コシャマイン記
トーマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955) ドイツの小説家。リュベックのブルジョアの旧家に生まれた。初期はフランスの自然主義や芸術至上主義の影響下に出発し、ショーペンハウエル、ヴァーグナー、ニーチェの影響を受けた。退廃する資本主義社会への深い懐疑は、「芸術と人生の矛盾」という問題からしだいに発展し、第1時世界大戦中はなお保守主義者であった。 一 いくつかの通りが、河岸道路からかなり急な坂道となって中心市街へとの通じている。その中に灰色道と呼ばれる通りがある。この通りの中ほど、河から来ると右手に、四七番地の家屋が立っているが、間口の狭い鈍色のこの建物が、近隣の建物と違うところは何もない。一階に雑貨屋があり、ゴム靴からヒマシ油まで手に入る。入ってゆくと、中庭が見え、そこでは猫がぶらぶらしている。通路を過ぎると、狭い踏み減らされた木の階段が、名状しがたい黴と貧乏臭さをにおわせながら、階の上に通じている。二階には左に家具師、右に産婆が住んでいる。三階には左に靴屋、右に独り身の婦人が住んでいて、階段に足音が聞こえるや、彼女はたちまちにして大きな声で歌い始めるのだった。四階の左手は空室で、右にミンダーニッケルという名の、おまけに姓をトビーアスという男が住んでいる。この男のことを話すつもりだが、それは謎めいていて、想像以上にやり切れないものである。 ミンダーニッケルの外観は目立って異様で可笑しなものである。例えば、彼が散歩するため、痩せた姿にステッキをついて通りを上ってゆくところを見ると、彼は黒ずくめ、それも頭から足の先までそうなのである。身につけているのは旧式の、庇の反り返った粗末なシルクハット。きちきちで古光りのするフロックコート。同じくらい着古したズボン。これは裾にお飾りがついているのだが、あまりにちんちくりんなため、深靴のゴム留めまで見えてしまうのである。ただ言っておかねばならないのは、衣服はいずれもさっぱりとブラッシされていることだ。やつれた首は、低い襟から突き出しているだけに、よけい長く見える。灰色がかった髪は滑らかに、こめかみ低く撫でつけられており、シルクハットの幅広の庇に隠されているのは、髭剃り後の浅黄色の顔、頬はそげ落ち、燃えるような眼は、めったに地面からあげられず、二本の深いしわが、小鼻からへの字に結ばれた口もとまで気むずかしげに走っている。 ミンダーニッケルはめったに家から出ないが、それには理由がある。つまり、彼が通りに現れるや、たちまちたくさんの子どもたちが走り寄り、かなりの道のりを彼の後ろから行列して、笑い、あざけり、歌うのである、「ほー、ほー、トビーアス!」。そして上着を引っ張りさえするし、大人は大人で戸口まで出てきて面白がる。しかし彼だけは、身を護るでもなく、おずおず見まわすでもなく、肩をそびやかし、頭を前につき出し、まるで、傘を持たないで俄か雨の中を急ぐ人のように進んで行く。そして相手が面と向かって笑っているにもかかわらず、彼はあちらこちらに向かって、戸口に立っている誰彼となしに恭しく会釈するのである。やがて、子どもたちが取り残され、もはや見知った者もなく、振りかえって見る人もほとんどいなくなってからでも、彼の態度は大して変わらない。あいかわらず、不安げにあたりを見まわしながら、うつむいてどんどん歩いてゆく。その様は、無数のあざけりの視線を一身に感じているかのようであり、たとえためらいがちにおずおずと視線を地面からあげたとしても、異様なことに気づかされるのだが、彼は、誰かある人間なりあるいは単に事物にさえ、しっかりと落ち着いて目を留めることができないのである。奇妙に聞こえるかも知れないが、彼には自然な感覚的知覚の優越性、これによって個々人が現象界を眺める優越性が欠けているかのようであり、そのためあらゆる事象に負けていると感じるらしく、おどおどした眼は人間や事物を前にして地に這わなければならない…… どのような事情があって、この男はいつも独りぼっちで、ひどく不幸なように見えるのか? 無理なブルジョア的服装および顎に手をやるお決まりの気障な仕草は、自分が住んでいる地域の住民階級に絶対算入されたくないことを示しているように見える。いかなる運命に彼が弄ばれたか、誰も知らない。彼の顔は、見たところ、人生が嘲笑しながら拳を固めてめちゃめちゃに殴ったかのようだ……ところで大いにあり得ることだが、彼は、つらい運命の打撃を体験したのではなく、ただ単に生存そのものとしっくりいかないだけで、現実の事象から受ける敗北感と不能感とが苦悩に満ちた印象を与えるのであり、あたかも自然が彼に対して、頭を上げて存在するに足るだけの平衡の尺度と、力と、背骨とを拒んだようなものなのかも知れない。 彼は、黒いステッキをついて、街への散歩をすますと、帰ってきて、灰色道で子どもたちに囃したてられながら、自分の住居にもどる。そして黴くさい階段を上って、貧しく飾り気のない部屋に入る。戸棚だけは、重い金属の把手のついた頑丈な帝国様式の家具で、高価で美しいものである。窓からの眺めは、隣家の灰色の側壁にむなしく遮られている。窓の前には植木鉢がひとつあって、土が盛られているのだが、そこには何も植わっていない。けれどもトビーアス・ミンダーニッケルは時々そこに行って、植木鉢をしげしげ眺め、剥きだしの土の臭いをかいでみるのだった。 この居間の横に小さな暗い寝室がある。 部屋に入ると、トビーアスはシルクハットとステッキをテーブルの上に置き、埃っぽい臭いのする、緑色の上張りのソファに座り、頬杖をついたまま眉をつりあげてぼんやりと床を眺める。まるで、この世で他にすることが何もないかのように。 ミンダーニッケルの性格については、判断を下すことは、きわめて難しい。以下の偶発事は彼の性格について有利に物語っているように思える。この異様な男がある日のこと家を出ると、例によって子どもたちの一隊が現れ、彼をからかい嘲笑しながらつけまわしているうちに、十歳ぐらいの少年が別な少年の足につまずき、敷石にしたたかぶつかって、血が鼻と額からほとばしり、少年は転んだまますすり泣いていた。すぐさまトビーアスは向きを変えて、転んだ少年の方に急いで行くと、かがみこんで、優しい震え声で同情し始めた。「かわいそうに」彼は言った、「けがをしちゃったのかい? 血だ! ごらん、血がおでこから出ている! いや、はや、何てあわれな格好なんだ! ね、痛いんだね、それで泣くんだね、かわいそうに! 何て憐れなんだ! 自分がいけなかったんだよ、でもハンカチを頭に巻いてあげるからね……そう、そう! さあ、しっかり、そら、立ってごらん……」。そう言いながら彼は本当に自分のハンカチを少年に巻いてやってから、用心深く立たせると、立ち去ったのである。彼の姿勢と彼の顔とは、この時、いつもとはまったく異なった表情を見せていた。彼はしっかりしゃんとして歩き、彼の胸はきちきちのフロックコートの下で深々と息を吸った。彼の眼は大きく見開き、輝きを帯びて、人間でも事物でもしっかりととらえたし、彼の口もとはいたく幸福げであった…… この出来事の結果、灰色道の住人のからかい癖はさしあたっていくぶん弱まった。だが数時間後には、彼の思いがけない行動は忘れ去られ、たくさんの健康で、朗らかで、そして残酷な喉が、うつむいておどおどした男の背に向かって再び歌うのだった。「ほー、ほー、トビーアス!」 二 ある晴れた日の午前十一時ころ、ミンダーニッケルは家を出ると、街を通り抜けてひばりが丘に登って行った。なだらかなこの丘は、午後になると街の恰好の遊歩場になるのだが、春の陽気がことのほかだったので、この時刻にもすでに馬車や散歩者が訪れていた。大きな並木通りの樹の下に一人の男が猟犬の子を細綱につないで立っていて、明らかにこれを売るつもりで、通行人に見せていた。それは四か月くらいの小さな黄色くて逞しい動物で、片方の眼のふちと片方の耳とが黒いやつだった。 トビーアスは十歩離れたところからこれに気づくと、立ち止まり、何度も手で顎を撫でながら、売手とそれからしきりに尻尾を振っている子犬とを、考えこんで眺めていた。それからあらためて歩きだし、ステッキの柄を口にあてたまま、三度、男がもたれている樹のまわりを、ぐるぐるまわり、そうして男に歩み寄ると声をかけたが、動物からは眼をそらしもせず、低いせかせか声で。 「この犬はいくら?」 トビーアスは一瞬ぐっと詰まって、それからためらいがちにくり返した。 そこでトビーアスは黒い革の財布をポケットから引っぱり出し、五マルク紙幣、三マルクと二マルクの貨幣を取り出し、そそくさと売手に渡すと、細綱をひったくって急いで引っ張りながら、前かがみのままおずおずとあたりを見まわした。というのは、何人かの者がこの取り引きを見物していて、動物が彼の後ろできいきい泣いて逆らうのを笑っていたからである。それは道中ずっと抵抗しつづけ、前肢を地面に突っ張って、物問いたげに自分の新しい主人を不安そうに見あげていた。だが彼は黙ったままぐいぐい引きずって、やっとのことで街を抜けて下町に到着した。 灰色道の悪童の間にものすごい騒ぎが持ち上がったのは、トビーアスが犬を連れて現れたせいだが、彼はそれを腕に抱いてかがみこみ、あざけられ上着を引っぱられながらも、からかいと嘲笑の中を突き抜け、階段を上がって自分の部屋へと急いだ。そこに、きゃんきゃん鳴きつづける犬を床の上に置くと、親しげに撫でながら愛想よく言った。 それから戸棚の引き出しから肉と馬鈴薯との煮物の入った皿を取り出し、分け前を投げてやると、その動物は鳴きやんで、尾を振りながら音を立てて餌を平らげた。 「ところでお前をエーザウと呼ぶことにする」トビーアスは言った、「わかるか? エーザウ。この単純な響きをよくおぼえておくのだぞ……」そして足もとの床を指さすと、彼は命令的に呼んだ。 犬が、もっと食べ物をもらえるものと思ったのか、本当に近寄ると、トビーアスは褒めそやして脇腹を叩いてやった、こう言いながら。 それから二、三歩さがると、床を指さしてあらためて命じた。 するとその動物は、すっかり陽気になっていたので、再び跳んで行って、自分の主人の深靴をなめた。 この訓練をトビーアスは、命令とその実現とに、うんざりすることのない喜びを感じて、およそ十二ないし十四回もくり返した。だが犬のほうはついにうんざりしたらしく、休息して腹ごなしをしたがって、猟犬特有の品のよい賢そうな格好で床に伏せ、長くて華奢なつくりの両前肢を、きちんと揃えて伸ばした。 しかしエーザウは横を向いてその場を動かなかった。 しかしエーザウは頭を前肢にのせたまま来ようとはしなかった。 しかしその動物はわずかに尻尾を動かせただけである。 ミンダーニッケルを度外れな、どうしようもない強暴な怒りが襲った。彼は黒いステッキを引っつかみ、エーザウの首をつまみあげると、悲鳴をあげるその犬ころを打ち据えながら、逆上した憤怒に我を忘れて、ぞっとするしゅうしゅう声で何度も何度もくり返した。 最後にステッキを投げだすと、きゃんきゃん鳴く犬を床に降ろし、深く息をしながら手を後ろに組んで、大股でその前を行ったり来たりし始めた。そうしながら、彼は時おり尊大な怒ったような視線をエーザウに投げかけた。このぶらぶら歩きをしばし続けてから、その動物の傍らに足をとめ、そいつは仰向けに横たわって前肢をすり合わせていたのだが、彼は腕を胸の上に組んで、ひどく冷ややかな厳しい視線と声で口を開いた。まるで、戦闘中に軍旗をなくした中隊の前に進みゆくナポレオンそっくりに。 すると犬は、早くも彼が近づいてくれたことにほっとして、もっと近く這い寄り、主人の足に身を擦り寄せて、輝く眼で乞うように見あげた。 しばらくの間、トビーアスはその卑屈な生き物を黙ったまま見下ろしていた。だが、自分の脚に触れる身体のぬくもりを感じると、彼はエーザウを抱きあげた。 三 トビーアス・ミンダーニッケルが、その後、以前にもましてめったに家から出なくなったのは、エーザウを連れて世間に顔出しする気にとてもなれなかったためである。そのかわり心遣いのすべてを犬にささげた、いや、彼が朝から晩まで没頭したのは、ただただ、餌をやること、眼を拭ってやること、命令すること、叱りつけること、そして情をこめて話しかけることのみであった。ただ問題は、エーザウが必ずしも彼の気に入るように振る舞わないということであった。そやつが彼の傍のソファに寝そべって、彼を、空気と自由との欠乏のために眠たげに、憂鬱そうな眼で見つめているかぎり、トビーアスはしごく満足げであった。彼は穏やかな得意げな姿勢で座ったまま、エーザウの背中を同情的に撫でながら、こう言った。 しかしこの動物が、遊びと猟との衝動にくらんで狂ったようになり、部屋中を跳びまわり、スリッパにとびかかり、椅子に跳びあがり、ものすごく陽気に転げまわる場合には、トビーアスはその動きを離れたところから、途方に暮れた不興げであやふやな視線と、憎々しげで腹立たしさに満ちた笑いとで追っているのだが、ついに不機嫌な声で呼びつけると、怒鳴りつけるのであった。 さらに一度起こったことだが、エーザウは居間から抜け出し、階段をおりて通りに跳び出し、たちまち猫を追いかけ、馬糞を食い、あまりの幸せに子どもたちといっしょに駆けまわり始めた。しかしトビーアスが通りに住む半数の住民の拍手喝采と嘲笑の場に顔をいたましくひきつらせながら現れると、哀しむべきことだが、犬は自分の主人を恐れてすっとんで逃げたのだ……その日、トビーアスはそいつをいつまでも腹立ちまぎれに殴りつけた。 ある日 犬はもう数週間来彼の言いなりになっていた トビーアスはエーザウに餌をやるため、一本のパンを戸棚の引き出しから出して、骨細工の握りのついた大きなナイフ、彼がこういう場合にいつも使うやつで、前かがみの姿勢で小さな切れにして床に落としてやり始めた。しかしその動物は、食欲と愚鈍さに夢中となって、めくらめっぽうに跳びついたので、無器用に持たれていたナイフが右の肩甲骨の下に突き刺さり、血を流しながら床の上をのたうちまわった。 驚いたトビーアスはあらゆる物を投げだして傷ついた犬の上にかがみこんだ。だが突然、彼の顔の表情は変わって、事実、安らぎと幸福との微笑がかすめたのである。彼はくんくん鳴く犬をそっとソファに運ぶと、想像もつかぬほど献身的に看護し始めた。一日中それから離れず、夜には自分の寝床に眠らせ、洗ったり包帯したり、撫でたり、慰めたり、同情したりすることに、うんざりすることもない喜びと用心深さとを示したのである。 しかしながら、エーザウが力をつけ、楽しげになって快方に向かうにつれて、トビーアスの態度はそわそわして不満げになった。もう傷のことを気にしなくても、言葉と愛撫によって犬に自分の憐憫の情を示すだけでよい、と考えられるまでになった。治癒がずんずん進んだばかりか、エーザウはすぐれた素質を持っていたので、早くも、再び部屋の中を動きまわり始めていたが、そんなある日、ミルクと白パンとの皿をぴちゃぴちゃなめ尽くしてしまうと、すっかり元気になってソファから跳びおり、嬉しそうにわんわん吠えながら、以前のように気ままに二つの部屋を駆けぬけ、寝台の覆い布を引っ張り、馬鈴薯にじゃれついて、嬉しさのあまり転げまわった。 トビーアスは窓べの、植木鉢の傍に立ったまま、長くて痩せた手が、お飾りのついた袖からのぞいて見えていたが、その一方の手で、こめかみ低く撫でつけられた髪を、機械的にいじくっていた。その彼の姿が黒く異様に、隣家の灰色の壁からうきあがっていた。顔は蒼白に醜くゆがみ、ねたましげな、当惑した、うらやましそうな、毒々しい視線で、エーザウの軽はずみをじっとしたまま追っていた。だが突然、心を奮いたたせ、歩み寄り、そいつを取り押さえると、ゆっくり腕に抱いた。 「かわいそうなやつ」彼は愚痴っぽい口調でやり始めた、――が、エーザウは、調子に乗って、これ以上そんなふうに扱われる気にならず、自分を撫でようとした手に、陽気にぱくりと噛みつき、腕から身をかわして、床に跳びおり、おどけた横っとびで、わんわん吠えながら楽しそうに駆け去った。 いったい何が起こったか、それはあまりに不可解でゆゆしいことなので、詳しくは語りたくない。トビーアス・ミンダーニッケルは、身体の脇に両腕をだらんと垂らしたまま、ちょっと前かがみになって立ち尽くしていたが、唇はぎゅっと合わさり、眼は眼窩の中で不気味に揺れていた。それから、突然、一種錯乱した跳躍で、その動物を引っつかみ、大きな輝くものが彼の手の中で閃き、ひとたちで、右肩から胸の奥深くまで刺し貫き、犬は床にもんどりうって倒れた、――ひと声も出さず、あっさり横倒しとなり、血を流して、ぴくぴくしながら…… 次の瞬間にはそれはソファに横たわり、トビーアスはその前にひざまずき、布を傷口にあててやりながら口ごもって言った。 「かわいそうなやつ! かわいそうなやつ! 何てすべては哀しいのだ! 何ておれたち二人は哀しいのだ! 苦しいか? よし、よし、わかるとも、苦しいのは、――何てあわれな格好なんだ! しかしおれが、おれがついている! おれが慰めてやる! おれはいちばん上等のハンカチを……」 しかしエーザウは横たわったまま喉をごろごろいわせるばかりであった。どんよりした物問いたげな眼が、呆然として、無邪気さと嘆きの色をたたえたまま、自分の主人の方に向けられていた、――それからちょっと足を突っ張り、そして死んだ。 しかしトビーアスはじっとその場を動かなかった。彼は顔をエーザウの屍体の上に置くと、激しくすすり泣いた。 |