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休暇村あっちこっち

休暇村 陸中宮古






[休暇村 陸中宮古へ]

 2011年3月11日以前の三陸沿岸地方を、私は知らない。
 東北の山々が殊の外 "好き" な連れ合いと、東北には何度も足を運んだ。
だが、それまでに、私が基幹の東北本線から太平洋側に足を踏み入れたのは大船渡線を "猊鼻渓" まで。かつて浄土ヶ浜に遊び、船にも乗ってウミネコと戯れたという連れ合いとは "経験" を異にしていた。


 "震災" がなければ、もっと早く訪ねていたはずの陸中海岸だったが、発災後、氾濫する災害関連報道の陰で耐え、被災の日々を黙して生きる人々や、復興支援ソングだという "花は咲く" に傷つき、悲しむ人々のあることを知っては、どんな謳い文句を聞かされても、とても "物見遊山" や "買い物ツアー" に出る気持ちにはなれなかった。
 "時" を耐える外、私たちには何もできなかった。

 あの日、14時46分18秒、宮城県牡鹿半島東南東沖130km、北緯38度06.2分・東経142度51.6分の海底24kmに発した、Moment magnitude9.0、最大震度7の "東北太平洋沖地震" から、明ければ7年を迎える12月末、意を決して私たちは三陸沿岸に向かった。12月にしたのは、"人" の少ないことを見越してのことである。


 東京で東北新幹線に乗り換え、盛岡に降り立つ。
 駅ビルはリニューアルされたようだが、"地方色" はますます希薄になっていた。

 宮古への移動手段としては、JR山田線の復旧が報じられていたが、本数が少ないことから、拡幅工事等などが進められている国道106号線 [宮古盛岡横断道路:三陸沿岸道路と東北縦貫自動車道を結ぶ約100kmの震災復興支援道路[1]] を走る、岩手県北バス "106急行バス" を使うことにする。
 このバスは沿道住民の"足"にもなっている、いわゆる路線バス。予約は不要。盛岡駅前の切符売場で往復切符 [盛岡─宮古:往復運賃 ¥3650] を購入 。
 バスは、岩手県庁や盛岡城址に建つ櫻山神社の大鳥居、盛岡市役所等などの点在する官庁街を通り抜け、国道106号線に入って太平洋沿岸方面へと向かった。

 数日前の積雪が解け残っていて、盛岡市街も足元は悪かったが、市街を過ぎると、次第に両脇に迫る木立の間に多くの積雪が見られるようになった。
 バスは雪のある山間の道を抜け、人家の見えるあたりで、一人二人の年輩の乗客を降ろしていく。それは概して並行して走るJR山田線の駅のあるあたりでもあった。
 降りる人は、運賃箱に料金を入れると、運転手に会釈するでもなく、言い合わせたように俯いたまま黙って下車していく。運転手の「ありがとうございました」という声だけが車内に響く。この辺では年輩の人も黙したまま降りていくんだ........と思っていると、連れ合いも同じことを思っていたらしく、「このあたりの人は運転手に声をかけないのやなあ」と。頷きあう。

 途中、短いトイレ休憩があり、足腰を伸ばしに下車。雪が踏み固められて滑りそうなスペースを、"おっかなびっくり" 歩いていって建物の中に入ると、野菜などの売り場がある "道の駅やまびこ館" だった。敷地内に宮古市の薬師塗漆工芸館 [入場無料] が併設されていたが、トイレ休憩の時間が短く、覗いてみる余裕はなかった。

 終着のJR山田線宮古駅前では、休暇村行き路線バスに乗り換えねばならず、遅れ気味のバスに気を揉むが、最終的には乗り換え時刻に間に合い、ホッとする。2時間15分の乗車だった。
 106急行バスの発着地、宮古駅前は周辺への路線バス発着地ともなっていて、狭いロータリーを店舗が取り囲んでいるが、営業している店はまばらな様子。自然災害の有無にかかわらず、地方都市の駅前は "途方に暮れた人" のように所在なげだ。

 休暇村に向かう路線バスの窓からは、建物の壁面に "津波がここまで押し寄せた" とするプレートの貼り付けられてあるのが見える。町のかなり深部にまで津波の来ていたことがわかる。だが、街並みには、ほとんどもう津波の痕跡は見られない。津波が襲来したエリアの建物は並べて新しそうに見えはするものの、周囲の景色の中に埋もれていた。



 港町宮古は、そもそもはサケ・サンマ漁等の基地。三陸海岸 [八戸市東部の鮫崎から牡鹿半島南部の金華山までを指す] のほぼ中央に位置するとともに、岩手県北部久慈市から宮城県北部の気仙沼湾に至る海岸部約180kmを占める「陸中海岸国立公園」[1955(昭和三〇)年指定。2011年 "東北太平洋沖地震" 以降「三陸復興国立公園」と改称] のほぼ中央にあって、北半の隆起海岸と南半の沈降海岸 [リアス式海岸] とに分けている。

 古来この海岸線には大小の津波が幾度も押し寄せていることは周知の事実だ。おおよそ1100年という歳月を考慮しても、その多さに驚く。

 

 この沿岸には貝塚その他の先住民遺跡があり、土器石器の外に骨角器、鹿角製装飾品、時に人骨の一部を含んだ貝塚が発見されているという。土地の隆起や沈降などの変化もあって、地形は現状と異なるにしても、人々の生活の痕跡が散見される以上、ここに住み着いた太古の人々も、大小の津波に遭遇しながら、"淘汰" の "網" をくぐり抜け、適者生存を繰り返して生き延びてきたにちがいない。

 当地に残る古文書を丁寧に調査・発掘していけば、この度、私の調べた津波の数[2]より、さらに多くの "津波" の記録に行き当たるはずだ。
 貞観の三陸はるか沖地震に伴う津波は『日本三代實録』の記述があまりに有名なため、人々が繰り返し引用、孫引きするものの、他の古文書を悉に渉猟したという資料に、私はまだ行き当たっていない。

 

 とは言え、津波の数を数えあげ、規模や被害を詳細に調査したからといって、即減災に繋がるかといえば、現実はそれほどには甘くない。
 無念に思うのは、2004年12月に発生した "スマトラ島沖地震" [3] の際、繰り返し報道されたニュースの巨大津波映像を、三陸沿岸の多くの人々も繰り返し目にしたはずだが、その映像を人々がどれだけ自分のこととし得たか。
 2004年12月26日、津波襲来前、大規模な引き波で露わになった広大な砂の海底を前に、潮の去った遥か沖を望見しているかに見える人々の背が映しだされた時、私は思わず画面に向かって「何してるの! 早く逃げて!」と叫んでいた。
 そして、2011年3月11日。その日も、堤防の上で、のし上がるように迫ってくる波を見ている複数の黒い背に「 なぜ逃げないの! そんなところにいる場合やない!」と地団駄踏みながら、スマトラ島沖地震津波の報道映像が、一般にほとんど役に立っていないことに愕然としていた。思い出すだに私の皮膚は今も泡立つ。


 寺田寅彦は言う、「文明が進む程天災による損失の程度も累進する傾向があるといふ事實を十分に自覺して、そして平生からそれに對する防御策を講じなければならない筈であるのに、それが一向に出來てゐないのはどういふ譯であるか。その主なる原因は、畢竟さういふ天災が極めて稀にしか起こらないで、丁度人間が前車のてん[眞+頁]覆を忘れた頃にそろそろ後車を引出すやうになるからであらう」と。 [cf.『国防と防災』]
 「前車のてん[眞+頁]覆を忘れた頃にそろそろと後車を引出す」のは "大自然" であり、"忘れる" というは、人間一代の間における忘却でないことは言うまでもない。自然の中に生きる人間の油断を、寅彦は言っている。

 柳田国男は『雪国の春』に収録された「豆手帖から」の中の "二十五箇年後" において「唐桑濱の宿と云ふ部落では、家の數が四十戸足らずの中、只の一戸だけ殘つて他は悉くあの海嘯で潰れた。その殘つたと云ふ家でも床の上に四尺[注:約1m20cm]あがり、時の間にさつと引いて、浮く程の物は總て持つて行つて了つた」と、明治三陸地震津波 [明治二十九(1896)年発災。cf.上記 "津波リスト" ] から25年、三陸海岸を歩いた際に聞いた被災者の話を採録。
 25年後の当地では「夙に經驗を忘れ、又は其よりも食ふが大事だと、ずんずん濱邊近く出た者は、漁業にも商賣にも大きな便宜を得て居る。或は又他處から遣つて來て、委細構はず勝手な處に住む者も有つて、結局村落の形は元の如く、人の數も海嘯の前よりはずつと多い。一人々々の不幸を度外に置けば、疵は既[旧字]に全く癒えて居る」と言い、「明治二十九年の記念塔[4]は......村毎に有るが、恨み綿々などゝ書いた碑文も漢語で、最早其前に立つ人も無い」と指摘する。

 それからさらに日月を経て、地理学者にして民俗学者の山口弥一郎も、三陸沿岸を幾度も歩く。そして、地理学的見地から被災者の原地復帰に言及。
 「私は八年の津波の後の長い調査の旅で、実は耳の痛くなるほど聞いた言葉がある。今度[注:チリ地震津波後の調査で]も何回か聞かされた。『浜で食っている者が、命が惜しいからって浜を離れられるもんか』。まだ災害直後だから極言する人もなかったが、かつては『いつくるかわからない津波をこわがって、毎日食うに困って浜を離れられるか』とさえ罵倒されたことがあ」ったというのだ。
 昭和八年から十年後、山口が「復興し、落ち着いた三陸沿岸の村々をみて歩」いた際、そこには「将来再度の津浪に襲われた場合の被害を、ひしひしと思わせるものすらある。村人と語り合ってみても、日々に活きる経済的事情が強いために、勢いにひきずられて、災害などを恐れずに低地へ戻る傾向がある。折角建立した記念碑も、年月を経、道路の改修などにより、畑地などにとり残されているのも見受ける」として不安を隠さない。その後に起きたチリ地震津波は彼の不安を的中させた。
 山口は、少々の不便を託っても住民が戒め合い、高地移住を成し遂げることが最善の策だと繰り返し、「津波をともなう地震帯を前にして、リアス湾頭に住む限り、津波の災害は今後も絶無とはだれもいいきれない。ましてチリ地震津波にまで捜し当てられる宿命的な海岸地形の受け入れ態勢を整えているにおいてをやである。この絶対的安住対策には、村を湾頭からちょっと側面にさけて高地に移すほかない」としたのだったが、彼が存命で今次の東北太平洋沖地震を目の当たりにしたならば、何と言っただろうか。
 「結局は災害防止も人の問題であ」り、「研究、計画などには特殊な学者も必要であるが、移動し、再建するのは村の人々であり、村人の力強い協力と郷土を熱愛する心がなければ、災害地の村々は護り尽くせるものではない」と、彼は書くのだが。 (cf. 『津波と村』山口弥一郎著 石井正己・川島秀一編 三弥井書店 平成23年6月)

 小説家吉村昭もまた、三陸沿岸を作品の舞台としたことをきっかけに、岩手県下閉伊郡田野畑村に再三足を運ぶ。その際、村人からしばしば津波の話を耳にしたことから、彼は「津波について実地調査をし、書いてみようと思い立」つ。その結果、まとめられたのが、『海の壁──三陸沿岸大津波』であった。[5]
 この書には、昭和八年の大津波を体験した人々の記録とともに、田老尋常高等小学校生徒たちの津波体験作文も収録されている。[6]


 上記を一例として、各地に碑や先人の著述に見る記録や提言、時に "警告" や、児童生徒の "胸詰まる"作文までもが多々残されてある。それらを「前車の轍」とし、教訓となせば、津波災害回避の道を探れると思うのだが、人間の行動は、現実にはそうはならない。
 「人間の脳は、基本的に、身体の経験にない事柄を想像することはできない」ばかりか、一般に、人間の脳は見聞きしたことを "身体の経験" に置換、取り込めるようにはできていないらしい。
 個々の "悲劇" は、結果的に個々のうちに留まり、他者の身体的経験は自己のものとはなり得ない。さらに、自己の身体の経験さえも、ほどなく忘れ去り、"物事" を甘く見る人間の性情は "惨劇" を繰り返させ、その終焉は見えない。悲観的なようだが、この基本を踏まえないかぎり、今後も惨劇は繰り返されるだろう。自然は人間の考えるほど甘くないことを我々は肝に銘じなければならない。



 この度、私たちも、休暇村のある姉ヶ崎を起点に、崎山を浄土ヶ浜に向け、ほんの一部だが、三陸海岸を歩いた。

 投宿二日目の朝、食事を済ませて、休暇村敷地内の「自然の小径」を巡ろうと、フロントで小さなパンフレットをもらい、まず "姉ヶ崎展望台" へと向かう。姉ヶ崎周辺はウミネコやウミウの繁殖地で、初夏ともなると、数千羽もの海鳥が飛来するということだが、冬の姉ヶ崎は寒々として、波静かだったこの日は、波の音さえ断崖の上までは届いてこなかった。

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浸食された岩の造形。マンモスの背に見えて。
あの日、押し寄せる波に、どう耐え抜いたのか......。

 だが、ひとたび、眼下に広がる太平洋が大きく盛り上がり、こちらに押し寄せてくる図を想像すると、高台の展望所にあっても背筋が凍るようだった。

 姉ヶ崎からさらに小径を辿っていくと、漁り火が遠望できるらしいポイントや、秋には "はまぎく" が咲き乱れるというポイントを経て、 "浄土ヶ浜展望台" に至る。

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上陸禁止の島 "日出島" と 背後の "月山" を。
日出島は "クロコシジロウミツバメ" の集団営巣地と聞く。

 冬の重い曇り空だったが、"浄土ヶ浜展望台"からは、その名のとおり "浄土ヶ浜" が遠望でき、無人の小さな島"日出島" や重茂半島の中央部にある"月山" [標高455m]などが一望できた。
 白砂のせいか、白く浮かび上がって見える "浄土ヶ浜" を望見していた連れ合いが「あそこまで歩いていこ」と言い、彼の足は早くもそちらへと向かって踏み出していた。休暇村敷地内散策のつもりだったため、準備は何もなかったが、"まあいいか" と、後に続く。

 散り積もった落ち葉の上に残る "中途半端な" 雪がワザをして、アップダウンを繰り返す山道は何とも歩きにくい。この間の細道は、実は崎山という "山" に取り付けられた道で、海沿いを行くかと思えば、陰気な沢を遡上し、迂回しては再び海沿いに出るという具合だ。
 私たちの歩いた "浄土ヶ浜自然歩道" は "みちのく潮風トレイル" [7]の一部で、震災後、整備されたものと思われるが、すでに段がえぐれ、横木が傾いている箇所も少なくない。奥まった沢沿いの道では "道を失ったか" と思う場面もあった。道標が設置されてはいるものの、あまり人が歩いているようには思えない。

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鈍色の冬の空を映して暗く凪ぐ海。 潮吹孔の所在さえ分からず、早々に立ち去る。

 途中の "潮吹き穴" も、波静かなこの日は潮を噴き上げる気配もない。期待を裏切るこんな日の "潮吹き穴" を、人は "ほら吹き穴" と呼ぶらしい。笑った。

 雪に足を取られまいと気遣いながら、アップダウン繰り返す道を、連れ合いの後ろ姿を追って懸命に歩いていると、いつしか汗びっしょりになっていた。気付けば、連れ合いもすでに腰に巻いたパーカーの上にセーターまでも括りつけ、シャツ一枚になっている。

 山道から飛び出した谷筋の舗装路の先では防潮堤の工事が行われていた。先に進もうとして目にしたのは "通行禁止" の掛札。大沢海岸の100m手前だった。
 地図を持たず、道なりに来たため、迂回路がわからない。休暇村に戻るにしても、あのアップダウンをもう一度は勘弁してほしいなあ、と交々に言いながら、上部の集落の方を見ると、新しい家に横付けされた軽トラックのそばで作業をしている男性の姿があった。迷わず走り寄って道を尋ねる。舗装路をまっすぐ上に行けばバス道に出るとのことだったが、私たちにはバスに乗って浄土ヶ浜に行く気持ちはない。休暇村に歩いて戻れる別の道を尋ねる。それなら旧道を行けばよいとのこと。けっこう距離があるので車で送ってやろうと言ってくださったが、"遊んでいる" 私たちのこと、とても仕事中の方のご親切に甘えるわけにはいかないと、固辞。深謝して、教えられた道を行く。

 旧道とは、かつてはバスも通っていたという国道45号線(?)のようで、教えられた地点からはいったん谷の上部に向かい、右折して坂道を山へと上っていく。国道というだけあって道は広く、傷んでいるところはあるものの舗装もされていた。道の両脇には雪があり、濡れた路面は凍っている箇所もあって、私は緊張を強いられる。
 ユリ道にさし掛かかろうかというところで、苔むした古い石碑が山の斜面に溶け込むように建っているのに気がつく。碑の後ろに回って目を凝らすと、
「昭和八年三月三日午前二時三十分 上下動の強震あり(云々。曇り空と木陰でよく見えない) 大地震の後には津波変 (云々。文字が埋まっていて読めない) 地震があつたら比處[の異字]へ集まれ」
とあった。
 この谷沿いの集落の人々は、今次の大津波に際し、この碑の近辺に集まって難を逃れることができたのだろうか。今通ってきた谷筋のどのあたりまで津波は遡上したのだろうか........、私たちはしばらく思いに耽りながら無言で歩を進めた。

 舗装路を長距離歩くのは、山道とは違った意味で疲れる。歩いて、歩いて、とにかく歩いて、やっと "巡り会えた" 自動販売機でスポーツドリンクを買って喉をうるおす。自販機そばの家の女性が見慣れぬ私たちに目を留め、行き先を尋ねて、車で送ってやろうと、何度も言ってくださるが、固辞。お礼を言って再び歩き出す。
 お腹が減っていたが、食べ物屋らしい店もコンビニもない。「ゴールには確実に近づいているのだから、我慢、我慢」と言いながら歩き続け、もうすぐ休暇村という地点までたどり着いて、ふとふり返ると、バスのやって来るのが見える。目の先にはバス停があるではないか。「一駅でも乗りた〜い!」と、バスに乗る。休暇村まで二駅の乗車。帰り着いたのは12時半ごろだった。
 宮古の休暇村では、レストランのお昼の営業がなく、喫茶コーナーでコーヒーをお願いして、ケーキだったか........で空腹をごまかす。


 「休暇村 陸中宮古」の施設そのものは、緑に覆われた "姉ヶ崎" の先端部、太平洋を望む断崖上、30haの広大な敷地内にあって、かの日にも、直接、津波の害を被ることなく、「震災直後より被災者の受け入れを行い」、その後は復興作業にあたる人々の利用に供している旨の情報が、2011年8月の休暇村情報誌「倶楽部Q」に寄せられていた。

 手元にある資料によると、"休暇村 宮古" の施設は、1997年改築されているようだが、その後の改築情報はない。
       * 鉄筋3階建て。
       * 客 室 数 : 67室(和室:56室 / 洋室:11室)
       * 宿泊定員: 202名
客室数、宿泊定員にも、変化なし。
 館内施設の大浴場も、1997年当時の写真と現在のパンフレット掲載写真と異ならないので、基本構造は変わっていないものと思われる。ただし、大浴場を含め、客室その他のリフォームはなされた様子。それが震災と関連しているか否かは不明。
 レクリエーション施設としては、かつて、テニスコートAW4面、屋内温水プールが明記されていたが、今は見当たらない。キャンプ場は、以前は定員600名の大規模な "仲の浜キャンプ場" が、海岸近くに併設されていた模様だが、現在は、炊事棟1棟とシャワートイレ1棟が付帯する "宮古姉ヶ崎オートキャンプ場" となっている。
 かつての、浜辺に近いキャンプ場は、津波によって浚われてしまったものか........。

 2011年3月の激しい揺れに、休暇村の建造物も無傷ではなかったろうが、損壊は被災者等の受け入れ可能な程度に済んだものと想像される。しかし、震災当日の施設の実状や、宿泊者の様子、その後の混乱の日々はどのようであったか知りたくて、フロントの若い女性スタッフに尋ねる。だが、"休暇村 宮古" では、7年を経て、震災当時勤めていたスタッフはすべて去り、彼女自身も震災後に就職したため、わからないとのこと。
 彼女は、震災当日、勤務していた宮古市内の飲食店が非番で、田老の山間部にある自宅にいて被災した由。激震に電気が途絶え、しばらくは周辺で何が起こっているのか全くわからなかったが、そのうち浜の方が酷いことになっているという情報が届くようになる。そこで、集落の人たちがあるだけのものを持ち寄り、作れるだけのおむすびを作って、浜の人々に届けたという。一方、勤めていた市内の飲食店は津波によって再起不能となり、閉店。仕事の少ないなか、縁あって、休暇村に勤め始めたとのことである。
 レストランスッタフの、私たちのテーブル担当の、19才という若い男性も、宮古では仕事が限られ、震災後、特に働き口は少なくなったと、ことば少なに語った。素朴でシャイな好青年だった。


 年末も下旬に近いこの日の宿泊客は、復興工事に携わるらしい人々に、一握りの観光客といった感じ.......。夕食会場のレストランには、工事関係の人々の会話するらしい声が通奏低音のように低く響いていた。
 照明が暗いせいか、雰囲気をかもすというよりは、陰鬱な感じが漂い、食事を楽しむという雰囲気からは程遠かった。並べられたビュッフェ形式の料理にも、私たちの食欲をそそるものがない。12月末という時期がよくなかったのかもしれない。

 この季節、宮古では、蝦夷アワビが食べごろだとのこと。
 "蝦夷アワビ" とは「殻は薄く、クロアワビよりも凸凹に富んでいます。日本のアワビ類中、最も漁獲量が多く、三陸海岸に多く生息しています。クロアワビよりも一回り小さいが、肉はクロアワビに匹敵するほど美味しいアワビになります。.....中略..... 三陸の海藻類を食べて育ったアワビは小ぶりながら、その分旨味が凝縮しています」と、〜黒潮海流 蝦夷アワビ会席〜の品書きには添え書きされていた。

 最近は、鮮度を保持する技術が進み、流通も格段に進歩。アワビやウニ、ホタテもクエもノドグロも、エビ・カニ等々、産地を問わず、遠地の魚介・産物が、食べようと思えば、より高級なものがどこででも食べられるようになった。
 ただ漁場に近いところで、地のものが食べられるのなら、現に漁をする人たちや、当地の人々の食べ方で、地場の物が食べてみたい。
 食材にも、当地でしか食べられない "もの" があるはず。舌にも旅の醍醐味というものがあるだろう。地方ならではの食材を、料理人の "腕" と創意によって、他所にはない "おいしい" 料理に変貌させる余地が大いにありそうな気がする。地の人の地のものにかける情熱がほしいなあ........、と思いながら、網の上で身をくねらせる「小ぶり」のアワビを眺めていた。




 宮古を後にする朝、送迎の車の中で、「今はこんなに激しく行き交っているトラックも、震災からの復興事業が終わってしまえば、ぱったと通らなくなり、工事に携わる人々も去って、宮古は震災前よりずっと寂れていくだろうと思います。人口もずいぶん減りましたしね。沿道沿いの家々も空き家が増えました」と、送ってくださった中年のスタッフの方が話しておられた。ほんの2日ばかりやって来ただけの私たちにはかける言葉もなかった。

 盛岡へ戻る山間の106号線沿道はさらに雪を深くし、景色は雪に埋もれていた。



 

  …………………………………………………………………………………………
[注]
[1] 宮古盛岡横断道路(宮古〜盛岡)は「復興支援道路」として、国が2011(平成23)年に事業化。「宮古市から盛岡市に至る延長約100kmの地域高規格道路」である。「東日本大震災で被災した沿岸部と内陸部との強力な連携を推進することによる被災地の早期復興支援や、平時も含めた緊急輸送圏域の拡大等による安全・安心を確保するため、復興支援道路として、現道106号の隘路箇所を解消し、速達性の向上を図るべく整備」が進められている。

[2] 「『日本被害地震総覧 [416ー200]』宇佐美龍夫著 東京大学出版会刊 2003.4」から、三陸沿岸に押し寄せた津波に特化して抜き出してみた。
[※ 「・」で示したのは、上記『総覧』に記されていない津波である。『津波、噴火… 日本列島 地震の2000年史』保立道久・成田龍一 監修 朝日新聞出版刊 2013.2 を参照した]

*869年7月13日(貞観十一年五月二十六日)夜 三陸沿岸 M=8.3 ± 1/4
 「城廓・倉庫・門櫓・垣壁崩れ落ち倒壊するもの無数。人々は倒れて起きることが できないほどであった。津波襲来し、海水城下(多賀城)に至り溺死者1,000。流光昼のごとく隠映したという。これは、わが国最古の発光現象の記事である。震央を陸に近づければMは小さくなる」
   [最大波高30m以上で、500km以上の海岸線に顕著な被害がある]
                         cf.『日本三代實録』(※)

・1455年1月(享徳三)
 享徳陸奥地震(M.不明)・大津波。津波の引波で多数の死者。関東まで響く。

*1611年12月2日(慶長十六年十月二十八日)巳刻以後 三陸沿岸及び北海道東岸
  M≒8.1
 「三陸地方で強震。震害は未発見。津波による被害が大きかった。伊達政宗領内で死 1,783人。南部・津軽で人馬死3,000余という。死者は鵜住居・大槌・横沢で800人、船越50人、山田20人、津軽石150人。また、大波が3回押し寄せ、海が鳴ったという。仙台市内の荒浜・三本塚・下飯田新開は荒地となり神田開発が行われた。宮城県岩沼、刈田郡にも津波が押し寄せ、岩沼辺では家屋残らず流出した。この辺では事前に潮の色が異常だったという。相馬中村海岸に被害。相馬領の死 700人。今泉(陸前高田市)で溺死 50人、家ほとんど流さる。宮古でも一軒残らず波にとられる。宮古では前年に鰯などが大漁であった。北海道東部にも津波押し寄せ溺死者多かった。津波の波源は昭和8年の三陸津波の波源とほぼ一致する。『玄蕃先代集』によると銚子にて津波上る(日付は慶長十九年十月廿五日の地震になっているが、この地震によるか)」
   [最大波高30m以上で、500km以上の海岸線に顕著な被害がある]

*1616年9月9日(元和二年七月二十八日)午後3時 仙台 M=7.0
 「仙台城の石壁・櫓等破損。仙台城の発掘の結果、この地震後に修復された石垣が見つかった。津波を伴う 江戸で有感 [参考:金森安孝. 2000. 仙台城本丸跡石垣修復に伴う発掘調査 日本歴史No.626 102-111] 」

*1677年4月13日(延宝五年三月十二日)戌刻 陸中 M=7 1/4〜7 1/2
 「八戸に震害あり。青森・仙台被害なし。震後約1時間で津波来たり、大槌・宮古・鍬ヶ崎等で被害。合計で家屋流潰約70軒、舟流潰60余。波は宮古で13日午前2時までに3回。13日巳ノ刻に大地震。(略) 小名浜で13日午前6時ころから常より大きい汐の干満、昼までに5〜6回。12日子ノ刻の地震が本震である可能性もある。下北半島の下風呂で舟波にとられる。江戸有感。1968年十勝沖地震と似ている」らしい。とすると、M=7 3/4〜8.0 となるか…。

*1677年11月4日(延宝五年十月九日)夜五ツ時 磐城・常陸・安房・上総・下総
  M≒8.0(※推定)
 「上旬より地震しばしばあり。磐城から房総にかけて津波襲来。小名浜・中作・薄 磯・四倉・江名・豊間などで家流倒約550(あるいは487)軒。死・不明130余(あるいは189)。水戸領内で潰家189、溺死36、舟破損または流出353。房総で倒家233余、溺死246余。奥州岩沼領で流家490余、死123。(略) 確かな地震記事は房総と江戸に限られる。(略) 陸に近いM6クラスの地震という説もある」
   [波高4〜6mで、家屋や人命の損失がある]

*1687年10月22日(貞享4年9月17日)
 「陸前沿岸津波あり。塩釜で潮1.5〜1.6尺(約50cm)上がり、潮の干満12〜13回。この日丑刻琉球に津波。遠地(南米ペルー沖)地震津波」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1700年1月28日(元禄12年12月9日)午前0時ころ 三陸・紀伊 M=9.0
 「和歌山県田辺であびき強く新庄村御蔵へ汐入、跡の浦で田地麦作損あり。三陸海岸の大槌浦に大汐上がり漁師家2軒、塩釜2工破損。鍬ヶ浦では津波打ち寄せ人々山へ逃げる。13軒波にとられ、20軒消失。159人に救米。津波高推定値は、鍬ヶ崎4m、津軽石3.2m、大槌3.3m、那珂湊1m、美保1.0〜1.7m、田辺5.4mおよび3.3m。北米沖カスケード沈みこみ帯の地震(北米での津波高10m余)による。[都司他:日本で記録された1700年1月(元禄十二年十二月)北米巨大地震による津波 1998 地震ii , 51, 1-18] 」

*1716年〜1735年(享保年間)陸前
 「海嘯により田畑の損害あり。地震記事なく、風津波か」
 ※1730年7月8日(享保十五年五月二十四日)午前9時ころのチリ・バルパライソ
  沖地震による津波のことか、ともいわれる。

*1717年5月13日(享保二年四月三日)未刻 仙台・花巻 M≒7.5
 「仙台城本丸・二丸石垣崩れ神社等の石灯籠は大方崩る。在々に家・土蔵の崩・破損あり。階上村は津波で田畑損ずという。(略) 余震は四月いっぱい続く」

*1730年7月9日(享保十五年五月二十五日)陸前
 「陸前沿岸に海嘯、田畑を損す。酉上刻塩釜に潮上る。被害なし。大船渡・赤崎では塩場破壊あり。前日の午前9時(グリニッジ標準時:以下、GMT)ころのチリのバルパライソ沖の地震による津波」
   [波高2m前後で、海岸の家屋を損傷し船艇をさらう程度]

・1763年3月(宝暦十三年)
 宝暦の八戸沖地震。前年12月以来、震動とまらず、建物の被害多し。

・1793年1月(寛政五)
 寛政陸奥地震・大津波。M=8.2 死者44人以上。江戸まで揺れる。余震多し。

*1793年2月17日(寛政五年一月七日)昼九ツ過ぎ 陸前・陸中・磐城
   M=8.0〜8.4
 「陸中・陸前・磐城沿岸・銚子に津波。大槌・両石で流潰家71、死9、流破船19、綾里・気仙沼・鮫(牡鹿半島)における流失家はそれぞれ70〜80、300余、10程度。大船渡で波高9尺(2.7m)ともいう。津波の被害は陸前でも大きかった。(中略) 被害は現岩手・宮城・福島・茨城各県に及び江戸でも極小被害あり。全体で家潰流失1,730余、舟流破33、死44以上。(図、略)余震が多く相馬では10ヵ月も続いた。また津波は相馬・いわきでは引きではじまっている。このことからこの地震は昭和8年よりは明治29年の三陸沖地震に似ている。(以下、略) 」
    ※巻末注 略。

*1837年11月9日(天保八年十月十二日)チリ沖 M > 8
 「午前0時ころ三陸に津波。田荒、塩流失2,000俵(大船渡)、鮭川留破る(今泉)などの被害」
   [波高2m前後で、海岸の家屋を損傷し船艇をさらう程度]〜[波高4〜6m
   で、家屋や人命の損失がある]

*1847年8月27日(弘化四年七月十七日)陸前
 「沿岸に海潮溢れ、大小船75艘漂蕩し漁夫335人溺没すという。地震記事なく、風津波か?」

・1856年8月(安政三年)
 安政の八戸沖地震。M=7.5 三陸および北海道の南岸で津波。

*1861年10月21日(文久元年九月十八日)暁七ツ時 陸中・陸前・磐城 M=6.4
 「(略) 福島県相馬における余震は18日7〜8回、19日3回、20日1回、24日たびたび。10月2日1回、4日2回、6・8・10・19・25・27日各1回、11月5日2回、6・18・24日各1回、12月10日2回、24・26日各1回。津波記事を無視する。震源を宮城県沖とする意見もある」
    ※巻末注 略。

*1896年(明治二十九年)6月15日 19時32分 三陸沖 M=8 1/4
 「明治三陸地震津波  震害はなく、地震後約35分で津波が三陸海岸に来襲した。津波来襲直前に鳴響のあったところが多く、第2波が最大だった。またちょうど満潮時に当たっていた。波高の最も高かったのは綾里村で、被害の大きかった山田町では、戸数約800のうち100戸ばかりが残り 死者1,000人を算した。(中略) この地震は地震動に比して津波が大きく、かつ海水の干退が比較的小さかったのが特徴である。この地震津波による被害は文献により多少異なる。(略) 死者総数は343(青森)、 18158(岩手)、3452(宮城)、6(北海道)の計21959人である。有感余震回数は.....あまり多いとはいえない」
    ※巻末注 略。
   [最大波高30m以上で、500km以上の海岸線に顕著な被害がある]
   [注:山下文男、1982、哀史三陸大津波 青磁社]

*1897年(明治30年)8月5日 09時10分 仙台沖 M=7.7
 「侵害はなかった(桑折で倉小破1)が、小津波が釜石から雄勝あたりまで襲来した。釜石では波高4尺(1.2m)、盛では約1丈(約3m)だった。襲来時刻は北上川河口で震後10分、盛で30分、志津川で15分である。盛では津波は6回、周期約10分であった。(略) 16日16時50分(M=7.2)ころ、かなりの余震があった」
   [波高2m前後で、海岸の家屋を損傷し船艇をさらう程度]

*1901年(明治34年)6月15日 18時34分 陸中沖 M=7.0
 「津波があり、宮城県で苗代約50町歩(約50ha)に被害」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1901年(明治34年)8月9日 18時23分 青森県東方沖 M=7.2
 「翌10日03時34分(M=7.4)にも地震があった。青森県三戸郡で被害が最大で上北郡がこれに次ぐ。(中略) 宮古近海で9日夜、高さ2尺(0.6m)くらいの小津波が7〜8回 来襲したが、10日にはなかった。(以下、略)」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1915年(大正4年)11月1日 16時24分 三陸沖 M=7.5
 「石巻辺で屋上の天水桶墜落。小津波あり。志津川湾、荒浜村で高さ2〜3尺(0.6〜0.9m)。
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1927年(昭和2年)8月6日 06時12分 宮城県沖 M=6.7 震源の深さ=25km
 「石巻で家屋小破、渡(ママ)波で学校の壁に亀裂を生じ、岩石煙突折損3。桶谷町で亀裂から濁水が噴出した。白河城址の石垣崩れ、その他福島県でも小被害あり。塩釜で小津波、全振幅15cm」

*1928年(昭和3年)5月27日 18時50分 三陸沖 M=7.0 震源の深さ=27km
 「喜多丸は震央付近を航行中海震を感じ、甲板上で自己の中心を失うほどであった。小津波、石巻で全振幅25cm」

*1933年(昭和8年)3月3日 02時31分 三陸沖 M=8.1 震源の深さ=10km
  三陸地震津波
 「地震による被害は少なく、三陸地方で壁の亀裂、崖崩れ、石垣・堤防の決壊があった程度。震後約30分〜1時間の間に津波が北海道・三陸の沿岸を襲い大きな被害が出た。とくに、岩手県田老村田老では人口1,798人のうち、死763、傷118、戸数362のところ、358軒が流出し全滅といってよいほどの被害を受けた。また、その北の小本村小本でも、戸数145のところ流失77、人口792のうち死118もあった。綾里湾では波の高さが28.7mにも達し、白浜では戸数42のうち32が流失し、死66もあった。同村の港上、港下もほとんど全滅した。この津波は近代的な研究体制が整ってはじめてのものだったので各種の研究が行われ、V字形の湾、U字形の湾の順に波高が低く、遠浅の凸凹の少ない海岸では大津波にならないことが明らかにされた。(中略) 津波の波源はかなりの広がりをもっている。この場合は......長軸の長さ500km、短軸の長さ145kmに及ぶ大きなものであった。また、津波の周期としては5分くらいのものと10分くらいのものが著しかった。明治29年の津波の教訓を生かしたところでの被害は少なくて済んだ。また、この津波の後に集落移転、避難道路・防潮堤・防潮林等の対策をとった町村が多い。(略) この地震で地鳴りや大砲のような音が東北地方各地で聞こえた。この原因については一部は津波によるものとの説もあるが、井上[注:井上、1934、地震研究所彙報、別刷1] は本震および余震に伴った地鳴りと考えた。また、各地から発光現象の報告があったが、確からしいのは三陸沿岸で見られた津波に伴うもので波の山が光ったりした。これは発光性浮遊生物が原因とも考えられている。さらに、.....調査によると底着性珪藻類が地震に先立って海の表面に出現したらしい。このほか、前兆現象としては三陸沿岸で2月ころから井水が減じたり、2日くらい前から潮位が低下したことが報告されている。(以下、略) 」
   [波高10〜20mで、400km以上の海岸線に顕著な被害がある]

*1936年(昭和11年)11月3日 05時45分 金華山沖 M=7.5 震源の深さ=61km
 「(略) 小津波あり。八戸で全振幅67cm、女川で波の高さ約3尺(約0.9m)とい
う」
  ※死者は出なかったが、宮城・福島両県で建物・道路等に被害あり。

*1938年(昭和13年)5月23日 16時18分 塩屋埼沖 M=7.0
 「被害は小名浜付近の沿岸と、内陸の福島・郡山・白河・会津若松付近にあった。(略) 小名浜に震後22分で小津波(全振幅83cm)が押し寄せた。(以下、略) 」

*1938年(昭和13年)11月5日 17時43分 福島県東方沖
  M=7.5 震源の深さ=30km
 "福島県東方沖地震"
 「大地震が相次ぎ余震のうち規模6.9以上のものは、5日19時50分(M=7.3 震源の深さ=30km [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある] )、6日17時54分(M=7.4 震源の深さ=0km [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある])、7日06時39分(M=6.9 震源の深さ=20km [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある])、30日11時30分(M=6.9 震源の深さ=20km) である。震害は少なく浪江・福島・請戸等、県内東部の各地で、小被害。(中略) 津波が沿岸を襲った。(略) ........5日19時51分、9日11時22分、16日20時08分の地震も津波を伴った。津波の被害なし。余震は多く11月中の総計1.626(うち有感300)、12月中155(23)である。(以下、略)」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1952年(昭和27年)3月4日 10時22分 十勝沖 M=8.2 震源の深さ=0m
  "十勝沖地震"
 「地震による被害は北海道に限られている。津波は本邦の太平洋岸を襲った。(中略) 津波は(北海道の)浜中・厚岸に最大の被害をもたらした。琵琶瀬湾からの津波が霧多布を通り抜けて浜中湾に出て高さ約3mに及んだ。このときに琵琶瀬湾の流氷が割れて(2?、厚さ0.6mくらい〜5?、厚さ1.3m)押し寄せ家を壊した。厚岸では波高6.5mに達した。一般に波高は北海道で3m前後に達し、三陸沿岸では1〜2mのところが多かった。なお、検潮儀による津波の高さは八戸2m、広尾1.8m、女川1.1m、銚子16cm、横浜10cm、伊東5cmで、痕跡は四国まで観測された。
 この地震は気象庁で1952年津波警報システムが正式に実施される直前の大地震であったが、地震の前日 3月3日は昭和8年の三陸沖地震の記念日でもあって津波訓練をしたばかりであったので津波予報が有効に働いて、被害を軽減することができた。(以下、略)」
   [波高4〜6mで、家屋や人命の損失がある]

*1952年(昭和27年)11月5日 01時58分 カムチャッカ半島南東沖
  M=9.0 震源の深さ=浅
 「地震は日本から1,500km以上離れているが、三陸沿岸・北海道東部・輪島・日立などで有感だった。震後2〜5時間して北海道から九州に至る太平洋岸に津波が来襲した。波の高さは北海道で約1m、三陸海岸では1〜3mで十勝沖地震のときよりも高く、福島県沿岸で1m、下田でも1m、尾鷲で60〜70cm、九州でも1m近かった。各地で田畑や家屋に浸水し、ノリ・カキ養殖施設や漁船・漁具の破損・流失があった。浸水家屋は1,200戸に達した。
   [波高2m前後で、海岸の家屋を損傷し船艇をさらう程度]

*1958年(昭和33年) 07時58分 エトロフ島沖 M=8.1 震源の深さ=80km
 「地震による被害は少な」かった。「震後津波が日本の太平洋岸・オホーツク沿岸を襲った。波の高さは花咲における81cmを最高とし、浦河がこれに次いで65cmであり、宮古では養殖のカキ棚が流失したくらいで被害は少なかった。(以下、略)」
   [波高2m前後で、海岸の家屋を損傷し船艇をさらう程度]

*1960年(昭和35年)3月21日 02時07分 三陸沖 M=7.2 震源の深さ=0km
 「前日の22時36分(M=5.6 震源の深さ=20km)、22時45分に前震あり。本震により青森・岩手・山形の各県にわずかな被害と地変を生じた。津波を生じ、三陸沿岸で波に高さ50〜60cmで被害なし。23日09時23分(M=6.7 震源の深さ=0km) に最大の余震を生じ小津波を発生した。波の全振幅は八戸16cm、宮古16cm、釜石20cm、鮎川29cmの小さいものだった。(以下、略)」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1960年(昭和35年)5月23日 04時11分 チリ沖 M=9.5 震源の深さ=0km
  "チリ地震津波"
 「地震の翌日02時20分ころから津波が日本の各地に押し寄せ、日本海岸にも達し、多大の被害を出した。全国で死119、不明20、傷872。......(津波の)到着時刻は西に行くほど遅れ、九州では3時半ころになり、日本海側では6〜13時ころになっている。(略) 波の高さは東北日本で大きく、西に行くに従って減り、日本海および瀬戸内海では全振幅20〜50cmくらいであった。また岬の先端ではその付近に比して波高が高く、20〜30分の比較的に短い波が顕著だった。沖縄にも6時10分ころ襲来し、奄美大島で波の高さ4.4m、沖縄本島大浦(久志)で3.3mに達した。このように日本で波が大きかった一因は、震源から四方に出た波が日本付近で収斂したためである。とくに被害の大きかったのは宮城県の志津川で、波は約1km内陸に達し、死34、傷560、不明3、家屋全壊986、半壊364、流失186、床上浸水1,756に達した。(略) 津波警報は発令されたが、津波の第1波がきてからである。場所によっては遅ればせながら警報が有効に働いたが、一部では不十分な点があり、これを機とし、遠地地震に対する津波警報システムが確立された。この津波は、日本近海地震による津波と異なった性質を示した。周期が近地津波より長く、日本海や半島の裏側にも達した。(略) また、大船渡湾や広田湾では湾口より湾奥で波高が2〜3倍大きかったが、三陸津波(1933)のときには、逆に湾口の方が湾奥より2〜3倍大きかった。類似の現象がいくつかの湾で見られた。(以下、略)」
   [波高4〜6mで、家屋や人命の損失がある]〜[波高10〜20mで、400km以
   上の海岸線に顕著な被害がある]

*1964年(昭和39年)3月28日 12時36分 アラスカ南部
  M=8.5 震源の深さ=20km
 「津波が太平洋沿いの各地を襲い、全振幅は花咲で70cm、釧路164cm、八戸140cm、大船渡130cm、ハワイ 6フィート(1.8m)、Kodiak 30フィート(9m)で三陸海岸の南部で軽微な被害」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1965年(昭和40年)2月4日 14時01分 アリューシャン列島中部
  M=8.7 震源の深さ=36km
 「津波により三陸地方南部沿岸の養殖貝類に多少の被害。津波の最大全振幅は花咲42cm、大船渡73cm、長津呂25cm、串本76cm、油津47cm、波の高さはSemya島で10m、アッツ島で3.2m」
   [波高1m前後で、ごくわずかの被害がある]

*1968年(昭和43年)5月16日 09時49分 青森県東方沖
  M=7.9 震源の深さ=0km
  "1968年十勝沖地震"
 「被害は北海道・青森・岩手を主とし南は埼玉にまで及んでいる。........青森県で被害が多かったのは前日までの3日間に県東部の火山灰地帯に100mm以上の雨が降り、地辷りを生じたことが一因となっている。(中略) 余震回数は、........とくに16日19時39分( M=7.5 震源の深さ=40km)と6月12日22時42分( M=7.2 震源の深さ=0km)は大きい余震だった。(略) この地震に先立ち5月11〜12日に宮古東方約100km沖の3点に海底地震計を設置し、16〜17日に引き上げた(うち1点の地震計は発見できなかった)。これによりはじめて震源域における前震活動についての貴重なデータが得られた。この地震によりかなりの津波が生じ、太平洋沿岸の各地を襲った。(略) 波のいちばん高かったのは八戸の北(百石ー北沼)、野田・宮古湾・大槌湾等で、平均潮位上約5mに達した。ちょうど干潮時であったせいもあり、津波の被害はそれほどでもなかった。浅海漁業施設に被害を及ぼし(北海道・青森・岩手)、浸水家屋を出した。チリ津波後防潮堤を築いたために被害が少なくてすんだところも多い。(以下、略)」
   [波高4〜6mで、家屋や人命の損失がある]

*1978年(昭和53年)6月12日 17時14分 宮城県沖
  M=7.4 震源の深さ=40km
  "宮城県沖地震"
 「同日17時06分に前震(M=5.8 震源の深さ=40km)、6月14日20時34分に最大余震(M=6.3 震源の深さ=40km)があった。(略) この地震では宅地造成地域の被害が目立ったが、仙台の旧市内の被害は少なかった。(略) この地震の被害は東北第一の都市仙台に集中したので、日常生活に不可欠なライフラインについて詳しく調査された。(略)
 津波は北海道から銚子に至る太平洋沿岸に達した。最大波高(半振幅)は仙台新港の49cmであった。いちばん早く到達したのは鮎川で17時33分であった。(以下、略)」

*1989年(平成元年)11月2日 03時25分 三陸はるか沖
  M=7.1 震源の深さ=0km
 「10月27日ころから地震活動が活発になり 11月2日には有感地震が11回あった。11月末日までで有感39回。12月は7回であった。北海道・三陸沿岸で高さ約50cm未満の津波が観測された。三沢漁港で壁面の一部落下があった」

*1994年(平成6年)10月4日 22時22分 北海道東方沖
  M=8.1 震源の深さ=28km
  "平成6年(1994年)北海道東方沖地震"
 「最大震度は釧路・厚岸で?。震央は色丹島沖。10月中の有感余数?-1、?-13、?-36、?-107 の計157回 (略) 津波は太平洋沿岸各地を襲った。釧路市内で床下浸水11棟、岩手県で床下浸水2棟、水産被害2,138件、宮城県で床上・床下浸水各23・34件、水産・養殖施設に被害があった。(以下、略)」

*1994年(平成6年)12月28日 21時19分 三陸はるか沖
  M=7.6 震源の深さ=0km
  "平成6年(1994年)三陸はるか沖地震"
 「(略) 翌年1月7日 07時37分に最大余震(M=7.2 震源の深さ=47.8km)が発生。(略) 小津波が沿岸各地を襲った。(以下、略)」

 それから17年、東北太平洋沖地震が東日本を襲い、大津波が三陸沿岸を襲う。

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(※)『日本三代實録』中 "貞観の地震" について、
   国立国会図書館デジタルコレクション:『國史大系』第四巻 經濟雑誌社集
『日本三代實録』巻第十六 太上天皇(清和天皇)  起貞観十一年正月盡十二月
     左大臣從二位兼行左近衛大將臣藤原朝臣時平等奉  勅撰
(貞観十一年五月) 廿六日 癸未
陸奥國地大震動。流光如晝隱映。頃之。人民叫呼伏不能起。或屋仆壓死。或地裂埋殪。馬牛駭奔。或相昇踏。城カク[土+郭] 倉庫。門櫓牆[原文:土ヘン]壁。頽落 テン[眞+頁]覆。不知其數。海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝カイ[サンズイ+回]漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不辯其涯シ[サンズイ+矣]。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
[書き下し]
(貞観十一年五月) 廿六日 癸未
陸奥国ノ地大イニ震動シ、流光晝ノ如ク隱映ス。頃ク、人民叫呼シ伏シテ起ツ能ハズ。或ルハ屋仆レテ壓死シ、或ルハ地裂ケテ埋殪ス。馬牛駭キ奔リ、或ルハ相昇踏ス。城カク[土+郭]倉庫 門櫓牆壁 頽落?覆、其數ヲ知ラズ。海口哮吼シ、聲ハ雷霆ニ似ル。驚濤涌潮、泝カイ[サンズイ+回]漲長シ、忽チ城下ニ至ル。海ヲ去ルコト數十百里、浩々トシテ其ノ涯シ[サンズイ+矣]ヲ辯ゼズ。原野道路、惣テ滄溟ト爲ル。船ニ乘ルニ遑アラズ、山ニ登ルモ及ビ難ク、溺死スル者千バカリ。資産苗稼、殆ド孑遺ナシ。
[訳]
869年7月13日(貞観十一年五月廿六日癸未)
陸奥国の地が大層大きく震動し、流れ出る(ような)閃光が真昼のように輝ったり翳ったりした。しばらくの間、人々は大声で叫び、地に伏せて起き上がることもできない。ある者は家屋が倒れて圧死し、ある者は地が裂けて埋もれ死んだ。馬や牛は驚いて疾駆し、ある馬(たち)は次々と(驚いて)棹立ちになった。城郭や倉庫、門、櫓、土塀は崩れ落ちひっくり返って、その数を(数えきれず)知らない(わからない)。河口はたけり叫び、(その)音は(激しい)雷鳴に似ていた。逆巻く海水は(突如、勢いよく)たぎり溢れ、流れを遡って(広範囲に)満ち満ちて、たちまちのうちに(多賀)城下に至った。海から隔たること数十里から百里(の広大な範囲に)、(海水が)盛んに流れ広がり、その果ても限りも明らかでない。原野も道路もすべて大海となった。(その間、人々は)船に乘るためのわずかな時間もなく、山に登るにも間に合い難かった。溺死する者千人ばかり。(生きていくための)元手も稲の苗も、ほとんど残ったものはなかった。

[3] 2004年12月26日、現地時間 7 : 58 : 53(UTC 0 : 58 : 53)。インドネシア スマトラ島 バンダ・アチェ南南東250km(北緯3度18分57.6秒 / 東経95度51分14.4秒)において発生した地震。震源の深さ 30km。 Moment magnitude 9.1。津波の平均波高は10m、地形によって津波は34mに達し、インド洋沿岸諸国における死者・行方不明者数は 30万人にのぼる。

[4] (その一)
   唐桑町 "宿" 、曹洞宗 亀谷山地福寺境内「大海嘯記念碑」[明治三十七(1904)年建立 (併せて、明治二十九(1896)年五月(新暦 6月16日) "明治三陸地震津波" 七回忌法要を営む) ] ※碑文は漢文。書き下し:伝 地福寺前住職片山卓然
  cf.『柳田国男の忘れ物』松本三喜夫著 青弓社刊 2008.3 pp.110〜111
「丙申大海嘯記念碑 正二位侯爵久我通久題額 輓近我が奥羽の境?天変地妖に阨に罹り何ぞ其甚しきや 磐梯吾妻二山の噴火酒田の震災青森の凍禍皆人世稀有の惨事にして 三陸海嘯に至っては即ち災禍の最も苛惨の極復之に過ぎたる莫し 明治二十九年丙申六月十五日初夜 東海鳴動恰も百雷の一時に相撃が如く 俄然怒濤洶湧陸地に奔騰し 岩石を崩し樹木を抜き忽ち邱山に激し 呑吐数回其害の及ぶ所宮城岩手青森三県沿海の境無慮数十百里 人畜を殺傷し田園を漂湯(ママ)し屋宅船舶を亡滅し其数実に枚挙に遑あらず 宮城県本吉郡唐桑村亦其害を蒙る頗る甚し 村本称して七百五十三戸五千九百十六口にして 今之が為め民戸流失二百二十八 男女溺没八百三十六人  宅地廃絶十町三段七畝十六歩 田園山林荒亡三十三町七畝 船舶四百八十一隻 馬匹七十七頭 亦其所在を知らず偶一生を九死に得る者皆資材を亡す衣食を失す 親子夫妻大概離散し兄弟朋友相済ふに遑有らず 慟哭悲鳴の声天地震動凄愴惨痛名状すべからず 一村尚然り況や三県数郡の惨状果して如何が 天皇遥に情況を聞き軫念痛功(ママ)特に侍臣を遣して金を賜ふて撫恤し 本村は辱く其七百金を得 又朝野の士民財貨を醵出し急を救ふ本村亦三萬一千余金を得 其他志士仁人同心協力或は死者を葬り或は傷者を療し或はカン[鰥の別字]寡孤独凡そ相愍相済ふの道復竭ず 村民豈に長く其徳を記持して常に思ひ之に報ゆるを忘る可けんや 乃ち片山多賢鈴木哲朗の諸氏同志相謀り 之を石に勒して地福寺境域に建て 以て後昆に告げんと欲して来って文を吾に請ふ 吾母の噴(ママ)亦其沿海の郷に在り 幸に難を免るゝを得ると雖同情禁ず可からず 遂に為して曰く 宿債の催する所仏天ノガ[シンニョウ+寅]れ難し 衆の徳は吾を極む讒に憾み無きを得 徳を以て徳に報ゆるは先賢の讃する所 後昆克く念じ慎んで放漫なる勿れ
 明治三十五年壬寅十月 青巒山居士大内退 撰文並に書丹 」

[通釈]※原文(碑そのもの)に当たっていないため、通釈に"ぎこちない"箇所あり。
「丙申("ひのえさる"の年)大津波記念碑 正二位侯爵久我通久(が)題額(を記す)
 近年、我が奥羽の地域においては、しばしば天空に起きる異変や地上の妖しい変異によって苦難に遭うこと、なんとその(度合いの)激しいことか(その激しさは尋常ではない)。磐梯と吾妻の二つの山の噴火、酒田の震災(a)、青森の冷害(b)、(これらは)みな人の世に滅多にない痛ましいできごとであって、三陸津波に至っては、他ならぬ災禍の最たるもの、痛ましさの極みであって、またこの津波(の悲惨)を越えるものはない。明治二十九年丙申六月十五日午後八時ごろ、東の海が鳴動し、まるで百雷が一時に互いに撃ちあうようで、にわかに怒濤沸き立ち逆巻いて陸地に奔り騰がって 岩石を崩し樹木を抜き倒し、たちまちのうちに丘に激しくつき当たって 呑み吐く(ように押し寄せては引く)こと数回、その害の及ぶところ宮城・岩手・青森三県の沿海地域およそ数十里から百里(の広範囲に及び)、人や家畜を殺傷し田畑を(水浸しにして)漂い浮かせ、家々や船舶を滅し去りその数は実に多くあり過ぎていちいちは数えきれない(ほどである)。宮城県本吉郡唐桑村もまたその津波の害を蒙ること、頗る(その)度を超えている。唐桑村はもともと言うと753戸、5916人であって、この度の津波のために人々の家で流失したもの228戸、男女の溺死者836人、宅地で廃れなくなったもの10町3段7畝16歩[10.3ha] 田畑・山林の荒廃してなくなったもの33町7畝[32.8ha]。船舶481隻 馬77頭またその所在がわからない。たまたま九死に一生を得た者もみんな資産をなくし着る物・食べる物を失った。親子・夫婦もたいてい離れ離れとなり、兄弟や友人も互いに助け合うにその暇さえない。嘆き泣き叫び悲鳴をあげるその声が天地を震わせて、いたましくも凄まじく酷いありさまはとても言い表すことができない。一村でさえこのような情態である。まして三県数郡の惨状は果たしてどのようなことになっているであろうか。天皇は遥か(宮城にあって三陸の)情況を聞き、心痛め身を切られるほどの痛苦を感じて、特別に侍臣を遣わし、金を下賜して慈しみ哀れみ、当唐桑村はかたじけなくも、そのうちの七百金を得た。また全国の士族と平民とが有価物など金品を出し合い、急場を救う。当村また三万一千余金を得た。その他、高い志をもつ人、仁愛の深い人が心合わせて協力し、或る者は死者を葬り、或る者は負傷者を療治し、あるいは妻をなくした者、夫をなくした婦人等々、孤独となった者、おしなべて互いにあわれみ、互いに助け合うの道、またさらに尽きることがない。(唐桑村)村民、どうして、その徳を記持して常に(その徳を)思い、それらの徳に報いることを忘れようか(忘れはしない)。そこで片山多賢、鈴木哲朗を始めとする諸氏の、志を同じうする者が相談し、これら(の徳)を石に刻んで地福寺境内に建立し、もって子孫に告げたいものだと(思い、私のところに)やって来て文を(書いてほしいと)私に要請した。私の母の墳墓がまた三陸沿海の郷(c)にあり、幸いに難をのがれることができたといえども、(遭難した人々への)同情を禁ずることができない。遂になして曰く "前世の債務の催すところ、仏天は遁れがたい"。人々の徳は私を極める讒に憾みのないことを得た。徳をもって徳に報いるのは先哲の賞賛するところである。子孫の人々よ、(この度の災害を)十分心に留めて忘れず、手落ちのないよう気をつけて、(津波を)みだりに侮ることのないようにせよ。
 明治三十五年壬寅("みずのえとら"の年)十月 青巒山居士大内退(d) 撰文並に書丹

[碑文の注]
(a) 1894(明治二十七)年10月22日 17時35分 (M=7.0) 発生の "庄内地震" を指す
 か。酒田ではこの地震によって大火が発生している。
(b) 明治三十五年、東北における夏期の異常低温("凶冷")を指すか。この年、青森
 の7月の平均気温は 18.9℃ だったという。
(c) 宮城県宮城郡七ヶ浜町東宮浜字寺島を指すものと思われる。
(d) 大内青巒[弘化二(1845)年乙巳四月十七日〜大正七(1918)年十二月十六日]
 明治時代の仏教思想家。還俗居士。名は退、字は巻之、号は藹々・露堂。通称は青巒。仙台市東五番丁に生まれる。父(仙台藩士大内権右衛門)の死後、宮城県七ヶ浜鳳寿寺住職であった兄、俊董のもとで過ごし、母から「詩経」の口誦を受けるが、母にも死別。仙台藩士但木土佐に養育される。養父の死後、再び兄のもとに戻る。その後、水戸に出て曹洞宗の照庵のもとで出家、泥牛と号した。万延元(1860)年師照庵に従って江戸に赴き、大槻磐渓に漢学を学び、仏教研究に志し、禅を原坦山に、仏典講読を福田行誡に師事し深く究めるところがあった。のち推挙されて本願寺法主光尊の侍講となる。以来禅浄一致を唱え還俗居士となって在家主義の仏教を主張した。明治八(1875)年七月『明教新誌』を発行。明治十二(1879)年には盲聾唖者の築地訓育院高等普通学校の設立など社会事業にも尽力。明治二十二(1889)年、曹洞扶宗会などを結成して、民衆教化の標準『洞上在家修証義』を草し、戒律と報恩の教理を基調とする宗教的な実践の体系化を試みる。さらに鴻盟社を結び、大内門下を含む百余名の社員の中から著名な僧侶・学者が輩出した。著書には『碧巌集講話』など禅学関係のものが多い。大正三(1914)年東洋大学学長に就任。同七(1918)年十二月十六日永平寺参詣宿泊中脳溢血で倒れ七十四歳で没した。

  (その二)
 山口弥一郎が、気仙郡綾里村「小石浜の村端れ、峠道の上り口に、万死の霊と題する明治二十九年の災害碑がある」とし、「旅の蒼惶の間に不鮮明な碑より写し取ったので誤字脱字のなきも保し難いが」として、紹介しているものがある。
「回顧明治廿九年六月十[拾か]五日古今未曾有之大海嘯ニ而我三万之同胞ハ無辜而化海底藻屑又財産蕩尽殆以千万金数寔東海三陸之地瞬時雨[而か]ヒン[獣偏+賓]獺之化楼所死[者 脱字か]永ク苦厄之間ニ多恨ノ鬼ト成リ生者尚失六親眷属哀傷無情[惜か]生涯多涙ノ人ヲ不脱アア[口偏+喜]何此無限怨不忘悲何日乎消哉生霊之在世[卅か]外勤[勧か]国益内挙家道其功績今尚芳シ生霊ノ徳偉也ト可謂唯惜昊天無情天命不仮今ヤ幽明遠隔途又不能[見 脱字か]只怨天訴地其不常一[ニか]哭己生霊逝辺[也か]天為メニ玄ク草木為メニ哀ヒ鳥鳴為メニ哀シ吁々
 明治卅年七月建之
  本村死者千五百人 負傷八十二人 流失家屋二百戸 無害百五十戸 生存千
二百二十人
  本郡死者七千四十人 流失家(ママ)千六十四戸」
     ※写された碑文が正確さを欠くため、通釈を思い止まる。

[5] 1970年7月 中央公論社刊。その後、1984年『三陸海岸 大津波』と改題。

[6] 『三陸海岸 大津波』吉村昭 文春文庫 2004年3月刊 pp.102〜141

[7] 青森県八戸市から福島県相馬市までの海岸線を中心に設定された、
  全長900km超の自然歩道。

          
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