しばらくの間、高原から下に降りられず、陸の孤島と化してしまったことや、休暇村施設の壁や天井が剥がれ落ち、電気も途絶えて大変だったことを知った。その時宿泊していたなら、私たちはどうしていただろう.....。心の備えはいついかなるときにも必要なことを改めて思う。




 かつて、「国民家族の健全な休暇はかくあるべし」とする、国主導の"国民休暇村"構想は、時代の変遷とともに変容を迫られる。経済情況の変化に伴い、国民の意識自体が大きく変わったのだ。
 大久野島や紀州加太の項でも触れたように、いつのころにか、広い敷地にあった遊戯施設や劇場、植物園や博物園、ロッジやその他の宿泊棟等々は撤去された。休暇村裏磐梯も同様。跡地は園地として整備され、残されたメインの宿泊施設は改築、増築がなされて、"ホテル"と称するところも出てきている。2001(平成13)年には、名称から"国民"の文字が除かれ、"商標"(?)としての"休暇村"という名のみ残された。今では、当初"国"の構想した"国民休暇村"の形は留めていない。
 近年、休暇村のパンフレットや部屋に備え付けの案内には、英語や韓国語、中国語等での説明が加えられるようになった。一部の部屋が "和洋室"に増改築されるケースも増えた。和洋室とは、洋室に畳スペースを設けたり、部屋自体を畳敷きにした"和洋折衷"の部屋のことで、外国人観光客の喜びそうなスタイルである。政府の、国立・国定公園への外国人観光客誘致計画発表(2017年)に伴い、休暇村の"国際化"が進んでいるかに見える。「国際休暇村」となるのも、それほど遠い日のことではないのかもしれない。

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[注]
[1] 通釈「坂下[バンゲ]村の南会津城までの道路、敵[賊軍=会津軍]の死者は数え切れないほど多い。(官軍が)殺害した死人に気分は堪えがたい、城の堀の中における死人がまた多い。奥羽口の官軍が、町中の多くの侍の家屋を打ちこわし、家財を奪い取る。(さらに)その度を越して商家に押し入り、家財を奪い取って、それらを売る(ための)店を町中に開き、農民にそれら奪い取った家財を売る。ああこれを嘆かわしく思い、これを残念に思う」

[2] "海老芋と棒鱈の炊き合わせ"を売りにする、享保年間(1716〜1735)に創業の老舗。一子相伝の味で今に名を馳せる。 "いもぼう 平野屋本店" のHP には、故事来歴が詳細に述べられている。

[3] 18世紀ごろの蝦夷地では、ニシン漁が盛んになったことから「漁民からの支払いはニシンで支払う方法をとっており、米ができない土地でのニシンの価値は大きかった。通常ニシンは「鰊」の字を使うが、松前藩では「鯡」と書いた。つまり「ニシンは魚に非ず、海の米なり」ということで重要な食料とみなしている。『魚名考』の中に「『ニシン』は二身の意、身を二つに割ることの意。(中略)『カド』[筆者注:ニシンの異名]の内臓を除き二つに割きて干したるものを『ニシン』とよぶ。腹部の方は肥料となし、背肉の方を『ミガキ』と称して食用とす。多くは貧人の食となる」と記されている。
 また江戸時代に書かれた北海道見聞記『東遊記』によると「背の方を身欠きと唱えて下賤のもの[ママ]食物となる。上方の煮売り店専らこれを用ゆ」との記述があり、ニシンの本体を身欠きニシンとして、そしてその他を乾かせて肥料として出荷したようすを伝える。松前では貴重な食糧としていたにも関わらず、他の地域の人からは蔑視されていたようだ。
 漁場の開発と漁具の改良でニシンの漁獲量は増大し、腹部を干した端ニシン、背部を干した身欠きニシン、カズノコに分けられ、端ニシンや油を絞った後の「〆粕」が肥料とされた。江戸時代初期にはイワシが魚肥となったが、ニシンのほうが効果が大きいことからイワシにかわる肥料としてニシンが登場し、多くが肥料として出荷された。
 魚肥の需要拡大の要因は全国の藩が殖産事業の振興に力を入れ肥料の需要が増大したことによる。とくに藍、綿、ナタネ、タバコの栽培のための肥料として重要で高級な肥料であり、金を払って買う肥料であるということから「金肥」と呼ばれた。
 一方、若狭から京に運ばれた身欠きニシンは、油臭い、渋い、堅いとクセのある食材であるが、海に遠い京の人々は夏場の大事な滋養源として、また毎月決まった日に食べる料理[筆者注:おきまり料理]として大切な存在となり、さらに名物のニシンそばを誕生させている。庶民の間のおばんざいとしてナスとニシンの炊き合わせを京都では「ニシンとナスのたいたん」と称されて親しまれている」
『近江商人と北前船』(淡海文庫20) 淡海文化を育てる会 企画 サンライズ出版 2001年2月 pp.156〜159

[4] 北前船とは、江戸時代に開発された西廻り航路の海運業に携わった北国の船の通称で、蝦夷地から日本海沿岸を西へと進み、瀬戸内海に入って大坂へと向かった廻船のことである。
 「蝦夷地の江刺・松前・箱館では身欠鯡・鯡〆粕・白子・マス・昆布・材木などを、陸奥の野辺地では大豆を、新潟では米・大豆を買積みする。これらの品物のうち蝦夷地の海産物は越中より西の諸湊で売り払ったが、最も多く売りさばかれたのは大坂・兵庫である。帰りの船は大坂や瀬戸内の湊で砂糖・塩・和紙・茶・綿などを積み、出羽の酒田、越後の新潟などで積荷の一部を売り払い、多くは江刺・松前へと運んだ。この他、津軽藩の蔵米・大豆を鰺ヶ沢より大坂まで賃積みで回漕するなど、大名の蔵米輸送にも時として携わった」
    『近江・若狭と湖の道』(街道の日本史31)  藤井讓治著 吉川弘文館 2002年1月 p.194
 北前船の立ち寄った湊をざっと辿ってみると、蝦夷の江刺・松前、陸奥の野辺地・青森・鰺ヶ沢、出羽の能代・秋田・酒田、越後の新潟・出雲崎、佐渡の小木、越中伏木、能登輪島、越前三国・敦賀、若狭小浜、丹後の宮津、出雲の境、石見の浜田、長門の下関、周防の三田尻、備後尾道、兵庫、大坂などが挙げられる。
 会津には、北前船によって蝦夷地から新潟に運ばれた棒鱈やニシン等が、阿賀川を利用して廻漕されているし、京都に至っては、中世、北国の産物は、畿内への中継地である敦賀や小浜に陸揚げされ、近江の塩津あるいは海津に運ばれて、湖上を大津へと廻漕されたうえ、大津や京都で売りさばかれた。だが、西廻り航路が開発されると、敦賀や小浜から何度も積み替えをする輸送は経費がかさむため、多くは瀬戸内を通り直接大坂に輸送されるようになったようだ。いずれにせよ、北前船によって蝦夷から運ばれた棒鱈やニシンは京都にも届き、しっかり根づいている。
 これら棒鱈やニシンは、会津、大阪、京都だけでなく、北前船の寄港地を基点に、何らかの手段で内陸各地へと運ばれ、人々の食卓にのぼっていたにちがいない。時代を勘案すれば、調理法がそれほど多彩であったようにも思えないので、捜せば、似たような "郷土料理" が各地に残っていることだろう。
 ところで、上記"阿賀川"とは、福島県西部、会津盆地を流れる川で、栃木県との県境にある荒海山(1581m)に源を発し、会津盆地で日橋川と合流。さらに、尾瀬に源を発する只見川と合流するのだが、その流れの、福島県と新潟県の県境までを "阿賀川"と呼び、新潟県に入ってからは、"阿賀野川" となる。日本海に注ぐまでの延長210kmのうち阿賀川は123km。江戸時代には会津米の輸送路として重視された。

[5] この間、数ヶ月、前福井藩主松平慶永が京都守護職を勤めており、ブランクはあるが。

[6] 「にしんの酢漬け」は、桶の底に笹の葉を敷き、その上に "炊きたてご飯と塩を混ぜたもの"を載せ、その上にニシンを並べる。さらにその上に "炊きたてご飯と塩を混ぜたもの" を載せるという作業を繰り返し、桶の八分目まで並べたら、その上を笹の葉できっちり覆った後、重石を載せ、新聞紙で覆いをして保存。漬けてから2ヶ月くらいで食べることができるという、所謂「いずし」である。
 その昔、会津の南郷村周辺では、鮠や鮎などの川魚が用いられていたが、ボツリヌス菌による食中毒が発生したため、昭和30年ころからはニシンで作られるようになったらしい。

 

[7] 普茶料理の油ジ[米+茲]に、変わり種として "饅頭"の登場することはあったが、甘い"餡子" が入っていたような記憶がないので、饅頭の天ぷらのルーツが "油ジ" [注:下味をつけた野菜などを胡麻油で唐揚げにしたもの] にあるようには思えない。
 帰宅後、調べてみると、会津における "饅頭の天ぷら"は、100年以上前から会津の人々に親しまれてきたそうで、"お八つ" としてだけでなく、"おかず" としても食べられており、蕎麦つゆに浸して食べる人もあるという。
 一説では「仏前に供えて硬くなったまんじゅうを油で揚げてもう一度軟らかくおいしく食べられるようにしたのが始まりとも言われる」とある。私の仮説は当たらずといえども遠からずというところか。
 他説としては、吸い物に使われる、饅頭の形をした "まんじゅう麩"を揚げて食べていたものが、やがて麩ではなく甘い餡子の入った饅頭を揚げて食べるようになったとするものもある。
 現在、会津では天ぷら用饅頭が市販されているという。
 ちなみに、長野や山形あたりでも饅頭を天ぷらにして食べる地方があるらしい。

[8] 駅前広場にある仮設(?)の会津バス駅前案内所で1日乗車券 (「ハイカラさん・あかべえ:専用フリー乗車券[1日券 / 大人券500円]) を購入することができる。
  "ハイカラさん" 、"あかべえ" とは、市内の観光地を互いに逆回りで巡る小型バスの名称である。

[9] 蒲生氏郷 [弘治二(1556)年〜文禄四(1595)年] 安土桃山時代の武将。
 近江日野城主賢秀の子。幼名、鶴千代。洗礼名、レオ [天正十三(1585)年受洗] 。
 織田信長、豊臣秀吉に仕え、伊勢松坂城主となり小田原征伐の功によって、天正十八(1590)年、会津を中心とした陸奥・越後12郡42万石に移封される。
 氏郷は、会津に移封された際、黒川城と呼ばれていたそれまでの "城" の大改造に着手するとともに、城下町を整備。文禄二(1593)年には、望楼型七重(五重五階地下二階)の天守をはじめとする本丸を完成させ、名も鶴ヶ城と改める。また、松坂や近江より漆器職人、木地師などの技能集団や商人などを移植。産業の振興に努め、町の名も黒川から若松へと改める。
 さらに、その後の功により陸奥・出羽7郡18万5000石が加増されて、総石高91万9000石余[検地:文禄三(1594)年)]の大大名となる。

[10] "五八の枡形" とは、五間(9.1m)掛ける八間(14.5m)の枡形で、武田の伝統的枡形とされる。 「『五八の枡形』という枡形の大きさの基準は、近世城郭の枡形の標準ではなく、むしろ中世城郭の枡形の平均規模に近いと思われる」
   (cf.「城郭の立体的構成と規模に関する基礎研究」赤見将也・新谷洋二 /「土木史研究」第18号 1995年5月 所収)

[11] 大阪生まれの私にとっては、 "飯盛山"と言えば、楠木正行が高師直軍と戦って討ち死にを遂げた、かの古戦場を山麓に擁する生駒連山の一峰であり、山頂に三好長慶の居城であった飯盛山城が、また、付近には "野崎参り" で有名な(?!) 野崎観音(開山:行基。曹洞宗 福聚山 慈眼寺)のある山であり、さらに、少々馴染みは薄いものの、和泉山脈の西端にある飯盛山がすぐ頭に浮かぶ。ちなみに、行ったことはないが、京都府城陽市にも飯盛山(162m)という名の山はある。
 このように、飯盛山(いいもりやま / めしもりやま)という名の山は、全国各地(関西から九州地方にかけて多い様子)に、けっこうあるようで、柳田国男は「民俗學上に於ける塚の價値」という表題のもと、「飯盛山と飯盛塚」について、以下のように述べている。
 「大和、河内のあたりを旅行すればよく見られる。旅行しなくとも、二萬分の一の地圖を見ればよく解る。あの邊には、古墳の上に住んで居る村がある。河内國北河内郡田村附近には二つも其例がある。村民は、古墳の中に住み、其周圍の濠を灌漑用水に利用して居る。南北朝以後になると、古墳に城を築き、其石材を防禦工事に用ゐたりして居る。(中略)
 日本人少なくとも田舎の日本人には、高い所で神を祠る習慣が古くからある。これは、古木、立岩の信仰と關連して居る。高い所と言へば山であるが、同じ群山中に神を祠るにも、必ずしも一番高い嶺へ上らずに、寧ろ形の整つた孤峰を選んだ。飯盛山の如きは、其一例である。飯盛山の記事の舊いのは、既に奈良朝のものに見え、播磨風土記にもある。續日本紀にも、飯盛山の石を移して祟があつた記事があつたと思ふ。
 飯盛山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似て居るから此名があると云ふが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めて居るだけでも、全國に亙つて百以上もある。何れも形の整つた孤峰であるが、一方には、飯盛塚と云ふものが無數にある。單に形似の偶然によつて、氣輕に命名したとは到底考へられない程無數にある。(以下、略)」と。(cf.『定本 柳田國男集』第十二巻 pp.512〜513)
 "会津飯盛山" にも、頂上部に4世紀前半ころのものと推定される、全長65mの前方後円墳が、主体部未発掘ながら、確認されており、一箕古墳群に属する前方後円墳継続型古墳だといわれる。
 前方後円墳継続型古墳とは「前方後円墳のみからなる首長墓系譜。福島県では会津盆地東南部に位置する会津若松市の飯盛山古墳、堂ヶ作山古墳、会津大塚山古墳からなる首長墓系譜がこれに該当」する。
(cf. 公益財団法人 福島県文化振興財団 遺跡調査部 "調査研究コラム" #048「前方後円墳の思想」青山博樹)
 中でも、大塚山古墳は「東北に存在しないとされていた古墳時代前期(4世紀)の文化を初めて実証した前方後円墳」で、墳丘全長114m、後円部径70m、高さ約10m、前方部前幅54m。「東北地方では第4位の規模を誇る古墳。4世紀末の築造と推定」されており、この古墳からは「三角縁神獣鏡や環頭太刀、玉頭や鉄器類などが次々と出土(18件370点余が国重文)。古代東北史を書き換える発見として脚光」を浴びている由。
 (cf. 「平成25年度 歴史と伝統が息づく東北 "みちのくに発掘プロジェクト"」基礎調査事業に関する業務「業務報告書」 経済産業省 東北経済産業局)
 さらに、「南北朝以後になると、古墳に城を築き、其石材を防禦工事に用ゐたりして居る」と、柳田国男が記す例同様、会津飯盛山山頂にも山城が築かれたらしく、歴史的には明確ではないが、会津の戦国大名葦名[蘆名・芦名]氏が、居城黒川城[現 会津若松城]防衛の支城群の一つとして築いた城砦だとされている。城そのものは、古墳の後円部を平坦化して主郭[直径20m程度]にした、比較的規模の小さいもので、狼煙伝達の役目を担っていたという。
 さて、会津飯盛山の山の名については、14世紀も末(1381〜1383)のころのこと。当地の豪族三家(石塚・石部・堂家)が辯財天を勧請、主祭神の市杵島姫命(宗像三女神の内の末の姫神)の分霊を祀る社殿として宗像神社を当地に建立したことから "辯天山"とも呼ばれたらしい。
 だが、一方、 "飯盛山"という山名も、この時、同時に起こっている様子。あくまで伝説だが、霊妃の"お告げ" により創建されたとされる宗像神社、その社殿造営中に、霊妃の従者である童女たちが現れ、人夫たちに小豆飯を振る舞ったという。だが、この小豆飯、人夫たちがいくら食べても減ることがなかったことから"飯盛" という名が生じ、"飯盛山" と呼ばれるようになったというのである。
 一般に「山の形が飯を盛り上げた形に似て居る」という理由で名付けられた山ではなかったようだ。では、それ以前、この山は、いったい何と呼ばれていたのか、寡聞にして知らない。

[12] 『新編会津風土記』には、寛政八(1796)年に建立された高さ16.5mの六角三層のお堂。正宗寺(明治の廃仏毀釈で廃寺)の住職郁堂の考案した建物、とある。
   また、三匝堂は「秩父三十四所、東国三十三所、西国三十三所の観音札所の本尊を写して一堂に集めた巡礼観音堂であり、通常三階造りの堂内をぐるぐる回って上ってゆくところから続にさざえ堂と称された。江戸本所の羅漢寺に1780年(安永9)に建てられたのが最初....(中略)......関東にはこれに模したものが数ヶ所見られ、当時観音信仰が盛んであったことがわかる。ただし、会津飯盛山旧正宗寺のさざえ堂は特殊な例で1796年(寛政8)僧郁堂が考案建造、六角塔状の建物の中心部に西国三十三観音像を二つの螺旋状スロープに沿って配置した。つまり正面から上りスロープを参拝しながら頂上に至り、別の下りスロープに移って続いて巡拝しながら裏口に降りるようになっているもので、このような建築は世界にも例を見ない独特なものである」とする "日本大学理工学部教授小林文次博士"なる人物の解説文(大日本百科事典よりの引用)が、入場券購入時に手渡される"しおり"に掲載されている。

 

[13] "郁堂" は、正宗寺に円通三匝堂を建立した臨済宗妙心寺派安吉山実相寺の禅僧。正宗寺は実相寺の末寺であった由。

          
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