石原莞爾フォーラム
No.131
Date:2000.1.7 2:06 PM
SubjectRE:誰か教えて!パート2
ハンドルネーム:砂原慶之助
Name:(匿名)
E-mail:(匿名)
発言: 砂原慶之助です。前回の私の意見を大筋において了解して頂き有難うございました。
 前回私の特に強調したかったのは、満州事変、日中戦争、太平洋戦争の三つの戦争を同列に取り扱わないで欲しいという一点でした。も一つ端的にいうならば、満州事変にはしっかりした戦争目的があったが、日中戦争と太平洋戦争には確固とした戦争目的がなかった。言うならば、後の二つは成り行き戦争であった、ということを主張したかったのです。
 戦後50年以上も経っているのに、日中間,日韓間に歴史認識についてしっくりしないもやもやとした雲が未だに低迷しています。ヨーロッパでは11ケ国が共通の通貨ユーロを発行し始めたというのに、アジアの現状は本当に淋しい限りです。一日も早く、正確な資料に基づいて歴史を検証し、共通の歴史認識を持つようになって欲しいと願わずにはおれません。

 さて、ご質問に答えさせていただきましょう。ご質問が多岐にわたっておりますので、先ず私なりに整理させていただきました。
 <満州事変、その目的を一番達成できたのは誰でしょうか>
 難しいこ゛質問です。というのは人により、時により満州事変の目的がまちまちであったことです。然し,あえてこの目的を単純化して考えてみましょう。前回にも申し上げましたが、満州事変発生当時の関東軍の目的は、@ソ連の南下を防止する。A張学良軍閥の圧政から三千万民衆を解放する。B昭和恐慌に苦しむ日本に活路を与えることでした。関東軍の作戦成功に引き続き「民族協和・王道楽土」を目標に、新しいタイプの複合民族国家・満州国が建国されました。正に日本人のロマンが一瞬輝き、@ABの戦争目的は達成されたのです。「誰か」と問われれば石原莞爾を中心とする関東軍首脳、山口重次、小沢開作らをリーダーとする満州青年連盟、王永江の流れを汲む満州文治派の中国人グループということができます。
 満州国が出来てから5ケ月後、昭和7年8月、陸軍の定期異動が発令され、本庄軍司令官以下ほとんどすべての幕僚が関東軍を去りました。この時以降@ABの目的が変更されました。その目的は満州国を日本の傀儡国家にし、日本人が他の民族の上位に君臨する体制を整えることでした。この目的達成のために、日本内地から王道ならざる覇道的色彩の強い軍人、官僚、実業家、一旗組が続々と満州にやってきました。この代表を「二機三介(ニキサンスケ)」と言います。二機とは、東条英機、星野直樹、三介とは、鮎川義介、松岡洋右、岸信介のことです。この二機三介こそ新たな「誰か」なのです。そしてその背後には帝国主義的性向の強い日本内地の権力構造が存在していました。
 「民族協和・王道」という理想はうち捨てられました。満州国は、日本人だけが幸せな生活の出来る国に変貌してゆきました。日本人以外の他の四つの民族(朝鮮族、漢族、蒙古族、満州族)は政治的発言権は勿論なにも与えられず、奴隷とまではいかないが、日本人のサーバントに甘んじさせられました。
 私は戦争末期、学徒出身将校として満州の錦県航空隊に赴任しました。その時一番奇異に感じられたことは、在満日本人のすべてが、中国人=漢族のことを「満人」と平気で呼んでいたことでした。純粋の満州族は奥地に生活しており、日本人の周りにいたのは殆ど中国人だったのです。満州国が本当に五族が平等な立場に立つ国であるならば、日本人も自らを「満人」と呼ぶべきでありましょう。私は在満日本人のすべてが他民族に対するオゴリ・民族的優越感を持っていることを感じました。日本人が誇りとする満鉄特急アジア号、その一等車の切符を先輩から貰い乗ってみたことがあります。その一等車に乗っていたのはすべて日本人でした。また、苦力(クーリー)と呼ばれた中国人労務者を日本人は平気で「ニーコー」と呼び、顎で使っていました。
 これを思いますと、第二の目的の「誰か」は大部分の日本人であったような気がいたします。

 書いているうちに思わずダラダラと長文になってしまいました。ご質問はこの他、日中戦争について、ロシア革命について、日露戦争の軍費について、石原莞爾追放の根について、佐治芳彦氏について等ありますが、これらについては又日を改めて私で良かったら書かせて頂きます。では今日はこのくらいで失礼します。


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