日常からの脱出
今日また現実が空無と化した ◇毎日が事もなげに過ぎてゆく。昨日のように今日が、 まるで当たりまえのように過ぎてゆく。あるいは談笑し、あるいは勉学し――そういう君(たち)の姿に隠れるようにしながら、主人(あるじ)不在の机がひとつ。教室の隅でひっそりとほこりをかぶっていても、あまり気にとめられることもない。ひっそりとうずくまった机の主人が、今、どれほどの高熱にあえいでいようとも、あるいは、どれほどの熱き想いで君(たち)との生活の場に復帰することを願っていようとも、そのことが深く思いやられることもない。 ◇自分という存在がついには何ものでもないということ、自分は無に等しいということ――自分が死ねば他者(ひと)は驚きもしよう、同情もしよう、涙を流しもしよう。だが、それもほんの刹那のことにすぎない――自分は他者にとって何の存在理由も有さないという、この認識のさみしさ・恐ろしさに、はたして誰がよく耐え得るか? そのさみしさに君(たち)は本当に耐え得るか? もしも耐え得る自信がないとするならば、やはりわれわれはその*さみしさ*を埋め合わせる努力をすべきであろう。 ◇どうやって? しかし、それは大して困難なことではあるまい。「彼」の遭遇した運命に関心を払い、それを見守りつづけることによって。そして、もしも可能なことであるならば、自分の手をさしのべることによって。「彼」が置かれた立場に自分を置いてみれば、「彼」が今何を求めているか、わかろうというものではないか。そうやってわれわれは、底しれぬ*さみしさ*をかろうじて持ちこたえることができるのではないか。 ◇しかしながら、臆病な犬は己の影におびえるという。人間の存在をさみしいと思うのは、じつは、自分が他者にとって何ものでもないからではなく、本当は他者が自分にとって何ものでもないという、他者の運命に対する自己の無関心さに自分でおびえているからではないのか。 もしもそうだとするならば、われわれが「彼」に対して無関心であり、手をさしのべようともしないということは、われわれ自身の怯懦にほかならないであろう。己の影におびえているかぎり、やはりわれわれは底しれぬさみしさから逃れることはできないであろう。 ◇「今日また再び現実が空無と化した」と、若き詩人は日記に書き記している。女にメンスがあるなら、男にだってオンスというものがあっても不思議ではなかろう。オンスとは何か? べつに出血するわけじゃない。男が出血したら、それは痔疾と思って間違いなかろう。オンスとは男のblue-day――虚無の淵に沈んでしまった精神の憂鬱だ。「過ぎ去った日々は狂おしく、明日という日は億劫だ。そして、今という時は憂愁の一次元。ホザナは救いを与えず、絶叫も声にならない。苦悩は美を高めず、罪もまた影を落とさない」……といったところ。 ◇そういう精神情態の中で、ぼくの情緒はきわめて不安定だ。情緒が不安定になると、感情もトゲトゲしくなってくる。寛容さがなくなり。我慢強さがなくなる。破壊的衝動に駆りたてられる。そこをぐっとこらえながら、再度君(たち)に言いたいことがある。 ◇同じことを何度もくり返すようだが――そのことがまたシャクのタネになる――ぼくが君(たち)に教えたいことは多くはない。さまざまな表現をとることはあっても、その根はひとつ、「自分で考えてわからぬやつは、他人から言われてもわからない」ということだけである。他人から注意されて初めて気づくようなやつは、ぼくに言わせれば、馬鹿以外の何ものでもない。 自己の責任において為される行動はすべて、自己のあらゆる思考をめぐらせた結果であり、また、行動はすべてそういうものでなくてはならない。そこにおいてわれわれは、みずから「よし」とすることを選択するのであり、それ故にわれわれは自己の行動に責任がもてるのであり、それ故にこそ、いかなる不利な事態を招来しようとも、悔いることなくその事態を真正面から受けとめることができるのである。 しかるに、こんなはずではなかったと後悔するやつとか、他人から注意されなければ自分の非に気づかないやつとかは、自分のあさはかさを自分で触れまわっているようなものだ。そういう愚劣を恥じるだけの自尊心がないとすれば、いったい君(たち)は何のために人間であるのか? |