トビーアス・ミンダーニッケル
ホーソーン(Nathaniel Hawthorne, 1804-1864) アメリカのMassachussetts州Salem生まれの税関役人にして小説家。『緋文字(The Scarlet Letter)』の作者。彼の先祖が、Salemの魔女裁判において犯罪的な役割を演じたことが、深い影を落としている。The Birthmarkは、1843年に雑誌に発表、その後、1846年、短編集Mosses from an Old Manseに収録された作品である。 前世紀の後半、一人の科学者がいたが、自然哲学のあらゆる分野において優れた精通者であった彼は、この物語の始まる少し前、いかなる化学的結合よりも魅力的な精神的結合を経験していた。つまり、彼は研究室を一人の助手に任せ、上品な顔面についた溶炉の煤を拭い、酸の染みを指から洗い落とし、美しい女性を口説いて妻にしたのである。当時は、電気その他、「自然」の神秘の比較的最近の発見が、魔法の領域への通路を開くかに見えた時で、科学への愛と女性への愛とが、その深さと精力を消耗する点で、競いあうことは珍しいことではなかった。高い知性、想像力、精神、そして情念までもが、自然探究中に自分の性に合った糧を見出していた。この探究によって、何人かの熱心な支持者が信じていたように、有能な知性の階段を一段ずつ上昇すれば、ついに哲学者は創造力の秘密を手に入れて、おそらくは自力で新世界をつくれるはずであった。「自然」に対する人間の究極的支配というこれほどの信念をエイルマーが持っていたかどうかはわからない。しかしながら、彼は科学的学究に余念なく身をささげていたので、いかなる二義的情熱によっても、研究から引き離されることはついぞなかった。若妻に向けた彼の愛は、二つので強い方のものであることを証明したといってよい。しかしそれは、科学への愛と絡み合い、後者の強さが彼自身と一つとなることによって、そうであり得たにすぎない。 このような一体化は起こるべくして起こったのであり、真に注目すべき結果と深く印象づけられる道徳性とを伴っていた。ある日、結婚後間もなく、エイルマーは妻を見つめながら座っていたが、彼の顔面に浮かんだ苦悩はしだいに強まり、ついに口を開いた。 この会話を説明するために言っておかねばならないが、ジョージアナの左頬の真ん中にたった一つ徴があり、彼女の顔の生地と本質とに、いわば、深く織りこまれていたのである。顔色が普通の状態 繊細だが健康で花のような では、その徴は深い深紅の色合いを帯び、周りの薔薇色の中にその形を不完全に現した。赤面すると、それは次第に不鮮明になってゆき、血の奔流が勝ち誇ったように頬全体を輝く赤らみに染めると、ついにその中に消え去るのだった。しかし何か変わった動きが彼女を蒼ざめさせると、その徴は再び、雪の上の深紅色の染みのように、エイルマーが時としてほとんど恐ろしいとおもうほどの鮮明さで現れた。その形は少なからず人間の手、ただし最も小さな小人の手に似ていた。ジョージアナを恋する者たちがいつも言っていたのは、ある妖精が彼女の生まれる時に、そのちっちゃな手を赤ん坊のほっぺたに置いて、その押し跡を、魔法の資質の形見として残した、これによって彼女は万人の心をこれほどまでに支配することのできる力をもらったのだ、ということであった。熱烈な恋慕者なら、たいてい、その神秘的な手に口づけする名誉に己が命を賭けたでろう。しかしながら、包み隠さず言えば、この妖精の手形の与える印象は、見る人の気分の違いによって著しく異なったのである。口さがない人たちが――それは専ら同性の人たちであったが――断言するには、その血の手(と彼女たちは呼ぶことにしていた)が、ジョージアナの美しさの効果をまったく破壊し、彼女の顔つきをおぞましいものにさえしているというのである。しかしそれは、小さな青い染みがどんなに純粋な大理石の彫像にも時々現れるものだが、その染みの一つが、パワーのイヴ像を化け物にしているということに道理があるというようなものであろう。男性の観察者たちは、そのあざが彼らの感嘆をより強めなかった場合は、それさえなければ、世界はらしきものを持たない理想的な愛らしさの生きた標本を所有することになったのに、と考えることで満足した。結婚後、――というのは、それまでは、ほとんど、あるいは、まったく、この事を考えなかったからだが、エイルマーはそれが自分の場合だということを発見したのであった。 彼女がもっと美しくなかったなら、――もしも「羨望」そのものが他に何か軽蔑できるものを見つけ出すことができていたなら、 彼は愛情を強められるのを感じていたかも知れない、――この模造の手、ぼんやりと輪郭を現したり、消えたり、再びこっそり現れると、心のうちに脈打つ感情の鼓動に応じて、そこかしこにちらちらしたりする、この手のかわいらしさによって。しかし彼女が他の点ではあまりに完全なのを見て、彼は、この一つの欠点が結婚生活の刹那刹那にだんだん耐え難くなってゆくのを発見した。それは人間存在の運命的な疵なのであって、「自然」が、何らかの形で、あらゆる被造物に拭いがたく捺しつけたものであり、被造物は果かなく有限であること、あるいはその完全さは労苦によってもたらされねばならないことを意味するものであった。深紅色の手が表現しているのは、免れがたい把握である。この把握によって、死の運命は地上の至高・至純の造物をっ掴み、これを最低のもの、さらにはまさしく獣物にさえ等しいものにまで格下げして、その眼に見える身体組織を塵に帰らせるのである。このように、罪、悲哀、腐敗、そして死への妻の傾向性の象徴と看做して、エイルマーの陰気な想像力は、やがてそのあざを、さらなる苦悩と恐怖を惹き起こす忌むべき対象と看做すようになっていた。かつてはジョージアナの美しさ、魂の美しさにせよ、感覚のそれにせよ、彼に喜びを与えていたにもかかわらずである。 至福であるはずの時期も、彼は相変わらずその気もなしに、いや、むしろ逆を心がけたにもかかわらず、この悩ましい問題に立ち戻った。最初、それは取るに足りぬことに見えたが、無数の思考の連鎖と感情の類型とに結びついた結果、すべての中心点となっていった。朝の薄明はエイルマーの眼に妻の顔を写し、彼はそこに不完全さの象徴を認めた。二人して夕べの炉端に座っている時にも、彼の眼はこっそりと彼女の頬に忍び寄り、そして見つめるのは、薪火の光にちらちらする幽霊じみた手であり、それは、彼が喜んで礼拝したであろう箇所に、死の運命を記していたのである。ジョージアナは間もなく彼の凝視に戦慄を覚えるようになった。彼の顔がしばしば帯びる特別な表情で一瞥するだけで、彼女の頬の薔薇色は死人のような真珠色に変わり、その真ん中に深紅色の手が強く出現し、あたかも純白の大理石の上の紅玉の浅浮き彫りのようになった。 ある夜おそく、光が暗くなり、かわいそうな妻の頬の上の染みもほとんどわからなくなった時、彼女の方から、初めて、自発的にこの問題をとりあげた。 心中が悲しい状態にある時、「眠り」のすべてを包みこむものは、支配領域内にある妖怪たちを閉じこめておくことができず、出現を許して、この現実の生活を、おそらくはより深い生活に属する秘密で驚かせるものである。エイルマーは今や自分の見た夢を想い出した。彼は下僕のアミナダブとともに、あざの除去手術をすることを夢想したのだ。だがメスが深く進むにつれて、その手も深く潜りこみ、とうとうそのちっちゃな握り拳はジョージアナの心臓を掴んでいることがわかった。しかしながら、そのため、彼女の夫は決然として、それを切り取るなりもぎ取るなりすることにしたのであった。 夢が記憶の中で完全に姿形を現した時、エイルマーは妻の前に後ろめたさを感じながら座った。真実はしばしば、眠りの礼服にぴったりと包まれた心に通じる道を見つけ、それから妥協の余地のない事実の直截さで語りかけるのであるが、その内容は、目覚めている間には無意識のうちに自己欺瞞している事柄である。今に至るまで彼が気づかなかったのは、一つの観念によって自分の心にもたらされた専制的な影響力と、自身に平安を得るために心中どこまで許してよいかという限度とであった。 「エイルマー」ジョージアナが、真面目に言葉を次いだ、「この運命のあざを除くことが、わたしたち二人にとってどれほど費用がかかるか、私にはわかりません。もしかすると除去によって取り返しのつかぬ不具になるかも知れません。あるいは、染みは生命と同じ深さに達しているのかも知れません。それにしてもです。この小さな手のしっかりした握りこぶしを、どうにかして開かせる可能性がないのでしょうか? 私がこの世に生まれる以前から私に刻みこまれていたにしても?」 次の日、エイルマーが妻に告げた計画は、あらかじめ作っておいたもので、これによって、提案された手術が必要とする集中的な思考と不断の観察との機会を得られるはずであった。他方、ジョージアナの方も、同様に、手術の成功に必要不可欠な、完全な休息を享受できるはずであった。彼らは広い居室に引きこもることにしたが、ここはエイルマーが研究室として占領していたもので、またここで、労苦多い青年期、彼は「自然」の基本的力をいくつも発見し、ヨーロッパの学界全体に驚嘆を引き起こしたのであった。この研究室にしずかに座って、この青ざめた哲学者は、最高層雲圏や最深層鉱物の秘密を調査研究した。火山の火をともし、これを活かし続ける原因を探究した。さらには泉の神秘についても、あるものはきらきらして純粋であり、またあるものは豊かな薬効を有し、大地の暗い底からほとばしり出るのはいかにしてかを解明した。この部屋で、また、比較的初期のことではあるが、彼は人体組織の不思議を研究し、「自然」がその先天的影響力のすべてを、大地と大気から、さらには精神世界からも吸収し、人間という、この「自然」の最高傑作を創造し養育する、その過程そのものを探ろうとしたのであった。これを、しかしながら、エイルマーは長らく脇にやっていたのは、次のような事実を認めざるを得なかったからである。つまり、 どんな探究者も遅かれ早かれつまずくことだが われわれの偉大な創造の「母」は、広大無辺な陽光のもとで、何の隠しだてもなく作業を進めてわれわれを楽しませながら、そのくせ厳格なまでに用心深く秘密を守り、そのうえ、開けっ広げなように見せかけながら、結果以外は何も見せないのだ。「自然」は、実際、傷つけることさえわれわれに許すが、しかし改善することはめったに許さず、まして、創ることは、嫉妬深い特許権取得者のように、どうあっても認めないのである。今、しかしながら、エイルマーは半分忘れていた調査研究を再開した。もちろん、彼を最初に衝き動かした希望や願望によってではない。それが生理学的真理を多く含み、提案された計画の道筋にも沿っていて、ジョージアナの治療に役立つからであった。 彼が彼女を導いて研究室の敷居をまたいだ時、ジョージアナは寒けと身震いを感じた。エイルマーは陽気そうに彼女の顔をのぞきこみ、彼女を安心させようとしたが、色白の頬に浮かんだあざのどぎつい輝きにぎょっとして、強くひきつるような戦慄を抑えることができなかった。妻は失神した。 ただちに奥の部屋から跳び出してきたのは、背の低い、ずんぐりした体型の男で、もじゃもじゃの髪が、炉の蒸気に薄汚れた面貌に垂れ下がっていた。この人物は、エイルマーの科学者としての経歴を通じて下働きをしてきた者で、この仕事に驚くほど適していたのは、機械的な素早さと、ただ一つの原理も理解することはできなかったが、主人の実験のいかなる細部をも執行する技術とによってであった。すさまじい体力、もじゃもじゃの髪、煤けた顔つき、そして彼を包む名状しがたい俗っぽさのせいで、人間の物質的自然を表現しているようであった。これに反してエイルマーのほっそりした姿、青白い、知的な顔は、精神的要素の典型たるにふさわしかった。 ジョージアナは、意識を取り戻した時、しみわたる香気を呼吸していることに気づいたが、その優雅な効能が、彼女を死に近い失神から呼び返したのであった。周りの光景はうっとりするように見えた。エイルマーは部屋をすっかり改装していた。煤け汚れた陰気な部屋、ここで彼は最も輝かしい年月を深遠な探究に過ごしたのだが、その部屋を、いとしい女性の隔離室たるに不適当でないような一連の美室に変えていたのだ。壁には豪華な幕が垂れ、その取り合せの壮麗さ上品さは、これ以外にはいかなる装飾も達成できないような種類のものであった。しかも、それは天井から床まで垂れ、高価で重厚な襞が、あらゆる角や直線を隠しているので、あたかも無限の空間の彼方から光景を閉じこめているように見えた。ジョージアナは、雲の中の病棟にいるような気がした。さらにエイルマーは、陽光を拒否し、化学的過程を妨害するかも知 れないとして、陽光の代わりにしたのは、芳香のする燈下で、これはさまざまな色合いの炎を放射しながら、そのくせすべての炎が一つの柔らかい、紫色の光線の中に和合していた。彼は妻の傍に跪き、熱心に見つめていたが、驚いたふうはなかった。自分の科学知識を確信していたし、彼女のまわりに魔法陣を描き、その中にはいかなる悪魔も侵入できないお感じていたからである。 「私はどこ? ああ、想い出した」ジョージアナが、かすかに言った。それから自分の手を頬の上に置いて、恐ろしいあざを夫の眼から隠そうとした。 ジョージアナをなだめるために、また、彼女の心を、いわば、あざという現実の重荷から解き放つために、エイルマーは、ちょっとした面白い秘密のいくつかを実演してみせた。これは科学がその深遠な伝承的知識の中から彼に教えておいたものであった。空虚な図形や、完全に抽象的な観念や、実体のない美しい図式が彼女の前に現れて踊り、その一瞬の足跡を光線の上に留めた。これらの視覚現象の方法について、彼女はおぼろげな知識を持っていたけれど、それでも、その幻はほとんど完全であったので、自分の夫は精神界の支配権を所有しているという確信をいだかせるに充分であった。それから今度は、彼女が隔離室の外を見たいと望むと、たちまち、まるで彼女の考えにこたえるように、外界のものの進行過程が映写幕に飛び交った。景色も現実生活の様子も完全に表現されていた。ただし、それはうっとりさせるものではあっても、やはり名状しがたい違いを持っており、その違いが、いつも絵画や想像や幻影を実物よりも魅力的とするのである。これに飽きると、エイルマーは一杯に土を盛った容器に眼を向けるよう告げた。彼女はそうした。初めは何の気もなしに。だが、すぐにぎょっとして、土の中から植物の芽が伸びるのを見た。やがてほっそりした茎ができた。葉が徐々に広がった。そしてその中に完全で愛らしい花があった。 実験の不首尾を埋め合わせるために、彼が提案したのは、自分の発明に成る科学的処方による肖像画の作成であった。それは研磨された金属面に光線を当てて造ることができた。ジョージアナは承知した。しかし、その結果を眼にするや、その肖像画の顔がぼやけて不明瞭なのを見て、彼女は怯えた。ただ、小さな手の形だけは、頬にあたるあたりに現れていた。エイルマーは金属板をひったくると、侵蝕性酸の容器の中に投げこんだ。 しかしながら、すぐに、これらの残念な失敗を彼は忘れた。研究と化学実験の合間合間に、彼女のもとに現れる彼は、興奮と疲労に上気していたが、彼女がいることで励まされるらしく、自分の持てる技能について熱心な言葉で語った。彼は化学者たちの長い王朝史を語った。彼らはおびただしい歳月を費やして、どんな下劣で卑近な物体からでも、黄金の元素を抽出できる普遍的な溶媒を探究しつづけたのであった。エイルマーは信じているようであった。明白な科学的論理に基づいて、この長年探究されてきた媒体の発見は、ほとんど可能性の範囲内にある、と。「しかし」と彼は付け加えた、「この力を獲得できるほどの深みに達したような哲学者は、知者としての尚さゆえに、その力を実際に獲得することを恥じるであろう」と。同様に独特であったのは、不老長寿の薬に関する彼の見解であった。彼は自信たっぷりにほのめかしていたが、生命を何年間も、おそらくは永遠に延長できる液体を調合することは、彼の随であった。ただし、それは「自然」の中に不調和を生み出し、これが全世界に、そして何よりも不死の秘薬を飲む者自身に、呪わしい気を起こさせることになろうと。 「エイルマー、本気ですの?」ジョージアナは尋ねた、驚嘆と畏怖の念をもって彼を見つめながら。「そんな力を持つことは、いいえ、持つことを夢想することさえ、恐ろしいことですわ」 再びエイルマーは研究に戻った。彼女は彼が遠くの溶炉室でアミナダブに指図する声を聞くことができた。これにこたえてアミナダブの耳障りで、粗野で、醜い音声が聞こえたが、人間の会話というよりは、野獣の唸り声か吼え声のようであった。何時間かいなくなった後、エイルマーは再び現れて、自分の小部屋を今すぐ見にくるよう提案した。それは化学的生成物や地球上自然の宝石の部屋であった。化学的生成物の間に、彼は小さな薬瓶を彼女に示したが、その中には、彼の言によれば、優美なしかも最も強力な香気が満たされており、王国を吹き渡る軟風全体に孕ませることができるということだった。無上の価値があるのは、その小さな薬瓶の中味であった。そして、彼の言うとおり、香水の数滴を空気中に降りかけると、部屋は感動的で爽やかな光輝に満たされた。 「それで、これは何ですの?」ジョージアナは、黄金色の液体の入った小さな水晶球を指さして尋ねた。「見た目に美しいので、生命の秘薬のように想えますわ」 退屈をまぎらすために、夫が総合と分析との過程に没頭する必要を認めた間、ジョージアナは彼の科学的蔵書の巻本を繙いた。数々の暗い色の古い大冊のなかに、彼女は浪漫と詩情に満ちた章節にめぐりあった。それらは中世の哲学者の作品で、例えばアルベルト・マグヌス、コルネリウス・アグリッパ、パラケルスス、そして預言的な「青銅の頭」を創作したあの有名な修道士。これら古い自然主義者たちはみな、自分たちの時代に先んじており、しかも幾分か盲信に染められ、それ故にまた信奉され、そしておそらくは、「自然」の調査研究を通して「自然」以上の力を、つまり、物理学を通して精神世界の支配権を、獲得したと確信していた。ほとんど珍奇で空想的であったのは、「王立協会」の初期の「会報」の巻本で、この中で、会員たちは、自然の可能性の限界をほとんど知らず、驚異を持続的に記録し、驚異をもたらす諸々の方法を提案していた。 しかし、ジョージアナが最も熱中したのは、夫自身の手に成る大きな二つ折り判の巻本で、この中に、科学者としての経歴の間に行ってきたあらゆる実験、その本来の目的、展開のために採用した方法、その最終的成功ないし失敗が、それぞれの結末の起因となる状況とともに、記録されていた。この本は、真実、彼の人生の歴史にして勲章にほかならず、それは熱心で、野心的で、想像的で、しかも実践的で労苦に満ちたものであった。彼は物理的細部を、それ以上のものは何もないかのように取り扱っていた。いや、それらすべてを精神化し、唯物主義から解き放たれていたのは、無限なるものへの強い熱烈な願望によってであった。彼の把握では、地上の土くれでさえもが、魂を装っていた。ジョージアナは、読み終えて、今までよりも深くエイルマーを尊敬し愛したが、今までほどには、彼の判断に全き信頼は置かなかった。なるほど 、彼は多くを成し遂げたけれども、彼女が注目せざるをえなかったのは、彼の最も見事な成功でさえ、彼が目的とした理想と比べるならば、ほとんど例外なく失敗であった。彼の輝かしい金剛石も、ひどくつまらぬ小石にすぎず、彼自身も、無上の価値ある宝石と比較して、そう感じていたが、その宝石は彼の手の届く範囲外に隠れているのであった。この巻本の内容は業績に満ち、この業績が著者に名声を得させたのであるが、にもかかわらず、今までに死すべき人間の手が書いた中で、最も憂うつな記録であった。それは悲しい告白と例示の連続であり、その内容は、精神が肉体の重荷を負って物質の中で働くという、混成的人間の欠点に関してであり、また、地上的部分によって惨めに妨害されていることに気づいて、高次の自然を呵責するという、絶望に関してである。おそらくいかなる領域の天才も、エイルマーの日記の中に、自分自 身の経験と同じ形象を認めることであろう。 これらの考察が、あまりに深くジョージアナに影響したので、彼女は開いた巻本の上に顔を伏せてわっと泣きだした。そうしているところを、夫に見つかった。 最初に彼女の眼を打ったのは、溶炉であった。高温で熱を発するその器具は、炎でぎらぎらと輝き、表面に群がるおびただしい煤が、代々にわたって燃えつづけてきたことを示していた。蒸留器具が全稼動していた。部屋の周りには、蒸留器、管状器、気筒、坩堝その他、化学研究用の器具が並んでいた。電気機械が、すぐにでも使えるように立っていた。空気は重苦しく閉ざされ、実験過程にさいなまれてきた臭気が染みこんでいた。部屋のいかめしくて飾り気のない質素が、その剥きだしの壁や煉瓦造りの床とともに、ひどく奇妙に見えたのは、ジョージアナが私室の空想的な優雅さに慣れていたせいであった。しかし主として、実際はほとんどまったく、彼女の注意を引いたのは、エイルマーその人の様子であった。 彼は死人のように青ざめ、熱中し没頭して、溶炉の上にのしかかっていた。まるで、彼の慎重さひとつで、今蒸留している水薬が、不死の幸福の一服となるか、悲惨のそれとなるかが決まりでもするかのように。何と異なっていたことか! あの血色のよい快活な度は、ジョージアナを激励するために装っていたのだ。 「負けましたわ」彼女は穏やかに返答した。「それでは、エイルマー、何でも貴方がくれる薬剤を呑みこむことにしましょう。でもそれは、貴方の手で渡されるなら、一服の毒薬でも呑む気にさせるのと同じことですわ」 彼は彼女に付き添って送り返すと、真剣な優しさで別れを告げたが、その優しさが、言葉よりも雄弁に、どれほどのことが賭けられているかを物語っていた。彼が立ち去ってから、ジョージアナは物思いにふけった。彼女はエイルマーの性格をよく考えてみた。そして、それまでとは打って変わって、公平な判断を下した。心から喜んだのは、身震いしながらではあるが、彼の高貴な愛 純粋で高尚なあまりに、完全なもの以外は何ものをも受け入れず、自分が夢想してきたものよりも地上的な自然に対しては、惨めに満足することも拒否する愛であった。彼女は、このような感情がいかに貴重であるかを感じた。これよりも卑しい種類の感情なら、きっと、彼女に免じて不完全さに我慢し、そしてまた、神聖な愛に対する反逆の罪を犯して、その完全な理想を現実の水準に堕落させていたことであろう。彼女が全霊をこめて祈ったのは、一瞬でも、彼の至高・深遠な計画を満足させられますようにということであった。一瞬たりともそれができないことを、彼女はよく知っていた。というのは、彼の精神は常に進行途上にあり、常に上昇し、刻々に何かを手に入れようとするのだが、それは刻々に視野の外に逃げてしまうのであった。 夫の足音が彼女を我に返した。彼は水晶の大杯をささげていたが、それに入っている液体は、水のように無色で、しかし不死の一服たるに充分な輝きを帯びていた。エイルマーは青ざめていた。しかし恐れや疑問からとうよりは、心の高揚と精神の緊張のせいのようであった。 「服用剤の調合が完成しました」彼は言った、ジョージアナの一瞥にこたえて。「私の科学知識のすべてが欺くのでないかぎりは、失敗はあり得ません」 「すてきだわ」彼女は落ち着いた微笑を浮かべて言った。「天国の泉から汲んだ水のようだわ。何かはわからないけれど、控え目な香りと美味しさがあって。熱っぽい渇きを癒してくれます。何日も私をからからにしてきたのに。それでは、最愛の人、眠らせてください。私の地上的な感覚が精神を閉ざしかけています。草の葉が、夕方、薔薇の心臓を囲むように」 彼女は最後の単語を優しく嫌々をするように話した。まるで、かすかなためらいがちな音節を発音するのに、彼女が命じることができる以上の動力を必要とするかのように。それらが彼女の唇を通してたゆたっている間に、彼女は昏睡に落ちた。エイルマーは傍に座って、彼女の様子を見守っていた。その雰囲気は、自分の存在の全価値が、今まさに試されているといった人にふさわしいものであった。この気持ちに混じっていたのは、しかしながら、科学者に特有の哲学的探究心であった。いかに些細な兆候も見逃されなかった。頬の高まる紅潮、呼吸のちょっとした乱れ、まぶたの痙攣、身体組織を走るほとんど知覚できないほどの身震い、――こういった詳細を、刻々の推移とともに、彼は二つ折り版の巻本の中に書きこんだ。情熱的な思索が、その巻本の前頁のすべてにその足跡を留めていたが、ここ数年の思想は、最後の頁にすべて 集中していた。 このように作業しながら、彼は運命の手を何度も見つめ、戦慄しないではいられなかった。いや一度などは、奇妙で説明しにくい衝動に駆られ、彼はそれに唇を押しつけさえしたのである。彼の精神は、しかしながら、ほかならぬ自分の行為に縮み上がった。すると、ジョージアナは、深い眠りの最中から覚めかけ、窮屈げに身を動かせて、あたかも諌言するように何ごとかつぶやいた。再びエイルマーは観察を再開した。無駄ではなかった。深紅の手は、初めジョージアナの頬の大理石のような青白さの上に強く見えていたが、今やだんだん輪郭がかすかになっていった。彼女は今までと同様に青ざめたままであった。しかしあざは、一息一息を吸うたび吐くたびに、以前の鮮明さを幾分かを失っていった。かつてその存在はものすごかった。その消滅 はさらにものすごかった。大空から色褪せてゆく虹の染みを見よ。そうすれば、いかにしてあの神秘的な象徴が消え去たかがわかろう。 「天にかけて! ほとんどなくなった!」エイルマーは自分自身に言った。ほとんど抑えきれない歓喜にひたって。「もうほとんど跡をたどることもできない。成功だ! 成功だ! もう微々たる薔薇色程度だ。頬にさす最も軽い紅潮ほどにも現れてこない。だが、彼女は青白すぎる!」 彼は窓掛けを引き寄せ、自然の日光を部屋の中に、そして彼女の頬の上に射しこませた。同時に彼が聞いたのは、下品な、しわがれたくすくす笑いで、それは下僕のアミナダブの喜びの表現として、以前から彼の知っているものであった。 感嘆の声がジョージアナの眠りを破った。彼女はゆっくりと眼を押し開くと、鏡に見入った。そのために夫が用意しておいたのであった。かすかな微笑が彼女の唇をかすめた。あの深紅の手が、今やほとんど知覚し得ないぐらいであるのを認めた。かつては、あれほど不吉な光輝を伴って輝き出て、自分たちのあらゆる幸福を脅して追い払うほどであったのに。しかしそれから彼女の眼はエイルマーの顔を探した。いかにしても彼が説明し得ない苦悩と不安で。 「かわいそうなエイルマー!」彼女はつぶやいた。 ああ! 真実彼女の言うとおりだった!運命的な手は、生命の神秘と掴み合ってきた が、それは、天使のような精神を、死すべき人間の肉体と結びつけておいた絆であったのだ。あざの最後の深紅の染みが 人間の不完全さの唯一の表象が 彼女の頬から色褪せた時、今や完全となった女性の臨終の気息は空気に変じ、彼女の魂は、一瞬夫の傍でためらってから、天国の方へと飛び去った。その時、しわがれたくつくつ笑いが再び聞こえた! こうして、地上の残酷な運命は、不死的本質に対して、いつも変わらざる勝利に勝ち誇るのである。発展半ばのこの薄暗い領域において、より高い状態の完全さをいかに要求しようとも。いや、エイルマーがもっと深遠な知恵に到達していたなら、彼は幸福をあのように振り捨ててしまう必要はなかった。幸福は、彼の死すべき生を、天上のそれとまったく同一の生地によって織り成しているの である。束の間の事柄に彼はとらわれすぎた。彼は、この世の影暗い眺めの彼方にあるものを見損い、そして、断固として永遠界に生きたがために、現在の中に完全な未来を見つけ出し損ねたのである。 |