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休暇村あっちこっち

休暇村 日光湯元






[休暇村 日光湯元へ]

 2017年から2018年にかけての冬は寒かった。福井などでは、昭和56(1981)年豪雪以来の最深130cmを超える大雪となり、大規模な交通渋滞が発生する。
 そんな2月の半ば過ぎ、運動をしていた連れ合いが右脹ら脛に肉離れを発症。当人は "大したことない" と言うものの、動くと痛むようで、跛行を余儀なくされていた。寒さが彼の筋肉を萎縮させたようだ。

 ただ、折も折、 "休暇村 日光湯元" と "嬬恋鹿沢" の二村訪問に出発する直前であったことから、二村の予約キャンセルを提案したが、連れ合いは「行く!」と言う。ならば、様子を見ながら行けるところまで行き、我慢の限界が見て取れた時点で中止すればよいか........と、"腹を括る" 。


 東海道新幹線、東北新幹線と乗り継ぎ、宇都宮で下車。宇都宮からはJR日光線で日光に入る計画であったが、こんな機会でもなければ、この先、宇都宮を訪れることはまずないだろうと、"大谷観音" にたち寄ることにする。

 JR宇都宮駅西口6番バス停から、関東バス "立岩行き" に乗車して約30分[¥450]。大谷観音前で下車。
 バス停の傍、道路沿いに、所々塗りの剥げたお堂が目に入る。近寄って見ると、「大谷元観音 能満寺」[1]とある。

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"大谷元観音" と "大谷観音" との関係は?
野田成亮もこのお堂の前を通ったろうか。

扉の格子の間から覗いてみたところ、仏具は整っており、勤行はなされている様子。すぐ横には「銭洗い池」と表示されたコンクリート製(?)の池がある。池の水は抜かれていて "空" 。池の縁には小ぶりの観音立像(これもコンクリート製か?)が置かれてあった。

 「大谷観音」は、院号を千手院という天台宗寺院、天開山大谷(おおや)寺[2]の呼称であり、本尊 "千手観音" に由来。坂東三十三観音霊場第十九番札所である。

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坂東十九番霊場 "大谷観音" 。
      本尊千手観音は堂宇の奥、窟に在します。

 寺の堂宇は、大小いくつもの洞が開いた大岩の "根方" に、嵌め込むように建てられており、異な雰囲気を醸している。以前、写真を見て "おもしろい岩の造形であるなあ" と思ったが、空間を共有してみると、さらに日の光の差しようで "おもしろさ" が増す。

 當山派修験者泉光院野田成亮は、文化十三丙子(1816)年四月、上野から下野に入り、諸所を巡拝。壬生城下[3]から宇都宮城下[4]へ入って、大谷寺に詣でている。
「四月廿二日 晴天。.......今日も道々托鉢、晝前宇都宮城下へ出て、宇都の宮[5]へ詣納經す。大社也。南向、城下市中也。御城平地、追手口北向也。町數多し。般壽院と云ふ山伏宅見舞ふ、留守。夫より大谷と云ふ坂東札所へ詣納經。本堂西向、大石の下に作り掛け也。此邊異石多し、皆大石也。谷合の通行也。夫より新作村[注:「新針の誤。大谷寺付近を荒鍼という」由] と云に出で、 云々」と、記録 している (cf.『日本九峰修行日記』第四巻)。
 廻国の修行者野田成亮にとって、千手観音はじめ、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊他の仏像等々、石仏群は言うまでもなく信仰の対象。経文を誦し、経典あるいは米や金銭を奉納するのが目的であって、現在取り沙汰されるような仏像の造り等々について言及することはない。そこに "おはす" 仏に対峙し、心を凝らしてただ祈るふうだ。
 だが、"信仰" が遠のき、仏像は本来の姿を失って、 観光の具となること久しい現在、磨崖仏の彫られた洞穴では、入場者があると "像の大きさは云々" と説明する音声が流れるようになっていた。もはや像を彫った人の "心" や "仏" に対峙して深く観想する人もないのだろう。スタンプラリーの "仏" は空疎だ。

 洞穴を出た後、境内に付設された宝物館で、当地から発掘された縄文最古の人骨等々陳列物を見て外に出、庭を一巡り。凍った池の畔に立って弁財天の "あかい" 祠と白い蛇を見て、山門を出る。
 泉光院が訪れた当時の大谷寺への道は "谷合" の道であったようだが、現在は寺の前方に岩が屹立してはいるものの、門前には車道に沿って広い駐車場が設けられ、開けて谷合の感はない。
 道案内にしたがって、大谷公園内の巨大な「平和観音」の足もとを通り、カエル石の前を通って、公園出口付近で "天狗の投げ石" を振り仰ぐ。
 大谷石地下採掘場跡・大谷資料館は興味の外。
 宇都宮に戻る。


 JR日光線は、折しも下校の学生たちで混み合っていたが、宇都宮駅を出て電車が一駅ずつ日光に近づくにつれて車内は空いていった。
 宇都宮から三つ目の駅は鹿沼。鹿沼は "さつき" 栽培に不可欠の "鹿沼土" の産地である。土とは言い条、実は軽石。よく似た "赤玉土" は土。共に関東ローム層から採取されると父が言っていたのを思い出した。
 四つ目の駅は "文挟(ふばさみ)" 。曽良が聞き誤り "火バサミ" と日記に記した地名である。この地の名が「読みさしの書物に挟んでおく、金・銀・象牙製などの薄い板。のちの栞(しおり)の類」に因るとも思えない。そもそも "文挟み(ふみ-ばさみ)" とは「宮中で公事が行なわれる時、下っぱの役人が文書を挟んで、殿上の貴人の前に差し出すための、白木のつえ」を指し、"ふばさみ" ともいうのだ。杖の長さは約1.5mほど。先端に文書を挟む金具(鳥口)が付いている。
 いったい誰が、いかなる "貴人" に、この地で、どんな時に、どんな "文" を "杖" にさし挟んで差し出したか.......。それよりも何よりも、なぜ「文挟」などという地名が付与されることになったのか。興味は尽きない。
 当 "文挟" は「戦国時代には『日光山往古社領六拾六郷』のひとつ文挟郷として、随仙坊の所領であった」との記述が、日光竜光院住職天祐記『日光山常行三昧堂新造大過去帳』にあるようなので、調べてみたい気もするが、寄り道が過ぎれば先に進めない。今調べるのは止しておく。


 JR日光駅窓口で "湯本温泉フリーパス[2日間有効:大人¥3,000]" を購入。東武バスに揺られて約1時間25分、湯元温泉に至る。
 バスが中禅寺温泉にさしかかったあたりから消え残った雪が見え始め、湯元温泉に近づくにつれて雪は深くなっていった。終点湯元温泉バス停付近は一面雪景色。道は踏み固められてツルツル。だが、東武バス停留所には、休暇村の送迎バスが横付けされており、バスを乗り換えるだけで、足下の心配もなく、ものの5分もせぬうちに "休暇村 日光湯元" に到着した。

 フロントで、宿泊の手続きを終え、翌日行く予定の "憾満ガ淵" 等について尋ねる。が、担当の女性は、私が何を尋ねているのか分からない様子。当初から表情に余裕のない人だなとは思っていたが、さらに緊張していく様子が見て取れる。フロント業務に不慣れなのか........と思っていると、少し離れて立っていた男性が、硬い面持ちで近寄ってきたかと思うと、日光中心部をプリントした地図を取り出し、表情を緩めることなく地図上に印を入れた。さらに、休館の情報は得ていたが、元アーネスト・サトーの別荘「旧英国大使館別荘」について、尋ねてみたところ、「冬季は休館です!」と、ぴしゃりと一言。継ぐことばもなかった。

 質問していて気付かなかったが、傍にいたはずの当初の女性はいつの間にかその場から姿を "消して" いた。
 後に、彼女は外国人(中国あるいは台湾の人か)であることを知る。注意していれば気付いたかもしれないが、もとより相手が外国の人だとは思いもせずに手続きをとっていたので気付かなかったのだ。言語表現上の特徴も、フロント業務に関するマニュアルどおりの発話を聞くかぎり、耳に障らなかった。今後は、まずは "名札" 見てから質問するようにせねば.......。


 私たちに充てられた部屋は、フロントのある階から1Floor 下がった1階。洋室の並ぶエリアにエレベーターはなく、階段のみ。足を痛めている連れ合いにとって昇降には辛いものがあろうと、部屋の変更を依頼しようとした私に、彼は、ゆっくり上がり下りするからいい、と言う。「では」と、そろそろ階段を下りて部屋に。
 階段脇に数本の "杖" が常備されていたから、年配者などへの一応の配慮はされているものと見受けた。

 ドアを開けると、古い写真に見るよりやや大きく取られた窓から、冬木立が望めた。ベッドは近年 "流行り" のデュベスタイル[6]。部屋の広さもそこそこで申し分ない。たった2泊の滞在でも快適であるに超したことはない。


 "休暇村 日光湯元" は、1994年に新築開業した様子。
 国民休暇村が発足したのは1962年。その後、1965年にかけて各地の国定・国立公園内に休暇村の開業が相次いだことを考えると、日光湯元はそれよりもかなり後発の施設と思われる。休暇村への参入の経緯は知らない。
 建物は、奥日光湯ノ湖西畔に建つ。
 営業開始時の施設状況は、
    鉄筋3階建て
     客室数:63室 [定員:208名]
         和室39室 [バス・トイレ付き / トイレ付き の2タイプ]
         洋室24室 [バス・トイレ付き が主体]

 2008年ごろに至って、当時の "案内" では、洋室2室が "ファミリールーム" と銘打つ部屋に変わっている。客室数や定員、和室の部屋数は変わらないので、このあたりで一部改装された様子が窺える。

 現在、総客室数63室に変化はないが、2015(平成27)年12月に和室が改装され、
         和洋室:13室
         和 室:26室
  と、なっている。部屋にも流行り廃りがあるようだ。
         洋 室:24室 は、
部屋数はそのままに、2014(平成26)年12月、リニューアル工事を終えている。

 食事会場となるレストランもまた、2014(平成26)年12月にリニューアルされている。天井まで届く大きな開口部が庭の木立の四季を映す "レストラン" と、食事処 "桂" と名付けられた "レストラン" と、二つあるが、その使い分けは解らない。

 お風呂は温泉。
 奥日光湯元という立地から、浴場には湯元温泉の源泉が引かれている。男女それぞれの浴室には、内湯のほかに露天風呂が付設されているが、私たちの印象では、全体に "小さな造りだなあ" というのが正直なところ。露天風呂のあるスペースも塀が迫って開放感に欠ける印象。
 泉質は、硫黄泉 [※ 1リットル中に硫黄を2mg以上含む温泉]。休暇村のパンフレットには「含硫黄─カルシウム・ナトリウム─ 硫黄塩・炭酸水素塩温泉(硫化水素型)」と記されている。
 効能は、高血圧や疲労回復、肌荒れ、やけど、冷え性、リューマチ、神経痛等々。
 2019年冬、浴場のあるスペースのリフレッシュ工事が完了したと聞く。屋外に設けられた壺湯、冬季休止だったものが通年使用可となったらしい。



 翌日、1時間強バスに揺られて東照宮のある "日光中心部" に向かう。
 当今の観光地の実状を思うと全く以て気は進まなかったが、私たちも日光に来たからには "御山に詣拜" しないわけにはいかないだろうとの思いであった。
 それには、『おくのほそ道』や随行した曾良の『旅日記』、野田成亮の『日本九峰修行日記』の記述が念頭にあったからである。

 芭蕉と曽良が、元禄二(1689)年三月廿七日[陽暦5月16日]、千住を発ち、奥羽行脚の旅に出たのは周知のとおり。曾良の『旅日記』から、彼らが日光に立ち寄った箇所を拾うと、
一 三月廿九日は昼過ぎより曇り
  同晩 鹿沼に泊まる。鹿沼より火ばさみ[文挟のこと]ヘ2里8丁[約
  8.726km]。
  火ばさみより板橋ヘ28丁[約3.052km]、板橋より今市へ2里[約
  7.854km]、今市より鉢石ヘ2里[約7.854km]
一 四月一日前夜より小雨降る。辰の上刻[午前8時過ぎ]に宿を出る。
  止んでは時どき小雨降る。終日雲(が垂れ込める中)、午の刻[12時]
  日光に到着する。雨止む。浅草は江北山宝聚院清水寺からの書き
  付けを養源院に届ける。
  東照宮の社務所である大樂院へは(養源院より)使いの僧侶を付き添
  わせてくれる。ちょうどその時、大樂院には客人があった。未の下刻
  [3時半ごろ]まで待って東照宮を拝み見る。終わって、その夜、日光
  上鉢石町五左衛門という者のところに宿泊。  一五二四[この数字に
  ついては不明。金銭の記録か......]
一 同月二日 天気快晴。辰の中刻[午前9時ごろ]、宿を出る。裏見の瀧
  (1里ほど西北)、憾満ヶ淵を見巡っているうちに、だんだんと午[昼]
  になる。鉢石を出立し、奈須・太田原へ向かう 云々 [7] とある。

 この間のことが『おくのほそ道』には、以下のように記されている。有名なくだりだ。書き出すまでもないが、武蔵野書院発行(1966(昭和41)年3月)、宮本三郎校注『おくのほそ道』(素龍清書本──芭蕉の自筆稿本を素龍が清書した決定稿で、今日、『ほそ道』の最も信頼すべき原本とされる──を模写して、元禄十五年、井筒屋が板行し、世に最も親しまれてきた枡形本を原寸大に影印複製したもの) に見てみよう。
「卯月朔日御山に詣拜す 往昔此御山を二荒山と書しを空海大師開基の時日光と改給ふ 千歳未來をさとり給ふにや 今此御光一天にかゝやきて恩沢八荒にあふれ四民安堵の栖穏なり 猶憚り多くて筆をさし置ぬ
     あらたうと青葉若葉の日の光
黒髪山は霞かゝりて雪いまた白し
     剃捨て黒[旧字]髪山に衣更   曾良
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり 芭蕉の下葉に軒をならへて予か薪水の労をたすく このたひ松しま象潟の眺共にせん事を悦ひ 且は羈旅の難をいたはらんと 旅立曉髪を剃て墨[旧字]染にさまをかえ 惣五を改て宗悟とす 仍て黒[旧字]髪山の句有 衣更の二字力ありてきこゆ
廿餘丁山を登つて瀧有 岩洞の頂より飛流して百尺 千岩の碧潭に落たり 岩窟に身をひそめ入て滝の裏よりみれはうらみの瀧と申傳え侍る也
     暫時は瀧に籠るや夏の初
那須の黒[旧字]はねと云所に知人あれは  云々」

 芭蕉の時代から127年の歳月を経てはいるが、芭蕉が「憚り多くて筆をさし置」いた東照宮の様子、憾満ヶ淵や裏見の瀧等々について、廻国の行者野田成亮は具に日記に記している。
 前夜「鉢石横町清吉と云ふに宿」した成亮は、文化十三丙子(1816)年、
 「五月一日 晴天。(日光に)滞在。宮廻りをする。朝十時ごろより東照社に参る、案内賃は一人百文、ここ本町は六丁ほどで東西(にのびる)一筋の町である、西町詰めに大川にかかる大橋があり、長さ八間、幅三間、高欄ならびに敷板などみなみな極めて濃厚な朱色、擬宝珠ほか金具(も)みな金めっきである。これを将軍橋[神橋・山菅橋]という、諸人が渡ることを禁じている。参詣人(用)の橋は別にある。そこから(先に)本宮別所といって納経所がある。それから東谷坊の中を一見、奥に開山堂がある。そこから大光坊という坊に行くと、宮廻りのための山年貢[入山料]を出し、また通り切手[通行券]も出す、一人(の料金として)四十八文(の)割り当て、もっとも(自分の場合は)宿屋からの書付を持参する。どこそこの国・同行何人という書付けを受取り、陽明門という所でそれを出して中に入る。鳥居より仁王門、陽明門、唐門、すぐに拝殿・御殿と続いている。陽明門内の(左右)両方に高さ四間ほどの鐘楼・太鼓楼が建っている。その美しいこと言葉にして述べるのはむずかしい、経蔵、宝蔵、本地堂が立ち並ぶ、石の手洗鉢は長さ九尺高さ四尺ほど、屋根は銅でほかはみな石である。この石に金めっきの金具を飾っている。又琉球人、朝鮮人、オランダ人よりの献燈がある。これは蓮華燈、釣燈などといって銅でこしらえ、大きさ九尺周りほど、火立ての数は百もあるだろう、蓮花(の花)を見るようである。もろもろの堂、棟瓦、破風口 [屋根の切妻についている合掌形の装飾板のついているところ]、垂木等々(に使われている)金物はみんな金めっき彫物尽くし極彩色である。柱の類は総じて金箔・極めて濃厚な朱色、縁より下は土台まで蝋色石、口金物は金めっき、相輪塔は、九輪の部分は延金[鍛えて延べ平らめた金属]である。唐金の燈籠は諸大名よりの献上でその数知れず。それより新宮[満願権現。明治維新後、二荒山神社と改号]という宮に詣でる。大猷院[徳川家光の廟。東照宮を御宮というに対し、御霊屋と呼ぶ]殿の御靈屋へは仁王門までで内陣には入ることを禁じている。門が三つあり、中に御霊屋が見える、東照宮御殿に同じ。案内の者はここから帰る。これより(後) 瀧尾 という宮に詣でる、これは奥の院である。峠を越え山中へ十六丁入る、仁王門がある、御殿東向き、五重の塔、小種石などという大石がある。それよりまた元の道に返り、御門主の前を通り西谷町という所に出て、"カンマン" の淵という所に行く、大川あり、川岸二丁ほど大石、川向かいの石の上に不動明王(がおわし)、こちらの岸は護摩壇、また百体地蔵(があり)、高さ五尺ほどの石仏である。それより寂光 [寂光寺・寂光滝があり、日光山中の名所に数えられた]という所に詣でる。原町という所から谷合に入ること一里半、本堂東向き、いろいろな堂が多くある。上に大きな滝があり、この上もないほどもの寂しい地である。日光を表とし(て考えるならば) 寂光はその光の裏である。そこは深山である故か桜が盛りであるので一句 (詠んだ)、
    寂光は浮世の外歟夏桜
    [ "寂光" はこの世の外なのか 寂静の真理によって発する真智の光照る
    浄土のような静寂の中に夏桜が静かに咲いていることだ]
 日光より北にあたり (その方角に) 高山がある、男体山という、黒髪山のことである。この山は未だ雪が消えず、麓も春分(のころ)の景色である。
よって一句、
    初汗をけふ身に知るや日の光り
    [まるで春分のころのように 今年初めての汗が 我が身に滲む気がする
    日光は黒髪山麓の日の光りであるよ]
 夕方旅宿の清吉方へ帰る。
 二日 晴天。日光を立つ、辰の刻[午前9時ごろか]。金剛院という山伏宅を訪問する。それより(後) 中禅寺という(ところ)に向かう。道中に大日堂、(その)庭さきに巴ヶ池という清らかな池がある。芭蕉翁の(奥の)細道の青葉若葉の句碑があり、また蓮花石という蓮(の花)のような大石があり、近所に清瀧といって中禅寺前札所(の)庵室がある。中禅寺は女人禁制であるのでここが女人堂である。この堂に笈を頼み置いて中禅寺に詣でる。当所[女人堂]より山中(を)三里(行く)。大川に添って上ること廿丁、危険な橋が三ヶ所にあり大いなる坂が廿五丁、途中に不動堂があり、そこより山中の平地を行くこと十五六丁、道から左へ五丁(のところ)に華厳の滝といって中禅寺の御池より落ちる滝がある。御池の大きさ縦三里横五十丁、この池の水下である、常水(があるはずの場所)には瀧口ばかりで水は滝の中程から漏れ出て落ちている。屹立した石は五丈ばかり、この水は大川となる、この大石のあたりに鳥が多くいる、これは肥後の国神である瀬の一足鳥に少しも変わらず、多分一足鳥であろうか(と思われる)。中禅寺本堂は南向き、いろいろな堂があり、寺一ヶ寺は坂東札所(であるので、そこで)納経する。門前に茶店が六軒ある。ここは、黒髪山は霊山の登拝修行の場ということで、一年(のうち)に七月七日一日だけ登山し(頂上の)奥の院に参詣する(のだが)、一日におよそ千五百人ばかり(が登拝する)という。七日前より中禅寺に籠もって前行する。新参の者は山年貢(としてかかる)金銭を金子一両二分出す、たびたび(参加している)者たちは二分三百文出費する。この籠もり家は池の岸に作ってある。またこの池に大きな船を浮かべ、行者たちが島廻りといって船に乗りあちこちに詣でる(という)ことである。黒髪山はまだ大雪であるので一句、
    黒髪も真白なりけり夏の雪
    [黒髪山は まるで黒髪が白髪になってしまったように真っ白であること
    よ 消え残った夏の雪に覆われて....... ]
 (中禅寺より)下山してまた荒澤という(所)を一見する。そこに裏見の滝という清らな滝がある、山中に入ること廿五丁、大滝の中ほどに洞穴があり、石の不動尊を安置し(てあり)右から左に抜け通る、滝の高さ三丈、滝を裏より見ることからウラミの滝という。清滝庵へ夕方帰る。中禅寺参詣の回国者十人ほどが泊まっている。
 三日 晴天。清滝庵出立、辰の上刻[午前8時ごろか]。足尾という上り下り三里の峠を越え 云々」[8] と。


 

 とにかく、やって来たからにはと、修復中の輪王寺を横目に参道を進み、陽明門をくぐって東照社に向かった。午前もまだ早いのに、すでに多くの観光客が。
 結構な拝観料を払って、靴を脱ぎ、社殿に入りはしたが、拝殿の "長椅子" には若者たちがあちらに向きこちらに向きして腰掛け、雑談したりなどしている。到底 "あらとうと" と思える環境にはない。
 足裏から冷たさが染み入り、それでなくても肉離れしている連れ合いの脹ら脛が気にかかる。家康に義理があるわけでもなし.......と、彼を "誘い" 、人の間を縫って、内部を素通りして外に出る。
 有名な彫物に蝟集する人々も煩わしく、人の多さに気疲れして、再建された薬師堂の鳴竜の声も聞く気になれず、とにかく当該エリアを一刻も早く離れたいという思いに駆られていた。
 やはり来るべきでなかった、京都の "狂乱" を見知っているのに愚かだった.......と、後悔する。

 気を取り直し、曾良の日記に記され、野田成亮も訪ねた "憾満ヶ淵" へと向かう。


 

 憾満ヶ淵は、含満ヶ淵とも書く、大谷川[だいやがわ]の淵。
 元禄十年ごろに成った『国花万葉記』[9] には「眇々たる大淵也。向ふに大山のごとく成巌頭、淵の上へおゝひかゝり、弘法大師川を隔て、かんまんぼろをんの梵字を書給へば向ふの巌頭に梵字顕れしト也」と記されている。
 野田成亮は上述のとおり「"カンマン"の淵と云ふに行く、大川あり、川岸二丁計り大石、川向ひ石上に不動、此方の岸は護摩壇、又百體地藏、高さ五尺計りの石佛也」と記す。

 他には行かずとも、この淵と裏見の滝には行ってみたいと思って家を出ていた。


 東照宮から二荒山神社へと抜け、神社正面の所謂 "西参道" を 120号線に向けてくだる。憾満ヶ淵の方角は、おおよそ見当はついていたものの、さて......と思って周囲を見ると、道の向かいに蕎麦屋の暖簾が揺れている。寒いうえ、お腹が空いていたこともあって、躊躇なく暖簾をくぐり、連れ合いは "力うどん" 、私は "山菜そば" でお腹を満たす。
 "林屋" というその店の若い女性に憾満ヶ淵への道順を尋ねたところ、店を基点にした簡単な地図をくださった。外国人の中に、時折、憾満ヶ淵について尋ねる人があるので作った由。
 地図は簡素なもので、これでほんとうに目的地に着けるのかと訝られたが、実に要を得ていた。

 地図を辿って淵に行く道すがら、きょろきょろ辺りを見回していると、大工町という住所表示が目に止まる。さしずめ東照宮造営に関連する職能集団の集住した地区でもあろうと思っていたところ、ご丁寧に説明板が掲げられてあった。
 曰く、「大工町 ........略........名前の示す通り、東照宮造営の時の職人が多く住んでいた町であり 云々」と。やはり.........。
 そして、なにやら曰くのありそうな神社が道の角にあった。磐裂く(いわさく)神社というその神社、「創建年代は分からないが、昔は星の宮と称し虚空蔵菩薩を祀り、現在の匠町(旧大工町・板引町)の人達が氏神として崇敬している。明治二年(一八六九)磐裂神社と改め、磐裂神(いわさくがみ)・根裂神(ねさくがみ)を祀る。
 本殿は大谷石の鞘堂に収められている 云々」とのこと。

 地図の矢印にしたがって角を曲がり、前方に寺院らしい門の見えるあたりだったか、道沿いに水路が通されてあり、傍らに円筒形の石の上に笠状の石蓋を載せた、高さ40cmばかりの工作物がほぼ等間隔に置かれていた。各家の前でもあり、水路脇でもあったことから、取水装置でもあろうと話しながら行くと、そこにも説明板があり、この界隈が "板引町" という地区であることを知る。
  "板引町" もまた「東照宮造営の頃から「職人の町」として栄えた町で、現在もその関係の職業に従事している住民が多い」と。さらに「当町には「憾満ヶ淵」の名勝はじめ、幾つもの文化財を有する古刹「浄光寺」などがある。また当町の貴重な文化財「石升(いします)」は現在も使用されており、云々」と記されていた。

shusuisouchi.jpg
 形は単純だが、無駄なく"美しい" 。
 蓋までも笠状にしてあって.......。

 通りの名は「石升の道」。「この通りに並んでいる石升は、近くの湧水を水源とし、自然石をくり抜いた升を石管でつないだ大正時代の水道です。ほとばしる豊かな水は夏でも冷たく冬は暖かいので、ぜひふれてみて下さい」ということだった。が、水には触れず、通り正面の寺院へ。寺名は "還源山妙覚院浄光寺" 。門前に掲げられた案内書き[10]を一読した後、左折して憾満ヶ淵に向かう。
 宿へ戻るに要する時間を考えると、寺院内に足を踏み入れる余裕がなかった。

 浄光寺の前で左折した先の道を右折すると、大谷川の流れが見える。川に架かっ た "含満大谷橋" を渡り、道なりに進んで、左手に古い石仏(地蔵菩薩か)を見たあたりから地道の両脇に消え残った雪が現れる。川筋は風が通って気温が上がらないのだろう。そこは山陰でもあって空気が冷たい。持参の荒縄とスパイクが役立ちそうな気配。
 私はすぐにスパイクを履いたが、連れ合いは跛行しながらも 「おまえとは違う。 滑ってこけたりなんかしない」と言って、荒縄を巻く様子がない。
 "ストーンパーク" の中の一本道を進み、小さなあかいお堂[11]の先で慈雲寺の山門をくぐったあたりから、道は踏み固められた雪でツルッツル。ここでようやく連れ合いも荒縄を巻くと言う。肉離れさえしていなければ決して荒縄の使用などしない彼だが、跛行していてはバランスが取れないので "観念" したようだ。

 

 慈雲寺の本堂は、本堂と言うにはあまりに小さい印象だったが、土地の形状からして妥当な大きさなのかも........と思いながら眺める。本堂脇の立て札によると、
「承応3年(1654)に、憾満ヶ淵を開いた晃海大僧正が創建し、阿弥陀如来と師の慈眼大師天海の像を祀った。当時の建物は明治35年(1902)9月の洪水で流失し、現在の本堂は昭和48年に復元された」とのこと。

 このあたりの地形は「数万年前の男体山の主活動期の最後に華厳溶岩と含満淵溶岩が流出........(大谷川河床縦断面を見ると)華厳溶岩は鬼怒川右支・大谷(だいや)川を塞き止めて、中禅寺湖(巨大な天然ダム)と華厳の滝を形成」。「含満淵溶岩は荒沢の河谷を大谷川の合流点まで流下し、含満淵と裏見の滝を形成し」たという。
 7世紀ごろの大谷川は河床が低く、急峻な渓谷だったらしい。特に「1400年前頃は大谷川の下刻が最も進ん」だ時期だったようだ。
 この大谷川流域では記録に残る1532年〜54年の "白鬚水洪水" 以降、1662(寛文二)年、1683(天和三)年、1723(享保八)年と土石流出や洪水氾濫が多発。明治以降は、説明書きに頻出する1902(明治35)年の激甚な災害をはじめ、1907(明治40)年、1910(明治43)年、1919(大正8)年、1946(昭和21)年、1947(昭和22)年、1959(昭和34)年、1966(昭和41)年と、大規模な土石流出・洪水氾濫があったという。この地域は災害多発地帯でもあるのだ。

 憾満ヶ淵は、私たちの訪れた冬季にあっても水量は多く、流れが速かった。
 立て札には、この淵は「古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けたという。晃海はこの地に慈雲寺や霊庇閣(れいひかく)、不動明王の大石像などを建立したもので、往時は参詣や行楽の人々で賑わった。元禄2年(1689)松尾芭蕉も奥の細道行脚の途中立ち寄っている。「含満」とも書くので「がんまん」と濁って読まれることが多いが、命名の由来から考えると「かんまん」と澄んで読むのが正しい」と説明されていた[12]。

 並び地蔵とも百体地蔵ともいわれる石像群は慈雲寺本堂の先から始まる。

Kanmanzizo.jpg
 
     どうすればこの居並ぶ石像をそのままに写せるか.........。
         瞑想せる "美しい" 横顔を手前にして。
     (古くなったカメラのご機嫌をうかがいながらの1枚)

 立て札には「慈眼大師天海の弟子約百名が「過去万霊、自己菩提」のために寄進したもので、列座の奥には親地蔵が置かれていた。霊庇閣に一番近い、やや大きめの石地蔵は「[※ここに梵字が入る ]」かんまんの梵字を書いた山順僧正のものである。

kanman.gif

梵字”カンマン”

 明治35年(1902)の大洪水で親地蔵と他の地蔵のいくつかが流された。(以下、略)」とあった。
 洪水後、残された地蔵群は人々の手によって並べ直されたといい、今も淵に向かって静かに坐す。

 居並ぶ地蔵たちの前に建つ "霊庇閣(れいひかく)" は「承応三年(一六五四)慈雲寺創建のとき、晃海(こうかい)大僧正が建立した四阿(あずまや)造りの護摩壇で、対岸の不道明(ママ)の石像に向かって天下泰平を祈り護摩供養を行った」とされるが、明治35年の大洪水によって、二メートル余りの不動明王像も霊庇閣そのものも流失。基石のみになっていたが、昭和46年、輪王寺によって復元された由。
 連れ合いは、より淵に近い護摩壇に下り、より淵に近づいて、対岸の岩を凝視、梵字を捉えようとしていたがよくは見えなかったと言う。

 このあたりは東照宮周辺に比べ、なんと静かだったことか。季節もあったろうが、私たち以外には2組ほどの男女に遇っただけ。彼らも同様に足もとを気遣いながらの 静かな "散策" 。あたりは谷の流れの音に満たされ、修験の人々ならずとも淵のそばに座して瞑想したい気がした。

 憾満ヶ淵の奥には、晃海や山順など高僧の墓所、さらには大日堂跡などがあるということだったが、彼の脹ら脛の痛みを鑑みて足は伸ばさず、"日光田母澤御用邸記念公園" バス停へ向かう。


 

 訪れる予定だったもうひとつの "裏見の滝" は、溶け残った雪で足もとが悪いという情報があったので、この時点で、行くのは断念していた。

 芭蕉たちが訪れた当時の裏見の滝は、
「二十丁余り山を登って(いくと)滝がある。岩の洞穴の頂きから飛ぶが如く流れ出した水が百尺(下の)、多くの岩ある青々と水をたたえた深い淵に落ちている。岩の間の自然にできたいわやに身を潜り込ませて、滝を裏から見るので裏見の滝と申し伝え(られてい)ます。
  "折から四月十六日よりの夏行(夏籠)も間近いこととて、しばらくは滝の裏の
  いわやに籠もったことだ" 」と、上に示したとおり。

 この、大谷川の支流、荒沢川上流の荒沢にかかる "裏見の滝" は、『国花万葉記』に見ると、
「(上略)それより瀧へ下り洞をつたひて瀧のうらより見る也。瀧の高さ二丈斗ひろさ三間程有て、瀧裏のもとに石不動たゝせまします。峻乎として見るに身の毛立、すさまじき事云ふばかりなし。魔所にして荒怪有。昼にても凡人一人は行がたし。不信不潔なる者いたれば、忽ちさかれて、瀧ちかく成木の枝にかけさらし侍ると也」とあり、
 さらに、文化十三年(1816)年、野田成亮が訪れた際の記述を見ても、
「また荒澤という(所)を一見する。そこに裏見の滝という清らな滝がある、山中に入ること廿五丁、大滝の中ほどに洞穴があり、石の不動尊を安置し(てあり)右から左に抜け通る、滝の高さ三丈、滝を裏より見ることからウラミの滝という」と記されてあって、この間の滝やその周辺の様子に大きな変化はないように見える。

 ところが、明治35(1902)年、当地を襲った足尾台風に伴う大洪水によって、裏見の滝の様相は一変する。樋状の滝の上部が崩落し、滝口が数メートル後退。滝の背後に回ることはできなくなったというのだ。それまでは滝の上部に籠もり堂もあったらしい。

 少し歴史を覗いてみると、
 「寛永元年(一六二四)東照宮別当大楽院行恵により出羽三山、特に湯殿山大権現が日光山に勧請された。翌年、天海の命により日光の山中に出羽三山の図形が整備されて配置されている。羽黒山の別当寂光寺を日光山の寂光寺に見立て、その裏山に羽黒山を勧請、裏見の滝に荒沢寺不動尊を安置、男体山の北面火口内に湯殿山、太郎山の南半腹に月山を勧請、男体山の北面の薙を御真仏と見立てている」(cf. 山岳宗教史研究叢書8『日光山と関東の修験道』(オンデマンド版) 2000年11月 「日光山修験道史」中川光熹 54p.
 このように湯殿山大権現勧請に伴い、かつて "砂子沢" と呼ばれた "滝" 周辺の沢は荒沢と名を変え、また「出羽三山開祖能除大師が荒澤にて修行した際、開祖に柴燈護摩の法を授けた不動明王[荒澤臂切大聖不動明王]」[13]が勧請されて、
"裏見の滝" は日光修験 [14] の行場となったのだった。


 "日光田母澤御用邸記念公園" 前で乗車したバスは、中国からと思われる観光客で座席は閉められ、通路もぎっしり満員。
 途中から乗った私たちのこと、奥へも進めず、乗降口に近いつり革と握り棒で身を支える。連れ合いの脹ら脛が気にかかるがどうしようもない。

 乗車して三つ四つ先が「裏見の滝入り口」バス停だった。そこから45分ほど山道を行けばよいらしい。連れ合いが足さえ傷めていなければ難ないところ。だが、行っても滝の裏に回れず、また修行者の思いに迫れないのでは "魅力" に欠けるなあと思いながら、通り過ぎるバスに身を委ねていた。

 いろは坂のカーブはさすがに疲れた。連れ合いも黙って窓外を凝視したまま。
場合によっては立ち寄ってもいいか........と話していた華厳の滝も、とてもではないが行く気になれなくなっていた。連れ合いも「止めておこう」と。
 案の定、華厳の滝へのバス停 "中禅寺温泉" で乗客の大半が下車し、バスは一挙に空いた。座席に腰を下ろして一息つく。
 日光の "中心部" と奥日光と呼ばれる湯元温泉地区との距離はけっこうある。遠い。路線バスがかくも混み合っては、たまにしか訪れない私たちはともかく、当地に生活する人は難儀なことだろうと、身につまされる。



 帰り着いた休暇村では、何はともあれお風呂を使い、夕食を待つ。早めのお昼に摂った麺類は "遠の昔" に消化されてしまっていた。

 前夜は "日光名物湯波とこだわりの湯豆腐" 。
 連れ合い、文句の言うまいことか....。ゆばと湯豆腐なら、京都でなんぼでもうまいもんが食えるのに、と。予約注文しておいたのは私だから、形無しである。
 で、名誉のために、ここで日光の豆腐と生湯波について、品書きの裏書きを転載しておこう。
 豆腐は、日光市にある老舗 "松葉屋" のもの。「『松葉屋』の創業は明治初期。厳選した国産大豆と日光連山の天然地下水を100%使用した豆腐」だと。「『松葉屋』はとにかく手作りにこだわっており、「一番おいしいのは作り立て」と信念のもと、一日に売れる分しか作りません」という。
 そして生湯波。「日光市にある『まつたか屋』の創業は昭和57年。オリジナルの生湯波は甘みがあり、大豆の濃厚な味が楽しめます」とあって、さらに「日光の生湯波は通常の2倍の厚さがあり、口の中でとろけほぐれるような食感、さわやかなのどごしです」と記されてある。
 字面を見ながら、京都の "ゆば" は "湯葉" と書くなあ......、だけど、波と葉の表記の違いなんて、万葉仮名を考えると、たいした違いではなし........。それに、そう言われれば家で吸い物や包みものに使う "湯葉弥" の生湯葉も広げると2枚にはなってなかったか.....。ただ、料理によって形状も質量も変えるのは当たり前だから、京都にも "厚さ2倍" の湯葉を使う料理屋もないわけではないだろう、と思う。
 いずれ精進料理のあるところ、豆腐、湯葉あり。なんてことはない。

 さて、この日の夕食は "いっこく野州どりと野菜の味噌鍋コース" 。
 "いっこく野州どり" って、当地の "いっこくもん" と言われるような人が "こだわり" をもって育てた、"他国" にはない下野ならではの "旨い" 鶏肉という意味なのかなあ........と話していたところ、品書きの裏に「 (略) 直営農場や委託生産者が丹精込めて飼育した「いっこく野州どり」は食料に小麦麦芽を添加し、さらにビタミンEを強化した飼料を給餌して飼育しました。そのため、他の鶏と比べても栄養価が高く、また冷めても固くなりにくいというところに特徴があります」とあった。
 味噌鍋の赤味噌も、日光市今市に店舗を構える、創業約300年の「小野口商店」のもの。「伝統を守り続け、味噌づくりの製法は、昔から変わりません」とある。
 製法もさることながら、原材料の大豆も国産で、塩も自然海塩なら、さらにいいのだけれど、どうなんだろう、と言い合う。

 ところで、私たちは当地を訪れるまで、関東エリアにはしっかりとコース料理の出せる休暇村はないのではないかと訝っていた。だか、ここに来て、少し考えを改めねば、と思う。この夜は、然るべき料理がそれなりのサービスで出されたのだから。
 ただ、それには "休暇村 日光湯元" の立地が関係するのではないかと思う。
 日光湯元温泉は環境省より国民保養温泉地の指定を受けており、この地区には旅館共同組合に加入する宿泊施設が、休暇村を含め24施設あると聞いた。近隣に "競合" する施設がある場合、料理やサービスなどになにがしかの影響があっても不思議ではない。当然ながら、料理やサービスは "◯◯圏 云々" ではなく、それぞれの施設のありようが問われる基本の要素なのだと改めて思ったことだ。

 談笑しながらの食事を終えて部屋に。

 翌日の嬬恋鹿沢への移動に備えて、早めに床に就いた。

  ──────────────────────────────────
[注]
[1] このお堂は、能満寺の別院らしい[未確認]。
 ※ 能満寺:真言宗智山派。山号:龍虎山、院号:明星院 。本尊:虚空蔵
   菩薩。

[2] もとは "巨谷寺" と書いたらしい。宇都宮市大字大谷町。大谷は大谷石の
産地。

[3] 壬生城は「栃木県下都賀郡壬生町にあった平城。室町・戦国時代の壬生氏の居城であり、江戸時代には壬生藩の藩庁が置かれた城である」

[4] 宇都宮城:宇都宮市にあった平城。野田成亮の訪れた当時、城主は戸田忠延(七万七千八百五十石)であったようだ。

[5] 宇都の宮:二荒山神社。宇都宮市馬場町。祭神豊城入彦命。社の後にある前方後円の古墳がその墓だという。

[6] ベッドメーキングのスタイルの一つ。簡単に言えば、ベッドの上に羽毛布団がかけてあるタイプ。
 好みによるが、私たちにとっては我が家のベッドに近い分、こちらの方がいい。

[7] 曾良の『旅日記』原文 "日光"の条、
一 [注:三月廿九日]晝過ぎヨリ曇
  同晩 鹿沼(ヨリ火バサミヘ貳リ八丁)ニ泊る。
  ※上欄に記された割書
   火バサミヨリ板橋ヘ廿八丁、板橋ヨリ今市ヘ貳リ、今市ヨリ鉢石ヘ貳リ。
一 四月朔日前夜ヨリ小雨降。辰上尅宿ヲ出、止テハ折々小雨ス。終日雲、
 午ノ尅日光へ着。雨止。清水寺ノ書、養源院へ届。
 大樂院へ使僧[旧字]ヲ被添。折節大樂院客有之。未ノ下尅迄待テ御宮拜見。
 終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。 壹五貳四 [注:金銭か?!]
一 同二日 天氣快晴。辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ瀧(一リ程西北)、
 カンマンガ淵見巡、漸ク及午。鉢石ヲ立、奈須・太田原へ趣 云々
……
注:
*火バサミ:"文バサミ" の誤記。
*四月朔日:陽暦5月19日。
*清水寺:江戸浅草にあった天台宗の寺、江北山宝聚院清水寺。
*養源院:『国花万葉記』[cf.別項] に「御本坊御留守居」衆徒の一つとして
     「仏岩養源院」とある。徳川頼房 [家康の十一男。水戸徳川家の祖]
     の養母英勝院が妹養源院[おろく]の菩提寺として寛永三年に建立。
     水戸家参詣に際しての宿坊。『養源院開基来由』(写本)によれば当
     時の住職は五世生英で、六世は江戸浅草東光院で修行した亮寛。
     後、浅草清水寺に寄住した由(日光東照宮文庫主任研究員柴田豊久
     [故人]説)。
*大樂院:東照宮御別所(社務所)。
*折節:当時東照宮は大修理が始まっており、ちょうどこの日は幕府御絵師狩野
    探信が増修の用で来ていた(『東照宮御番所日次記』)。
*御宮:東照宮
*上鉢石町:神橋に近い門前町。元禄十一年の巡見帳では長さ一町二十八間、
      戸数四十二戸 とのこと。
*ウラ見ノ瀧:裏見の瀧のこと。

[8] 野田成亮日記 当該箇所(文化十三丙子(1816)年五月一日、二日)原文
 「五月一日 晴天。滯在。宮廻りす。朝四ツ時より社[旧字]參、案内一人賃百文、當所本町は六丁計りにて東西の一筋町なり、西町詰に大川大橋あり、長さ八間、幅三間高欄並に敷板等皆々極朱、疑寶珠外金具皆金めつき也。是を將軍橋と云ふ、諸人渡る事を禁ぜり。參詣人橋は別に有り。夫より本宮別所とて納經所あり。夫より東谷坊中一見、奥に開山堂あり。夫より大光坊と云ふに行けば、宮廻[旧字]りの山役出る、又通り切手も出る、一人前四十八文宛、尤も宿屋よりの書付持參す。何れの國同行何人と云ふ書付を受取り、陽明門と云ふにてそれを出し内に入る。鳥居より仁王門、陽明門、唐門、直ちに拜殿御殿と續けり。陽明門双方に高さ四間計りの鐘樓大鼓樓建てり。その美々敷事言語に述べかたし、經藏、寶藏、本地堂立並ぶ、石の手洗鉢長さ九尺高さ四尺計り、屋根は赤金にて餘は皆石也。此石に金めつきの金具を飾れり。又琉人、朝鮮人、紅毛よりの獻燈あり。是れは蓮華燈、釣燈などとて赤銅にて拵へ、大さ九尺廻[旧字]り計り、火立ての數は百もあらん、蓮花を見る如き也。諸堂、棟瓦、破風口、垂木諸々金物は皆金めつき彫物盡し極彩色也。柱の類いは惣金箔極朱、縁[旧字]より下は土臺迄蝋[旧字]色石、口金物金めつき、相輪燈、九輪の分は伸金也。唐金の燈籠は諸大名よりの獻上數知れず。夫より新宮と云ふに詣づ。大猷院殿の御靈屋へは仁王門迄にて内陣には入る事を禁ぜり。門三つあり、内に御靈屋見ゆる、東照宮御殿に同じ。案内の者は此所より帰[旧字]る。是より瀧尾と云ふに詣づ、是れ奥の院也。峠を越え山中へ十六丁入る、仁王門あり、御殿東向、五重の塔、小種石など云ふ大石あり。夫より又元の道に返り、御門主の前を通り西谷町と云ふに出で、"カンマン"の淵と云ふに行く、大川あり、川岸二丁計り大石、川向ひ石上に不動、此方の岸は護摩壇、又百體地藏、高さ五尺計りの石佛也。夫より寂光と云ふに詣づ。原町と云ふより谷合に入る事一里半、本堂東向、諸堂多し、上に大瀧あり、至て寂寞の地也。日光を表とし寂光は其光りの裏也。當所深山故歟櫻今を盛りなれば一句、
    寂光は浮世の外歟夏櫻
 日光より北に當り高山あり、男體山と云ふ、黒[旧字]髪山の事也。此山は未だ雪消えず、麓も春分の氣色也。因て一句、
    初汗をけふ身に知るや日の光り
 夕方旅宿清吉方へ帰[旧字]る。
 二日 晴天。日光立、辰の刻。金剛院と云ふ山伏宅見舞ふ。夫より中禪寺と云ふに赴く。道に大日堂、庭前に巴ヶ池とて清池あり。蕉翁細道の青葉若葉の句碑あり、又蓮花石とて蓮の如き大石あり、近所に清[旧字]瀧とて中禪寺前札所庵室あり。中禪寺は女人結界故に此所女人堂也。此堂に笈頼み置き中禪寺へ詣づ。當所より山中三里。大川に添ひ上る事廿丁、危橋三ヶ所にあり大なる坂廿五丁、中に不動堂あり、此所より山中平地を行く事十五六丁、道より左五丁に華嚴の瀧とて中禪寺御池より落つる瀧あり。御池大さ竪三里横五十丁、此池の水な下なり、常水には瀧口計りにて水は瀧の中程より漏れ出て落る也。立石五丈計り、此水大川と成る、此大石の邊りに鳥多く居る、是れ肥後の國神の瀬の一足鳥に少しも違はず、多分一足鳥ならんか。中禪寺本堂南向、諸堂あり、寺一ヶ寺坂東札所納經す。門前に茶店六軒あり。當所、黒[旧字]髪山禪定とて一ヶ年に七月七日一日だけ登山し奥の院に參詣す、一日に凡そ千五百人計りと云ふ。七日以前より中禪寺に籠り前行す。新客は山役錢金子一兩二分出す。度衆は二分三百文出る也。此籠り家池の岸に作れり。又此池に大船を浮べ、行人島廻[旧字]りとて船に乘り方々へ詣る事也。黒[旧字]髪山は未だ大雪なれば一句、
    黒[旧字]髪も眞白なりけり夏の雪
 下山して又荒澤と云ふを一見す。是所に裏見の瀧とて清[旧字]瀧あり、山中に入ること二十五丁、大瀧の中程に洞あり、石の不動を安置し右より左にぬけ通る、瀧の高さ三丈、瀧を裏より見るに付ウラミの瀧と云ふ。清[旧字]瀧庵へ夕方帰[旧字]る。中禪寺參詣の囘國者十人計り泊れり。
 三日 晴天。清[旧字]瀧庵出立、辰の上刻。足尾と云ふ上下三里の峠を越え、 云々
……
注:
*瀧尾:白糸滝のある山。日光山女体宮をまつる。滝尾(たきのお)中宮とも
    いい、今は滝尾神社と改号して二荒山神社に属する。
*カンマン淵:"カンマン" を片仮名で記したが、本文には梵字が記されてい
       る。
*寂光:「日光西町の西北にして、神橋より一理。古来泉石の奇勝に因りて、
    祠堂を置き、不動尊を祭りしが、近時仏教を撤去せしめ、諸堂大半
    廃し、文字をも若子と改めて、僅かに旧権現宮を存す。若子とは何の
    典拠に出でしか恐らくは古言に非ず」(大日本地名辞書)
    寂光寺・寂光滝があり、日光山中の名所に数えられたらしい。
*清瀧:日光市大字清滝町。大谷川の左岸にあった村。清滝寺があり、中禅寺
    (板東十八番)は女人禁制だったので、ここで納札した。
*中禪寺:中禅寺湖(南湖)湖畔一帯の地名となる。もとは日光山神宮寺の法号
     であるが、中禅寺の称号の起こった時代は明らかでない。
*裏見の瀧:荒沢川上流にある。以前は裏側に廻って瀑の落ちるさまを見る
      ことができた。霧降・華厳と共に日光三名瀑という。
*足尾:日光市足尾町。峠は細尾峠。

[9] 『日本國花萬葉記』
 元禄年間 [出版の日付:元禄十(1697)年] に「菊本賀保によってまとめられた全国各地の地誌。各国(藩)の城主やその家紋をはじめ、寺社、名花名木、名産品等あらゆる事項を調査し収録。「国花萬葉記」、「國花萬葉記」、「国花万葉記」といった別名をもち、近世研究の基本史料として広く使われている。江戸時代のガイドブックともいえる。(全21冊)」

[10] 「浄光寺には、一二〇〇年を越す歴史がある。日光開山の祖勝道上人が日光一山の菩提寺として仏岩(山内)に往生院を創設した。これが浄光寺の起源である。
 延応二年(一二四〇)には日光山本坊光明院(輪王寺の前身)と同時に、その六供浄光坊が創立され、後に往生院と合併した。寛永一七年(一六四〇)に当地に移され、現在はこの地の菩提寺である。本堂は、昭和四十八年に増改築されたが、内陣は江戸期のものをそのまま残している。本尊は、春日仏師作と伝えられる阿弥陀如来三尊座像。
 本堂には、鎌倉時代の青石の板碑があり、弘法大師真筆と伝えられる「妙覚門」の額が掲げられているが、これも往生院との繋がりを示すものである。境内にもこの寺の長い歴史を物語る史蹟が多くある」

[11] 西町太子堂 立て札(西町太子会)
 「この太子堂は聖徳太子が祀られており、一説には聖徳太子が諸国の名工を集め技術の粋を尽した法隆寺を建設したことにあやかり技量の向上を願って信仰するようになったという。
 古い記録によると最初の祀(ママ)が建てられたのは元和三年(一六一七年)から安永四年(一七七五年)の間。その後数回建て替えられ現在の祀(ママ)は昭和六二年(一九八七年)に建設された。嘉永二年(一八四九年)の送帳も残されている。(以下 略)」

[12] 命名の由来となった不動明王の真言には小呪といわれる一字呪、中呪といわれる慈救呪、大呪といわれる火界呪[根本陀羅尼] の三つがある。
 "呪" とは、密教の陀羅尼の訳語であり、善を保ち悪を防ぐ梵語の呪文の意で、それらの最後の句がカーン、またはカンマーンであるところから名付けられたようだ。
 不動明王の、三つある真言のうち、 "慈救呪" をサンスクリット語から音写す
ると、
  [ナマハ サマンタ ヴァジラーナーム チャンダ マハーローシャナ 
  スパタヤ フーン トラット ハーム マーム]
 日本では、従来、以下のように発音する。
 「ノウマク サンマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウン 
  タラタ カンマン」
 また、カーン、またはカンマーンのような句を種子(しゅじ)といい、種字とも書く。「密教において象徴的意味をもつものとして解せられた一つ一つの文字。仏や菩薩、ないし種々の事がらを標示するサンスクリット文字のことをいう。仏・菩薩の各尊を一字で標示した梵字。サンスクリットの文字(悉曇文字)の一つ一つに哲学的意味を含ませて、その一つ一つの文字がいずれか一つの仏または菩薩を象徴すると解するようになった」
  cf. 『不動信仰事典』宮坂宥勝 編 戎光祥出版 2006年9月
   『不動明王』渡辺照宏 岩波書店(岩波現代文庫) 2013年3月
  ※サンスクリットの文字および音写の符号は正しく表記できないため割愛
   した。

[13] 羽黒山修験本宗 広澤山荒澤寺 "荒澤臂切大聖不動明王" については、
「御本尊、荒澤臂切大聖不動明王は特別な御姿を示しておられる。縁起によると、出羽三山開祖能除大師が荒澤にて修行した際、開祖に柴燈護摩の法を授けた不動明王が、右手に携えた剣で左臂を折り松明とし、したたり落ちる血を護摩木に灌ぎ玉うところ、その血はたちまち猛火となり燃え上がった。これが羽黒修験の根本の「常火」で有り、そのお姿を写したのが荒澤臂切大聖不動明王である。
    くらき世を あきらけくこそ照らすらし
      のりのきり火の たゆることなく    と詠まれて、その常火を永くこの御堂にとどめた」と、羽黒は荒澤寺 "常火堂" の説明文にある。
 なお、羽黒山修験本宗 広澤山荒澤寺は、
「1400年前に出羽三山の開祖、能除大師 (蜂子皇子) が月山、湯殿山へ赴く際、ここ荒澤で修行しました。湯殿山大権現である大日如来の和魂を地蔵尊、荒魂を不動明王としてまつり、不滅の清浄火が燈る常火堂をこの地に建立しました。
 その後、開祖を慕い弟子の弘俊が草庵を立て、廣澤寺と称しました。のち役の行者、弘法大師、慈覚大師らもここで修行を積んだと伝えられ、羽黒山十大伽藍随一の寺となり、栄えました。
 山伏の峰入口、八方七口のひとつ荒澤口(あらさわぐち)は、羽黒修験で特に崇敬される霊地で、この荒澤寺(こうたくじ)は羽黒山奥之院として修験者の大切な行場となっています」という。

[14] 「日光山修験道史」中川光熹:山岳宗教史研究叢書8『日光山と関東の修験道』(オンデマンド版) 2000年11月 によると、日光修験の起源は「男体山信仰と勝道上人がその発祥の源」と言い、
 「天平神護二年(七六六) 勝道上人が日光の地に初めて足を踏入れ、四本龍寺を創建した。その後、補陀洛浄土の霊山(二荒山)の絶頂にいたらんと苦修練行、遂に天応二年(七八二)大願成就する。この寺を基地に、山中各所を順錫、地主権現を奉祀、千手観音尊像造立、神宮寺開創等々の偉業を完遂、ここに日光山の基礎が創設されるにいた」る、とあり、
 また、「弘仁十一年(八二〇)には弘法大師空海が登山、滝尾権現を勧請、山中を順錫して諸堂社の建立があったことを伝えている。その後、嘉祥元年(八四八)慈覚大師円仁の登山があり、日光山の本地堂、三仏堂、常行、法華の二堂の建立がなされ」たと記す。

            
forward.gif休暇村 嬬恋鹿沢