休暇村 嬬恋鹿沢
[休暇村 佐渡 : “手ぶらでキャンプ” デビュー]
"休暇村 佐渡" は、今(2020年現在)はもうない。
碧空の広がる “関岬キャン場” 。
左端、小高い丘の上に “関岬灯台” が見える。
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かつて、佐渡の休暇村 "関岬キャンプ場" は、
「海抜100mの高台にあり、紺碧の海を眺めながら、波の音をBGMにアウトドアライフが楽しめる休暇村佐渡。とくに遊歩道の展望台は佐渡の美しい海が見下ろせ、日本海に沈む夕日も望める絶景スポットとなっています。夜は漁火と満天の星空を眺めながら、贅沢な時間を過ごせること請け合い。大人も子供も、忘れられない体験となるでしょう。さらに、管理棟には係員が常駐。売店やレンタルコーナー、コインシャワー、家族風呂などの施設も充実しています」と紹介され、さらに、
「キャンプ初心者などにおすすめなのが、テントやキャンプ用品がなくてもキャンプできる『手ぶらでキャンプ』プラン。夕食には、新鮮な海の幸満載のシーフードバーベキューをご用意していますので、ぜひお試しください」との案内がされていた。
休暇村として名を連ねている以上、キャンプ場であっても、私たちは、もちろん、訪ねるつもりでいたが、佐渡という立地と、 "手ぶらで" とは言え "キャンプ場でのキャンプ" という点で、なかなか気乗りがせず、後回しになっていた。
だが、休暇村全村巡りも、新しく休暇村に組み入れられた "奥武蔵" と "佐渡" を残すのみとなり、そろそろ潮時だろうと、佐渡に向かう決心をした。休暇村が撤退する1年前のタイミングであった[1]。
「佐渡島」について、柳田は、
「地圖で見た佐渡の島は、牽牛花[あさがお]の二葉の形をして居る。その二葉には僅か大小があつて、外側の大佐渡の方が、峰も高く海岸線も幾分か長いやうである。越後の海府と對立する佐渡の海府は、昔はこの大佐渡の海岸の、略全部を包[旧字]括したものかと思ふが、現在 [柳田が一巡した当時] の内外海府二箇村の地域は、西北鷲崎の海角を中にして、十二三里の間に限られて居る。大字が十四で四百餘戸三千人ばかり、此に巡査が一人居る。冬分は折々杜絶するやうな交通状[旧字]態である爲に、世間からは今なほ別天地の如く取扱はれて居る」と記す。
そして、
「佐渡の文獻は必ずしも貧弱では無いが、惜しい哉いづれも二百年以降の集成で、しかも其大部分が國中[くになか]の一盆地と相川とに限られて居る。相川當年の殷富は、爰に昌平文學の實生[みばえ]を成木せしむるに十分であつたが、根が江戸の統一思想から出て居るだけに、所謂郷[旧字]土の英雄に對する敬意が足りなかつた。其結果は今日に至るまで、此島の歴史は殆と流人の歴史である。中世の地頭が眼近く流人を監視[旧字]したやうに、相川の風雅の士も、名所舊跡を一眸の下に纏めんとした姿がある。由緒を語るべき本間澁谷藍原等の一類は多くは他郷[旧字]に去つた。聞書覺書などの頓と傳はらぬ國である。小佐渡の方には其でもまだ、若干の殺伐なる記録[旧字]が有るが、海府に至つては史學者との交渉が殆と無い。史料を文字以外に求めない限りは、恐らくは永く斯うであらう。手短かに申せば此方面には、鬪諍と訴訟とが曾て無かつた。それをするやうな元氣な階級が來て住まなかつた。其故に欽明紀の肅愼[みしはせ]の隈の後、特筆大書するに足る事件が何も起らなかつた。即[旧字]ち話にならなかつたのである」と述べる(「佐渡一巡記」[昭和七年十月 旅と傳説] 「佐渡の海府」[大正九年八月 歴史と地理] )。
佐渡の人々には異論もあろうが、柳田は「此島の歴史は殆と流人の歴史である」と言うのだ。
『日本國誌資料叢書 第二巻 越後・佐渡』に見ると、確かに多くの"罪人" が佐渡に送られていることが判る[2]。
だが、近世初頭、慶長六(1601)年に金山が開発されると、江戸幕府は、その2年後、慶長八(1603)年には奉行所を置き、佐渡を直轄領とする。そして、元禄十三(1700)年、金産出を理由に罪人の佐渡送りを廃止。
一方で幕府は、無宿人対策の一環として捕縛した無宿人を佐渡に送り込み、金銀山の水替人足として使役するようになる[3]。
この制度は、安永七(1778)年、幕閣田沼意次のもと、元佐渡奉行の提案により始まったとされる。18世紀後半、江戸などの都市およびその近在に無宿人が多数徘徊し、社会不安を起こすようになったことから、幕府は再犯の恐れある無宿人を懲らしめのために捕らえ、 "佐州水替人足" として使役することとした。以後数次にわたって、江戸をはじめ大坂、長崎などの無宿人を佐渡送りにする。
佐州水替人足とされた無宿人たちは、「年齢は20〜40歳程度、鉱山の谷間の矢来で囲った136坪余の水替小屋場に収容」される。人数は200人前後で、小遣銭が支給された。原則として就労は無期だが、改悛の情が顕著な場合は放免されることもあったらしい。とは言え、鉱山労働は過酷で、塵肺や鉱毒水等々により、水替人足たちの寿命は30歳余りと、短命だったようだ。
cf. *『世界大百科事典』「鉱山」の項。
*「まてりあ」第45巻 第4号(2006)「非鉄金属鉱業の公害」 畑 明郎 p.253
佐渡において「流人」ということばには "流され人" という意とともに、この島に送られた多くの無宿人たちをも含めるべきかと思う。
また、柳田がこの島にとって「特筆大書するに足る事件」として挙げた「欽明紀の肅愼[みしはせ]の隈」については『日本書紀』に以下のような記述がある[4]。
欽明五(544)年「十二月、越國(の "みやつこ" )の言うことには、佐渡島の北の御名部の長く続く川岸に肅愼人[ミシハセびと]※があり、一艘の大船に乗って長く滞在していた。(彼らは)春夏には魚漁をして食物に充当。か[佐渡]の島の人は、(彼らは)人間ではないと言う。(さらに)また(彼らのことを)鬼物[恐ろしく怪しいもの。ものの怪]と言って、(自ら)進んでは近づかなかった。(佐渡)島の東の禹武の里人が、椎子(の実)を採り拾って、よくよく煮て柔らかくして食べたいと思った。(そこで、実を)灰の中に(入れ)とどめて焙った。(すると)その外がわの殻が、(形を変えて)二人(の人間)になって、火の上に高く飛び上がり、(その程度は)一尺余ほど。時が経過したけれども互いに闘っていた。禹武の里人ははなはだしく怪異なことだと思って、庭に取り置いた。(ところが)再びまた前のように飛び上がり、互いに闘って止むことがない。(或る)人があって占って言うことには、この(禹武の)里人、必ず鬼物のために途方に暮れるところとなるだろう と。程なくして(占いの)ことばどおり、(禹武の里人は)それ[鬼物=肅愼人]に手当たり次第暴力で奪い取られた。このときに、肅愼人は瀬波河浦に移っていった。(瀬波河)浦の神は(肅愼人を)容赦なくにくみ嫌った。人は(自ら)進んでは(瀬波河浦に)近づかなかった。(肅愼人は)喉が渇いてそ[瀬波河浦]の水を飲み、死者は今にも半数になろうとしていた。(肅愼人たちは死者の)骨を大きな岩の洞穴に積んだ。(ここを)世間では肅愼の隈[=淵]と呼ぶ と」。
『日本國誌資料叢書 第二巻 越後・佐渡』は、「思ふに此國[注:佐渡國]は北日本海に孤立するが故に、大陸沿岸民族の來寇若しくは漂着のあつた事は想像するに難くない。天平勝寶四年渤海使節が來着したに思に合すべきである」と記す。
千数百年を経た現代においても「大陸沿岸民族の來寇若しくは漂着」に類する事例がこの島に起きている事実は、時に理不尽ながら、島の立地がもたらす "宿命" と言うべきかもしれない。
この、肅愼人たちが死者の骨を積んだという大きな岩の洞穴、「肅愼の隈」は「鷲崎願浦の舊號か」とする説もあるようなので、佐渡を訪ねるなら、"願 [ねげ] " は外せないな.......と思ったことだ。
ところで、柳田が「新潟から兩津の港に渡」ったのは、大正九(1920)年6月16日。
その日、佐渡は「梅雨のかゝりで、日本海の空は白く曇り、靜かな大きいうねりがあつて、雨が少しづゝ降つて居た」が、新暦六月の十五十六日は、"兩津夷" の祭礼。偶然行き会わせた柳田は、「宿をきめると早速見物に取りかゝ」り、「馬に騎つた鼻高童子の人形を、車に載せて曳いて行く」のや、能の猩々のように髪を長く垂れ、なかなかに上作と思われる面をつけて舞う鬼太鼓[おんでこ]を見、夜に入っては「吾妻樓といふ貸座敷の奥の間」で行われている御神樂を「格子の外から町の人と共に覗いて見る」。
「翌日も他に用が無いから、何べんも町をあるいて見」た。そして「濱へ出て見ると小舟が一艘鷲崎へ歸つて行かうとして居る」のに出会う。そこで「ふいと便船をして行つて見る氣になつて、慌てゝ支度をして」乗り込む。
到着した「鷲崎は至つて靜かな澗(ま)[=谷]であつた。水草が茂り其水に夕日がさし込んで居る。何艘かの帆前船がきしからずつと離れて碇泊して居る。新潟から米を積みにやつて來た船だといふ」。宿は木村という舊家にとった。
明くる六月十八日、柳田は南濱の赤玉村から來た島道者五人とともに「外海府一見の旅途に上る」。彼の強く印象に残ったのは、この日の「晴れたる午前の外海府の風光であった。彈崎の燈臺を出てから、眞更川の村に取付くまでの間、海端に平地があつて大きな阪も無く、磯や砂濱の美しい變化は、一歩毎に濃かになつて行くやうに思はれた。それで居て路傍に人家といふものが殆と無い。出逢ふのはたゞ牛ばかりであつた。ちやうど野草の最も花の多い季節で天然の秩序とも名付くべきものが、まだ此あたりではよく保たれて居るやうな氣がした。たとへば大野龜の鼻につゞいた一つの小川では、麓から頂上まで萱草の花一色で、飾り立てたやうな景色を見た。そこへ行くまでにも濱には韮の如き草の一面に、紅い花の咲いて居る處が方々に有り、見馴れて居るたゞの草花でも、大抵は二町三町の廣い面積を、他の草を交へずに連なり咲いて居るのが奇観であつた。さうして花の色が一様に極めて鮮明であり、中には又香りの高い白い花などもあつたが、名を問ふことが出來ぬので本當にたより無かつた。[王+攵]瑰(はまなす)の花はまだ少し早いやうで、稀にしか見られなかつた。蔓荊(はまばう)は既に路の傍にも咲いて居た」という。
そして、道中の「願(ねげ)の塞(さい)の河原は島巡禮の人たちが、殊に心を留めて拝んで行く靈場であつた。以前は西北を口にした深い岩窟であつたかと思はれるが、いつの世かの風浪にその後の山が崩れて、今は行抜けになつて、わざわざその中を通るやうに路が出來て居る。前には地藏堂を建て、大小無數の石佛が、穴の内外に起臥して居る。石を積む風習はこゝにも盛んに行はれて居るらしいが、それは皆旅する者の道心からであつて、あたりは廣い間一軒も人家が無い。是が中古の葬地の跡であつたらしいことは、其後他の地方の例を比べて追々に判つて來たのだが、島の人たちにはまださうは考へられず、半ばあの世のやうな信仰を以て眺められて居るのである」と記している。
"願(ねげ)を離れた柳田たちは、さらに"鵜嶋(うのしま)" を経て、「又一つの岡を越えて、漸く眞更川の村には入つて行」った。
「眞更川は光明佛寺に登つて行く山の口である爲に、是も島めぐりをする人にはよく知られ、村は高地に在つて構造がやゝ他と異つて居る」と、歩きつつ柳田は土地土地の観察を怠らない。
「眞更川を出てから笠取峠といふのが、新道でも可なり險しい山路であつた。光明佛の山から出る一つの山川を、やゝ上流に遡つて渡ることになつて居るので、急に山の中のやうな氣分になる。石楠(しゃくなぎ)の花なども咲いて居ると見えて、折取つたばかりの一枝が路上に棄てゝあつた」とある。
折口信夫の "葛の花 踏みしだかれて 色あたらし この山道を 行きし人あり" が思い出される一節だ。
「それから濱傳ひに岩谷口の村まで出て來ると、爰はもう農村であつて家のまはりに田がある」。折しも、この日は「舊暦[旧字]五月の節句であつた。遠近の家で餅をつく音がする」。そのトトトンという三拍子の音を聞いて、やがて關村矢柄村に至る。
「關には膳棚と稱して磯端には珍らしい平岩が連なつて居る。山からは木の葉石も出るといふことだが、少しも休まず通り過ぎ」て、石名の檀特山清水寺の、見事な名木の二本の鴨脚と、その辺りの家作り・民俗を観察。入川村で宿をとり、さらに濱伝いに南下していくのだった。
佐渡へ出発するに際し、私たちは現在の佐渡島の概要を把握するため、昭文社の都市地図「新潟県7 "佐渡市" 」を購入。また “佐渡観光交流機構” にバスの時刻表他、資料の送付を依頼する。
目指す "休暇村 佐渡" は "関 南” の日本海に突き出た海抜100mの "禿の高" にあり、柳田の歩いた外海府の、
鷲崎→→弾埼→→大野龜→→願の賽の河原→→鵜嶋→→眞更川→→笠取峠→→岩谷口→→關村・矢柄村→→石名→→入川村 間の "關村" にあることが分かる。
"関 南” は"Jetfoil (ジェットフォイル)” の発着する両津港から遥かに遠い。地図の付録、バスルート案内図に見ると、バス1本では行けないことが判明。どうやら "両津港佐渡汽船" とあるバス停から "バスステーション佐和田" に行き、そこで "岩谷口行き" に乗り換えるのが最善のようだった。
せっかく佐渡に渡るのだから、休暇村キャンプ場で二泊し、柳田の歩いた道を歩きたい。
キャンプ場で一泊した翌日、”関 南” からバスに乗って鷲崎まで行き、鷲崎からはバスで来た道を逆行。八角形の弾埼灯台を見て、藻浦から海岸沿いに二つ亀を望む自然歩道を行き、願の賽の河原を経て大野亀に遊び、関に歩いて戻ろうと考えた。
だが、これが失敗だった。
バスの運行状況を調べると、土・日・祝日については、岩谷口←→眞更川 間のバス路線は繋がっているが、平日の海府線は岩谷口まで。内海府線側も真更川まで来たバスはそこから両津方面に引き返してしまう。つまり、平日の岩谷口←→眞更川 間は繋がっていない。バスがないのだ。
いろいろ調べ、レンタサイクル "エコだっチャリ" というのがあることを知る。「デリバリーや乗り捨てもOK」。電動アシスト自転車1日24時間乗り放題 ¥2,000 というので、問い合わせ先に電話してみた。だが、島内の数少ない指定場所にしかデリバリーも乗り捨てもできないことがわかる。休暇村 佐渡はそのいずれにも入っていなかった。
電動アシスト自転車が借りられるのなら、自転車を敬遠する連れ合いを説得してでも……と思っていたが、この選択はなくなった。
最後に、タクシーの配車依頼。佐渡島内の観光タクシー料金の高いことはパンフレットなどで承知しており、最も可能性の低い選択肢ではあったが、一応と思って電話してみた。そして、関のバス停を起点に、向かいたい場所を説明。配車の可否を尋ねると、配車は可能だが、料金が¥16,000〜¥20,000くらいかかる、それでもいいのならとのこと。
料金以前にその対応がなんとも心に障り、止めた。
致し方ない。歩くことにする。
“関 南” から岩谷口 8:20 着のバスに乗り、岩谷口で下車して、バスのつながっていない岩谷口←→眞更川 間を、真更川に向けて歩くのだ。真更川発のバスは 9:10 。猶予は50分。
ただ、問題は岩谷口・真更川間の距離。観光協会に問い合わせ、地元の人に尋ねてもみたが、確かなことは遂にわからなかった。中に3kmくらいかな.....という人があり、「50分あれば行けますよね」と、念を押してみるが、はっきりしない。心許ないが、地図を見ていると、50分あれば何とか真更川に着けそうな気がしてきた。とにかく歩いてみることにする。
2018(平成30)年8月28日早朝、佐渡島に向けて出発。
新幹線で一旦東京へ出た後、上越新幹線 "とき 311号" に乗り換え新潟に。JR新潟駅から新潟港まではバスの所要時間に不安があったため、タクシー(¥1,300)で移動。新潟港からは佐渡汽船の "Jetfoil" に乗船して佐渡島に向かう。
12:35両津港に着岸。総合案内所で島内バス "3dayパス" ¥3,000を2枚購入。その際にも、岩谷口←→眞更川 間のおおよその距離でもと尋ねてみたが、ここでもわからないとのこと。
両津港発佐渡交通本線バスの発車時刻は12:50。ぐずぐずしてはおれず、大急ぎでバス停を探して乗車。佐和田バスターミナルで海府線に乗り換えて、"関 南" へ。先へ進むにしたがって乗客は少なくなり、最後は私たちだけになった。
バスが "関 南" の手前、 "石名 北" を通過する際、バス停のすぐ前にある「石名の檀特山清水寺の、見事な名木の二本の鴨脚」を車窓から見た。ほんの一瞬だったが、樹齢700年といわれる雌雄の大樹が寺門のように聳えており、「清水寺の大銀杏」と記した白い標柱も見えた。
午後3時25分に到着した "関 南" バス停は、片側に山が迫り、片側は海。停留所の標識もなければ人家の一つも見当たらない。
ザックを担ぎあげ、徒歩約1時間という "禿の高" を目指して、汗を拭き拭き坂を上る。40分ばかりで管理棟の背後に出た。回り込んで、声をかけると、若い男性が出てきて受付をしてくださり、施設の説明や「手ぶらでキャンプ」の要領、備品の貸し出しやシャワーについての丁寧な説明を受ける。
この日の "宿泊" は私たちだけの由。
LOGOSだったかColemanだったかの、大きなドーム型テントがすでに管理棟に近い場所に設営されていた。本来は利用者が設営しなければならないのだが、この日、他に来訪者がなく、特別の配慮をいただいたようだ。
「手ぶらでキャンプ」のキャッチフレーズにしたがって、私たちはほんとうにキャンプ用品は何も持たず、"手ぶら" で家を出ていた。
我らがテント "MOTHRA KID" (SIERRA DESIGNS:SUPER FLASHの形状から私がつけた愛称) も寝袋も、MSRバーナーやコッヘルに至るまで、何もかも家に置いて出た。持ったのは2、3日分の行動食 (昼食用パン・インスタントコーヒー) と “非常食(アメ 他)” のみ。
午後5時ごろ、バーベキュー食材を取りに管理棟に出向く。
トレーいっぱいに盛られた魚介。
Wildにこのまま姿焼き。時に “生焼け” も “黒焦げ”も。
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「新鮮な海の幸満載」の食材は、関集落にある国民宿舎 "海府荘" で調理された魚介。ちょっと大ぶりのメインの魚、この日は黒ダイが "で〜ん" と一匹、他にも魚二尾、サザエやイカ等々がトレーに盛られていた。
私たち以外、来訪者はないということだったので、青年に "夕食" を一緒に、と声をかけてみた。それではと、気さくに応じてくださり、夕べの空の下、三人でバーベキューコンロを囲む。
連れ合いも私も、この手の "バーベキュー" は初めての経験。椰子炭になかなか火が着かない。せっかく "招待"した青年にも気を遣わせてしまった。
火を熾しながら網にのせた黒ダイにうまく火が通らず、会話しつつも私は焦った。それでも火の通ったはしから三人で鯛の身をほぐし、ざさえをこじ開け、イカを口に運ぶ。
佐渡の空は少しずつ黄昏れて、薄闇があたりを包み始めるころ、コンロの火は次第に勢いを増し、私たちの顔を明々と照らし出した。三人のお箸は、今度は食材が黒焦げにならないよう、網の上を慌ただしく動きまわる。
聞くと、このキャンプ場は1995年から休暇村協会が新潟県より管理を請け負って、 "休暇村 妙高" が夏期二ヶ月間の営業を担っているとのこと。
この夏 "妙高" から派遣され、キャンプ場の管理を任されていた "外立" 青年は、二ヶ月間一人ここに詰めているという。だが、さすがに一日100組余りもの利用者がある旧盆には学生アルバイトを雇ったのだとか。
明るく気さくな青年はまた誠実な人物で、2日ばかりのつき合いだったが、彼に管理委任した上司の目に狂いはなかったのでは……と思ったことだ。連れ合いは “きっと将来を見込まれてのことに違いない” と、彼の二ヶ月間の労をねぎらった。炭火に照らされた青年の横顔がちょっとはにかんで見えた。
翌朝7時、管理棟に朝食 (各自パン2個と牛乳パック1つずつ) を取りに行き、食事を済ませて "禿の高" を下る。バスの時刻までに時間があったので、そのまま歩く。私たちが岩谷口に着いたとき、バスもまた岩谷口に到着。ちょうど 8:20だった。
自販機でスポーツドリンクを買い、一路 "真更川" を目指す。
文字どおり “Z” に見える坂道。
私は ”跳坂” 派。”Z” ってあまりに即物的。
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まずは跳坂(はねざか)、通称 "Z(ゼット)坂" を、歩を緩めずに登り切り、バスの発車時刻 9:10 までに真更川に到着すべく、海府大橋を渡り、
橋の完成は1968(昭和43)年。
“外海府の難所” に架かる。施工はかの “近藤組”。
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再び山道に入っていった。
だが、そのあたりで、9:10には間に合いそうにないことが予見された。しかし、とにかく 9:10 までは歩こうと前進。山道を上りきり、下り坂に差し掛かかろうかというころ、腕の時計が9時10分を指した。"笠取峠" あたりではなかったかと思う。
峠の坂道からでも真更川のバス停が見えないものかと思ったが、互いに “もういいよね” と言い合って、踵を返した。
弾埼の灯台にも願 (ねげ) にも縁がなかったのだ。
帰り道は気楽であった。海府大橋の真ん中で "行動食" のパンをかじりながら、大ザレ川が日本海に注ぐ落ち口をのぞき込んだり、跳坂の上部から岩谷口の集落を眺めたり、道路工事の様子を観察したり、岩谷口観音の洞穴奥にある、水たまりのような “竜眼の池” [5]を見に入ったり。
“竜眼の池” は岩の割れ目の奥。
洞窟入口の左には如意輪観音が座す。
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時間に追われることなく“ぶらぶら” 戻る。
もうほとんど “関 南” かというところで、後ろからやって来たバスに、二駅だけ乗った。歩くのにほとんど飽きてきていた。
昼間のバスには一人の乗客もいなかった。
帰り着いたキャンプ場で、木の下陰の草地に寝転び、二人で午睡。
一息ついてから、カメラを手に敷地内の遊歩道を辿って関岬灯台に。「日本海に沈む夕日が見える絶好のスポット」とされる展望台にも草を分けて行ってみた。ぶらぶらと広い敷地内を一巡したが、どこにも人影はなく、ここに100にも余るテントが張られ、人々で溢れかえっている図などとても想像できなかった。8月末のキャンプ場はただただ静かだった。
夕食前に、歩いてしたたかにかいた汗をコインシャワーで流す。さっぱりした。
到着時にも使わせてもらったが、小ぎれいなシャワー室だった。
夕刻、管理棟にバーベキュー用食材を取りに行くと、 "妙高" から人が来ておられ、外立青年と共に今期キャンプ場終いの作業をしておられた。いよいよ佐渡の夏も終りのようだ。
前夜の経験から学んだこの夕べ、バーベキューコンロに投入した椰子炭にはスムーズに火が着いた。二人で “無念だった一日のあれこれ” を話しながら夕食をとる。
夕闇の迫るころ、ゴミ処理や洗い物をあらかた済ませ、面倒な後片付けは翌朝することにして早々にテントにもぐり込む。
到着した日に私たちが借りたブランケットの一枚、甘い飲み物をこぼしたのにそのまま畳んで返却したらしく、広げるとベタベタネトネトして甘い臭いがした。もちろん状況を話し、交換してもらったが、”ほっかむり” を決め込む人間ってどこにでもいるんだ…と、前夜の一件を思う間もなく眠りに落ちてしまっていた。
翌朝、身支度を整え、手分けして、束にした枯草でバーベキューコンロや金網等々にこびり付いた汚れを擦り取り、枯れ枝でこそげ取って水洗いする。そして、それらをかわかす間にもテーブルをたたみ、椅子を重ね、借りた器具をまとめて、撤退準備は完了。
すべてを返却し、暇乞いをして ”禿の高” を下る。
坂を下りきろうかという辺りで、つれ合いは栗の木に実った大きな青い “イガ” を見つけ、ザックからカメラを取り出して、初々しい佐渡の秋を写真に収めた。カメラはいわゆる “デジカメ” 。長い間 “行” を共にした先代がとうとうダメになり、佐渡行を前にして新しく購入した二代目デジタルカメラだった。
道路沿いの狭い耕地には、朝の涼しいうちにということか、鍬を手に畑仕事をする老農婦の姿があった。「おはようございます」と声をかけたが聞こえなかったようだ。
明ければ9月というのに佐渡の朝はまだ蒸し暑く、バスを待つ間にも汗が滴る。歩道の縁に荷を置き、腰をおろしてバスを待つ。
彼が、ふいに「こう暑くてはたまらない。岩屋口行きに乗って、そのまま折り返してくるという手もあるよな」と言う。「それはいいアイデア!」と応え、トンネルの方に目をやると、岩屋口行きバスのやって来るのが見えた。大急ぎで荷物を担ぎ上げ、私たちは道の反対側に走った。乗り込んだバスは空で、冷房の効いた車内は心地よかった。交々に「よかったね」と言い合ったものだ。だが、この思いつきの行動がそもそもの “間違い” だったことに気付くには両津港まで行かなければならなかった。
"Jetfoil" に乗船しようとして、船の写真を撮っておこうと言いながらザックに手を入れた連れ合い、「ウン ?! 」という顔をして手探りをしていたかと思うと、ザックの口を大きく開け、入っているものを目で確かめて「カメラがない!」と言う。そして、目まぐるしく頭の中で時間を逆行させているかのような “面持ち” をしていたかと思うと、「あっ! あそこに置いてきてしまった」と言った。歩道の縁に腰を下ろした際、汗を拭うためにカメラを手から離したらしいのだ。私もやって来るバスに気を取られ、後をも振り返らずに駆け出したのがいけなかった。
「帰ったら所轄の警察署に届けを出しますから」と言ったものの、その後はカメラのことが頭から離れなくなった。新しいカメラも惜しかったが、何より折々に撮った写真の数々を失いたくなかった。
当日自宅に帰り着くのは夜になることから、新潟市内で一泊して帰ろうと予約してあったホテルに着くや、フロントで事情を話し、”関 南” を所轄する警察署の電話番号を調べてもらう。とても家までは待てなかった。
すぐに所轄の佐渡西警察署に電話し、遺失物係の女性係官に、置き忘れたカメラの機種・色・形状、置いてきてしまった場所、時間、私たち自身の情報を告げ、届けがあれば是非連絡してほしいと願う。
電話し終わると、すぐにでもカメラは戻るような気がした。「ここは日本だしね」と言って、わけもなく私は期待を膨らませた。
だが、帰宅後も一向に連絡は来なかった。今もない。
私たちのカメラは、誰にも気づかれないまま、まだあの場所にポツンとあるのだろうか。あるいは、私たちが ”関 南” を離れた後、あのあたりで雨が降ったというから、カメラは雨に打たれ流されて、道端の草叢に隠れてしまったのだろうか。いや、道沿いの畑で作業していた人が駐在所に届けてくれたが、何かの手違いで駐在所の片隅に置かれたままになっているのかも…と、しばらくの間、カメラのことを考えない日はなく、言っても詮無いことを繰り返していた。
そして、新潟と聞いては「カメラ返して!」と叫び、佐渡の名を聞いては「カメラを返して!」と叫んで、彼に苦笑されていた。”諦めの悪い奴やな” と。
いよいよもう私たちのカメラは戻ってこないのだと思い定めたとき、一つの “物語” が頭に浮かんだ。道端に出てきた子ギツネが私たちのカメラを見つけ、ストラップをくわえて引きずり、山の巣穴に持ち帰るという物語だ。
星野道夫がアラスカの原野で撮影を終え、コーヒーを沸かしていると、どこからともなく子ギツネが現れ、買ったばかりの新品の小型カメラを、長いストラップをくわえて持っていってしまったという、古い記憶で少々怪しいが、おとぎ話のようなエッセイのあったのを思い出す。
子ギツネの巣穴の奥にある私たちのカメラ……。それならいい。カメラはキツネにやろう。
諦めはついた。
ところで、芭蕉が曾良とともに "北陸道を行脚して" 越後出雲崎に立ち至ったのは、元禄二(1689)年七月四日のこと。
諸説はあるが、その際、「あら海や佐渡によこたふ天の川」の句がものされ、詞書きともいえる俳文「銀河ノ序」[6] において、芭蕉にとっての “今ある” 佐渡が語られる。
「げにや此しまはこがねあまたわき出て、世にめでたき島になむ侍るを、むかし今に至りて、大罪朝敵の人々遠流の境にして、物うき島の名に立侍れば、冷じき心ちせらるゝに、宵の月入かゝる比、海のおもていとほのくらく、山のかたち雲透に見えて、なみの音いとゞかなしく聞え侍る」と。
"旅" の終わりの感慨とともに旅情、旅愁を深くしつつ、芭蕉は黒々とした佐渡の島影を遠望する。元禄二(1689)年、佐渡は金産出の島として知られるようになってはいたが、まだ遠島の島でもあった。
私の記憶に残る最初の ”佐渡” は、「砂山」に歌われる "荒海の向う" の島。 "島影” は遠く、実像を結ぶことはなかった。
連れ合いにとっての “佐渡は” と問うと “山椒太夫” に始まるという。もっとも、彼の頭に浮かんでいたのは『山莊太夫考』だったようだが。
それを聞き、鴎[旧字]外描く『山椒太夫』において、長じた厨子王が 盲ひとなって鳥を追う老いた母親と再会する場面があったが、そこに佐渡の地名が出ていたような気がした。当たってみると “雜太” とあった。どこあろう、それは私たちがバスを乗り換えた、あの佐和田だったのだ。
佐和田の旧の表記が “雜太” であったことは、『日本國誌資料叢書 第二巻 越後・佐渡』にも記されてある。
“休暇村 佐渡” 訪問を果たし得たものの、訪ねたい地にたどり着くこともできず、カメラまで失うという無念な旅ではあったが、“佐渡” が私の中で実像を結び、物語に描かれた地名がひとつ私の中で具体的な “像” を結ぶに至ったのは “収穫” であった。
[追記] 本文中の写真は、すべて他から拝借したものである。多謝。
………………………………………………………………………………………………
[注]
[1] "休暇村 佐渡" 、すなわち、 "関岬キャンプ場" [休暇村協会が夏期 7月1日〜
8月31日の間、管理運営] は、2019年8月31日をもって営業を終了した。
2019年9月、
「1995年よりご利用をいただいてまいりました休暇村佐渡(新潟県関岬キャンプ場)につきましては、2019年8月末で弊協会による指定管理者の営業を終了いたしました。
長期に亘るご愛顧に感謝いたしますと共に、運営への多大なご理解ご協力を賜りました地元の皆さま、並びに新潟県、佐渡市関係の方々に深く御礼を申し上げます。
なお、関岬キャンプ場の2020年度以降営業等に関しましては、新潟県ホームページをご覧ください」と、一般財団法人休暇村協会は告知している。
その後、令和元(2019)年12月の新潟県議会において「地方自治法(昭和22年法律第67号)第244条第3項の規定により」指定管理者が “佐渡市相川大間町45 株式会社近藤組” に指定されている。指定期間は、令和2年4月1日から令和7年3月31日まで。
cf.『新潟県報 第68号』令和元年12月27日(発行:新潟県)
[2] 『日本國誌資料叢書 第二巻 越後・佐渡』に見ると、
「流罪になった人々」として、
・養老六(722)年正月壬戌、正五位上穂積朝臣老指斥乘輿配於佐渡島。
(養老六(722)年正月壬戌、正五位上穂積朝臣老乗輿[帝]ヲ指斥[排斥]スルニヨリ佐渡島ニ配ス)
[※神龜元(724)年三月庚申、定諸流配處遠近之程、佐渡六國爲遠]
・天平十四(742)年十月戌子、配流川邊朝臣東女於佐渡國。
・天平寶字元(757)年七月己酉、安宿王及妻子配流佐渡。
[注:"橘奈良麻呂の変" に加わった罪により、妻子と共に佐渡に配流]
・延暦[旧字]四(785)年十一月庚子、能登守從五位下三國眞人廣見、坐誣告謀反、合斬、減死一等、配佐渡國。
・延暦[旧字]十一(792)年三月壬申、流内膳奉膳正六位上安曇宿禰繼成於佐渡國、初安曇高橋二氏常爭供奉神事行立前後是以去年十一月新嘗之日、有勅以高橋氏爲前、而繼成不遵詔旨背職出去、憲司請誅之、特有思旨以減死。
・天長五(828)年十一月甲子、參議從四位上伴宿禰國道卒。延暦四(785)年依坐父事、配流佐渡國。宰更當師友、就問所疑、國裏文案、出自伊人、延難之治道亦得友、二十四年有恩赦入京。
・承和六(839)年三月丁酉、遣唐三个船所分配知乘船事[注:知乘船事は船の管理者。積荷や水手たちの管理なども行う]從七位上伴宿禰有仁、暦[旧字]請益[旧字]從六位下刀岐直雄貞、暦[旧字]留學生少初位下佐伯直安道、天文留學生少初位下志斐連永世等、不遂王命、相共亡匿、稽之古典、罪當斬刑、[來+力]、特降死罪一等、配流佐渡國。
・承和十(843)年十二月癸未、謀反文室宮田麻呂罪當斬刑、宥降一等配流於伊豆國、其男二人、内舎人忠基於佐渡國、無官安恒於土佐國、從者二人和邇部福[旧字]長於越後國。
・嘉祥元(848)年十二月乙卯、大判事外從五位下讃岐朝臣永直、坐和氣齊之事、配流土佐國[佐渡の誤]。
・嘉祥三(850)年四月己巳、詔佐渡國、放還配流罪人金刻、福[旧字]貴滿。
・貞觀八(866)年九月二十二日、是日伴清繩(淨繩)配佐渡國云々、善男者、京左人也云々、父國道、縁[旧字]坐其父繼人事、配流於佐渡國、爲人聰敏頗有才。國宰優愛。引爲師友、至有疑難、毎事取決、安牘文簿、成於其手、廿四年會恩赦得入都、職歴[旧字]内外、常居清顯、爵處從四位上、官登參議、善男是國道之第五子也。
・元慶四(880)年十月二十六日、太政官論奏曰、阿倍吉岡誣告大逆罪當斬刑、詔減死一等、處之遠流、配佐渡國、
・安和二(969)年四月二日、僧[旧字]蓮茂配流佐渡國。
・長保元(999)年十二月二十七日、從五位下平致頼[旧字]、藤原宗忠追位記配流隱岐、佐渡國。
・寛弘二(1005)年十二月二十八日、配流長峯忠義於佐渡國、依爲大宰府使封宇佐寶殿之事也。
・長元四(1031)年八月八日、被定齊宮寮權頭藤原相通、并[旧字]妻藤原小忌古會等配流事、件夫婦共致不淨不信之由有託宣、相通流佐渡國、妻流隱岐國、
・長元五(1032)年九月二十七日、出雲守橘俊孝配流佐渡國、依杵築宮無實也。坐造爲杵築社[旧字]神託、授人官位、
・永承二(1047)年十二月二十四日、筑前人清原守武坐私往宋、流干佐渡。
・康平七(1064)年九月十六日、前下野守源頼[旧字]資、配流佐渡國、依燒亡上總介橘惟行、并[旧字]殺害人民之愁也。
・承保二(1075)年閏四月二十八日、除名、散位源基宗配流於佐渡國、依安藝國司訴、下罪名於法家被行也。
・康和二(1100)年九月、流中務丞源頼[旧字]治干佐渡、
・康和五(1103)年八月十三日、神[旧字]祇權大副大中臣輔弘坐行火豐受大神宮、流干佐渡、
・嘉承二(1107)年七月十二日、散位頼[旧字]貞《闕姓》坐射香推(ママ)神[旧字]輿殺神[旧字]人流干佐渡、
・天仁二(1109)年二月二十五日、義綱亡據近江甲賀山遣源爲義討之、義綱降、流之佐渡、
・天永二(1111)年十一月十九日、下野守源明國坐殺人、流干佐渡。大治四(1129)年六月二十五日、赦流人源明國還京師。
・保延三(1137)年二月十二日、以伊勢神[旧字]人訴、流前主殿助平秀盛於佐渡、
・康治二(1143)年七月二十五日、庚辰、權中納言藤公教參左杖被仰源頼[旧字]盛并[旧字]從三人配流國之事、去比、擅興軍兵、猥企合戦、之故也、右少辨藤光頼[旧字]奉行其事、頼[旧字]盛配佐渡國、藤季宗配周防國、藤國長配伊豆國、藤爲貞配隱岐國了。中略、二十九日甲申又左衛門督藤原公教卿參杖座、流人源頼[旧字]盛改佐渡國配常陸國、從藤國永配佐渡國、
・安元二(1176)年三月十九日、上西門院藏人平盛方、坐殺中務少輔藤原爲綱流干佐渡、
・安元二(1176)年十二月辛丑晦、前兵衛尉源義經坐殺延暦[旧字]寺僧[旧字]、流干佐渡、
・治承元(1177)年六月是月、平清盛流右近衛少將藤原成經、檢非違使平安頼[旧字]、法勝寺執行俊寛於鬼界島及其黨蓮淨於佐渡、
・治承三(1179)年五月三日、前左衛門尉源忠清坐殺弟流干佐渡、
・正治元(1199)年三月十九日、僧[旧字]文覺を佐渡に流す。
・建永元(1206)年九月十八日、參議左大辨公定當國[佐渡國]に流さる。
・建暦[旧字]二(1212)年六月七日、御所侍所に於いて宿直田舎侍鬪亂を起す。佐々木五郎搦めて之を進む。翌八日伊達四郎を佐渡に配流。
・建保四(1216)年五月九日、安樂寺惡僧[旧字]十七人のうち僧[旧字]仙秀を此國[佐渡國]に流す。
・建保四(1216)年六月十八日、宇佐公妙また此國[佐渡國]に流さる。
・承久三(1221)年七月二十日、新院(順徳天皇)を佐渡國に遷し奉る。
※『吾妻鏡』
「承久三年七月二十日壬寅、陰、新院遷御佐渡國、花山院少將能氏朝臣、左衛門佐範經、上北面左衛門大夫康光等供奉、女房二人同參、國母修明門院、中宮、一品宮、前帝已下別離御悲歎、不遑甄録[旧字]、羽林依病自路次帰[俗字:白+反]京、武衛又受重病、留越後國寺泊浦、凡兩院諸臣存没之別、彼是共莫不傷嗟哀慟甚爲之如何」
・文永八(1271)年九月十四日、日蓮を佐渡に流す。本間六郎左衛門重連預りて鎌倉を出し、十月二十八日此國[佐渡國]に到る。文永十一(1274)年赦(?)
・弘安四(1281)年八月、北條貞時、北條時光を佐渡に流す。
・永仁六(1298)年三月十六日、六波羅、藤原爲兼を佐渡に流す。
・正中二(1325)年十二月八日、北條高時、藤原資朝を佐渡に遷す。
以上のような記述があった。
※ 原典の『續日本紀』『日本紀略』『日本後紀』その他、いちいちに当たっていないのが、気になるところではあるが、多数の人々が佐渡に配流されたことはまちがいないものと思われる。
正中二(1325)年以降にも、永享六(1434)年、観世元清(世阿弥)が流されるなど、佐渡の遠流の島としての歴史は続く。
[3] *御触書天明集成 - 四八・安永七(1778)年四月
「御勘定奉行え〈略〉無罪之無宿とも先四五拾人、佐州え差遣、水替人足に遣候筈」
*御触書天保集成 - 一〇〇・寛政元(1789)年八月
「寺社領出生之無宿は、まづ溜え差置、追て佐州え爲水替遣候共」
[4] 『日本書紀』[原文]
欽明紀五年
「十二月、越國言、於佐渡嶋北御名部之碕岸、有肅愼人、乗一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人、言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。嶋東禹武邑人、採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上、一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛、相鬪不已。有人占云、是邑人、必爲魅鬼所迷惑。不久如言、被其抄掠。於是、肅愼人移就瀬波河浦。々神[旧字]嚴忌。人不敢近。渇[旧字]飲其水、死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也」
cf.『日本古典文学大系 68』 岩波書店刊 1965年7月 pp.91〜93
[書き下し]
「十二月、越國言ハク、佐渡島ノ北 御名部ノ碕岸ニ、肅愼人有リテ、一船舶ニ乗リテ淹留ス。春夏捕魚シテ食ニ充ツ。彼ノ嶋ノ人、人ニ非ズト言フ也。亦鬼魅ト言ヒテ、敢ヘテ近ツカズ。嶋ノ東ノ禹武邑ノ人、椎子ヲ採拾シテ、熟喫為サント欲ス。灰裏ニ着キテ炮ル。其皮甲二人ニ化成シテ、火上ニ飛騰シ、一尺餘バカリ。時ヲ経テ鬪フ。邑人深ク以テ異ト為シ、庭ニ取置ス。亦前ノ如ク飛ビ、相鬪ヒテ已マズ。人有リ占ヒテ云ハク、是ノ邑人、必ズ魅鬼ノ爲ニ迷惑スルトコロトナラン ト。久シカラズシテ言ノ如ク、其レニ抄掠サル。是ニオイテ、肅愼人瀬波河浦ニ移リ就ク。浦ノ神嚴ニ忌ム。人敢ヘテ近ツカズ。渇キテ其ノ水ヲ飲ミ、死ヌル者且ニ半バニナラントス。骨巖ノ岫ニ積ミタリ。俗ニ肅愼ノ隈ト呼ブ也」
この肅愼については、『日本書紀』齊明天皇四年の条にも、
「是歳、越國守阿倍引田臣比羅夫、討肅愼、獻生羆二・羆皮七十枚」との記述がある(cf.『日本古典文学大系 68』 岩波書店刊 1965年7月 p.337)。
すなわち、「コノ歳、越國守阿倍引田臣比羅夫、肅愼ヲ討チ、生羆[しくま]二・羆皮七十枚ヲ獻ズ」(この年、越國守[こしのくにのかみ]阿倍引田臣比羅夫[あべのひけたのおみひらふ]が肅愼を討伐して、生きた羆二頭と羆の皮七十枚を(帝に)獻上した)と。
※「肅愼(みしはせ)」とは、中国古代の北方民族。史書に見える夷狄の一。
黒竜江、松花江流域(今の沿海州方面)のツングース族と推定され、後漢のゆう[手+邑]婁[ゆうろう]、六朝の勿吉[もっきつ]、隋唐の靺鞨[まっかつ]も同系統とみる説もある。
稷愼、息愼などとも書くようだ。
晋書ー四夷伝・東夷・肅愼氏「肅愼氏、一名ゆう[手+邑]婁、在不咸山北」
[5] “竜眼の池” 立て札
「伝説 竜眼の池
この洞窟は岩谷山の二大洞窟の一つで、奥に「竜眼の池」がある。
昔、盲の子をもつ母竜が、真夜中ひそかにわが子の眼玉を持って来て、この池で洗っていた。その時、人間の気配がしたので、姿を見られることを恐れていた竜はあわてて、眼玉を落したまま海の中へ逃げた。黒い眼玉を拾った翁が岩谷薬師にさし出すと、薬師はたいへん哀れんで、その眼玉をきれいに洗って池に放してやった。しかし母竜は再び人間界に姿を現わさなかった。
だから、今でも二つの竜眼は真夜中になると、母親の来るのを待つかのように、青白い光を放ちながら池の中を泳ぐという。
昭和四十九年夏 外中郷土芸能部」
※立て札枠には “寄贈者 山口義一” とあり、さらに、枠の左には「小木の宿根木の洞窟に通じて
いるという洞窟は30メートル先にあります」と記されてある。
[6]「銀河ノ序」
(a) ※上記の原文。元禄二年七月、"『細道』旅中の作" とされる。
「ゑちごの国出雲崎といふ處より、佐渡が島は海上十八里とかや。谷嶺の嶮岨くまなく、東西三十余里[注:実は十五、六里]海上によこお(を)れふせて、まだ初秋の薄霧立もあへず、さすがに波もたかゝらざれば、唯手のとゞく計になむ見わたさるる。げにや此しまはこがねあまたわき出て、世にめでたき島になむ侍るを、むかし今に至りて、大罪朝敵の人々遠流の境にして、物うき島の名に立侍れば、冷じき心ちせらるゝに、宵の月入かゝる比、海のおもていとほのくらく、山のかたち雲透に見えて、なみの音いとゞかなしく聞え侍る。
あら海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉
[通釈]
「越後の国出雲崎という所より、佐渡島は海上十八里[注:約70km]とかいうことである。谷や嶺の険しいこと隅々まで行き渡り、東西三十里あまり海上に横たわり臥せて、まだ初秋の薄霧も完全に立ちおおせておらず、なんといってもそれだけのことはあって波も(それほど)高くないので、実に手の届くばかりに見わたされる。まことにこの島は黄金が多く湧き出(すように出土)して、世間ではすばらしい島でありますのに、昔から今に至って、大罪(を犯した者)朝廷に背いた人々の遠流[注:「流罪」のうち最も重い刑]の土地であって、つらく不幸な島のように世に聞こえていますので、(自然と)荒涼とした心地がしてきたところ、夜に入って間もない初更の月が(西の空に)入りかかるころ、海の水面たいそうほの暗く、(佐渡の島の)山の形が雲を透かして見えて、波の音がいっそう悲しく聞こえます。
荒々しく荒れる日本海
(あの荒れる海の向こうに黒々と臥せる)佐渡が島のなかぞらに
(悠々と静かに)横たわる天の川であるよ」
(b)『風俗文選』・『摩詰庵入日記』(雲鈴著、元禄十六年刊) 及び桃鏡・風徳・闌更・蝶夢の芭蕉文集等に収録さるもの。
「北陸道に行脚して越後ノ國出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡がしまは海の面十八里、滄波を隔て、東-西三十五里によこお(を)りふしたり。みねの嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此嶋はこがねおほく出で、あまねく世の寶となれば、限りなき目出度嶋にて侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるゝによりて、たゞおそろしき名の聞えあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて暫時の旅愁をいたはらむとするほど、日既[旧字]に海に沈で、月ほのくらく、銀-河半天にかゝりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、たましゐけづるがごとく、腸ちぎれて、そゞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨[旧字]の袂なにゆへ(ゑ)とはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
あら海や佐渡に横たふあまの川
[通釈]
「北陸道を巡り歩いて、越後国出雲崎という所に泊まる。かの佐渡が島は海上十八里[注:約70km](彼方)、蒼い海を隔てて、東西三十五里[注:実は十五、六里]に(わたって)横になって臥せている。峰の険しくて困難なこと谷の隅々(に至る)まで、さすがに出雲崎だけのことはあって手にとるばかり、はっきりと見わたすことができる。なるほどこの島は、金が多く出土して、(それは)広く及ばぬところなき世の宝となるので、この上なく賞すべき島でありますのに、大罪(を犯した者)朝廷に背いた人々が、遠島(の刑)に処せられたことによって、実に恐ろしき名(として)の評判があるのも、本来あるべきすがたではないことのように思って(そうして)、窓を押し開いて、しばしの旅のしみじみとした寂しさを慰めようとするうち、日はすでに沈み、月はほの暗く、銀河は中天にかかって、星がきらきらと清らかに澄んでいる(ところ)に、沖の方から、波の音が幾たびも寄せて(きて)、(まるで)魂を削るように、はらわたちぎれて、わけもなく悲しみがやって来るので、旅寝の枕も静まらず、墨染めの衣の袂が何というわけとてもなく、(涙で)絞るばかりです。
荒々しく荒れる日本海
(あの荒れる海の向こうに黒々と臥せる)佐渡が島のなかぞらに
(悠々と静かに)横たわる天の川であるよ」
※「銀河ノ序」は、土芳の『芭蕉文集』に出るもの(『続蕉影余韻』所収の菊本直次郎氏旧蔵真蹟もほぼ同文)、富山県林喜一郎氏蔵真蹟、また『柴橋』(正興撰、元禄十五年刊)の詞書など種類が多い。
cf. 『日本古典文學大系』46 1981年2月 岩波書店 pp.167〜169
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