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休暇村あっちこっち

休暇村 館山






[休暇村 館山へ]

 東京湾を挟んで向かい合う房総半島と三浦半島には、地理的に、明治の早い時期より、"帝都" の守りとして、多くの要塞が築かれたであろうことは予想していたが、館山を訪れ、偶然手に取った小冊子『あわ・がいど 1』(NPO法人 安房文化遺産フォーラム編)によって、それが予想どおりであったことを知った[1]。
 知らなかったのは、この地に、1945年9月3日 午前9時20分──規模は大いに異なるものの──、 ノルマンディー上陸作戦さながらに、アメリカ軍将兵3500名が揚陸艇によって上陸したことである。

D-day.jpg
ノルマンディー上陸作戦の"図"と見紛うばかり。かつてこんな日が実際にあったのだ。

 上記『あわ・がいど 1』には、
「東京湾口に位置する房総半島南端の館山は、戦略上の最重要地点であったため、本土決戦上に想定されていただけでなく、敗戦直後はアメリカ占領軍本体(「ピンチ・ムーブメント」と称する東京湾を挟み撃ちしていく作戦)による初上陸地点となった。
──中略──
 1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号において、降伏文書調印式がおこなわれた。翌3日の午前9時20分に、カニンガム准将に率いられた米陸軍第8軍第11軍団の3,500名は上陸用舟艇を使って上陸してきた。その上陸地点の一部は現在造船所として使われているが、当時のコンクリート製滑走台[注:館山海軍航空隊水上班滑走台」跡が今も鮮やかに残っている。
 8月30日、マッカーサーが厚木に到着後、翌日に館山湾と富津(ふっつ)岬を制圧するために先遣隊を上陸させた後に、東京湾を制圧するために対岸の横浜の部隊とともに、館山上陸の占領軍は挟み撃ち作戦を実施していったのである。上陸直後、軍人や市民たちの妨害を警戒した占領軍は、館山において「4日間」ではあるが、本土で唯一の「直接軍政」をおこなったといわれる。「館空」[注:館山海軍航空隊]基地から、戦後の占領政策がスタートしたことは意外に知られていない」と、ある。

 

 1945(昭和20)年8月30日、厚木飛行場に降り立った連合軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー[Douglas MacArthur (1880ー1964)] の姿や、続く9月2日の米戦艦ミズーリ(Missouri)上での降伏文書調印式の "図" などは目にすることも多いが、カニンガム[Julian Wallace Cunningham (1893ー1972)]准将[1]率いる米陸軍将兵3500名の館山上陸写真はついぞ目にしたことがなかった。

 

 「南房総の主な戦争遺跡」を『あわ・がいど 1 』によって、北から順に列挙していくと、
 *第18突撃隊 特攻艇「震洋」勝山基地跡
 *第18突撃隊岩井袋本部特攻基地跡
 *特攻隊「桜花」下滝田基地」跡
 *大房岬砲台関連施設跡(砲台・弾薬庫・発電所・観測所)
 *水陸両用戦車基地跡
 *探照灯関連施設跡
 *魚雷射堡基地跡
 *1945年9月3日アメリカ占領軍上陸地点
 *館山海軍航空隊
 *大網高角砲台
 *城山高角砲台
 *館山海軍航空隊赤山地下壕跡
 *館山海軍航空隊 戦闘機用掩体(壕)
 *洲ノ埼海軍航空隊 射撃場跡
 *「本土決戦」抵抗拠点 128高地「戦闘指揮所」「作戦室」地下壕跡
 *「噫従軍慰安婦」石碑
 *第18突撃隊 特攻艇「震洋」洲崎基地跡
 *第18突撃隊 特攻艇「震洋」波左間基地跡
 *東京湾要塞・洲崎第2砲台跡
 *東京湾要塞・房総地区洲崎弾薬支庫
 *東京湾要塞・洲崎第1砲台跡
 *谷藤原東高地塹壕跡
 *館山海軍砲術学校跡
         ボイラー室跡
         平和記念塔
         訓練用プール跡(パラシュート)
         高角砲東砲台跡
         射撃場跡
 *布良陣地群跡
 *海軍大山レーダー基地跡
 *陸軍城山レーダー基地跡
上記、26の施設跡が記されている。


 以前、"休暇村大久野島" はかつての芸予要塞の、 "休暇村紀州加太" は由良要塞の一画をなす加太・由良要塞の "中" に位置していることはそれぞれの項で触れたが、"休暇村館山" も東京湾要塞地帯に位置していた。それも、館山から洲崎に向かう、"要塞" の点在する道路、県道257号南安房公園線沿いに建つ。
 周辺は南房総国定公園に指定されたエリアで、施設の背後はすぐ海。休暇村 館山のパンフレットによると、「三方を陸に囲まれた南房総 館山の海は波静かで、別名「鏡ヶ浦」とも呼ばれ」るらしい。黒潮の影響を受けて気候も温暖。晴れて条件のいい日には、館山湾・東京湾越しに三浦半島から、遠くは富士山まで望むことができるという。
 1964(昭和39)年7月、"国民休暇村 館山" として開業した当時の建物は、1993(平成5)年に増築リニューアル。さらに10年後の2003(平成15)年には改装がなされており、当時の情報誌などでは「海際の白い建物と緑の芝生が、南房総ならではの青い海によく映えリゾートムードもいっぱい」と宣伝されている。
 施設は、鉄筋3階建て
     客室数:73室 [和室:47室 / 洋室:26室]
     宿泊定員:240名
付帯施設として、すでに "天文台(天球館)" があったようだが、温泉の湧出はなかった。
 2006(平成18)年12月、再び、一部客室を "和洋室" にリニューアル。
     客室数:77室 [和室:44室 / 洋室:27室 / 和洋室:6室]
     宿泊定員:242名
となる。
 時期を同じくして、温泉館の案内が登場し、露天風呂のできたことがわかる。案内には「温泉は "ナトリウム─塩化物冷鉱泉" 。海水に似た食塩を含み、無色透明の湯で、日本で一番多いタイプの温泉です。保温効果が高く、湯冷めしにくいのが特徴です。血液の循環がよくなり、冷え性や疲労回復に効果のある温泉。殺菌力が強くて痛みをやわらげる鎮痛効果もあります」とある。「花海(はなみ)の湯」と名付けられたこの温泉は、「前面が総ガラス張りの大浴場と海側に突き出た位置の露天風呂。館山湾越しに三浦半島、時には富士山などが一望できます」として、"休暇村 館山" の "売り" となっている。



 東京駅では、案内板を見ながら、二人で八重洲南口を目指す。
 "東京─館山・安房白浜間" を走る高速バス「房総なのはな号」の切符を予約した際、電話口の女性が「八重洲南口の改札を出て直進。高速バスの並んでいるのが見えます。そのずらっと並んだバス停を前に見ながら建物を出て右に曲がります。切符売り場は9番バス停の前あたりです。そこで予約番号を告げ、切符を受け取ってください」と、教示してくれたのだ。簡にして要を得た説明に、初めての地で、迷うことなく切符売り場に"たどり着く"ことができ、難なく切符を受け取ることができた。



 東京を離れ、一路房総半島へ。
 東北ほどではないにしろ、遠いなあ.....と思っていた房総半島にも昼前には到着。
 その足で「那古船形」にある大福寺(崖の観音)[2]に行こうと、JR内房線館山駅駅舎2階の改札に向かう。時刻表を見ると、列車は出たばかり。次の列車まで1時間あまり待たねばならない。それではと、新宿中村屋にゆかりあるパン屋があるというので、そのパン屋を探し、昼食にする。食後、レジで、"崖の観音" に行きたいのだが、と尋ねると、 "なむや[3]"行きバスに乗ればよいと教えられ、詳細は駅前にある観光案内所で尋ねるよう促される。案内所で、列車よりバスの方が下車後の歩行距離が短いことを知る。

 小1時間待って "なむや"行きバスに乗車。15分ほどで "崖観音前" に到着。下車してすぐの道の角、"大福寺(崖観音)" への道標があるポイントから見上げると、崖の中腹に "赤い建造物" が見える。"大福寺まで2分" という案内がにわかには信じられない距離に思えた。帰りのバスの時刻まで30分。行って戻って来なければ、次のバスは、さらに1時間後になる。二人で小走りに走った。

Gakekannon.jpg
本堂の前より見上げた観音の堂宇。
         露出した背後の岩が屋根に被さるようだ。

 大福寺の境内は静かで、人影はない。拝観料徴収の様子もなく、納経所にも人影はなかった。本堂に拝礼、観音堂[4]に急ぐ。崖から滴る水で濡れた階段を駆け上がり、靴を脱いで観音堂内部に。連れ合いは、引き戸からちょっと首を差し入れ、観音像の見えないことを確かめると、堂内には入らず、 "舞台" に立って眼下に広がる館山湾と周辺の景色を眺めていたようだ。
 十一面観音像[5]は"幕"の中にあって、全体像は "拝めない" 。両に分けられた幕の裾から覗いてみようとしたが、手前に仏具などもあって、よくは見えなかった。
 再び、濡れた階段を駆け下り、放火によって焼失したという隣の諏訪神社[6]お社跡に立ち寄って、小走りに走って、なんとかバスには間に合う。
 一旦、館山駅前に戻り、"休暇村 館山" へ。


Tate-shikiti.jpg
1964(昭和39)年「館山国民休暇村」営業開始当時の図面。
沖ノ島にも施設があった。

 先にも述べたが、"休暇村 館山" は、県道257号南安房公園線と館山湾に挟まれた細長い敷地に建ち、建物はそのまま浜辺に続いている。
 休暇村に向かうバスの中で、乗り合わせた地元の老婦人たちが、互いに被害の有無を尋ね合い、交々に高潮の恐怖を語り合っていたのを小耳に挟んでいたが、到着時、フロントで説明されたのは、台風21号[最低気圧:915hPa ・ 最大風速:50m/s 、 2017(平成29)年10月23日、静岡県掛川市付近に上陸。関東地方を通過し、東北沖に抜ける]による高潮で、建物1階が浸水。より海に近い、奥のエレベーター1基が、今も使用できない状態にあるということだった。
 台風21号襲来当日の千葉県館山市布良(めら)における最高潮位は、大潮と重なり、174cmにも達して、観測史上1位を更新したという。東日本大震災の折には地形が幸いして津波被害はなかった由だが、この度の高潮は津波に匹敵する驚異だった、と聞いた。


 翌日は、まず、青銅製の大きな涅槃仏があるという "常楽山 萬徳寺" へ。
 再度、JR館山駅まで出た後、国道410号線を南下(?)する安房白浜行きバスに乗り換え、"萬徳寺" 最寄りの "安房神戸" で下車。バス停周辺を見回すも、案内が何もない。館山駅に戻るバスの時刻を見ると、1時間ほどしかなく、焦る。
 コンビニで尋ね、ようやくわかった"寺" はコンビニの "隣" 。赤く塗られた柵や門(?)が妙に引っかかる。坂を上り、角を曲がると、受付らしい小屋があったが、日に焼け色褪せて古びたカーテンが窓口を覆っている。小屋は使われていない様子。さらに少し進み、絵馬(?)のようなものが "つらくって" あるところを通過。次の角にあった軒の低い、いかにも簡易然とした建物の軒下に御札が並べてあったが人影はない。
 拝観料はどこで払うのだろう、と話していると、どこからともなく、洗い晒したかに見える薄い布をサリーふうにまとった若い女性が現れ、「拝観料はこちらで」と声をかけられる。涅槃仏は、さる尼僧が "仏の受記を得" て発願、建立したものだとの情報を得ていたので、「比丘尼さんですか」と尋ねるが、怪訝な顔をされたので、「尼僧さんですか」と、尋ね直す。違う、との返事。
 年齢を尋ねられ、私たちの拝観料は400円に。テント下の御札授与所(?)で、二人分800円を納めた後、件の彼女から、右繞三匝の礼拝の "指導" を受け、大きな青銅製ブッダが横たわる螺旋状の基壇を巡って、教わったとおり、最上層に達したところで像に拝礼。

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  像に浮き出た薄青い"線" が鋳造した各パーツを接ぎ合わせたことを物語る。
   中は空洞?!

 お堂の所在を尋ねると、敷地全体が聖域になっていて、建造物はないとのこと。背後の丘(?)の上に、パゴダのあるらしいことを後で知ったが、その時は知らされなかった。
 それよりも何よりも、この "寺" の敷地に入ったあたりから、私の心は妙に落ち着かず、とにかく早く "ここ" から離れたいという思いが募っていたので、早々に去る。


 再度、JR館山駅に戻り、次は "洲崎神社" [7]に。
 神社は休暇村の先にある。伊戸漁港方面行きバスに乗って、休暇村前を通過、 "洲の崎神社前" で下車する。今度は、看板もあり、スムーズに神社鳥居の前に立つことができた。見ると、目の先に石段が屹立している。近づくにつれ、石の階段はより急勾配に見えた。この急な148段の石段を"厄祓坂" といい、「急峻な石段を敬虔な気持ちでのぼり参詣することで、厄落としが出来る」というのだが、俄然 "闘志" が湧いてきて、二人で一気のぼりした。

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高さ約15mの神明鳥居に大注連縄がかかる。
その奥は随身門。急峻な石段には気圧される。

 "安房國一宮 洲崎大明神" の扁額かかるこの神社は源頼朝所縁の神社だというので、『吾妻鏡』[8]に当たってみた。結果は以下のとおり。
 治承四(1180)年庚子、後白河天皇の第三皇子以仁王(1151〜1180)[三条宮、高倉宮とも]の平家追討令旨に応じて東国各地に源氏が蜂起。
 伊豆の流人であった源頼朝は、
治承四年庚子八月小
 廿日、庚子。・・・(よりて)武衛[源頼朝]は、まず伊豆・相模両国の御家人ばかりを相率いて伊豆国を出で、相模国土肥郷に向かって行かれた。

 廿三日、癸卯。曇り。夜に入って激しい雨が[まるで]沃ぐようであった。今日寅の刻[午前4時]、武衛が北条(時政)殿父子、[安達]盛長、[工藤]茂光、[土肥]實平以下三百騎を率いて相模國石橋山に陣取られた。この間、件の令旨を[頼朝は]御旗の横上に付けられ、中四郎[中原]惟重がこれを持った。また、[永江]頼隆は白幣を上箭に付け御後に侍っていた。この時、同國[相模國]の住人大庭三郎景親、・・・・・並びに熊谷次郎直實以下平家被官の者たち三千余騎の精兵が、同じく石橋あたりに在り、両陣の間は一つ谷が隔てていた。
       (中略)
[大庭三郎景親等は]相議して言った。今日はすでに黄昏だと言えども合戦をしおおすべきである。明日を期せば三浦の者共が馳加わり、[頼朝方は]きっと、なかなか、気力を失って敗れる[というような]ことはないだろう、とのことで、衆議を尽くし終えた。[そして]数千の強兵が武衛の陣を、不意打ちをかけて攻めた。そこで、源家の従兵を数えると、かの[景親らの]大軍に比べ難いとはいえども、皆旧好を重んずるによって、ただ命を捨てる覚悟で全力を尽くすことを乞い願っていた。それ故、佐那田余一義忠、ならびに武藤三郎及び郎従の豊三家康等が落命する。景親はいよいよ勝ちに乗じた。明けがたになって武衛は杉山の中にお逃げになった。時に疾風が心を悩ませ、暴雨が身を苦しめた。景親はこれを追い申し、矢石[矢と弩]を放っていたところ、[飯田]家義は景親の陣中に相交じりながら、武衛を逃し申し上げるため、自分の衆を六騎に引き分けて景親と戦わせ、もって[武衛は]この隙に杉山にお入りになった。

 廿八日 戊申 ・・・武衛は土肥の真鶴崎より船に乗り、安房國の方に赴かれた。[土肥]實平は土肥の住人貞恒におっしゃって、小舟を準備した。

 廿九日 己酉 武衛は實平を相具して小舟を漕ぎ進め、安房國平北郡獵嶋に着かれた。

治承四年庚子九月大
 五日 甲寅 洲崎明神にご参詣があった。[武衛は]明神の前で丹誠込めて祈りを凝らされた。呼び寄せに遣ったところの勇敢な武士たちが悉く帰属したとすれば、神威を貴び功田を必ず寄進申し上げる由の御願書を奉られた。

 十二日 辛酉 神田を洲崎宮に寄進し申し上げなさった。御寄進は今日社前に送り奉られた。

治承五年辛丑二月小
 十日 丁亥 安房國洲崎の神領において在廳官人等が面倒を起こしている由、神主等の訴えがあった。そこで[そうした面倒を]止めよとの趣旨、今日下知せられたのである。(以下略)

寿永元年[治承六年・養和二年]壬寅八月大
 十一日 己酉 日の暮れになって御臺所[政子]に御産の兆しがあった。武衛が来られ、多くの方々も群れ集まった。また、この御事によって在國の御家人たちも近いうちに参上する。御祈祷のために奉幣のご使者を、伊豆・筥根[箱根]の兩所權現ならびに近國の宮社にお立てになった。
 言うところの
   伊豆山 土肥弥太郎[遠平]      筥根 佐野太郎[基綱]
   相模一山 梶原平次[景高]      三浦十二天 佐原十郎[三浦義連]
   武藏六所宮 葛西三郎[清重]     常陸鹿嶋 小栗十郎[重成]
   上総一宮 [上總]小權介良常     下總香取社 千葉小太郎[胤正]
   安房東条神館 三浦平六[義村]    同國洲崎社 安西三郎[景益]

 

 以上、頼朝の挙兵から相模國石橋山での合戦、敗走をおさえたうえで、頼朝に関連する洲崎神社名登場の箇所を拾い上げてみた。見落としがあるかもしれないが、頼朝との所縁が知れたので、この件はここまでにしておきたい。


        

 本殿に参拝した後、社殿の周囲や、境内の摂社・末社をまわる。
 当神社は「古来、漁師にとっての漁業神、船乗りにとっての航海神」だったようで、関連する、海上安全の守護神 "金比羅宮" や 穀物・農業神を祀る "稲荷神社" [9]が勧請されてあった。"長宮" には、大物主神他が祀られていたと記憶する。

 この洲崎神社は標高110mの御手洗山[10]に祀られてあり、海側尾根の先端部にある富士見鳥居から遥かに富士山が望めるというので行ってみる。空は晴れていたものの、残念ながら富士山を望見することはできなかった。


 富士見鳥居を後に、神社へは戻らず、すぐ脇の下り坂をとって、隣の養老寺へと下りる。養老寺[11]の正式名称は、真言宗智山派妙法山観音寺といい、洲崎神社の神宮寺にして社僧を務めた寺だとのことだが、いきなり墓地と遊具の混在する場所に行き着き、異な空間に心ざわめき戸惑う。連れ合いも「墓地の中に子供の遊び場って、どういうことか」と呟いている。疑念は平屋建ての家屋から幼い子供たちの声が聞こえてきたことで解けた。この寺には「子育て保育園」という幼児施設が併設されていたのだ。境内にある "子育地蔵[幼子を抱いた半跏の地蔵尊]" がその名の由来と見受けられる。"なあ〜んだ、そういうことだったのか" と二人で顔を見合わせた。

 境内はそれほど広い敷地ではないが、巡ってみると、岩窟に役行者の石像が祀られてあり、内心 "伊豆に流された役行者がこのあたりに出没してもおかしくないか、伊豆も関東なら安房も関東なのだから........" 、などと思いながら参拝。

 

 頼朝の関連では、しょぼしょぼと生えた枯れススキのひと群れが "一本すすき" として紹介されていた。頼朝が洲崎神社に参詣した際、昼食時、箸の代用にしたすすきを地に挿して「わが武運が強ければここに根付けよ」と言ったという。そのススキが根付いたというもので、地の人々はこれを "一本すすき" と呼んでいるというのだ。

 あれこれ見て回った後、ベンガラに塗られた仁王門(仁王像はガラス窓の中)を通り、道路に面した、寺と保育園の門を兼ねた金属製伸縮門扉を、誰かに声をかけなくてもいいのかな........と、ちょっと不安に思いながら、"勝手に" 押し広げて外に出た。
 すぐ前は、バス停。女性が二人、待っていたが、バスが来るまでにはしばらく時間があったので、州崎灯台まで歩くことにする。


sunosakitodai.jpg
1919(大正8)年12月15日に初点灯したという洲崎灯台。
地上から塔の先まで 14.8m。光達は18.5海里(約34m)の由。

 自動車道の脇から見る州崎灯台は白く美しく見えた。が、バスの時刻までに往って戻って来れるかどうか、あやしい距離に思える。
 ここでも、二人小走りに走った。走って、灯台下の集落からはちょっとした上りを早足で。途中、かつて灯台員の "官舎" があったのではと思わせる狭い敷地に達したあたりで空がひらけた。薄雲のかかった青い空だ。先に来ていた若い男性が一人、私たちと入れ替わりに下りていった。地元の青年か、旅行者には見えなかった。
 ぐるりと東京湾を見晴かし、戻りを急ぐ。

 バスを待つ私たちの前を、モーターバイクの一団や細いタイヤの競技用自転車に乗った若者が風を切って通り過ぎていった。晩秋のこの日、房総は暖かく、ツーリング日和であったようだ。

 三日ばかりの短い私たちの"東下り" も、はや終わろうとしていた。
 思えば、この房総半島は、紀伊半島を彷彿させる。半島の奥に位置する都市防衛線の敷設跡。1288(正応元)年高野山を去り、1585(天正十三)年秀吉による"紀州攻め"で四散した、根来寺に発する真言宗新義派(新義真言宗智山派)の多いこと。補陀落信仰の存在。崖上に築かれた堂宇。神輿を揉みながら急峻な石段を下る男の祭り。吉野金峰山・大峰山を開きながら、伊豆に流された役小角の影。出掛けには "東国ねぇ....."と思っていたが、ちょっと親近感が湧いたことだ。


 "休暇村 館山" に戻り、"花海(はなみ)の湯"に浸かって、慌ただしかった "観光" の疲れを癒やし、翌日、"京" へと戻った。

 ─────────────────────────────────────
注:
[1] Julian Wallace Cunningham (1893-1972)
Born in Blairsville, Pennsylvania on May 1, 1893.
B.A. from George Washington university in 1916. Commissioned in the Cavalry in 1917. Professor of Military Science and Tactics at the University of Georgia 1921-1922. Instructor with the Massachusetts National Guard 1922-1923.?Duty in the Philippine Islands 1933-1935. Graduated from Command and General Staff School in 1936. Instructor with the Connecticut National Guard 1936-1940.
Assistant to the Assistant Chief of Staff for Operations at Third Army in 1941. Commanding Officer of 112th Cavalry November 1941-October 1943. Brigadier General in September 1943. Commander of a task Force in the Miscellaneous Group, U.S. Army Forces Far East October 1943-June 1944. Commanding General of the 112th Cavalry Combat Team June 1944-December 1945.
Reverted to Colonel in July 1946. Retired as Major General in May 1952. Decorations included the Distinguished Service Medal, Legion of Merit, Bronze Star and Purple Heart.
Died on August 22, 1972.

[2] 真言宗智山派 普門院 船形山 大福寺。
 船形山の崖中腹に彫られた十一面観世音菩薩像は「崖の観音」と呼ばれ、地元及び近隣の人々の信仰を集めている。
 この観音像は「養老元年(717年)に行基(668〜749年)が東国行脚の折に神人の霊を受け、地元漁民の海上安全と豊漁を祈願して、山の岩肌の自然石に十一面観音菩薩を彫刻したと言われ」る。「その後、慈覚大師(794〜863年)が当地に来錫した折に堂宇が創建された」由(cf. 大福寺HP)。
 時を経るなかで、火災による消失、豪雨による土砂崩れ、大地震による倒壊等々に遭ったが、その都度再建。現在の堂宇は、1925(大正14)年に建てられたものが海風などにより経年劣化したため、2016(平成28)年7月に改修されたものとのこと。

[3] 帰宅後、"なむや" という地名について調べてみたところ、
「富浦町の南無谷は、大昔、泉澤村と呼ばれていました。それは、湧水がたくさん出ている沢があったためか、泉澤氏という郷士が住んでいた所だったためか、どちらかの理由によるものでしょう。
 南無谷と変わったのは、僧・日蓮と関係があります。建長五年(一二五三年)五月中旬に清澄山を出られた日蓮が鎌倉に渡ろうと、この地に来たのですが、その時は、風波が厳しく渡航できなかったため、三日ほど泉澤権頭太郎(いずみさわごんのかみたろう)の家に泊まりました。
 日蓮は日蓮宗を日本国中に広めようとしていましたから、泉澤家の人たちにも熱心に法華経を説き聞かせました。老母ふく、権頭太郎、その弟、二郎、三郎はともに教えを信じました。特に老母ふくは、妙福(みょうふく)という法名を授かったほどでした。
 やがて風波は静まり、日蓮は無事に鎌倉近くの米ヶ浜に上陸されたのですが、日蓮はこれが縁で文永元年(一二六四年)小松原の難後、再び泉澤家を訪れたといいます。間もなく、村中に日蓮宗が広まり、村の名が南無妙法谷村(なむみょうほうやむら)となりましたが、長すぎるので南無谷となったのです」という(cf. 南房総市HP)。

[4] 「崖から張り出すような堂ができたのは、江戸時代の元禄地震後の復興のときで、大正地震のあとも同じように再建 [大正14(1925)年] された。......堂内には、明治39年に舟形の人々が寄進した賽銭箱、昭和33年に舟形潮俳句会から改築記念に贈られた14作品の俳句、亨保15年(1730年)に長狭の左生勘兵衛によって寄進された御詠歌(舟形へ参りてみれば崖作り磯打つ波は千代の数々)の額などがある。観音堂の縁先に立つと、鏡のように波静かな館山湾を一望におさめ、伊豆大島・天城の山々がそびえる海は、実に風光明媚な眺めである」
   cf.館山市立博物館 Tateyama Field Museum 「寺社から見る館山の歴史」

[5] 大福寺のHPには、この観音像は「石龕(せきがん:石の厨子)をつくって像容を浮き彫りにした磨崖仏です。(中略) 像高は131で、舟形の光背を背に二重蓮華座の上に立っています。摩耗が激しいので表情はよくわかりませんが、頭上に菩薩面を刻み、左手に水瓶(すいびょう)を持つ様子や、着衣のひだなどが確認できます」とある。
 千葉県内最古の磨崖仏といわれ、1970(昭和45)年、館山市の有形文化財に指定されているようだ。

[6] 養老元(717)年、行基が信濃の諏訪大社を勧請したと伝えられる。江戸時代までは大福寺が諏訪神社の別当を務めていた由。舟形地区の総鎮守であるが、2017年3月4日、放火により船形山の一部山林とともに全焼。私たちが訪ねた時はお社の跡地だけが広がっていた。

[7] 洲崎神社は館山市洲崎神官免[じんがんめん]にあり、東京湾の出入口を見下ろす位置にある。祭神は天比理乃メ[口+羊]命[アメノヒリノメノミコト]といい、安房開拓神話に出てくる忌部[いんべ]一族の祖神天太玉命[アメノフトダマノミコト]の后神[きさきがみ]。平安時代には朝廷から正三位の位を与えられ、源頼朝が伊豆での挙兵に失敗して安房へ逃れたときには当社に参拝して坂東武士の結集を祈願したことは有名な話。中世には品川・神奈川など東京湾内の有力な港町にも祀られる。例祭は8月21日。中世には修験が7ヵ寺あったといい、江戸時代には社務所の県道寄りに別当寺を務めた吉祥院があって、神社の社領五石を管理していたといわれる。
   cf.館山市立博物館 Tateyama Field Museum 「寺社から見る館山の歴史」

[8] 『吾妻鏡』当該箇所原文
   ※cf. 国立国会図書館デジタルコレクション『東鑑 壹』[新刊吾妻鏡]
治承四年庚子八月小
廿日 庚子 ──(略)──仍武衛先相率伊豆相模兩國御家人計出伊豆國令赴于相模國土肥郷給也(以下略)

廿三日 癸卯 陰入夜甚雨如沃今日寅刻武衛相率北条殿父子盛長茂光實平以下三百騎陣于相模國石橋山給此間以件令旨被付御旗横上中四郎惟重持之又頼隆付白幣於上箭候御後──(略)──.............并熊谷次郎直實以下平家被官之輩率三千餘騎精兵同在石橋山邊兩陣之際隔一谷也──(略)──[大庭三郎景親等]相議云今日已雖臨黄昏可遂合戦期明日者三郎衆馳加定難喪敗歟之由群議事訖數千強兵襲攻武衛之陣而計源家從兵雖難比彼大軍皆依重舊好只乞効死然間佐那田余一義忠并武藤三郎及郎從豊三家康等殞命景親弥乗勝至暁天武衛令逃于椙山之中給于時疾風惱心暴雨勞身景親奉追之發矢石之處家義乍相交景親陣中爲奉遁武衛引分我衆六騎戰于景親以此隙令入椙山給云々
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廿八日 戊申 ──(略)──武衛自土肥眞名鶴崎乘船赴安房國方給實平仰土肥住人貞恒粧小舟云々(以下略)
廿九日 己酉 武衛相具實平棹扁舟令著于安房國平北郡獵嶋給(以下略)
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治承四年庚子九月大
五日 甲寅 有御參洲崎明神寶前凝丹祈給所遣召之健士悉令歸往者可奉寄功田貢神威由被奉御願書云々
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十二日 辛酉 令奉寄神田於洲崎宮給御寄進?今日被送進社頭云々
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治承五年辛丑二月小
十日 丁亥 於安房國洲崎神領在廳等成煩由有神主等之訴仍可停止之由今日所令下知給也(以下略)
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寿永元年壬寅[養和二年五月二十七日寿永と改元。治承六年]八月大
十一日 己酉 及晩御臺所有御産氣色武衛渡御諸人群集又依此御事在國御家人等近日多以參上爲御祈祷被立奉弊御使於伊豆筥根兩所權現并近國宮社
 所謂
   伊豆山 土肥弥太郎      筥根 佐野太郎
   相模一山 梶原平次      三浦十二天 佐原十郎
   武藏六所宮 葛西三郎     常陸鹿嶋 小栗十郎
   上総一宮 小權介良      下總香取社 千葉小太郎
   安房東条ヂ(广+寺) 三浦平六  同國洲崎社 安西三郎

 

※石橋山:相模國足柄下郡。現、神奈川県小田原市石橋。
※椙山:相模國足柄下郡。現、神奈川県足柄下郡湯河原町あたりかといわれる。
※真名鶴崎:相模國足柄下郡土肥郷。現、神奈川県足柄下郡真鶴町。
※平北郡:安房國北西部。古代の平群郡の北部。現、千葉県安房郡鋸南町付近。
※獵嶋:安房國平北郡。現、千葉県安房郡鋸南町竜島。
※洲崎明神:現、千葉県館山市洲崎の洲崎神社。
※宮社:宮号を称する神社。社号を称する神社より格式が高い。
※伊豆山:走湯山。
※筥根:箱根權現。現、神奈川県足柄下郡箱根町元箱根の箱根神社。
※相模一山:現、神奈川県高座郡寒川町宮山の寒川神社。
※三浦十二天:現、神奈川県横須賀市芦名の十二所神社。
※武藏六所宮:現、東京都府中市宮町の大國魂神社。武藏の一宮から六宮までをあわ         せ祀るらしい。
※上總一宮:現、千葉県長生郡一宮町一宮の玉前神社。
※下總香取社:現、千葉県香取市香取にある香取神宮。下總國一宮。
※ヂ(广+寺):[邦]かんだち。かうだち。神事を取扱ふ處。又、加茂の斎館。御廚。
       神ヂ(广+寺)。神館とも書く。

[9] 境内社の"稲荷神社"は、安永元(1772)年、別当の吉祥院が伏見稲荷大社の分社として請来したとのこと。

[10] 「御手洗山[みたらしやま]には、スダジイ・ヤブニッケイ・タブノキ・ヒメユズリハなどの常緑樹が自然林を形成して」おり、「昭和47年に県の天然記念物に指定されている」
   cf.館山市立博物館 Tateyama Field Museum 「寺社から見る館山の歴史」

[11] 「養老元年(717年)に役行者[えんのぎょうじゃ]を開祖として創建されたと伝えられ、本尊は洲崎神社の本地仏である十一面観音菩薩」、「境内にある石窟と独鈷水[どっこすい]は役行者との関係を伝え、曲亭馬琴の長編伝奇小説『南総里見八犬伝』の舞台としても知られ」、「洲崎に多い頼朝伝説は当寺にも伝えられ」る。
   cf.館山市立博物館 Tateyama Field Museum 「寺社から見る館山の歴史」

            
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