今、隣の国で……
「ことば」のむなしさに抗して ☆いよいよ2学期も終わった。それは同時に、君たちにとっては高校生活の終わりにも等しいことを意味している。3学期の始業式は1月8日(火)、学年末考査は共通一次試験の影響もあって1月17日(木)〜22日(火)まで。つまり、3学期の授業日数は考査期間を除けばわずかに7日間である。授業の1回もない科目もいくつかあるはずである。しかし、ぼくはおそれる、こういう「時」の重さを、はたして君たちがどれほど実感できているのだろうか、と。 昨日の1日は今日の一日ではない。たとえ長さは同じ1日でも、昨日はすでに今日ではない。そしてまた、昨日という日がなければ今日という日もない。昨日があって初めて今日が成り立っている。まして1年前の今日と「今」とではどれほどの違いがあることか! 時間は流れゆくものではない。気の遠くなるような過去から、しんしんと降りつもるものであるとは、世に知られることなく逝った作家・夢野久作のことばであったか。己の過去の集積としての「今」というものに、われわれは常に厳粛な気持ちで対面しつつ生きるべきではないか。 君たちの通知簿を作り終えた今、君たちにとってのこの1年をふりかえり、ぼくは苦しみながらこの学級通信を書いている。苦しみながら? そう、むなしいと思えることが、どうして苦痛でないことがあろうか。そして、数万字におよぶ「ことば」の残骸が、どうしてむなしくないことがあろうか。この1年、ついに何ものをも変えることができなかったのではないかという無念の想いが、ぼくをとらえて放さない。 ☆もうずいぶん以前のことだが、何を思ったか、養父がぼくに向かって次のように言ったことがある。 「アキオや(アキオというのはぼくの名前で〜す)、ひとと議論していて、相手が黙りこんだら、気をつけなければならんぞえ。相手が黙りこんだのは、議論に負けたからではなく、もしかすると相手は、こんなバカにいくら言ってもわからん、言うだけ無駄じゃ、と思って黙りこんだのかもしれねえだから」 ぼくの養父は、養母の言葉を借りれば、「口から先に生まれた」と言われるくらい弁の立つ人であったから、若かりし頃、誰かれとなく議論を吹っかけ、相手を黙りこませ、それで相手を言い負かしたと得意になっていたことがあったのだろう。ところが、実はそうではなかったことに後から気づかされ、おそらく、顔から火の出るような恥ずかしさを味わったことがあるのであろう。おのれの苦い経験に裏打ちされた、それだけに重いことばとして、ぼくは養父のことばを心に焼きつけて今に至っている。 そのせいではあるまいが、ぼくは議論が嫌いである。幸か不幸か、相手を言い負かせられるほどによく回転する舌を持ちあわせていないからである(そんなぼくにうまく言いくるめられたように思って口惜しがっている者がいるとしたら、その者はおのれのトツ弁をではなく、おのれの浅慮をこそ恥ずべきであろう)し、また、しょせん「ことば」はむなしいと思うからでもある。石ころなら、それを手に取って相手にぶつければ、あるいは人を殺傷することもできる。だが、「ことば」は頭の中を吹き抜ける風、白い紙の上の汚点にすぎない。 しかしながら、むなしいとはどういうことであろうか。そもそも、そのむなしさが問題になるということは、それが人間の営みにほかならないからである。路傍の石ころのむなしさなどは初めから問題にならない。石ころに向かって、お前はむなしいと言えば、それは石ころにとって迷惑な話であろう。だが「ことば」は、石ころと違って、人間が口から吐き出し紡ぎ出すものである。もともと人間的な、最も人間的な営為である。石ころだって、それが人間の手に取られれば、敵を倒す武器として銃器よりもむなしくないかどうかが問題になるのである。そして、そのむなしさが問題になるということは、本来的にそれがむなしくあってはならないということが要請されているからなのだ。むなしいと知りつつ、誰がそれを求めるであろうか。まして、「ことば」は人と人とをつなぐことがその働きである。だからこそ、「ことば」は常にそのまことが、その信義が問われるのである。そしてそれが問われるのは、まさしく、ことばは「まこと」でなくてはならないからだ。 この1年、ぼくはこのことしか言ってこなかったように思う。君たちは実に多くの約束を、弁解を、言い訳を、利口ぶった話をしてくれた。ぼくはそれを信じた。しかるに、それらが単なるそらごと・たわごとでしかなかったことを、ほかならぬ君たちの行為が実証してしまった時、それは、実は、「ことば」のむなしさではなく、「ことば」に対する誠実さを裏切ったおのれの「人間」のむなしさを証明しているのだということを。信義のつくせぬような人間が、どうしてむなしくないことがあろうか。 ☆人と人との間において信義をつくせ。それが人間の生きる道である。最低のモラルである。この道にはずれぬよう、常に自己検証せよ。――「ことば」のむなしさに抗して、これだけは繰り返して言っておきたい。これは君たちのためではない。ぼく自身のため、ぼく自身が、君たちに言うべきことを言っておかなかったという悔いを残さないためである。 そして、おそらく、「野次馬通信」もこれが最後になるだろう。もはや言うべきことはない。必要なことは自分で考えよ。 |