休暇村 陸中宮古
[休暇村 気仙沼大島へ]
東北の休暇村、"陸中宮古" と "気仙沼大島" を訪ねるに際し、思案したのが、宮古から気仙沼への移動手段だった。
地図を見ていると、宮古からJR山田線で釜石に向かい、釜石で三陸鉄道南リアス線に乗り換えて "盛" へ。"盛" からはJR大船渡線に乗って気仙沼に行くのが、距離的には断然近そうである。三陸鉄道南リアス線の復旧も報じられていた。
だが、列車の本数や接続状況を考えると、不安が残った。"なら、いっそ盛岡に戻り、新幹線で一関まで行って大船渡線に乗り換え、気仙沼に向かった方がいいのではないか" と思い、ダイヤを事細かに調べる前に決断。後に、これが正解だったことを、地元の人の話によって知る。それにしても、間に2時間ばかりの待ち時間を挟む、一日がかりの長い移動はさすがに疲れた。
それは、JR一関駅でのことだった。
大船渡線のプラットホームを尋ねた私に、年輩の男性駅員が「大船渡線の列車は、今出たところです」と言う。もちろん、この "不合理" なダイヤの "設定" は、旅の計画を立てた時点で知っていた。けれど、わざわざ "今出たところ" だと言われると、「たった1、2分の違いで乗り換えできないなんて......。次の列車まで2時間待ちでしょ。ダイヤの調整ってできないんですか」と、言わずもがなの一言を言った私に、「いやいや申し訳ない」と謝ってくださる。内心 "謝ってもらってもなあ.......。なら、なんで調整しないの" 、と思う。解せない。
途中下車して待ち時間を潰そうと、改札で事情を話し、近くに喫茶店はないか尋ねる。ここでも "不便をかけてすまない" と年輩の駅員の方が謝ってくださる。「いえいえ」と言いながら、気持ちはやはり複雑だった。
駅構内を出ると、駅前は "空ろ" で、タクシーばかりが目につく。1995年夏、東北六座を踏破した際に降り立った一関駅とも思えない。もはや別もの。
教わった駅前の喫茶店に向かい、お昼をとる。喫茶店の女主人も、以前は果物店や土産物屋もあってけっこう賑わっていたのだが、駅前は年々さびしくなるばかりだ、と。町の中心街は駅からは離れた郊外に移っているらしい。
大船渡線に乗ったのは午後も2時を回っていた。乗客は、それなりにありはしたものの、座席には余裕があった。
陸中松川駅に停車した短い時間、車窓に顔を近づけて、若い日の旅の思い出を辿るが、遥かに遠い過去の記憶にある風景を見いだすことはできなかった。50年の歳月はあまりに遠い。ただ、列車が動き出し、昔の面影残る引き込み線エリアが目に入った時、あの日の若かった自分を、一瞬見た気がした。
12月も下旬の気仙沼は、降り立つと早くも夕暮れの気配。
JR気仙沼駅からエースポート[気仙沼観光桟橋]まではタクシーで10分との案内。歩いてもよかったのだが、地理に不案内な私たちは乗船時間も気になって心急き、タクシーを選ぶ。乗り込んだタクシーの乗務員は温厚そうな中年男性だった。
津波の押し寄せたあの日、この方は非番で高台の自宅にあって難を逃れたとのこと。言いようがなくて「たいへんでしたね」と言う私に、「たいへんなんてものではなかったですよ」と言って苦笑された。そして「港からずっと入った駅近くまで床上浸水しました。中には津波で亡くなった人もありますが、ほんとうに真面目に逃げた人は助かっています。津波からは真面目に逃げることです」と言われるのだ。津波から逃れる方法は "この一言に尽きる" と、私たちは深い相づちを打った。
復興工事の進む港の灯りを後に、船[1]は気仙沼港の岸壁を離れた。暗い海に船のエンジン音だけが響く。すっかり夜の帳がおりて "大島" の島影は見えない。
休暇村のある気仙沼大島は、周囲約22km、面積8.50km2、気仙沼湾のほぼ中央に浮かぶ島で、2008、9年ころの人口は3500名あまりだったようだが、2018年現在、島の世帯数は1029、人口は2463人とのこと[気仙沼市役所調べ]である。
指示どおり乗船前に電話をしておいたので、大島の港 "浦の浜" には休暇村のスタッフが車で迎えに出てくださっていた。初めての地に夜降り立つのは不安なものだが、安心してタラップを降りる。この時間、送迎を願い出ていたのは私たちだけだった。
地図を見ると、休暇村は島の東側、船の着いた "浦の浜" とは反対側に位置する "田中浜" の高台に建つ。
施設は、1978年築造。鉄筋3階建てで、当時は和室35室、定員は150名だったようだ。その後もしばらくの間、和室のみ35室と客室については変わらなかったが、宿泊定員が115名となり、一人あたりのスペースに余裕を持たせた形になっていた。
この度、予約に際して尋ねてみたところ、洋室があるとのこと。どうやら二部屋が、その後、洋室にリフォームされたらしい。
現在、パンフレットには、全客室数:35室
和 室:33室
洋 室: 2室
と、記されている。
私たちは、洋室2室のうちの1室に宿泊。
一番奥まったところにある部屋は、旅館の造りによくある入り口に格子戸の付いた休暇村では珍しいタイプ。上がりがまちに靴を脱いで上がると、奥に向かう小廊下があり、部屋はその突き当たり。畳の部屋にベッドが設えてあった。最近言うところの "和洋室" の一種である。
部屋にはすでに暖房を入れてくださっていた。たいていの施設は空調によって室温が保たれている感じだが、ここでははっきり暖房とわかる温かさだった。手厚い配慮に感謝した。
ただちょっと驚いたのは、部屋の中と小廊下及び手洗いとの大きな温度差。さらに廊下の床の冷たさは瞬時に足裏から体にしみ入って身震いするほど。夜間にトイレに起きることのある連れ合いには靴下を履いて眠ってもらうことにした。私たちに血圧の問題はなく、温度差にさほど不安を感じることはなかったが、人によっては留意した方がよさそうなレベル。やっぱりここは東北なのだと思う。
翌朝、気仙沼大島の空は晴れ渡っていた。前日、船に乗った際は、星も見えない闇夜だったので、お天気に期待はしていなかったが、幸いだった。
朝食を済ませ、"亀山" と "十八鳴浜(くぐなりはま)" に向かう。
休暇村から亀山山頂までは約2.5km、徒歩で40分程度の距離である。
亀山 [標高:235m] は大島の北部に位置し、かつては "浦の浜" 近くの乗り場から山頂までを12分で結ぶ、全長903mの気仙沼市営リフトが運行されていた由。だが、2011年3月、東北地方太平洋沖地震に伴う大津波と、大津波によって倒されたタンクの重油に引火するなどして発生した大規模な火災とによって、リフトは破壊され、今では解体されてない。
気仙沼の津波による火災報道は、遠隔地に住む私たちの記憶にも残るものだが、その火は大島にも及び、島の北部を焼いた後、亀山に駆け上ったようで、3月12日夜から17日にかけて燃え続け、延焼面積は117haに及んだという。
休暇村を出発し、十八鳴浜への分岐を横目に、まずは亀山へ。県道208号を進んでいくと道の山側に "幟" の立つ石段が目に入る。大島神社拝殿正面に至る石段だ。拝殿には磐座が鎮座していた。
宮城県神社庁によれば、大島神社の御祭神は「倉稲魂神(うがのみたまのかみ)」の由。「創祀年代は明らかではないが、古くよりこの地に鎮座有りて、大島の産土神として奉られた。延喜の制、名神大社に列し「三代実録」に清和天皇貞観元年(859年、平安時代)正月27日条に従五位下より、従五位上に昇叙の事と見ゆる」とある。貞観元年の記録があるのであれば、大島神社の祭神は、貞観十一(869)年五月二十六日(7月13日)の貞観三陸地震[2]をも "知っておられる" ということだ。
亀山を駆け上った平成の大津波が因の "山火事" は、神社の背後数メートルまで迫ったものの、すんでのところで類焼は免れたとのことだった。
大島神社参拝を済ませて石段を下り、208号線に戻って、勾配のある車道を亀山山頂に向けて汗を拭き拭き上る。二人とも、すでにパーカーは腰に巻き、連れ合いなどはセーターを胸のところまでたくし上げている。
"外浜" への分岐がある坂道のカーブを曲がったあたりだったか、海側の道端に碑があった。傍に行って見てみると、 "水上不二" [3] の歌碑だった。
歌碑には、
「海はいのちのみなもと
波はいのちのかがやき
大島よ
永遠にみどりの真珠であれ
水上不二」
と彫られていた。
「気仙沼大島は "みどりの真珠" と讃えられる」という観光宣伝の文言の、よって来たるところを知る。
さらに少し進むと脇道があり、"亀山に至る 0.50km" と書かれた標識が目に止まった。車道のカーブをショートカットして直接山頂に至る道だ。枯れた松葉の散り敷いた地道は気持ちいい。
上り詰めたあたりに小さなお社があり、"愛宕神社" とあった。"火伏せの神さんを、いったい誰が、いつごろ、勧請したんだろう" と思いながら通過し、まずは山頂部を一巡り。"涙の松"の碑[4]や展望台、小亀山をぐるりと見て歩く。360度の眺望が眩しい。
"みどりの真珠"を育む揺籃のように.......
冬の碧い空と どこまでも穏やかな海
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頂上部の松林は若木のようで、木々は細く、空が透けて、冬の日差しが山肌に落ちている。震災後に植林されたものか.......。
昭和16年1月創元社より刊行された、柳田國男の『豆の葉と太陽』は、彼の「紀行文・旅に關する論文・放送原稿・講演筆記などをまとめたものである」が、その中に「海に沿ひて行く」という一文があり、気仙沼大島に触れた箇所がある。
「自分は繁華な氣仙沼の湊町を足掛りにして、あの附近の變化多き海端を見てあるいた。彎の對岸の大島は全國多數の大島の中でも、殊に土著の古いものゝ一つで、平地の表面は全部人間の手で整理せられて居る。しかも記録文書からは超越した、平穏無事なる農村であつた。............島の北部には高い峯があつて、參差たる山と海との風光を總攬する。東面には又僅かの水を隔てゝ、唐桑の御崎が横はる」と記し、対岸の唐桑半島の突端にある尾崎(御崎)神社を参拝したこと、そして「此半島もよく開けて居るが、北へ進むほどづゝ山が高く迫り村が遠くなつて、一番人けの少ない部分に至つて、宮城縣は終つてゐる」と記す。
石段下に腰を下ろし、ふと思う、 あの日、迫りくる炎を前に "愛宕さん" はたじろがれなかったか、と。
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この日の亀山は、すっぽりと蒼穹に覆われて心地よく、いい日に来たものだと、二人して頷き合う。日当たりのいい愛宕神社の石段下に腰掛け、持参の "ケルストストル" を食べながら、宮古から気仙沼への師走の旅を思った。
しばらく眺望を楽しみ、憩った後、リフトの頂上駅跡に下り、「三陸復興国立公園 気仙沼大島 亀山」と記された大きな看板の前を通って、県道を十八鳴浜に向けて戻ろうとしていた時、若い(?!)男女の乗ったオープンカーがけっこうなスピードでやって来て、ほどなく来た道を猛スピードで引き返して行った。小春のような穏やかな日和の静かな大島にあって、ひどく場違いな気がしたが、何が何でも人を呼び込もうとする風潮のもと、大島大橋の架橋工事が終了すると、こうした光景は常態となるだろう。残念だが、どうにもならない。
十八鳴浜へは県道の分岐にある標識にしたがって、しばらく車道を行く。やがて道の両側に家々の散在する小さな集落が現れる。先に進むと、道は地道になって、ちょっと陰気な樹林に入っていく。心なしか空気が変わったかなと思うころ、木々の間に海が見えてくる。浜辺に下りる最後のステップは、波に浸食されて危うい。ロープにしたがって迂回し、砂地に足を下ろす。靴底を通してさえ繊細さが伝わるほどに細かな砂だ。
浜辺に立ってみると、十八鳴浜[5]は思いの外、こぢんまりしていた。
砂を踏みしめ、連れ合いと二人、しばらく汀に遊ぶ。あっちにこっちにと歩いてみたが、この日、砂は幽けき声もあげなかった。
十八鳴の浜に寄せくる波の音は 午睡する海のやさしい息づかい
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澄んだ日差しの降り注ぐ波穏やかな師走も午餐の頃おい、十八鳴浜に余人の姿はなく、浜辺はどこまでも静かで、二人して夢幻の世界にいるようだった。あの日、この浜辺に押し寄せた大津波の様子を想像してみようとしたが、それさえもできないほどに穏やかな波がさざめくばかり........。
宿に戻って汗を流す。大きなお風呂は、温泉でなくても体がよく温まり、全身を心地よくほぐしてくれる。お腹もほどよく空いて夕食が待ち遠しかった。
"休暇村 気仙沼大島" の夕食には、"天然の良港・気仙沼港" に水揚げされる新鮮な魚介類が並ぶ。私たちの訪れた12月は、帆立や鮪、鮑、牡蠣、メカジキ等が特においしいと、"三陸の冬の味覚が詰まったお刺身の盛り合わせ" に海鮮鍋、メカジキのしゃぶしゃぶや、貝宝焼きと称する鮑・帆立・牡蠣の蒸物、それに気仙沼特産フカヒレの茶碗蒸し等々がテーブルに並べられた。珍しかったのは、胡麻油のタレで、サメ(?!)の肝臓だか腎臓だかを、薄くスライスしたものをいただいたこと。お酒を嗜む人にはよい "あて" になるはずだ。
極月の休暇村は、利用客も少なく、その半分は工事関係者と見受けられた。そのためか、一部を除いてバイキング形式での料理提供はほとんどなかった。が、その分、女性スタッフ、菅原有沙さん(休暇村情報誌「倶楽部Q」で知る)が、細やかな心遣いで、朝食時も夕食時もほんとうに丁寧に給仕くださった。
私たちのみならず同宿の人々それぞれへの行き届いた心配りを見ていた連れ合いは、彼女の立ち居に心動かされたらしく 「若い人でも細やかな気配りのできる人がいるんだなあ........」と呟いた。同感だった。
明くる日も、三陸気仙の師走の空は薄曇りながら穏やかに晴れていた。
朝食を終え、大急ぎで身支度を調える。7時45分の送迎バスで浦の浜港まで送っていただき、8時発のフェリーに乗船。関西を目指して辿る家路はやはり遠い。
デッキに立つと、さすがに冬の海風は冷たく頬を刺す。目の前をゆっくりと過ぎていく白いアーチ型の「気仙沼大島大橋」[6] は、架橋工事が平成30年度に完成すると聞いた。東北地方太平洋沖地震・津波からの復興施策の一環として、島は本州と結ばれるのだ。
亀山より見た"大島大橋"と気仙沼の湊町。
100年後の自然の猛威を、どう受けて立つのか.......。
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ゆっくりと船の入ってゆく気仙沼港の景色を見ながら、私は不安な思いに駆られた。この被災の地の被災の人々は、足かけ7年という歳月を経た今、心的、物的な "被害・損害" をどう見つめ直し、必ずやって来る次の巨大災害に、どう向き合おうとしているのか、と。被災前の姿に準じた復興を目指すかに見えるその有り様に、再び繰り返されるであろう悲惨が予見されて、私の不安は募った。
独立行政法人防災科学技術研究所 客員研究員 水谷武司氏は、
"2011年東北地方太平洋沖地震の津波による人的被害と避難対応"
「防災科学技術研究所主要災害調査」第48号 2012年3月号 において、以下のように述べる。
「巨大地震が頻繁に発生する日本海溝に直面する東日本太平洋岸は、反復して大きな津波に襲われる宿命にある。海溝型巨大地震が起これば、津波はほぼ等しく海岸全域に押し寄せ、震源近くの海岸低地は激しい流れに呑み込まれる。高潮とは全く異なり津波は数十メートルにも高くなる可能性がある。リアス式海岸ではとくに大きく増幅されることはよく知られている。津波防波堤などの構造物の機能には大きな限界があることは明らかに示された。たとえ緊急避難により人命の被害を防ぐことができたとしても、海岸低地の建物、施設は完全な破壊を受ける」と述べ(93p.)、
東北地方太平洋岸に押し寄せた大きな津波被害には、
「明治以降でも1896年明治三陸津波 (死者約2.2万)、1933年昭和三陸津波 (死者約3千)、1960年チリ地震津波 (死者約100) がある。今回の津波による死者数 (約2万) は、昭和三陸を大きく上回り、明治三陸に匹敵する規模となった。津波の規模は明治三陸のそれよりもかなり大きかったこと、両三陸津波の被害が牡鹿半島以北のリアス式海岸部に限られたのに対し、今回の津波は牡鹿半島から房総に至る延長700mの海岸をも襲ったことが被害を大きくした。津波による住家全壊数およそ11万棟は、明治三陸の約1万の10倍を超える大きさである。この大量の建物被害と、これにかなり比例的な関係で生じる人的被害の多さは、昭和津波以降に、とりわけ1960年津波以降の高度成長期に、低い海岸低地の居住・利用が著しく拡大したことが基本要因になっている。
地震の震源域は、八戸沖から鹿島沖に至る南北500km、東西200kmの範囲に広がり、波源域もほぼこの範囲である。この波源域から発進した津波は、地震の初動のおよそ30分後に三陸南部海岸に到達し、順次東日本太平洋岸全域に伝播していった。........(略).........津波の高さは、岩手北部から牡鹿半島に至る延長230kmのリアス式海岸でおよそ15〜30m、最大遡上高40m、牡鹿半島の南からいわきに至る延長150kmのほぼ平滑海岸で10〜15m、最大遡上高20m、茨城・千葉の海岸で5〜10m、青森海岸で5m程度であった。波高の増幅が著しいことで知られるリアス式海岸でやはり波高が高いことが明瞭である。この海域では外洋の水深が大きいので、津波も早く到達して余裕時間が短くなる。最初はわずかな引き波があった海岸が多く、津波の確かな前兆として役立った。
津波の浸水面積は全体で561km2、山手線内側の面積の約9倍である(国土地理院資料)。低平な海岸平野の連なる北上川から阿武隈川に至る海岸域での浸水面積は300km2に及ぶ。浸水域の総人口は52.7万人、世帯数は18.5万である(総務省統計局資料)。津波による死者・行方不明者は約2万であるので、浸水域常住人口との比率で表す人的被害率は3.8%となる。(略)
津波の破壊力(流体力)は水深(津波の高さ)が大きいほど強くなるが、これが3〜4mにもなれば破壊力は十分に強大であるから、海面に近い標高の海岸低地に集落があれば、数m程度の津波でほぼ完全な破壊を受ける」と(pp.93〜94)。
そして、
「津波による人的被害の規模を決める主要因には、(1)津波の高さや流速(津波周期に関係)などの外力強度、(2)住民の危険認識、地区防備態勢、警報発表・伝達の状況、震度・余裕時間・時刻等の外的条件など緊急避難行動に関わる諸要因(避難対応レベル)、(3)海岸低地の居住・利用や市街地条件(被害ポテンシャル)が挙げられる」とする(94p.)。
その避難対応については、
「2011年津波では避難対応レベルを、津波の規模がかなり近かった明治津波に比べ9倍ほどに上昇させて、人的被害の相対規模を低下させた。しかしその絶対数は非常に大きく、三陸リアス海岸域で1万人にもなった。これをもたらした主要因は被害ポテンシャルの著しい増大である。
明治津波から昭和津波までの37年間、この地域の人口はほぼ30万人のままで、ほとんど変化しなかった。相次ぐ厳しい冷害や世界的な不況がその背景にあったであろう。現在では人口は約3倍に増加したが、その大部分は津波の危険がある海岸低地に市街地が大きく展開したことによる増加である。昭和津波当時には、宮古町と大槌町が人口1万をわずかに超えるだけで、現在では人口の多い釜石町、大船渡町、高田町などは、一般の漁村と同じ数千人規模にすぎなかった。大正初期の地形図と現在の地形図との比較からも、海岸低地に展開する市街地の規模・人口が著しく増大していることが容易にわかる」(pp.97〜98)
「北上川はかつて南流して石巻で仙台湾に注いでいたが、1911〜1934年に行われた分流工事で東へ向きを変え、新北上川となって追場湾に注ぐようになった。これ以外の河川工事も実施されて、北上川下流平野の洪水危険性が低下した。これにより、標高の低い海岸低地部の開発・利用が1933年昭和津波の後に進んだ。とくに石巻は、かつては分離丘陵縁辺の緩傾斜地に立地する小都市であったが、1960年代以降に港湾都市・漁港都市として発展し、標高1〜3mの海岸部低地に市街地を大きく拡大させて、最大の被害をもたらす結果となった。仙台の東部海岸平野は著しい低湿地であったが、高度成長期以降その開発・利用が大きく進展した」(98p.)
こうした状況を示したうえ、「津波避難に関わった要因」を以下のように記す。
「緊急避難対応には種々の外的条件、地区防災態勢、人間行動要因などが関与して、避難が促進されたりあるいは阻害されたりする(水谷、1978)。
今回[2011年]の津波の際の三陸沿岸域について、これらの要因を他の三陸域津波と比較しながら示す。地震の発生時刻と三陸海岸への押し波第一波到達は、明治津波が午後7時半で約35分後、昭和が午前2時半で約30分後、2011年津波は午後2時46分でおよそ30分後であった。地震の震動は、明治では震度3程度の弱い揺れ、昭和では震度5の強震、2011年では震度6強の激しい震動であった(計測震度と以前の震度とは単純比較できないが)。いずれの場合も余裕時間は、強い揺れが収まってからでも25分以上はあった。チリ津波の第一波到達は午前3時ごろ、最大波到達は6時ごろ、津波警報の発表は5時ごろであった。2011年では大津波警報が即座に出された。このように2011年では緊急退避の行動に一番良い外的条件があったことになるが、人的被害は昭和津波を大きく超える規模になった。
(中略)
避難は、人命への危険だけは回避するという、文字通り緊急避難的な防災対応である。明らかな高危険地では、その土地に居住しない、高度土地利用を行わない、つまり避難の必要がないようにする、街が破壊されないようにする、というのが基本であって、避難はそれを実現するまでのやむを得ない過渡的な対応に位置づけられるものである」とする(pp.100〜101)
そこで、集落の移転問題については、
「災害危険地からの住居移転は、いわば建物ぐるみの恒久的な避難であり、人命だけでなく資産被害も防ぐ抜本的な防災対策である。しかし、大きな危険が指摘されている場所でも、さらには危険地に住んでいて大きな被害を受けた場合でも、移転にまでは踏み切れないのが現実である。本来、災害高危険地には初めから住まないという選択が基本であって、住んでしまってからの移転は次善の策に位置づけられるものである。
三陸海岸は、中世の昔から繰り返し大津波災害を被ってきたという世界で最大の津波危険地帯であるが、海岸低地から高地への住居移転はなかなか進まなかった。1896年明治三陸津波では死者2.2万人の大被害を受け、三陸の多くの町村で安全な高地への集落移転が検討されたが、実施したのは一部の地区にすぎなかった。その理由としては、被災地区の大部分が漁村で海浜から離れるのは漁業に不便である、零細漁民が多くて資金的に困難である、地区民の利害が一致せず合意形成は非常に難しい、移転地の選定・買収に当たり地主との対立が生じる、などが挙げられた。また、傾斜地の土地造成は当時の土木技術の面から制約があった。このため各戸が任意に行う分散移動が主として行われた(国土地理院、1961)。
結局、大部分の被災集落は原地再建を選択したので危険は解消されず、昭和の再被災につながった。少数ながら行われた集落移転の跡地には、移転者の一部が復帰したり、その分家や他村からの移住者が住みついたりした。
(中略)
[集落の]移転先の土地の平均標高は約11m、海岸からの平均距離は約300mである(山口、1960)。過去の津波の最大遡上高よりも高いところを選定した文字どおりの高地移転は多かったものの、これらはできるかぎり元集落に近いところを選んでおり、また、海岸低地内に盛土をし、あるいは防波堤で囲んで原地居住を行った集落が全体の20%ほどあったので、集団移転地の平均標高はこのように高いものではなかった。したがって、10mを大きく超える今回(2011年)の津波により、全体のほぼ2/3が全面的にあるいは部分的に被災した。
(中略)
宮古市の田老地区(旧田老町)は、慶長の大津波、明治津波、昭和津波と繰り返し全滅的被害を被った。昭和津波の後、海岸低地の西縁に500戸を収容できる幅200m、延長1,300mの土地(地盤高4〜6m)を区画整理し、外縁を延長1,350m、海抜高10.7mの防波堤で囲んだ。15mを超えた今回の津波はこの地区を完全に破壊した」ことを挙げ(pp.101〜102)、
「被災して、原地再建するか集団移転に踏み切るかは、厳しい選択である。次に何時来るかわからない危険に備えることよりも、日常の生活・生産活動や経済的問題が優先されるのは、やむを得ないことかもしれない。しかし、一旦市街地が形成されればそれは永続して、必ず再来する次の大津波により破壊されるのは必須であり、再び復興の難問に直面する。将来の災害を防ぐという防災の本来の役割を中心に置くとしたならば、繰り返し大災害を被ってきた極めて危険な海岸低地からの移動を基本にした再建しかありえないであろう」と、論を結ぶ(103p.)。
水谷武司氏の、この論文が書かれたのは前述のとおり、2012年。
その後、被災地の或る地区では高所移転を遂げたところもあると聞く。理にかなった賢明な選択だ。
ただ、人々が移転した後の津波災害跡地には住居の再建は "許さない" としているようだが、公共施設等の建造はなされるらしい。そこには、当座の "復興" にのみ心奪われ、"将来の津波来襲" への備えがあるようにはみえない。
なんであれ被災跡地に建造物を構築すれば「必ず再来する次の大津波により破壊されるのは必須であり、再び復興の難問に直面する」のは必至だ。
さらに深刻なのは、明治や昭和の津波後に繰り返されたこと、すなわち、この先、歳月が経ち、"熱さ" が喉元を過ぎてしまったころに、他所からの移住者が、なし崩しに被災地跡の施設周辺に住みつく可能性があること。その点について、行政は100年先までも見越した、永続的にして "ぶれない" 対策を把持し得ているか。
被災した「その土地に居住しない、高度土地利用を行わない、つまり避難の必要がないようにする、街が破壊されないようにする、というのが基本」。その基本を頑なに守らなければ津波被害の回避など金輪際できはしない。
「天災ばかりは科學の力でもその襲來を中止させる譯には行かない。その上に、何時如何なる程度の地震暴風津波洪水が來るか今のところ容易に豫知することが出來ない。最後通牒も何もなしに突然襲來するのである。(中略)例えば安政元年の大震のやうな大規模のものが襲來すれば、東京から福[旧字]岡に至る迄のあらゆる大小都市の重要な文化施設が一時に脅かされ、西半日本の神[旧字]經系統と循環系統に相當ひどい故障が起こつて有機體としての一國の生活機能に著しい麻痺症状[旧字]を惹起する恐れがある。萬一にも大都市の水道瀦水池の堤防でも決壞すれば市民が忽ち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少くも數村を微塵に薙倒し、多數の犠牲者を出すであらう。水電の堰堤が破れても同樣な犧牲を生じるばかりか、都市は暗闇になり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまふことになる。
かういふ此の世の地獄の出現は、歴史の教[旧字]ふる所から判斷して單なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鐵道も電力網も水道もなかつたから幸であつたが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがふということを忘れてはならない。
(中略)
我邦の地震學者や氣象學者は從來かゝる[大地震や颱風等々の]國難を豫想して屡[旧字]々當局と國民とに警告を與へた筈であるが、當局は目前の政務に追はれ、國民は其日の生活に忙はしくて、さうした忠言に耳を假す暇がなかつたやうに見える。誠に遺憾なことである」
「天災の起こつた時に始めて大急ぎで.........愛國心を發揮するのも結構であるが、昆蟲や鳥獸でない廿世紀の科學的文明國民の愛國心の發露にはもう少しちがつた、もう少し合理的な樣式があつて然るべきではないかと思ふ」という、この文章は、誰あろう寺田寅彦のものであり、「天災と國防」からの引用である。
昭和9年11月『經濟往來』第九巻第11号に発表されたこの文章が今も立派に通用することに驚く。
人は、どのくらい惨劇を繰り返せば、津波災害から決然とした回避行動をとるようになるのだろうか。
[追記] 休暇村 気仙沼大島の、あの日の "消息" は、当時営業主任(?!)だったという伊東勝正氏の「穂高健一ワールド」への [寄稿・写真] によって知ることができる[7]。
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[注]
[1] 大島汽船(株):全便カーフェリー
*車を島へ渡す場合は予約が必要。
・自動車航送運賃(ドライバー1名分を含む)は車の長さによって異なるた
め、予約時に問い合わせを要する。
・単車・自転車については、航送料の他に旅客運賃が必要となる。
*車を島へ渡さない場合は予約不要。
旅客運賃は片道、大人:¥410 / 小人(小学生):¥200
※平成30年度に大島架橋が完成すれば、大島航路は廃止されると聞く。
[2] 貞観三陸地震
※「休暇村 陸中宮古」[注] [2] を参照されたい。
[3] 水上不二:1904(明治37)年〜1965(昭和40)年
宮城県気仙沼市出身の詩人、童話作家、作詞家。
[4] "涙の松 由来碑"
「わたしたちの先祖は幾多の困難を克服して漁業を発展させてきた。その陰には尊い犠牲による悲しい物語が伝えられている。
天明のころ(一七八一 〜 八八) 当地の鰹船が出漁中に台風に遭遇して帰らなかった。家族らは一木ずつ黒松の苗を携えてここ亀山に登り沖の見える頂に植えて来る日も来る日も沖を眺め夫や子の帰りを待ち続けたがついに船は帰ってこなかった。
いつしか人々はこの松を「涙の松」と呼ぶようになった。
成長した松は遥か沖から望まれるようになり和船時代には航海の目印ともなった。
この涙の松は昭和初期まで数本点在していたが枯れて姿を消し現在の松は後から植えたものである。
わたしたちはこの松の由来を永く後世に伝えると共に海難の絶無と漁業の発展を祈念してこの碑を建立した。
平成三年五月 創立二十周年記念 大島海友会」
[5] 十八鳴浜(くぐなりはま)は、気仙沼観光協会によると、
「気仙沼大島の北東部・大初平にある長さ[南北]約200m、幅[東西]約30mの砂浜。黄褐色の石英粒からなり、砂を踏むと「キュッキュッ」あるいは「クックッ」( 9+9=18)と鳴くことからこの名が付けられました。
鳴り砂は、石英の粒が摩擦して起こるといわれており、十八鳴浜は国の天然記念物に指定されています。
砂が汚れてしまうと鳴らなくなるため、十八鳴浜周辺は人の手が加えられておらず、浜へ出るには駐車場から山道を15分ほど歩きます」と、説明されている。
2011(平成23)年3月11日の東北地方太平洋沖地震に伴う津波によって、"鳴かなくなる" ことが懸念されたが、学術調査の結果、 "鳴く" ことが確認されている。
[6] "鶴亀大橋の愛称でよばれる気仙沼大島大橋は、全国でも珍しい大型のアーチ橋で、橋の長さ(アーチ支間長)は297mと東日本で1番。全国でも、愛媛の大三島橋とならび3番目の長さを誇る" ことになるのだそうだ。
宮城県は公式ウェブサイトにおいて、大島架橋事業の目的を以下のように述べる。
「気仙沼湾に位置する大島は、本土との交通機関が船舶のみであり、住民の日常生活に於ける利便性の向上や救急医療などの安全・安心の確保、当該圏域の観光振興及び地域間交流を図る観点からも架橋の整備が求められてきました。
さらに、平成23年3月11日に本県を襲った「東北地方太平洋沖地震」の津波により、大島地区の住民が長期間の孤立を余儀なくされるなどの甚大な被害を受け、大島架橋の必要性が再認識されたことから、災害時の緊急輸送路としての機能を向上させ、市のまちづくり計画とも調整を図り、平成30年度の完成を目標に事業を推進しています」と。
[7] 穂高健一ワールド「寄稿・みんなの作品」”気仙沼を襲った大津波=伊東勝正” 。
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