「ことば」のむなしさに抗して
一去兮不復還 いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を 唾し はぎしりゆききする おれはひとりの修羅なのだ それまでは全く見ず知らずの我々だった。その我々が初めて出会ってから、既に3年の歳月が流れ去ろうとしている。そして今、我々はひとつの別離の時を迎えた。 ふりかえってみて悔いはない。君たちとのかかわりあいにおいて、ぼくはぼくに出来る仕方で、ぼくに出来るかぎりの力を尽くしてきたつもりだ。もしも、そこに何か足らないところがあったとすれば、それはぼくの未熟さのゆえであって、ぼくの努力不足のゆえにではない。そう言い切ることがぼくにはできる。それゆえ、我々の別離に心残りはない。 もちろん、我々の間に何の波風もたたなかったわけではない。むしろ我々は、より激しく、傷つけあい傷つきあってきたような気がする。感情的なしこりもないわけではあるまい。だが、今はもう総てが終わった。別離とは、ひとつの何かが確実に終わることであり、また、終わらせることだとぼくは思う。だからぼくは、君たちに対して虚心にサヨナラを告げたい。 サヨナラは別れの言葉――また会う日のあることを約束すべきではない。守れるかどうかわからぬような約束をするのは不誠実である。みずからの不誠実さに安易する精神など、けがらわしくさえある。いったい、ひとたび別れた者が、ふたたび会って何をしようというのか。彼らの共通の話題といえば、二度と還らぬ日々を眺めやること。なつかしむこと。美化すること。そして、それらすべてが二度と還らぬという狂おしさにのたうちまわること。その傷口をなめあうこと。 思い出などというものは、不能になった初老の男が、自分の萎えた男根をまさぐりながら、「わしもかつては……」と思って自分を慰めるための道具にすぎん。ぼくのイメージするものはそういったものだ。 終わったものは確実に終わらせることによって、次なるものを確実に始めることができる。だから、我々はふりかえってはならない。今を懸命に生きる者には、過ぎ去った時に向かう眼はないし、また、あってはならないのだ。我々はただひたすらに進むのみである。どこへ? とにかく前へ。そして、おそらくは虚無の中へ……。 ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ |