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名作選


聶政(じょうせい)






史記 巻八十六 第二十六、戦国策 韓策 烈侯



 聶政は、魏のシ〔車篇に只〕邑深井里の人である。若いとき、あやまって人を殺してしまった。報復を避けるため、母と姉とを伴なって齊に逃れ、そこで屠殺業をもって、身過ぎ世過ぎとしていた。

 一方、衛の濮陽の嚴仲子は、韓の烈侯に重んじられていたが、直言を恐れぬ性格か ら、宰相の侠累と決定的に対立してしまった。誅殺を恐れた嚴仲子は、亡命して諸国 遊行のやむなきに至った。侠累に対する憤慨の念は、やがて怨念となって心中にふく らんでいった。

 齊にやってきたとき、ふとした噂を耳にする、「聶政は勇敢な男である。仇を避け て犬殺しの仲間に身を隠してはいるが」というのである。嚴仲子は、わざわざ聶政の 住まいを訪ねて面会を請うたが、会えないまま何度かむなしく引き返した。

 やがて酒を酌み交わす機会を得たが、聶政は眼に警戒の色を漂わせながら尋ねた、「いったい、わたしに何をさせたいのか」と。嚴仲子は言った、「交わりを結んで日 もまだ浅い。たとえ今、自分がいかなる事態にあろうとも、貴公にお願いできる筋合 いはあるまい」と。

 交わりが進み、嚴仲子みずから聶政の母親に酒杯を進めるまでになった。このとき、嚴仲子は、黄金百鎰を捧げて進み出て、聶政の母親の長寿を祈念した。聶政は驚いて、嚴仲子にきっぱりと断った。嚴仲子はなおも受け取らせようとする。聶政は言った、「なるほど、自分は老母をかかえながら、家は貧しく、他国に流浪して犬殺しに身を落としている。とはいえ、朝晩口に合う馳走を得て、親を養うことはできているのである。親に孝養ができている以上、あなたの贈り物を受け取るいわれはない」と。

 嚴仲子は人払いをしたうえで、改めて聶政に向かって言った、「たしかに自分は仇を持つ身である。そのために諸国を巡りめぐってきた。しかし、それとこれとは関係のないことである。齊に至り、貴公が義侠の人なることをもれうかがった。ことさらに百金を進呈するのは、御母堂の粗飯の足しにしていただき、貴公の心に歓んでもらえる交わりを得たいがためである。もちろん、求めて得られるものでないことは承知しているが」と。

 聶政が言う、「わたしが志を捨て、身を辱め、市井にあって屠殺を生業としている 所以は、ひとえに老母を養うことを願うからである。それゆえ、老母、存命のかぎりは、この政の身を他人に委ねるような事態を招くわけにはいかないのだ」と。

 嚴仲子は言う、「貴公との交わりを得たいだけのことである。それ以上のものでは ない」と、贈り物を受け取ることをしきりに求めたが、聶政は、「義のはたせぬつき あいなどあり得ない」と言って、頑として受け取らない。 嚴仲子も、仇を持つ身には義の交わりもかなわぬことを悟り、しかし賓主の礼を守り通して、聶政のもとを立ち去った。

 その後、長らくして聶政の母親が世を去った。葬送の儀も終わり、服喪の期限もあ けた。聶政は心に言う、「ああ、おのれは一介の市井人、包丁を打ち鳴らして犬殺し を業としている身。しかるに嚴仲子は国の卿相たるの身分である。それが千里の道の りを遠しとせず、わざわざ下賎の身の者のところに立ち寄ってまでして、交わりを結 ぼうとなさった。しかるにわたしの応対たるや、つれないものであった。いまだ人か らたたえられるほどの大功をたてたわけでもないのに、嚴仲子は百金を奉じて母の長 寿を祈念してくれた。すべては深くこのわたしを知ればこそのことに違いない。そも そも賢者が、まなじりも裂けんばかりの憤りを感じながら、裏町住まいの人間に信義 をつくそうとしているというのに、わたしはこのまま黙って見過ごしにできようか。 まして先年、この身を求められたときに、わたしは老母を口実に断ったが、その老母 は天寿を全うしてもはや世に亡い。今はもう己ひとりの身、自分は己を知る者のため に用を為そう」と。

 かくて思いを定めて西に向かい、濮陽におもむいて嚴仲子に面会して言う、「過日 、仲子に身を許さなかった所以は、ひとえに親が存命であったからである。しかし母 は天寿を全うし、今はもう思い残すことはない。されば、仲子が仇を報いたいと望む 相手は誰であるか。その大事、どうか自分にやらせていただきたい」と。

 嚴仲子はつぶさに告げて言う、「わたしの仇は、韓の宰相侠累である。侠累はまた 韓の君王の叔父にもあたる。一族の数は多く、権勢は盛んに、居所の警護はすこぶる 堅固である。何度か人を送って屠ろうとしたが、結局、為しえた者は誰もいない。今 、貴公は、幸いにもわが願いを見捨てないでくれた。どうか、あなたの手助けとなる ものなら、何でも付けさせていただきたい」と。

 聶政が言う、「韓都とここ衛都と相去ること、それほど遠くない。今や一国の宰相 を殺そうとするのである。しかも相手は国君の縁者である。こういったことを考えれ ば、人を多くすべきではない。人を多くすれば、必ずや利害得失を生じる。利害得失を生ずれば、必ず謀は漏れる。謀が漏れれば、韓は国を挙げて嚴仲子に報復しようとするであろう。何と危ういことではないか」と。こう言って、聶政は、一切の手助けを辞退した。

 かくして聶政は暇を告げて独り旅だち、剣を杖に韓に至る。韓ではたまたま東孟の会があって、韓王も宰相もみな参列していた。そのため、武器を携えて護衛する者、はなはだ多い。聶政はまっすぐに会場に入ってゆき、正面の階段をずかずかと登って侠累に迫った。驚いた侠累が身をのけぞらして、そばにいた韓王に抱きついたので、侠累を貫いた剣は韓王の身にまで達していた。この時になって初めて、左右が大混乱におちいった。聶政は大声を発しながら、手当たりしだいに数十人を撃殺した。その上で自分の顔の皮をそぎ落とし、自分の両眼をえぐり、腹を割いて腸をつかみ出して、ついに息絶えた。

 韓は聶政の屍骸を市場にさらし、賞金を懸けて身元を尋ねたが、誰であるか知る者がいない。そこで韓はさらに大金を懸け、宰相侠累を殺した者の名を言うことができたら、千金を与えようと触れたが、いつまでたっても名を知る者は現れなかった。

 聶政の姉の栄は、何者かが韓の宰相を刺殺したが、その下手人の姓名がわからない ため、韓の国では屍体をさらしものにして千金を懸けているという噂を聞き、嗚咽し て言った、「それはわが弟に違いあるまい」と。すぐさま旅だって、韓都の市場をた ずねるに、はたして死者は聶政にほかならない。栄は屍骸にとりすがって声をあげて 泣きながら、「これはシの深井里の聶政という者です」と大声で呼ばわった。

 市場に行き交う人々が寄り集まってきて、みな口々に忠告した、「この人は、我が 国の宰相を惨殺し、王はその姓名を知るために千金を懸けている。そのことをあなた は知らないのか。なぜわざわざやってきて、知った者だと言うのか」と。

 栄は応えて言った、「そのことなら知っております。しかしながら、わが弟が世の 汚辱を被りながらも、商人風情の間に身を落としていたのは、老母が幸いに無病息災 にながらえ、わたしがまだ嫁いでいなかったからです。しかし親はすでに天寿を全う して世を去り、わたしもすでに他家へ嫁ぎました。しかし、今なおわたしが存命であ るので、このように我が身を傷つけて、罪がわたしに及ぶのを避けようとしたのでし ょう。でも、それは彼の義ではあっても、わたしの義ではございません。このわたし が罰を恐れるあまりに、どうして賢弟の名を世に埋もれさせることができましょうか」と。

 かく慟哭して、大声で三たび天に呼びかけると、聶政のかたわらで自害してはてた。

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